理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

マスコミで報道されないような
情報と日記です(^▽^)/
世界と日本の危機を伝える・・

ご法話「成功への忍耐」を拝聴して参りました。

2012年05月02日 00時00分00秒 | リバティ 学園 幸福実現党 関連  

ご法話「成功への忍耐」を拝聴して参りました。


        

木下まこと氏ブログ転載

結果的に徒然なブログになってしまい・・

2012年04月30日(月)
 
今日は大川隆法党名誉総裁のご法話「成功への忍耐」を
拝聴して参りました。

親類とそのお友達とご一緒することができましたので、
支部ではなく近くの布教所へ。アットホームな感じで、とても
雰囲気がよかったです。

今から、20年以上くらい前のことだった思います。

当時は長崎にいましたが、まだ近くに支部がないころは、
ご近所の方々でそれぞれの家々に集って勉強したり楽しく活動を
したりしていましたね。そうした光景を覚えています。

今では支部も全国、全世界各地にあって研修等も充実していますし、
集う人数も格段に違います。ただ、物理的要因もあり、信者さん同士の
濃いお付き合いというか、そういう仲間づきあいが相対的に薄れた
ような感もあります(個人的見解ですが)。

特に地方では、移動距離もありますしお年を召された方も比率として
高くなりますので、移動だけでも週に何度もとなると少し負担も
大きいようにも感じます。

支部と布教所、あるいは各家庭でもいいと思いますが、上手に
バランスをとれると、よりよい活動につなげていけるのではないか
と思いました。

本日の布教所訪問から、温故知新の可能性を感じた次第です。

さて、ご法話ですが、成功に向けては忍耐が必要であるとのお話を
頂きました。

以下、個人的所感として振り返りますと、忍耐も肯定的に捉えると
大変面白いと感じました。

忍耐というからには、イメージとして、快適さや爽快感、
あるいは幸福感とは距離があるようにも思っていましたが、
別の見方をすればそうではないのですね。

この忍耐は、何かに耐えているわけですが、成功への忍耐ですから、
成功に向けて耐えているということですね。つまりその忍耐は、
目標に前進していることを意味しています。このように、成功に
向けたプロセスにおいても幸せを認識できる力が、胆力といわれる
ものに通じているのかもしれません。

そして、成功の果実を入れるまでの労苦の渦中において
幸せを感じる力は、まわりに感謝できる機会をも増やしてくれることだ
と思います。自らの人格形成においても、新たな発見となりました。

さらに、幸福の科学はその成功に向けた考え方や法則も数多くの
書籍で発刊されていますので、ある意味で従前の「宗教」のカテゴリー
に収まりきらない魅力があります。

私は政治家志望ですので国家の成功を第一に考えますが、
それは国民の成功であり、国民の幸福実現ということになります。

その方向性や時事的問題の動向においても、党名誉総裁より
政策理念等が発信され、事実その方向で世の中が変わってきています。

立党当時、誰も口にしなかった国防政策を前面に押し出し、また、
当時は消費増税ありきの世論に対して真っ向から異を唱え、減税政策を
訴えてまいりました。

今では、国会でも普通に議論されている内容ですし、世論も私たちが
訴えてきた方向性に少しずつではありますが重なってきています。

そうしたことを検証していくと、そこだけとれば俗人的かもしれませんが、
ますます信じたくなっちゃうのです。笑

信仰を選択することは、心の「師匠」を選択するわけでありまして、
その心の位置関係は一対一でありますが、集団としてみると、
「リーダー」を選択するわけでもあるのです。

そして、私の信じる「リーダー」は世界中の人々に真理を伝え、
幸福にすると宣言している。だけでなく、それを着実に実行しています。

それでその仲間も、幸せそうな人が多い。皆がみんなではないけれども、
いわゆる悩める人が集う辛気臭い宗教のイメージとは、違うんです。

たぶん、幸福人間と不幸人間の比率が完全に逆転してるんではないかと。。。

たとえれば、病院と思って入ったらすこぶる元気な人が
圧倒的に多い「病院」、でしょうか。笑

それで、特に学生時代とかはよく「なんで宗教信じてるの」と
聞かれたりもしましたが、「宗教」を信じてるというか、大川隆法総裁を
信じているのですが、逆に無宗教な人は、よほど無敵レベルの
自己認識をもっているか、あるいは自分の認識を超えた世界については
目を閉じている方なのかもしれませんね。今、そう思います。

心の師匠がいないということは、「リーダー」選択の観点でいえば、
まぁ、時代の武士であれば、仕えたい大殿がいないわけで、
そういう場合は自らがお館様になるか、浪人でふらふらしている
状態ですので、そちらのほうがある意味不思議といえば不思議といえます。

もちろん、自ら名乗りを上げて殿様になる気概には賛同しますが、
これはいわゆる「自分教」ですが、ちょっと数が多すぎる気がします。笑

また、なんらかの志があったとしても、心服できる大殿に巡りあい、
天下安泰のためにも矛を収め、一隅を照らす城主に収まることは
なんら恥じることではないでしょう。

その心が真実であれば、たとえ戦国の世であったとしても、「漢」を
下げることにはあたらない考えます。

自分としては、成功への忍耐の時を経て、国民の成功、幸福の実現に
むけた活動を完遂していきたいと考えています。

それが、私の願いでもあり、私の「リーダー」の願いでもあり、
同時に国民の望む願いに通じていると考えます。

政治において、誰が総理であろうとなかろうと、本当はあまり
関係ないのです。
共通した思いは、幸せに導いてくれるリーダーを求めているということ
だと思います。逆に言えば、幸せに導いてくれる人が、その時代の
「リーダー」なのです。

そういえば最近、「下山の思想」という、今以上の成功を夢見ずに
諦めて山を上手に降りようぜ、というような内容の面白くない本が
売れたりもしましたが、これは「不幸」に向かうリーダーの思想ですね。

リーダーを選ばないのもリスキーですが、リーダー選択を誤って
ついていくと、これは結構大変な目にあいます。

同じ「下山の思想」というタイトルでも、幸福実現党で本を出せば
まったく別物になるでしょうね。


下山の思想は、愛国であり愛民であり、経世済民の心を
世に説くことである、となるかもしれません。

お坊さんがいてもたってもいられなくなって、
世の中を正すために、山を下りて、説法する。

歴史上、よくある話なのですが、今が再び、その時です。


私も精進を重ねつつ、頑張ってまいります^^

 

 

 

転載、させていただいた記事です
http://ameblo.jp/kinoshita-makoto/

 


最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。