11月に控える本選挙を前に論戦が本格化しているアメリカ大統領選では、共和党のドナルド・トランプ氏が窮地に陥っている。これまでも、移民や女性、障害者らを蔑視するような発言が問題視されてきたトランプ氏だが、共和党の重鎮たちからさらに白い眼を向けられている。
事の起こりは、7月28日の民主党の党大会にさかのぼる。この日の登壇者でひときわ注目を集めたのが、パキスタン系のイスラム教徒の移民で、息子をイラク戦争で亡くしたキズル・カーン氏だった。カーン氏は、テロ対策としてイスラム教徒の一時入国禁止などを提案しているトランプ氏に対して、「憲法を読んだことはあるのか」と胸ポケットから実際に合衆国憲法を取り出して批判。「この文書の中で『自由』と『法の平等保護』という言葉を探しなさい」「あなたは国のために何一つ犠牲にしてない」などと畳みかけた。
これに対してトランプ氏が、オバマ政権の外交政策への批判に論点をすり替えたほか、壇上で夫のスピーチを見守ったカーン氏の妻について「宗教上の理由で発言が許されなかったのかもしれない」などとコメントしたことから、与野党問わず批判が噴出した。2008年の共和党の大統領候補であるジョン・マケイン上院議員や、ポール・ライアン下院議長らもトランプ氏を批判している。
本来なら選挙戦で中立であるべき現職大統領のオバマ氏さえも、トランプ氏について「大統領として不適格」と堂々と発言。共和党のリーダーたちに対して、「なぜいまだに彼を支持し続けるのだろうか?」などと挑発して、共和党票の切り崩しにかかるなど、政策論争を飛び越えた泥仕合と化している。
この問題で興味深いのは、トランプ氏の反論も論点のすり替えなら、民主党側の対応も立派な論点のすり替えだということである。米兵の遺族がトランプ氏に対して、「国のために何かを犠牲にしたことがあるのか」と問うことは理解できるが、今度は逆に同じ問いかけが、クリントン氏の側にもブーメランのように返っていく。
確かに政治の世界でのクリントン氏のキャリアは輝かしいものだが、果たしてそれは、純粋な国家への奉仕だったのか、あるいは私利私欲のためだったのか。クリントン財団に海外から流れ込んだお金の問題や、国務長官時代に機密文書を私用のメールでやり取りしていた問題――しかも、「機密はなかった」と当初、ごまかしていた――などを考えれば、どうしても疑いたくなる。そして、カーン氏の息子が命を落としたイラク戦争への参戦に、クリントン氏は賛成票を投じていた。
トランプ氏が、カーン氏の批判に対する当初の反論の中で、クリントン氏への批判をメインに置いたのは、こうした点を意識してのことかもしれない。
さて、今回の論争から考えさせられるのは、日本の政治風景である。トランプ氏に対して、米兵の遺族は「憲法を読んだことがあるのか」「国のために、何かを犠牲にしたことがあるのか」と問うた。日本では、解釈改憲によって集団的自衛権の行使を認める法律をつくった安倍晋三首相に対して、「憲法を読んだことがあるのか」という批判が起きたところまではそっくりである。しかし、国会を取り囲んだデモ隊が、「国のために何かを犠牲にしたことがあるのか」と首相に問うたことがあったとは、聞いたことがない。
いや、むしろ、デモ隊に参加した若者らは「今の平和な暮らしが一番」などと叫び、国を守ることの義務などは、いっさい負いたくないといった風情だった。
私はいつの日か、この国を守り、発展させようという責任感にあふれた、自立心のある若者たちが、体たらくな政治家を叱れるような、そんな社会に日本が変わっていくことを願っている。そのための第一歩は、日本国民が自分たちの手で国を守ることをろくに想定していない現在の憲法に、メスを入れることである。
By. 呉 亮錫 2016/08/05 07:00 「憲法を読んだことがあるのか」――トランプ氏への批判と、日本の政治風景
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