「マグダラのマリアの霊言」
ポイントです。
http://ameblo.jp/cassie-com/entry-10771740791.html
+。:.゜うららかなブログ。+。:.さんから転載です<(_ _*)> ゜
まず、最初に総裁からコメントがありました。
イエスが信仰を受けて、処刑され、復活するところを全部
見た方だろうし、実はキリスト教の正当性を争うテーマの一つかも。
エジプトではナグ・ハマディ文書が出てきて、その中からマグダラ
のマリアの「聖書」も出てきて夫婦でなければ書けないと思われる
記述が相当入っている。
この人から見て、信仰、愛、裏切り、復活等、イエスがどう
見えていたのかを聴いてみたい。
最近の救世主の妻たちを、「救妻(きゅうつま)シリーズ」
とも仰っていました
何度も呼吸を調えられた後、マグダラのマリアを呼び出されました。
質問者は、Tさん(女性)
質問当時どのような思いでイエス様を支えていたか
イエスの愛は抽象的な愛ではなかった。
皆が触れないようなライ病患者も助けた。
身分の低かった税務署の役人や漁師、大工も弟子にした。
信仰心がないと言われていたサマリア人をも愛した。
なぜ彼らが信仰心がないと言われたかというと、
バール信仰を信仰していたから。
正統的なユダヤ教から差別されていた。
エスはサマリア人の女性に水を求めた。
「水は喉を潤すがまた喉が渇く。私の言葉を飲む者は渇かない。」
とその女性にも永遠の信仰を説いた。
「主よ、私はあなたを信じます」とその女性も弟子になった。
人を、生まれとか地域とか身分などではなく、
実践行為でもって判定していた。
私は高級娼婦で差別されていた。
長血を患っていたのですけど、私のひとかけらの信仰心で
治してくれた。 イエスの衣の端をつかんだ時に光が
射し込んでくるのが分かった。その時に治ったのが分かった。
パリサイ人が私の商売を、現行犯で捕まえ、
石打ちで殺されそうになり逃げていた。
イエスの後ろに逃げ込んだ。
イエスも敵が多かったので、パリサイ人が
「お前はモーセの律法を知っているのか」と聞いた。
イエスが「あなた方のうちに、罪のない者からまず、
彼女に石を投げなさい」と言うと、誰もいなくなり解放してくださった。
わざと、パリサイ人が私を罠にかけ、イエスを追い込もうとした。
これはイエスの罪の許しでもあるし、彼のディベート能力の
高さを示しているところだと思う。
「律法を守るべきだ」と言ったら私は石打ちだし、
「律法を守らないべきだ」と言ったら、イエスが
処刑されていたということ。
目の見えない人を治したりして、迫害を受けたのは、
今の新興宗教と同じ立場に近い。
愛の実践を施された人たち、この世から見捨てられた人たちが
イエスを最後まで信じていたところがある。
この後、Tさんの二つ目の質問が続きます
マグダラのマリア様の信仰について
金銭的には恵まれたところがありましたので、
イエスの教団を経済的に支援していた者の1人だった。
教団が大きくなってくると、(それを)隠したがった。
弟子達と言っても、最初の弟子は漁師や大工だったので、
(それをやめたら)金銭的に貧しい。
ユダは、ユダヤの独立運動を勝ち取りたいという気持ちを
持っていたように思う。
私も含めて女たちがイエスに援助していたのを、ユダは
嬉しい気持ちもありながら、少し異質な気持ちも
持っていたようには思う。
私が年収に当たるほど高い香油を一本丸ごと空けて、
自分の長い髪でイエスの足を拭っているのが、ユダには無駄遣いに見えた。
ユダは「それを売ったら、どれだけ民衆を救えるか」と言った。
イエスは「今は許せ。」
「あなた方はいつの時代も民衆とともにあるが、私はいつの時代も、
あなた方と一緒にいることは出来ない」
「これは、私に対する愛の証であり、信仰の証として
なされてる行為で、後の世にまで語り継がれる行為である。
そのお金を惜しむということが、どれほど信仰を
傷付けるかがあなたにはまだ分からないのだ。」
と言った。
イエスは生活においては自由人。型破りだった。
イエスに帰依しておりながら帰依していない人もいっぱいいた。
「鶏が二度鳴く前に三度私を知らないと言うだろう」と言われたペテロ。
聖母マリア信仰を立て、私の方をなるべく隠そうとされたように思う。
ヨハネはイエスに愛されていたと思う。
ちょっと堅い所がある。
実際のイエスのお世話は7割は私がしていたと思う。
他のマリアやサロメなどもしていた。
そして、二人目の質問者に替わります。
続くそうです。。
(ノ^^)八(^^ )ノワイワイ
ヨハネ福音書の作者は使徒ヨハネではなく、のちに名をヨハネと改めたラザロ(イエスの愛した弟子)であると人智学のシュタイナーなどは書いています。個人的には使徒行伝や福音書と突き合わせてもこれは間違いないのではと思っています。そうならマグダラのマリアの弟がヨハネ福音書を書いたことになりますよね。幸福の科学の見解としてはどうなっているのでしょう?
昨夜は何時間も聖書をひっくり返して読んでいました。気になって仕方ありません。ご存知でしたら教えてください。
聖書を読み返すと、ペテロの従者が書いたマルコ伝にはイエスの足に油を注いだという女性は出てきません。(頭に注いだ女性は出てきますが、ヨハネ伝とは日時も場所も異なります。)マルコ伝をベースに書かれたマタイ福音書の記述もしかり。ルカ福音書には記述そのものがありませんが、異なる場面設定で罪深かった女が罪を悔いてイエスの足に油を注いでぬぐうという美しい挿話がでてきて、そのすぐ後にイエスに従った女性たちとしてマクダラのマリアらの名前が出てくるのです。ルカは晩年のマリア様にエフェソスでお会いしていると伝わっているので、おそらくヨハネ伝の作者とも直接会ったことがあるかもしれません。(イエスの死後に聖母を引き取ったのはイエスの愛した弟子ですから)
ヨハネ伝は聖書を編纂する際、異端ではないかと疑われたといいます。マグダラのマリアをペテロが隠そうとしたということであれば、ルカの記述はイエスの死後半世紀以上過ぎ、使徒的伝統なるのものができあがりつつあった時点ではthe best possibleな選択だったのかしらと、想像が尽きません。
ペテロが隠してしまいたかったのはマグダラのマリアだけでなく弟子ヨハネもかな?12使徒の正統性に関わってくるだけに、確かに教会の正統性を争うようなテーマに発展しますよね。
非公開の内容でしたら、支部で購入させていただきたいと思いますので書籍名など教えてください。お願いします。
ですからこっそりと(^▽^;) ?
ここではUPしてます・・・
詳しくは・・( ̄▽ ̄;)
気になることが多いようでいたら
直接これは拝聴されたほうがいいかもですね。多分ご縁があるからなのでしょうから。。