理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

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アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

2016年04月30日 00時00分00秒 | 歴史・動画 

http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-405.html  2015.08.08 

アメリカは当初、京都を原爆投下の第一のターゲットにしていた

私は京都に生まれて京都で育ったが、子供の頃に何度となく「京都の文化遺産を守るために、アメリカは
京都の空襲を控えた」という話を聞かされていて、単純にそう信じていた。しかし、ネットでいろいろ調べると、
京都でも昭和20年(1945)に何度かアメリカ軍による無差別爆撃がなされていることがわかる。

ネットでは諸説があり、あるサイトでは空襲回数は合計20回を超え、死者302人、負傷者561人と
書いているのだが、残念ながらそのサイトでは、いつどこで、どの程度の規模の空襲があったかが良く分からない。

京都馬町空襲

ネットで探すと、1月16日の東山区馬町の空襲の写真を容易に見つけることが出来る。
Wikipediaの「京都空襲」によると5回の空襲があり、日付と場所が具体的に記されている。

「第1回 1月16日23時23分頃、東山空襲(東山区馬町)被災家屋140戸以上
第2回 3月19日、春日町空襲(右京区)
第3回 4月16日、太秦空襲(右京区)
第4回 5月11日、京都御所空襲(上京区)
第5回 6月26日早朝、西陣空襲(上京区出水)死傷者100人以上

報道管制が敷かれたため被害の詳細は判明していない。」
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そして極めて重要なことが、そのあとにサラリと記されている。

第5回の空襲以降、京都への空襲は停止された。原爆投下目標だったからとされる。」

この文章を普通に読めば、もうすぐ完成する原爆の威力を確認するためには、原爆を投下する前に
通常爆撃で京都を焼け野原にしてしまうわけにはいかないので、アメリカは意図的に
6月26日以降の空襲を停止したということになる。
米軍の資料によると京都市内の梅小路機関車庫が原爆投下予定地点であったという。

radius4km.jpg

次のURLにその場所と、その地点を中心に半径4kmの同心円が描かれているが、こんな場所に落とされては、
広島以上の犠牲者が出たことは確実で、さらに東寺や西本願寺、東本願寺、三十三間堂をはじめとする多くの
歴史的建造物と文化財を焼失させていたことだろう。
http://www2s.biglobe.ne.jp/~yoss/j_map/umekouji.html

話を京都の空襲規模に戻そう。5回あったとされる京都市の空襲は他の都市と比べて、極端に少なかったと言えるのだろうか。

Wikipediaによると、昭和19年(1944)末頃から米軍機による空襲が熾烈となって、
翌年8月15日の終戦当日まで続けられたという。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

全国(内地)で200以上の都市が被災し、死傷者数は各説あるが100万とするものもあり、被災人口は970万人に及んだ。
被災面積は約1億9,100万坪(約6万4,000ヘクタール)で、内地全戸数の約2割にあたる約223万戸が被災した。
その他、多くの国宝・重要文化財が焼失した」とある。

b-29s_dropping_bombs.jpg

上記URLに『都道府県別被害数』がまとめられているのだが、それを見ると京都府の空襲被害は人口や世帯数の割に
極めて少なく、大阪府や兵庫県と比べると死傷者の数は2ケタ違う。アメリカが意図的に京都を温存していた可能性を
感じざるを得ない。
ではどういう経緯で京都が原爆投下の対象とされることになったのか。またなぜ途中で京都が候補から外されて、
広島と長崎に投下されることになったのか。その経緯について述べる前に、アメリカの原爆開発から原爆投下までの
歴史をおさらいすることにしたい。

第2次世界大戦中の1941年に、アメリカで核兵器開発を計画する部署が設立され、1942年に物理学者
ロバート・オッペンハイマーほか当時最高レベルの科学者、技術者を一堂に集められ、マンハッタン計画という名の
本格的な核兵器開発のプロジェクトが始まった。

この計画に対してアメリカは当時の額面で19億ドルもの資金を投入して秘密裏に研究が進められ、そして
1945年7月上旬には原子爆弾を完成させて、7月16日にニューメキシコ州のアラモゴード軍事基地の近郊の
砂漠で人類最初の原爆実験(トリニティ実験)に成功している。この実験は、米英ソの首脳が集まって第二次世界大戦の
戦後処理を決定するために開かれたポツダム会議の前日に実施されたのだが、この実験に成功したニュースが
ポツダムにいたトルーマン米大統領に伝えられたのは7月18日だという。

ヤルタ会談

実は、アメリカは1941年の開戦当初から、ソ連に対して対日参戦要請をしていたようだが、スターリンがようやく
対日参戦の時期に言及したのは、1945年2月に開かれたヤルタ会談においてであった。その会談でスターリンは、
樺太南部の返還と千島列島の引渡しなどを条件に、ドイツ降伏後2ヶ月または3ヶ月での対日参戦を米英首脳に
密約したとされる。
そしてドイツは同年の5月8日に連合国に対し無条件降伏したのが、この時点でアメリカは、ソ連が約束通り8月までに
対日参戦することを期待したはずである。

ポツダム会談三首脳

7月15日にポツダム会議に出席したトルーマンは、スターリンから、8月15日に対日参戦する旨の確約を
得たのだが、その翌日に原爆実験成功のニュースが伝えられてトルーマンは豹変したという。

ポツダム会談の席上で原爆実験成功のニュースを聴いたトルーマンについて、オリバー・ストーンは著書で
こう解説している。

トルーマン、バーンズ、グローヴス*は、これでソ連の手を借りずともアメリカが望む条件で日本の降伏を早期に
実現でき、ソ連に確約していた領土と経済上の譲歩もする必要がなくなったと考えた。スティムソンは述べている。
『大統領は報告書に浮かれたようになり、会うたびに何度もそのことを口にした。彼は依然とまったく異なる自信を
得たと語った』。トルーマンはそれまでの会談はチャーチルやスターリンに主導権を握られていたが、以後は審議を
牛耳るようになった。ウィストン・チャーチルが実験後初の本会議での様子について、『私には合点がいかなかった。
報告書を読んだあとの彼は別人だった。ロシア人たちにあれこれ指示し、会議をおのれの意のままに進めた』と
書いている。」(ハヤカワ文庫『オリバー・ストーンが語るもうひとつのアメリカ史 1』p.367)
 
*トルーマン米大統領、バーンズ米国務長官、グローヴス陸軍少将(マンハッタン計画責任者)

ポツダム会談

原爆実験が成功した以上、トルーマン、バーンズ、スティムソン*はもはやソ連の参戦を望まなかった。
ソ連が参戦すれば、ルーズベルトがヤルタ会談でソ連に約束した譲歩を実施に移さなければならないからだった
7月23日、チャーチルは『アメリカが現段階でソ連の対日戦争参戦を望んでいないのは歴然としている』と述べた。
バーンズは『今回の実権が成功したと知った以上、大統領も私もソ連の参戦を望まない』と記している。
トルーマンと顧問たちにとって、これ(日本の降伏)を達成する方法は明らかだった。原爆を落せばよいのだ。
トルーマンは述べている。『ソ連が参戦する前に日本は折れるだろう。マンハッタン計画の産物が頭上で炸裂すれば、
日本は間違いなくそうすると私は確信している』。」(同上書 p.370)
*スティムソン:陸軍長官 

このようにアメリカは、日本を早期に降伏させるために、はじめから原爆を落とすことを考えていた。
ではどこに落とそうと考えていたのだろうか。

原爆投下場所についての検討はかなり以前からなされていたらしく、1945年5月12日付のアメリカの極秘文書に、
京都が第一候補に書かれていることが確認できる。(英文)

http://www.dannen.com/decision/targets.html
その訳文は次のURLにある。
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

その文書によると、京都が選ばれたのは、まだあまり破壊されていない大都市であることと、「他の地域が破壊
されていくにつれて、現在では、多くの人々や産業がそこへ移転しつつある。心理的観点から言えば、
京都は日本にとって知的中心地であり、そこの住民は、この特殊装置のような兵器の意義を正しく認識する
可能性が比較的に大きいという利点がある」という点。すなわち、米軍の新型爆弾の恐ろしさを認識するだけの
知的レベルがあり、日本が降伏を決断するきっかけとなり得るということを述べているようだ。

大阪空襲
【大阪空襲】

また、トルーマンがポツダムで原爆実験のニュースを聞いた5日後の7月21日に、米軍陸軍第20航空部隊が
対日爆撃の中間総括を試みる報告書『中小工業都市地域への爆撃』を作成している。その報告書には、
6月15日の大阪への空襲(第4回大阪大空襲)を以って第20航空軍によって優先目標と認められた
「指定工業集中地区」の実質的な破壊を完了したとし、さらなる破壊効果増大のために攻撃目標として
中小都市を含む180都市を人口に基づいて順位付けしたリストがあるという。

Wikipediaでそのリストが紹介されているが、それによると京都市は、東京都、大阪市、名古屋市に次いで
攻撃すべき都市の4番目にリストアップされている。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E6%9C%AC%E5%9C%9F%E7%A9%BA%E8%A5%B2

そのうち、名古屋市については過去5回の攻撃を実施しておりこれ以上の攻撃は不要であるとし、さらに
東京都、大阪市も5回の攻撃を行なっており、あと1回の攻撃を行なえばよいと書かれているのだそうだ。
では京都市についてはどう書かれているのか。

その報告書の中で都市爆撃を免除する3つの例が示されていて
 1. 原子爆弾の投下目標として、爆撃対象から除外された4都市。
    ・京都市、広島市、
小倉市(現北九州市小倉北区、小倉南区)、新潟市
  2. レーダーが作用しにくい地形であるために、夜間や悪天候での爆撃を免除されていた15都市
    ・八幡市、山形市、福島市、会津若松市、郡山市、川口市、瀬戸市、高山市、吹田市、長崎市
             布施市、久留米市、若松市、戸畑市、都城市
  3.  北緯39度以北にあるため、硫黄島を基地として使用するまでは目標がサイパン島から遠すぎて
            攻撃不可能であった17都市。
     ・札幌市、函館市、小樽市、室蘭市、青森市、秋田市、盛岡市、旭川市、八戸市、釧路市、弘前市、
            釜石市、帯広市、池田町、川内町、能代市、宮古市」

とあり、京都市は原爆投下の最有力候補であったことがわかるのである。

しかしながら、京都を原爆のターゲットすることについては当時陸軍長官であったヘンリー・スティムソンが
強力に反対して最終的に外されたようなのだが、彼が反対した理由はどのようなものであったのか。

ヘンリー・スティムソン

スティムソンの7月24日付けの日記には、彼がトルーマン大統領に進言した内容が記されているが、
これを読めば彼が京都の文化財を守るために進言したわけではなかったことが誰でもわかる。

「私は大統領に対し、提案されている目標のなかの一つ(京都)を除外すべきであると私が考える理由を
再び述べた。大統領は、この問題について大統領自身の賛成の考えを、この上なく力をこめて繰り返し述べた。
私が、もし除外しない場合には、そのようなむちゃな行為は反感を招き、戦後、長期にわたってその地域で
日本人に、ロシア人に対してではなく、むしろわれわれに対して友好的な感情をもたせることが不可能に
なるのではないか、と提言したところ、大統領は、とくに力をこめてこれに賛同した
(『スチムソン日記(抄)』1945年7月24日付)
http://www.chukai.ne.jp/~masago/genbaku.html

アメリカは、わが国がソ連を仲介とする和平工作に動き出しており、ソ連に期待をかけていた勢力が政界にも
軍部にも少なくなかったことはわかっていた。もしアメリカが京都に原爆を投下したとしたら日本人を怒らせて、
戦後日本がソ連に接近するようになってしまっては、アメリカがアジアにおいて主導権を取ることが
難しくなることを懸念したのであろう。
スティムソンの説得が功を奏して、最初の原爆の投下地は広島に変更され、長崎が候補地に追加されることになった。
そして7月25日にトルーマン大統領が原爆弾投下の指令を承認しているのである。ポツダム宣言が出る以前に、
アメリカはわが国に原爆を投下することを決断していたことは重要なポイントなのだが、例えば『もういちど読む 
山川日本史』では、こう記されている。

「1945年7月、米英ソ3国首脳はふたたびポツダムで会談し、その機会に米英中3国(のちにソ連も参加)で
ポツダム宣言を発し、日本に降伏を呼びかけた。
 しかし、ソ連を仲介とする和平の実現に期待していた日本政府は、はじめポツダム宣言を黙殺する態度をとった。
これに対してアメリカは、同年8月6日広島に、9日には長崎に原子爆弾を投下し、一瞬のうちに市街地を壊滅させ、
多数の一般市民を死亡させた。…」(『もういちど読む 山川日本史』p.313)

この文章を普通に読むと、わが国がポツダム宣言を黙殺したから原爆が落とされたかのような書き方になって
いるのだが、真実はポツダム宣言が出る前に原爆投下が決定されていたのである。

長崎原爆

わざわざ原爆を落とさなくとも日本の敗北は必至だったのだが、ではなぜアメリカは軍事的にあまり必要と
思われない原爆をわが国に落としたのだろうか。この点については、前掲のオリバー・ストーンの著書がわかりやすい。

ソ連の指導者は喜ぶどころの騒ぎではなかった。すでに瀕死の状態にある国家を叩きのめすのに原爆は
必要ないと承知していたことから、彼らは真の標的がソ連であると結論付けた。アメリカは原爆投下によって
日本の降伏を早め、ソ連がアジアの覇者になるのを阻もうとしたと考えたのである。さらに彼らの不安を煽った
のは、アメリカが明らかに無用と思われる局面で広島の原爆を投下したのは、仮にソ連がアメリカの国益を
脅かすようなことがあれば、アメリカはソ連に対して原爆を使用することも辞さないという意志の現われと
推測できることだった。」(前掲書 p.383-384)

トルーマンもスティムソンも、早期に戦争を終結させるためだけに原爆を用いたのではない。終戦後の戦勝国間
において、アメリカがソ連よりも優位な地位に立つことまで考えていたことを理解しなければ、終戦から冷戦に
至る歴史を正しく読み取ることは出来ないのだと思う。
 
http://shibayan1954.blog101.fc2.com/blog-entry-405.html
 転載、させていただいた記事です
 

人類史上の全核爆発マップ

YouTube上で、
日本のアーチスト橋本功(ハシモトイサオ)氏が作った
14分間の映像がアップされた。

 

その中で橋本氏は、20世紀に行われた2053回の核爆発をまとめて見せた。



 

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