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ナニが性奴隷ですか!父は慰安婦の”赤ひげ先生”偽りの歴史教育を廃しましょう!

2015年03月31日 00時00分00秒 | 歴史・動画 

 

http://nippon-end.jugem.jp/?eid=4582 より

ナニが性奴隷ですか! 父(麻生徹男)は慰安婦の ”赤ひげ先生” ~どうか、父の思いを正しく受け止めてほしいのです。降りかかる火の粉を払いのけ、偽りの歴史教育を廃しましょう! (歴史通1月号より)

JUGEMテーマ:「慰安婦」問題について

”私たちは自分の手で、子や孫に本当のことを伝えていく必要があります”

覚醒してから、常々そう思っている中、一人でも多くの人に知ってもらいたい内容が多々ありますが、今日はそのなかの一つを久々にご紹介させていただきます。 どうか、最後までお読みくださいませ。

歴史通1月号より

ナニが性奴隷ですか!父は慰安婦の”赤ひげ先生”

元福岡女学院大学非常勤講師 麻生徹男氏二女・天児 都(あまこ くに)

降りかかる火の粉を払いのけ、偽りの歴史教育を廃しましょう!

■濡衣塚の伝説

福岡市の御笠(みかさ)川と国道3号線にはさまれた石堂橋のたもとに、「濡衣塚」という古跡があります。「無実の罪を負わされる」という意味の「濡れ衣」の語源となったとされる伝説で有名です。その伝説は『筑前続風土記』<聖武天皇の頃(724~749年)、佐野近世(さのちかよ)と云う人が、京より筑前の守(かみ)として就任したが、京から連れてきた妻が亡くなり、筑前国の女性を後妻とした。後妻が先妻の娘を殺そうとくわだて、海人(あま:海に潜って貝類や海藻を採集する漁を生業とする人)に金品を与え「姫君が夜な夜な私の元に来て釣り衣(着物)を盗んでゆく」と噂をいうように仕組んだ。それを聞き起こった父親が娘の所に行くと、娘は噂通り「濡れた衣」をかぶって寝ていた。これは実は後妻が娘が寝入ったときに着せたものであるが、父は激怒して娘を殺した。その翌年、殺された娘が父親の夢に出てきて二首の歌を詠んだ。父親はその娘に罪が無いことをさとり、後妻を里に返し自分は出家した>

この言い伝えにより、身に覚えのない罪を負う事を「濡れ衣」を着るというようになりました。私の父、麻生徹男(あそうてつお)も、この伝説のごとく濡れ衣を着せられ、今もなお、その誤解は流布され続けています
(※参考:麻生徹男ーWikipedia )

1989(平成元)年に亡くなった父は、37(昭和12)から41(昭和16)にかけて、日本軍の軍医として中国戦線にあり、この間に慰安婦と慰安所の写真資料と慰安婦に関する論文一篇の第一級資料を残しました。

しかし、この資料が悪用され、父は「慰安婦強制連行」の責任者のごとく言われるようになったのです。

1993年8月、河野洋平官房長官が発表した、いわゆる「河野談話」により、韓国が盛んに日本の政府に「慰安婦問題の関係者を処罰しろ」と声高に主張しはじめて、その折、私の父のことも話題にのぼりました。ジョージ・ヒックス著『慰安婦』(1995年)は、韓国人のゴーストライターが書いたもので、父について真実ではないことを書いています
(※参考: ジョージ・ヒックス著『性の奴隷 従軍慰安婦』←ちなみに、本の内容紹介には以下のように書かれています。↓
著者ジョージ・ヒックスは公文書、慰安婦へのインタビューをとおして、日本政府が隠蔽しつづけている組織された慰安制度を解明、暴露する:「BOOK」データベースより
いまだに罰せられていない戦時の日本の蛮行、従軍慰安婦制度。当時の公文書、元慰安婦へのインタビューを通して日本政府が隠蔽し続けている組織されたその制度を解明:「MARC」データベースより)

韓国人たちは「慰安婦強制連行」の責任者として父の処罰を求め、父が既に鬼籍(きせき)に入っている(死亡している)と知ると、娘の私のところに押しかけてきました。当時、私は病院に勤めておりましたが、勤務先にまでしつこく電話をかけてきたのです。

この降りかかる火の粉を払いのけるという意味で、上海より上海へ』(1993年、石風社)を上梓(じょうし)しました。それは、父が兵站(へいたん)病院の軍医だったころに記した日記をもとにして綴った回想録です。慰安婦たちや慰安所の写真も掲載しました。この本を上梓し事実が世に出てから、資料をとりに来る者はなくなり、非難する声も小さくなり、非常に楽になりましたが、それでも事実を確認せず、いまだに父に濡れ衣を着せようとする人たちがいます。その原因は千田夏光著『従軍慰安婦』(1973年)に父が強制連行の責任者のようにほのめかして書いてあるからです。
(※参考:千田夏光(せんだかこう)-麻生徹男軍医に関する虚偽記載と謝罪 ) 

また、日本も、中国や韓国から濡れ衣を着せられています。慰安婦を韓国は挺身隊とか性奴隷と言っていますが、事実ではありません。そうだとわかっているならいいのですが、最近の、歴史を正しく知らない人たちが、無意識のうちに朝鮮・韓国側になびいていることが心配でなりません。その状況を打破するために、若い人たちに資料を公開しようと、2010年『慰安婦と医療の係わりについて』(梓書院)を上梓したのです。


■「花柳病ノ積極的豫防法」

父・麻生徹男は昭和21年南太平洋の戦地から復員して、祖父の跡を継ぎ産婦人科医として福岡市で働き始めました。昭和32年9月、博多の情報誌「うわさ」に、「戦線女人考」という中国戦線における体験をもとに書いた一文が掲載され、慰安婦のことを紹介しました。
(※参考:「従軍慰安婦」 軍医麻生徹男「戦線女人考」(写真集):真実を知りたい さんブログ

父は学生時代から亡くなる直前まで日記をつけており、手紙を受けたこと、誰かに会ったこと、その住所や連絡先などが記されています。これらと書簡をもとに、退院後は「残務整理」と称して精力的に自分の撮った写真を整理し、自分自身の体験を書き残しました。

父が戦争中に書いたのは、1939(昭和14)年、九江軍医分団の研究会にて花柳(かりゅう)病について講演し、陸軍に提出した「花柳病ノ積極的豫防(よぼう)法」という性病対策レポートです。 
(※参考:「従軍慰安婦」と軍医 麻生徹男) 

その父のレポートには、検黴(けんばい:梅毒に感染しているか否かを検査すること)、禁欲、花柳病(性病・性感染症)の認識、狭義の予防法などが書かれております。約100名中、20名程の邦人に花柳病罹患(りかん)者が多く、年齢も高かったことを語り、その結語に、「アルコールの制限、即ちこれに代わるものとして、より高尚なる娯楽施設を必要とす。音楽、活動写真、図書あるいは運動が良い。娼楼(しょうろう:女郎屋)にあらざる軍用娯楽所の設立も希望す。斯(か)くして自ら禁欲を意とせざるの良風を養成す可(べ)きなり。検黴は的確にして厳正なるべし」と書かれています。

レポートでは娼楼ではない軍用娯楽所(音楽、活動写真、図書など)設立を希望しているのに、なぜ強制連行と結びつけるのでしょうか。娼婦は必要不可欠であると訴えたかのように読み間違え、事実を検証しないまま、広めた人たちがいるのです。


■軍隊における性病対策

父の戦争体験は、中国大陸と南太平洋のニューブリテン島ラバウルの2つの地域でのことです。1938(昭和13)年始めに慰安婦検診を命ぜられ、慰安婦とかかわるようになりました。

慰安婦については、医療の問題を抜きにしては語れません。そもそも、慰安所が作られたのは、性の管理と、性病の予防管理のためという2つの目的のためです。

江戸末期から明治初期にかけて、日本人女性にもイギリス軍及び他のヨーロッパ諸国の慰安婦だった人たちがいました。

日本国内では駆黴(梅)(くばい)院(=娼妓が性病に罹患しているか否かを検査し、罹患していればこれを治療した病院)が1867(慶応3)年、横浜にでき、次いで長崎、神戸にできました。

港で売春を行う娼妓(しょうぎ)の梅毒罹患の検査を提唱し、巡回指導したのは、英国の軍医ニュートンです。江戸末期に横浜、長崎、神戸に英国の医師が駆黴院を作ったのは、船で寄港するイギリス人及び他のヨーロッパ人の性病感染予防のためであり、これは植民地政策により海外に発展していたヨーロッパの国々の性病対策の方式でした。これにならって日本も明治初年に駆黴院を日本各地に設置していきました。

その後日本政府は1871(明治4)年に駆黴院をつくるように民部省が示達(じたつ)し、72(明治5)年に大阪、74(明治7)年東京、79(明治12)年福岡に駆黴院が設立されました。明治14年に英国軍の交代時期を利用して、日本は独立して自分たちで検診を行うようになりました。

日本軍は1918(大正7)年~22(大正11)年のシベリア出兵の折に、梅毒感染による戦力低下と、その後の壮年層の死亡多発の打撃が大きかったため、その後外地において、慰安所を軍が管理して性病対策を行うようになりました。ヨーロッパのやりかたにならって、上海の慰安所において慰安婦検診を陸戦隊員、領事館警察の立会で週2回行うようになったのです。

慰安婦は、大東亜戦争の終る1945(昭和20)年8月15日まで続き、その数は推定8万~14万人と言われています。また、大東亜戦争後、アメリカ軍の慰安婦にされた女性も大勢いました。


■婦人科診察台とコンドーム

父の残した資料は民族間の紛争をあおるため、また、性的興味のために扱われるものではありません。

父が強制連行の責任者であるかのように扱われた時、「誤解を解くために、事実を書いて本にしたらどうか」と言ったことがありました。しかし、父は「自分は事件の当事者であって、それを解釈するのは他の人なのだ。だから私は自分の体験したことだけを手記として残しておく」と言いました。事実だけを述べる科学者の態度に徹していて、また、後の世代への信頼感がありました。

どうか、この父の思いを正しく受け止めてほしいのです。

そこで、私は戦時中の父の日記をまとめた『上海より上海へ』の本の中に、「花柳病ノ積極的豫防法」レポートと、慰安婦関係の写真「戦線女人考」を一括して入れました。父は趣味で写真をやっていまして、昔は今ほど写真に通じた方もいないので、部隊長から写真を撮るように命ぜられていたそうです。

その中には、写真①のような、父の考案による「婦人科診察台」もありました。また、写真②は「突撃一番」というコンドームです。
(※参考:突撃一番ーWikipedia
※なお、写真は、歴史通1月号にてご覧くださいませ。

これを本に掲載したのは、慰安婦との係わりは医療に関するものであり、1937年当時、日本が性行為感染に対する対応を行っていたことを知ってもらうためでした。

(中略)


■戸塚弁護士の「性奴隷」発言

私たちは「慰安婦問題」を正していかねばなりません。そのためには、帚木(帚木 蓬生:ははきぎ ほうせい)さんのような方や、論客の方々のお力も必要でしょう。しかし、彼らに頼ってばかりではなく、まず、私たち一人一人が自分の国の歴史を正しく知ることが大切です

父の残した資料を巡って、様々な人との出会いがありましたが、アメリカや中国、韓国人の視点で日本を見て、自国を貶めている人たちが多くいることは驚きでした。

「慰安婦問題」を利用してきた人たちがたくさんいます。国内はもちろん、国外においても日本叩きの道具にされ、日本に対する間違った認識が世界中に流布しているのが現状です。こうした中傷に迎合する人たちがいますが、誤った中傷や非難に反論できる人がたくさんあらわれてほしいと思います。

私は『上海より上海へ』を上梓した当時、まだ不勉強だったものですから「南京事件が起こったから、レイプ対策として急きょ日本で慰安婦を集めたのだ」と、慰安婦は南京事件の傍証(ぼうしょう=間接の証拠)と一般的に言われていたので、うっかりとその立場で解説を書きました。

しかし、父の日記、手紙、メモなどを調べ、資料をつぶさに調べていくと、決して南京事件の傍証などではありませんでした。他の方々の研究を見ても、南京事件は蒋介石と、その諜報機関の作り話であることがわかってきました。そして、それを極東国際軍事裁判で事実であるかのように語り、中国人に証言させ、また、その証言を日本人がいまだに信じつづけているのです。

「性奴隷」という言葉は、1992年2月25日に国連人権委員会で、戸塚悦郎弁護士が、慰安婦を「性奴隷」だとして日本政府を攻撃することに使ったのが始まりで、北朝鮮・韓国が挺身隊と共によく利用し、2007年以降にアメリカで使われるようになりました
(※参考:従軍慰安婦で、日本の名誉を売った二人の弁護士 by藤岡信勝氏)

18世紀末よりヨーロッパで売春を取り締まるための法律が考えられましたが、各国は公法の中に売春認可を入れて体面を失うことは避け黙認の形をとり、実際問題として性病蔓延を防ぐために、他方の警察力を使って取り締まりを行ったのです。

日本も売春を犯罪とみなし、1873(明治6)年に犯姦条例(刑法)を制定しました。しかし実際には守られずに76(明治9)年1月に犯姦条例廃止。府県は売春を行政的に取り締まることとし、2月に娼妓梅毒検査規則を作り、77(明治10)年性病患者統計調査が始まります。
(※参考:統計表一覧 政府統計の総合窓口

こんな難しい問題を何も知らない人たちが簡単に「性奴隷」と名付け、犯罪の中に入れられています。奴隷・レイプは犯罪です。私はこうした微妙な問題も常に意識して発言しています。


■強姦被害者4千人

終戦後、中国や朝鮮半島からの引揚者の中の在留邦人女性は、混乱の中でソ連や中国の兵隊や朝鮮人に乱暴をされ、妊娠したり性病に罹患した人がたくさんいました。女性たちは自衛のため髪を短く切り男性の服装をしましたが、それでも逃れることができず、妊婦の多くはそのような姿をした人たちでした。

戦勝国側の一方的な裁判で戦犯とされた人々の名誉が回復されず70年が経とうとしているこの国には、引揚時に強姦の被害を受けた人たちが少なくとも4千人いて、沈黙のままこの国の政治を見守っています。日本は敗戦国として賠償金を払っているのに、条約を締結した後にも補償と言ってお金を要求してくる諸外国の者たちにも、日本が受けた被害を明確に示すべきです。

ドイツではベルリン陥落後25万人の女性が被害に遭い、それらの被害はきちんと記録に留められています。たとえ密かに処理するような命があったとしても、ドイツのように、事実として資料は残すべきなのです。

父の資料をまとめ、また、自分自身も勉強を進めていくにあたって、問題の正しい解決において、資料がいかに大切であるかを知りました。


■いまだアメリカの洗脳の支配下に

歴史がきちんと学ばれていないところでは、嘘がとめどなく広がってゆきます。今もなお、日本の子供たちの教科書は、極東裁判で展開されたアメリカのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム(=War Guilt Information Program' 略称WGIP、戦争に対する罪の意識を日本人に植え付ける洗脳計画)によるマインドコントロールのもとにあります。

戦後60年以上の年月を経て、アメリカによるマインドコントロールの事実が明らかにされているにもかかわらず、日本人がいまだに自虐史観に閉じ込められ、日本が弱体化の一途をたどっているのは、自分達が受けた洗脳と言論弾圧に対する自覚がないからです。自分自身を正当に評価できていない状態にあるのです。

私たちは自分の手で、子や孫に本当のことを伝えていく必要があります。そして私たちも、親や祖父の世代を「悪」と切り捨て、戦後からの歴史を立ち上げている左派の流れにいつのまにか乗っていて、親や祖父の世代に対する感謝の念を表さずにきたことをお詫びすべきだと思います。

父祖の世代が命がけで戦ってくださったおかげで今日の私たちがあります。1919年に人種的差別撤廃提案を提出し、戦い続け、植民地支配からアジアの国々を解放したのは私たちの父の世代の人たちでした。

日本は好戦的な国々に囲まれ、戦いに引き込まれ、戦いを止めることができず敗戦を迎えました。

平和はお題目ではなく、自衛軍を持って周囲の国々に侵略を許さぬことにより守られます。戦いの勝者に法を守る精神の欠如がありますが、私たちは法の精神を掲げて気高く生きる国家として蘇(よみがえ)りたいものです。

そのためにも、偽りの歴史を教育から排除して、事実に基づいた教育を行い、自立した日本人の憲法をつくり、アメリカと対等の条約を結ぶことが必要です。政治の道具にされず、深い洞察力をもつ学問の基礎が日本に築かれることを願っています。


 



一部転載、させていただいた記事です



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