原著:Karl Marx(カール・マルクス)によるDas Kapital(資本論)
採用テキスト:NHK2021年12月号「カール・マルクス/資本論」斎藤幸平著
「」書きはテキストからの引用です。
資本主義社会では、誰も奴隷のように生存保証をだけはしてくれるということがありません。
資本主義は、共同体という『富』を解体し、人々を旧来の封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放しました。この点、より進歩的によく響きます。しかし、共同体から『自由』になるということは、そこにあった相互扶助、助け合いの関係性からもフリーになってしまう、つまり、切り離されてしまうのです。
「奴隷は、ただ外的な恐怖に駆られて労働するだけで、彼の生活(彼に属してはいないが保証されてはいる)のために労働するのではない。それに対して、『自由』な労働者は、自らの必要に駆られて労働する。『自由』な自己決定、すなわち『自由』の意識やそれと結び付いている責任の感情は、『自由』な労働者を奴隷よりも遙かに優れた労働者にする」とマルクスは語っていると筆者は言います。「責任の感情をもって仕事に取り組む労働者は、無理矢理働かされている奴隷よりもよく働くし、いい仕事をします。そして、ミスをしたら自分を責める。理不尽なことさえ」ハラスメントを受けてでも「受け入れて、自分を追い詰めてしまうのです。これは、資本家にとって、願ってもないことでしょう。資本家にとって都合のいいメンタリティを、労働者が自ら内面化することで、資本の論理に取り込まれていく。政治学者の白井聡は、これを魂の包摂と呼んでいます」「資本主義社会では、労働者の自発的な責任感や向上心、主体性といったものが、資本の論理に包摂されていくことをマルクスは指摘し、警告していたのです」資本主義社会により、封建的な主従関係や共同体のしがらみから解放されつつ、他方、共同体にあった相互扶助や助け合いの関係性から切り離されてしまう因果はここにあると、私、石川勝敏は認識しました。つまり我々は『自由』に主体性を持つがゆえに、自らに自らで、相互離反していく傾向にあるのではと私はにらみました。そこにあるのは『自由』ではなく個の『商品』化です。そして我々は『使用価値』よりも『価値』に軸足を置かされているのであろうと思われます。ここで云う主体性とは、我々がこんにち日常で生きていく中で”主体的に進める”とか”主体的に物事を成し遂げる”という意味ではありません。奴隷とは違う『自由』の延伸上にある主体性です。いわばコントロールされた主体性というわけです。
「資本の論理に包摂された労働者は、寝る間を惜しみ、自分の健康や家庭を犠牲にしてまで働くようになる。技術革新によって飛躍的に生産力が高まり、豊かになったにもかかわらず、現代の労働者は、マルクスの時代以上に働いています。しかし、これほど働いているのに、バブル景気が弾けて以降、日本は長期の経済停滞から抜け出せずにいます。研究投資が削られ、イノベーションによって『価値』を生み出すことも難しくなっている。資本主義の生命線である新市場の開拓による『価値』の増殖が鈍化している今、企業が利益を上げるために採り得る方策は、さらに労働時間を長くすることかもしくは賃金をカットすることです」
賃金をカットする場合。たとえばこれまで1万円だった日給を8000円にされるとしましょう。従来商品代金1万6千円を資本家は受けていて、8時間労働のもと、その内1万円が労働者への手当てであり、6千円が純利として資本家の手元に入ります。これが同じ8時間労働のもと、手当てを2000円引きの8000円にしたのなら、6千円+(1万円-8千円)=8千円の純利が資本家の手元に入る計算になります。「残業代を払わない、ボーナスを出さない、定年を早めて安く継続雇用するというのも、実質的な賃金カットです。より深刻なのは、企業が正社員の数を減らし、代わりに非正規雇用や派遣社員を増やしていることです。賃金を決定するのは、資本家と労働者のパワーバランスです。そのため、労働運動や労組交渉でも、賃上げが最大の争点になっていました。しかし、マルクスは、賃上げ以上に労働日の制限(短縮)が重要だと指摘しています」マルクス曰く、「労働日の制限は、それなしには一切の解放の試みが失敗に終わざるを得ない先決条件であると、我々は宣言する」と。ここから労働時間を長くすることへの反駁が始まります。
「賃上げされたとしても、長時間労働が解消されなければ意味がない、ということです。資本家が賃上げ要求を飲めば、確かに搾取は緩和されるでしょう。資本の論理に包摂された資本主義社会の労働者は、では、我々は頑張って働きます!ということになる。だがこれは、むしろ企業にとって都合のいい展開なだけなのです。賃金を少しばかり上げて、その代わりに長時間労働もいとわず自発的に頑張ってくれるならば、『剰余価値』ーつまり資本家の儲けは、かえって増えるかもしれないからです。資本家の狙いは、労働力という『富』を『商品』として閉じ込めておくことであり、それはかくして『自由』な時間を奪うということです。多少賃金が上がったとしても、時間を奪われた労働者には、子供と遊んだり趣味を楽しんだりする暇はありません。働き疲れて、本を読んだり、人生について考えたりする余力も残っていない。忙しくて自炊する時間がなくなれば、外食という『商品』が売れます。洗濯しても干す時間がないとなれば、洗濯乾燥機が売れる。最近は家事代行も流行っています。労働日を」極めて、「無制限にすれば、どんどん『商品』の領域が広がって、ますます資本家のビジネスチャンスが広がっていくのです」そこで、労働力を売るのは労働者の自発的行為だが、労働は強制的なものであり、強制的である労働を短縮・制限し、労働以外の『自由』時間を確保していくべき、だとマルクスは「資本論」の中で繰り返し主張しているのです。労働日の短縮イコール『富』を取り戻す、ということです。「日々の豊かな暮らしという『富』を守るには、自分たちの労働力を『商品』にしない、あるいは自分が持っている労働力のうち『商品』として売る領域を制限していかなければいけない」