安田一悟の異次元歴史ミステリーさんより
富岡八幡宮殺人事件で「日本三大怨霊伝説」を思い出した
富岡八幡宮殺人事件で、自害した元宮司の茂永容疑者が「私の要求が実行されなかった時には、この世に残り怨霊となり、要求に異議を唱えた責任役員とその子孫に永遠に祟り続けます」という恐ろしい内容の手紙を氏子たちに郵送していたという。
「怨霊」とは、権力争いなどで、不遇の死を遂げた人の「霊魂」が、この世に災いをもたらすものである。
現代人は「『霊魂』などない」と思っている人が多いが、これは「科学的ではないものは受け入れられない」とする現代教育の産物であろう。しかし「霊魂」は、いつの世でも確実に存在するのである。
例えば夏の風物詩である幽霊話や心霊写真などが、そうであろう。「もし『霊魂』が存在しないとしたら、どうやって幽霊話や心霊写真を説明するのであろうか?全て作り話として片ずけてしまうのであろうか?」
現代人は、昔の時代に生きていた人とくらべて、スピリチュアル(霊的)な能力が、後退してきたというべきであろう。
ところで「『日本三大怨霊』というのがあることを読者は、ご存知だろうか?」
それは「崇徳上皇」、「平将門」、「菅原道真」の「三人の怨霊」である。この中で「平将門」や「菅原道真」のことを知っていても「崇徳上皇」(すとく)のことは、あまり知らないであろう。
じつは日本の最大の怨霊と言われているのが、この「崇徳上皇の怨霊」である。保元の乱に敗れて讃岐に流された上皇で、死ぬ前から「我、日本国の大魔王となり、天皇家を呪う」と宣言した怖いご仁である。
これには、さかのぼること白河法皇と鳥羽天皇との親子の骨肉の争いが背景にある。白河法皇は「院政」を築いて43年間も実権を握り続け、奔放な女性関係を結んで、崇徳上皇の父親は、鳥羽天皇とされているが、「本当の父親は、白河法皇ではないか?」とうわさされていたのである。
というのも鳥羽天皇は、21歳の時に、白河法皇によって第一皇子である崇徳天皇に譲位させられたからである。
この白河法皇が薨去された後に、鳥羽法皇による復讐が始まるのである。それまで白河法皇側にいた朝臣を左遷し、逆側にいた朝臣を復権させ、また鳥羽法皇が寵愛していた美福門院の子である体仁(としひと)親王を崇徳天皇の養子にするように勧めたのである。 そして崇徳天皇は、父である鳥羽上皇に言われるままに帝位を譲位して、体仁親王を近衛天皇としたのであるが、これが政治的陰謀だったのである。なぜならば近衛天皇即位の宣命に「皇太弟に譲位する」と記されていたからである。
近衛天皇が17歳の若さで亡くなった時に、本来ならば崇徳上皇の息子である重仁親王が、天皇になるべきところを、美福門院の養子である守仁親王の即位が決まった。しかしまだ年少であったので中継ぎとして父の雅仁親王が後白河天皇として即位してしまったのである。後白河天皇は、鳥羽天皇の第4皇子なので、自分が皇位を続ぐことなど考えられない立場であったが天皇になったわけである。
このことによって院政を行おうとした崇徳上皇の目論見が完全に失われたのである。崇徳上皇にしてみれば二度までも天皇の後継者を巡って騙されて煮え湯を飲まされたわけである。
1156年7月5日に鳥羽法皇が崩御した後に事態は急変する。「上皇・左府(頼長)同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という風聞が流れた。平清盛や源義朝など武士の動員に成功した後白河天皇側が挑発して、追い詰められた崇徳上皇と頼長が兵をあげる形で「保元の乱」が起きたのである。これに対して後白河天皇の勅命・綸旨が出されたが、これを背後で取り仕切っていたのは藤原信西と推測される。
崇徳上皇側が「保元の乱」に敗れて、讃岐に配流となってしまった。天皇・上皇の配流は400年ぶりの出来事であった。慈円は『愚管抄』で「この乱が『武者の世』の始まりであり、歴史の転換点だった」と論じている。
しかしその後、「保元の乱」から、わずか2年後の1159年12月に「平治の乱」が起こり、今度は藤原信西が自殺に追い込まれるのである。また1176年(安元2年)には建春門院・高松院・六条院・九条院など後白河法皇に近い人々が相次いで亡くなり、さらに翌年には京の町の3分の1を焼く「安元の大火」が起こる。続いて「源平の合戦」へと戦乱の世の中に変っていった。これらの相次ぐ不幸や戦乱は、「崇徳上皇の怨霊による祟りに違いない」といううわさが京の都に広まったのである。
しかしこれだけでは終わらなかった。崇徳上皇自身が「我、日本国の大魔王となり」と、宣言した通り、その後の日本の歴史上に大きな災いを起こっているのである。
崇徳上皇が亡くなったのは、1164年であるが、その104年後の、1364年には「元寇」のキッカケとなる事件が起き、また200年後には「南北朝の争乱」が起き、さらに303年後には「応仁の乱」が起きて京の都は焼け野原となって「戦国の世」が到来したのである。とても偶然とは思えない戦乱の大事件である。
これらの日本の歴史における崇徳上皇の怨霊による祟りを断つために、明治天皇が、讃岐に勅使を遣わして、700年ぶりに崇徳上皇の御霊を、京都に帰還させる祀り事をしたのである。そして白峯神宮を創建して崇徳上皇を奉り、国家の守り神とし、これでようやく崇徳上皇の御霊を鎮めることができたのである。
この「怨霊鎮め」の起源は、大和朝廷が、他の豪族を征服していく過程において、敵や反乱者として倒れた者の霊を弔い「鎮魂」し、その霊力を封じ込めることによって、この世に災いが起きることを防ごうとしたのが始まりと言われている。これが「御霊会」(ごりょうえ)と言われるもので、日本史の中には怨霊を鎮めるための儀式が盛んに執り行われるようになったのである。これは日本文化の特徴的なものである。
京都三大祭の一つ「祇園祭」は、明治までは「祇園御霊会」と呼ばれる霊を鎮める祭であった。その始まりは平安時代に、たびたび疫病が広がって、当時の人々は、それが戦乱に倒れた怨霊による祟りだと思われていたので、この厄病神を鎮めて退散させるために山鉾を出して市中を練り歩いたのが、その始まりである。
日本は、古来より仏教や神道などの宗教を大切にしてきた国である。それが戦後の約70年間の無宗教教育によって、現在のような「無神論」や「唯物主義」のはびこる国となってしまった。
すなわちスピリッテュアル(霊的)な歴史を忘れてしまった結果、多くの不可解な人生の問題や社会問題が頻繁に起こるようになったのである。
これは人間が、神仏やあの世の存在や生き通しの魂であることを忘れて、宗教を信じることをバカにし始めると、ロクなことが起きないことを示しているのである。
だから科学技術の時代だからと言って、あまり宗教をバカにしないほうがよい。間違った宗教もあるけれども、正しい宗教というのも厳然としてあるからである。その正しい宗教を選択すれば人間と社会の幸福につながっていくのである。
現代人は宗教をすべて否定するのではなく、正しい宗教を選択することによって人生の問題や社会の問題を解決することができるのである。 「怨霊伝説」が反面教師として、そのことを教えてくれているのかもしれないのである。完
富岡八幡宮斬殺事件の謎・異次元考証 2017/12/12
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