大変に分かりにくい御陵でした、昨年の6月でした自宅を自転車で出発して・・すぐにわかると思っていたら
何度も何度も聞いても・・地元の人にも関わらず・・・存じませんの返事が・・
四人目の人でやっと田圃の中と、民家の建ち並ぶ場所に・・・ありましたしかもよく見ないと通り過ぎそうでした
ここが御陵の入り口
石段を上がって行きましょう・・・石段を上がりますと更に坂道が続きます
進んで行くと、前方に制札らしきものがちらちらと見え隠れ突き当りを少し右に制札が・・・
文徳天皇【田邑陵】〈もんとくてんのう・たむらのみささぎ〉と読みます
制札の前から右奥に御陵が見えますでしょう左下は池です こちらは振り返った写真で右側に制札が
この制札からの参道は下から7・8m盛り土がしてあります・・・御陵は柵がして会って登れません
だからこんな角度からしか撮れません
文徳天皇田邑までしか・・・、陵 の文字が見えないのです
でも立派な御陵でした、
文徳天皇は・・・前回の第54代仁明天皇〈にんみょうてんのう〉の時にふれましたが、藤原良房がここでも絡んできます
仁明天皇の時は良房の妹、藤原順子と仁明天皇の第一皇子を皇太子にして、これが文徳天皇ですが
藤原良房とは上手くいかずに・・・何方かと云えば良房から逃げている状態でした
文徳天皇には皇子が三人も居たのですが、今度は良房の娘を入内させ生まれた皇子がまだ一歳なのに皇太子にしようとします
文徳天皇はすべてに不満を示して会議などには出席せず・・天皇が居なくてもと云うような雰囲気にします
世に云う〚摂関政治〛の始まりです、天皇を退けるように、自分たち一門で政治をつかさどる
挙句には・・・文徳天皇32歳の若さで病死してしまいます、藤原良房の暗殺説が出て来るのも当然の事です
昨年御陵に詣でたときに、何か寂しさを痛感したのもこの様な事情があったからかも
文徳天皇田邑陵の御陵印です
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