どうも!
占い館ルネッサンス(兵庫県姫路市)の、
「占う人」であり「占い家」でもある、
占い屋+占い家=右京(うきょう)をUranaiyer UKYOUにして、
⇒ウラナイYer UKYOUを簡略化してウラナイYer 右京です!
細かい話なんですが、気になることがあって記事にしました。
それは、「細切」の読み方なのです。
65年生きてきた、ポンコツで@爺さん見習中なのに、
今さらですが気になっているのですよ
【細切れ】だと[こまぎれ]と読みますよね。
表記も【細切れ】以外に【小間切れ】を使うことも多いですね。
【小間切れ】を使う場合、
豚肉や牛肉の「細切れ肉」だと、
厚みも形状も均一ではないものの、
価格的に割安感があるものが多い。
で、す、が、
【細切り】だと[こまぎり]とは読まずに、[ほそぎり]と読み、
細長い形状に切ったものを表しますよね。
こちらは手間がかかるたま、価格に反映させやすいですね。
このように、
地域性とか業種とかによって、言葉の意味や表現方法が違うので、
とかく、日本語はヤヤコシイし、面倒に思うことも多いですね。
さらに、
ウラナイYerである、ワタクシ右京は、
還暦を過ぎてから円くなりだしましたが、
型に嵌められることも嵌めることも嫌になっているので、
これからは穏やかで楽しい余生を望んでいます。
⌛時間⌛が余ってるかもしれないので?
【最高に美味しいコールスローサラダの作り方】
学生時代に《☕cafe🍴restaurant》でバイトをしていて、
午前中のシフトでcafe担当の時、
モーニングのメニューで一つで、
コールスローサラダを添えていたことがあります。
コールスロー=キャベツの細切りを限界まで細くしたくて、
肉切り包丁=牛刀(ぎゅうとう)の重みを利用して、
1ミリ未満の細さにまで切りました!それは切るというよりも、
キャベツの表面を滑らせるようにして削りだし、
冷水に晒したものを器に盛るというものでした。
秘訣は、牛刀を研ぐことです。
切るのではなく削りだす、
それで半紙のように透けそうなレベルの
コールスローになるんですね。
年齢的に無理かもしれないけれど、
集中力を高めるためにチャレンジしてみたいです。
高級な牛刀も買わなきゃだけど、
それは趣味の域を超えてるかな。
でも、チャレンジ精神は失いたくないので、
「To continue to be a challenger is to live.」
=「チャレンジャーであり続けることが生きることだ」と、
心に刻んでいこうと。
お読み頂き有難うございました。
どうも!
占い館ルネッサンス(兵庫県姫路市)で、
「占う人」でもあり「占い家」でもある、
占い屋+占い家=右京(うきょう)⇔Uranaiyer UKYOU、
ウラナイYer UKYOU=ウラナイYer 右京と申します。
早速ですが、
下記のペン画をご存知の方は、どの程度の割合なのか?
日本史の教科書に載っていたのですが、今も載ってる?
私が見たのは半世紀近く前のことなので、
現在は載っていないかもな?ってことも考えたのです。
『釣り遊び』と題された下記の絵は、風刺画と呼ばれるもので、
呑気な日本語のタイトルですが、その説明文には、
「朝鮮をめぐる清国、日本、ロシアの紛争を描いた風刺画。
1887 年『鳥巴』初版に掲載したもので、
タイトルの「釣り遊び」とは裏腹に、 日清戦争(1894~1895年)、
日露戦争(1904年~1905年)前のきな臭い状況を風刺した作品。
それと、
この風刺画を描いたのは、ビゴーと呼ばれた、
ジョルジュ・フェルディナン・ビゴー(Georges Ferdinand Bigot)
という名のフランス人の画家です。
厳密には、画家としてよりも、風刺画のほうが稼ぎになっていた、
そう言ったほうが正しいかもしれません。
風刺画は新聞に載ったりして、人気になれば稼ぎも増えますから、
収入面では安定しそうです。
それに、
風刺画は、フランス人社会では、自由を尊重する国民性もあって、
権力に対する批判精神が根付いているのだそうです。
これ、別のブログで相互フォローしている方からの情報です。
で、「フランスの風刺画って、
エスプリとユーモアとウィットが効いてんなぁー」という、
昔の記憶を掘り起こし、50年の時を経て情報を補充しつつ、
もう一度この絵の魅力にハマっています。
フランスの風刺画はエスプリとユーモアとウィットが効いてんなぁー
って、印象を再認識するようになり、それが今も続いているんですよ。
まあ、それだって、ほぼほぼ忘れていたのですが、
思い出す機会を先ほどのフォロアーさんに頂いたのです。
それが半月ほど前のことですから、この楽しみは当分は持つかなぁと。
とはいえ、ポンコツな思考ですから加齢とともに「パフォーマンス」が
「アホ―マンス」に入れ替わる可能性も無くはない。
ですので、記憶を定期点検し、リフレッシュすることで、
思考回路を再度活性化して頭をスッキリさせ、
思考をフレキシブル(flexible)に保ちたいものです。
カタカナ語を増やし過ぎると、
見た目は考えているように映るけれど、偏るのは注意。
ひと昔まえだかふた昔だか以前に、ブイブイ言って
噛ませてた方々は、見事なくらい消えちゃったので、
その二の舞は踏みたくないものです。
ムズカシイ言葉を機械的に覚えるよりも、
楽しくて頭の中を活性化できるように工夫したいですね。
ちなみに4月7日は、ビゴー(Bigot)さんの誕生日でした。
お読み頂き有難うございます。
どうも! 占い館ルネッサンスの
「占う人」でもあり「占い家」でもある、
占い屋+占い家=右京(うきょう)⇔Uranaiyer UKYOU、
ウラナイYer UKYOU=ウラナイYer 右京でございます。
ウラナイYer 右京こと、占い館ルネッサンスの右京が、
取り扱っている占い=占術は、
◆四柱推命(しちゅうすいめい)、
◆干支術=陰陽五行占術(いんようごぎょうせんじゅつ)、
などの【命術(めいじゅつ)】ジャンル。
◆手相
◆人相
などの【相術(そうじゅつ)】ジャンル。
◆易=易経
◆タロット
などを操る【卜術(そうじゅつ)】ジャンル。
これらの命術と相術と卜術とをからめ合わせて、
つまり、複数の占い=占術を連動させながら、
細密=丁寧に占うことによって、答えを導きます。
実際のところ、現実的に
どの占術分野・如何なる占いでも、パーフェクトな
占い結果や答えを得続けることは極めて難しいのですね。
それでも、
今回も当たってたとか、よく当たってる・・・・・・という
評価を頂き続けることも少なからずあるので有卦を得れば、
それが続くこともすくなからず。
言うまでもなく、
冷静に考えれば、「🎯当り」を得続けることは極めて困難で、
確率論的にも統計学的にも歯が立たないでしょう。しかし、
「運命」というものは、「🎯当り」「ハズレ」で決まること
でもなく、人事の問題ですから、糸口を知ることができれば、
対策を講じることも不可では無さそうですね。
この続きをアップしたいところなのですが、機会があれば、
ということで、表題の件に話題を進めます。
表題の「❝人❞という字は、〇〇だと覚えてません?」の件は、
『金八先生』の定番ネタの一つでした。
「人という字は互いに支えあってヒトとなる。」です。でね、
知っている人もいらっしゃるでしょうから簡単に説明すると、
漢字には【解字】というものがあって、「文字の成り立ち」
について記されているのですね。
人という字の【解字】は象形文字で、立っている人を横から
描いた形。『金八先生』の説明だと会意文字っぽい。だから、
これを正解とするには無理がある。
そして、人というのは、思い込みで生きているところがある。
で、生き方を考えたり判断する際に、思考のトラップ=罠に
とらわれ易くて、間違った判断を選びかねないのね。何より、
私も経験者ですし、大半の人々が経験者ですから。ですが、
有卦=幸運を選ぶことが身に付きだすと、変わるんですね、
「運命」というものも。
占い以外の「特別料金」も頂いていないので、よろしければ
ご来店ください。予約を優先しておりますのでご了解のほど
お願いします。
お読み頂き、有難うございます。
占う者としての学びとは異なることなのですが、様々な分野に関心がありまして、
それらの情報をを《つまみ食いする》と言うか《垣間見る》といった意味合いで、
ブログに記録しておくことにしました。
その一つ目が『パーリ経典』=と称される仏教の聖典に収められた言葉です。
なお、 「パーリ」とは聖典という意味であり、
『パーリ経典』は「聖典(パーリ)の言葉」で 書き記した聖典という通称名です。
西インド系の、ウッジャイン地域周辺で使われていた ピシャーチャ語の一種であると
推定されるパーリ語で書かれているようです。
記事の引用元は、《小部経典8:テーラガーター》=テーラガーター聖典(長老偈経)
( http://aranavihaara.web.fc2.com/arana-khuddaka-8.html )からの抜粋です。
《16.1.4 ラッタパーラ長老の詩偈》より
776.(776):〔わたしは〕見る――世において、財を有する人間たちを。
迷いの者たちは、富を得ても施さない。貪りの者たちは、財の蓄積を為し、
まさしく、より一層、諸々の欲望〔の対象〕を望み求める。
777.(777): 王は、〔他を〕打ち負かして、地を征圧して、
海辺に至るまでの大地を占拠しつつも、
海の此岸“こなた”では不満の様子で、
海の彼岸“かなた”でさえも望むであろう。
778.(778): 王も、他の多くの人間たちも、渇愛を離れず、死へと近づき行く。
まさしく、不足の者たちと成って、肉身“からだ”を捨棄する。
世において、諸々の欲望〔の対象〕による満足は、まさに、存在しない。
779.(779): 親族たちは、諸々の髪を振り乱して、彼のことを泣き叫ぶ。
しかして、「ああ、まさに、不死にあらず」と言う。
〔葬送の〕衣“ころも”に包まれた彼を搬出して、
〔火葬用に〕積み上げられた〔薪山〕を設置して、そののち、〔死体を〕焼く。
780.(780): 彼は、諸々の串に刺されながら、一衣で焼かれる。
――諸々の財物を捨棄して〔そののち〕。
しかして、親族たちは、朋友たちは、しかして、あるいは、道友たちも、
死に行く者の救いには成らない。
781.(781): 相続者たちは、彼の財を運び去る。
いっぽう、〔迷いの〕有情は、〔自己の為した〕行為(業)が〔釣り合う〕ところへと行く。
死に行く者に、何であれ、財が従い行くことはない。
子たちも、妻たちも、財と国も、〔何であれ、従い行くことはない〕。
782.(782) 財によって、長寿を得ることはない。
さらには、また、富によって、老を打破することもない。
慧者(けいしや)たちは言う。
「まさに、この生命(寿命)は、僅かである。
常恒ならず、変化の法(性質)である」〔と〕。
783.(783) 富者たちは、貧者たちも、接触すべきもの(死)に接触する。
愚者も、慧者も、まさしく、そのように、〔死に〕接触された者として、〔世に有る〕。
まさに、愚者は、〔自らの〕愚かさゆえに、まさしく、
〔老に〕打倒された者として、〔地に〕臥す。
しかしながら、慧者は、接触すべきもの(死)に接触された者として、〔心が〕動かない。
784.(784) それゆえに、まさに、知慧こそは、財よりも、より勝“まさ”っている。
――それによって、〔人は〕この〔世において〕、完成に到達する〔のだから〕。
まさに、自己が完成されていない迷いの者たちは、諸々の種々なる生存において、
諸々の悪しき行為(悪業)を為す。
785.(785) 〔迷いの者は〕他〔世〕から他〔世〕へと、輪廻を体験して、
しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。
それ(輪廻的あり方)を盲信している、知慧少なき者は、
しかして、〔母〕胎へ、しかして、他世へと、近づき行く。
立場に違いはあるとしても、耳を傾けるだけの意味はあると思います。