またあの日が来るんか。知らん間に10年経ってもうたわ。そんな昔のことやないと思ってたんやけど、ホンマに早いもんや。
正直、あの時のことは思い出したない気持ちもあるし、なによりぼくみたいなんが偉そうなことをいうてええんか疑問もないではない。だって、ぼくよりはるかに悲しい思いをした人は、この街にはザラにいてはるもん。
やけど、ぼくはあの時確かに被災地と呼ばれる場所にいて、あの揺れを体験した。ズタズタになった街で、ぼくは生きていた。そやから、あの地震のことも書かなあかんと思う。
こういう話がウザいって人は、はっきり言って読まん方がええと思う。読んで楽しい話やないし。
けど、もし読んでみたいって人がいてはったら、長くなるけどつきあってくれると嬉しい。
あの時、ぼくは家でうつらうつらしとった。あの日は連休明けの火曜日で、片道1時間半かかるところにある大学で9時から講義があったから、はよ起きなあかんかったんで、意識はあったんや。
そんな時、いきなり小さな横揺れがした。「あれ?」って思てたら、突然ムチャクチャな縦揺れに襲われた。何がなんだか分からんかった。怖いとすら思わんかった。それどころか、「これで死ぬんやわ」て思ってしまった。ホンマに恐怖を感じたんは揺れが収まってからやった。
まぁとにかく揺れは収まったんで、自分の部屋を飛び出した。家の中はムチャクチャやったけど、お袋と妹はとりあえず無事。同じアパートに住んでて付き合いのあった一人暮らしのおばあさんが気になってみんなで様子を見に行ったけど、幸いケガもしてへんかった。
この時親父はジョギングに出てて、家におらへんかった。どうなったんか不安やったけど、しばらくしたら何とか帰ってきた。親父の姿を見てお袋が泣いて飛びついたんはよう覚えてるわ。
同じように外に出とった飼い猫も、地震でカンが狂ったんか迷子になりかけてたけど、何とか見つけて声かけたら戻ってきた。
そうこうするうちに夜が明けた。今やから笑えるけど、この時のぼくは冗談抜きでこのまま永遠に夜が明けへんままやと本気で思とった。せやから、当たり前のことなのに、朝になったのが嬉しかった。
夜が明けた。家の中はメチャメチャやしガスはつかへんけど、電気は何とか戻ったし、水道も給水塔が非常電源で動いとる。ラジオでも特に大きな被害が出たって話はしてへんし、あない揺れた割にはどってことなかったみたいやな。そう思てホッとしとった。
ホンマのことはすぐには分からんもんや。時間がたってはじめて恐ろしい現実が伝わってきた。
「芦屋で200人生き埋め」という第一報にはじまり、「神戸で大規模な火災」「阪神高速の橋桁落下」次々に伝えられる信じられない現実。目を覆いたくなる映像。時間を追うごとに増えていく死者・行方不明者・倒壊家屋の数。
けど、それは現実やった。神戸の黒煙はうちからも見えた。テレビに映された無残な倒壊現場の多くは、ぼくにとって大事な場所やった。なんでこんなことに……悔しかった。
自分らの生活かて無傷やあれへん。水道はその日の昼前に使えんようになった。店に行っても食べるものがない。水と食べ物をなんとかせなあかん。ここから、朝は4時か5時に起きて近所にあった井戸へ水汲みに行き、昼間は通学の道すがら買出しという生活が始まった。
住んでるアパートも地震で微妙に傾いた。1階の人は壁にヒビが入ったって言うてはった。となりのアパートはこちら側に完全に傾いて、人が住める状態やなかった。もし余震でこっちに倒れてきたら……夜、明かりが1つもついてないがらんどうのアパートを見るのは本当に怖かった。
ただ、そのアパートは後で建て起こし工事をやって何とか元通りになった。うちの棟も「倒壊の危険はない」という専門家の判断が出たんで、とりあえず助かった。
そうこうするうちに1ヶ月近くが経ち、ある日ぼくは卒業した高校に行ってみた。学校自体に被害があったのが心配やったんと、救援物資の基地になってるという話を聞いてたんで、何か手伝えるんちゃうかなと思ってのことやった。
高校に行くには、電車を降りて駅から少し先の大きい道を渡る。この道のところで信号待ちになった。ここまでは高校時代と変わらへん。
けど、道の向こうにある家並みは壊滅状態やった。3年間の思い出が詰まった通りは、変わり果てた姿をそのまま晒していた。
信号が青になった。けど、この時ぼくの足は動かんかった。身体が言うことを聞かんかった。怖かったんか、これ以上何も見たくなかったんか、よう分かれへん。とにかく、足が動くのを拒んだ。その後何とか前に進めるようにはなったけど、あの時の感覚は忘れられへん。
ただ、行った先では先生から「ボランティアの組織が入っていて、人手は大丈夫や。心配するな」と言われ、お互いに近況を話しただけで帰ることになった。
ぼくは何しに行ったんやろ。なんもでけんとは……無力感だけが残った。
けど、そう感傷的になってるだけではおられん。自分らの生活は守らなあかんし、近所には祖父母がいてたから、その手伝いもせなあかん。この頃は給水車が来るようになって、水の不便はマシになってたけど、水道がないのは変わらんし、ガスもない。
もっとしんどい思いをしている人がいるのは百も承知やけど、まずは自分らのことをせな。自分らまでが他人の手を煩わしとったら、ホンマに困ってる人まで手が回らん。そう思うことにした。
そうする間に、ガスが戻り、水道が戻り、しばらくして電車も神戸まで走るようになった。
うちの近所の公園や高校のグランドに仮設が立ち並び、避難所も徐々に少なくなっていった。橋桁がポツポツ抜けてた阪神高速も2年と経たないうちに復旧した。その後「復興住宅」という団地群が神戸や阪神間のあちこちに建ち並び、仮設もなくなった。
そして、あしたで10年。地震の被害は、一見なくなったように見える。
けど、それは一見ということでしかない。いまだに家も何もない、更地のまんまの土地が広がってるところは少なくない。地震で壊れて、いまだに再建が始まってないマンションだってある。
家の問題だけやなく、経済的な問題もある。神戸や阪神間は人口こそ増えたけど、経済的には冷え込んだ状態から抜け出せてない。日本全体の問題も絡んでるけど、雇用も回復してないらしい。
それに、あの地震で傷ついた人の心はまだ癒えてない。最近読んだ新聞のアンケートでは、精神的に立ち直れていないと答えた人が約3割いたって話や。
ぼくですらいまだにちょっとした揺れが怖かったり、震災関連の映像が怖くて見られへんかったりする。せやから、もっとひどい被害にあって、悲しい思いをした人が今も苦しんでるのは当然やと思う。
震災は、まだ終わってない。
間違っても、終わったことにしたらあかん。
あの地震があって、ぼくはいろんなものを見てきた。
被災者のことを何とも思わへん役人連中。被災者が役人に直接要望を出すと言うテレビ番組がちょこちょこあったけど、鬱陶しい仕事にかかわりたくないと言う本音がミエミエやった。
あまりの態度にブチギレて席を立つ被災者もいてた。当然じゃボケ!それ以来、ぼくは「役所にモノを期待するのはアホ」というのを教訓にしている。
1日か2日だけ通り一遍等の報道をして、あとはとっとと普通の番組編成に戻ったテレビ局。別に他所の地域で何をしようがかめへん。地震の話なんてうざいだけ、聞きたくもないとしか思われん奴も世の中にはいてるし、そういうカスにも配慮せな商売としてやってられんのやろ。
けど、それを関西の局で流す必然性はどこにある?必死の思いで情報を求めてる人に見せつけなあかん必要はどこにあるねん?
テレビの連中にとっては、人が何千人死のうが十何万人死のうがどうでもよくて、視聴率を取れるかどうかだけが大事なんやろと思った。名前は出さんけど、ある局はあまりに酷かったんで、地震以来かなりの間見ないことにしてた。
「非常時には人の本性が露になる」実際にその通りやと思う。あの地震で、今言うたほかにも醜い人間、情けない人間をイヤというほど見てきた。そんな連中のことはこれ以上書きたくもないし、意図的に思い出せへんようにしている部分もあるから、これ以上は書けへん。
けど忘れたらあかんのが、こういう非常時だからこそ、助け合おうとする心を持った人たちが現れたことやと思う。全国から駆けつけてくれたボランティアの方々にはただただ感謝の一言や。
ぼくは幸い世話にならんで済んだけど、来てくれたという事実だけでどれだけ嬉しかったか。勇気づけられる思いがしたか。ホンマに、ホンマに、ありがとう。
これから先、多分また大きな災害は起きるやろし、それを防ぐことは完全には無理やろと思う。そんな時に、震災を体験したぼくらができることは何なのか。それを考えて、やるべきことをやってくことが、これから大事になるんやろな。
なんか、とりとめのない話をうだうだ書いてしもたわ。もうちょっとうまくまとめられんのかと自分でも思うけど、最後まで読んでくれて、ホンマにありがとう。
そしたら、また。
正直、あの時のことは思い出したない気持ちもあるし、なによりぼくみたいなんが偉そうなことをいうてええんか疑問もないではない。だって、ぼくよりはるかに悲しい思いをした人は、この街にはザラにいてはるもん。
やけど、ぼくはあの時確かに被災地と呼ばれる場所にいて、あの揺れを体験した。ズタズタになった街で、ぼくは生きていた。そやから、あの地震のことも書かなあかんと思う。
こういう話がウザいって人は、はっきり言って読まん方がええと思う。読んで楽しい話やないし。
けど、もし読んでみたいって人がいてはったら、長くなるけどつきあってくれると嬉しい。
あの時、ぼくは家でうつらうつらしとった。あの日は連休明けの火曜日で、片道1時間半かかるところにある大学で9時から講義があったから、はよ起きなあかんかったんで、意識はあったんや。
そんな時、いきなり小さな横揺れがした。「あれ?」って思てたら、突然ムチャクチャな縦揺れに襲われた。何がなんだか分からんかった。怖いとすら思わんかった。それどころか、「これで死ぬんやわ」て思ってしまった。ホンマに恐怖を感じたんは揺れが収まってからやった。
まぁとにかく揺れは収まったんで、自分の部屋を飛び出した。家の中はムチャクチャやったけど、お袋と妹はとりあえず無事。同じアパートに住んでて付き合いのあった一人暮らしのおばあさんが気になってみんなで様子を見に行ったけど、幸いケガもしてへんかった。
この時親父はジョギングに出てて、家におらへんかった。どうなったんか不安やったけど、しばらくしたら何とか帰ってきた。親父の姿を見てお袋が泣いて飛びついたんはよう覚えてるわ。
同じように外に出とった飼い猫も、地震でカンが狂ったんか迷子になりかけてたけど、何とか見つけて声かけたら戻ってきた。
そうこうするうちに夜が明けた。今やから笑えるけど、この時のぼくは冗談抜きでこのまま永遠に夜が明けへんままやと本気で思とった。せやから、当たり前のことなのに、朝になったのが嬉しかった。
夜が明けた。家の中はメチャメチャやしガスはつかへんけど、電気は何とか戻ったし、水道も給水塔が非常電源で動いとる。ラジオでも特に大きな被害が出たって話はしてへんし、あない揺れた割にはどってことなかったみたいやな。そう思てホッとしとった。
ホンマのことはすぐには分からんもんや。時間がたってはじめて恐ろしい現実が伝わってきた。
「芦屋で200人生き埋め」という第一報にはじまり、「神戸で大規模な火災」「阪神高速の橋桁落下」次々に伝えられる信じられない現実。目を覆いたくなる映像。時間を追うごとに増えていく死者・行方不明者・倒壊家屋の数。
けど、それは現実やった。神戸の黒煙はうちからも見えた。テレビに映された無残な倒壊現場の多くは、ぼくにとって大事な場所やった。なんでこんなことに……悔しかった。
自分らの生活かて無傷やあれへん。水道はその日の昼前に使えんようになった。店に行っても食べるものがない。水と食べ物をなんとかせなあかん。ここから、朝は4時か5時に起きて近所にあった井戸へ水汲みに行き、昼間は通学の道すがら買出しという生活が始まった。
住んでるアパートも地震で微妙に傾いた。1階の人は壁にヒビが入ったって言うてはった。となりのアパートはこちら側に完全に傾いて、人が住める状態やなかった。もし余震でこっちに倒れてきたら……夜、明かりが1つもついてないがらんどうのアパートを見るのは本当に怖かった。
ただ、そのアパートは後で建て起こし工事をやって何とか元通りになった。うちの棟も「倒壊の危険はない」という専門家の判断が出たんで、とりあえず助かった。
そうこうするうちに1ヶ月近くが経ち、ある日ぼくは卒業した高校に行ってみた。学校自体に被害があったのが心配やったんと、救援物資の基地になってるという話を聞いてたんで、何か手伝えるんちゃうかなと思ってのことやった。
高校に行くには、電車を降りて駅から少し先の大きい道を渡る。この道のところで信号待ちになった。ここまでは高校時代と変わらへん。
けど、道の向こうにある家並みは壊滅状態やった。3年間の思い出が詰まった通りは、変わり果てた姿をそのまま晒していた。
信号が青になった。けど、この時ぼくの足は動かんかった。身体が言うことを聞かんかった。怖かったんか、これ以上何も見たくなかったんか、よう分かれへん。とにかく、足が動くのを拒んだ。その後何とか前に進めるようにはなったけど、あの時の感覚は忘れられへん。
ただ、行った先では先生から「ボランティアの組織が入っていて、人手は大丈夫や。心配するな」と言われ、お互いに近況を話しただけで帰ることになった。
ぼくは何しに行ったんやろ。なんもでけんとは……無力感だけが残った。
けど、そう感傷的になってるだけではおられん。自分らの生活は守らなあかんし、近所には祖父母がいてたから、その手伝いもせなあかん。この頃は給水車が来るようになって、水の不便はマシになってたけど、水道がないのは変わらんし、ガスもない。
もっとしんどい思いをしている人がいるのは百も承知やけど、まずは自分らのことをせな。自分らまでが他人の手を煩わしとったら、ホンマに困ってる人まで手が回らん。そう思うことにした。
そうする間に、ガスが戻り、水道が戻り、しばらくして電車も神戸まで走るようになった。
うちの近所の公園や高校のグランドに仮設が立ち並び、避難所も徐々に少なくなっていった。橋桁がポツポツ抜けてた阪神高速も2年と経たないうちに復旧した。その後「復興住宅」という団地群が神戸や阪神間のあちこちに建ち並び、仮設もなくなった。
そして、あしたで10年。地震の被害は、一見なくなったように見える。
けど、それは一見ということでしかない。いまだに家も何もない、更地のまんまの土地が広がってるところは少なくない。地震で壊れて、いまだに再建が始まってないマンションだってある。
家の問題だけやなく、経済的な問題もある。神戸や阪神間は人口こそ増えたけど、経済的には冷え込んだ状態から抜け出せてない。日本全体の問題も絡んでるけど、雇用も回復してないらしい。
それに、あの地震で傷ついた人の心はまだ癒えてない。最近読んだ新聞のアンケートでは、精神的に立ち直れていないと答えた人が約3割いたって話や。
ぼくですらいまだにちょっとした揺れが怖かったり、震災関連の映像が怖くて見られへんかったりする。せやから、もっとひどい被害にあって、悲しい思いをした人が今も苦しんでるのは当然やと思う。
震災は、まだ終わってない。
間違っても、終わったことにしたらあかん。
あの地震があって、ぼくはいろんなものを見てきた。
被災者のことを何とも思わへん役人連中。被災者が役人に直接要望を出すと言うテレビ番組がちょこちょこあったけど、鬱陶しい仕事にかかわりたくないと言う本音がミエミエやった。
あまりの態度にブチギレて席を立つ被災者もいてた。当然じゃボケ!それ以来、ぼくは「役所にモノを期待するのはアホ」というのを教訓にしている。
1日か2日だけ通り一遍等の報道をして、あとはとっとと普通の番組編成に戻ったテレビ局。別に他所の地域で何をしようがかめへん。地震の話なんてうざいだけ、聞きたくもないとしか思われん奴も世の中にはいてるし、そういうカスにも配慮せな商売としてやってられんのやろ。
けど、それを関西の局で流す必然性はどこにある?必死の思いで情報を求めてる人に見せつけなあかん必要はどこにあるねん?
テレビの連中にとっては、人が何千人死のうが十何万人死のうがどうでもよくて、視聴率を取れるかどうかだけが大事なんやろと思った。名前は出さんけど、ある局はあまりに酷かったんで、地震以来かなりの間見ないことにしてた。
「非常時には人の本性が露になる」実際にその通りやと思う。あの地震で、今言うたほかにも醜い人間、情けない人間をイヤというほど見てきた。そんな連中のことはこれ以上書きたくもないし、意図的に思い出せへんようにしている部分もあるから、これ以上は書けへん。
けど忘れたらあかんのが、こういう非常時だからこそ、助け合おうとする心を持った人たちが現れたことやと思う。全国から駆けつけてくれたボランティアの方々にはただただ感謝の一言や。
ぼくは幸い世話にならんで済んだけど、来てくれたという事実だけでどれだけ嬉しかったか。勇気づけられる思いがしたか。ホンマに、ホンマに、ありがとう。
これから先、多分また大きな災害は起きるやろし、それを防ぐことは完全には無理やろと思う。そんな時に、震災を体験したぼくらができることは何なのか。それを考えて、やるべきことをやってくことが、これから大事になるんやろな。
なんか、とりとめのない話をうだうだ書いてしもたわ。もうちょっとうまくまとめられんのかと自分でも思うけど、最後まで読んでくれて、ホンマにありがとう。
そしたら、また。
災害は避けられません。私の経験がairaさんにとって有益となることを願っています。
神戸にいらっしゃるんですね。
10年間書き尽くせぬほどいろいろなことがあり、神戸も変わっていきましたが、愛すべき街であることには何の変わりもありません。
記事を拝見したところ予定もいろいろおありのようですが、神戸での滞在が楽しいものになりますように。
トラバありがとうございました。
ルバートさんのこの記事を読み終えた後、なんともいえない思いが自分の中に感じました。先ほど震災から10年の思いをブログに書いたのですが、震災を経験してない私には、どう書けばいいかわからず、書き上げるまでに2日近くかかりました。
自分が出来ることは、あの日起こった震災のことを忘れずにいること、普段から防災の心構えをしておくことだと思ってます。
来週神戸に行くので、東遊園地にある震災のモニュメントに行ってお祈りできたらと思ってます。
私自身はたまたまこの地に暮らしていて、地震を体験することになったのですが、被災地以外の方々にも、それぞれにとっての「震災」があったということを今回実感しました。
うちでも一昨年甥が生まれ、昨年は祖母が亡くなりました。時代は確実に変わっています。
ただ、その中でもあの時の体験や思いは語り継いで行きたいですし、それが次代の糧となることを心から願っています。
ただ、本来ならそういった資料は一括して保管するなりして、絶対になくしてはならないはずです。
あの時の記録は、これから必ず役立つ、いや役立てなければならないものですから。
>「思いを馳せる」日でなくてもいい、せめて「備えを点検する日」としていただきたい
本当にそうあってほしいですよね。あの時と同じことを繰り返すのだけは、絶対にあってはなりませんから。
また、震災以来各地で災害がある度に、阪神・淡路の被災地から様々な支援が寄せられたり、ボランティアの方が向かわれたりもしています。
行政(特に中央)には何も期待しない私ですが、こういう人々の活動を見ていますと、一番大事なところでは震災の経験が生きていると思いますよ。
ただ、私以上の恐怖感や心の痛みを今も感じながら生活している方も少なくないはずです。そんな方々のことを忘れてはならないという思いを新たにしました。
でも、ルパート・ジョーンズからわざわざトラックバックをいただきましたので、僭越ですけれども、こちらにはトラックバックを送らさせていただきます。
自分としては、被災した祖母が亡くなって最初の年越しを過ぎた1月17日が、「震災」から丸10年というのも、何かの符合を感じてしまいます。
>「一時転校」
私は既に大学生だったのでそういう経験はしませんでしたが、理系クラスに編入とは。
ただ、当時のことですから割り振りも大変だったのでしょうね。
ちなみに物理のテストですが、私の通っていた高校では理系クラスが物理のテストの度に平均点が20点台でしたし、御の字ではないでしょうか(笑)
>「水のいらないシャンプー」
シャンプーとして使うには今ひとつな製品ですが、毛皮製品の手入れには重宝するようです。
といいましても、うちにそんな高価なものはないのですが(苦笑)、安物のムートンについた汚れを取るには便利でした。
>復興本部総括部
ニュースで見ましたが、復興住宅の見回りの予算も縮小されるかも知れないようですね。
これから一人暮らしのお年よりは増えていくわけで、孤独死の問題はむしろ悪化していくはずです。
同じように、年月が経っていくからこそより対策が重要になる問題もあるはずなので、その点を行政には理解してほしい気がします。
東京に居るとなかなか分かりません。
みるみる増えて行く死亡者のリストにただただ呆然と
した思い出はあっても、心無い取材に傷つけられた人
の気持ちを実感するのは難しい。
改めてあの日の気持ちを文字にしてくださった人たちに
感謝です。自分が同じ事をしたらあかん、してる奴を
見たら止めなあかん、そんな事もいっぱいありますね。
神戸新聞のウェブサイトを定期的に読ませてもらって
ます。
継続取材の中で、役所にあるべき震災の記録がなくなり
つつある事例が、沢山あることを知りました。
もう10年、でもたった10年。未曾有の大災害の記録を
漏れなく「取っておく」事すらできないんでしょうか。
気持ちを話せるようになるには、長い時間が必要な事も
あるでしょう。
人の記憶と現場の記録、長い時間をかけてまとめる作業
はこれからかもしれないのに。
もどかしく思いつつ、忘れないチェックも必要なんだなあ
と考えます。
家人は、あの日の報道フィルムを見るのを嫌がります。「それは他の地域の皆さんにも、忘れてもらいたくないから。あんたは見んでもええよ。」と思っています。もっともその前にチャンネルを変えていますが。
研究所でも少しだけ書いたのですが、長々書いていると取り留めがなく収拾がつかなそうなので、短文にしました。
大災害を体験されてない方に、「思いを馳せる」日でなくてもいい、せめて「備えを点検する日」としていただきたい、それだけを書きました。
少しの備えが、大きく役立ちます。
もっとも、これは役立たないほうがいいに決まっていますけど。
災害は自然が起こすことなので、完全になくなることはありえませんが、「出来るだけ平和な時間が続きますように」と願わずにはいられません。
震災当時、中学生だった下の弟が、「お年寄りが戦争の話をする気持ちが良く分かった」と言っていました。
過去に縛られてはいけないけど、過去から学ぶものは大きい。忘れてもいけない。
でも、新潟の震災の救援活動をテレビで見て、「行政は10年前の大震災から何も学ばなかったのだろうか」と情けなく思いました。
本来なら、あの震災における救助活動・復興は、世界的に役立てられる貴重な経験であるべきなのです。
兵庫県には復興本部総括部が編成されていて、これが10年を期限(目途?)に設定されていました。おそらく来年度からは他の部局内の課に規模を縮小する、というのを聞いたことがあります。これから必要な援助やケアって、見えにくいモノがほとんどですよね。もちろんこのままの規模を維持するのは無理だとは思いますが、縮小した組織の中で行政としていかに対応していくのか、別に期待はしてはいませんが、適切な行政を願わずにはいられません。
一日帰るのが遅かったら、私は当分大阪へ戻ることは出来ませんでした。
当時近所に出来たばかりの「近鉄森之宮ビル」の支柱部分に大きなヒビが出来て床のタイルが何枚もはがれているのを見て「もう一度来たらこれ絶対倒れる」と背筋が寒くなったものです。
今でも、自宅マンションや会社の壁や、普段通るいたる所に大きなひびが残ったまま。恐怖は忘れるどころかいや増すばかり。
皿一枚被害を受けなかった私ですらこんな調子ですから被災者の方々の心の傷がいかばかりのものか、察するに余りあります。
陳腐な言葉ですが、亡くなった方の魂の平安と今も癒えぬ傷を抱えて懸命に生きていらっしゃる方々に心よりお見舞い申し上げます。(…て、字で書いてしまうとなんだか薄っぺらな感じがして嫌なんですが)
もう18日なのであまり生々しくない体験談。
私は疎開先で震災特例措置である「一時転校」という貴重な体験をしました。3週間くらいでした。カリキュラムの違いを目の当たりにし、文系の私にはあり得ない「物理」を習いました。期末テストを受けて元の学校に帰ると、やはり期末テストが待っていました。期末テスト2回って・・・。また、転校先で1学期にやった三角関数をウチの学校では3学期にしたため、私は結局習わず終いでした。
最初で最後の物理のテストは35点でした。
あと、一瞬流行って一瞬で消えた「水のいらないシャンプー」。使い心地最悪のため、まだ大量に残っています。
三ノ宮から御影まで(電車がない区間)歩いたりもしました。高架沿いに歩いたら大丈夫と思ってふと見ると「高架ないやん!」とか。学校から歩いて帰る途中、岡本のマクドでおにぎりと飲み物もらえるということで、友達と寄ってみたりとか。
いろいろ思い出す良い機会となりました。
戦争の記憶の風化ということが言われて久しいですが、それを聞くたびに「いつか震災のことも同じように忘れられるのか」という思いにかられることがあります。
自分が体験したことでなくても、その話を受け止めて伝えることができるのならば、そうしなければならないんですよね。
今回の記事に対して頂いたコメントを拝見して、あの時、被災地の中だけではなく、ナショ坊☆さんを含め被災地に居合わせなかった多くの方々も苦しんだのだということを、改めて実感しました。
今は、あの時の思いを忘れず、伝えていくことが、何より求められていることなのだと私も思っています。
長崎出身の私は、大学に入るまで8月9日の登校日は全国共通の登校日だと思ってました。
(8月6日の広島の立場を忘れて)
それが違う事を知って、かなり驚きました。
ルパートさんの文章を拝読して、原爆記念日の事が思い出されました。
私も当時は兵庫県に住むひとりの大学生でした。
就職試験で帰省していて、1月17日に兵庫県に帰る予定でした。
縁ある土地で起こっている出来事なのに、なにもできなかった自分がすごく悔しくて。
せめて気持ちだけでもと思って、毎年1月17日は早起きをして黙祷しています。
ルパート・ジョーンズさんの記事を読んで改めて当時のことを思い起こし、忘れないことは大事だと心に刻み付けました。私にはそれしかできないですから。
ありがとうございました。
それだけに、「理解しようとし続けていきたい。」という最後のお言葉に心強さを感じましたし、本当にありがたい思いがしています。
私は被災者ではありませんが、震災に際して多くのことを感じ、それは今の思考や信条にも影響は残っています。
昨日はそれを記事にしようとも思ったのですが、ルパートさんや皆さんの記事に触れ、「きょうは被災者の声を聞くべき一日だ」と思い直し、様々な記事に触れました。
被災者の心情を完全に理解することは、私にはできません。もしかしたら「同情はいらん」「迷惑だ」と思われるかもしれません。
それでも、理解しようとし続けていきたい。心から思います。
記事に「非常時には人の本性が露になる」と書きましたが、何もこれは悪いことだけではなくて、逆に異常事態だからこそ人の善意が表れるということも、震災の大事な教訓です。
そういったことも語り継いでいかなければならないと思いますし、何より、今度は我々に何ができるかを考えないといけませんね。
震災は本当に辛い出来事でした。ただ、辛いということを理解してもらえない、震災の体験を何とも思ってもらえないこともまた耐え難い苦痛なのです。
それだけに、トラのシッポさんの心に何か響くものがあったということは、本当に嬉しいことなのです。
こちらこそ、ありがとうございました。
ただ、それでもあの日あの場所にいた人は、語らなければいけないんですよね。
もちろん、自分の心の傷に触れるのが辛い人はいるわけで、そういう人が無理をすることはないでしょう。ただ、生き延びた我々は命を奪われた人のためにも、将来のためにも、語れることは語り継いでいく使命があると思います。まさに「残った人間の責任」ですね。
そうですね。私自身も弱い人間ですし、あの頃を振り返ると自分のことで手一杯で、他の人に手を差し伸べられなかったという悔いが残っています。
ただ、そのことから逃げずにいれば、この苦い思いはどこかで活きてくる。そう思っています。
レスありがとうございました。
京都も震度5だったのでかなり揺れたのですが、幸いにも私のマンションや近所で大きな被害がありませんでした。でも、テレビに映る映像を見ると、とんでもない光景が・・・。言葉を失いました。前に行ったあの美しい光景がメチャメチャに・・・。
6年になり、児童会で募金活動をしました。1週間朝早く起きて校門前で募金を呼びかけ、かなり多くの金額が集まりました。それぐらいしかできなかったですが、少しでも協力できてよかったと思っています。
本当にこのことを忘れてはいけませんね。心に命じておきます。
当時の仕事は火曜日が早出だったので、朝5時半に目覚めていました。
布団から出て顔を洗い、トイレに行き・・・いつもより少し起床時間が早い以外は普段と同じ1日をこれから過ごすはずでした。
あまり早く朝飯を食べにキッチンに行くのもアレなので、とりあえず自分の部屋へ戻ってラジオを聴きながらボ~ッとしていると、西のほうから「ゴォーッ」という音が。
カミナリでもなさそうだし、トラックや飛行機の音とも違う。
何やろかと思っているうちに、ガタガタと揺れだす家。
その数秒後に襲う大きな横揺れ。
いったいなんなんやこれは・・・驚く間もなく布団の中に入って身構える私。
鉄骨がギシギシきしみ、吊っていた自室の蛍光灯の2箇所の支えのうちひとつが外れ、ブランブランに垂れ下がる。
頭の半分では地震と解っていても、もう半分は何が起こったか理解できないでいる感覚。
長い揺れがおさまってようやく冷静になると、自然に体が震えている自分に気づいていました。
すぐにラジオをNHKに合わせ、固唾を飲んで地震の様子を聴き入る。
最初の発表では大阪の震度は「4」、神戸は「5」。
これを聴いた段階では「たいした被害は出ていないか」と率直に思ったものでした。
いや「なにも被害がないことにしてくれ」と願う自分がいたことも確かです。
さらに耳を傾けていると、被災現地に住んでいるであろう記者の生々しいレポートが。
「多くの家が投壊、あちこちで火の手が・・・」おいおい冗談だろ、震度「5」程度でそりゃないやろ、と思いつつ、仕事場へ電話連絡。
そのときは電話はまだつながっており、仕事場も何もなかったようなのでそのまま出社。
そして、そこではじめて我が目を疑うような映像をTVで見ることになりました。
皆食い入るように画面を見つめながら、声ひとつ発することも出来ない。
喜怒哀楽全てを超越するような不思議な感情に包まれたのを今でもはっきり覚えています。
ありえないことが起きている・・・。
しかし間違いなく現実・・・。
当時は生駒山の麓あたりに住んでいたので、山手の方まで上がると六甲の山並みや尼崎から芦屋ぐらいまで見渡せることが出来たんですが、それを見るのが怖く感じていたのを覚えています。
その日からずっと祈っていました。
何に祈っていいのかわからなかったんですが、とにかくただ祈っていました。
数年後に神戸を訪れたときには、すでに街としての活気が戻っていました。
あの惨事があったことなど忘れさせてくれるかのように・・・。
いや、忘れるわけないんですけどね。
でも、絶望的な状況からここまで立ち直ることが出来たことを確認できて、ひとりの人間として励まされたのは事実です。
「人間とは強いんだ」をいうものをあらためて知らしめてくれたと言っていいかもしれません。
「被災者でもないヤツが何を・・・」と思われたかもしれません。
確かに個人的に大きな被害に遭ったわけではないですが、あの日を境に「何か」を感じることは出来たと思います。
今後、自分が直接の被災者となることがあればそこで何が出来るのか、そして何をすべきか。
「強い人間」でいられることが出来るのか。
その問に対する答えを今は自信をもって出せませんが、この記事を読ませていただいたことによって、もう一度自分を見つめなおさせてくれたことを感謝します。
(合掌)
どうしてもヘビーな話題だし、だいいち分かってもらえないという、どうしようもないところがあるからです。
でも、10年という月日は私たちを少しは癒したようで、私も語る勇気を思い出しました。
残った人間の責任ですね。
職場で読んでいて泣きそうになりました。これによって贖罪しようとか赦しを請おうとかではなく、こんな自分とこれからも向き合うことが私にとっての復興なのだと思っています。
一口に10年と言っても色々ですね。皆さんの体験やお気持ちを知ることが出来ました。
ありがとうございました。
そして、ミスチルファン1974さんのおっしゃるように、被災地内外の多くの方が、同じ思いを持っているのでしょうね。
私自身の記事はとりとめもないものでしたが、最後までお読みいただき、心から感謝しています。
おそらく皆が此方に書かれた方と同じような想いを
しているのだと思います。
何て書いていいのか良く分かりませんが、とにかく
真剣に拝見戴きました。
ただ、おっしゃるようにそこに住む人々の気持ちはまだ癒えてはいないんですよね。
今日の追悼番組の中で、「10年目の今日になるまで追悼行事に足が向かなかった」と遺族の方々がインタビューで語っていたのを思い出しました。
心に傷を負った人にとっては、10年前のことでもまだ生々しいのでしょう。「忘れたい、でも忘れない」という言葉が胸を打ちました。
空気の境目は確かにありましたね。
私の場合は大阪の大学に通っていたのですが、大学近辺ではほとんど被害がなかったこともあり、当時一緒だった人たちとの意識のズレから衝突を繰り返した経験があります。
もっとも、私の場合は地震の直後で自分をコントロールできなかった部分もあるので、あまり人のことをとやかく言うこともできないのですが……
ただ、今もきっと同じように境界線の狭間で苦しんでいる人はいるのでしょうね。
私の実家は大阪ですが、神戸とは電車で30分ほどの距離です。その年の3月、私は検査のため神戸の花隈へ行きましたが、まだ阪急電車は復旧しておらず、六甲から岡本までは次の駅までバスに乗って言った事を思い出しました。そのバスの車窓から見える建物の姿はTVで見るものよりもはるかに生々しく、この中で多数の命が失われたのだと知ると、何ともいえない気持ちになりました。
あれから10年、街もだいぶ整ってきましたが、まだ人の心は傷ついたままなのだと感じた次第です。
決して忘れてはならない、そして忘れられないことですね。
豊中はあまり報道されなかったのと、同じ地域でも建物の強度で被害の格差があったのとで避難所は都会のエアポケットのようになっていました。
避難所から出るとき、よくSFなどであるような空間の境い目があって、ボワッと別世界に出るような感覚がありました。
非難に合っていない人は、皆さんが体験したような嫌な発言を繰り返し、この地を去りたいと思ったきっかけにもなりました。
あれから個人的にもいろんなことがあり、もう20年も30年も経ったような気分ですが、まだたった10年なんですね。
あれ以来災害があると、「あそことここにはきっとあの空間の境い目があるのだなあ・・・・」と感じながらニュースを見るようにしています。
随分視点が変わったと思います。
長々と失礼しました。
寝室に家具を置いていなかったので全員無事でした。
家の中はメチャクチャで多くの家電品などがへこんでいましたが、テレビは無事で電気が復旧すると同時に梅田のリクルートビルにクレーンが倒れ掛かっている映像が映ったが、その時はまだあんな事になっているとは想像だにしませんでした。
窓からは普段天気のいい日はポートピアまで見渡せるのですが、伊丹のあたりから向こうの空は真っ黒でその部分だけが別世界でした。
豊中は神戸に比べると被害が少ないものの、古い建物は全壊したところが多く、避難所にも一部の地域はたくさんの人が
あの日と次の日はほとんど電話がつながらなかったんですよね。私たちも無事を伝えたいのになかなか通話ができなかったのを覚えています。
それから10年が経ち、被災者の中では1人暮らしのお年寄りが増えてきています。体調が悪くて追悼行事に出られない人もいるようです。
10年経ってより深刻化する問題もあるんですよね。だからこそ、震災のことを忘れてはならないのだと思います。
書き込みは初めてです。
あの日(東京在住)出勤前のニュースでは神戸地震、高速倒壊
詳細はまだ報道されていませんでした。
お昼のニュース、火災、、、先輩は「自分の小学校が・・・」
実家とも連絡とれないまま急遽神戸に戻られました。
会社の関西の同期の友人達にも一切連絡が
とれず、夜のニュースを見ながら、泣きながら
何度も何度も電話かけまくってました。。。。
結局無事でしたが、あるニュースで倒壊した家屋の
前で五歳ぐらいの女の子が1日中「お母さん...」
と叫びつつていた姿が今でも脳裏を離れません。
震災後10年経過しても、ひっそりと発見される孤独死
の方々。
絶対にこの教訓を風化すべきでない、
そしてもっともっと共有する必要があるのでは
ないかと感じています。
決して他人事ではありませんから。
6.000人もの人が亡くなられたあの震災、
業火に巻き込まれた方、生き埋めになられた方々
全ての人たちのご冥福をお祈りします。
合掌。
それだけに、東京にいらっしゃった関西出身の方にとっては、なおさらではなかったかと思います。
あの時多くの人々が感じた無力感をこれから味わう人がないよう、少しずつでも考えてくれる人が増えることを願ってやみません。
私は特定の信仰を持たないことを信条としていますが、こういう時は「もし神仏という存在がおわしますならば……」いうのが正直な気持ちです。
今日は静かに祈りたいと思います。
東京でも揺れたんです。ごく弱い地震でした。
テレビを付けました。何処が本当の地震の中心部だったのかは
なかなか分りませんでした。
神戸の震度は暫く空白でした。
よく分らないまま、出勤しました。
職場のテレビには炎上する神戸が映ってました。
死者数はまだ2けたでした。
あの炎の下に沢山の人が居た事は、なかなか分りませんでした。
火事を止める水が無い。見覚えのある三宮の街がめちゃめちゃに
なっている…時とともにとんでもない事が起こった事が分って
きました。
友人知己に連絡を取ろうにも、電話は通じません。
上司の知合いは亡くなっていました。父の友人も亡くなっていました。
「知合いの知合いには死者が居る」
関西に生まれた多くの人間の、あの日。遠く離れて何もできない
無力感。なんで、この20世紀にこんな事が。火事が消せないって
なんでや…
東京もいつか、大地震に見舞われる運命です。
大震災からの日々、地震にどう備えるか、どうやったら1人でも
多く人を助けられるのか、その後どうしたらええのか、少し
ずつですが、考え方も変わって来てるとも思います。
心ある人はちゃんといてますし。
1月17日を決して忘れません。
当時のことは今でもよく覚えています。
当時、大阪在住だった僕の家もずいぶんと揺れ、丁度大学のテスト前夜で夜更かしをしていて、やっと寝付いた頃に飛び起きたことを覚えています。
自分の住んでいた地域に大きな被害はなかったものの、時間が経つにつれてテレビから流れる映像に愕然。
「電車、倒れてるやん…」
阪急神戸線はあの惨状でしたが、京都線と千里線は動いているとの情報を知り、とりあえず大学へ行ってはみるものの
もちろんテストどころではない騒ぎ。
結局なにもせずに、騒然とした街を「これから、どないなるんやろ」「どれぐらい被害がでたんやろ」などと考えながら帰宅したことを覚えています。
後で知る事となるのですが、うちの大学の学生にも死者はいました。
祈り。
今はただ、祈ります。
ガスタンクの話は私も当時ラジオで聞いてはいたのですが、それ以上のことは知りませんでした。
それだけに、実際にその場にいた方のお話を聞けたのは貴重な体験でした。このことにも重ねてお礼申し上げたいと思います。
ここからは、オッサンに片足を突っ込んだ年の人間の説教だと思って聞き流してください。
林檎♯12さんが苦しんでいることは分かります。確かに、壊れたとはいえ家の柱を持ち出すのが悪くないとは言えません。
それを認めた上で、それでも私は林檎♯12さんが責められるべきだとは思いません。私が同じ立場にいたら、同じことをしたかも知れないからです。
それに、林檎♯12さんは実際に材木に手もつけていませんし、それでも手をつけようとしたことで苦しんできた。それで十分ではありませんか。
また、震災後疎開なさったとおっしゃいましたが、同じように被災地から離れた方も大勢いらっしゃいます。
それは「逃げる」ことかも知れません。ですが、それは自分や自分にとって大事な人々を守るためのことなのでしょう。そのことで誰も傷つけていないなら、「逃げる」ことは間違ってはいません。
何より、林檎♯12さんは自分の中のわだかまりからは逃げなかった。正面から向き合った。
だから、あなたは本当の意味では逃げていない。大丈夫、ちゃんと立ち向かっています。
偉そうなことを申してしまいましたが、私の考えはこういうところです。
私は当時、神戸市東灘区に住み、灘区の高校に通う高校1年生でした。あの日は部活の幹部引継ぎの日でもあり、連休明けということで友達に会うのが楽しみでした。
早朝に、下から突き上げるような振動の後大きな揺れが襲ってきました。観音開きの食器棚から一定の周期で食器が流れ落ちていくのを布団に包まって聞いていました。電気・ガス・水道はもちろん即ストップ。電話も、両親がそれぞれの実家に無事の電話をかけた後に止まってしまいました。被害状況としては、外側は建物自体が5,60センチ浮いたようになったくらいですみましたが、中は、ピアノは動くし、たんすは崩れ食器は飛び散り、鏡はたんすがぶつかって粉々でした。近くに酒蔵があり、お水は菊正宗さんからいただくことができました。よく一般の人が絵を描きに来ていたレンガの酒蔵もばらばらになっていました。
余震におびえながらうつらうつらしながら迎えた2日目の早朝、御影にあるガスタンクが爆発するかもしれないからと、避難勧告が出されました。しかし、避難先を指示するわけではなく、ただ「2号線よりも北、十二間道路よりも東」といわれただけでした。それも避難する道々に周りの人に聞いたものです。
途中、なぎ倒された電柱や崩れて流れている元建物を見ながら43号線よりも南にある我が家からある中学校に避難しましたが、校舎自体が倒壊の危機にあるため中には入れず、外で焚き火をしていました。
父の職場関係の出張所が近くにあるというので、近所の人たち(やはり父の職場の方々)と一緒にそちらの方へ移動しました。
私の中で、2つ、十字架というか消化しきれないものを抱いています。自分のことが本当に嫌な人間に思えてなりません。
1つは、中学校に避難して焚き火の材料を探していたとき、私はなんと、倒壊した建物の木に手をつけようとしていたのです。それをその家の人に注意されてその時は何も罪悪感がなかったのです。時間が経つにつれ、私はなんてことをしたのだろうと、愕然としました。
2つ目は、うちの家族は3日目に、龍野市というところにある母方の祖母の家に避難し、1ヶ月近く過ごしました。私の中ではなんだか「逃げた」ように感じてしまい、申し訳ない思いでいっぱいでした。
こんなところで懺悔となってしまいましたが、10年間、誰にも言えずに過ごしてしまいました。もう一度向き合おうと、こうして文字にしてみました。支離滅裂で分かりにくいと思います。申し訳ありません。
本当にありがとうございました。
こちらこそ、読んでいただきありがとうございました。読もうと思ってくださる方がいることが何より嬉しいのです。
私の場合はこうして当時のことを語ることができていますが、まりんさんがおっしゃるように、私よりも辛い体験をして、そのことを思い出したくないという方も大勢いらっしゃいます。
そういう方の体験を聞くことは確かに大事なことなのですが、さりとて語ろうとする気持ちになれなければ、そうもいきませんよね。
震災の記憶は非常に生々しいものです。まだ語ることのできない方もいらっしゃいます。今はそういう方の決心がつくのを、まだ待たなければならない時期なんでしょうね。
自分の知る街の姿が徐々に変わっていくだけでも、人は寂しさを感じずにはいられないものです。まして、それが一瞬にして消えてしまった時の喪失感は筆舌に尽くしがたいものがあるはずです。
関係ないですが、
>その年の春の「春分の日」(よりによって「サリン事件」の日、しかも父の誕生日でもありました)
私の親父の誕生日でもあります(^^)
本当にありがとうございました。
被災された方のお話をテレビなりで聞く度に「体験した人にしか分からない気持ち、思いがその人、その人にあって…」と想像したり、地震について考えるのですが、だんだんと地震への備えの意識が薄れてしまって。関西の人間なのに。
「思い出すとあの時に引き戻されるから…」という方や、今も“あの時”と思えずその真っ只中にいる方、「これからのために体験を話すことの意義は分かるけど、それは私でないといけないの?こんなにも辛いのに」と思ってらっしゃる方が多いかもしれません。今は無理でもゆっくり、少しずつでもお話を聞きたいし、話続けてもらいたいです。戦争や災害は非日常で、正直普段は想像すらもなかなかしていないし、少し想像するのが怖かったりもするので。他力本願なのですが。被災直後だけでなくその後の生活のこともお聞きしたい。
>親父はジョギングに出てて、家におらへんかった。どうなったんか不安やったけど、しばらくしたら何とか帰ってきた。親父の姿を見てお袋が泣いて飛びついたんはよう覚えてるわ。
お母様のその時の感情に思いを巡らせると、こみ上げてくるものがありました。
※思ったまま書いた長文、失礼しました。
あのときの彼らの心無い発言は忘れられません。なんとなく教師というものに不信感を感じた瞬間でした。よく考えると随分遅いのですが(苦笑)。
父は大学時代+数年間を大阪で過ごした人で尼の競艇、西宮の競輪に足しげく通い(笑)、芦屋やら神戸やら、果ては「万博会場」でペンキ塗りのバイトをしたという、豪快と言うかガラの悪い男でした。関西を離れてからもしょっちゅう「ちょっと大阪(「東京」が往々にして「千葉」や「神奈川」をも指すように、関西一円は「大阪」なんです)行ってくる」と出かけていた父。そんな父が呆然とテレビにクギ付けになっていたのを思い出します。その年の春の「春分の日」(よりによって「サリン事件」の日、しかも父の誕生日でもありました)に「ちょっと大阪行ってくる」と出かけた父、神戸や西宮、尼崎にも足を伸ばしたようで、「えらい変わってもうとった」と語っていたのを思い出しました。
甲子園の社宅は(おそらく私の考えているもので間違いないでしょうが)、かなりの間立ち入り禁止になっていました。当時住まれていた方はかなりご苦労されたことと思います。
おっしゃるように西宮市民にとって、あれはまぎれもなく「西宮の震災」ですよね。同じように、「芦屋の震災」「尼の震災」、自分にとっての震災があるはずです。
そして同じように、山古志の震災、小千谷の震災、スマトラの震災、プーケットの震災、スリランカの私が名も知らぬ街の震災、それを体験している方々が今いるわけです。
そういう方に思いを馳せることの大事さこそを、「東京の人」に理解してほしいと心から願っています。
「人手も物資も足りていたけど…一番大切なものは足りなかった。」という言葉が何より身に沁みます。
あの時、被災地まで駆けつけてくれた人の心は、本当に美しかった。
でも、ほんの少し離れたところにいた人の中には、震災のことをただ鬱陶しいとしか思わない人がいたのも否定できない事実です。
細かくは申しませんが、私自身、それで少なからず悲しい思いをしています。
そういう話をしだしたらキリがありませんが、だからこそ、あの地震を体験した我々にできることがある。今はそう考えるようにしています。
「新潟の地震が起きたとき、どこか他人事のように思っている自分の気持ちに気づいて愕然とした。」そうおっしゃいますが、愕然とできることこそが、本当は素晴らしいことなのだと思います。
他人事のように思ってしまう、最初は誰でもそうです。ただ、そういう自分にハッとできる人は、そこから自分が被災した方々のために何ができるかと考えられるわけですから。
何ともまとまりのない話になってきましたが(苦笑)私が思うのは、こんなことです。
理解すること。受け止めること。そして伝えること。これは、そうしようと思った人にこそできることです。かめちきさんのような方にこそ。
ラジオ関西が地元の役に少しでも立てるようがんばったようすが本になっていますが、天災や大事件のときはラジオだと私は確信しました、あのとき。
地縁のない根無し草の私は西宮に3箇所6年住みましたが、住んでいた六甲トンネル入り口脇の社宅が全壊だったことを人づてに知ったのは2年後でした。ほかの2箇所については情報ナシ、でも甲子園の社宅のほうは、一時期立入禁止区域になったように思います。
私の代わりに被害にあった人がだれなのかを知るすべもありません。
ライフライン復旧の報道をみはからい、西宮に今もいる友人の何人かとたくさんたくさん、震災の話をしました。
西宮市民だった私にとりあれは「神戸の震災」ではなく「西宮の震災」。そこから「東京の人」にも何かをかんじてほしいと思っていつもそう言っています。
私はあの朝、急激な揺れで目を覚ましたが、家も部屋も無事で、祖父母・曾祖母・両親、弟たちも皆無事だったので、しばらくは事の重大さに気づいていなかった。
電気が復旧しテレビがついた時、家族全員で愕然とした。
父は、居間を片付け、家族のための安全スペースを確保した後に、登山スタイルに身を固め、弟と母を従え、バールを手に飛び出していった。
私は留守番を命じられた。精神的に耐えられないと見抜かれていた。
老いた曾祖母や祖父母は放ったらかしにした。逆に、ご飯やおやつをもらって励まされた。
阪神沿線のボロ文化住宅に住んでいた母方の祖母は、倒壊したアパートごと亡くなった。
しばらくして、遺品を探しに行った。ブロックが瓦礫の山になって祖母のマンションは跡形もなかった。余震の中、もぐりこんで遺品を探し出すのは恐ろしかった。
マスコミ勤務の叔父が震災直後から数日間、実家を拠点にして被災地を走り回り、記事を書いた。いい記事だった。
父の会社、私の大学と、上の弟の高校は大阪にあった。試験期間中で、休むわけにはいかなかった。
高架が落ちて分断された西宮北口に自転車で通い、電車に乗って通学した。駅から自宅に向かう道すがら、だんだん町並みが崩れていくのが怖かった。
水が復旧するまで、山の中の川まで水汲みに行き、ガスが復旧するまで大学の近くでお風呂を借りたこともあった。
母は気を紛らわすために、近くの小学校にボランティアに行った。私も手伝いに行ったことがあるし、ボランティアセンターに登録したこともあった。
人手も物資も足りていたけど…一番大切なものは足りなかった。
計画していた海外留学を諦め、バイトで気を紛らわせ、新学期になり、就職活動をすると、いつもと同じような毎日が始まった。
でも何かが違ってしまった。
大学の仲間でも、京都や大阪の人には震災の悲惨さが分かってもらえない。うざったいという反応を受けたり、「こんな時にこそ明るくしないと」と言われて感情的になり衝突したこともあった。
一年後の1月17日は、卒論を仕上げて出しに行こうと思っていたのが、一日、震災特番に涙を流して釘付けになっていた。
大阪で就職し、大阪に転居して何年もすると、こちらの人は震災のことなど「あん時は、ごっつい揺れたなあ」程度の認識しかないと気がついた。冷たいなあ、でもそんなもんだろうなあと、諦めた。
でも、新潟の地震が起きたとき、どこか他人事のように思っている自分の気持ちに気づいて愕然とした。
思い出したくない。でも忘れたくない。
うまく書けないけど、同じ経験をした人には通じる気持ちがあるはずです。
長々と失礼しました。
確かにわかることはできないだろうけれど、理解することはできますよね。そしてそれを伝えること。
あの日は第一報から見ていました。だんだん明らかになる様子に、娘を幼稚園に送っていった後はもうテレビの前で背筋が凍って呆然と座りつくしていました。今、ルパートさんの文章でまたあの感じを思い出しています。
私が東海出身で親譲りの地震嫌いというのもあるでしょうが、娘もまた地震に対して激しく神経質です。テレビ画面を通してさえ幼い子どもにもあの神戸の景色は深く心に刻まれたようです。
当事者でもない私が二番手で長々と失礼しました。明日1月17日5時46分30秒には黙祷させていただきます。
それはひょっとすると、同じ体験をした人の間でもそうなのかも知れません。同じ体験でも受け止め方は人それぞれですから。
私自身、自分よりもっと辛い思いをされた方の気持ちが本当に理解できるとは思えません。
ただ、おそらく仙丈さんの心の中にも「大変なんだろうな」「困っているだろうな」という気持ちがあると思います。
被災された方の苦しみを全ては理解できなくても、苦しんでいることそのものを理解したり、受け止めたりすることはできますよね。
偉そうなことを申してしまいましたが、おそらく「被災者支援」というものは、そういう気持ちから始まるものではないか、私はそう考えています。
彼らの感覺は許せない思ひがしました。
でも自分自身を振り返ると、いまスマトラ沖の地震による津波被害の映像を見て、ひと事として捉へてゐる自分がゐます。
こればかりは直接、經驗した人にしかわからないことなんだと諦めてしまひます。
もう10年・・まだ10年。
あの經驗を自分に活かせるやうにしたいものですね。
長々と書き連ねた文章をお読みいただいた上で恐縮なのですが、私から皆さんにお願いしたいことがあります。
この記事の上に写真だけで本文が何もない記事があるのをご覧になったと思います。
お分かりの方もいらっしゃるでしょうが、この記事の投稿日時は阪神・淡路大震災からちょうど10年になるように合わせております。
また、写真の女神像は震災で倒壊したもので、時計はその時に止まったままです。
この記事は、震災10年の時、2005年1月17日5時46分30秒という時を刻み込み、記憶に留めるためのものであります。この時間には私も震災で犠牲となった方々に黙祷を捧げることにしております。
ですので、もし皆さんの中でご賛同いただける方がいらっしゃいましたら、この記事に刻まれた時、5時46分30秒に1分間の黙祷を捧げていただきますよう、よろしくお願いいたします。
なお、明日1月17日は勝手ながら震災関連記事へのレス以外の活動を控えさせていただきたいと思います。
したがいまして、記事にコメントをいただきましても、レスをさせていただくのは18日以降になります。
誠に勝手ではございますが、この1日は震災の被害に思いを馳せる日にしたいと思っております。
18日以降は普段と変わらず皆さんに楽しい話題を提供したいと思っておりますので、ご理解のほどよろしくお願いしますm(__)m