第4章
まだ5月初めだというのにうだるような暑さだった。朝目覚めたときには薄着で寒いとさえ感じていた。田崎は昼食を冷やしそうめんにしようかと考えていた。「もしもし田崎さん?」スマホの着信に出るとどこか懐かしい声音が聞こえてきた。「僕、藤谷」「藤谷さん?どういうこと?私電話番号なんて教えてないけど」「代表を丸め込んだんだよ」「よく言うよ二人とも」確かに二人ともどこか例外的なところがあった。「お茶かアルコールにでも行かない?」唐突に藤谷が誘ってきた。けれども田崎には一瞬ひんやりと涼しい風が吹いたように感じた。「大歓迎さ。どこ行く?」「ちょっと待って。新宿に感じのいい喫茶で夜はダイニングバーになる店知ってんだけど、もらった名刺どこ行ったっけ?探してみる」高揚した気分がまっさかさまに陥った田崎の耳にはなにかしらごそごそとした物音が聞こえていた。するとぷちっと電話は切れてしまった。「もしもし?藤谷さん、藤谷さん」
田崎は心配になって翌朝の開所過ぎにデイに出てみた。前の晩には都営住宅の割り振り抽選番号がメールで届いているのを確認していた。31だった。
「松井さん、私の電話番号勝手に教えちゃだめだよ、それぐらいの常識は守って下さいよ。ともかく心配なんだ、昨日藤谷さんの電話が向こうから切れて」田崎は不貞な代表より藤谷のことをとてもおもんばかっていた。「どうしてかかってきた電話番号にかけ直ししなかったんよ」と代表は言う。田崎はこの頃の自分の状態を一瞬スクリーニングした。私の方がおかしいのかと田崎は思い直したほどだった。すぐ我に返って彼は藤谷へ電話をかけた。着信はしているらしい、その手の音が鳴り続けた。だが長くかけ続けていても一旦切って何度かけ直しても藤谷は出なかった。「馬鹿だな。相手も着信履歴でわかるやろ、何度もそうせんでいい」と田崎は代表にたしなめられた。ところ変わって立場が逆転していた。田崎は結局デイルームの掃除をして閉所時間の5時半にそこを出ることになった。田崎はストレスが過度をも超えると何か食べたくなる性分だ。病気の影響なのか性分なのか久しくわからない。気が付けば彼は自分のワンルームマンションのある柴崎を乗り越して新宿のある小路にある串カツ店に向かっていた。気晴らしでも欲求不満でもなかった。私も変人だなと彼は思う。その店は立ち飲みでチャージを取られなくまた品も廉価だった。悪酔いはしないが彼は立ち食いしながら罪悪感のようなものにとらわれ始めた。スマホが鳴った。確かに鳴った。彼はいそいそとバッグをまさぐるのだけれども乱雑に入れられた物の中からスマホがキャッチできない。やっと捕まえたと思ったら電話はぱたっと鳴り止んだ。ああ。けれど運良くまた鳴り響いた。彼は懐かしい思いと歓喜でいっぱいになった。「はい、田崎です」やはり相手は藤谷で図星だった。「この前はごめんね。途中で田舎の方からの電話の知らせがあってそちらに切り換えたのよ。妹が救急車で運ばれたっていうんだ。妹は実家を近所の叔母に面倒みられながらシングルで守っていたんだけど、もともと心臓が弱い子でさ、おっかないことに先生が言うには危ないってんだ。もう切らなくちゃならない。ほんとごめんね」電話は切れてプープーいう音が聞こえる。田崎は混沌とし、彼の心も電信が切れたようにあらぬ方へ切断されたワイヤー先が揺らぎ飛んだ。彼は財布の中身を確認し現金はもうあとわずかでクレカだけあるのを確認した。