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誰も知らない、ものがたり。

巡りの星 96

  気がつくと自分より先に、アサダさんの意識は月からの重力を振り払うように、ヒカルの元に向かって動き出そうとしていた。

 そのアサダさんの横顔は、すでに、わが子を守ろうとする母の顔だった。
 自分の胸の中から大きくて熱いエネルギーの塊が光を放ちながら膨らむのがわかる。
 そうだ、俺はなんて馬鹿なんだ。自分の中にすべての答えがある。心の中に光を探せと、自分で言っていたじゃないか。
 私はアサダさんの手をつかんだ。
 アサダさんも私を見た。お互いその目からは大粒の涙がとめどなく流れ出ていた。しかし、もう迷いは消えていることをお互いの顔を見て悟った。
 私の中に生じた大きなエネルギーの光は、アサダさんと手を取り合うことで増々大きく急速に膨らんでいく。 
 光は空にまで溶け込み、徐々に月が見えなくなっていく。
 月に引かれていたのは私たちの意識。自分の心だ。それも全部、自分の心の中の出来事だったんだ。
 そう思った途端、月は恐怖の対象ではなくなった。

 あれほど抗い難く感じた月の重力から、二人の意識は開放された。
 光りに包まれながら、自分たちの涙とともに下へ向かって降りていく。

 その涙の粒の中に、赤ん坊の頃の自分と、父と母の姿を私は見た。
 さらに、その隣の涙の中には、まだ若い頃のおばあちゃんと、おじいちゃんの姿も見える。二人真ん中で手を繋がれた小さな子供は、恐らく父だろう。気がつけば、周りに無数の涙の粒があたりの空を見渡す限りに覆っていた。月の重力から一斉に解き放たれて大地へと降り注ぐ雨のように、キラキラとした光を反射させながら。その全てに、過去から連綿と続く親と子の命のつながりが映っているに違いない。
 例え自分に子供がいなくって、例え今一人ぼっちでも、全ての人は親から生まれる。そして、実の親でなくたって、誰かに育てられなければ、今を生きることはできない。そして、一人ひとり懸命に生きることが、次の世代へと命のバトンを託すことになるのだ。一人で今を生きている人間は、この世に一人もいない。誰かが育てようとしてくれて繋がれてきた命なのだ。
 全ての未来の希望は、過去と一緒に、今、この時に存在している。

 アサダさんが「あ!」という声を出すとともに、その手に力を込めるのが伝わってきた。
 ひょっとしたら、アサダさんも、この涙のどれかに、自分の実の父と母の姿を見ることができたのかもしれない。
 この巡りの星の記憶の中に。

 ふと、私は思った。

 これが私たちの世界の海になるのだと。

 大きくて青い、一つの海。

 そう、今を生きる私たちの身体の中には、この青い星の海がある。
 『人は、涙を忘れてはいけないのね。』
 いつか聞いたおばあちゃんの言葉を思い出した。
 そうか、そうだったんだ。おばあちゃん、ありがとう。僕たちは慈しみの涙に救われたのかもしれない。
 ふと、アサダさんと目があった。アサダさんの目からまだまだたくさんの海のしずくが溢れ出ていた。
 それは、私の目からも。二人は見つめ合い、そして、うなずき、微笑んだ。

 空中から降りてゆく私とアサダさんを包む光が、ようやく下にいる皆の姿を迎え入れる。
 よかった、リンも、ヒカルもまだそこに居る。おばあちゃん、そしてもうひとりのアサダさんも。みんなもう泣いていない。皆の笑顔が、よく見える。待たせてしまって、ごめんね。もう大丈夫だよ。
 私は手を取り合うアサダさんと顔を見合わせ、お互いの無事を確認してから声を出した。


「リンちゃん、ヒカル、おばあちゃん、みんな、本当にありがとう!」


 そして光は更に強くなり、臨界点に達したように、周りの全てを真っ白くて温かい光で包みこんでいく。
 月に吸い込まれて生まれた深い闇の谷の底にも光は注がれ、この世界の全てを光が急速に呑み込んでいった。
 あふれるその光は、自分の意識をも溶かしていく。抗えないような安らぎを覚えながら。

 私はその薄れゆく意識の中で、いくつかの声を聞いた。

「もう、トモヤ、はらはらさせすぎ!あやうくヒカルちんとあたし消えるとこだったじゃん!」

「まあ、二人とも消えないでほんとに良かったわ、でもトモくんだってよく頑張ったわよ」

「・・・ふふふ、じゃあね、パパ、ママ、未来で待ってる」

「でも、忘れちゃうんでしょ全部。まあ掟だから仕方がないけどさ・・・」

 それは、おしゃべりに弾む朗らかな女性陣の声。どれも私がよく知っているはずの声だった。ついさっきまでは誰の声かを絶対に解っていた。
 しかしなぜだろう、薄れゆく意識の今の自分には、さっきまで知ってた筈の声が、一体誰の声なのかが、わかるはずなのに、もうわからなかった。

 私は朦朧とする中で、アサダの事は見失うまいと彼女の手をぎゅっと握りしめ、さらに身体を強く抱き寄せながら、誰だか解らなくなってしまったその声の主たちに向かって、懸命に声を出した。

「ありがとう!みんな、ありがとう!」
 

・・・つづく
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