【民主代表選】沈黙の小沢氏
「次の一手」に爪研ぐ?!深まる軋轢
9月14日の民主党代表選に出馬表明した小沢一郎前幹事長は28、29の両日、一般有権者の前に姿を現すことなく蟄居(ちっきょ)を決め込んだ。枝野幸男幹事長らが、小沢氏の党代表、幹事長時代のカネの動きの洗い出しを進めていることに相当神経をとがらせているようだ。菅直人首相が地方で車座集会などパフォーマンスを繰り返すのを横目に、小沢氏は爪を研ぎ続ける。(坂井広志)
小沢氏は28日は東京都世田谷区の私邸から一歩も出なかったが、29日夕からは国会近くの個人事務所に籠もった。この直前に東京駅近くの定宿「八重洲富士屋ホテル」に姿を現したとの情報もあるが、誰と会ったかは定かではない。
小沢氏は29日夜の鳩山由紀夫前首相と菅首相の会談の行方を注視していたようだ。午後8時40分に会談が終了したのを見極めると、午後9時すぎに事務所を後にし、秘書とともに自宅近くのスーパーでレタスなどを購入し、帰宅した。
小沢氏の出馬表明に世論の風当たりは強いが、出馬に踏み切った理由は3つあるとされる。
1つは、小沢氏の「政治とカネ」問題で東京第5検察審査会の2回目の議決が近いことだ。もし検察審査会が起訴議決しても「国務大臣は在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない」(憲法75条)に基づき起訴を免れることができるからだ。
2つ目は、このままでは自らの求心力が危ういとの危機感がある。首相は「カネ・ポスト・人事権」を持つ党執行部の要職から小沢氏の影響力を排除しており、このままでは約150人を要する小沢グループを束ねることは難しく、「日干しにされかねない」との思いがあるのだ。3つ目に仙谷由人官房長官、枝野幸男幹事長、小宮山洋子財務委員長らが、小沢氏が代表・幹事長当時の党費の使途の洗い出しを進めていることがある。
小沢氏は14日夜、京都市内の料亭で高嶋良充前参院幹事長と会食した際、党の元財務担当者を同席させた。仙谷氏らの動きに神経をとがらせている証左といえ、その強硬姿勢が逆に小沢氏に出馬を決断させたと言えなくもない。
菅陣営が「小沢氏と党のカネをめぐる問題が近く週刊誌に出る」との情報を流布したことも小沢陣営を刺激した。ある小沢氏側近は「小宮山氏は小沢氏を泥棒呼ばわりしているそうだな。何かあるなら訴訟すればいい。できないなら小宮山氏は党を出ていけ」とすごんでみせた。
仙谷氏は29日も小沢氏が代表選出馬を見送り、無投票となる可能性を「十二分にある」と強弁したが、両陣営の軋轢(あつれき)は修復不能なほど広がりつつある。このままでは、首相が代表に再選されても党分裂を招きかねない。逆に小沢氏が代表になっても菅陣営とのしこりは消えないだろう。党内には両陣営の激突回避をなお模索する動きがあるが、その道はあまりに険しい。
以上
いろいろ言われているのに、小沢一郎への注目度って、かなり大のようです。
配信元:
2010/04/09 08:59更新
3月17日、アメリカのサンフランシスコ港で「咸臨丸」の太平洋横断記念式典が開かれた。この日から丁度(ちょうど)150年前、咸臨丸が同港に到着、日本人乗組員は市民から大歓迎を受ける。その中に勝麟太郎(りんたろう)(海舟)、福澤諭吉、ジョン万次郎らがいて、帰国後近代日本建設に大きな役割を果たしたこと、航海中大嵐に遭遇し、同乗したブルック大尉以下アメリカ海軍軍人の助けを借りて乗り切ったことは、多くの人が知る通りである。
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咸臨丸の渡海は様々なことを考えさせる。第1にこの航海は開国から僅(わず)か6年後に行われた。230年近く続いた鎖国が解けたばかりで攘夷(じょうい)派の勢力がまだ極めて強い。現に航海中、桜田門外の変が起こり、日米修好通商条約締結に踏み切った大老井伊掃部頭が暗殺されている。単に外圧のもと受動的に国を開くのではなく、積極的に外へ打って出た幕府指導部と遣米使節一行は勇気があった。
第2に、咸臨丸は舳先(へさき)を東へ向けた。ペリーとハリスの積極的な対日外交により最初の条約2つの相手国がアメリカだったという事情があるにせよ、オランダで建造された咸臨丸がアメリカへ針路を取ったのは、将来の日米関係の重要性を示唆する。幕府遣欧使節の出立は2年後である。
しかも当初、アフリカの喜望峰回りでアメリカ東海岸を目指す、あるいは太平洋をパナマへ直行するという案があったのに、ブルック大尉などの勧めで使節はサンフランシスコを目指した。修好通商条約の批准書交換という本来の目的からして同市寄港は必須でなかったし、咸臨丸を随伴艦として送り出す必要もなかった。
にもかかわらず、北米大陸を西へ進み太平洋岸から極東まで延びてきたアメリカと、自らの意思で太平洋を渡った日本が、カリフォルニアで改めて相対した。オバマ大統領がアメリカを「太平洋国家」とし、自らを史上初の「パシフィック・プレジデント」と宣する今日、150年前の咸臨丸渡海とその目的地選択は興味深い。
≪海軍最初の「共同演習」実施≫
第3に、正使を乗せたポーハタンも咸臨丸も海軍の軍艦であった。使節派遣には日米双方の経済通商上の利益だけでなく、戦略的軍事的意味があった。特に咸臨丸の航海は日本海軍最初の遠洋練習航海兼実任務である。西洋列強の力が圧倒的な国際情勢のもと、日本人が自らの軍艦で外洋に乗り出した。自国海軍艦艇で国を守る技量を得んとの気概を示している。
その上、咸臨丸の渡洋はブルック大尉らの同乗によって日米海軍初の共同演習・作戦実施となった。米海軍軍人の同乗を快く思わなかった勝麟太郎ら日本人士官たちも、嵐のなかで海の脅威と共に戦い航海術の教えを受けて考えを変える。日米海軍軍人の経験の共有が両者間の信頼を生んだ。
ブルック大尉は米国到着後、咸臨丸の総司令官木村摂津守が謝礼として差し出した小判を一枚も受け取らず、「日本の人々をこうして米国人に紹介できただけで満足である」旨を述べた。その後、南北戦争が勃発(ぼっぱつ)するや南部人として南部連合海軍に身を投じ、敗戦後ヴァージニアの士官学校で教鞭(きょうべん)をとる。つまり合衆国海軍に敗れることの無念さを、日本海軍軍人より80年前に経験したのだ。
≪一内閣の失策で壊せない絆≫
それから150年、日米間には多くの事件が生起した。友好と緊張の時期が交錯し、戦争、占領を経験した。戦後の関係も単純ではない。そして新安保50年の今、日米関係は又ぎくしゃくしている。
解決の目途がつきかけた普天間移設問題を、民主党政権がわざわざ混乱させ右往左往するありさまは、早晩来るとわかっていたペリー艦隊来航にうろたえる幕府役人よりもさらにお粗末である。米海兵隊に、沖縄から出て行け、日本本土にも来るなとひたすら叫ぶ反対派の様子は、幕末の攘夷派が勢いを盛り返したようだ。
ちなみに沖縄に駐留する海兵隊の将兵は、自分たちが「負担」と言われ続けることに相当傷ついていると聞いた。それはそうだろう。ハイチ地震で出動した米海兵隊に島民が感謝して引き揚げないでくれと懇請しているのに、地球の反対側では邪魔者扱いである。
しかし、たかが一内閣の失策でこれまでに築いた日米の固い絆(きずな)を弱めてはならない。咸臨丸の渡海を振り返れば、当時の指導者が直面した対米外交問題は現在よりはるかに困難であった。彼らは暗殺を覚悟して開国を決め、波高き海を渡った。
飛行機で太平洋を渡るのが容易になった今日、我々はアメリカの存在を当たり前に思いがちである。しかし無神経な外交を続けていれば、知らぬ間に日米間の距離が広がる恐れがある。西へばかり目を向けず、もう一度針路を東の海に取り、海洋国家、太平洋国家として生きていく決断をしよう。咸臨丸渡海の勇気に学ぼう。
最近ホノルルとサンフランシスコで咸臨丸150年に関する講演をし、アメリカの友人たちと話して、そう思った。(慶応大学教授・阿川尚之)