青空と麦穂 さん、とこのブログ
敬神の心のないブログと、伝統的な宗教観あるブログの違い
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西郷隆盛は、「敬天愛人」を、目指していました。
敬天愛人で検索すると、まず、京セラのHPと、稲盛和夫さんが出てきました。
京セラの社是は「敬天愛人」。
「常に公明正大謙虚な心で 仕事にあたり天を敬い 人を. 経営理念. 全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、 人類、社会の進歩発展に貢献すること。 」とあります。
この天とは何のことでしょうか。
西郷隆盛は、「敬天愛人」を、目指していました。
敬天愛人で検索すると、まず、京セラのHPと、稲盛和夫さんが出てきました。
京セラの社是は「敬天愛人」。
「常に公明正大謙虚な心で 仕事にあたり天を敬い 人を. 経営理念. 全従業員の物心両面の幸福を追求すると同時に、 人類、社会の進歩発展に貢献すること。 」とあります。
この天とは何のことでしょうか。
自然界全体をつらぬく道理である「万物を生かし育み愛する」天意のことを指します。
また、この天意は、日本の伝統的に言えば、神意であり、仏教的に言うと万物の持つ仏性であり、万物に仏性を授けた仏の慈悲です。
そして、敬天愛人とは、天(神)が万物を愛し慈しむように、私も人を愛し慈しもうということです。
敬天とは、敬神であり、宗教的な境地です。
ブログを書く人が、敬天(敬神)(宗教的な境地)の心や心情を持つか持たないかで、書かれた記事の質は大きく変ります。
たとえば、「博士の独り言」というブログでは、5/25に
「カルト、幸福の科学にご用心!」 http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2480.html
という記事が書かれました。
カルトと断定するからには、教祖の著作の教義や教説からここがおかしいという指摘があるかと思えば、週刊誌記事を引用しての記事でした。
そして、5/29には
「亡者の病理で「政党」結成 」 http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2489.html
という記事が出ましたが、前回と同じように、著作の教義や教説から「ここがカルト」という指摘がないまま、ふたたび記事を書いています。
カルトと言うからには、教義や教説で異常と思った箇所を指摘しなければなりませんが、「博士の独り言」では触れられないままです。
この人は、一次資料 教祖の著作を読んでいないのです。
なぜ、読まないで、カルト呼ばわりするのでしょうか。
それは、ブログの書き手に、敬天や敬神の心がないからです。
もしも、自分に敬天や敬神の心、宗教的な境地があったなら、宗教を批判するときには慎重になります。
しっかりと著作を読んで、教義や教説に社会生活上、順応できないような異常な箇所を見つけるまでは、カルトとは言わずにいます。
なぜなら、相手の敬天や敬神の心、宗教的な境地をおとしめる言動には大きな責任がともなうからです。
慎重に教義を確かめ、確証を得てから、世の中に「カルトだ」と警鐘を鳴らすのなら、主張の正誤はともかくも、その姿勢は正しいでしょう。
しかし、「博士の独り言」の書き手は、そうではないのです。
「博士の独り言」は、政治ブログランキングで よく 1位になっているブログで、俗に言う右の内容です。
しかし、ほんとうの右、ほんとうの愛国には、
敬天や敬神の心といった宗教的な境地が必ずあるのではないでしょうか。
敬天や敬神の心は、京セラの社是にも見れるように、日本民族の伝統の心です。
「博士の独り言」の書き手には、敬天や敬神の心をいまいちど、脚下照顧されていただきたいと思います。
言論空間での批判はいかようにしようがいいでしょう。
ただし、批判する前に、謙虚に手順を踏まねばならないのが、相手が宗教だった時です。
宗教は、人の尊厳そのものだからです。
そして、宗教的境地は、
その人の心の中の神社であり仏閣であり神殿であり、
その宗教的な境地の中に、
それぞれの人の信じる神仏がおわすからに他なりません。
敬天や敬神の心さえあるなら、このことの大切さがわかるはずです。
敬天や敬神の心の大切さがわからないようでは、
日本の伝統的な、高い精神文化の復興はなしえないでしょう。
また、この天意は、日本の伝統的に言えば、神意であり、仏教的に言うと万物の持つ仏性であり、万物に仏性を授けた仏の慈悲です。
そして、敬天愛人とは、天(神)が万物を愛し慈しむように、私も人を愛し慈しもうということです。
敬天とは、敬神であり、宗教的な境地です。
ブログを書く人が、敬天(敬神)(宗教的な境地)の心や心情を持つか持たないかで、書かれた記事の質は大きく変ります。
たとえば、「博士の独り言」というブログでは、5/25に
「カルト、幸福の科学にご用心!」 http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2480.html
という記事が書かれました。
カルトと断定するからには、教祖の著作の教義や教説からここがおかしいという指摘があるかと思えば、週刊誌記事を引用しての記事でした。
そして、5/29には
「亡者の病理で「政党」結成 」 http://specialnotes.blog77.fc2.com/blog-entry-2489.html
という記事が出ましたが、前回と同じように、著作の教義や教説から「ここがカルト」という指摘がないまま、ふたたび記事を書いています。
カルトと言うからには、教義や教説で異常と思った箇所を指摘しなければなりませんが、「博士の独り言」では触れられないままです。
この人は、一次資料 教祖の著作を読んでいないのです。
なぜ、読まないで、カルト呼ばわりするのでしょうか。
それは、ブログの書き手に、敬天や敬神の心がないからです。
もしも、自分に敬天や敬神の心、宗教的な境地があったなら、宗教を批判するときには慎重になります。
しっかりと著作を読んで、教義や教説に社会生活上、順応できないような異常な箇所を見つけるまでは、カルトとは言わずにいます。
なぜなら、相手の敬天や敬神の心、宗教的な境地をおとしめる言動には大きな責任がともなうからです。
慎重に教義を確かめ、確証を得てから、世の中に「カルトだ」と警鐘を鳴らすのなら、主張の正誤はともかくも、その姿勢は正しいでしょう。
しかし、「博士の独り言」の書き手は、そうではないのです。
「博士の独り言」は、政治ブログランキングで よく 1位になっているブログで、俗に言う右の内容です。
しかし、ほんとうの右、ほんとうの愛国には、
敬天や敬神の心といった宗教的な境地が必ずあるのではないでしょうか。
敬天や敬神の心は、京セラの社是にも見れるように、日本民族の伝統の心です。
「博士の独り言」の書き手には、敬天や敬神の心をいまいちど、脚下照顧されていただきたいと思います。
言論空間での批判はいかようにしようがいいでしょう。
ただし、批判する前に、謙虚に手順を踏まねばならないのが、相手が宗教だった時です。
宗教は、人の尊厳そのものだからです。
そして、宗教的境地は、
その人の心の中の神社であり仏閣であり神殿であり、
その宗教的な境地の中に、
それぞれの人の信じる神仏がおわすからに他なりません。
敬天や敬神の心さえあるなら、このことの大切さがわかるはずです。
敬天や敬神の心の大切さがわからないようでは、
日本の伝統的な、高い精神文化の復興はなしえないでしょう。
続く