昨日2月7日は、僕の兄の誕生日であり、亡き父を産んだ祖母の命日でした。
そして今日は祖母(母の母)の命日なのです
第二次世界大戦、東京大空襲の最中、山形県から乳飲み子(母の妹)を背中におんぶして上京
爆弾を搔い潜りながら二度ほど死と隣り合わせた経験を持ちながらも、住居を探し東京(東村山)に移住
女手一つで女の子二人(母と妹)を育て上げた祖母
『しみったれているから嫌いだ』と言って、演歌を聴かない人でした。
僕が結婚をして家を出るという話をした時に、とても喜んでくれて泣きながら『おめでとう』と同時に『話し相手が居なくなってしまう』と漏らしていた表情は今でも覚えています。
2021年2月8日に、フェイスブックにアップしていた記録を読んで懐かしくなったので、掲載しちゃいます。
今日は祖母の八回忌の命日だったので、祖母が最後に息を引きとった若松河田駅にある病院や、脳梗塞後に一番長く居た阿佐ヶ谷駅にある施設を巡ってきました。
街の風景も昔を想い出す景色…
変わってしまった風景
久しぶりに祖母との想い出を振り返りました
僕はお婆ちゃん子だったのです。
最後に、まだ幼い頃に祖母に連れて行ってもらった下高井戸の映画館を巡って、すぐ近くにあるお墓に(祖母と両親が眠っている)墓参りをしてきました
その後下高井戸駅前にある旭寿司(法事の後に母と皆んなで寄って食事をしていた)を覗いてみたら、周年記念でトロ一カン100円だったので、十貫お土産で買ってみたら、めちゃくちゃ旨かった
コロナ下で、ほんとお客さんが来なくて大変だったのでしょう。
通常では考えられない100カン100円の極上のトロ寿司でした
【柳橋とく】
アメリカの独立記念日に山形県で産まれた祖母
大正6年、1917年7月4日に生まれて
平成25年、2013年 2月8日に旅立ちました。
山形県で育ち結婚…子供を2人授かりましたが、2人とも女の子でした。
その後、旦那さんの妾に男の子ができた事により、“自分は跡取りを産むことが出来なかった"と、周りの人達の静止を振り切って離婚を決断。
女の子2人を連れて東京へと出てきました。
第二次世界大戦の最中、子供をおぶって爆弾を掻い潜っていたそうですが、その中で二度の二択に失敗していたら、すでにこの世には居なかったそうです。
旦那さんは、祖母を連れ戻しに何度も東京を訪れたそうですが、祖母が戻ることはなかったそうです。
母と妹は、その都度旦那さん(お父さん)に会っていたそうですが。
祖母は、離婚をして自分の姓を旦那さんの姓から元に戻しましたが、母と妹は旦那さんの家の姓をそのまま受け継がせていました。
だから、祖母と母の結婚前の姓は違っていたんです。
祖母は、『柳橋とく』母は『宮本あい子』でした。
子供の頃は不思議な感じでしたが、僕が今思うのは祖母の"意地"と"愛情"です。
祖母は再婚する事なく生涯を終えました。
昔、僕に『言い寄ってくる男の一人や二人は居たんだよ』なんて言ってましたが、そんな祖母と暮らした日々は、僕にとっての宝物です
『立派な大人に成ってよ』
よく祖母に掛けられていた言葉です。
立派な大人には成れていませんが、祖母への感謝の気持ちだけは忘れずに、今日も生きています。
ばばちゃん、ありがとう
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