【論文紹介】「皇室と沖縄文化」
沖繩対策本部長サン、ブログ転載
<天皇陛下御病気平癒祈願(平成24年2月18日 沖縄県普天満宮)>
戦後の多くの問題を抱える沖繩の事を最も心配されているのも
天皇陛下である事は間違いないとおもいます。
沖繩の歴史や文化を最もご存知なのも天皇陛下である事
は疑いのない事実だと思います。
その沖繩県では、18日の天皇陛下の手術開始にあたって
県民有志が集い、普天満神宮で御病気平癒祈願をとり行いました。
その様子の動画をいただきましたので、紹介します。
こちらの記事の転載
http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/e/1db1b12e967de249062bd0cc04f17da0
【論文紹介】「皇室と沖縄文化」(「祖国と青年」平成04年04月号)
■皇室と沖繩文化
月刊誌「祖国と青年」のホームページに「皇室と沖繩文化」
というバックナンバーの論文をアップして下さりました。
沖繩祖国復帰40周年の年に天皇皇后両陛下の
行幸啓を賜ることになっています。
沖縄県民一同、天皇陛下の沖繩への思い、
大御心を深く理解した上でお迎え申し上げたいと思います。
ご参考になると思いますので、論文を転載させて頂きます。
(仲村覚)
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月刊誌「祖国と青年」 論文
平成04年04月号 皇室と沖縄文化
http://www.seikyou.org/0404_01.html
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■「海上の道-沖縄の歴史と文化」展をご覧に
天皇皇后両陛下は二月十日午後、東京国立博物館で
開催された沖縄復帰二十周年記念特別展
「海上の道-沖縄の歴史と文化」(同博物館、読売新聞社主催)
をご覧になった。
会場には、南方の島々との交流をうかがわせる先史時代の
貝製品や王朝時代の文化財など二百点以上が展示され、
沖縄にご関心の深い陛下と皇后さまは、この日も
説明役の専門家にご質問を進発され約一時間にわたって
熱心にご覧になった。
■沖縄の文化に対する無知へのご憂念
特別展の会場に足を踏み入れるとまず、沖縄の地図がある。
九州本土よりも台湾との距離の方が短い。展示を見進めると、
「貝塚時代」「グスク時代」など沖縄独特の歴史区分。
古琉球の時代の展示に進むと琉球王朝の系図が掲げら
れている。沖縄の経てきた歴史、その文化の特殊性を
まざまざと見る思いがする。
陛下は昭和五十年十二月十六日の記者会見で次のように
述べられている。この年は沖縄で海洋博が開かれた年であった。
「気になるのは、沖縄には他の地域と違った歴史、
文化があるのに、学校教育の中にほとんどそれが
入っていないことです。
将来学校教育の中に入れるべきだと思います。
沖縄の歴史は心の痛む歴史であり、日本人全体がそれを
直視していくことが大事です。避けてはいけない。
(しかし現実は)琉球処分の時代から戦後の復帰まで、
私達はあまり学んできたとはいえない。
海洋博が沖縄を学ぶことの導火線になればと思います。
これからも機会があれば何回も行きたい。」
「沖縄が教科書にどの程度出ているのか、この春
調べてもらったが、非常に少ない。
『おもろさうし』など文学として取り入れたら、と
文相に話したこともあります。沖縄の百万の人と他の
地域の人と共通の基盤があれば、話し合いの基になる。
その基礎がないと理解ができてこない。」
「おもろさうし」とは、一五五四首の琉球歌謡を集め、
沖縄の万葉集ともいわれる一大歌集である。
この度の特別展には琉球王家に伝来の現存最古の写本で
ある尚家本「おもろさうし」が展示されていた。
■沖縄の言葉への深いご造詣
「市の名前は、確かヒララと思いますが、
校名はタイラですか、ヒララですか。」
昭和三十八年から続いてきた沖縄の子供達との御接見の場で、
皇后陛下が先島(沖縄の離島)の子供達に最初におかけに
なったお言葉である。平良市の名前を正式に「ヒララ」
と読める人は沖縄の人でも地元出身者以外はあまりいない。
沖縄に対する尋常ならぬご造詣の深さが拝される。
天皇陛下が大切にされている一冊の大学ノート。
それには歴代の琉球王の詠んだ琉歌がびっしりと並んでいる。
三千首にのぼる全集の中から、ご自分で一つひとつより
抜いて書き移された。このノートの言葉遣いを参考に
して琉歌をお作りになるという。
陛下が初めて琉歌をお詠みになったのは、昭和五十年夏、
沖縄国際海洋博開会式ご出席のため沖縄の地を初めて
踏まれた直後である。沖縄の古典を教わっていた沖縄文学者
の一人を御所にお呼びになって、
「これで琉歌になっていますか」と尋ねられた。
花よおしやげゆん人知らぬ魂戦ないらぬ世よ肝に願て
(花を捧げましょう人知れず亡くなっていった多くの
人々の魂に対して戦争のない世を心から願って)
魂魄之塔-弔われぬ死骸がまだ島のあちこちに見られた
敗戦直後、生き残りの有志の人々は散乱している遺骨を集め、
敵味方隔てなく納骨し、鎮魂の塔としてまつった。
その塔に、献花された時の思いを詠まれたものだ。
言葉遣いが少し硬いのでは、と学者がアドバイスを
差し上げたところ、数日後、再びその学者をお呼びよせに
なって言われたという。「あの場に立った時の気持ちは、
これでしか、言い表せないんです」。痛切な御心である。
その地に古くから伝わる言葉を学ばれ、その地の悲劇の
歴史に思い寄せられて、鎮魂の歌を詠まれるーこれ以上に
深いその地への敬意の心はありえない。文化への理解、
とロで言うのはやさしいが、このような痛切な陛下のお心が、
多様な日本文化が守り継がれていく根本の力となって
いるのではないか、と思われるのである。
転載以上
http://blog.goo.ne.jp/jiritsukokka/e/0b3a83cd904ae8a47fbe955da361c509
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