http://www.sankei.com/life/news/161013/lif1610130055-n1.html
2016.10.13 22:37
デビューから50年以上にわたりポピュラー音楽界をけん引してきたボブ・ディラン氏。聴衆に迎合せず、
自らが歌いたいことを歌にするというスタイルは今も変わることがない。
ギターとハーモニカで自由に歌うスタイルは世界中の若者に支持され、日本でも
岡林信康さんや吉田拓郎さんらフォークシンガーに大きな影響を与えた。
しかし1965年にディラン氏はロックミュージックへと大きく転換。
それまでのフォークファンは戸惑うが、結果としてより幅広いファンを獲得することになる。
その後も、カントリーなど米国ルーツ音楽の掘り起こしやキリスト教への傾倒など、
何度も変貌を遂げながら、世評など意に介すことなく独自の道を走り続けた。
詞は難解といわれることが多いが、豊潤な言葉が紡ぎ出す世界は、人々にさまざまな解釈を許し、想像をかき立てる。
75歳となった今も世界ツアーを行い、現代の「吟遊詩人」であり続けている。
2016.10.14 http://www.sankei.com/life/news/161014/lif1610140006-n1.html
【ボブ・ディランにノーベル賞】歌手になぜ?「プロテスト」ソング次々と「吟遊詩人」の文学性評価
なぜ歌手にノーベル文学賞が? ボブ・ディラン氏(75)は、現代のポピュラー音楽に革命をもたらしたシンガー・ソングライターとして知られる。詩的な言葉を、ときに語りかけるように、ときにぶつけるように歌い、詩と音楽の世界を融合させてきた現代の「吟遊詩人」。その卓越した文学性とは…。
ディラン氏は若い頃、大恐慌時代の貧困労働者らの感情を歌ったフォークシンガーのウディ・ガスリー(1912~67年)に傾倒し、20歳でレコードデビュー。公民権運動やベトナム戦争で揺れる60年代の米国で、社会的メッセージ性の強い「プロテストソング」を次々と発表し、若者を中心に絶大な支持を集める。当時の大衆音楽では、恋愛の喜びを歌うなどしたシンプルな歌詞がほとんどだった。そんな中、「風に吹かれて」「ライク・ア・ローリング・ストーン」「見張塔からずっと」といった楽曲の歌詞は、抽象的ながら人間の生の意味を聴衆に問いかけ、単なる「流行歌」の枠を超えていく。
ディラン氏の歌詞を翻訳した詩集を刊行しているフォークシンガー、中川五郎さんは「ディランはその時代の出来事や目の前で起きていることを歌いながら、100年後も歌い継がれる普遍性も持っている。そんな深さ、大きさを『文学的』と呼ぶなら、まさしく彼の言葉はノーベル文学賞にふさわしい」と話す。ディラン氏は、音楽にフォーク、ロック、ブルース、カントリーなどの要素を取り入れながら、詩の世界にも強い関心を示してきた。「ディラン」を名乗ったのは、英ウェールズ出身の詩人、ディラン・トーマスに傾倒したからだともいわれ、好きな詩人として英国のT・S・エリオットの名前を挙げている。また、アレン・ギンズバーグら米国の詩人たちと交友し、詩の伝統を吸収。社会性の強い歌詞だけでなく、暗喩(あんゆ)を散りばめ、楽曲を豊かな解釈が可能なものに発展させていった。
コラムニストの上原隆さんは「ディランの詩は非常に難解。メロディーに乗せて独特の歌い方をすることで、初めて魂に伝わるところがある。受賞は詩だけではなく、メロディーと歌い方も併せて評価されたのだと思う」と指摘する。
ディラン氏は「フォークの神様」として日本のフォーク歌手らにも大きな影響を与える一方、半世紀以上にわたり、作品を断続的に発表。ポピュラー音楽のカリスマとして存在感を示し続けている。08年には「卓越した詩の力による作詞がポピュラー・ミュージックと米国文化に大きな影響を与えた」として、ピュリツァー賞特別表彰を受賞し、ここ数年はノーベル文学賞の有力候補に名が上がるようになっていた。
イラストレーターで作家のみうらじゅんさんはこう話した。「難解と言われた歌詞も、この受賞によって全ての謎が解けることでしょう」
Blowing In The Wind (Live On TV, March 1963)
風に吹かれて by 吉田拓郎
影響を与えられたという吉田拓郎は、当時、反戦歌ばかりだった日本のフォークソング界に、
身近な恋愛を持ち込んで来て、方向性を変えた。ある意味革命的だったと思う。
フォークソングってそうですよね・・やはり心に伝わってくるのは、音楽に乗せた言葉・・・・
いくつになっても、感動した言葉は、曲を聴くと甦る。そこには、たくさんの人生のドラマがあったりする。
それは、キット作る人にも、聴く人にも。
おまけ
「永遠の嘘をついてくれ」 吉田拓郎70歳 中島みゆき64歳 つま恋2006年9月23日土曜日秋分の日
この曲は、中島みゆきが吉田拓郎に対して贈った「強烈なメッセージ」であり、激烈な「ラブレター」だとも言われています。
初期の吉田拓郎の歌は「メッセージソング」と言われるものが多く
そのメッセージで多くの若者に影響を与え意識を変えました。
それらのメッセージに強烈に影響された一人の帯広の高校生(当時)が、中島みゆきなのです。
その後の吉田拓郎はマスコミなどで発信したメッセージの意味を尋ねられたら、「ああ、あれは全部ウソだよ!」などと平然と言ったりしています。
正確に理解するには、【みゆきさんと拓郎の関係】【曲が誕生したエピソード】【拓郎世代のジレンマ】
を理解するとよいと思います。
【中島みゆきと吉田拓郎の関係】
中島みゆきにとって70年代の吉田拓郎は「カリスマ」であり
学生時代はミニスカートをはいて拓郎の楽屋に押しかけていた・・との話も。
吉田拓郎を追いかけてデビューしたと言うのは有名な話で
中島みゆきはデビュー当時には「女拓郎」と呼ばれていた。
【誕生エピソード】
時代の先頭を突っ走ってきた(?)拓郎も50才手前くらいで
全く曲が書けなくなり、一説によると引退を考えていたと言われています。
そこで自分の最後の曲として中島みゆきに曲の提供を依頼した、と言われています。
当然、中島みゆきからは散々と説教をされて
「最後の曲じゃないのなら書きます」との了承を受けて
提供されたのがこの「永遠の嘘をついてくれ」なのです。
中島みゆきの凄まじい表現力を全力で注いだ曲だと思います。
字余りの歌詞、言葉使いとシャッフルの曲調は「これでもか!」
と言わんばかりに70年代初頭の吉田拓郎の曲作りの手法を取っていますね。
【歌詞に出て来る地名の象徴について】
「拓郎世代の時代背景」を鑑みてみると
「NYC」「成田」「上海」と3つの地名を出す事で全ての地名に象徴を持たせています。
【ニューヨーク】
資本主義の中心地であり、激しい国内闘争の末に70年安保を締結した
「日本が選択してしまった」アメリカ的商業主義の象徴です。
また、中島みゆきがデビューした時には既に
吉田拓郎は商業的に大成功していたので
「ニューヨーク=すでに商業的に大成功した拓郎≒拓郎のいる東京」
の象徴ではないかとも思います。
【成田】
拓郎世代の【革命家】と言われた人たちが
最後に国内で大きな行動を起こした場所ですね(成田闘争)。
地名を続けて出す事で、現在ではニューヨークに行くには成田から飛行機で行く。。
という時代的な皮肉も含んでいます。
【上海】
共産革命を成し遂げた中国最大の都市で、革命の象徴ですね。
共産革命を夢見た若者たちの一部(過激派)は最終的に日本に居られなくなり
それでも革命を夢見て中国に渡ったと言われています。
2番の歌詞は「理想を追い続けたかつての若者」が異国の大都会の片隅で
死期を悟っているにもかかわらず代筆で精一杯のやせ我慢をしている・・」
情景だと思います。
NYと上海とは拓郎世代の中で「アメリカに乗って成功した者」と
「夢破れて異国で散って逝った者」の両極性を象徴しているものと思います。
「理想を追うグループ」に押し上げられてデビューし
その後成功した拓郎にとっては辛辣な比喩であろうと思われます。
【NYは粉雪の中らしい・・・決して行けない場所でもないだろうNYくらい・・】
ニューヨークに行くには友人から金を借りまくれば簡単に行ける・・
逆に言えば「借金しなければ行けない」と言っていますので
中島みゆきが「借金しなければ行けなかった」70年代を示し
歌詞の最初の一節で「歌の時代背景」と「時代の変遷」を表現していると思います。
永遠の嘘をついてくれ 吉田拓郎70歳 中島みゆき64歳 つま恋2006年9月23日土曜日秋分の日
【歌詞全体のメッセージとしては】
「メッセージはウソ」という拓郎の発言を受けて
【ウソなら嘘で構わない、それならば永遠にウソをつき続けてくれ
永遠に吉田拓郎は吉田拓郎であってくれ、決して弱音を吐かないで欲しい】
という、中島みゆきのメッセージだと思います。
糸 中島みゆきhttps://www.youtube.com/watch?v=a2tm0...
ホントなら、うらやましいな。。才能のある人たちが、こうした曲を使って思いを伝えるって。。
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日本の小中学校で歌っているの
風が何とかってさ