<福島正則家臣>
<第6代 当主 佐波半兵衛之信>
「続群書類従 第25輯 上」のなかの「続群書類従 巻第714 武家部60 福島正則家中分限帳」に下記の記録がある。
・福島伊予守正守 5,000石の与力として澤 半兵衛 325石3斗の記録あり。
また「久留米藩御家中略系譜21」によると、
・勢州松名瀬の生まれ、豊臣秀次公に奉公。秀次公、ご自害(※1)のあと浪人となる。
慶長4年(※2)尾州清州に於いて福島正則に仕える。
関ヶ原の陣、相勤める。慶長5年、芸州広島へ国替え後 330石賜る。
1612年(慶長17年8月8日)73歳没、とある。
参考:① ※1=文禄4年7月(西暦1595年)、※2=西暦1599年 で浪人期間は約4年
② 豊臣秀次と福島正則の関係は、渡辺一雄著「封印された名君 豊臣秀次」P231~233参照
③ 関ヶ原の陣は慶長5年9月(西暦1600年10月)
<第7代 当主 佐波(澤)助左衛門之正>
「久留米藩御家中略系譜21」によると、
・伊勢松名瀬の生まれ、相続330石にて福島正則に仕える。
正則の命により福島備後守の大扈従を勤める。備後守の命により佐波を澤に改める(ある時、備後守に先祖が宇陀の澤城城主だったことを話す)。
元和7年、福島家改易後、浪人。
元和8年、渡瀬将監(福島家家臣)と久留米に行き、有馬家家臣 稲次壱岐の肝入りで有馬豊氏に仕える。200石、石崎村柳原に屋敷拝領後、馬廻組。
<第6代 当主 佐波半兵衛之信>
「続群書類従 第25輯 上」のなかの「続群書類従 巻第714 武家部60 福島正則家中分限帳」に下記の記録がある。
・福島伊予守正守 5,000石の与力として澤 半兵衛 325石3斗の記録あり。
また「久留米藩御家中略系譜21」によると、
・勢州松名瀬の生まれ、豊臣秀次公に奉公。秀次公、ご自害(※1)のあと浪人となる。
慶長4年(※2)尾州清州に於いて福島正則に仕える。
関ヶ原の陣、相勤める。慶長5年、芸州広島へ国替え後 330石賜る。
1612年(慶長17年8月8日)73歳没、とある。
参考:① ※1=文禄4年7月(西暦1595年)、※2=西暦1599年 で浪人期間は約4年
② 豊臣秀次と福島正則の関係は、渡辺一雄著「封印された名君 豊臣秀次」P231~233参照
③ 関ヶ原の陣は慶長5年9月(西暦1600年10月)
<第7代 当主 佐波(澤)助左衛門之正>
「久留米藩御家中略系譜21」によると、
・伊勢松名瀬の生まれ、相続330石にて福島正則に仕える。
正則の命により福島備後守の大扈従を勤める。備後守の命により佐波を澤に改める(ある時、備後守に先祖が宇陀の澤城城主だったことを話す)。
元和7年、福島家改易後、浪人。
元和8年、渡瀬将監(福島家家臣)と久留米に行き、有馬家家臣 稲次壱岐の肝入りで有馬豊氏に仕える。200石、石崎村柳原に屋敷拝領後、馬廻組。
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