日本一の卒業アルバム "玉川っ子"
むしやまちょうたろうの軌跡を追ってきたが、彼の代名詞ともいうべき昆虫界の週刊誌Weekly Butterflyとも呼ばれる雑誌TSU・I・SOの源流ともいえる諸作が、高校生の時に兄が編集作成した玉川学園高等部の卒業アルバムだ。時代は1966年3月の発行だ。写真は、その中の兄のクラス「天城組」だ。兄も写っていて、この写真は青い山脈でもはじまりそうな雰囲気の時代でもある。同期の別クラスには著名な女優さんもいらしたようだ。
コロタイプで両面印刷形式で作成されたのには、苦労もあったようだ。印刷というよりは写真として文字も撮られているような形らしく古いアルバムの文字からは、彼がのびのびと活動してきた玉川学園での時間を文字から垣間見させてくれるようだ。我が家では、この卒業アルバムを"玉川っ子"と呼んでいる、創立者の小原國芳さんの文字が最初に書かれていたからだった。ちなみにアルバム装丁表紙には夢の文字がある。生徒から青年に変る時期である高校生活をアルバムで切り取るという役を任されたのには、彼が当時同好会誌などを発行したりする活動が目に留まっていたからということのようだ。このアルバムは当時としては確かに画期的なものだったのかもしれなくて兄や両親が語っていた卒業アルバム日本一を取ったという話もそういう時代だったのかもしれないと思わせる。私が小学校を卒業したのが1968年だったが数の出ない卒業アルバムというものの作成は写真館が行うものであり、大判の写真として各ページがコロタイプとして作成されていた。間には印刷された紙が合わせて編集されるそんな構成だったと思う。編集の苦労なども書かれていた。
ここに4か所の兄が投稿したページがあり3つは今でいう所の穴埋め投稿やおどしぶみに繋がる編集後記である。中々記事や写真が集まらない中で、書き加えられたのかあるいは神が降りてきて書いてしまったのかもしれない。兄の記事がお好きだった方には、文章として当時の高校生だった兄が書いたものであるが、その後に繋がるものを感じられるのではないだろうか。アルバムの文字を拾ってみた。クラスとしては9つあり、兄のクラスは「天城組」だったそうだ。以下に兄の書いた個所を抜き出したので、TSUISOを追想していくことにしたい。
しかし、この抜き出しの過程で私は本当の「玉川っ子」なる著作が存在することを知ることになった。アルバムに玉川っ子と小原國芳さんが書かれた意図は果たしてなんだったのだろうか。
天城組
、TSUISOを追想していくことにしたい。
〇月×日(月曜日)今朝は朝から冷えて、小雨がぱらついている天気だ。1~2時間目は礼拝のうらの時間でなにもない。ストーブをかこんだ20人程度のクラスの男女がワイワイしている。あるものは映画雑誌を読み、あるものは毒にしかならぬ週刊誌を読み、そして又あるものは静かに小説を読む。国語の教室だから、文芸春秋を始めとする雑誌書籍も多い。碁ならべやトランプをやるやつもいる。スト一ブのまわりは消火器の薬剤で白くなっていて、一見だらしなくはあるが、なかなか和やかで談笑はたえない。やがて傘もささずにクラス委員がやってくる。皆んな「またか……」という顔で迎えるが別にクラスの雰囲気はかわらない。そして皆んなに共通することは、誰れも教科書をださず、ー人ー人勝手なことをしているのだ、やがて3時限目の授業が始まりちらばっていった。サボルやつもいる様だが、結局皆んな卒業できたし、ひどく能力の低いやつもいなかった。昼休みの時間もなかなか楽しい。さわぐ奴も多いからこのミゼットハウスと称するほったて小屋が、こわれそうで心配である。お昼の放送は我クラスは無い。スピーカーがこわれているからだ。だれも直そうとしないし、放送が聞けなくて大きな失敗もしなかった。時々A君がワイ雑な言葉を叫ぷのて皆んなでおさえる。女の子は聞こえないふりをしている。天城の女の子もたいして美人はいないが、気やすいところだけは取柄だ。やがて午後になり終会がある。B君が気のない夕クトをして解散、担任の矢竹先生のお話はない。しかし一人一人は面談でいろいろ雑談をしてくれる。大学の先生のようで高校教師にもったいない。矢竹ぺースについていけない事もあったが、それ程迷惑をかけずにすんだことは喜ばしいことである。天城の解散は早いので早い電車で帰ることが出来る。掃除当番はきまってはいるが逃亡者が多い。しかし誰かが必ずやっていたので週番から、ほめられこそしなかったがおこられもしなかった。やがてミゼットハウスの中央に位置した203番教室も灯が消えた。こうかくと高等部一の不良クラスのようであるが、そうは思いたくない。もう高3である。将来のことを考えて一人一人責任ある行動を、自分の個性を失わずして活動してきたのだろう。
楽我記考
高等部時代思いつくままに
原稿ページの埋め草の文章を書くことになった、さらっと読み流しそしてこの文章のことを忘れてくれ。
この自然に恵まれた環境の中でノンビリと育った我々の中で、一種のキチガイと呼べるやつらを、我々はもっと誇っていいと思う。そのキチガイたちの良し悪しは玉川の目であり、それらのもつ情熱と個性は何らかの形をもって大きく成長するだろうからだ。〇〇キチガイ、その〇〇は何んでも良いのだそれらのキチガイの成長の為に自由研究とか労作とかいうものが玉川にある。そのキチガイにならないやつがいても良い、金だけおさめてノホホン
と生活するやつがいてもよい、なんとなく学校に来て、なんとなく学校を去った、そんなやつがいても結構だ、人は私を蝶キチガイといい、あるものはチョウチョゴロシとののしった、私は幸せである。なぜ幸せなのかとあなたは深く考えることはない。当人がそう思っているのだからそれで良いのだ。
玉川には小使さんがいない、そしてクラス委員という美名にかくれた小使いがいる。しかしクラス委員とは、品行方正、成績優秀なるものがつとめるような他校とは違うようである。小学校より、毎年つとめている西山某なる男のことを想像すれば明快である。あの男が出席簿をもっていたのだから、ユカイ、ユカイ、しかし玉川のモットーにもあるだろう。「人生の最も……」は、クラス委員という小使いをとおして本人にはずいぶん良い影響をあたえるものであった。
玉川学園髙等部には卒業論文というものがある。高校生に論文が書けるわけがない、それを皆んな書くのだから不思議である、私も書いた。本人は大学教授に見せても文句をいわれず、学会にそのまま発表も出来るものをショッてかかったからこれまた、ユカイ、ユカイ、もっともそのように書いたら、結論のはっきり作れない、中聞発表程度しかならなかった、一応論文のカッコはしているものの、私の今の力では同好会誌程度の自信しかない。しかし
論文というものにとり組むのは、決して無駄ではない、自分の資料のすくなさ、研究のすくなさ、あいまいさ、経験不足、文才のなさのいくらかでも知ることが出来たら、高等部の卒論の意義は充分である、もっとも、それをも解らぬ人問も多いのは残念だが、全員となるとカッコだけであまり強く問題にふれないのがいても仕方がない。
玉川に私は 12 年通ったわけだが、良き先生方の多いのには感心する、冗譲、お世辞ではなく、これは玉川のもっとも大きな財産だと思う。しつこいようだがこれはゴマスリではない。
玉川学園高等部生徒会というものがあったしかしそれは全く得体のしれないもので、生徒会費を取り上げられただけの人々も多かったことだろう。生徒会執行部は奉仕部のかたまりのようなものだ。中央委員会は活動せず、予算委員会の時だけ人数も執行部がそろえるのである。しかたないがクラプ活動は貧弱である。そして生徒会会員であったのを、生徒が知らなかったのではないかと思いたくもなる。生徒会執行部に関係した人は本人の為になったろう。しかしその他の人間は、生徒会費をドブにすてたようなもので、なんともあわれである。しかしこのような生徒会、執行部や中央委買会のなんとも得体の知れないものに接して、なかなかユカイであった。そこには純な気持の生徒が集まっていたが、生徒会活動にはなっていなかった、大きなことをいう私も、”たまがわっこ” なる怪文書を作って、生徒会費を多額に使った第一責任者である。
玉川での行事の数々は、私がいうまでもなく、良いものである。これらの思い出は何より自分の為になるだろぅ。髙校時代というのは私達のー生の中でも大切な期間だ、わずか 3 年であるが、この 3 年をすぎると、タバコも酒ものんでも文句をいわれなくなる。しかしそこには自分に責任もたなくてはいけない時代がくるのだ、そのめまぐるしい生活の中に自分を成長させていくには、髙校生活は良い基盤になると思う。毎日毎日の日記は、労作であるが、年に一度位いは、その時はその時なりの、思想、想い出をすなおな文章にまとめ、自分の考え方の進歩の一助としていくことは、今後始まる私達の人生に何か役に立つのではないだろぅか。高校時代を反省し、想い出して見なさい、いろいろなことが………。
私は、中学の頃から、元旦の拝賀式に出ているが、その日は一日すがすがしい気分になる。そして拝賀式の後、聖山で寝ころぶことにしている、何か自分のことについて考えたかもしれない。青空の美しさに見とれて、芝の上で日なたボッコをしているだけかもしれない。しかし、それは私にとって楽しい、そして大切な時聞である。
自由研究展が 1966 年 3 月 13~14 日に開かれたのを知らない生徒が多いと思ぅが、1~2年の参観者をもって開かれた、これに関して全く生徒会が活動しなかった、この展覧会を知らず出席出来なかったのば 3 年生諸君のせいではないから心配しなくてよい。この自由
研究展における生物部は、そのデモンストレーションの良さ、うまさは、玉川学園始まっていらいと私は自信がある。参観した⽗兄や生徒先生は全くすくなかった。残念ながら玉川のおやじ(小原国芳先生)も見えなかった。忙しかったのだろう、しかし満足であった、私達は賞をもらうためにやったのでもなく、人からほめられたかったからでもない。その発表は自画自賛で誠に口はばったいのであるが、スマートであり、自分自身満足出きた、満足の意味は高校生としてあれが私達の限界であり、そして力を出せるだけ出したことにある。
ともかく高校時代は終った、私達の人生はこれから広く広く発展していく、私達の仲間が、同期の桜が、10 年後、20 年後、何になって、何をして活躍しているか、想像するだけでも楽しい、たまには玉川の丘を思いつつ、ある人は野の百合のように咲けばよい。又はもっと美しいかぐわしい花に成長するのも、大きな木になるのもけっこうだろう。自分自身の道をしっかりと歩きたいものだ。そして私は雑草のように生きたいと思っている。出来たら一輪の小さな花も咲かしたい。たとえすぐ人にふまれても良い、それは、私の作った花だから、きれいだと思う。ふまれて枯れても、翌年はきっと二輪の花にふえるだろう、そうありたいものだ。
アルバムについての屁理屈
なんだかんだと、あわただしく過てしまつた3学年3学期のことを思い出してもらおう。あのドサクサにまぎれて金3000円也のアルバム代とやらをとられた事を覚えておられるだろうか、そんな事は忘れていて結構だが、その3000円也がこのなんとも面白くないアルバムになったのを、この文を読むまでに至らずして充分お解りいただけたと思う、そこでこのアルバム制作の苦難の過程についての理由をなんとかつけて、当事者の心を慰さめてみたいと思う。人は屁理屈というかもしれない。…だが…
そもそも私はアルバム委員ではなかつた。夏休みも近ずいた或る日、私は担任の教師に呼ばれた、そして私はアルバム委員の仲間入りをさせられた。その主な原因は、生徒会活動で“たまがわっこ"なる怪文書を創刊してみたり、蝶の仲間の同好会を作って、“むさしの”なる会誌を編集したりしていたことが、どうした曲解の末か、私が名文を書き、名編集者でぁるやに思われたらしい、そして「おまえがアルバムを編集をしろ」とこう来たもんだから、かくいう自他共に認める迷編集者は、喜々として構想を練り始めたのである。
そしてまたここに迷文を重ねることになった。しかし残念な事に、時は夏の太陽が高かりし頃だから、迷編集者なる蝶キチガイは、山野に大きなネットを振り廻し始め、頭中にアルバムのアの字も消え去った。
やがて忙しい夏休みも終り、秋風をフト感じる頃、アルバム委員である事を思い出した。そしてアルバム委員顧問という渡会某なる女教師の居ることを知つた。さて私は、高等部でー番悪党の多い、騒がしいクラスと評判の高かった天城組の一員であったので、もしかすると「アルバム委員は〇〇〇番教室にお集まり下さい」という放送を聞きのがしていたかと思い、その事を尋ねてみると、いまだにそういう集会はなく、構想も出来ていないという返事だ、「そういうことではウンヌン」と一席始めた事が、私がアルバム制作なる、泥沼の世界に足をひきずられる第一歩となつたのでぁる。さて、やがて「アルバム委員会を開きます」という放送が時々ぁり、4~5人集まった仲聞が、少しづつ集まった他校のアルバムを、悪舌の数々で酷評し、さもアルバムを作つては日本一という気分でいた。さてともかくも当時アルバム委員と名がついていたのが、各クラス1~2名いたようだったが、最後にアルバム委員と始めから名の付いていたのは数人しかいず、その他ワイヮイしていたのは、あわれなるまきぞえをくったお人好しの仲間である、しかしその当時は、まだ講談社に執筆依頼されたごとくに、夢の上でワイワイしているようなもので、その頃の計画者では、年末と3学期に二度にわたるアルバム委員慰あんパーティを開き、卒業式当日には作りえた立派なアルバムに対する、絶賛の言葉に酔いながら、我々の労作の結果をお見せする予定であったのだが、だが、だがである。人生なかなかなせばならず、思うとおりにならなかったのである。それを詳しく書きつらねてはなんだから、少し書きつづって奥深いように思わせることにする。
まずアルバムを作るのには写真がなくては出来ない。このアルバム委員なるものが、3年前に組織されて生活の記録や写真を残しておれば、いとも簡単にアルバムが出来るのだが、3年の秋にやっと活動が姶まったのだ。写真がない、生徒にも頼んだが、いったい誰が協力してくれたのだろうか、顔写真も集めてみた、しかしそれは生徒達が、いかに写真というものの知識が低いかということを知っただけだった。あのピンボケ、テブレの数々の作品を前にしては創作意欲を失うと共に、ピン卜があっていては嫁入り、就職、進学に困るお顔もいるのではないかと推測したくもなる。そんなことで、まずアルバムに使う写真がなかった。
そして次にはアルバムは、どんな印刷、製本で作るのかをアルバム委員のだれも知らず、もちろん、ガリ版やタイプ印刷の編集のまねごとをしただけの私が知るはずもない、その方法を印刷所でー見してきたのは1966年の年も明けた頃だった。おそらくこの駄文を読むあなたも印刷方法を知らないだろう。教えてあげよう、写真の印刷にはグラビア、オフセット、コロ夕イプ等という種類があり、グラビア、オフセット等という印刷は、書籍や週刊誌などで知っているだろう。このアルバムはコロ夕イプという印刷なのだ、グラビア、オフセットだと印刷部数の少ない場合は単価が高くつくので、学校の卒業アルバムの様に200~5、600程度の部数ではこのコロタイプという印刷で作るのだ、グラビアで作ると諸君は6000円也のお金を出すことになった。このコロ夕イプは、写真のネガを、割付の大きさに引き伸して、一頁ごとにガラス板上でネガを並べて原板を作る。この原板を、薄い感光剤をぬった厚いガラス板に露光して、乾板のようなものを作る。これにインクをつけてアート紙に印刷し定着させるのだが、なかなか手間がかかる。この印刷法と割付の悪さから、コロ夕イプという印刷は一昔も二昔も前から一つも進歩していないのだ。しかし私達のこころみた、両面印刷は日本で始めてのことであり、玉川学園高等部のアルバムはアルバム界の先端を走るものである。そして洋とじも始めてのことであるし、ビニールカバーをつけた表紙なんかにくいねぇ、すくない写真をカバーするために、読みながら想い出のページをめくるという。豊富な文章は、この下手な文章は、後日きっと良き想い出になるだろう。そしてセンスのある割付、内容の出来ばえ、この画期的な………。もうこのへんで宣伝はやめよう。これ以上つづけるとまるでこれらが、うそ、いつわり、でたらめのごとく読みとる人がいるとこまるからだ。
写真のなかったこと、アルバムの作り方を知らなかった事、その上にアルバム委員の活動が悪かった事も理由の一つにあげておこう。こんな中で、高等部で始めての我々の卒業記念アルバムが出来た。来年は、アルバム委員に選ばれた精鋭たちが、新学期より活動を始め、我々の作ったアルバムの欠点を毒づきながら、我々の想像も出来なかつたもの〕を作り上げていくだろう。
さていろいろ悪条件をならべてみたが、こんな状態でなぜ出来たのだろうか、上原さんを始めとする写真部の方の大きな協力もあった。孤軍奮闘したメンバー、じつにいろいろなことがあったが、それをほこらしげに語るのはよそう。奥ゆかしげに思わして文章を終ろう。大学の入学式の前の事である、ある先生曰。「おまえは学校が休みになってからの方が、よく学校にくるじゃないか」
アルバムはこうして出来たのだ。
編集後記
暗く、うっそうと繁った深い林の中に、ジクザグにかなりの勾配をもった道がつづいている。夜が白み始めて足もとが見え始めた。もう懐中電燈も必要なくなり、もうすぐ陽が差してくるのではないだろうか。私は昨日下の河原で道連れになった、若い2人の女性と共にこの勾配のある山道を登っているのだ。2人の女性の一人はやややせていて、眼がねをかけているが、良く似合う、山の帽子が快活な感を受ける。もう一人はやや太っていて、髪を長くカールさせ大きなムギワラ帽子をかぶっている。やや大きめの瞳から柔和な光をはなち、私の好きなタイプである。ともに自然が好きなのか、2人共南アルプスの山中を歩きつつ、楽しそうである。人間的にもしっかりしているようだ。私はといえば、荷物の半分以上を、この2人の麗人に持ってもらい、ナップザックだけで身も心も軽く登っているのだ。そうだ、赤河原の山小屋でもそうだった。山娘でこんなにも美しい人が居るのか!と思われるような山小屋のお嬢さんに連れられて、河原の下の本宅で御馳走をずうずうしくいただいたのである。そこにいた弟さんなのだろうか、白痴の子の食事をするあわれな様を見て、「ああいやだな」とか「どうして生きてなくてはいけないのか?」………とフト感じるような愚人といおうか、何といおうか、出来そこないのようなものである。
足は快調に動く、暗くて周囲が見えない為もあろう、朝早くて気温の涼しい為もあろう。荷物も少くないせいもあるだろう。グングン高度を増していく、疲れも覚えない。南アルプスの山々はまだ北アルプスのように道も開けてなく、ハイカーや登山者も少くない。山小屋も水も不便な所に、そして山小屋は自炊ばかりなのに、そんな所になにもわからない中学2年生が、ひょっこりと現われたのである。食糧は少々のキュウリ、ウリ、ネギ、それにアンズと幾切れかの固いパンだけである。食器や飯盒は3人分持っている。彼はここで友人と会う予定だったのだ。「キュウヨウノ夕メイケナイ」というような意の電文を受けとった。彼は米もなく、副食も無い。そして山小屋では食事を作ってくれない。その彼が私である。しかし頭の回転の悪い私は別に藍きもしなかった。無知の為なのか………。大きな台風がその頃やって来て、アルプスにぶつかって低気圧となり雨がシトシトと降っていた。幸い南アを歩く山男は親切だった。そして、特に山小屋の美しいお嬢さんは私に親切だった。とってもきれいだった。そして当時独身だった。今回一緒に歩く予定の生物の教師のお嫁さんになったら、いいなあ…と思ったものだが、しかしもう彼女の名前は忘れてしまった。彼女はいったいどうしているだろうか、やっぱり、まだあの美しい顔をほてらせて、汗をかきながら、大の山男が持つような荷物をしょっているのか。
やがて明るくなり始め、暗い梢の間からは幾筋もの光がもれ、背後には展望が時々出来るようになる。朝早いので人影は全くない、時々、高い稍にいるのだろうか、朝のせわしい小鳥の声が聞えてくる。何んという鳥だろうか。私が知ってるはずがない。私はただただ尾根に出ることを考えている。梢の間には尾棍がすぐそこのように見える。しかしいくら登っても着かないのだ。人生は山登りにたとえても良いように思う。特に現在の自分達の時代は、多くの人に囲まれ、両親に手をとられて歩いているようなものかもしれない。丁度いま、山を登りつつある私のように。両親に手をひかれて歩いているが、いったい何んという山を登っているのか知らないし自分の登るべき山も知らない、欲の深いさまよえる仔羊である。決して完全な人間でなくとも良いが、私は私なりに、人間らしく、自分なりに、日本人として、人間として、自分が…………………。良く考えてみようと思う。自分の切り開く人生はこれからでも遅くないはずだ。
たどりついた尾根道は、時にはガレ場や岩場の脇を通る、ダケカンバの自然林が、風雪を耐えしのいだ美しい姿を現わした。下草の緑の上に、やや小さなダケカンバの肌の白が映えている。台風一過の後はこの上もなく青い空だ。遠くに槍ヶ岳のピ一クが見える。ところどころにはお花畑がある。2人の連れの麗人に、待っていてもらって私は蝶を追っかけた、さまざまの髙山植物の上に、クモマべニヒカゲという美しい高山蝶が飛んでいる。この蝶も親になるまで2年間かかるのだ。クジャクチョウも飛んでいる。シシウドの花上にはハナカミキリの仲間がー杯である。道にもどると2人の連れは食事を始めていた。私もそれをもらうことになる。ダケカンバの林の中をくぐるようにして進むと、前途が急に広がり、広いカール状になりお花畑やハイ松の上に仙丈岳の勇姿が現われる。左には甲斐駒岳、右には伊那谷が、仙丈岳の頂上はもう一時間もかからずに行けるだろう。そして広いお花畑には、いままで見られたクモマべニヒカゲがあっちにもこっちにも、そして私は………。(やすすけ)
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