<佐波家系図> 久留米藩「御家中略系譜 巻21佐之上」(有馬文庫)には第4代以降~15代までが記載されている
澤(佐波)九郎左衛門之忠(澤城主:奈良県宇陀市、達磨山館主=永山遺跡)を初代とし佐波家の起源としている。
紋は丸之内三ツ蔦
解説:鎌倉時代、春日大社、興福寺の所領の庄官として地元の土豪が任用された。澤(佐波)氏は、宇陀三人衆(澤、秋山、芳野氏)とし て台頭、武士化
した。奈良県宇陀市の伊那佐山・澤城を拠点とした。1353年頃、伊勢国司・北畠氏の影響下に入り、その後、伊賀・伊勢方面に勢力を伸ばす。
達磨山館は三重県松阪市松名瀬町にあり、海から侵入する敵への防衛拠点、現在、遺跡指定される。
2代-佐波九郎左衛門之廣 (達磨山館主)
3 -佐波九郎左衛門之道 ( 〃 )
4 -佐波十兵衛之治 ( 〃 )
解説:4代 十兵衛之治から「久留米藩御家中略系譜 第21佐之上」に勢州松名瀬に浪人とある
5 -佐波半兵衛之信 (豊臣秀次、福島正則家臣)
解説:北畠氏没落(1569年)後、豊臣秀次に奉公。秀次生害(1593年7月)後に浪人。1599年、尾州清州(愛知県清須市)にて福島正則仕える(秀次に切腹
の命を伝えに高野山に行ったのが福島正則だった)。関ヶ原の戦(1600年10月)後、広島藩(広島県:安芸藩と備後の半分)に国替え
6 -佐波(澤)助左衛門之正(福島正則、有馬豊氏家臣)
解説:福島備後守の大扈従として使える。備後守に「初代が奈良県榛原の澤城主だった」ことを話した折、命により佐波を澤に改めた(久留米藩略系譜よ
り)。福島正則改易後、1621年浪人。1622年、久留米藩の有馬氏に仕える。
7 -澤四兵衛供之 (有馬家家臣 久留米藩士)
8 -澤半右衛門之仲( 〃 )
9 -澤四兵衛之直 ( 〃 )
10 -澤助左衛門之重( 〃 )
11 -澤四兵衛之綱 ( 〃 )
12 -澤熊吉之恒 ( 〃 )
13 -澤四兵衛之意 ( 〃 )
14 -澤四兵衛之高 ( 〃 )
明治維新(1868年)時、有栖川宮大総督府直属の御使番として出陣、精勤につき下賜(太政官日誌、明治2年第62号に記録)
明治2年久留米藩分限帳には、御馬回56番 430石 公事奉行副役
明治4年(1871年)廃藩置県
のち佐波半平と改める
明治11年没
15 -佐波保輔之直(14代の長男)
解説:明治14年福島県郡山市の開墾事業に25歳で参加、明治23年山梨県南部に引揚。警察官任官、明治31年42没
<有馬文庫 久留米藩「御家中略系譜 巻21佐之上」第4代~15代までが記載される。水害により傷みが激しい>

16 -佐波潔之家 (15代の長男)
17 -佐波簡之輝 ( 〃 2男)
埼玉県の警察官に任官。その後、浦和で写真館経営
18 -佐波紳夫 (17代3男)大日本帝国陸軍主計少尉
19 -佐波喜九緒 (18代長男)令和4年没
20 -(17世男子分家の意。その子?)
17世は5男4女を儲け、一族の繁栄を切望したが、意気に燃えるもの無く、ただ絶えるのみか
古今東西、歴史上の栄華を極めることの難しさをつくづく実感する今日この頃
<佐波(サワ)>
松阪・伊勢では佐波姓をサバと読むのが一般的。初めて松阪市黒部町の意非多神社(オイタ)を調査目的で訪れた際、サワ(佐波)の縁者と名乗っても、当初は話が一致しなか
った。佐波(サバ)→澤(サワ=第6代 助左衛門の項参照)→佐波(サワ)となった。三重県松坂市の電話帳には佐波(サバ)姓が多数掲載されている。また「サナミ」という読
み方もある。
・西日本NTTハローページ(2009.8.3現在)から「佐波」を抽出した結果:
三重県の内訳(読み方の違いは電話帳の前後姓から判断した)
サワ姓 : 1件
サバ :89件(うち松坂市内55件、伊勢市内21件)
サナミ :22件
(今後、携帯電話普及等で電話帳登録は減少へ)
<三重県松坂市松名瀬を発祥とする佐波(サワ)氏の系図>
<濱神社> =佐波氏の氏神様
かつて飯野郡西黒部村に濱神社あり、明治41年 村社に合祀された無格社(現在は松名瀬神社となる=歴史:西暦1203年八
王子社創建、1870年宇気比神社と改称、1908年宇気比神社に境内神社の須賀神社、世古の根晋神社、北出の濱神社、松世
崎の山神社を合祀し、松名瀬神社と改称し今に至る)
・三重県の合祀済神社明細帳には「当社は当村佐波某と申者一族にて往古よ祭り・・・・・」との記述あり
祭神は素戔嗚尊
境内:86坪(284平方メートル)
社殿:桁(左右 77cm)、梁(奥行 56cm)
信徒:166人
神社跡の住所:松阪市松名瀬町字北出921(明治33年作成の和紙図に記載あり)
明治初期の大日本伊勢国飯野郡西黒部村字松名瀬 神社の図(下写真 ダブルクリックで拡大)

コメントには「濱神社は塩土神に坐(いま)して、佐波という氏族の特に持斎(もちいつ)きし御社にて字北出(地名)に鎮り、ここを守り坐す神なり」とある
※※※
<ご縁の始まり>
叔父が生前の母に送った1冊の本が長い間、遺品の中に埋もれていた。この本は澤に関する書籍。ある時、何の気なしにその本を開いた。全文が相当ページあり、本来ならそのまま閉じてしまう。が何故か、この時は巻末の解説だけを読み、先祖の系譜を調べてみたくなった。当初は国会図書館等での文献調査が主、次に現地での文献調査等を重ね、2012年に完成させ、配布を済ませた。それにしても記録が残っていたことに深謝。
・調査期間 約2年
・主な調査施設は東京都5(国会図書館、防衛研究所、成蹊大学等)、福島県1、埼玉県2、山梨県1、三重県 11、奈良県5、広島県1、福岡県8箇所
・調査費用は約60万円
・A3用紙 約340ページ/冊のファイル
<ブログ作成の経緯>
少子化等で松名瀬の佐波氏記録が歴史の荒波に埋もれてしまうことを恐れた。私を可愛がってくれた祖父 簡(イサム)や母の意志でもあった。先ずは松阪の公共施設にファイルの寄贈と思い電話してみたところ、あっけなく断られ悔しい思いをした。そこでウィキペディアに投稿しようと思ったが使用等に疑問が残り、これも敢え無く断念する。複数の言葉を組み合わせてGoogle検索をするとブログの「伊勢 松名瀬の佐波家」が上位に表示されることを知り、佐波氏専用ブログを立ち上げ世間に広く知ってもらうこととした。
澤(佐波)九郎左衛門之忠(澤城主:奈良県宇陀市、達磨山館主=永山遺跡)を初代とし佐波家の起源としている。
紋は丸之内三ツ蔦
解説:鎌倉時代、春日大社、興福寺の所領の庄官として地元の土豪が任用された。澤(佐波)氏は、宇陀三人衆(澤、秋山、芳野氏)とし て台頭、武士化
した。奈良県宇陀市の伊那佐山・澤城を拠点とした。1353年頃、伊勢国司・北畠氏の影響下に入り、その後、伊賀・伊勢方面に勢力を伸ばす。
達磨山館は三重県松阪市松名瀬町にあり、海から侵入する敵への防衛拠点、現在、遺跡指定される。
2代-佐波九郎左衛門之廣 (達磨山館主)
3 -佐波九郎左衛門之道 ( 〃 )
4 -佐波十兵衛之治 ( 〃 )
解説:4代 十兵衛之治から「久留米藩御家中略系譜 第21佐之上」に勢州松名瀬に浪人とある
5 -佐波半兵衛之信 (豊臣秀次、福島正則家臣)
解説:北畠氏没落(1569年)後、豊臣秀次に奉公。秀次生害(1593年7月)後に浪人。1599年、尾州清州(愛知県清須市)にて福島正則仕える(秀次に切腹
の命を伝えに高野山に行ったのが福島正則だった)。関ヶ原の戦(1600年10月)後、広島藩(広島県:安芸藩と備後の半分)に国替え
6 -佐波(澤)助左衛門之正(福島正則、有馬豊氏家臣)
解説:福島備後守の大扈従として使える。備後守に「初代が奈良県榛原の澤城主だった」ことを話した折、命により佐波を澤に改めた(久留米藩略系譜よ
り)。福島正則改易後、1621年浪人。1622年、久留米藩の有馬氏に仕える。
7 -澤四兵衛供之 (有馬家家臣 久留米藩士)
8 -澤半右衛門之仲( 〃 )
9 -澤四兵衛之直 ( 〃 )
10 -澤助左衛門之重( 〃 )
11 -澤四兵衛之綱 ( 〃 )
12 -澤熊吉之恒 ( 〃 )
13 -澤四兵衛之意 ( 〃 )
14 -澤四兵衛之高 ( 〃 )
明治維新(1868年)時、有栖川宮大総督府直属の御使番として出陣、精勤につき下賜(太政官日誌、明治2年第62号に記録)
明治2年久留米藩分限帳には、御馬回56番 430石 公事奉行副役
明治4年(1871年)廃藩置県
のち佐波半平と改める
明治11年没
15 -佐波保輔之直(14代の長男)
解説:明治14年福島県郡山市の開墾事業に25歳で参加、明治23年山梨県南部に引揚。警察官任官、明治31年42没
<有馬文庫 久留米藩「御家中略系譜 巻21佐之上」第4代~15代までが記載される。水害により傷みが激しい>

16 -佐波潔之家 (15代の長男)
17 -佐波簡之輝 ( 〃 2男)
埼玉県の警察官に任官。その後、浦和で写真館経営
18 -佐波紳夫 (17代3男)大日本帝国陸軍主計少尉
19 -佐波喜九緒 (18代長男)令和4年没
20 -(17世男子分家の意。その子?)
17世は5男4女を儲け、一族の繁栄を切望したが、意気に燃えるもの無く、ただ絶えるのみか
古今東西、歴史上の栄華を極めることの難しさをつくづく実感する今日この頃
<佐波(サワ)>
松阪・伊勢では佐波姓をサバと読むのが一般的。初めて松阪市黒部町の意非多神社(オイタ)を調査目的で訪れた際、サワ(佐波)の縁者と名乗っても、当初は話が一致しなか
った。佐波(サバ)→澤(サワ=第6代 助左衛門の項参照)→佐波(サワ)となった。三重県松坂市の電話帳には佐波(サバ)姓が多数掲載されている。また「サナミ」という読
み方もある。
・西日本NTTハローページ(2009.8.3現在)から「佐波」を抽出した結果:
三重県の内訳(読み方の違いは電話帳の前後姓から判断した)
サワ姓 : 1件
サバ :89件(うち松坂市内55件、伊勢市内21件)
サナミ :22件
(今後、携帯電話普及等で電話帳登録は減少へ)
<三重県松坂市松名瀬を発祥とする佐波(サワ)氏の系図>
<濱神社> =佐波氏の氏神様
かつて飯野郡西黒部村に濱神社あり、明治41年 村社に合祀された無格社(現在は松名瀬神社となる=歴史:西暦1203年八
王子社創建、1870年宇気比神社と改称、1908年宇気比神社に境内神社の須賀神社、世古の根晋神社、北出の濱神社、松世
崎の山神社を合祀し、松名瀬神社と改称し今に至る)
・三重県の合祀済神社明細帳には「当社は当村佐波某と申者一族にて往古よ祭り・・・・・」との記述あり
祭神は素戔嗚尊
境内:86坪(284平方メートル)
社殿:桁(左右 77cm)、梁(奥行 56cm)
信徒:166人
神社跡の住所:松阪市松名瀬町字北出921(明治33年作成の和紙図に記載あり)
明治初期の大日本伊勢国飯野郡西黒部村字松名瀬 神社の図(下写真 ダブルクリックで拡大)

コメントには「濱神社は塩土神に坐(いま)して、佐波という氏族の特に持斎(もちいつ)きし御社にて字北出(地名)に鎮り、ここを守り坐す神なり」とある
※※※
<ご縁の始まり>
叔父が生前の母に送った1冊の本が長い間、遺品の中に埋もれていた。この本は澤に関する書籍。ある時、何の気なしにその本を開いた。全文が相当ページあり、本来ならそのまま閉じてしまう。が何故か、この時は巻末の解説だけを読み、先祖の系譜を調べてみたくなった。当初は国会図書館等での文献調査が主、次に現地での文献調査等を重ね、2012年に完成させ、配布を済ませた。それにしても記録が残っていたことに深謝。
・調査期間 約2年
・主な調査施設は東京都5(国会図書館、防衛研究所、成蹊大学等)、福島県1、埼玉県2、山梨県1、三重県 11、奈良県5、広島県1、福岡県8箇所
・調査費用は約60万円
・A3用紙 約340ページ/冊のファイル
<ブログ作成の経緯>
少子化等で松名瀬の佐波氏記録が歴史の荒波に埋もれてしまうことを恐れた。私を可愛がってくれた祖父 簡(イサム)や母の意志でもあった。先ずは松阪の公共施設にファイルの寄贈と思い電話してみたところ、あっけなく断られ悔しい思いをした。そこでウィキペディアに投稿しようと思ったが使用等に疑問が残り、これも敢え無く断念する。複数の言葉を組み合わせてGoogle検索をするとブログの「伊勢 松名瀬の佐波家」が上位に表示されることを知り、佐波氏専用ブログを立ち上げ世間に広く知ってもらうこととした。
サイトを拝見し、松阪市の佐波氏のルーツを知ることができました。
現在、松阪市には約300名の佐波氏がおります。
各地区に散在しており、その子孫と思われる方々にお会いし、先祖のことをお伺いしましたが、系図もなく詳細まではわかりませんでした。
一度メールでご相談したいため、ご連絡いただけますと幸いです。
宜しくお願い申し上げます。
hob.by@gamma.ocn.ne.jp
佐波恵美子