兄が最初に虫仲間の会に参加するようになったのは当時関東地区にあった京浜昆虫同好会というグループの木曜サロンが始まりらしい。兄が幾つくらいから参加しだしたのかは不明だが、当時参加されていた方のブログを見つけて、おそらくは高校生の頃には参加していたのだと思われる。まだネットもない時代なので最初からオフ会しかないということでもあった。そしてそうした場で交換しあう情報が貴重な活きたものであり、それが記録されて発行されるものが同好会誌であり名前は「字一色」といってまさに採集紀行として採集記録などが記されていたようだ。このグループの資料は子供心によく見かけた気がするが、私自身はどちらかという電気系のことに関心があったので兄の分野には踏み入れる事は無かった。全国を飛び回る兄にとっては各地区での蝶や虫仲間との付き合いも深くいろいろな地域の昆虫同好会に参加してネットワークを組んでいたようだ。静岡昆虫同好会の同好会誌は「ちゃっきりむし」と名付けられていたのは記憶している。なにせ郵便物が多いのだった。実際木曜サロンに行ったことはないのだが、兄の所を訪ねてくる人たちは標本箱を覗いたりしている中で皆さん少年のようになっている人達だった気がする。兄の足跡を訪ねようとネットを見ていたら、ちゃっきりむしのサイトに兄の書き込みをみつけた。2015年に逝去された先輩の方への追悼文だったが、その中でも兄自身が次のように書いていた。
ちゃっきりむし No.185 故北條篤史会長追悼号(2015年9月)から
用宗のアゲハチョウ 西山保典
「全国の虫屋と つき合いの深い方々は多い。虫仲間の集いは各地で多い。でも家にまで 行くことは 年齢が高くなるにしたがって 機会はなくなってくる。長いつきあいで 行き来のある人もいるけれど、沢山の虫屋の家を訪ねたことのある人は きっとあまりないと思う。そういう中で ボクはかなり上位にいると 勝手に思っている。約40年位い昔、静岡で高橋真弓さんの家をたずねたら(突然だったので) 不在だった。なんの旅行のついでだったのか すでに記憶がない。北條篤史さんに電話をしたら 在宅で 遊びに行っても 良いということに なった。ただ虫の話を したかったのだと思う。用宗という駅に行った。北條さんとは ひょっとしたら あの日 初対面だったかも しれない。北條さんも 「いらっしゃい」と言ってくれたのだから、ボクの事を知っていたが、どうも 酒とバクチにあけ くれているように 思っていた ふしがある。酒を飲んでいたのは 本人だったらしい。
2014年夏、久しぶりに北條さんに電話をした。「木曜社の西山です」と言うと しばらく空白の時間があった。「ニシヤマですが お忘れですか?」 と いうと 返事があった。長い間 電話もしたことがないので びっくりしたのかもしれない。
結局 当日は 諏訪哲夫さんに車を運転してもらい、北條さんも一緒に 静岡県内の各所を 案内してもらった。
40年振りに 用宗の北條家をたずねると 庭のミカンの木は 巨大になっていた。街中にある ヤブガラシの花には 沢山のアゲハチョウが 集っていた。どの家にも夏みかんの木があって、アゲハの多い 原因は それに違いない。昔の殿様が 非常用にミカンの苗木を植えさせたと 北條さんに 教えてもらった。・・・」
書いている文章からも兄が、年上の方々にいたずらっぽく話をしていたようなことが感じられる。兄が見ていた風景や聞いていた話は全て蝶にちなんだ形で記憶が形成されていたのだろうと思う。
この文中でも記載されていたバクチについては、麻雀や競馬のことだと思いますがこの辺りは木曜サロンを知っている方達の話を聞かないと真実には辿り着かないかもしれません。サロンがどのように発展的に変っていったのかについてある県知事の方のブログを見つけて少し分かりました。このサロンの冊子を週刊誌的に発行するということでTSUISOという雑誌を立ち上げたのです。1975年のことなので、私はまだ高専の学生としてオイルショックのさなかにいて高専においても就職先がないという時代に遭遇していました。兄は玉川大学に進学していましたが、先生のもとで学ぶ意義がないなどと確執が起きて大学を中退してしまっていました。全人教育の理想にほれ込んだ父や見守ってきた母の思いとの葛藤もあったのでしょう。当時昆虫商として研究をしつつ標本の販売をしている大蔵生物研究所という先達の方に弟子入りする形で丁稚奉公を始めたようだった。カブトムシを百貨店の屋上で夏休みに販売するといった仕事もされていたようで、兄の手伝いで調合していた餌やらアルバイトもそうしたことに基づいていたのだなと改めて気づいた。やがて自立した仕事として昆虫採集家・標本商として生きるベースとして木曜社という会社を立ち上げて雑誌TSUISOを出版するということになっていたようだ。
標本商という仕事をしていく上では普通の家では理解されないだろうと思う。その意味でも両親が子供たちを信じて任せるということが我が家ではいろいろな進路を取っていった姉妹たちにも同様だったろう。海外に採り子を置くようになっていった時に東南アジアの現場でも蝶を採集しても商売になるのかという事が理解されなかったらしい。食足りて文化が高まらないと務まらないのが昆虫採集という趣味研究なのだと兄は言っていた。現地の採り子たちには薬になるのさと話していたようだったが、大切に採集しないと良い薬にならない諭して優しく三角紙に包み込み採集地の情報も合わせて書くようにすることも教え込んだようだ。後年東南アジアの蝶ハンターの記事がナショナルジオグラフィックに掲載されたのは、そんな兄の生き様の一つだった。週刊誌として発行する兄の元に各地の虫屋が記事を送り、それに応えていくと共に兄が真摯に世の中について自分の考えでとらえた視点での編集後記「おどしぶみ」が人気であったようだ。このことは、先の県知事の方も書いていたし、末の妹もこの部分については気に入っていて兄の考えはとてもまともだったと話している。1700編近くあるおどしぶみについては一度読み直す必要がありそうだ。
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