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理想国家日本の条件 自立国家日本 日本の誇りを取り戻そう! 桜 咲久也

マスコミで報道されないような
情報と日記です(^▽^)/
世界と日本の危機を伝える・・

野中兼山 私心を捨てて  小名木善行 ねずさんの ひとりごとさん

2016年03月18日 00時00分00秒 | 一般愛国者、 ご紹介記事。

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-2605.html

小名木善行 ねずさんの ひとりごとさんより

野中兼山像 (長岡郡本山町「帰全山公園」)
野中兼山

幸福の科学高知 なかまのぶろぐさん、ご推薦記事

昭和9(1934)年9月21日に午前5時頃、高知県室戸岬付近に上陸した室戸台風は
、西日本を中心に大きな被害を及ぼした台風として知られています。
この台風が室戸岬に上陸したときの中心気圧は911ヘクトパスカルです。
これは、日本本土に上陸した台風のなかで、観測史上最も上陸時の中心気圧が低く、
同緯度の台風の中心気圧では、最低の記録として、いまだに破られていません。

台風の最大瞬間風速は、毎秒60メートルと記録されていて、これが「最強の台風」の象徴と
されていますが、実は大阪管区気象台所属の室戸岬測候所が、風速60メートルを記録した
ところで観測機が風圧で壊れてしまったのです。ですから以後の計測がされていません。
つまり実際には、もっとすごい強風だったものだった可能性もあるのです。

室戸台風は、四国・高知県の室戸岬に上陸した後、大阪と神戸の間に再上陸しましたが、
阪神地区への上陸では、この時刻が満潮時と重なったため、4メートルを超える高潮が発生しました。

大阪港には、わずか30分で2メートルもの海水の流入があり、浸水は大阪城付近にまで及びました。
暴風が最大規模に達した午前8時には、暴風で小学校などの木造校舎が一瞬にして粉砕崩壊され、
中にいた児童や職員、心配して迎えに来た保護者に多数の犠牲者が出ています。
このときの被災者の慰霊のために、大阪城公園に慰霊塔(教育塔)が建てられています。
こうして室戸台風は、死者2702人、行方不明334人、負傷者14994人という大惨事をもたらしました。
ところが、この室戸台風が、イの一番に直撃した高知県の室戸では、高潮による被害がまったく出ませんでした。
とくに、室戸岬のすぐ近くにある手結内(ていない)港、津呂(つろ)港などは、室戸台風が最大勢力の時点で

上陸を迎えた、つまり阪神地区を襲ったときよりも、もっと勢いが強い状態で上陸しているのですが、
ところが港も各戸も、まるで被害が出なかったのです。なぜでしょうか。

その理由が、室戸台風がやってきたときよりも250年も昔の土佐藩家老、野中兼山(のなかけんざん)にあります。

手結内(ていない)港というのは、高地の桂浜から室戸岬へと伸びる海岸沿い約18キロにある石積みの港です。
津呂(つろ)港は、別名を室戸岬港といって、これまた室戸台風が上陸した、室戸岬にある港です。
どちらも野中兼山が命じて海面から11メートル余りの高さに石堤を築いたものです。
港の堤防も深く、外洋の潮が流れ込まないように巧妙に造られました。
それによって、手結内も津呂も、まさに台風に対して無敵の要塞となったのです。
築かれたのは江戸時代の初期ですから、もちろん重機なんてありません。
すべての港湾工事は、人力で施されました。まず、海中に土嚢を積上げて締切り、

内部に潮が入り込まないように処置したあと、ノミなどの工具で海底を掘り下げ、崖を削り、3メートルの水深の港を築いたのです。

地盤が軟弱なところには、海底に木材を敷き詰め、その上に石垣を構築して強化しました。
そして堤防にするところは、土嚢を積みあげ、土盛りし、上から石を積み上げて、強化しました。
港の入口を狭くして、高波が港に入らないように工夫しました。
港の中の四方も石堤で囲みました。
おかげで、港はどんな大嵐が来ても、外海から完全に守られる良港となったのです。
工事の開始は、承応元(1652)年、完成が3年後の明暦元(1655)年です。
この工事には、なんと延べ36万人もの人夫が動員されました。
これだけの大規模な港湾工事を推進したのが、野中兼山(のなかけんざん)です。

できた当初は野中兼山に対して、「なにもここまで大工事にしなくても」などという批判的な声が多かったそうです。
しかし、この堤防のおかげで、港は数々の台風の直撃に完璧に絶え、さらに250年後の室戸台風という史上最大規模の台風にさえ命と港を無傷に守り通しました。
その場しのぎの工事ではなく、末代まで安心して暮らせる町を築く。
その姿勢が、250年後の室戸を守ったのです。
土佐藩には有名な「郷士」制度がありますが、この「郷士」制度を創設したのも、野中兼山です。
土佐藩は長曾我部氏が戦国大名となった地で、その長宗我部氏が、大坂の陣で豊臣方に与し、敗れて一族は斬首され、

藩はお取りつぶしになりました。
そこに山内一豊が、移封されてやってきたわけです。
このため昔からいる長曾我部家の侍と、あとからきた山内氏の侍と、武士階級が二つに別れ、藩内の事情は複雑なものとなりました。

「郷士」たちの反乱などが頻発したのです。
あまりの郷士たちの反発に業を煮やした山内一豊は、相撲興行を開いて土佐の郷士の親分連中を集め、一斉にこれを囲んで殺してしまったりしています。
怒った郷士たちは、これに反発して、藩内には斬り合いが絶えないという殺伐とした状態になりました。
野中兼山が土佐藩の家老職として総奉行に就いたのは、まさに土佐の上士と郷士の対立が極限に達していた頃のことです。
そこから彼は土佐藩の総奉行を30年間勤め、藩内の揉め事を一掃してしまいました。

「郷士」制度は野中兼山が始めた制度ですが、彼は上士たちには藩の上級武士として高位を与え、郷士たちの身分は低く据え置く代わりに、郷士たちの生活を豊かにしました。彼らに未開の土地の開墾を命じたのです。
そして新たに開墾した土地は、全部郷士たちに所有を認めました。
このため長曾我部の侍たちは、争って土地の開墾をはじめたのです。
いつまでも山内家の家来の上士たちと切り合いをして争っているよりも、末孫のことを考えて、土地を開墾し、孫や子が食べれるようにしたほうが、どれほど良いか。
ですから、それまで争っていた旧長宗我部家の家臣たちは、こぞって新田の開墾にいそしみました。
つまり野中兼山は、上士たちには名誉を与え、郷士たちには経済的利益を与えたのです。
「郷士」たちは、身分こそ山内家譜代の武士よりも低く置かれたし、藩士としては下級役人にしか登用してもらえなかったけれど、新田の開墾によって、圧倒的に豊かな生活が送れるようになりました。
長宗我部家そのものも、なるほど斬首によって直系は絶えたけれど、傍系の一族はこの新田開墾によって帰農し、姓氏を島姓に変えるなどして豪農として生きながらえています。
そして明治にはいってから再び姓を「長宗我部」に戻し、お家の再興をしています。

ちなみに近年の時代劇などを見ると、土佐藩の「上士」たちは美しい着物を着ていかにも豊かそうに描かれ、一方「郷士」たちは、まるで乞食のような貧しい生活に置かれているかのように描かれますが、これは実は逆です。生活ぶりは郷士の方がよほど豊かだったのです。
有名な坂本龍馬は、土佐藩の郷士の出ですが、彼は脱藩後、全国を飛び回って幕末の志士として活躍しました。
全国を飛び回るには、食費も宿泊費もかかります。
それだけの経済的裏付けがあったからこそ、彼は幕末の志士として活躍ができたのです。
郷士は豊かだったといっても、豊かゆえに、なかには飲んだくれたり、遊郭にはまったり、バクチに走ったりして、身を持ち崩す者も出ます。
土佐藩は、そうした人に豪農や商人などに「郷士」株を売ることを認めました。
藩はその手数料をいただいて、藩の財政を潤し、同時に身代を潰した郷士への救済を与えたわけです。
ちなみに、おもしろいもので、郷士株を売っても、売った郷士は、武家としての身分は保障されています。足軽としてなどの録がもらえなくなるだけのことです。
買った豪商たちは、武家として苗字帯刀が許されています。
坂本竜馬の「坂本家」は、もともとは豪商、大金持ちの家です。
坂本家は「郷士株」を買うことで、「郷士」の身分を手に入れています。
岡田以蔵の家も、やはり郷士株を買った豪農の家です。
身分は足軽だから碌は少ないけれど、家は豊かで食うに困らない。
おかげで若き日の岡田以蔵は、安心して剣術の稽古に精を出せたのです。

話が脱線しましたが、こうして野中兼山は、「上士」と「郷士」の対立を解消しただけでなく、他にも植林や間伐の計画化を実施し、土佐の山林を守っています。
また、米価についても、それまで土佐藩内の米価は変動制で、豊作の年には米の値が暴落し、不作の年は暴騰するという状態だったものを、「公定価格制度」を導入することで、米価を常時安定させ、農民たちを手厚く保護しました。
実際、台風のメッカともいえる高知県(土佐藩)で、江戸時代を通じて飢饉の記録がありません。
自給自足経済であり、豊作と凶作が代わる代わるやってきた江戸日本において、野中兼山の行ったこの米価安定策が、どれだけ庶民の暮らしを助け、支えたか。
郷士、上士の区分も、争いを終わらせるため、米の備蓄は、万一の備え、新田は豊かな藩を築くこと。
野中兼山の政策は、いずれも「おおみたから」である民の生活を第一とする道であったわけです。
野中兼山は、元和元年(1615年)の生まれです。
祖父の妻は、藩主・山内一豊の妹ですから、藩主の山内家とは縁続きになります。
慶長6(1601)年に山内一豊が土佐藩に移封になったとき、兼山の父、良明は、5000石の扶持を与えられる大身の侍だったのですが、一豊が約束した昇給が、殿さま(一豊)の死後に反故にされたことに腹を立てて、土佐藩を去って浪人になってしまっています。
父は大阪で、大阪の商家の娘を嫁にもらい、兼山を産むのですが、その父も若くしてこの世を去ってしまいます。
そして母は、夫の親戚を頼り、兼山を連れて土佐に帰ってきた。
このあたり、当時の習俗を知るうえで、非常に特徴的です。
つまり、結婚後、子が生まれた女性が、実家がいかに豊かであっても、夫方の死後、夫方の親戚を頼っている。

戦後の日本は、個人主義となっていますが、戦前までの日本は家族主義だった。
戦後日本が失いつつある「家」という概念が、当時、いかに強かったかが、この兼山の母の行動ひとつをとってもわかります。
子供の頃から兼山は、非常に学問ができ、武芸にも秀でたそうです。
あまりに優秀であることから、13歳のとき、父の従兄弟にあたる土佐藩奉行職の野中直継の娘・市の入婿となる。
そして15歳で元服し、野中良継と名乗ります。
そして寛永13(1636)年、養父の野中直継が病死ししたため、家督を継ぎ、なんと若冠21歳で、土佐藩の総奉行職に就いています。
二代藩主の山内忠義は、優秀な兼山を見込んで、彼に藩政改革の一切を委ねます。
こういうところも、江戸日本の凄みです。
繰り返しになりますが、当時の土佐藩は、上士と郷士の対立がすさまじく、藩内には郷士たちの暴動が相次ぎ、先代藩主の一豊は、暴動の首魁である長曽我部家の遺臣らを桂浜の角力大会に招待し、その場で彼らを捕縛して、73名をいきなり磔(はりつけ)にして殺したりもしているのです。
藩内には混乱と緊張が生まれ、一豊が高知城を築城したときなどは、なんと影武者を6人も揃えて、現地の視察などをしている。
それだけ藩内には緊張状態が続いていたのです。
そしてそういう混乱状態を修復させるための総責任者に、二代目藩主の忠義は、若冠21歳の若者を据えたのです。

請けた兼山にしてみれば、これはたいへんなことです。
土佐一国の行政のすべての総責任者となったのです。
藩の運営と改革の一切の責任者です。
失敗すれば、当然、切腹です。
現代社会のように、単に職を解任されるという程度の生易しいものではない。
しかも、処分の対象は、自分だけでなく、自分を育ててくれた養父一家にまで咎がおよびます。
下手をすれば一族郎党全部が断罪されてしまう。
野中兼山は、それだけの責任を、担ったのです。
そして兼山が、最初に手掛けたのが、冒頭でご紹介した港湾堤防の建設です。
いまも昔も、土佐は台風のメッカです。

まずは、台風対策。
彼はそこからスタートした。
これは大事業です。
その大事業の港湾作業に、兼山は、土佐の郷士たちを積極的に登用しています。
郷士たちを、藩の重責に就けることはできなかったけれど、港湾建設という特定目的の責任者に据えることはできる。
郷士たちは、長宗我部家という名誉ある家の残党です。
民から慕われ愛され、尊敬を集めている。
しかも台風被害のためにと任された仕事です。
俺たちの実力を目にもの見せてくれると、彼らは真剣に頑張りとおします。
港の工事は順調に進み、もはや台風などには絶対に負けない、最強の港湾設備が出来上がった。

笑顔で出航する漁師たちは、安定した港を得ることで、後顧の憂いなく、漁に打ちこんだ。
その結果生まれたのが土佐のカツオの一本釣りです。
カツオは、たとえば津呂の港だけで、年間の水揚高10万尾を誇るものに育ちます。
兼山は、このカツオの流通にも気を配ります。
漁師たちに、問屋を通さず商人と直取引することを認めた。
これによって漁民の生活は著しく改善し、向上しています。
こうなると、さらに欲が出るのが人間というものです。
津呂村では、カツオだけでなく捕鯨にも進出。

冬季のひとシーズンで、なんと座頭鯨3頭、児鯨25頭、さらに背美鯨8頭、イワシ鯨1頭を仕留め、漁銀283貫という大金を稼ぎ出した。
となりの手結内港の漁師たちも、こうなったら負けてられません。
漁師たちは、互いに競うように水揚げ高を伸ばし、生活はますます好転した。
港の改築工事が終わると、今度は、兼山は、郷士に平野部の新田開墾を命じます。
開墾したら、そこは自分の土地です。
土佐の郷士たちは、もともと一領具足といって、半農半兵の武士たちです。
新田開発となると、彼らは眼の色を変えて開発にいそしみます。
新田の開墾というのは、単に樹を切り倒し、土地を耕せば良いというものではありません。
田んぼですから、当然、水路もひかなくちゃならないし、そのための堤防工事など大規模な治水工事が必要となります。
自分勝手に適当な土地を開墾すれば良いというものではないのです。
組織だった活動が不可欠になる。
兼山は、これを旧・長宗我部の家臣団の序列をまるごと援用することで、大規模開発を可能にしています。
長宗我部の家臣たちは、手にした槍や刀を、スキやクワに持ち替えて、農地の開墾をしたのです。

これによって、土佐藩の米は、爆発的に増産されます。
幕末、薩長土肥の新政府軍の一翼として、土佐藩が大きな力を振るうことができたのも、こうした社会インフラが、土佐山内家の初期に構築されたからに他なりません。
この頃の兼山に、おもしろい逸話があります。
ある日、兼山が江戸の土産にと「ハマグリ」や「アサリ」を船一隻分持ち帰えったのだそうです。
江戸土産です。
みんなが貝汁が腹いっぱい食えると楽しみにしていると、人々の前で兼山は、持ち帰った貝を全部、土佐の海に投げ捨ててしまった。
驚く人々に、彼は「これは諸君へのお土産ではないです。諸君の子々孫々のためのお土産なのです」と嬉しそうに答えた。
集まった人たちは、兼山のそうした見識に、まさに舌を巻いたといいます。
実際、いまでも土佐湾は、「ハマグリ」や「アサリ」の海産物で潤いる。
こうした野中兼山の業績をみると、つくづく政治というのは百年、千年の大計によるものなのだなあと、感じます。

兼山の行った業績は、まだあります。
彼は、陶器、養蜂などの技術者を積極的に藩内に招き、殖産興業に勤めた。
いまでもたとえば陶器で、土佐焼といえば、有名なブランドです。
他にも兼山は、「念仏講」という民間組織などを作っています。
これは町内のみんなで積立金をして、誰かが亡くなったとき、みんなで丁重な葬儀を営もうというもので、いまでいったら、互助会のようなものです。
ところが兼山のすごいのは、この互助会を、単に積み金を行う民だけのものにしなかったという点です。
ここが、現代の互助会とおおいに違う。
四国は、中世からハンセン氏病患者の巡礼地だったのです。
巡礼の途中で亡くなる人も多い。
なにせ、体が腐る病気です。
誰だって遺体に触るのは気が引ける。
だからハンセン氏病の巡礼者の遺体は粗略に扱われていたのだけれど、兼山は「講」を通じて、これらも手厚く葬儀をし、丁重に埋葬させた。
いまどきの左翼が行う互助会とはえらい違いです。
遺体といえば、他にも、当時、難病とされた天然痘患者を、置棄(おきすて)にするという習慣があった。
これは天然痘患者を、山に連れて行って置いてけぼりにして、飢え死にさせてしまうという古くからの風習なのだけれど、

兼山は、これも全面的に禁止しています。
そして藩内に、天然痘患者専用の介護施設を築き、葬儀の体制もちゃんと整えた。
野中兼山の施政は、常に遠大な理想に基づいて仕事をする、というところにあります。
目先の対処療法ではない。
「根治」を前提に政治を進めています。

ですから、兼山の施策は、何をしてもうまくいきます。
多くの善意ある人々が兼山に心服し、兼山を慕います。
当然といえば当然といえます。
ところが、世間というものは、立派な業績を残し立派な成果を残した人を必ずしも顕彰するとは限りません。
藩の筆頭家老などは、自分よりも地位が低くて歳の若い兼山が、次つぎと政策を成功させるのが、腹立たしくてしかたがなかったようです。
そもそも30年間にわたって、兼山に藩政を委ねてきたということは、裏返しに言えば、筆頭国家老らは、

それまで30年間にわたってなんら藩政に貢献できず、無為に過ごしてきたということになるのです。
それこそ重臣として情けない話です。
誰が何と言おうが、国のために精一杯力を尽くし行動してこそ、筆頭国老としての重責を全うしたというものです。
いまの日本のなんとかいう名前の政党と同じです。
万年野党に甘んじ、政府与党の行う政治にケチばかりつけ、何の実績も成果も挙げられなかった連中が、

政権交代となるや、なんでもかんでも前政権の「せい」にして、その実、自分たちは何一つまともな政治をしていない。
それで政権を追われたら、こんどは自分たちが政権与党だった時代の失政までも、自民の「せい」にしています。
二代目土佐藩主山内忠義が存命中は、筆頭家老らも大人しくしていたのです。
それだけ忠義公の、兼山への信頼が厚かったからです。
ところが、藩公が急逝し、三代目藩主が後を継ぐ段階に至って、彼らは牙をむき出しました。
藩内に、野中兼山の中傷を撒き散らし、藩内の数々の矛盾や不足を、ことごとく野中兼山の「せい」にしたのです。
そして若い三代目藩主に対し、「これまで兼山は、筆頭国老の体面をも踏みにじり、独断専横を行ってきた」と、兼山打倒のための「弾劾書」を提出します。
一、武士たちが租税で苦しんでいる
一、農民たちが工事で苦しんでいる
一、町人たちが御用金で苦しんでいる、
そして彼らは、農民、漁民、町人の代表を呼んで、藩主の前で藩政への苦情を上申させました。
ぜんぶ、ヤラセです。
そもそも封建制度の中にあって、藩政を公然と批判させるなどということは、通常ではありえないことなのです。
それをやったのです。
ところが見かけ上は、筆頭家老らが藩政を憂いて決意を新たにした真摯な態度を装っています。
~~~~~~~~~~~
ふだんは、民のことなど考えもしない彼らが、この時ばかりは“民の声”を持ち出した。
ここにも彼らの狡猜さと、いかに追放の口実を欲していたかを見ることができる。
事実、土佐藩において、このように民の意見に耳を傾けることなど、このあと、ただの一度もなかったのである。
(「野中兼山」横川末吉著 吉川弘文館)
~~~~~~~~~~~
要するに、彼らは民を「利用」したにすぎません。
いまの日本の国政も同じです。
口先だけ「日本のため、国民のため」というけれど、やっていることは、自己の保身と権益の確保拡大だけというのは、どっかの政党と同じです。
それでも下手にケチをつけると、自分たちがやったことへのブーメランとなることは、すこしは学んだのでしょう。
すると今度は、閣僚が何万円、おかしな遣い方をしているとか騒ぎ始めました。
国会というのは、1日開催すると費用が1億円かかるのです。
それを何日も無駄にして、やっていることは数万円の追求では、本末転倒です。
やってることが子供以下です。
それでいて政治家とは聞いて呆(あき)れます。

筆頭国老らの「弾劾書」が出でから、わずか十日後、野中兼山は、総奉行職を解かれ、蟄居が命じられました。
野中兼山は、「藩主中心の土佐藩」を築くことに半生を賭けてきました。
ところが「藩主中心の土佐藩」という美辞麗句で職を追われたのです。
言葉は同じ 「藩主中心の土佐藩」 です。
しかし、藩主を中心に藩の民が潤う善政をひくという意味での「藩主中心の土佐藩」と、藩主の地位を利用し、藩の高官の保身を図るという意味での「藩主中心の土佐藩」では、その本質はまるで違います。
蟄居を命じられた日、兼山は屋敷で彼は子供たちを集めて次のように語りました。
~~~~~~~~~~
お前たちはまだ幼い。
いまここで、父の申すことがわからなくても、その芽を、そち達の胸の中に残し置いておきなさい。
やがてお前たちの心の中で、それが大きな木となり枝となって、はっきりとしてくる日がかならずやってくる。
人というものは、いかなる場合でも休んではならぬ。
どのように踏まれても叩かれても、いつでも再び飛び上がる、以前よりもっともっと高く飛び上がれるという、心の備え、身の備えをしなければならぬ。
土佐、いや日本国はこれから日一日と開けてゆく。
人もふえるであろう。
そうなれば、ひとりの野中兼山では足らなくなる。
百人の兼山、千人の兼山が必要となるであろう。
そなたたちは、ひとりのこらず、この父の上に立ち、この父を土台にして立派な野中兼山にならなくてはならぬ。
~~~~~~~~~~~
兼山蟄居後、兼山が登用した人々も、次々と追放されました。
そして彼自身にも切腹の命が下されるだろうとの噂が広まりました。
ところが、寛文3(1663)年12月15日、兼山は病となり、香美郡山田村中野(土佐山田町)で、あっけなく急死してしまいます。享年49歳でした。
病死と伝えられているけれど、実は、腹を切ったのかもしれません。
そしれそれさえも、病死として片づけられたというのが真相だったのかもしれません。
兼山の没後、彼が辞職時に一切言い訳をしなかったことが仇となり、兼山の一族は、以後、一か所に押し込められ幽閉されました。
その幽閉が解かれたのは、なんと40年後です。
長い幽閉生活で、兼山の男系の血筋が完全に絶えたとき、はじめて幽閉が解かれたのです。

正しいことをする。
民のために政治を行う。
そのことは、とても素晴らしいことです。
けれど、それを行う人は、世間のウシハク人たち、いまの世間で権力や財力を持った人たちを敵に回すことになります。
ですから、正しいこと、本当に国民のためになることをする人は、いつの時代にあっても末路は必ずしも幸福になっていません。
菅原道真公しかり、吉田松陰しかり、野中兼山しかりです。
それでも正しい道を行く。民のために生きる。
それが志ある日本男子の生きる道なのであろうと思います。
野中兼山が生前に残したエピソードに、次のような話があります。
ある日、すさまじい暴風雨となったとき、灌漑のために築いたばかりの堤防が切れるのではないかと、ひとりの役人が見回りにでたそうです。
見れば豪雨により、川はどんどんと水かさを増していきます。
たいへんに危険な状態です。
けれどその暴風雨の中で、その役人は、できたばかりの堤防の上で、腹ばいになって堤防の無事を確かめているひとりの武士の姿を発見したのだそうです。
それが野中兼山でした。
彼は藩を預かる執政として堤防の無事をたしかめるために、嵐をついて出てきたのです。
兼山は轟々と流れる川面を見つめながら、役人に言ったそうです。
~~~~~~~~~~~
この堤は、未来永劫切れることはないよ。
なぜなら野中兼山、私のためにひと塊の土、ひと筋の水も動かしていないからだ。
すべて藩主のため、領民のため、ひいては日本国のためです。
この心は、誰も知らなくても天のみ知っている。
~~~~~~~~~~~
兼山は、自らの私欲を捨てることで、一念を天に通じさせたのかもしれません。
同じく野中兼山の言葉に、次のものがあります。
~~~~~~~~~~~
たとえ90歳、100歳まで長生きしても、死後ひとりもその名を伝えないのでは、虻(あぶ)も同然である。
長生きの甲斐もない。
~~~~~~~~~~~
兼山は、人生の短い幕を降ろしました。
しかし兼山が残した偉業は、土佐藩繁栄の礎となり、21世紀を迎えたいまでも、高知県に息づいています。
歴史上、偉業をなす人には、迫害がつきものなのかもしれません。
もしかしたら、それが歴史の必然なのかもしれない。
しかし、その人物の本当の偉大さは時とともに必ず明らかになります。
野中兼山の生き方は、まさにその一点を我々に教えてくれています。

野中兼山を考えるとき、まったく別な時代、別な場所で語られたひとりの人物の言葉を思い出します。
次の言葉です。
~~~~~~~~~~~
日本民族が今まさに滅びんとする時にあたり、
身をもってこれを防いだ若者達がいたという歴史が残る限り、
五百年後、千年後の世に、
必ずや日本民族は再興するであろう。
~~~~~~~~~~~
大西瀧治郎中将の言葉です。

歴史は、ときに大きな間違いを犯します。
しかし、そうした間違いを誘発するのは、決まってきれいごとを言いながら、自己の保身と他者への中傷、批判を繰り返し、なんでも悪いのは「人のせい」にする馬鹿者たちです。
こうした馬鹿者たちは、いっときは時勢の中で綺羅星のような輝きをみせることがあるかもしれないけれど、結局は世の中に害毒しか残さず、多くの人を不幸にする原因を作ります。
一方、時代を超えて残るのは、百年、千年の大計に立って未来を見つめ、私心をなくして公に尽くし、何事も「人のせい」にしない。
そしてそういう人は「泥をかぶる覚悟」を持った人たちです。
わたしたちは、ひとりひとりは小さな人間です。
何の権力があるわけでもない。
過去を振り返れば、間違いや失敗の連続です。
しかし、その失敗だらけの小さな私たちが、私心を捨て、日本の百年後、千年後の未来のために活動を開始したとき、

それはきっと天に通じる大きな働きとなります。日本の保守派、いまやマイノリティ(少数派)と化したといわれています。

違います。圧倒的大多数の日本人は、日本が好きです。
日本人のDNAの中には、日本を護り育んだ英霊たちや先人たちの魂がちゃんと宿っています。
そしていま、陸続と日本に目覚める人々が全国から湧き起こっています。
そういうひとりひとりの目覚めた日本人が、私心を捨て、未来を見つめて行動を起こすとき、日本は必ず変わるのです。
大西中将は、それを五百年後、千年後とおっしゃられました。
でも戦後70年、時代の変化は、昔より格段に速くなっています。
日本人の素晴らしい日本を、私たちの世代で取り戻して行こうではありませんか。
そうすることで、もっとはるかに早く、日本人は覚醒していきます。

世の中はおもしろいものです。
いつの時代も「善」を行おうとする者が叩かれます。
なぜなら「善」を行うものは叩きやすいからです。
それでも私たちは、戦い続けます。
勁(つよ)い日本を取り戻すために、です。

≪ご参考:大西瀧治郎中将の遺書≫

特攻隊の英霊に曰す、善く戦ひたり、深謝す。

最後の勝利を信じつつ肉弾として散華せり。
然れども其の信念は遂に達成し得ざるに到れり。
吾れ死を以て旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす。

次に一般青壮年に告ぐ。
吾が死にして、輕挙は利敵行為なるを思ひ、
聖旨に添ひ奉り、自重忍苦する誡めとならば幸いなり。

隠忍するとも、日本人たるの矜持を失う勿れ。
諸子は國の寳なり。

平時に處し猶克く特攻精神を堅持し、
日本民族の福祉と世界人類の平和の為、最善を盡せよ。

 海軍中将
 大西瀧治郎

 


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カツオと米が護った、自由の国土佐の精神。 2016-02-12  幸福の科学高知 なかまのぶろぐさんより 

http://blog.goo.ne.jp/rokochifukyosho/e/b6261a22ee04294f907aa1a6a026e4f8 より

高知の料理の代名詞と言えばカツオ。

カツオの水揚げ量では、高知は日本一ではありませんが、旨さで言えば日本一、いや世界一ではないでしょうか。
なぜそんなに、土佐のカツオ料理は旨いのか?
それはやはり昔から食べていたので、カツオの選別や、調理方法のノウハウの蓄積が違うのだろうと思います。
カツオのたたきが有名ですが、これはカツオに付いている寄生虫を心配した土佐藩が、
領民にカツオの刺身を食べることを禁止したことから始まったとか。
つまり、火で炙っているので、もはや刺身ではない・・・(笑)ということで、
ヒョウタンからコマ、これが旨かったということですね。

ということで、カツオのたたきは江戸時代の土佐が発祥ですが、カツオと言えば、黒潮に乗って
回遊する外洋の魚であることは、もう皆さんご存知のことだろうと思います。
つまり江戸時代の土佐には、外洋に出られるくらいの航海技術が、
一般的な漁師レベルで持っていた・・・ということになりますよね。

いくら日本一、黒潮に近い高知県だと言っても、黒潮の潮流に負けないで漁ができるには、それ相応の、
大きな船は絶対に必要です。でなければ、外洋の波に耐えることはできないし、黒潮に流されてしまうからです。
ということは、江戸時代の土佐の国では、一般漁師が外洋漁ができる大きな船舶を持っていたということですし、
大きな船を泊めておけるだけの、大きな港があったことを示しています。
ということは、江戸時代に土佐の国以外の地域でカツオ料理が発展しなかったのは、
外洋漁ができるくらいの大きな船を泊めて置けるだけの、大きな港がなかったから・・・とも言えるのですね。
そう、江戸時代の土佐の国には、カツオ漁ができるくらいの、大きな船を泊めておける港が、もうすでにあったんです。
それが、香南市の手結港(ていこう)や、室戸市の津呂港や室津港など、土佐藩初期の家老野中兼山が造った外洋港です。

前回記事で野中兼山の灌漑事業による、米の大量生産大量輸出による土佐の繁栄について述べましたが、
いくら米を作っても、売れなければ儲けはないし、また運ぶのにコストがかかっては儲けがありませんので、
大量消費地である、関西圏への米の運送は船を使いました。
ただ土佐湾は、ほぼ外洋とも言える荒波の海ですので、航海を安全に行うために、輸送船が寄港できるところが
欲しかったのですが、そのために兼山は手結港や津呂港などを造ったのです。
当時の港は、河川などの河港(かわみなと)が主流でしたが、河港だと浅く、大きな船を泊めることができません。
ですから野中は外洋港という、当時世界で誰も行っていない手法で、
手結港などの当時としてはかなり規模の大きな港を、新たに造ったのです。
そしてそれは、地元漁師も使うことができた・・・つまり、手結港など規模の大きな港があったので、
土佐のカツオ文化が花開いたわけですね。

世界初の外洋港手結港

さて私はこの手結港などの大型外洋港が、土佐人の気質である、自由を愛する精神を培ったと思っているんです。

なぜかというと、江戸時代における大きな港というのは、即海軍力を意味するからです。
当時の軍船は砲弾などを積んでいるのではなく、多くの侍を乗せられる船が軍船だったからです。

つまり当時は、輸送船や漁船=軍船だったわけです。
つまり関西への土佐藩輸送船の寄航用の港ではあるのですが、大きな船が泊まれるわけで、そして
カツオ漁などができる大型船舶も常備しているわけですから、
事実上土佐藩は、立派な軍港をいくつも保有していたことになります。

続き

http://blog.goo.ne.jp/rokochifukyosho/e/b6261a22ee04294f907aa1a6a026e4f8 より

 

 

 

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