論説副委員長・渡部裕明 唯物史観の呪縛と「親鸞」像
ここ2年ばかり、親鸞(1173~1262)の足跡を訪ね歩いている。
昨年から東京で暮らすようになり、関東のゆかりの地が近くなった。
つい1カ月前は、親鸞が壮年期の約20年間を過ごした茨城県や
栃木県を回った。親鸞に惹(ひ)かれる理由は約30年前、京都で
宗教を担当し、東西本願寺や仏光寺などを取材したからである。
若かったから、彼が探索した教えの精髄までは理解できなかったが、
それが日本人の心情に合うものという直感は得た。
親鸞は貴族の藤原氏の一族だが、没落しつつある日野家に
生まれた。現世の出世はもはや望めず、残された道は出家しか
なかった。9歳で比叡山に登り、20年余り修行を続けた。
しかし、納得できる境地には達しない。
煩悶(はんもん)の末、進むべき道を六角堂の救世(ぐぜ)観音に
尋ねた。迷ったとき、神仏に啓示を求めるのは中世において普通の
ことであった。六角堂は京都の中心に位置し、聖徳太子開創の古刹
(こさつ)である。
建仁元(1201)年春、100日間の籠(こも)りの行を
続けていた親鸞の前に、観音が現れて言った。
「あなたが前世の宿因によって妻帯するなら、私が玉女(ぎょくにょ)
となって妻となり、臨終の時には極楽に往生させましょう」
親鸞は夢告を聞いて叡山を下りた。東山の吉水(よしみず)で
専修念仏の教えを広めていた法然のもとに赴き、その仲立ちで
結婚した。日本で僧侶が公然と妻帯したのは初めてで、
「非僧非俗(僧ではなく、俗でもない)」の生涯を貫いた。
親鸞が亡くなって来年で750年になる。浄土真宗の教団各派は
こぞって法要を営む。こうした大遠忌(おんき)法要は50年ごと
に行われ、前回(700年)は敗戦から16年の昭和36
(1961)年だった。そのころの親鸞のイメージは時代を反映し、
唯物史観の決定的な影響を受けていた。
「親鸞らの教えは天皇や貴族ら古代権力によって弾圧され、
越後(新潟県)へ流罪となった。地方豪族の娘と結婚し、やがて
許されて関東に赴いた。草深い農村で暮らしながら、社会の底辺
を生きる農民に初めて念仏の教えを伝え、新しい時代を切り開いた」
といった見方である。
しかし50年がたち、親鸞の姿は大きく塗り替えられている。
法然らの念仏が「朝廷から弾圧された」というのは後世の誇張で、
実際は後鳥羽上皇の女房を出家させた法然の一部門弟に対する
上皇の個人的な怒りだったことが明らかにされている。
親鸞の越後への流罪も家族を伴い生活を保障されていたこと、
また妻の恵信(えしん)は京都生まれの貴族の娘で毎日、日記を
つける教養人だったことも確実になっている。
「親鸞が最も長く暮らした茨城の笠間(かさま)も寒村ではなく、
京都の情報が時をおかずもたらされる先進地で、彼の主著
『教行信証』はこの地の神社に揃(そろ)えられた経典を学んで
執筆できたのです」
真宗史に詳しい今井雅晴(まさはる)・筑波大名誉教授は話す。
さらに親鸞の弟子は文字も読めない農民というより、地方領主
クラスの人物だったと分かってきている。彼を関東に招いた
宇都宮頼綱(よりつな)などは、鎌倉幕府の有力御家人であった。
こうした関東での親鸞の活動を伝える品々は、水戸市の茨城県立
歴史館の特別展「親鸞」(3月22日まで)で見ることができる。
唯物史観の「負の遺産」は、学問の世界に存在しただけではない。
公教育から宗教情操を否定してきたことも見逃せない。この結果、
知識としての宗教は教えられても、自分の家の宗教や先祖の生き方
も知らない子供たちが次々と生み出されてきた。
宗教の優れた点といえば、人間の限界を知ることで、人智(じんち)
超えた大きな力によって生かされていると感じられることだろうか。
また、神仏にはすべてが見通しであるとわかれば、他人からの評判を
気にしない、高い倫理観に立った生き方を貫くこともできる。
750年遠忌をきっかけに、親鸞は再び現代によみがえろうと
している。作家、五木寛之さんの小説『親鸞』がベストセラーに
なっていることなどは、そうした現象のひとつである。五木さんの
著書にも、新しい歴史研究の成果は取り入れられている。
偏った歴史観の呪縛(じゅばく)から解き放たれた親鸞の生涯に
学ぶことは、人間の生や死、結婚や家族などの問題についても、
さまざまに教えられるのではないだろうか。(わたなべ ひろあき)
産経記事から
本来この世に生まれたならば
どうにもならないことがある、
それが、この世界の宿命、諸行は無常だ
でも、苦しみは、それを考え方によって乗り切っていける、
生きる意欲が湧く。それが宗教でもある。
ますます苦しみが増すというならおかしなものだと思う、
果実を見ればいい。
その木になった果実は”誇らしく”
生きているか・・・?
。