世界から「堺」へ 日本へ! 3.堺の誇り「伝統産業」
前田秀一 プロフィール
< 関連情報 >
「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会
世界から「堺」へ 日本へ!
1.その出会いと歴史年表 はこちらから
2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム はこちらから
井原西鶴の言葉〔井原西鶴 元禄元年(1688)浮世草紙『日本永代蔵』〕を借りれば、「堺は浮ついた商いをせず、暮らしぶりは質素で世間づきあいも上手だが、一獲千金の気概に欠けて老成した印象を与える」と表現され、かつての商人の町は表向きの華々しさには欠けるきらいはあった。しかし、鉄砲鍛冶の流れをくむ打ち刃物のほか食品加工、染色などに分業体制がとられ専門性の高い職人の町として息づいていた。
明治20年(1887)の産業状態(三浦周行監修1930初版『堺市史本編第⒊第3巻』942頁堺市役所)で見ると、清酒が売上高の一位を占め、醤油、酢と併せると発酵製品の生産が多く堺のまち衆の進取の気概が感ぜられる。
上「表」の拡大は、こちらから
“まち”の成長や社会環境の変化は、そこに住むものの営みに影響を与え、「業」の盛衰を招く時代の変遷の中で、堺の専門職は堺の風土を反映し「誇り」と頑な「こだわり」によって郷土のアイデンティティーを育んでも来た。
1.堺の「業」の盛衰
1)清酒
堺の酒造業の始まりは中世以来ともいわれ(1493年『蔭涼軒目録』)、1619年(元和5年)には堺の商人が紀州の回船を雇って江戸へ就航させた菱垣廻船で江戸へ運び、そのほか長崎、松前(北海道)、中国、四国、対馬など全国へ出荷していた。
当時、堺は京都、大坂、奈良とともに、金剛山からの伏流水を活かした全国的な酒の産地であった。堺の酒造の最盛期は明治時代(1868~)で、大正3年(1914)まで約50年近く、堺の製造業の生産金額の1位を占めていた。
これらの内、清酒、手織り緞通、菜種絞油、真田紐は時代の進展とともに社会環境と生産条件の変化により衰退の道をたどり実質的な生産活動は堺から消えた。
清酒は、堺市街地の開発と近代工業の発達につれて地下水の使用が増え、地下の伏流水が枯渇し、水質低下のため清酒生産に必要とする水を六甲の宮水(西宮)を買いに行くことになり、堺の酒造りは衰退の道をたどった。
当初100軒近くあった酒蔵は、1970年(昭和45年)頃には堺市内から完全に姿を消すことになった。
平成17年(2005)、河内長野の蔵元を病気のため退いておられた西條裕三氏が健康回復に伴い、堺のまちづくり団体・大小路界隈「夢」倶楽部の面々と開口神社境内にある室町時代からの名泉・「金龍井」井戸を整備され、近世の堺を支えた酒造業の復活に思いを馳せられた。
特別純米酒「夢衆」の上市を弾みに、平成28年(2016)新酒蔵(堺区甲斐町西)を建造し46年振りに純米吟醸酒「千利休」が発売された。
2)堺緞通
堺で緞通の製造が始まったのは江戸時代の天保2年(1831年)、真田紐を製造していた糸物商・藤本庄左衛が中国緞通、鍋島緞通(佐賀県)を参考にしてであった。織機には世界でも類を見ない巨大な開孔板綜絖(かいこうばんそうこう)と呼ばれる部品を使うなど独自の発展を見せた。
明治20年代に堺緞通は近郊農村の一大産業となり、「緞通業者は3千人以上、職人は2万人以上」になったが、30年代には、アメリカで高い関税がかけられ、安い海外製が出回るなどして、手織緞通は急速に廃れ、その後は機械化が進み安いカーペットなどに置き替わっていった。
存続の危機の中、中区在住の辻林白峰氏(本名:辻林峯太郎)が家業として緞通製造に関わり文様を絵画的に表現する技法を磨き上げ、その生涯を緞通にささげられた。
現在は、「堺市手織緞通技術保存協会」(中区東山)が中心となって有志により継続され、平成6年より大阪刑務所にて職業訓練として手織り緞通が造られ、優れた作品など受注生産を行っている。
昭和61年(1986)2月5日に「大阪府指定無形民俗文化財」の指定を受けた。
3)菜種絞油
大蔵永常『清油録』〔1836(天保6)年〕の総論に次の記述がある。
「神功皇后の御時 摂津国のほとり遠里小野(おりおの)村にて榛(はしばみ)の実の油を製し住吉の神前の燈明そのほか神事に用ふる所の油をみなこの地より納め奉れり」
「摂津国遠里小野村 若野氏 菜種子油をしぼり出せしより 皆これにならひて油菜を作る事を覚え 油も精液多く油汁の潔き事是に勝るものなければ他の油は次第に少くなり かつ 菜種子の油のみ多くなれり」
「大阪は諸国へ通路便宜なるに随ひ 元和(1615~1623)の頃より遠里小野其外油うりのともがら多くこの地に引うつりしと見え その後搾具の製作まで追々細密に工夫を用ひたれば 明暦(1655~1658)の頃より古風の製具絶しと見えたり」
今も、「花田口」、「北花田」および「南花田」の地名が残っている。
菜種油は、灯明用としては荏胡麻油に比べて優れたていたため、豊臣秀吉は天正11(1583)年大坂城の築城とともに大山崎に産する荏胡麻油を河内・和泉に産する菜種油に切り替え、大山崎の油商人も新興の大坂に移り住んだ。
明治維新(1868年)後、文明化の流れの中、西欧から電灯技術が導入がされ、大正末期(1926年)にほぼ全家庭に普及するに従い、菜種油の灯明用としての需要は激減し、神社仏閣など特定用途に限られた。堺市内の製油メーカーも淘汰され、食用油など加工製品の開発に注力し堺から菜種絞油の生産はなくなった。
2.堺の「伝統産業」
堺市では卓越した技能を有している人を「堺市ものづくりマイスター」として認定し、その技術に対する社会的な認知度を向上させるとともに、その優れた技能を継承して発展させるため、堺市ものづくりマイスター制度を実施している。
「堺市ものづくりマイスター制度」
http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/dentosangyo/meister/meister.html
マイスター認定の対象業種は、刃物(鍛冶4人・研ぎ10人・鋏1人)・注染1人・線香3人・手すき昆布1人・手描き鯉幟1人・和菓子2人で、これに鉄砲づくりに由来する自転車と「大阪府無形民俗文化財」に指定されている手織り緞通を含めて堺の伝統産業と位置付けている。
詳細については各画像の下の表示よりホームページにアクセスしてご覧ください。
これらの内、打ち刃物のマイスター15人は、いずれも経済産業大臣認定の「日本伝統工芸士」(*)で、注染、線香、手描き鯉幟の計5人は「大阪府伝統工芸士」認定者である。
特に、日本伝統工芸士が揃った堺の打ち刃物は料理を業とする専門家の間で高く評価され、「堺」のアイデンティティーとして広く世界で受け入れられている。
伝統産業は、本質的に人間に依存するものであって、「ヒト」そのものに由来する部分が大きく、無形の文化遺産でもあり、常に後継者の問題が付随している。つまり、放置しておけば時間とともに失われてゆく文化である。
「堺市手織緞通技術保存協会」の事例が示すように、「市民」あるいは、「地域社会」の関わりがアイデンティティーの存続に投影されるので、その継承に当たっては地域社会における組織的な支援、すなわち市民意識の向上が鍵となる。
歴史の息づく堺のまちで、時代を超えて一つの世代から次の世代へ地域の文化と伝統を受け継ぐモデルの実践が、伝統のまち「堺」のユネスコ協会に期待される使命の一つでもある。
<参考資料>
1. 堺伝統産業館 配架資料 ホームページ
打ち刃物、和晒・注染、線香、手すき加工昆布、手描き鯉幟、自転車、手織り緞通
2.(公社)堺市産業振興センター編集・発行 2008『堺の伝統産業』
3.三浦周行監修1930初版『堺市史本編第3第3巻』堺市役所
4.島田孝克編集委員長2000『東京油問屋史』幸書房
5.調査協力:堺市・商工労働部ものづくり支援課、(公財)堺市産業振興センター販路開拓課
SDGs魅力情報 「堺から日本へ、世界へ!」は、こちらから