なぜ、日本人は、憲法を改正できないのか?
江頭 俊満 氏 ブログ転載
2013/3/20(水)
http://blogs.yahoo.co.jp/tosimitu1962/14118233.html
1952年4月28日サンフランシスコ講和条約が発効し、連合国による占領は終わり、
日本国は主権を回復した。
しかし、戦争に負けたあとの東京裁判の結果、日本に「自虐史観」が生まれ、
現在もそれに縛られ続けている。
「戦争直後の統治については、マッカーサーに責任があるかもしれないが、
戦争が終わって60年以上も経過して、まだ、『マッカーサーの意向が、どう
だった』などと言うのはおかしいはずであり、「自虐史観」を変えられないのは、
やはり日本人自身の問題でないか」と、考えるべきだろう。
朝鮮戦争(1950年~1953年)が始まって、マッカーサーは強硬策を説いたために
解任され、講和条約締結のためにダレス特使が日本に来て、マッカーサーも
ダレスも、戦後につくったばかりの日本国憲法を早急に改正するように
主張しているのが史実である。
その二人の進言をきかなかったのが吉田茂である。吉田は、「平和憲法ができた
ことによって、軍事に費用をかけることなく、戦後の経済復興に力を入れられる。
軍事のほうはアメリカにやらせておけばよい」と、うまく逆手にとったわけである。
要するに、アメリカのほうから「憲法改正をせよ」と言ってきたのに、
それを受けなかった。
このあたりの判断が、戦後に強い影響を与え、憲法を変えるチャンスはあったのに、
その後の見通しが立っていなかったと言わざるを得ない。
当時は、国民のほとんども、「戦争は、もう結構だ」という意識であったことは
事実だろうし、「近隣諸国から軍事的脅威が迫ってくる」というようなことは、
予想もしていなかっただろう。
その意味で、政治的指導者に先見力がやや欠けていた。実際、「優秀な人は、
みな、戦争で死んでしまった」という見方もあり、「一流の人は、みな死んで
いて、生き残ったのは、もう三流の重役と三流の政治家ばかり」と見ること
もできる。
このため、「将来の日本の設計」ということまで頭が回っていなかったのは
事実であろう。
マッカーサー自身は、「ファシズム(ドイツ・イタリア・日本)との戦い」が
終わったあと、次に、「共産主義との戦い」に入ったことを明確に認識していて、
日本を共産主義への防波堤に変えたかったのである。
しかし、日本では、戦後、共産主義が非常に流行っていたこともあり、そういう
考え(憲法の改正)にはなかなか乗らなかったと見ることもできるだろう。
参考文献:「平和への決断」大川隆法著(幸福実現党刊)
.転載、させていただいた記事です
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