今回より第106代【正親町天皇】に関連して3回連続でブログします
〈その1〉として・・後柏原21年・後奈良10年・正親町3年です
正親町天皇からして祖父が後柏原天皇・父が後奈良天皇なんですが
この年数には三人とも共通している理由があるんです
それは、各々の天皇が「応仁の乱」の後遺症の影響を受けた事です
「応仁の乱」は祖祖父の【後土御門天皇】の時に勃発していますが
共通点その1は、各々が「践祚」を受けての「即位」と云う事です
共通点その2は、各々が「即位礼」まで大変な時間を要した事です
「応仁の乱」の後遺症で経済的に逼迫して皇室の貧困問題がその理由です
皇室と貧困・・・今では信じられない事ですが、天皇・四代に渡り続くのです
その最たる天皇が【後柏原天皇】で「践祚」から22年目に「即位式」が
経済状態が少しづつ、回復しているとはいえ【後奈良天皇】は10年後でした
第104代【後柏原天皇】 第105代【後奈良天皇】 第106代【正親町天皇】
そして今回の第106代【正親町天皇】ですら「践祚」から3年後の「即位式」です
しかし【正親町天皇】時代に皇室にとって「救世主」が現れるのです
織田信長と豊臣秀吉です・・・二人とも天皇を利用するのが目的ですが・・・
永禄十一年〈1568〉信長は朝廷の綸旨を受けて上洛します。
まず、御所を修理し、朝廷に資金を献上、皇室の経済的な安定に努めます。
信長の朝廷に接近する狙いは、天皇と皇室の権威を高めることでした。
天下取りに際して行き詰まった時などに天皇の力を利用するためでした
そして本能寺の変のあとに君臨する秀吉は、信長以上に援助を増します
正親町天皇も秀吉を【関白】に任命すると共に【豊臣】の姓を贈ります
一旦は地に落ちた皇室の財政と権威でしたが、正親町天皇と、信長、秀吉の
構想が結び付き、朝廷は立て直され天下も秀吉によって統一されます
皇室の貧困時代に終止符が打たれるのですから、何はともあれめでたしめでたし
さて「践祚」と云う言葉を調べてみました・・・
「践祚」〈せんそ〉とは、天子の位を受け継ぐことでありそれは先帝の崩御
あるいは譲位によって行われる。
古くは「践阼」と書き、「践」とは位に就くこと、「阼」は天子の位を意味する。
これに続いて位に就いたことを内外に明らかにすることを即位という。
日本においては、桓武天皇以前は即位と同義であった。
第51代天皇である平城天皇は、即位に先立ってこの践祚を行い、その後に即位式を行っている
これ以後、践祚と即位の区別がなされるようになったと思われる。
ちなみに、践祚のみで即位式が行われず、ごく短時間で廃位となった仲恭天皇は
「半帝」と呼ばれ、太上天皇号も崩御後の諡号も贈られず、
崩御から636年後の1870年〈明治3年〉、ようやく「仲恭」の諡号が贈られた。
この三人の天皇については、先帝の崩御を受けての「践祚」であって、
譲位からは「践祚」と云わないので、崩御を受けての「践祚」と思っていた
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