土御門天皇も悲運の生涯でしたましてや人生の後半は阿波の国での生活そして崩御
ここでも天皇の父【後鳥羽上皇】の影響を受けるのです
何と、祖父の内大臣・源通親の計略によって、僅か四歳で即位します
譲位した【後鳥羽上皇】の院政の実権を握って政治を行いますが死亡します
そこで、漸く院政を取り仕切る権力を得た、父の後鳥羽上皇によって・・・
弟の守成親王に譲位させられ、十六歳で上皇になります
こんな話があります・・・
土御門天皇の母親は内大臣の源通親の娘・在子となっていますが
本当は通親の養女で、しかも実の父親は寺の執行だったのです
身分の低い女性が生んだ皇子でしたが、通親が後鳥羽上皇と組んで
院政を掌握する道具として即位させられたのでした
そして「承久の乱」が起こります
首謀者の後鳥羽上皇と共謀者の順徳上皇が配流と云う処分を受けます
謀議に加わらなかった土御門上皇は連座する形で京を去ることを申し出ます
結果、土佐への配流が決まりますが、幕府は無実を配慮して
京に少しでも近い、阿波の国に移します
この地で十年余り過ごした後、三十七歳で崩御、この地で火葬されます
しかし・・・御陵は京都にあります、でも分かり難い場所にありました
雨の降る中を、息子の運転で「バカ家族三人組」で洛西は長岡京へと向かいました
長岡天神の裏の方と、地図に在りましたので簡単に行けると思っていたら・・・
此の道案内をよく見ていなかって
真っすぐ行ってしまいました〈車はここで待っていて〉
田圃の中を勢いよく・・・前進していきますと ええ~まむしに注意の立札が??
進むにつれて・・天皇陵がありそうな雰囲気で無くなって行きます
10分程歩いて・・・間違っている事にきずいて元に戻りますと・・・
よく見ると土御門天皇陵の下に、矢印があるではありませんか
車に乗って、矢印の方向へ進む事わずか一分で目的地に着きました
車道から石段を四段上がった処に制札が・・・
制札には「土御門天皇」【金原陵】〈かねがはらのみささぎ〉とありました
参道を進みます
奥にある小さな森に近づいて行くと 拝所にある石の鳥居が見えてきます
阿波の国で崩御なされ、阿波にて火葬された土御門天皇・・・御陵も心なしか寂しそう
安らかにお眠りください・・・と念じ参拝して帰途につきました
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