昆虫採集家・標本商などの一面についてはネットの記録や書籍雑誌記事などから分かることが多い。兄は人たらしの側面があり、自分の気に入った美味しいものなどがマイブームとなると、それを食べさせたりお土産に持たせたりするのもとても愉しみにしていた。そうした兄の癖は、話題としての虫仲間の人達との語らいにも大きく影響して増強していたのではないかと周りの方が投稿するSNSでの写真などからも推察される。
兄からの呼び出しは、彼が頼みたいミッションやら美味しい物が手に入ったので渡したいなどの合わせ技で構成されていた。虫仲間の人達にTSUISOも自炊してiPadに入れた状態で流通するということをしていたことがあったらしい。本と違って写真をピンチ(ズーム)したりして、シニアの人たちにも有用だという。本と違い劣化するのが早いのは欠点で電池が充電できないとか、予備の機材がもう無いとか色々だ。なかでも電源ケーブルが傷んだりするのでこのスペアを手配したいとかいうこともあった。
唐突な兄の電話は、そうした話から切り出されるのだ。背景を理解しないままで短兵急に行動しても不味いので、欲しい物を調べた上で連絡や背景を伺いに事務所詣でをする。兄は人に来てもらうのが、とても嬉しいのでいつも色々な美味しいものを御馳走になる。あるトースターに嵌ったときには、そのバルミューダへの熱弁を振るい。仕上げとして、美味しいトーストにして波状攻撃だ。無論トーストに塗られるのは、美味しそうなジャムだ。ジャムこばやしと書かれた瓶の中は、煌めく艷やかな果実である。会話をしているとさらに客人が来て、そのジャムを作られている小林さんだった。虫仲間であり、木ノ実を取り扱ったりする過程で兄の仲間に加わったのだろう。ご実家のジャム作りと趣味の木ノ実扱いとを軽井沢のお店と通販で営まれているそうだ。
付き合う人を選ばず、いろいろな人の懐に飛び込んだりしていったのはネット上の記録や、訪ねてこられる方々の話を聞いていてもうかがい知れる。兄のアクションは早くて、新しいツールに飛びつき、新しい変化の波にも飛び乗っていく。マイブームを引きおこすと回りの方々に宗教の様に布教したりふるまっていくのだ。美味しい物をふるまってくれるのはありがたいのだが、道具が持ち出す世界と今までのルールが整合しない状態も起きてしまうので良く考える必要も生じる。世界中の採り子たちを擁して採集された昆虫たちを標本として集めていく中には、世界の人たちからみた希少生物としてのワシントン条約付属書に記載されたルソン島特産のルソンカラスアゲハが展示会で販売されたりして物議を醸したこともある。
誰がどのような基準で、その蝶をワシントン条約付属書に列挙記載したのかは、わからない。しかしながら兄は各地を採集しまわった身として特定固有種という認識はなく各地の採集記録からもそうした認識がないままに条約指定の動きが現実と乖離していると認識していたようだった。しかし先端をみているものとして後から国同士のルールを決める仕組みとの温度差・時間差についてはもっと気を配るべきだったのだろう。価値観の違う人たちが決める国際的なルールにとっては学術的な研究に基づいて決められるにしても自身がもっと発信していればよかったのかもしれない。しかしながら、兄が研究者として認める先生は少なく自分自身も大学での昆虫の研究の進め方・考え方で相いれず昆虫浪人を選択したという。彼が出した結論は、採集家・標本商を続けながら数多来る標本とその情報から研究を続けていくことだった。新種の蝶が見つかった場合にも、雌雄を揃える支援をして信奉する先生の名前に連座する形で命名されたこともある。
標本商という仕事をしつつ集まってきた標本を分類研究していくというサイクルが確立していきウィークリーバタフライと称したミニコミ誌を通じてニュースソースとして読者からの情報も吸い上げていくという流れを続けてきた。自然というオープンソースの中で採集発見という情報に基づいて個体の紋様などから分布を明らかにしていくという作業を兄たちの虫屋という団塊世代な広げて彼らの興味をまとめて海外への採集ツアーなども催行して次世代の仲間を増やしていく。昆虫採集が破壊だという人もいるし、昆虫を孵化育成して放蝶して昔のように増やそうという人こそが自然破壊だという人もいる。兄が大量に蝶を採集したからとマスコミの格好の的にしたりもしていた。
こうした兄の活動は、逆に兄が遺した雑誌TSU-I-SOを読み解くと47年間の記録として当時の歴史事件も含めて振り返ることが出来る。この虫界の週刊誌は通算で1689号となり最後に兄から最終稿となったもののコピーをもらったのは3月のことだった。国立国会図書館に納本をしてきたが昨年末で止まっていたらしい。兄が逝去して、虫の知らせを聞きつけた人たちが、ひきを切らず事務所に弔問に来るようになり国内各地からいらしていた。対応をされてきたパートナーだった方が兄の書き遺したメモをまとめて書き綴りたかったこと最後の状況を記して廃刊案内として作成配布してくれた。こうした案内で最後を知った方もいらして電話やメールを送られた方もいた。
兄は本当に手書きでのやり取り、電話でのやりとり、直接お会いしてのやり取りがベースだったので使っていたメールについては殆んど日常的にも使われてはいなかった。最後の案内で電話をいただいたかたにメールに写真などを送ったので見ていただければという話があり、残されたパソコンのメールの開け方を調べるとノートパソコンの下に開き方が記されていた。どこかのネットサービスにドメインを移管して小規模な形で支払った期間だけ続けるように終活もしていたようだった。契約関係を調べていた中では見つからなかったので助かった。メールを開くと電話をいただいた方からの返信と添付写真があり印刷出力したや兄が倒れた以降の時系列で返信記録がない方に経緯とアカウント削除する旨を伝えていった。
私からの返信に対しての返信も翌日以降には届いた。国立国会図書館での納本対応をしていただいた方だった。昨年末までの1683号までが納本されていたことと廃刊に伴い、雑誌の記録として最後の号までを納本していただき記録として完成させたいという話になりました。まだ今日時点では原稿も印刷したものも残っている可能性があり明日の最後の片付けで残っていればそれを送付あるいは、スキャンした原稿から印刷して再構築した体裁にして送付完了することで記録として国会図書館に行けば兄の記録に後の方々が触れられればと思います。いままでの号についてスキャンされPDF化されていたものを委託していた方から引き継ぎ、しばらくは親族のみで参照します。いろいろな事件に遭遇してきたことの記録も残されていてミャンマーで投獄された事件も回顧録として読み直すことができました。
回顧録は311の時に書かれていた号で当時の兄の思いにも共感して、読み進めた。かつて兄がビルマで投獄された1985年暮れのことが記されていた。ビルマで市中で宝石を買ってしまったのだった。当時、政府直営の貴金属店でのみしか外国人は購入することが出来ない、貧しい国でお金がブラックマーケットに回ることが危険だということで厳しく監視していたのだろう。2度目のビルマへの採集旅行の中では当然持ち込み外貨について前後での差異についても厳しく取り締まられる。お金をお酒やたばこなどに変えて持ち込み、現地のマーケットで交換して現地での活動費を得るのが普通のことだったらしい。現地のガイドを通じて昆虫採集の手続きなどをする中で、宝石売買を持ち掛けてきたらしい。ホテルの部屋にはガイドが入れないから、ガイドの息子が運転する車の中で助手席に座ったガイドから宝石を見せて交渉ということになり走りながら見せてもらっていたらしい。しばらく走り車を止めたときに警察のイキのかかった人たちに捕まったという顛末だったらしい。反政府組織にお金が回るようなことが当時は厳しく取り締まっていたということだろう。
現地人は、外国人に売却していたら10年の刑務所生活となりガイドだった50歳の主が留置されれば家族の家計がとまってしまうのは明白。外国人は国外追放となる。言葉が通じるガイドから宝石を売ろうとした事実はなく友人から買ったものを見せていただけだという話に合わせてくれという相談があった。留置場で言葉が通じるのはガイドだけだったのでその話に乗り日本大使館の顧問弁護士に頼んで裁判長にお話しを通して国外退去の話に乗ったと思っていたようだ。しかしながら、裁判長よりも警察署長のほうが偉いらしく、兄が堂々と胸を張って説明している内容が気にくわなかったらしく「あいつは真実を話していない」ということで兄が国外追放を言い渡されるはずの法廷の開催が遅れて、判決文がその間に書き換えられて兄は6か月の刑務所実刑となった。それでも「僕が悪者になれば6カ月の刑、相手が悪者になれば十年の刑、家族の稼ぎ手が牢屋に入るより僕が入ったほうが良い」という兄の正義は、玉川学園での教え「人生の最も辛い人の嫌がることを率先してしなさい!」にも根差しているようだ。ここまでに既に4か月が経過していて兄は10か月もビルマのインセン監獄に収監されていた。
世界各国を回り、色々な人と仲間になり仕事をしてきた兄は決して自分の為にという道は選ばなかった。自分が倒れ店じまいをする中でも売掛を追求することではなく請求しない道を選択していた。そんな兄を思いながら彼の記録を残すことで、蝶楽天を名乗り今 まさにそうした冥界で活動していることを思いここで最後にしようと思う。ご興味のある方は、国立国会図書館を訪れて頂ければ兄の思いに触れることが出来ます。
了
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