継体天皇の崩御に伴って即位したとされる説と
異母兄である宣化天皇の崩御に伴って即位したとされる説がある
欽明天皇には、ことのほか朝鮮半島に関する記事が多い
特に百済の聖明王との関係は良好であった。
百済の聖明王は、日本の天皇に忠誠を誓って、通交を良くした
朝鮮半島の拠点であった「任那」〈みまな〉が滅んだのがこの頃
欽明天皇は失地回復を願い、「任那」の再興に力を注いだ・・・
百済の聖明王もまた、「任那」再興計画を推進し日本の朝廷に
金銅の釈迦仏一体と経典数巻を奉り、仏教を礼拝することの功徳を述べた。
公に仏法が我が国に入って来た事となるのであるが・・
歴代の天皇を見ていると、その多くが仏法に帰依していますが
時折、あくまで神道にこだわる天皇が現れるようです
しかしどちらかを排除するという考えは、あまりなかったようです
さて、欽明天皇陵に向かう事と致しましょう
タイトルにもありますように御陵の横に「吉備姫王」の墓と猿石が
先ずは欽明天皇【檜隈坂合陵】〈ひのくまのさかあいのみささぎ〉から
駐車場から入ったので分らなかったのですが拝所の正面に参道があるんです
こちらが、正面の石段になります、後ろへ石段を上がると参道が続いてました
拝所を見下ろす感じになりますが、カメラアングルはバッチリです
駐車場に戻るときに気が付いたのですが、坂の上に拝所らしき一角と「猿石」の表示が
【吉備姫王墓】とあります、第34・36代皇極・斉明天皇と第35代孝徳天皇の生母なんです
制札には欽明天皇と同じ【檜隈】〈ひのくま〉となっています
そして、この拝所内に 「猿石」がありました
どうも日本のものではないらしいのです・・ユーモラスですよね~
飛鳥の謎の石造物の一つとされているんです、しかもここに4体と
高取城跡に1体となんですって、いずれも江戸時代の事なんです
どちらも、欽明天皇陵のすぐ南の水田から発見されたと云われています
渡来人の作であるのか造られた目的も・・・未だ不明のままだそうです
いわゆるジンムの東征の際に本隊とは別の日本海側を進軍した別動軍により700年続いた出雲王国は滅ぼされますが、東西2つの王家の家系は残りました。
因みに、東の王家、富家の元王宮跡が神魂神社で、王宮殿の形がそのまま現在つたわる神魂神社本殿(国宝)と言います(千木は違っていますが)。
後々、その一方、東王家で有った富家(向家とも/初代出雲王(オオナモチ)の八耳命(后は稲田媛命)やいわゆる事代主/大物主(金比羅)/粟島/少名彦の八重波津身も富家のお方)
の次男の彦太さまが
親戚の北陸の蘇我本家(いわゆる、武内宿禰の末)の男性跡取りが絶えた為、乞われて婿養子として入って様々な施策が成功して大変な繁栄をもたらしてオホド君と呼ばれていました。
いわゆる天皇家(平群王朝)側も男性跡取りが絶えた為、重臣らは共に語らい当時大変な評判(盛名)で有った蘇我のオホド君に目をつけて
天皇家に婿養子に入って頂く様に辞を低くして要請。
但し、条件として蘇我の刀自(嫁)と二人の御子(キキでは天皇扱い)とは離縁する事が条件だったため当初オホド君は難色を示していましたが受け入れて
天皇家(平群王朝)に婿養子として入りオホド大王/継体天皇となります。
天皇家に入って手白香媛命(跡取り女)との間に生まれたのが欽明天皇。欽明の(手白香媛命の妹の娘との)御子が敏達。
以降、現在まで皇室はこの血統(出雲王家の血統(末裔))です。(男系男子による万世一系の皇統は虚構)
因みに、欽明朝以降いきなり蘇我家が歴史の表舞台に登場しますが、
それはオホド大王の蘇我家での御子の血筋故(欽明~すると甥やその子孫)です。
また、仏教は出雲族のルーツ(インド)以降の信仰(幸(サイの)神三神と龍蛇神の信仰。今尚(形を変えつつも)根強く伝わっり信仰されている)が形を変えて入って来たもの。
仏教に自分たちの信仰を仮託、隠ぺいして守ろうとしたのではなかったか?
後々神仏の混合~習合がスムーズに行った裏事情もソコに理由が有ったのでは?
I always use url shortener
It is very helpful.