オウムの教訓 宗教教育と宗教報道が要
【ついき秀学のMirai Vision】
2011.11.25 05:00
オウム真理教の元幹部遠藤誠一被告の上告を棄却した
最高裁第1小法廷=21日午前サイトに画像http://www.sankeibiz.jp/compliance/news/111125/cpb1111250502004-n1.htm
□幸福実現党党首
11月21日、地下鉄・松本両サリン事件で
殺人罪等に問われたオウム真理教元幹部の上告審判決で、
最高裁第一小法廷は被告側の上告を棄却しました。
これを以て一連のオウム裁判は終結しましたが、
このオウム事件から日本の社会が教訓を引き出し、
十分な対応をしているとは言えません。
◆宗教教育の必要性に気づけ
事件当時、オウム教には高学歴の幹部が数多くいて、
この事実に首を傾げる向きもよくありました。
しかし、学力の高さと善悪の判断能力とは必ずしも
連動するものではありません。ここからしっかりとした
道徳教育が必要という教訓が得られます。
ただ、オウム教に入信した人たちはもともと真面目に
人生や宗教について追究したり、努力家だったりするような
タイプが多かったとも言われます。そのような人たちが、
なぜ大量殺人を行うような宗教にのめり込んでしまったのか。
ここで、日本の公教育の致命的な欠陥--
「宗教教育の欠如」を指摘せざるを得ません。
オウム教は仏教やヨガをベースに教義や修行法を
組み立てていましたが、仏教の教主・釈尊が信者への
戒め(五戒)として、いの一番に教えたのが
「命あるものを殺すなかれ」という「不殺生戒」でした。
にもかかわらず、オウム教は教団にとって邪魔な人はおろか、
教団とは無関係な市井の人々を殺すことを正当化する
教義を持ち、それを出家者が実践していました。
もし、仏教の基本中の基本である不殺生戒が
人生の大切な指針として、小中学生のうちからしっかり
教えられていたならば、オウム教が殺人を正当化する
教義を有していると知った瞬間に、それが
仏教を騙る邪教であることが判別できたでしょう。
その意味で、宗教を公教育から排除した日本の戦後体制が
オウム教という鬼子を産み落としたと言えます。
残念ながら、宗教教育の必要性を感じている人は
まだ少数のようです。
幸福実現党はかねて
「一宗一派に偏らない宗教教育を取り入れて優れた
人格を育成すること」を政策として訴えていますが、
一昨年9月にインターネットで全国5500人に
アンケート調査した結果、この政策に共感できる人
(非常に共感できる、やや共感できる)は7.8%に過ぎず、
67.2%の人が否定的な回答
(共感できない、全く共感できない)でした。
◆宗教を肯定的に報じないマスコミ
戦後日本社会が、オウム教の勢力伸長を許す宗教音痴
の世の中となってしまった、もう一つの大きな要因は、
マスコミによる宗教の取り扱い方です。端的に言って、
新聞もテレビも宗教団体を取り上げるのは悪い事件が
起こった時だけで、宗教団体を肯定的に扱う内容は
ほとんど記事にも番組にもなりません。
米国では事情が正反対で、宗教団体によるテレビ番組が
盛んに放送されており、プロテスタントやカトリックの
牧師・神父にとどまらず、ヒンズー教のグル(指導者)
が説教するものまであります。
日本はと言えば、バラエティー番組で“霊能者”が
頻繁に登場することはあっても、宗教団体の教祖、
特に新宗教の教祖がテレビに出て説法するような番組は
全くありません。
学校法人や医療法人の運営する学校や病院の現場が
テレビでレポートされることがあっても、前二者と
同じく「公益法人」である宗教法人の活動状況が
テレビで肯定的に紹介されることもほとんどありません。
例えば一連のオウム事件の中でも、目黒公証人役場
事務長拉致事件では、幸福の科学信者が拉致現場を
目撃し、警察へ第一通報。
その後も幸福の科学信者ら有志が拉致事件の解決を
訴えて全国的にビラ配布や大規模デモ等の活動を展開し、
世論を喚起しました。
地下鉄サリン事件後、警視庁が山梨県上九一色村(当時)
等のオウム教施設に強制捜査に入ったのは同拉致事件の
疑いによるものです。
ところが、この辺りの事実関係を報じたマスコミは
これまでのところありません。
「公正中立」を名目にポジティブな宗教報道を
避けているため、マスコミの宗教に関する不勉強と、
それがゆえの(事件性のない)宗教の良し悪しの
判定不能が続いています。
リスクを取って宗教を推奨する記事や番組を
作成するところから、マスコミにも
宗教を見分ける本物の智恵が生まれてくることでしょう。
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これがどれだけ一般化できるかわかりませんが、目からウロコでした。
つまり、宗教教育=宗教団体教育とイメージしてしまうわけですね。
最近はリテラシーという言葉が大分定着していますので、宗教リテラシーと言い方を変えるのはいかがでしょうか?
宗教の布教としては弱いですが、立木さんが言っている「正邪を分ける」という趣旨にはこちらのほうが合う気がします。