The Diary of Ka2104-2

小説「田崎と藤谷」第5章 ー 石川勝敏・著

 

第5章

5月6日。5月6日のことは田崎にとって決して忘れられない日となる。代表が皆に根回ししてこの日は必ず来るようにとお達しを電話で出していた、あの藤谷が来るからとだけ言っていて、田崎には特にくれぐれもと念押ししていた。田崎だけは朝一から入所していた。いつ来るかわからないからそうして下さいとここのところは丁寧に代表から言われていた。午前10時を過ぎた頃田崎はインスタントのコーヒーをいれた。ほとんどのメンバーも集まっていた。皆に藤谷のことは共有されていた。田崎は手にしたマグカップを鼻元に持っていった。さすがにインスタントのこととて気の抜けた香りらしいものを嗅いだ。落ち着かなかった。そうして窓辺でコーヒーをすすっていると藤谷の歩く姿を目にした。「藤谷さんだ」田崎は声を上げた。隣に誰とも知れない女性が一緒に歩いて来ていた。デイルームのドアが開いた。まず藤谷がうやうやしく腰を折って一礼した、おはよう御座いますと言いながら。代表が湯呑みにお盆で背後から出てきて、「さあさあ、さおりさん、藤谷も座って」とお茶をテーブルに置いた。「じじい!」と彼女は松井代表をののしった。どうやら代表は事情に通じているらしく何事もないように振る舞った。「すいません」と藤谷。だが二人とも立ったままだった。そしてお茶のもてなしに対して「ありがとう御座います」と藤谷はそう言ったきりでなにやら落ち着きなさそうにもさもさしていた。女性は何かを探しあぐねるように部屋をきょろきょろ見渡していた。彼女の目の下には隈があり、目を赤く腫らしていた。一段と目が大きくなった。田崎と目が合ったときだ。田崎を凝視していて、もうたまらないとばかりに声が裏返って大声を発した。「私の彼を取らないで!」しばらく周囲がしーんとなったあと、皆からかすかなどよめきが上がると同時に田崎は彼女から猜疑の目を感じはするもののそれより彼は何かを突かれたようでどきりと狼狽した。藤谷が田崎に向かってぺこりと頭を下げた。ようよう藤谷がしゃべり出した。

 「実はこの子夢想家でして、いやあの、田崎さんには嘘言ってご迷惑おかけしました、事実は救急車のところだけです・・・・この子ASDで、あの、知的障害も混ざってまして、狂言だったんですこの子が119番入れたのも叔母にでたらめ電話かけたのも、僕がこの子を猫可愛がりにかわいがっていたもんだから、母や父より僕にだけとてもなついて甘えるんですが、思春期の頃から僕を特別に見るようになって錯誤症ですね、格別ちちははが亡くなってからというもの、僕のことを、ねぇあなただとかねぇダーリンだとか」ここで妹は奇声を上げた。「たったひとりのパートナーのように僕を思ってるようで・・・・僕は熟慮するようになりました、このままじゃお互いにとって良くないと、遅まきながらこの子を自立へと導いてやれなかったことを悔いて思い切って東京に旅立ちました僕、叔母には長期的な出張だと言わせて、それでこの子には内緒で、この子ほんとはよくできる子なんですよ、料理や裁縫も上手いし・・・・今度の件だって・・・・し、芝居が、う、上手かったし、きっと心底寂しかったんでしょうね、田崎さんの肩に腕を回してるレクのときの集合写真叔母に送っていてどうにかこうにかこの子が目にすることになったのでしょう、病院から突っ返されてからこの子が言うには私あなたと離れて自立するからこの写真のこの人に・・・・田崎さんあなたのことです、田崎さんに会わせてと、なんだか東京っぽくていかしてるわと」田崎は柔道家の羽賀龍之介のような顔をしており決して二枚目ではない。「今日はほんとにおさがわせして誠に申し訳ありませんでしたーーここからは声のトーンを上げまっすぐ熱のこもった力説となったーーこの子は私が置き去りにしていた、いや、目をつむっていた専門の教育を受けさせ本当の自立へ向けた指導支援のため療育院へ入れます!そうしてこの子に本当に正しい自己評価の大きな大きな花束でいっぱいにさせてやりたい!」一同静まり返る間(ま)のあとどこからともなく拍手が沸き起こった。最後の実の兄からの言葉の誠実な熱意が伝わったものかあるいは覚悟したなら覚悟したで心細くなったものか、妹はただ静かにけれどきりっとした顔に一筋の涙を流していた。


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