福岡市~行橋を結ぶ国道201号。古来は田河道として大宰府と豊前、そして草野津(かやのつ)から船で京や大和などの畿内地方を結ぶ道として多くの往来がありました。
現在でも交通量はかなり多く、4車線化が進んでいます。遠賀川水系と今川・長峡川などの周防灘にそそぐ河川との分水嶺に仲哀峠はあります。
犬鳴峠と並ぶ心霊スポットとしても知られていますが、何故「仲哀峠」と呼ばれているのかがはっきりとしていません。漠然と仲哀天皇と神功皇后に絡んでいるだろうとは思っていましたが、よく考えると玄界灘沿いに香椎に行かれてその後(おそらく)香椎で仲哀天皇が崩御されるという流れなので仲哀峠に近付いてもないってこと?
まぁ、仲哀天皇が通ろうと通るまいと田河道自体は奈良時代には整備されていますし重要な道であったことは間違いありません。また、整備される以前から瀬戸内と筑紫・西九州を繋ぐ陸路として往来は多かったでしょうし弥生時代からその原型はあったと考えて良いと思います。
仲哀峠のみやこ町(東)側に仲哀公園があります。ここの辺りは、仲哀天皇が都を置いたことから仲哀天皇平と呼ばれていましたという看板があるとのブログを見つけたので、その看板と景色も見ようと思い行ってきました。ちょうど、香春町歴史資料館で「香春の道」という展示があるということでしたので、何か手掛かりが入手できるかなという期待も…。
景色は本当良いですね。確かに空気が澄んでる時なら四国も見えるかも。
仲哀トンネル入り口には勝山たばこ組合の環境美化啓蒙の看板。専売公社職員とトラック運転手が惨殺された西口彰事件との関係を考えてしまう。
現在は柵があり仲哀隧道には入れないようになっています。鍵壊して入ったやつが居るようですが…。
犬鳴隧道と違い、こちらは反対側も見えるので本当に、崩落の危険など物理的な理由で塞いでるだけって感じですね。これくら見えてれば無理に入ろうとは思わないけどな。犬鳴みたいにブロックで塞いであると逆に入りたくなる気持ちはわかる。その前に何度も入ってるから今更ではあるけども。犬鳴でも殺人事件がありましたが、あれは昭和末期でそれ以前から心霊スポットでした。むしろ心霊スポットであったがためにあの場所での犯行だったのだと思います。
もしかしたら、仲哀隧道と名付けたからその峠(七曲り)を仲哀峠と呼ぶようになった。とも取れなくもないな。七曲りだといろんなとこにありそうだし。
問題はこれなのよね。景行天皇の長峡京と勘違いってのは「環境庁・福岡県」が設置した看板なので考えにくいとは思うけど。何らかの地域伝承くらいはありそうだけども…。
みやこ町歴史民俗博物館に行って情報収集と考えていたのですが、この日はイベントと重なっていたのでとても聞ける状態ではなかったので後日また行く予定。
今度は、仲哀峠西側の田川郡香春町の鏡山大神社。ダウンタウンの松本人志氏がちょっと行きたがってたなんて話も。まぁ、たしかにあの鳥居は結構目立つしな。
田河道は鏡山神社の前の道のようです。
狛犬のポーズが独特です。
由緒「仲哀天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものであると御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。
その途路、此の岡に天神地祇を祭り必勝を祈願し、皇后の御魂を鎮め給い御鏡を祀り崇め給いしが、御社の草創と伝えられる。祭神は神功皇后を主神とし後仲哀天皇を祭祀せらる。」
「途路」ってことは行きがけだよな。でも「やがて陣中に崩ぜられた」ってのが先に出てくるから神功皇后が鏡山に来られた時は仲哀天皇自は既に崩御されてたってことになるよね多分。
仲哀天皇平で崩御され、七曲り峠を越えてこの辺りに埋葬されたってことになるのかな?
鏡山大神社の西側には河内王陵(宮内庁治定「勾金陵墓参考地」)があり、北の方少し離れたところには「おほきんさん」と呼ばれる古墳があります。河内王は天武天皇の孫で、高市皇子の甥になります。ちなみに高市皇子の娘に河内女王がいたりします。
呉媛といいなんか宗像との繋がりが妙に出てきますな香春町。
ここまで書いてて気が付いたけど、宗像大社から香春の鏡山大神社までが直線で東南に約35km、唐津(呼子)の田島神社から鏡神社は東南に約18km…なんか関係あるんじゃねえか?
オカルト的ひらめきだし、方位的には宗像‐香春は東南、田島神社‐鏡神社は南南東で鏡山にしたとしても少し東にずれるだけなのでちょっと違うよな…。どちらも西暦200年代頃ということで創建時期は同じくらい…。
神社下だけではなくいろいろな所に万葉歌碑があるようです。
「仲哀峠の由来と呉媛を調べに来た」と香春町歴史資料館で係の方に質問してみましたが、はっきりとはわからないとのことでした。80いくつかと高齢の方でしたが「自分が小さい頃から仲哀峠と言っていた」ということなので戦中には「仲哀峠」が浸透していたということくらいしか収穫はなし。呉媛の話をしていると宗像が末盧国でこの辺(田川地区)が伊都国じゃないかって話をする来館者が最近ちらほら居るとのことで(・_・;)
声が小さいだけで意外と同じように宗像=末盧国説考えてる人多いのかな?とりあえず「私も同類です」と名刺お渡ししました。
常設展示物が興味を引く物が多く、見るのに結構時間かかりました。
下は何度も通ってるのにきちんと参拝したことが無かった香春神社も参拝してきました。
いやいや、長い石段上りたくないとかじゃなくて御客を案内してる時とかだから行けなかっただけなのよ。しかしすごいよね、この山王石。これが落ちてきて社殿に損害無しって。
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」
「邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウム」動画あり
「和名類聚抄から魏志倭人伝の戸数を考える」
「和名類聚抄から魏志倭人伝の戸数を考える2 呉越同舟」
海の民宗像 ―玄界灘の守り神 改訂増補版 クリエーター情報なし 梓書院
現在でも交通量はかなり多く、4車線化が進んでいます。遠賀川水系と今川・長峡川などの周防灘にそそぐ河川との分水嶺に仲哀峠はあります。
犬鳴峠と並ぶ心霊スポットとしても知られていますが、何故「仲哀峠」と呼ばれているのかがはっきりとしていません。漠然と仲哀天皇と神功皇后に絡んでいるだろうとは思っていましたが、よく考えると玄界灘沿いに香椎に行かれてその後(おそらく)香椎で仲哀天皇が崩御されるという流れなので仲哀峠に近付いてもないってこと?
まぁ、仲哀天皇が通ろうと通るまいと田河道自体は奈良時代には整備されていますし重要な道であったことは間違いありません。また、整備される以前から瀬戸内と筑紫・西九州を繋ぐ陸路として往来は多かったでしょうし弥生時代からその原型はあったと考えて良いと思います。
仲哀峠のみやこ町(東)側に仲哀公園があります。ここの辺りは、仲哀天皇が都を置いたことから仲哀天皇平と呼ばれていましたという看板があるとのブログを見つけたので、その看板と景色も見ようと思い行ってきました。ちょうど、香春町歴史資料館で「香春の道」という展示があるということでしたので、何か手掛かりが入手できるかなという期待も…。
景色は本当良いですね。確かに空気が澄んでる時なら四国も見えるかも。
仲哀トンネル入り口には勝山たばこ組合の環境美化啓蒙の看板。専売公社職員とトラック運転手が惨殺された西口彰事件との関係を考えてしまう。
現在は柵があり仲哀隧道には入れないようになっています。鍵壊して入ったやつが居るようですが…。
犬鳴隧道と違い、こちらは反対側も見えるので本当に、崩落の危険など物理的な理由で塞いでるだけって感じですね。これくら見えてれば無理に入ろうとは思わないけどな。犬鳴みたいにブロックで塞いであると逆に入りたくなる気持ちはわかる。その前に何度も入ってるから今更ではあるけども。犬鳴でも殺人事件がありましたが、あれは昭和末期でそれ以前から心霊スポットでした。むしろ心霊スポットであったがためにあの場所での犯行だったのだと思います。
もしかしたら、仲哀隧道と名付けたからその峠(七曲り)を仲哀峠と呼ぶようになった。とも取れなくもないな。七曲りだといろんなとこにありそうだし。
問題はこれなのよね。景行天皇の長峡京と勘違いってのは「環境庁・福岡県」が設置した看板なので考えにくいとは思うけど。何らかの地域伝承くらいはありそうだけども…。
みやこ町歴史民俗博物館に行って情報収集と考えていたのですが、この日はイベントと重なっていたのでとても聞ける状態ではなかったので後日また行く予定。
今度は、仲哀峠西側の田川郡香春町の鏡山大神社。ダウンタウンの松本人志氏がちょっと行きたがってたなんて話も。まぁ、たしかにあの鳥居は結構目立つしな。
田河道は鏡山神社の前の道のようです。
狛犬のポーズが独特です。
由緒「仲哀天皇は神功皇后と共に熊襲を御征伐になられたが、やがて陣中に崩ぜられた。皇后は熊襲の叛服常なきは新羅の後援によるものであると御親ら男装し舟師をひきい新羅に向はせられた。
その途路、此の岡に天神地祇を祭り必勝を祈願し、皇后の御魂を鎮め給い御鏡を祀り崇め給いしが、御社の草創と伝えられる。祭神は神功皇后を主神とし後仲哀天皇を祭祀せらる。」
「途路」ってことは行きがけだよな。でも「やがて陣中に崩ぜられた」ってのが先に出てくるから神功皇后が鏡山に来られた時は仲哀天皇自は既に崩御されてたってことになるよね多分。
仲哀天皇平で崩御され、七曲り峠を越えてこの辺りに埋葬されたってことになるのかな?
鏡山大神社の西側には河内王陵(宮内庁治定「勾金陵墓参考地」)があり、北の方少し離れたところには「おほきんさん」と呼ばれる古墳があります。河内王は天武天皇の孫で、高市皇子の甥になります。ちなみに高市皇子の娘に河内女王がいたりします。
呉媛といいなんか宗像との繋がりが妙に出てきますな香春町。
ここまで書いてて気が付いたけど、宗像大社から香春の鏡山大神社までが直線で東南に約35km、唐津(呼子)の田島神社から鏡神社は東南に約18km…なんか関係あるんじゃねえか?
オカルト的ひらめきだし、方位的には宗像‐香春は東南、田島神社‐鏡神社は南南東で鏡山にしたとしても少し東にずれるだけなのでちょっと違うよな…。どちらも西暦200年代頃ということで創建時期は同じくらい…。
神社下だけではなくいろいろな所に万葉歌碑があるようです。
「仲哀峠の由来と呉媛を調べに来た」と香春町歴史資料館で係の方に質問してみましたが、はっきりとはわからないとのことでした。80いくつかと高齢の方でしたが「自分が小さい頃から仲哀峠と言っていた」ということなので戦中には「仲哀峠」が浸透していたということくらいしか収穫はなし。呉媛の話をしていると宗像が末盧国でこの辺(田川地区)が伊都国じゃないかって話をする来館者が最近ちらほら居るとのことで(・_・;)
声が小さいだけで意外と同じように宗像=末盧国説考えてる人多いのかな?とりあえず「私も同類です」と名刺お渡ししました。
常設展示物が興味を引く物が多く、見るのに結構時間かかりました。
下は何度も通ってるのにきちんと参拝したことが無かった香春神社も参拝してきました。
いやいや、長い石段上りたくないとかじゃなくて御客を案内してる時とかだから行けなかっただけなのよ。しかしすごいよね、この山王石。これが落ちてきて社殿に損害無しって。
「宗像と魏志倭人伝 その1」
「その2 末蘆国って宗像じゃないの?」
「その3永嶋文書」
「宗像と魏志倭人伝 その4 座談会しました」
「邪馬台国の玄関末蘆国は宗像(宗像と魏志倭人伝その5 2018年3月シンポジウム)」
「邪馬台国の玄関末盧国は宗像 第6回シンポジウム」動画あり
「和名類聚抄から魏志倭人伝の戸数を考える」
「和名類聚抄から魏志倭人伝の戸数を考える2 呉越同舟」
邪馬壹国(やまと国)研究会 宗像フェイスブックでの宗像の歴史に関するグループです。タイトルに邪馬壹国と入っていますが、特にこの時代といったくくりはありません。中世や戦国、現代史なんかでもOKです。Facebookやられてて宗像周辺の歴史に興味をお持ちの方お気軽にご参加下さい。
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豊前地域には天皇の足跡や伝承、万葉集の歌の舞台が多く残っています。最近は東九州道の工事等に伴って大規模な遺跡なんかも結構出ていますが取り上げられることが少ないんですよね。
機会がございましたら、時間をかけてゆっくり回られると本当面白い所がたくさんありますよ。
私も見に行くようになったのは割と最近で、素通りするエリアでした(^^ゞ
まだまだ見どころ多いようなので時間を作ってちょこちょこ回る予定です。