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昭和の想い出ーその3
『川崎大師とくず餅と』
東京大空襲と二度の命拾い
僕の祖母は、『鬼滅の刃』の舞台ともなっている大正時代、アメリカの独立記念日である7月4日に山形県で生まれました。
そして20代の頃、結婚をして二人の娘を産んでいた祖母は、当時の旦那さん(宮本さん)と幼かった母を山形県に残したまま、まだ赤ちゃんだった母の妹をおぶって、東京大空襲の中、東京に降り立ったそうです。
東京で母と母の妹と三人で東京に移住するために、暮らす家を探しに上京しました。
理由は、旦那の宮本さんの妾が跡取りである男の子を出産したからだそうです。
当時の日本では妾(第二婦人)は、特別なことではなかったそうです。
『自分は跡取りを産むことができなかったので身を引きます』そう言って、住居が決まるまではと母の面倒をお願いして東京に来たそうです。
そして東京大空襲の爆弾が行きかう中で、二度ほど命の危険に晒されたそうです。
一度目は、交番に道を聞きに行った時で、交番の警察官の方が親切丁寧に道順を教えてくれて、『ここは危ないから早くここから離れなさい!』そう言われて、母の妹をおぶったままダッシュで走り交番から離れていった時、その交番に爆弾が直撃。
振り返ってみたときには、その交番は跡形もなくなっていたそうです。
『あの時に優しく接してくれた警察官の方の優しい笑顔は今でも忘れられない』そう祖母から聞かされたことがあります。
二度目は、防空壕が二つあって、そのうちの一つの防空壕を選んで身を潜めていたそうです。
そのうちに爆弾が落ちてきて凄い音がしたそうです。
祖母たちが身を潜めていた防空壕は無事だったのですが、祖母が選ばなかったもう一つの防空壕に爆弾が直撃していて、中で身を潜めていた人たちは全滅だったそうです。
『あの時に私が判断を間違っていたら、あなたもいなかったのよ』なんて言われました。
その後、祖母は東京で生活するための家を見つけて、母を山形県に迎えに行き、祖母と母と妹での三人での生活が始まり戦争も終結しました。
志村けんさんのお陰で有名な、東村山で生活していたそうです。
旦那さんは、祖母に会いに何度も東京に来て『戻ってきて欲しい』と言っていたそうですが、祖母が宮本さんの元に戻ることは二度とありませんでしたが、結婚するまで母の苗字は宮本でした。
祖母の苗字は柳橋だったので、子供の頃に母の結婚前の苗字を聞かされた時は「何で親子なのに苗字が違うんだろう?」と思ったことがあったのですが、“大人の事情”だったのですね。きっと祖母なりの“想い”があったのだと思います。
『東京に来てから、結婚して欲しいっていう人も居たのよ』なんてちょっと自慢気に話をしていた祖母の笑顔は今でも覚えています。
川崎大師とくず餅と
そんな祖母に連れられて、川崎大師へ行った時の話。
なぜか祖母は、川崎大師が好きで良く行っていたんですね。
当時、僕はまだ幼くて3~4歳くらいだったんじゃないですかね。
川崎大師といえば“くず餅”が有名ですよね。
川崎大師へは、くず餅につられて祖母に付いていったんですが時刻は夕暮れ時で、お店もほとんど閉まり始めていました。
たまたま、まだ開いていたお店に行ってみたのですが、くず餅は売切れだと言われて、僕はしょんぼりしていました。
その時に祖母が、『くず餅を食べるのを楽しみに川崎大師に来たこの子の分だけでも、ほんの少しだけでもありませんか?』と聞いてくれました。
お店の人は、『一人分に少し満たない量でも良いのなら』と言って、くず餅を出してくれました。
あの時に食べたくず餅の想い出は、忘れられません。
くず餅を食べられたこともですが、祖母がお店の人に交渉してくれたことが嬉しかったんです。
僕にとって、そんなノスタルジックな想い出のある川崎大師へ、10年前の2013年に久しぶりに訪れました。
子供の頃にとても長く感じていた駅からの道のりは、大人の足で歩くとそれ程でもなく、何とも言えない懐かしさやあの頃の情感が蘇ってきました。
そして2022年4月には、長男と二人で川崎大師へ行ってきました。
道すがら、あの時の『祖母とのくず餅の想い出』なんかを話したりしながら、何とも心地良い時間を過ごすことができました。
あの日、祖母に手を引かれてしょんぼりしていた子供は、くず餅を食べさせてもらって、今では自分の子供と酒を酌み交わせるほどに成長しました。
ばばちゃん、ありがとうございました。
最後までお読みいただきありがとうございました。
あなたにとって、素敵で幸せな日常でありますように願いを篭めて
その3へつづきます
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