長慶天皇の御陵、【嵯峨東陵】〈さがひがしのみささぎ〉に遭遇してより五ヶ月
今更ながら歴代天皇の歴史の深さに戸惑いを感じたり、新たな感動を頂いたり大変に複雑
京の天皇御陵をほとんど巡ってきたが、その歴代天皇について、ほとんど知らない状態である
73年の生涯であまりにも天皇に対して軽薄だった事を大いに反省している・・・今からでも遅くはない・・・と
お一人お一人を自分なりに調べ上げて、改めて御陵巡りの写真と共にシリーズ化したいと思う
前々回で?女性天皇の初代に当たる推古天皇を聖徳太子と共にブログしましたが・・・
大正期までは、第15代天皇だったのが、歴代天皇から外されてしまった、神功皇后は将に神がかりです
日本武尊の第二皇子である、第14代仲哀天皇の皇后だった神功皇后・・・ここにこの様な記事がある
~神功皇后は神話的装飾のいちじるしい皇后である。
仲哀天皇の皇后であった時も、天皇の崩御後も、
神がかりによって神意を伝える巫女王として活躍したばかりでなく
神々の助力を得て、「三韓征伐」や誉田別〈応神〉の異常な出産も成し遂げている
しかも「日本書紀」では魏志倭人伝が「鬼道をよくする」と記す卑弥呼にまで
擬せられているのだからその神秘化はなおさらである。~
ここに、応神天皇出生について不思議な事がある、
仲哀八年九月五日、神の託宣で皇后の妊娠が告げられ、翌年二月六日に仲哀崩御、
同年九月、新羅征伐に向かう皇后はすでに産み月となっていたので腰に鎮懐石〈しずめいし〉を挟んで出陣する。
同年十二月十四日。新羅より凱旋した皇后は筑紫で誉田別〈応神〉を出産している。
なんと妊娠期間が一年三か月余りにもなり、夫・仲哀が亡くなってからでも十ヶ月以上経ってからの出産
その上、仲哀天皇の死は隠されていたという・・・神がかりだけでなく、謎が多い
上は月岡芳年の「日本史略図会・第十五代神功皇后」の見事なる絵画である
この後、幼い誉田別を押し立てて穴門の豊浦宮から大和へ向かった神功皇后は
忍熊王の反乱を鎮圧したのち誉田別を皇太子として摂政を行い、磐余〈いわれ〉に都を置く
ナントこの間七十年に及んでいる・・・大正期まで天皇の中に数えられていた事がわかる
神功皇后の御陵も凄いのです、前方後円墳で全長275m、全国の古墳で第12位の規模です
これから・・・京都を出て、奈良をはじめ近畿の古墳を巡るのが楽しみです
今回は歴史上の皇后、しかも大正期まで天皇であった神功皇后を紹介しました
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