【原発のあるまち】「事故があるたびに反対運動をするのはよその人」
【原発のあるまち-黎明-福島・福井】(3)「反対運動するのは、よそ者」
「事故があるたびに反対運動をするのはよその人。
住民は冷静に先行きを見守っているだけだ」
2011.7.22 10:57産経
http://sankei.jp.msn.com/life/news/110722/trd11072210580021-n1.htm
「原子の灯がともった」
事故を起こした福島第1原発1号機が営業運転開始する
前年の昭和45年3月、国内初の商業用軽水炉として
敦賀原子力発電所(福井県敦賀市)1号機が稼働。
大阪府吹田市で開幕したばかりの大阪万博会場を照らし出した。
「原発はわしらにとって地場産業や」。
日本原子力発電の敦賀原発や、動力炉・核燃料開発事業団
(現日本原子力研究開発機構)の高速増殖炉「もんじゅ」
などが立地する敦賀半島で暮らす元敦賀市議の橋本昭三(82)は
誇らしげだ。
明治時代、国内有数の絹織物産地だった福井県は戦後、
安価なナイロンの登場でかげりが見え始めた。
第2の中核産業として、昭和32年、「原子力の平和利用」の
旗印のもと、県北部の発展を目指し、県原子力懇談会を設立。
原発誘致を進めたが、地盤の強度が適さず、候補地は南部の敦賀半島
に移った。
37年7月、日本原電が敦賀半島東側(敦賀市)に、関西電力は
半島西側(美浜町丹生(にゅう)地区)にそれぞれ原発建設を決めた。
ただ、半農半漁の丹生地区では抵抗感も根強かった。
元町原子力安全対策室長補佐の町野孝博(73)によると、
「先祖代々の土地を守るため地区では土地売買を禁じていて、
住民の反発は大きかった」。しかし「最後はカネ(地域振興)だった」。
当時、敦賀などへの交通手段はほとんどなく、災害のたびに
“陸の孤島”になった。原発建設に伴い、道路や上下水道、漁港が
整備され生活環境は一気に改善。
「今では原発に反対する声はない」という。
隣町の状況を苦々しい思いで見ていたのが半島西側の
敦賀市白木地区の住民。
「わしらは弁当を腰につけて山越えし、市街地まで食料を買いに行く
生活を続けていた。もんじゅの話が来たとき反対はほとんどなかった」と
橋本は振り返る。
60年10月、もんじゅ建設に本格着手し、平成7年8月に初送電。
福島第1原発のお膝元の町と同様、白木地区の住民の暮らしも一変した。
かつては中学を卒業すると家業を継いで漁師になるのが
当たり前だったが、道路が整備され市街地の高校に通えるようになると
、大学に進学し、原発関連企業に就職することもできるようになった。
橋本は「ムラ(白木地区)の9割は原発関係で働いている。
原発がなかったら、若い人はどんどん外に出て、ムラの存続はなかった」
と説明。
その半面、伝統の定置網漁師は最盛期の30人が3人に減った。
ただ、発電しながら消費した以上の燃料を生み出し、「夢の原子炉」
と呼ばれる
もんじゅは運転直後の7年12月にナトリウム漏れ事故が発生し、
14年間にわたり停止。
昨年5月にようやく再稼働したが、8月には炉内中継装置が落下。
今年6月に装置が引き上げられたが、トラブル続きだ。
それでも橋本は動じない。
「事故があるたびに反対運動をするのはよその人。
住民は冷静に先行きを見守っているだけだ」
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これでは、シーシェパードと変わらない; ̄ロ ̄)!反原発のデモの人たち
http://blog.goo.ne.jp/sakurasakuya7/e/12d0400c10d830dac06f7744a22f8b64
http://www.youtube.com/watch?v=55d0XD2tN_s
左翼の人は沖縄の反在米デモとか、あらゆるところに出かけていって
地元の意見と違うことを行っていないか?
。