慰安婦は売春婦!証拠はコレだ!
字幕【テキサス親父】
慰安婦は売春婦!証拠はコレだ!と親父ブチギレ
http://www.youtube.com/watch?v=ggQaYD37Jm4&
公開日: 2013/07/22
【動画解説】
以前より慰安婦問題に関して様々な事を調べているテキサス親父が
最近発見したネット上に上がっている1944年に報告された「尋問調書」
に注目した。
しかし、ネット上にある物の中には、捏造された物が多く存在し、
その米軍の報告書とされている物が本物であるかという疑問を持った。
そこで、以前も竹島問題で「マッカーサー電文」が本物であるかどうか
の確認を依頼したワシントンDC郊外にある「国立公文書館」
へ問い合わせた。
約2週間後にそこから一通の手紙がテキサス親父に届いた
。
その中には、そのネット上に上がっていた内容と同じ物の原本のコピー
が同封され、間違いなく米軍が慰安婦の捕虜達に尋問した一部始終が
記載されている書類だった。
この中には、次のようなことが書いてあった。
この書類はこちらからご覧頂けます。
→ http://texas-daddy.com/comfortwomen.htm
・慰安婦達の証言では、志願して雇用され高額の給料を貰っていた。
・町へ出かけて化粧品や洋服など好きな物を買っていた。
・時間の関係で全てのお客(兵士)にサービスができない事を悔やんでいた。
・日本人の兵士達とスポーツをしたり、ピクニックをしたり宴会をしたり
様々なイベントを一緒に仲良くやていた。
・借入金がある慰安婦は、その返済が終われば希望があれば
国へ帰ることも出来た。
・日本の兵士と結婚する者もいた。さらにこの尋問をした米兵の主観として
「慰安婦達は、日本人の基準でも、白人の基準でも綺麗な女達ではないと
書かれている。要するに慰安婦は「不細工」だったと言う事が書かれている。
テキサス親父はこの慰安婦問題はアメリカでもプロパガンダに利用できない
位にきっちりとした規則の上に成り立っており、20万人強制的に「性奴隷」
などにされた事実はないと言っている。
卑怯者が大嫌いなテキサス親父は、これらの朝鮮人の揺動者に乗せられ、
慰安婦の碑や慰安婦像を建てた、または、建てる準備をしているいくつか
の米国の自治体に対しても激しい批判を浴びせている。
米国の最高裁判所では、この慰安婦問題は米国の裁判所が扱う問題では
ないと朝鮮人達の訴えを2006年に退けており、現在は、地域密着のロビー
活動に専念して、何カ所かで嘘を誠に歪曲させることに成功し、そこに
騙されている米国人がいるのも事実。
この手法は、日本での朝鮮学校への学費の援助も同様で、日本が国として
各種学校としか認めていない為、地方自治体を騙し、恐喝して日本国民が
払った税金をむしり取っているのと同様。
吉田清治の捏造本「私の戦争犯罪」から始まったこの慰安婦問題は、強制が
あったにせよ無かったにせよ、1965年に調印した「日韓基本条約」で解決済み。
今こそ、日本はこの朝鮮人達のデタラメな振る舞いに対して毅然とした態度
をとり、事実を突きつけ世界に拡散すべきであることは言うまでもない。
米国国立公文書館よりテキサス親父へ送られて来た封筒と手紙
http://texas-daddy.com/comfortwomen.htm
↓
アメリカ戦時情報局
心理作戦班
アメリカ陸軍インド・ビルマ戦域軍所属
APO689
尋問場所:レド捕虜収容所
尋問期間:1944年8月20日~9月10日
報告年月日 1944年10月1日
報告者 T/3
アレックス・ヨリチ
捕虜 朝鮮:人慰安婦20名
捕獲日:1944年8月10日
収容所到着日:1944年8月15日
はじめに
この報告は、1944年8月10日ごろ、ビルマのミッチナ陥落後の掃討作戦に
おいて捕らえられた20名の朝鮮;人「慰安婦」と2名の日本の民間人に対す
る尋問から得た情報に基づくものである。
この報告は、これら朝鮮;人「慰安婦」を募集するために日本軍が用いた
方法、慰安婦の生活および労働の条件、日本軍兵士に対する慰安婦の関係
と反応、軍 事情勢についての慰安婦の理解程度を示している。
「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり
「追軍売春婦」にほかならない。「慰安婦」という用語は、日本軍特有
のものである。この 報告以外にも、日本軍にとって戦闘の必要のある場所
ではどこにでも「慰安婦」が存在してきたことを示す報告がある。しかし、
この報告は、日本軍によって徴 集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属
している朝鮮;人「慰安婦」だけについて述べるものである。日本は、1942年
にこれらの女性およそ703名を海上 輸送したと伝えられている。
募 集;
1942年5月初旬、日本の斡旋業者たちが、日本軍によって新たに征服され
た東南アジア諸地域における「慰安役務」に就く朝鮮;人女性を募集する
ため、朝鮮に到着した。この「役務」の性格は明示されなかったが、
それは病院にいる負傷兵 を見舞い、包帯を巻いてやり、そして一般的に
言えば、将兵を喜ばせることにかかわる仕事であると考えられていた。
これらの周旋業者が用いる誘いのことば は、多額の金銭と、家族の負債
を返済する好機、それに、楽な仕事と新天地シンガポールにおける新生活
という将来性であった。このような偽りの説明 を信じて、多くの女性が
海外勤務に応募し、2~3百円の前渡金を受け取った。
これらの女性のうちには、「地上で最も古い職業」に以前からかかわって
いた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育であった。
彼女たちが結んだ契約は、家族の借金返済に充てるために前渡された金額
に応じて 6ヵ月から1年にわたり、彼女たちを軍の規則と「慰安所の楼主」
のための役務に束縛した。
これらの女性およそ800人が、このようにして徴集され、1942年8月20日ごろ、
「慰安所の楼主」に連れられてラングーンに上陸した。彼女たちは、
8人ないし22人の集団でやって来た。彼女たちは、ここ からビルマの諸地方
に、通常は日本軍駐屯地の近くにあるかなりの規模の都会に配属された。
結局、これらの集団のうちの四つがミッチナ付近に到達した。
それ らの集団は、キョウエイ、キンスイ、バクシンロウ、モモヤであった。
キョウエイ慰安所は「マルヤマクラブ」と呼ばれていたが、
ミッチナ駐屯部隊長の丸山大 佐が、彼の名前に似た名称であることに異議を
唱えたため、慰安婦たちが到着したさいに改称された。
性 質;
尋問により判明したところでは、平均的な朝鮮;人慰安婦は25歳くらいで、
無教育、幼稚、気まぐれ、そして、わがままである。慰安婦は、日本的基準
から いっても白人的基準からいっても、美人ではない。
とかく自己中心的で、自分のことばかり話したがる。見知らぬ人の前では、
もの静かでとりすました態度を見せるが、「女の手練手管を心得ている」。
自分の 「職業」が嫌いだといっており、仕事のことについても家族のことに
ついても話したがらない。捕虜としてミッチナやレドのアメリカ兵から親切
な扱いを受けた ために、アメリカ兵のほうが日本兵よりも人情深いと
感じている。慰安婦は中国兵とインド兵を怖がっている。
生活および労働の環境;
ミッチナでは慰安婦たちは、通常、個室のある二階建ての大規模家屋
(普通は学校の校舎)に宿泊していた。それぞれの慰安婦は、そこで寝起きし、
業を営ん だ。彼女たちは、日本軍から一定の食料を買っていた。
ビルマでの彼女たちの暮らしぶりは、ほかの場所と比べれば贅沢ともいえる
ほどであった。この点はビル マ生活2年目についてとくにいえることで
あった。食料・物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金
はたっぷりもらっていたので、彼女たちの 暮らし向きはよかった。
彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に
加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うこ とができた。
彼女たちは、ビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく
過ごし、また、ピクニック、演奏会、夕食会に出席した。
彼女たちは蓄音機をもっていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
優先順位料金等;
慰安婦の営業条件は軍によって規制され、慰安所の利用どの高い地域では、
規則は厳格に実施された。利用度の高い地域では、軍は料金、利用優先順位、
および 特定地域で作戦を実施している各部隊のための利用時間割り当て制
を設ける必要があると考えた。尋問によれば普通の料金は次のとおりであった。
1.兵
午前10時~午後5時
1.5 円
20~30分
2.下士官
午後5時~午後9時
3 円
30~40分
3.将校
午後9時~午後12時
5 円
30~40分
以上は中部ビルマにおける平均的料金であった。将校は20円で泊まることも
認められていた。ミッチナでは、丸山大佐は料金を値切って相場の半分近く
まで 引き下げた。
利用日割り当て表;
兵士たちは、慰安所が混んでいるとしばしば不満を訴えた。規定時間外利用
については、軍がきわめて厳しい態度をとっていたので、多くの場合、彼らは
用を足さずに引き揚げなければならなかった。この問題を解決するため、軍は
各部隊のために特定日を設けた。その日の要員として、通常当該部隊員二名が、
隊員の確 認のために慰安所に配置された。秩序を保つため、監視任務の憲兵も
見まわった。第18師団がメイミョーに駐留したさい、各部隊のために
「キョウエイ」慰安 所が使用した利用日割表は、次のとおりである。
日曜日――第18師団司令部。
月曜日――騎兵隊
火曜日――工兵隊
水曜日――休業日、定例健康診断
木曜日――衛生隊
金曜日――山砲兵隊
土曜日――輜重隊
将校は週に夜7回利用することが認められていた。慰安婦たちは、日割表
どおりでも利用度がきわめて高いので、すべての客を相手にすることはできず、
その 結果、多くの兵士の間に険悪な感情を生みだすことになるとの不満
をもらしていた。
兵士たちは慰安所にやって来て、料金を支払い、厚紙でこしらえた
約2インチ四方の利用券を買ったが、それには左側に料金額、右側に慰安所
の名称が書かれて いた。次に、それぞれの兵士の所属と階級が確認され、
そののちに兵士は「列をつくって順番を待った」。慰安婦は接客を断る
権利を認められていた。接客拒否 は、客が泥酔している場合にしばしば
起こることであった。
報酬および生活状態
「慰安所の楼主」は、それぞれの慰安婦 が、契約を結んだ時点でどの程度
の債務額を負っていたかによって差はあるものの、慰安婦の稼ぎの総額の
50ないし60パーセントを受け取っていた。これ は、慰安婦が普通の月で
総額1500円程度の稼ぎを得ていたことを意味する。慰安婦は、「楼主」に
750円を渡していたのである。多くの「楼主」は、食 料、その他の物品の
代金として慰安婦たちに多額の請求をしていたため、彼女たちは生活困難
に陥った。
1943年の後期に、軍は、借金を返済し終わった特定の慰安婦には帰国を
認める胸の指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを
許された。
さらにまた、尋問が明らかにしているところによれば、これらの慰安婦の
健康状態は良好であった。彼女たちは、あらゆるタイプの避妊具を十分に
支給されてお り、
また、兵士たちも、軍から支給された避妊具を自分のほうからもって来る
場合が多かった。慰安婦は衛生に関して、彼女たち自身についても客に
ついても気 配りすように十分な訓練を受けていた。日本軍の正規の軍医が
慰安所を週に一度訪れたが、罹患していると認められた慰安婦はすべて
処置を施され、隔離された のち、最終的には病院に送られた。
軍そのものの中でも、まったく同じ処置が施されたが、興味深いことと
しては、兵士は入院してもその期間の給与をもらえな くなることは
なかったという点が注目される。
日本の軍人に対する反応;
慰安婦と日本軍将兵との関係において、およそ重要 な人物としては、
二人の名前が尋問から浮かび上がっただけである。
それは、ミッチナ駐屯部隊指揮官の丸山大佐と、増援部隊を率いて来た
水上少将であった。 両者の性格は正反対であった。前者は、冷酷かつ利己的
な嫌悪すべき人物で、部下に対してまったく思いやりがなかったが、
後者は、人格のすぐれた心のやさし い人物であり、またりっぱな軍人で
彼のもとで仕事をする人たちに対してこの上ない思いやりをもっていた。
大佐は慰安所の常連であったのに対し、後者が慰 安所にやって来たという
話は聞かなかった。ミッチナの陥落と同時に丸山大佐は脱出してしまった
ものと思われるが、水上将軍のほうは、部下を撤退させること ができな
かったという理由から自決した。
兵士たちの反応;
慰安婦の一人によれば、平均的な日本軍人は、「慰安所」にいる ところを
見られるのをきまり悪がり、彼女が言うには、「慰安所が大入り満員で
、並んで順番を待たなければならない場合には、たいてい恥ずかしがる」
そうで ある。しかし、結婚申し込みの事例はたくさんあり、実際に結婚が
成立した例もいくつかあった。
すべての慰安婦の一致した意見では、彼女たちのと ころへやって来る将校と
兵士のなかで最も始末が悪いのは、酒に酔っていて、しかも、翌日戦前に
向かうことになっている連中であった。しかし、同様に彼女た ちが
口を揃えて言うには、日本の軍人は、たとえどんなに酔っていても、
彼女たちを相手にして軍事にかかわる事柄や秘密について話すことは決して
なかった慰 安婦たちが何か軍事上の事柄についての話を始めても、将校も
下士官や兵士もしゃべろうとしないどころか、「そのような、女にふさわしく
ないことを話題にす るな、といつも叱ったし、そのような事柄については
丸山大佐でさえ、酒に酔っているときでも決して話さなかった」。
しばしば兵士たちは、故郷か らの雑誌、手紙、新聞を受け取るのがどれほど
楽しみであるかを語った。彼らは、缶詰、雑誌、石鹸、ハンカチーフ、
歯ブラシ、小さな人形、口紅、下駄などが いっぱい入った「慰問袋」を
受け取ったという話もした。
口紅や下駄は、どう考えても女性向きのものであり、慰安婦たちには、
故郷の人びとがなぜそのような 品物を送ってくるのか理解できなかった。
彼女たちは、送り主にしてみれば、自分自身つまり「本来の女性」を心に
描くことしかできなかったのであろうと推測した。
軍事情勢に対する反応;
慰安婦たちは、彼女たちが退却し捕虜になる時点まで、さらにはその時点
においても、ミッチナ周辺の軍事情勢については、ほとんど何も知らな
かったようで ある。しかし、注目に値する若干の情報がある。
「ミッチナおよび同地の滑走路に対する最初の攻撃で、約200名の
日本兵が戦死し、同市の防衛要員は200名程度になった。弾薬量はきわめて
少なかっ た。」
「丸山大佐は部下を散開させた。その後数日間、敵は、いたる所で当て
ずっぽうに射撃していた。これという特定の対象を標的にしているようには
思われなかっ たから、むだ撃ちであった。これに反して、日本兵は、一度に
一発、それも間違いなく命中すると判断したときにのみ撃つように命令
されていた。」
ミッチナ周辺に配備されていた兵士たちは、敵が西滑走路に攻撃をかける前に
別の場所に急派され、北部および西部における連合国軍の攻撃を食い止めよう
とし た。主として第114連隊所属の約400名が取り残された。明らかに、
丸山大佐は、ミッチナが攻撃されるとは思っていなかったのである。その後、
第56歩 兵団の水上少将がニ箇連隊〔小隊〕以上の増援部隊を率いて来たものの、
それをもってしても、ミッチナを防衛することはできなかった。
慰安婦たち の一致した言によれば、連合国軍による爆撃は度肝を抜くほど
熾烈であり、そのため、彼女たちは最後の時期の大部分を蛸壺〔避難壕〕
のなかで過ごしたそうで ある。
そのような状況のなかで仕事を続けた慰安婦も1、2名いた。
慰安所が爆撃され、慰安婦数名が負傷して死亡した。
宣 伝;
慰安婦たちは、使用されていた反日宣伝リーフレットのことは、ほとんど
何も知らなかった。慰安婦たちは兵士が手にしていたリーフレットを2、3
見たことは あったが、それは日本語で書かれていたし、兵士は彼女たちを
相手にそれについて決して話そうとはしなかったので、内容を理解できた
慰安婦はほとんどいな かった。一人の慰安婦が丸山大佐についての
リーフレット(それはどうやらミッチナ駐屯部隊へのアピールだったよう
であるが)のことうを覚えていたが、しか し、彼女はそれを信じなかった。
兵士がリーフレットのことを話しあっているのを聞いた慰安婦も何人かいたが、
彼女たちたまたま耳にしたからといって、具体 的な話を聞くことはなかった。
しかし、興味深い点としては、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」との
見解を述べたことが注目される。
要 望;
慰安婦のなかで、ミッチナで使用された拡声器による放送を聞いた者は誰も
いなかったようだが、彼女たちは、兵士が「ラジオ放送」のことを話して
いるのを 確かに聞いた。
彼女たちは、「慰安婦」が捕虜になったことを報じるリーフレットは
使用しないでくれ、と要望した。彼女たちが捕虜になったことを軍が知ったら、
たぶん他の 慰安婦の生命が危険になるからである。しかし、慰安婦たちは、
自分たちが捕虜になったという事実を報じるリーフレットを朝鮮で計画
されていると盂家に活用 するのは名案であろうと、確かに考えたのである。
付録A
以下はこの報告に用いられた情報を得るために尋問を受けた
20人の朝鮮;人「慰安婦」と日本人民間人2人の名前である。
朝鮮;人名は音読みで表記してい る。
名 年齢 住 所
1 「S」 21歳 慶尚南道晋州
2 「K」 28歳 慶尚南道三千浦〔以下略〕
3 「P」 26歳 慶尚南道晋州
4 「C」 21歳 慶尚北道大邱
5 「C」 27歳 慶尚南道晋州
6 「K」 25歳 慶尚北道大邱
7 「K」 19歳 慶尚北道大邱
8 「K」 25歳 慶尚南道釜山
9 「K」 21歳 慶尚南道クンボク
(ママ)
10 「K」 22歳 慶尚南道大邱
11 「K」 26歳 慶尚南道晋州
12 「P」 27歳 慶尚南道晋州
(ママ)
13 「C」 21歳 慶尚南道慶山郡〔以下略〕
14 「K」 21歳 慶尚南道咸陽〔以下略〕
15 「Y」 31歳 平安南道平壌
16 「O」 20歳 平安南道平壌
17 「K」 20歳 京畿道京城
18 「H」 21歳 京畿道京城
19 「O」 20歳 慶尚北道大邱
20 「K」 21歳 全羅南道光州
日本人民間人
1 キタムラトミコ 38歳 京畿道京城
2 キタムラエイブン 41歳 京畿道京城
.
ビデオも無い昭和40年代半ばに、自虐史観の小学校歴史教科書どおりの頭で、兵隊に行った人達を人殺しと言ったら30分経ってもじんじんと痛い拳骨を脳天に食らって。「お前はアカか」と叱られて。
この時点で仕事だ売春だとハッキリと認識していたんでしょうか?
風俗に行ったことのある、学生さんから訊いたことがありますね。
いろいろな事情があり、好き好んでやっている訳ではないと。
ただ、軍が絡んでいたのかいないのかという論争になってますので、そこが論の中心ですかね。
逆に言えば、ここを突破しないと先にいきませんよ、お互いに。
まぁ、政治論争に持ち込んだのは韓国なので、こちらの出方を見ないといけませんね。