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原爆投下が戦争を早期終結させたのではない!

2016年05月25日 14時55分32秒 | リバティ 学園 幸福実現党 関連  

原爆投下が戦争を早期終結させたのではない![HRPニュースファイル1636]
http://hrp-newsfile.jp/2016/2773/ 文/HS政経塾6期生 野村昌央

 ◆近づくオバマ大統領の広島訪問
いよいよ伊勢志摩サミット終了後の5月27日、オバマ米大統領が広島を訪問します。実現すれば世界で唯一の核兵器使用国の大統領が、現職大統領としては初めて被爆地を訪れることになります。

オバマ大統領は「核兵器のない世界」について言及すると見られ、世界中が広島に注目しています。
2009年4月にオバマ大統領がプラハで核兵器廃絶の演説を行ってから7年が経ちます。その間、2010年の「核体制見直し」の表明や、イランの核開発を遅らせる合意などに取り組んできました。
しかし、今年1月に行われた北朝鮮の4度目の核実験では、北朝鮮は核の小型化に成功したとみられており、東アジア地域での核の脅威はむしろ大きくなっています。
そうした中で日米だけが核のない世界を訴えても、中国や北朝鮮は応じません。むしろ喜ぶだけでしょう。

◆原爆投下の正当化は将来に禍根を残す
来日に先立ってオバマ大統領はNHKとのインタビューを行いました。

インタビューの中で「(広島訪問での)メッセージに広島への謝罪は含まれるか?」という問いに対し、「含まれない。戦争のさなかにある指導者は、あらゆる決定を下すとの認識が大切だ」と答えています。
「戦争における指導者の決定に対して疑問を呈し検証するのは歴史家の仕事である」とインタビューでは続けていますが、原爆投下による大多数の民間人に対しての無差別攻撃は当時においても国際法違反です。
これをアメリカ大統領が正当化することによる国際社会への影響は甚大です。確かに、現職の大統領が原爆投下の過ちを認めてしまえばアメリカ国内での若者の愛国心が揺らいでしまうなどの懸念はあります。

しかし、今後、広島や長崎のような被爆地をつくらないためにも、民間人への無差別な大量殺戮は正当性を持ちえないということをはっきりさせるべきです。

 ◆日本は和平交渉を続けていた
アメリカ国内では原爆投下は「戦争を早期終結させた」という見方が多数となっていますが、広島でも「原爆の惨禍は恐ろしいことだが、原爆投下によってそれ以上の犠牲者が出ずに済んだ」と認識している方が少なからずいます。

しかし、本当に原爆投下は戦争を早期終結させたのでしょうか。
フーバー元大統領が著した『フーバー回顧録』によると、1945年2月のヤルタ会談の時期に、既に日本は和平についての打診を中立国であるスウェーデン公使に要請していました。
そうした日本の動きを受けて、7月のポツダム会議が行われています。日本側に和平の準備があった事を連合国側も把握していたのは明らかです。
また、どんな事情にせよ長崎による二度目の原爆投下は必要ありません。

 ◆自虐史観を脱し、抑止力としての核配備を
核兵器の惨禍を二度と繰り返さないためには、「原爆投下は民間人に対する無差別攻撃であり、国際法違反である」という認識をしっかりと持つことが重要です。
同時に、原爆が戦争の早期終結をさせたというアメリカによる国内外の世論を説得するためのレトリックを打ち返していく必要があります。(ただし、昨年夏の米国内の調査では、若年層のうち45%が「原爆投下は間違いだった」とした。)

真に「核兵器のない世界」を目指すのであれば、日米の協力関係が不可欠です。
公正な歴史認識を持つことによって、日本は「過去に原爆を落とされても仕方ない悪行を行った国」という戦後のレッテルから解放されなければなりません。
そして主権国家として明確に自主防衛体制を築きつつ、日米同盟の片務性を解消するべきです。さらに独裁国家の核の暴発を防ぐための核抑止力を持つ必要があります。

日米が同盟国としての協力関係を堅持することで、真の平和と正義の実現を担っていく土台が整っていくものであると信じます。
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◎幸福実現党公式サイト http://hr-party.jp/
◎HRPニュースファイルサイト(バックナンバーがご覧いただけます)
http://hrp-newsfile.jp/

 

 


原爆投下訓練 http://www.geocities.jp/jouhoku21/heiwa/hs-mogi.html

模擬原爆投下跡地 碑

  
2003年も追悼式が行われた。
子どもたちに語り伝えたいと口々に言われた。
道路の向こうのコンビニやマンションのあたりが「爆心」地

 太平洋戦争終了直前の1945年7月26日午前9時26分、1機だけで淡路島北部から大阪に侵入してきたアメリカ軍のB29爆撃機は、大阪市東住吉区田辺小学校の北側に大型爆弾を投下し、大阪湾を南へぬけていった。ふつうは、淡路島北部から大阪へ集団で飛来し、そのまま東へ向かって熊野灘あたりから太平洋へぬけていくのに、まったく違っていた。
 たった1発の大型爆弾によって、死者7人、重軽傷者73人、倒れた家485戸、被災者1645人の被害が出た。当時の人々は、知る限りの大型爆弾ということで「1トン爆弾」が投下されたと話していた。

 この爆弾は、1トン(2000ポンド)どころかいわば「5トン爆弾」(1万ポンド)であり、しかも原子爆弾を投下するための模擬原子爆弾で、これを使って原爆投下の実地練習をしていたのであった。このことがわかったのは1991年のことだった。

 原爆投下訓練

 原子爆弾を落とすには、普通の爆弾と違って特別な訓練が必要であった。爆弾は飛行機から落とすと、飛行機の進む方向に落ちていく。高さ9000mから落とし、爆発までに50秒かかるとすると、そのまま飛行機が進むと、飛行機も原子爆弾の爆発で吹き飛ばされてしまう。そこで原子爆弾を落としたらすぐ、飛行機は右へ150度急反転して逃げていくことにした。アメリカ軍は原爆と同じ形・重さ・弾道特性の爆弾(模擬原爆)を使って練習をくり返した。アメリカ本土や南太平洋で練習をくり返した後、7月20日からは日本各地を使って実際に空襲し練習の総仕上げを行った。
 使用した爆弾は、長崎に投下された原子爆弾(プルトニウム爆弾)とまったく同じ形・重さ・弾道特性で、直径1.52m、長さ3.25m、重さ1万ポンド、カボチャのような形というのでパンプキン爆弾と呼ばれていた。2000ポンド爆弾を日本では1トン爆弾といっていたので、これは「5トン爆弾」と言える(正確には1万ポンドは4.5トン)。

 ワシントンでは次のような電報が交わされていた。
「第509部隊は…日本に対する一連の空襲を始めた。その目的は搭乗員を目標地域と最後の任務遂行のための戦法に慣れさせ、又一方日本人に高い高度を飛ぶB29の小編隊を眺めることに慣れさせるためである。」
 509混成群団は7月下旬、日本本土に集中的に行動をおこしていた。部隊所属B29 15機のうち、毎回10機が、1機ずつ目的地にむかい、長崎型原爆と同じ形の模擬原爆「パンプキン」、TNT火薬のみの1万ポンド爆弾を投下していたのである。

 7月10日 10機10目標
   24日 10機10目標
   26日 10機10目標
   29日 8機8目標

   (白井久夫「幻の声 NHK広島8月6日」岩波新書 もとの資料は「春日井の戦争を記録する会」による)

 7月26日の田辺への爆撃はその1つであった。

 7月26日、第20航空軍の命令にもとづき特殊爆撃任務を与えられた第313爆撃航空団所属の第509混成群団の爆撃機B-29、7303号機は第一目標である富山の日本曹達会社をめざした。この場所は原爆投下目標都市「新潟」の所在を確認するためその周辺の精密爆撃目標として設定されていた。第2目視目標は京都・新潟・広島・小倉を除き、臨機の、任意の市街地目標の中心とされていた。つまり、どこでもよいから市街地に落とせということだ。富山市が雲に覆われていたので第2目標として大阪市街地を目視攻撃した。「結果は報告されなかったが、写真は爆弾がほぼ町の真ん中に命中したことを示した。照準点が不明のために、爆発点はプロットできなかった。結果は良好」とアメリカ軍の作戦任務報告書は書いている。(「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」(奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳 東方出版1993年)アメリカ軍の「結果良好」は、大阪市民にとって凄惨(せいさん)な事態をひきおこした。

  「東住吉区史」によれば、この日のB29の進路は次のように記録されている。

「高知付近より進入せるB29一機は愛媛県東部、淡路島北部、大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転して大阪市内に投弾の後、大阪湾を南進した。」
                                 (「東住吉区史」P508(東住吉区役所 昭和36年3月)
 大阪府を経て奈良県に入り、生駒東北部において反転したというのは、京都の所在を確認に行ったものだろうか。

 1機で来たというので「たいしたことないわ」と見ていた人もいた。たった一つの爆弾で大きな被害をだしたのは、「1トン爆弾」と思っていた当時の人々の思いと違って原爆の大きさに合わせた4.5トンもの大型の爆弾であったからだ。
 田辺に模擬原爆が投下された11日後に広島に、14日後に長崎に本物の原子爆弾が投下された。

「模擬原爆」とわかったのは1991年

 「模擬原爆」投下の事実は、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」の人々が国立国会図書館で戦時中のアメリカ軍文書を調べて「発見」した。関西大学の小山仁示教授が「大阪市市街地」と記されていたその地点は東住吉区田辺であったことをつきとめ、そのことが報道されると被災者から情報が寄せられ爆心地や被災の状況が具体的に明らかになった。1993年大阪大空襲の体験を語る会が「原爆模擬爆弾の証言集」を出版、2001年には地域の人達が追悼式等を行い「田辺の模擬原爆証言集」を作成、お父さんを亡くされた村田さんが跡地近くに碑を建立された。
 「北田辺のまちづくりと歴史を考える会」が中心となって「7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会」の人々は2002年にも追悼式・展示・集いを行うとともに「証言集」改訂版を発行されている。

参考にした資料 「あれから57年 7.26田辺の模擬原爆証言集」2002年7月26日改訂版
                発行/7.26田辺模擬原爆追悼実行委員会
                作成/北田辺のまちづくりと歴史を考える会

          吉田守男「京都に原爆を投下せよ」 角川書店 1995年

          奥住喜重・工藤洋三・桂哲男/訳
          「米軍資料 原爆投下報告書 パンプキンと広島・長崎」東方出版 1993年 

模擬原子爆弾投下跡地

1945年7月26日9時26分広島・長崎への原爆投下を想定してこの田辺の地に模擬原爆が投下され、村田繁太郎(当時55歳)他6名が死亡、多数の方が罹災しました。ここに犠牲者の冥福をお祈りし、戦争のない世界の実現と全人類の共存と繁栄を願い、碑を建立します。


2001年3月吉日
建立者
 大阪市中央区谷町6丁目9番18号
       株式会社 村田商会
       代表取締役 村田 保春(84歳)

追悼式当日に碑の横で行われたパネル展に次の説明が展示されていた。

「模擬原子爆弾投下跡地」の"碑"が出来るまで

 昨年(注 2000年)8月。「寄合酒」NO251の1・2ページをビラにして模擬原子爆弾投下地点(現・東住吉区田辺1・2丁目)周辺に3000枚配布しました。連絡先になっている田辺寄席世話人会事務局には「こんなことが本当にあったのですか?」という問い合わせと体験談を語る電話が相次ぎました。その中には、投下により犠牲になられた方のご遺族、村田保春さん(84歳)もおられました。村田さんは父親の死が模擬原子爆弾の投下であった事をこの時、初めて知られ愕然(がくぜん)とされましたそして「55年後の親孝行」と慰霊碑を建立することを決意されました。

 碑文は、何回も検討を重ねた上、決定し、2001年4月2日「模擬原子爆弾投下跡地の碑」の除幕式が行われました。地元町会長さんや碑建立に協力しあった多くの人たちが参集し、2度とこのような凄惨(せいさん)な戦争のない世界の実現を祈念しました。碑は東住吉区田辺1丁目6-7 地下鉄谷町線「田辺」駅南へ200mに建立されています。

参考になるホームページ(リンク) 広島に落とされた原子爆弾について調べよう

 

 

 

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