【遣隋使】が初めて、中国へ遣わされたのは600年だったらしい
何故?かと云うと、『随書』には記されているが【日本書紀】に無い
第2回目とはいえ・・初めて国書を携え、小野妹子が大唐国に派遣された
その時に使者が乗ったとされる、 遣隋使船がこれです
そして復元されたのが
この遣隋使は合計4回遣わされている、〈5回という説もある〉
小野妹子は翌年の第3回遣隋使にも大唐国へ遣わされている
とは言え・・当時の船の構造と航海技術では命がけだったのであろう
コースとしては・・・大阪の住吉大社近くにあった住吉津から出発した。
大阪湾に出た船は、瀬戸内海を通り筑紫の国〈九州〉へ、
玄界灘に出た船は、上の図のように朝鮮半島沿いに髄の国へと向かう
この第二回目の遣隋使で小野妹子が持参した国書が物議をかもす事になる
時代は推古天皇15年にあたり、国書は聖徳太子によって作成されたのだが
『日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや』
この文中で「致」「天子」の二か所が隋の「煬帝」には気に入らなかった
それまで「天子」という言葉は中国の皇帝しか使われていなかった
我々と同等に扱っている・・・というわけである
聖徳太子はあえて、同等という形をとったのではないか
煬帝からの返書も、その怒りの内容を見て小野妹子は百済に奪われたと・・・
そして翌年の第三回目の遣隋使では「天子」の言葉は用いずに・・・
『東の天皇〈すめらみこと〉敬〈つつし〉みて西の皇帝に白〈もう〉す』と
この後、隋18年に唐に滅ぼされて、次回から「遣唐使」に代わる
朱雀門が後ろに見えます。