堺から日本へ! 世界へ!

堺の歴史・文化の再発見、再生、創造、魅力情報発信!

世界遺産登録を目指して 百舌鳥・古市古墳群 発掘調査

2021-03-01 00:05:05 | 堺のアイデンテlティ―

一般公開:平成24年12月1日(土)~2日(日)午前9時~午後4時
主催:堺市  協力:宮内庁

前田秀一 プロフィール

 

関連ページ(リンク先)歩いて見た世界遺産の登録基準          百舌鳥古墳群

                   堺市市政要覧「堺NOW」2003、4頁(堺市長公室、2003年3月)より

                              現地案内板

広瀬和雄「巨大古墳の環大和政権配置」『百舌鳥野の幕開け発表資料集』108頁(堺市、2010年)

 「ニサンザイ」は「ミサンザイ」すなわち「ミササギ(陵)」の転訛したものと考えられており、宮内庁が「東百舌鳥陵墓参考地」に指定しているものの、天皇は埋葬されていないものとされている。同じ百舌鳥古墳群の田出井山古墳が反正天皇陵に比定されているが規模が小さいために、こちらを反正天皇陵とする説がある。〔ウイキペディア「土師ニサンザイ古墳」〕

一般公開現地説明資料より(説明文字拡大追記)

 

「墳丘」(宮内庁管理)領域の表示                宮内庁・堺市管理境界(水際)   

<発掘調査の経緯>
 宮内庁では、東百舌鳥陵墓参考地(ニサンザイ古墳)の裾周りで水の浸食により崩落が進んでいるため、護岸整備工事を行うに当たり、工事の工法などを検討するための事前調査が計画された。
 堺市は、ニサンザイ古墳のより適切な保存と活用を図るため、宮内庁管理外の墳丘裾や濠内の遺構・遺物の状況を確認する目的で発掘調査を計画した。
 両者が同時に調査を行い、その成果を共有することで、ニサンザイ古墳(東百舌鳥陵墓参考地)に理解をより深めることができるなどのメリットがあるため、平成24年10月から同時に調査を実施している。
 宮内庁と自治体の同時調査は、2008年の「御廟山古墳」(堺市)に次いで2例目で、同古墳の「墳丘」や「裾」を発掘するのは初めてである。

 

」 表示箇所 「造出し」部               「須恵器 甕」  「埴輪列」 (拡大)

 

            「くびれ」部           表示板(左から) 「一段目斜面」 「転がり落ちた埴輪」 「造出し斜面」

 宮内庁は、管理する「墳丘」部分の19ヶ所を発掘し、「墳丘」最下段の一段目「テラス」や「墳丘」くびれ付近につきだした「造出し」に直径35cmの埴輪の列が検出され、二段目斜面の「下端」や「葺石」が確認された。一段目「テラス」の全周は約1kmと見込まれ、検出された「円筒埴輪」の状況から換算すると約2,800本が並んでいることが推定される。

                                 「」 表示箇所 「墳丘」部

「表示」板(上から) 「二段目テラス」、「二段目斜面」、「位置表示②」、「葺石」、「一段目テラス」、「埴輪列」

 

」 「葺石」拡大                       「埴輪列」拡大

「葺石」事例(五色塚古墳-神戸:ウイッキペディア)

注釈「葺石」:
 古墳の墳丘斜面などに河原石や礫石を積んだり、貼りつけるように葺(ふ)いた。その祖形は弥生時代の墳丘墓(弥生墳丘墓)に認められる。前期古墳と中期古墳に多いが、後期は葺石をともなわない古墳が大多数をしめる。〔ウイキペディア「葺石」〕

 「墳丘」から突き出した「造出し」からは、円筒形埴輪や朝顔形、蓋(きぬがさ)形があり、須惠器の甕(かめ)や土師器(はじき)の小型壺、ミニチュア土器などが出土し、テラス状の「造出し」を祭祀場として祭り用具に使われたと見られる。
 これら出土物は、形や製作技術などから5世紀後半のものと考えられる。

  

  

           「」 表示箇所 「墳丘」埴輪列(上部)と「裾」(下部)発掘              「墳丘」テラスの埴輪(上部、拡大)
 

 堺市が所有する周濠の調査区では、濠の底で本来の墳丘「裾」を確認した。そこは、従来の「墳丘」長を計測した地点から5m以上離れており、未調査の前方部でも同等以上の間隔を想定した場合、「墳丘」長が300m(290m+5m×2)を超えるものと見込まれる。

 宮内庁と堺市の調査結果を合わせると「前方」部から「造出し」にかけての状況がほぼ復元できる。「墳丘」二段目の斜面の「下端」から「濠」にかけての古墳築造時の計上を検討することの可能性が得られた。
 従来、「ニサンザイ古墳」は、天理市の渋谷向山古墳(景行天皇陵、全長300m)に次ぐ全国8番目の大きさとされていたが、全国で第7番目の規模であることが分かった。
 百舌鳥古墳群では、全長200mを超える古墳としては大仙(仁徳稜)古墳(全長486m)、石津丘(履中陵)古墳(全長365m)に次いで土師ニサンザイ古墳が第3番目の規模である。

 

<筆者コメント>

 主要な古墳が、天皇陵と伝承されている百舌鳥古墳群において、「墳丘」は宮内庁の管理下にあり一般人は立ち入り禁止区域となっています。
 この伝統的な事実は、「顕著に普遍的な価値を有していることを大前提」としている世界遺産登録の趣旨に対して越えなければならない課題となっています。
 また、世界遺産登録を観光資源として考えた場合、訪問者への公開は必然的条件であり、前方後円墳という日本独特の形式墓をどのように見せるのかを含めて、古墳の見せ方の問題が問われています。
 
今後、堺市と宮内庁では、お互いの調査結果を共有して検討を進め、ニサンザイ古墳の規模や形状などを明らかにされる予定ですが、この協働が百舌鳥・古市古墳群の世界遺産登録に向けてBreakthroughとなることを願っております。

 

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行基生誕1350年記念講演会「堺から仏教を変えた行基さん」

2021-02-25 00:50:43 | 堺のアイデンテlティ―

 

文責 前田秀一 プロフィール

 

 堺市民が敬愛し誇りとする「行基さん」の生誕1350年を記念して公開講演会(主催:NPO法人堺観光ボランティア協会)が開催され聴講しました。
 講師は、行基さん入寂のお寺「菅原寺(喜光寺)」(奈良)より副住職・高次喜勝師をお迎えし、併せて行基さんが民衆の力を結集して築造した作善行の塔「土塔」の発掘調査および復元の業績をもとに学位記「博士(文学)」を取得された近藤康司氏が務められました。
 行基入寂のお寺の内側から貴重な資料に基づくお話しであり新鮮味を感じました。

関連情報:『現代に生きる僧・行基の伝承伝説』こちらから

堺から仏教を変えた行基さん

法相宗別格本山 喜光寺(奈良市) 副住職 高次喜勝

◆668年、和泉国大鳥郡蜂田郷家原村(現堺市西区)で生まれ、十五歳にて出家し「瑜伽唯識論」(法相宗の教え)を学び理解したと伝わる(『続日本紀』)。
◆691年、葛城山高宮寺野徳光より具足戒を受ける(24歳)。
◆700年、師事していた道昭師(遣唐使として法相宗を導入)が法興寺(現飛鳥寺)で入寂(33歳)。
701年、『僧尼令』(僧尼の寺院外での活動や在家信者との関わりを禁じた法律)の施行に悩む。
704年、37歳で法興寺を辞して帰郷し、生家を家原寺と名付け地元の民衆との関わりを深める。
      病弱であった母親を生駒山東陵・草野仙房に転地させ介護に励む(40歳)

 
奈良・本興寺(現飛鳥寺)           行基の生家・家原寺(堺)
   

710年、母死去、その後も草野仙房に住み苦行する(45歳)。
     母思いの和歌「山鳥のほろほろと鳴く声聞けば父かと思ふ母かと思ふ」
◆716年、大和国平群郡に恩光寺を起工(49歳)
◆717年、元正天皇、行基と弟子等を糾弾(50歳)。
721年、寺史乙丸から平城京の寺地貴信を受ける(54歳)
722年、菅原寺(後の喜光寺)を起工、開創(55歳)
     太政官民間布教を糾弾、行基は和泉に蟄居
723年、「三世一身の法」が発布され、開墾田の三代私有を許す
     衆生の教化に乗り出し、橋、道場、池、用水路、港、運河、僧院、尼院など
            740年まで民衆の生活に利する活動に取り組み、行基の慈悲を仰ぎ、菩薩と称し慕うものが増えてきた(『続日本紀』)。

724年、聖武天皇即位(57歳)。
727年、民衆の力による作善行為の塔「土塔」を大野寺の境内に建立(60歳)

     民衆が特別な技術がなくても自分にできる奉仕の力で土を盛り上げ信仰の神髄として塔(土塔)を造り上げた。
 行基の福田(ふくでん)思想(善い行為の種子をまいて功徳を得る)による菩薩(求道者)の知恵と慈悲に基づく利他行(自分の利益よりも他人の利益を優先する行い)のシンボルとなった。
741年、泉川泉橋寺にて行基と聖武天皇が会談(74歳)       
743年、聖武天皇、大仏建立の詔。行基勧進元を仰せつかる(76歳)。
          「もし、さらに人の一枝の草、一把の土をもって像を助け造らんをこころに願うものあらば、ほしいままにこれを許せ」(『大仏像率の詔』

 

  
    大仏様を造った人々(『東大寺二月堂過去帳』):合計2,603,638人
     材木関係工人51,590人+労働者1,665,071人+金工372,075人+国の労働者514,902人
    当時の全人口:500~600万人、平城京人口:50~10万人
   大仏様にいきる精神:「小さなことからコツコツと」
745年、聖武天皇、行基を日本で最初の大僧正に補任(78歳)。
748年、行基病に臥す。聖武天皇、菅原寺に行幸(『喜光寺縁起』)。
749年、行基、菅原寺(現喜光寺)にて入寂(82歳)。遺命により生駒山東陵にて荼毘にふし(師・道昭に続いて日本で二人目)、現竹林寺に埋葬。

  
法相宗別格本山 喜光寺(当初・菅原寺)

1235年、僧寂滅、生駒山中で行基が発掘され、舎利瓶・『舎利瓶記』発見。


土塔発掘調査からみる行基の活動

堺市文化財課 学芸員 近藤康司 博士(文学)

行基はなぜ塔を土で造ったか
 木造の「塔」というのは、建築の専門的な知識が必要だが、土であれば建築の専門的な知識がなくても、誰もが参加できる。まさに、知識全員が建立に参加できる形態の「塔」(十三重の塔)の建立を目指した。

     

発掘窟調査出土瓦から判明したこと
 文字を記したものがあり、大きく2種に大別できる。
 まず一つは、軒丸瓦の瓦当面(蓮の紋様が描かれる正面にあたるところ)に「神亀四年□〈丁〉卯年二月□□□〈三日起〉」(□は文字が欠けている部分。〈〉は復元)と記されたものが2点出土した。行基の事績を記した記録の大野寺の創建年代の記載と合致し、文献資料に記された記事と、発掘調査で出土した考古学的な資料の内容が一致したことで、大野寺・土塔の建立年が727年に確定した。
 もう一つは、瓦への文字の記載は、焼成前の丸瓦、平瓦にヘラ書きで人名が記されたもの約1250点が出土し、僧尼関係、姓を持つ氏族、持たない氏族などで有力な臣や連、宿禰などもあった。女性も知識として参加していた。

なぜ瓦に名前を書いたのか
 行基が土塔を建立する際に、参加した人々が協力した証しとして名前を記したと考える。要は、土や瓦を運ぶといった労働力の提供、あるいは食料や金銭などを寄進した人々もいたであろう。仏道に寄進を行い、結縁を結ぶことを仏教用語で知識という。
やはり土塔が建立された和泉国(建立時は和泉監)大鳥郡の氏族が多く、摂津国北部といった遠方の氏族名もみえる。このことから、土塔建立にあたっては、近隣だけでなく、遠方からも集まり、または土塔建立以前に、すでに各地から大鳥郡に集って来ていた知識集団の結集が考えられる。


土塔の建立で、行基と知識たちは何を求めたのか
 文字を記した瓦の中に、先祖を追善する内容のものがある。当時の寺院建立は、先祖の追善というのが人々の大きな目的であった。
 このほかに文字の書かれた状況や歴代天皇の霊の安穏や極楽往生を願ったものがあり貴族クラスの人物かと解釈されるものがあった。
  土塔建立には、このような願いが込められていたと思われる。


土塔建立の意義について
 「塔」を建立することで寿命延長、天人界に生まれることができる、無間の罪を滅ぼすことができる、菩提を得ることができるといったことが記されており、知識たちは土塔建立に参加することで、このような功徳を得ることを求めたのであろう。
 行基は、平城京近辺での活動が「僧尼令」違反として弾圧されたため、京を出て郷里の和泉へ戻り、衆生救済のために最初の社会事業として土塔の建立に取り組んだ。
これから始まる行基と彼を支える知識集団の活動のいわばシンボルと位置づけられた。
 土塔を建立した大鳥郡土師郷は、土師氏の本拠地で古墳時代以来古墳の築造など土木技術に長けており、行基の土木技術を伴う社会事業においては知識の中でも大檀越だった土師氏の助力は大きかったと考えられる。

「土塔公園」正門より史跡「土塔」を望む


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誇りを知る 1600年の歴史と文化に出会う「堺」!

2021-02-25 00:49:30 | 堺のアイデンテlティ―

1600年 堺の歴史(”光もの”)と文化

堺 その名前の起源 詳しくはこちらから

前田秀一 プロフィール

 

 大宝元年(701)、大宝律令の完成にともない、はじめは「摂津国」と「河内国」が置かれ、天平宝字元年(757)に「河内国」から大鳥、和泉、日根の3郡が分離して「和泉国」が設置された。
 「摂」、「河」、「泉」(「摂河泉」)三国の境界(「三国山」、「三国丘」)にある“まち”の位置づけから、特に、熊野詣が盛んになった平安時代より「境」⇒「さか井」(1045年)⇒「堺」(1081年)と私称が展開し、後に、固有の地名として「堺」が国境の“まち”の同義語として語られるようになった。

詳しくは、こちらから

堺の“光もの”

 日本が、初めて国家を形成したのは5世紀の百舌鳥古墳群一帯であり「河内王国」と提唱され、「大和王権」国家に先立つことであり歴史的に注目されている。第2の国家形成は、織田信長による全国統治の時期であり、それは、豊臣秀吉によって引き継がれ南蛮文化によって花開いた中世の国家となった。その後、徳川家康によって江戸幕府が開府し、首都が関西から関東へ移動して第3の国家が始まった。近代国家の始まりは明治維新であり、第2次世界大戦後は現代国家としてさらに生まれ変わった。
 これらの過程にあって、堺は、その時代に応じて重要な位置づけにあったが、特に、第1次および第2次国家形成の時代にあっては、その中心にあったことが注目されている。
 また、中世から近世においては、堺の港がキリシタン文明到来の玄関口となり、外国のみならず国内諸国からの文化の窓口として、人、もの、情報の集まる商業都市として世界的に注目され、「ものの始まりなんでも堺」とうたわれ文化、技術の発信地となった。

旧石器・縄文・弥生時代 集落・水耕稲作遺跡「四ツ池遺跡」(国指定史跡)

   

 石津川流域下流左岸に四ツ池集落遺跡が存在し、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「国」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、大、中規模の墓が存在し整備されたムラであり、水田稲作により食糧の大量生産体制が整い、さらに、銅鐸も発見され金属器の使用が考証されている。
 古墳時代に向けた社会的基盤の構築にむけた足掛かりを築いていた。

古墳時代(5世紀) 世界文化遺産「百舌鳥古墳群」

 仁徳天皇が高津の宮を営み、在位中から百舌鳥の地に巨大な大仙古墳が築造された。そのほかに履中陵(百舌鳥陵山古墳)、土師ニサンザイ古墳、御廟山古墳、反正陵(田出井山古墳)など大型古墳群が集中して築造された。これらの築造に携わった人々、食糧、物資の集中は、それまでに例を見なかった賑わいと想像される。
 また、5世紀前半ごろ、陶邑で、朝鮮半島南部渡来の工人による須恵器の生産が始り、平安時代まで約500年間続いた。新技術によって作られた硬い須恵器は、全国の需要を招き、列島住民の生活をも改変した。1962年には、泉北地域の開発に先立った発掘調査の結果、陶器山、高倉寺、栂、光明池地区などで600基以上の登り窯が発見された。
 堺市では、大阪府、羽曳野市、藤井寺市と協働で、古市古墳群と併せて百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録の早期実現をめざした取り組みを進めている。
 すでに、平成20年に世界遺産暫定一覧表に記載が適当と評価を受け、堺を含めた4自治体が連携し、登録に向けた事務の調整やユネスコへ提出する推薦書(案)の作成、登録気運の醸成に向けた事業などを進めている。

大和朝廷時代(7~8世紀) 「誰一人取り残さない」(民衆の救済)SDGsに一生をささげた「行基」

  

 15歳で出家して奈良・薬師寺に入り法相宗を学んだ。その後、仏教が、国家の統制下におかれていた奈良時代、国に奉仕する仏教にあきたらず"広く民衆を救う"という仏教本来の姿を取り戻さなければと活動を起こした。
 まちへ出て民衆に教えを説き、旅人の行き倒れを助けることから始まった。
 行基の説教を支持する多くの民衆の協力を得て、道や池、溝、港、布施屋など社会事業施設を造り、狭山池や昆陽池なども造った。また、民衆のために、家原寺はじめ、49ものお寺を造った。
 行基菩薩と呼ばれ民衆の絶大な信仰を集めたため、無視することも出来なくなり、国も東大寺大仏建立事業に行基の力を借りることになった。そして天平17年(745)に、聖武天皇から我が国最初の大僧正の位に任ぜられた。
 衆生に対する慈悲を説く僧・行基の教えは、その後、遣唐使として唐に学んだ最澄(伝教大師)と空海(弘法大師)に大きく影響を与え日本の大乗仏教実践の規範となり、方年、親鸞、一遍、日連など鎌倉仏教の教祖を生み出し浄土思想の普及に発展した。

「SDGsのモデルとしての行基事績の再評価」は、こちらから

 

中世(16世紀) 茶道を大成した侘び茶の祖「千利休」

 

  堺市今市町(現・堺区宿院町西)で、納屋衆・魚屋千与兵衛の長男として生れ、幼名を与四郎と言った。後に、禅の道に精進して、南宗寺の高僧・大林宗套から「宗易」の名を与えられた。
 当初、北向道陳に書院台子の茶を学び、19歳の時に武野紹鴎に茶の湯を学んだ。道具、茶室、料理などを徹底して「侘び」の思想を貫き、創意工夫を凝らして貴賎の別を越えた超俗の世界「草庵の茶室」を創り出した。宗教的な平等空間と中世・堺における自由経済競争における平等の思想を具体化した。
 後年、織田信長、豊臣秀吉に茶頭して仕え茶の湯天下一の名人と言われた。1585年に、正親町天皇に茶を献じた際に居士号の「利休」を勅賜され、1587年、秀吉が催した前代未聞といわれる大規模の北野大茶会を主宰した。
 1591年、不遜の行いがあったとして秀吉の怒りを買い、堺で自刃しその生涯を終えた。
 現代に伝わる3千家(武者小路、表、裏)は、娘婿・少庵の孫・宗旦の子供たちによって子々孫々継承されている。

近世(19~20世紀) 近代の先駆者「河口慧海」(仏教学)と「与謝野晶子」(歌人)

 

 明治に入ると廃藩置県により堺が明治政府の直轄地となり、1868年「堺県」として、現在の奈良県を含む大きな近代行政区域に昇格し、1881年2月に大阪府に編入されるまで続いた。
 1897年、早くから仏教に傾倒した河口慧海(堺区北旅籠町生れ)は、宇治・黄檗山万福寺塔頭で漢文大蔵経を読み、仏教の原典を求めてチベット行きを決意し、日本人で初めてヒマラヤ山脈を越え膨大なチベット語経典や民俗資料を収集して日本の仏教学の発展に尽くした。
 1901年、与謝野晶子(堺区甲斐町生れ)が第一歌集『乱れ髪』を刊行して脚光を浴び、以後、近代日本文学史のジャンルを開き、女性の経済的自立を訴えて活動し近代の「新しい人間像」として黎明期を担った。

 

堺の文化

中世 世界の商業都市「堺」の歴史と文化

  

 「海」は、古代からヒト、モノ、情報の遠隔交流の場として重要な役割を果たしてきた。
 堺の繁栄は、応仁・文明の乱の影響を受けて、堺港へ遣明船が入港した1469年から大坂夏の陣で堺のまちが壊滅的に戦火焼失する1615年までの約150年の間であった。
 その間、堺は、鉄砲の伝来、フランシスコ・ザビエルをはじめキリスト教宣教師の行き交うまちとなり、時の為政者・三好一族との相互支援のもと町人による自治・自由都市、国際貿易都市として栄え、日本の政治、経済、軍事戦略上重要な地位を築いた。


    堺の“まち”文化の再発見、再生、創造
     ☆文化財公開
    ☆茶の湯  利休のふるさと「堺大茶会」
            茶の湯におけるキリシタン受容の構図
    ☆「堺まつり」 1600年の歴史に出会うまつり
    ☆堺の造り酒とその変遷
    ☆堺のお土産 逸品と名産

歴史と文化の共有による政令都市間交流の絆 “仙臺すずめ踊り“

 

 慶長5年(1600)、堺の茶人で有力な商人・今井宗薫は、陸奥の武将・伊達政宗の要請を受けて身近に住む堺の石工など上方職人の世話をした。
 慶長8年(1603)、念願の仙台城築城を目の前にして、伊達政宗は新築移転の儀式で宴席を設けて堺の石工たちを“もてなし”した。そのお礼のしるしに石工たちが即興的に飛んだり跳ねたり、その“慶び”を踊りに託して表現し、石工たちが踊る姿が伊達家の家紋「竹に雀」に記されている雀がえさをついばむ姿に似ていることから“すずめ踊り”と名付けられたと今に伝えられている。
 平成17年(2005)、第32回「堺まつり」に招聘し紹介されて以来、“仙臺すずめ踊り”を絆として堺と仙台の歴史と文化を共有した市民交流へと発展している。

     ☆仙臺すずめ踊り 泉州・堺の石工 活躍の背景
     ☆“すずめ踊り”黒田家四百年の伝承
     ☆シンポジウム「“すずめ踊り”を絆とした地域コミュニティづくり」
     ☆すずめ踊り普及日記

2022年10月16日(日) 第49回 堺まつり 「なんばん市ストリート」ステージ

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」再発見・実地見聞

2021-02-25 00:48:45 | 堺のアイデンテlティ―

 堺ユネスコ協会では、堺市(主管:堺市博物館)と大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)共同主催企画プロジェクト「日本と世界が出会うまち・堺」の趣旨に賛同し、「堺」をテーマとして研究参加される中学生・高校生の皆さんが体験の中から今に生きる題材および研究情報に巡り合うお手伝いを目的として「堺のまち歩き-堺の誇り再発見・実地見聞-」を企画主催しました。
 身近な体験の中で、堺のアイデンティティーに興味を持ち、関心を高めて研究テーマを発見し、自ら考え、友だちと協力しながら解き明かし、未来への提言および展望づくりに挑戦しましょう!
 参加者の皆さんが堺に愛着と誇りを持ち、自己実現を果たし「生きる力」を育まれることを応援します。

地球上の「誰ひとり取り残さない」

SDGs(持続可能な開発目標)を「自分ごと」として取り組みます!
     

 

「堺まち歩き」 堺の「誇り」再発見・実地見聞 実施経 
〇内の番号はタイトル地図内に示された場所を表します

前田秀一 プロフィール


 第1回 堺のミュージアムと南宗寺 2016年9月22日(秋分の日) 詳しくはこちらから
  ①堺市博物館・仁徳天皇陵、②利晶の杜(千利休・与謝野晶子)、③臨済宗大徳寺派「龍興山・南宗寺」

    


 第2回 堺の町屋歴史館と妙国寺 2017年9月18日(敬老の日) 詳しくはこちらから
  ④「清学院」、⑤旧鉄砲鍛冶屋敷「井上関右衛門居宅」、⑥水野鍛錬所、⑦「山口家住宅」、⑧日蓮宗本山「廣普山・妙國寺」

     

 

 第3回 古墳時代と幕末・明治維新の「堺」 2018年11月11日(日)  詳しくはこちらから
  ①堺市博物館・世界文化遺産登録を目指す「仁徳天皇陵」、⑨堺南台場・大浜公園、⑩天誅組・堺事件碑

     

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第1回仁徳天皇陵・千利休・与謝野晶子

2021-02-25 00:46:30 | 堺のアイデンテlティ―

第1回 堺のミュージアム(堺市博物館、仁徳天皇陵、利晶の杜)と南宗寺

「堺まち歩き」実施経過(第2回、第3回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                         <開催要領>
                          ・日時:2016年9月22日(秋分の日)
                          ・集合:10時 堺市博物館
                          ・解散:15時30分 堺市立少林寺地域会館「桐栄荘」
                          ・会費:中学・高校生 1,000円、大人1,500円(昼食は各自)
                          ・開催協力:NPO法人堺観光ボランティア協会

 

  
「1」堺市博物館    堺の歴史と仁徳天皇陵   詳しくはこちらから 
 堺の歴史と文化を一目瞭然に理解できます。古代から近代までの歴史の流れを紹介、企画展・特別展は毎回違ったテーマの展示が楽しめます。
博物館のロビーに設置された「百舌鳥古墳群シアター」は約200インチの大型スクリーンを有し、コンピュータ・グラフィックス(CG)技術を駆使して制作した迫力ある映像で、百舌鳥古墳群の雄大さを体感していただくことができます。
ユネスコ(国際連合教育科学文化機関)が賛助する「アジア太平洋無形文化遺産研究センター(略称IRCI)」が2011年(平成23年)10月、堺市博物館内に開設されました。
 堺市博物館はセンターと連携して、市民を対象に、アジア太平洋地域の無形文化遺産の保護・継承を中心とする民族芸能・音楽公演や展覧会、国際シンポジウム・セミナー・ワークショップなどの事業を実施しています。

 

 

 仁徳天皇陵  詳しくはこちらから
 エジプトのクフ王のピラミッド、中国の秦の始皇帝陵と並ぶ世界3大墳墓の一つといわれ、上空から見ると円と四角を合体させた前方後円墳という日本独自の形で、5世紀中ごろに約20年をかけて築造されたと推定されています。
 日本最大の前方後円墳で北側の反正天皇陵古墳(田出井山古墳)、南側の履中天皇陵古墳(石津ヶ丘古墳)とともに百舌鳥耳原三陵と呼ばれ、現在はその中陵・仁徳天皇陵として宮内庁が管理しています。
 前方部を南に向けた墳丘は全長約486m、後円部径約249m、高さ約34.8m、前方部幅約307m、高さ約33.9mの規模で3段に築成されています。

  

「2」さかい利晶の杜   詳しくはこちらから 
 堺が生んだ茶の湯の大成者「千利休」と、日本近代文学を切り拓いた歌人「与謝野晶子」の生涯や人物像などを通じて、堺の歴史・文化の魅力を発信する文化観光施設です。

 

「3」臨済宗大徳寺派 龍興山 南宗寺   詳しくはこちらから      
 1557年三好長慶が父の菩提を弔うため大林宗套を開山に建立。夏の陣で焼失後沢庵宗彭らが再建、国の名勝枯山水の庭、重要文化財仏殿・山門・唐門、千家一門の供養塔、利休好みの茶室実相庵などがあります。

 
 南宗寺金堂                        千利休供養塔

参考資料:「堺市内禅宗寺院宗派別一覧」はこちらから 

振り返りミーティング

 

                                    堺市立少林寺地域会館「桐栄荘」                               

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第2回鉄砲・刃物・古寺・町屋

2021-02-25 00:45:40 | 堺のアイデンテlティ―

 

第2回 堺の町屋歴史館(清学院、鉄砲鍛冶屋敷、打ち刃物鍛錬所、山口家住宅)、妙国寺

「堺まち歩き」実施経過(第1回、第3回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                     <開催要領>
                      ・日時:2017年9月18日(敬老の日)
                      ・集合:10時 南海高野線堺東駅西出口改札前
                      ・解散:15時 ちんちん電車「妙国寺前」駅
                      ・会費:中学・高校生 500円、大人1,000円(昼食は各自)
                      ・開催協力:堺ちん電の会、NPO法人堺観光ボランティア協会

   

「4」堺市立町屋歴史館 清学院  詳しくはこちらから

 

 「山伏清学院」の名前で、元禄2年(1689)「堺大絵図」に記され、修験道の寺院として歴史を持っています。また、江戸後期から明治初期にかけては「清光堂」の名で寺子屋としても使われていました。北旅篭町で生まれ、日本人で初めてヒマラヤ山脈を超えチベットに入った河口慧海もここで学んでいました。

    
                        南海本線 七道駅前銅像

「5」旧鉄砲鍛冶屋敷 井上関右衛門居宅  詳しくはこちらから

 

 江戸時代から続く鉄砲鍛冶井上関右衛門の居宅兼作業場兼店舗。町家建築として最古の部類に属し、鉄砲の生産現場など鉄砲鍛冶屋敷の面影を残す唯一のものとして市の指定有形文化財になっています。
    鉄砲の制作工程(出所:堺市自転車博物館サイクルセンター展示より 詳しくはこちらから )

 

「6」水野鍛錬所  詳しくはこちらから
 

 

 鞴(ふいご)のある古い工房が現役活動している庖丁・日本刀鍛造工房。
 明治5年(1872年)創業の日本刀・庖丁を鍛える工房です。戦後の法隆寺の大改修の時、国宝五重塔九輪の四方にかかっている「魔除け鎌」を鍛造し昭和27年(1952年)に奉納しました。
 「魔除け鎌」は200~300年に一度かけかえられるとのことですが、1300年前のものも含まれる法隆寺の古釘を集めて作られています、この「魔除け鎌」と心柱の釘が店内で実際に手にもつことが出来ます。
 また、全日本学生相撲選手権優勝者に贈られる日本刀の鍛刀もしており、元横綱輪島関や元大関朝潮関なども持っておられます。

   


「7」堺市立町屋歴史館 山口家住宅  詳しくはこちらから

 

 山口家住宅の主屋(おもや)は、慶長20年(1615)の大坂夏の陣の戦火により市街地が全焼した直後に建てられた、国内でも現存する数少ない江戸時代初期の町家のひとつとして重要文化財に指定されています。

 

「8」日蓮宗本山 廣普山 妙國寺  詳しくはこちらから
 正親町天皇の永禄年間(1558~1570年)に、当時四国の阿波より兵を起こして畿内を支配していた三好四兄弟の一人である三好義賢(実休)が、仏教を深く信奉して開山となられた日珖上人に帰依し、大蘇鉄を含む東西3兆南北5丁の敷地と寺領5百石を寄進しました。
   

 
慶応4年(1868)2月、堺で起きた土佐藩士とフランス兵との衝突、幕府没落と明治維新政府樹立の狭間で起きた事件で「堺事件」と呼ばれています。
<引用資料> 「廣普山 妙国寺 案内パンフレット」

 

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堺ユネスコ協会「堺まち歩き」堺の「誇り」 第3回古墳時代と幕末・明治維新の「堺」

2021-02-25 00:45:03 | 堺のアイデンテlティ―

 

第3回 古墳時代(仁徳天皇陵)と幕末・明治維新の「堺」

「堺まち歩き」実施経過(第1回、第2回)はこちらから

前田秀一 プロフィール

                       <開催要領>
                            ・日時:2018年11月11日(日)
                            ・集合:9時45分 JR阪和線百舌鳥駅改札前
                            ・会費:中学・高校生1,000円、大人1,500円
                            ・開催協力:NPO法人堺観光ボランティア協会

「1」世界文化遺産登録を目指す百舌鳥古墳群(仁徳天皇陵)1~5)   堺市博物館こちらから  

     

世界文化遺産登録概要1)
  ◆百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録構成 
    百舌鳥古墳群:23基+古市古墳群:26基= 計49基
  ◆世界文化遺産登録 顕著な普遍的価値 適用基準(計10評価基準の内)
    評価基準(ⅲ)
     ・古墳=被葬者の地位の表現 ヤマト王権の影響下の文化
     ・百舌鳥・古市古墳群=王墓群 各地の古墳築造の中心 ⇒ 古墳時代の文化の稀有な物証
    評価基準(ⅳ)
     ・巨大かつ整備な墳丘=儀礼の舞台、大規模な労働力、高度な技術
     ・百舌鳥・古市古墳群=古代王墓 ⇒ 古代王権の形成発展期を象徴する墳墓

  ◆仁徳天皇陵概要(一般呼称:大山古墳、大仙古墳)
     ・墳丘長:486m、高さ:35m、全長:840m、周囲:2.85km⇒日本最大規模古墳
     ・円筒形ほか埴輪:約29,000体
     ・築造労力(大林組試算):1日2,000人×15年8ヶ月=約680万人
     ・エジプトクフ王のピラミッド、中国秦の始皇帝陵とともに世界三大古墳の一つに数えられている。詳しくはこちらから

百舌鳥古墳群築造の立地的環境3)
 百舌鳥古墳群は地理的に石津川流域に築かれていることに特徴がある。
 弥生時代には、石津川の左岸の四ッ池遺跡があり、和泉地域を代表する集落が営まれ、多数の住居跡、土器、石器が確認されている。集落の周囲には溝や河川がめぐらされ、水耕稲作が伝わり食糧生産の体制が整い外側には方形周溝墓群が点在している。
 また、浜寺昭和町・下田町・高尾付近・家原寺町付近・陶器北付近では銅鐸が出土しており、この地で農耕祭礼が行われていたことが推測されている。
 古墳時代に大阪湾に面する台地上に百舌鳥古墳群が築造される際には、人や石材など古墳築造に必要とした資材の運搬に便利な環境が整っていた。
 上流の丘陵地には、上質の粘土があり、丘陵の雑木を燃料として朝鮮半島からの渡来人の技術を導入して須恵器の生産が始まり、東西15㎞、南北9㎞にわたる日本国内最大数の須恵器生産拠点として平安時代までの約500 年の間に600~1,000 基の窯が築かれ継続した。

 

前方後円墳の出現と終末4~5)
 倭国(日本)全土の政治連合の安定的な発展を守護してくれることを願って、最初の倭国王・卑弥呼の死(死去240年代)後、王のために大きな前方後円墳(箸墓古墳)を造営した。墓石、壺型・円筒型埴輪など埋葬品を含めてその後の各地の大王の墓の事例となった。
 5世紀に、倭国の五人の王が、相次いで南朝の宋に使いを送っていることが『宋書』倭国伝に記されている。その五人の王「讃」・「珍」・「済」・「興」・「武」を「倭の五王」と言っており、それぞれ日本側の正史である『日本書紀』のどの天皇に当たるかが考察されている。
 590年、隋の台頭による中国・南北朝の再統一と東方への進行が朝鮮半島諸国や倭国(日本国)王に大きな衝撃を与えた。推古朝(593~628年)初め、大王を中心とした中央集権国家への整備を急ぐため前方後円墳の造営を停止し、新しい国家体制を整備して国内外に強い意志表示した。

PDF版はこちらから4) 

引用文献
 1.堺市・世界文化遺産推進室「百舌鳥・古市古墳群の世界文化遺産登録に向けて」(2017.7.2.堺・彦根ユネスコ協会研修交流会講演資料)
 2.堺市「広報さかい」平成30年10月1日号
 3.堺市立埋蔵文化センター2002『四つ池遺跡 弥生時代編』堺市教育委員会
 4.白石太一郎2018.5.20.『大阪府近津飛鳥博物館 館長承継記念講演会』講演要旨集 1(公財)大阪府文化財センターほか
 5.笠井倭人1973『研究史 倭の五王』吉川弘文館
 6.白石太一郎2012「日本の古墳の中の百舌鳥・古市古墳群」『世界文化遺産登録推進国際シンポジウム』34~35大阪府、堺市、羽曳野市、藤井寺市    


「9」、「10」幕末 ⇒ 明治維新 堺の歴史的な出来事
開国
 2018年(平成30年)は、明治維新から数えて150年に当たる。
 鎖国中の日本が、幕末から明治維新にかけていち早く封建社会から近代国家へ転換を果たした背景には、18世紀後半から19世紀中ごろにかけてロシア帝国、イギリス、フランスおよびアメリカ合衆国など外国艦船が来航し、鎖国政策を維持していた日本に開国を迫った圧力に対する危機感があった。
 1853年(嘉永6年)7月8日、アメリカ合衆国政府の任務を受けた東インド艦隊司令長官・マシュー・ペリー率いる黒船が浦賀へ来航して開国を迫り、1854年(安政元年)日米和親条約を締結させ1639年(嘉永16年)以来215年にわたる徳川幕府政権下の鎖国(海禁政策)が終わった。

 PDF版は、こちらから
 

 大阪湾 ロシア軍艦渡来事件1)
 一方、1854年(安政元年)9月エフィーミー・プチャーチン提督率いるロシアの軍艦ディアナ号が箱館(現函館)から摂海(現大阪湾)に回航し、和田岬(神戸)、西宮、尼崎沖を経て天保山沖に投錨した。
 アメリカ艦隊が江戸湾に来航したのは、当時日本の政権を担っていた江戸幕府の近くにあり威嚇するのに都合がよかったからであった。これに対してロシアは、当時、クリミア戦争(1853~1856年)で、イギリス・フランスと交戦しており、極東海域ではイギリス・フランスの連合艦隊と遭遇することを避けなければならない状況にあった。その状況の下、プチャーチン提督は、むしろ天皇が所在する都に近く、しかも大阪湾には外国船は来ないという先入観の不意をつき日本との交渉を早期に、且つ有利に進めようと企てた。
 ロシアの軍艦が突如大阪湾に侵入してきた事件は、幕府や藩、さらに朝廷に大きな衝撃を与えることとなった。孝明天皇は、有力な神社7社・寺院7寺に対してロシア艦隊の速やかな退散と「天下泰平」を祈祷するように命じた。幕府は、危機意識を強め朝廷に対し、京都と大坂湾の防備強化を約束した。

来航した国々とその背景 鎖国(海禁政策) ⇒ 開国
 ・アメリカ
    1854年3月31日 日米和親条約締結  1858年7月29日 日米修好通商条約締結
    北太平洋捕鯨(潤滑油、ランプ灯油)業補給基地確保、クリミヤ戦争国(英・仏対露)に余裕なく日本への主導権確立
 ・イギリス
     1854年10月14日 日英和親条約締結  1858年8月26日 日英修好通商条約締結
     産業革命(1760~1830年代)、アヘン戦争(1840~1842年)、クリミヤ戦争後新たな植民地政策、工業製品の市場開発を目指す      
 ・ロシア
    1855年2月7日 日露和親条約締結   1858年8月19日 日露修好通商条約締結
    クリミヤ戦争(1853~1856年)敗北後東アジア指向、イギリス、フランスに目立たず都に近い大阪湾へ、日本を驚かす
 ・フランス
        日仏和親条約締結せず         1858年10月9日 日仏修好通商条約締結
    日米修好通商条約締結情報、ロシアの極東への影響力警戒し東アジアに注力。イギリスと薩摩に対抗して幕府に接近

大阪湾の防衛 堺台場築1)

 

 大阪湾内では、奉行所のある幕府直轄地「堺」の防備がいち早く取り組まれた。
 当初、「堺は遠浅にて異国船の渡来は先づこれ有る間敷」と異国船の接近する危険性を否定しつつも、万一、異国船が大阪湾内に来航した場合、幕府直轄地が手薄では近隣の大名たちに示しがつかず、「御国威」を落としてしまうと堺奉行が主体となって大阪湾の他の箇所に先駆けて1850年代に堺北台場(1855年完成)と堺南台場(1858年完成)の築造が進められた。
 1860年(万延元年)、桜田門外の変で政治的立場を失った彦根藩が1863年(文久3年)6月から堺台場の警備を命じられ前任地の神奈川から新式の大砲を回送するなど備えを尽くした。

公武合体と尊王攘夷派志士の行動(「天誅組」堺港上陸、堺事件)
 開国か攘夷(外敵を撃ちはらう)か、尊王(天皇を尊び、天皇中心に考える)か公武合体(朝廷と幕府の合体)か、佐幕(幕府補佐)か、開国以来弱体化した幕府に代わって朝廷の動向が注目され、急進的な尊王攘夷派(長州藩、土佐藩など)と公武合体派(薩摩藩、会津藩)を中心として大政奉還(1867年)後も日本国内の政治は大きく揺れ動いた。

 

「天誅組」堺港上陸2)
 1863年(文久3年)8月、孝明天皇の神武天皇陵(奈良橿原)攘夷祈願行幸の先鋒となるべく土佐脱藩浪士・吉村寅太郎ら40人(天誅組)が京都・伏見から淀川を下り大坂から海路を経て堺港へ上陸し、狭山、天領・五条経て橿原を目指した。
 しかし、8月18日天誅組の後ろ盾となっていた長州藩が会津藩・薩摩藩(公武合体派)と蛤御門の変(禁門の変)で敗れ、孝明天皇攘夷親政を目的とした大義名分を失ったため社会的にも天誅組は「暴徒」とみなされ公武合体派に追討された(「公武合体」後の最初の事件)。 

 

「堺事件」3)
 1868年3月8日(慶応4年2月15日)、鳥羽・伏見の戦い(戊辰戦争)戦いで敗走する幕兵が堺のまちを混乱に陥れた。やがて、薩摩・長州・土佐藩を主体とする諸藩兵が堺の治安維持に当たり、土佐藩士が市中取り締まりを命じられた。
 1868年3月8日(慶応4年2月15日)午前中、兵庫領事館駐在のフランス副領事と日本艦隊司令官2名が宇和島藩士とともに大阪から陸路大和川橋まで来たが、状況を聞いていなかった箕浦猪之吉、西村佐平次率いる警備隊に食い止められた。
 その日の午後、堺港付近の測量を目的としてフランス軍艦デュプレス号が堺港沖に現れ、乗組員数十名が2艘の船に分乗して入港し、その内の1艘が大浜海岸に横付けして上陸し動き回ったので、状況報告を受けてなかった警備隊をもとより市民の騒ぎが大きくなった。
 箕浦警備隊長がフランス兵に帰艦させようとしたが言葉が通じず、反抗したフランス兵が隊旗を奪うなど無礼を働き逃亡したため発砲、交戦に至りたちまち11名を殺傷した。
 当時京都において外国との和親協議の準備中であり、また1ヶ月前(2月4日)に神戸で警備にあたっていた備前藩士によるフランス兵発砲負傷事件(神戸事件)があったため重大な外交問題となった。
 明治新政府は江戸征途に注力しており、外交交渉を難しくすることを避けるため事件に関わった土佐藩士を日仏両国立会いのもと刑に処するフランスの要求を受け入れた。
 箕浦猪之吉、西村佐平次両小隊司令以下20人が妙国寺において切腹を命じられ、11人が終わったところで、立ち会っていたフランス側から切腹の悲壮な状況は見るに堪えなく死亡したフランス兵と同数になったことを理由に切腹処刑は中止された(「公武合体」後最大の事件)。
 切腹した11人の土佐藩士は、妙国寺の隣の宝珠院に埋葬され、土佐藩主・山内豊範が11基の石碑を一列に建て弔った。その後、妙国寺境内に堺事件で亡くなった土佐藩士とフランス兵の慰霊碑が建立された。
 
「堺県」誕生4)
 1868年8月10日(慶応4年6月22日)、大阪府から堺役所を分割して「堺県」が発足した。
 当初、和泉の国の旧幕府領・旗本領を管轄するために成立したが、最盛期には大阪府の一部と旧幕府領・旗本領が多かった奈良県全域を含めて県域とし、1881年(明治14年)に大坂府に再編入されるまで先進的な地方行政を行った。
 1871年の廃藩置県に先立って「堺県」が成立したのは、旧幕府直轄知行(所領)の明治新政府への上地(返上)受皿など統治上の重要拠点と位置付けられたためであった。
 初代堺県令(知事)として薩摩藩に近い豊後岡藩士・小河一敏が就任した。廃藩置県に際しては、2代目県令として大久保利通、西郷隆盛とともに薩摩の三傑と称された税所 篤が就任し、他府県に先駆けて中央集権化、税収、土地管理に貢献した。

堺県⇒大阪府営「浜寺公園」開園5~6)
 1873年(明治6年12月)、当時の内務卿・大久保利通が浜寺を訪れ、名勝松林が伐採により廃れていることを慨嘆し、県令・税所 篤に善処を強く要望した。税所県令はただちに松の伐採停止を命じ、太政官より同地を日本で最初の公立公園と許可し「浜寺公園」として開園した。

音に聞く高師の浜のあだ波はかけじや袖の濡れもこそすれ
            祐子内親王家紀伊(百人一首) 

音に聞く高師の浜のはま松も世のあだ波はのがれざりけり
大久保利通

 

 日露戦争〔1904年(明治37年)2月8日~1905年9月5日〕の際、両国は戦争捕虜を博愛処遇するハーグ国際条約を守り、日本に連れて来られたロシア人捕虜をあたたかく迎え、浜寺一帯から泉大津市にかけて捕虜収容所が造られ3万2000人余の捕虜を収容した。所内には信仰の自由を認めて教会、パン工場が置かれた。
 日露戦争100年を迎えた2002年5月21日に「泉州21世紀協会」をはじめ多くの有志によって公園内に「日露友好の像」が建てられた。横には、当時の小泉純一郎首相とプーチン大統領の銘文が刻まれた碑が建てられた。
 
堺県⇒堺市営「大浜公園」開園と第5回内国勧業博覧会7)
 明治(1868年)以降、堺南北両台場は陸軍の所管となったが、「堺県」(1868年誕生)が南台場敷地を陸軍から借用し、1879年(明治12年)に「大浜公園」として開園した。
 北台場は1872年(明治4年)の暴風雨で大きく崩れ遺構は失われた。
 19世紀、欧米では文化、産業振興の大規模な万国博覧会が盛んに開催され、江戸幕府も1867年(慶応3年)のパリ万国博覧会に正式に参加した。
1877年(明治10年)、政府は殖産興業を目的として東京上野公園で第1回内国勧業博覧会を開催し多くの来会者を得て大成功をおさめた。

 

 その後、引き続き東京上野で第2回と第3回を開催し、第4回は、平安遷都1100年を記念して京都岡崎公園で開催された。第5回は堺商業会議所のメンバーの尽力もあり、大阪市天王寺を第1会場に、堺大浜公園を第2会場(水族館)として1903年(明治36年)に開催された。 第2会場には東洋一と謳われ我が国初の本格的水族館が建てられ、2階建ての本館下に大養魚槽を設け天井をガラス張りにして魚を見上げるようにするなどの工夫がされた。
 博覧会は都市を活性化させる手段として重要視され、1912年には阪堺電気軌道が大浜海岸までの路線(大浜支線)を開業し、公会堂、潮湯、海水浴場、料理旅館や土産物屋などが建てられ関西有数のレジャー地として賑わった。
 第6回は、万国博覧会にという声も上がったが、日露戦争ののち財政難に陥ると産業振興の費用対効果を疑問視され中止となり国家的博覧会の日本での実現は、戦後、1970年の大阪万博まで待つこととなった。

PDF版は、こちらから7)

引用資料
 1.後藤敦史・髙久智広・中西祐樹編2018『幕末の大阪湾と台場 海防に沸き立つ列島社会』戎光祥出版
 2.小葉田 篤編集代表1971「天誅組」『堺市史続編第1巻』1157 堺市役所
 3.三浦周行監修1930「堺事件」『堺市史本編第三』771 清文堂出版(著作権:堺市役所)
 4.矢内一磨2018「堺県とその時代-近代地方行政のさきがけ」、企画展「堺県とその時代」学芸講座」、堺市博物館
 5.小葉田 篤志編集代表1971「浜寺公園」『堺市史続編第1巻』1223 堺市役所
 6.高石市教育委員会生涯学習課「ロシア捕虜収容書」『大阪あちこち-高石散策(羽衣コース)』
 7.堺市「むかしの堺港と大浜」
     https://www.lib-sakai.jp/kyoudo/kyo_digi/sakaikoutooohama/kyo_digi_nai.htm 
 8.堺市・大浜公園事務所「大浜公園の見どころ」『大浜公園施設案内図』

 

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日本と世界が出会うまち・堺 2017 研究発表会

2021-02-25 00:44:17 | 堺のアイデンテlティ―

日時:2017年11月19日(日)13:30~18:15
場所:サンスクエア堺ホール(JR阪和線「堺市」駅近く)

前田秀一 プロフィール

 

参加者の所属校(応募順)
 帝塚山学院中学校・高等学校、帝塚山学院泉ヶ丘中学校、金蘭千里中学校、関西大学中等部・高  等部、開明高等学校、大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)、大阪府立堺工科高等学校、大阪府立園芸高等学校、雲雀丘学園高等学校、大阪府立堺東高等学校(パネル展示のみ)


研究対象・テーマ(順不同)
 百舌鳥古墳群、与謝野晶子、堺の和菓子、戦国時代のクリスマスパーティ、中近世・堺の復元、グリコと大阪、堺大空襲、南海ホークス など

 
                                  激励のお言葉 竹山修身堺市

                                
   審査委員長講評                   堺ユネスコ協会賞 「堺大空襲」

    桃木至朗大阪大学教授             大阪府立三国丘高等学校(定時制の課程)放送研究会
                             授与者 岡 貴久雄堺ユネスコ協会会長
      

参加者記念写真

  

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世界から「堺」へ日本へ! 1.その出会いの歴史年表

2021-02-25 00:43:37 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ! 1.その出会いの歴史年表

前田秀一 プロフィール

 

 < 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト 
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

         世界から「堺」へ  日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム こちらか
                3.堺の誇り「伝統産業」 はこちらから

 

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 堺で最初に人が生活したところは、今から15,000年ほど前の旧石器時代にさかのぼり南花田(北区)といわれ、その遺跡から当時使用していた石器が多く出土し発見された。
 縄文時代から弥生時代にかけて、石津川流域の台地で四ツ池遺跡が発見され、和泉地域を代表する集落が営まれていたことが解明されている。
 集落の周囲には、溝や河川が張り巡らされ、三方を崖と自然の河川に囲まれた3.5ヘクタールの地に「クニ」と呼ばれる集落(ムラ)が形成され、石津川を利用して、直接、茅渟(チヌ)の海(現大阪湾)に漕ぎ出す舟運の便に恵まれていた。
 そのムラには、水耕稲作の文明があり食糧の大量生産体制が整い、大、中規模の墓が存在し死生観の存在したムラであった。さらに農耕祭礼の道具として銅鐸も発見され金属器を使用した文化が考証されている。
 時代が下って古墳時代(4~5世紀後半)には、当時最先端の土木技術を結集して大仙陵をはじめ規模の大小、墳形の多様な古墳群が川上の丘陵地に築造された。
それらの古墳の造成のために働く人々の生活を賄うため泉北丘陵には朝鮮半島からの技術により600~1,000基にわたる窯が築かれ、大規模な須恵器の生産基地として平安時代まで500年もの間栄えた。
 石津川の流域は、周囲の土壌の養分に恵まれ作物の育成に適し、人が生活するに必要な水の供給、さらに大型古墳の築造に必要とする資材の運搬を助け、堺の文明発達史上重要な役割を果たした。
 特に、河内の石津原の地域には大仙陵をはじめとして大型の前方後円墳が多く、大王(おおきみ)の支配するクニ(倭国)があったことが考察されている。
 当時、倭の王権は、鉄資源を確保するため朝鮮半島に関心を持っていた。朝鮮半島と交流が深まる中、北部の大国・高句麗の南下政策は、倭国にとって緊張感があった。そこで、倭国は中国南朝の東晋、その後宋へ遣使・朝貢(*)することによって高句麗に対抗しようとした。
 中国の歴史書『宋書』倭国伝に「宋」国に対し倭の五王「讃」(421年)、「珍」(438年)、「済」(443年)、「興」(462年)、「武」(478年)が遣使・朝貢したとことが記録され伝わっているが、どの古墳が誰に相当するのかは明らかではない。

 538年、百済から仏教が伝来し、663年、朝鮮半島南部・白村江の戦で百済が新羅に攻め立てられ、天智天皇の命により援軍を派遣したにもかかわらず新羅に敗退して百済から渡来人が増え、地域豪族が建立した寺には仏像が伝来した所がある。
 奈良時代、百済系渡来人の末裔と伝わる行基は、師・道昭の教えに従い飛鳥寺での修業を断念し生まれ故郷に帰郷した。生家を家原寺として改修し民衆救済のための仏教布教に専念した。 池溝開発や道端造営のほか布施屋、施薬院の設置など民衆のために尽くした。
土師郷(中区)に大野寺を建立した際、その境内に民衆の力による作善行の土塔(国史跡)を建立し、その偉業は民衆が力量に応じて参画し目的を達成る現代のNPO活動の先駆けとして高く評価されている。
 中世には長尾街道、竹内街道、高野街道、熊野街道など街道が整備され、高野山や熊野神社など浄土信仰の社寺参拝が盛んになり、堺はその通過都市の位置づけにあった。
 応仁・文明の乱(1467~1477年)後、寛正6年(1465)の第12回遣明船は、西軍の大内氏が制圧した瀬戸内海と兵庫港を避け土佐沖を廻る南海航路を通り、文明元年(1469)初めて堺港に入港し朝貢貿易に関わることになった。
 文明8年(1476)第13回以後大永3年(1523)まで堺から5回遣明船が派遣され、兵庫に代わり国際貿易港として発展した。
<対明貿易の朝貢の条件>
  朝鮮:1年に数回、琉球:1~2年に1回、日本:10年に1回

 世界的な商業都市として、ヒト、モノ、カネ、情報が集積した堺の繁栄は、遣明船が初めて堺港に入港した1469年から大坂夏の陣で兵站基地として狙いをつける徳川方に堺を渡すのを避けるため豊臣方の大野治房一隊によって焼き打ちされるまでの146年間であった。
 その間、1550年までの前半は遣明貿易および仲介貿易に従事する琉球貿易が盛んとなり、フランシスコ・ザビエルが堺の港に上陸した1550年以降1615年までの後半はポルガルを主とした大航海時代の南蛮貿易の拠点として西洋文明に触れる世界の情報センターの役目を果たした。

 ヨーロッパでは、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心として中央集権制度が他のヨーロッパ諸国に先駆けて確立した。
 さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能になり、1415年、モルッカ諸島(別称:香料諸島)への独自の交易ルートの開拓を目指してポルトガルとスペインが競う大航海時代が始まった。
 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇船が種子島に漂着して鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式でによって大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。

 1549年、鹿児島に到着したフランシスコ・ザビエルは、1550年1月天皇への謁見を目指して堺港に上陸し都を目指した。天皇への謁見の目的は果たすことはできなかったが、引き続きガスパル・ヴィレラやルイス・フロイスなど宣教師が堺に上陸しキリスト教というヨーロッパ文明の普及が始まった。
 1581年、日本での布教が伸び悩んでいることを案じて巡察師・アレサンドロ・ヴァリニャーノが堺港に上陸し、フロイスを伴って五畿内の布教状況を巡察し、日比屋了珪宅での体験をもとにルイス・デ・アルメイダの見聞を受け入れ、「日本の風習と形儀に関する注意と助言」を著して「修道院や教会を建築する際には、日本の大工により日本風に建築し、階下には縁側がついた二室からなる座敷を設け、そのうち一室は茶室に当てるよう」指示した。
 宣教師として中心的に布教に務めたルイス・フロイスは、「茶室は、その場が清浄であるために、人々に地上の安らぎを与えるので、キリシタンたちも、異教徒たちも、その場を大いに尊重している。司祭としてそこでミサ聖祭を捧げ、キリシタンたちとそこに集まった」と本部に報告した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスの航海技術と造船技術が注目され徳川家康はアダムスを外交顧問として処遇し、その後のオランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
 リーフデ号には大砲など武器・火薬が積まれており、徳川家康にとってはその後の関ケ原の戦い(10月)の戦備強化に役立った。アダムスは帰化し三浦按針を名乗り徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 17世紀後半以降、商業都市としての大坂の繫栄の一方、堺は鉄砲産業に由来する金属加工技術をもとに18世紀初頭にかけて打ち刃物産業への転換が進んだ。織物産業は江戸中期の絹織物から木綿織物へと移行し、酒造りなど醸造業や香料を原料とする線香産業、石津川流域の木綿晒業など、現代の伝統産業の萌芽の時期を迎えていた。
 1858年、日米修好通商条約が締結し、日本の主要港が開港され外国船の渡来が増えた。1868年2月、測量調査のため堺港に入ったフランス軍艦デュプレー号乗り組兵士と幕府直轄地・堺を警護中の土佐藩士が衝突して、フランス水兵11名を殺傷する堺事件が起こった。
 明治に移り、1897年(明治30年)、河口慧海は人々が分かりやすい正確な和訳の大蔵教(仏典の集大成)を作り日本国民の大安心(心が安らぎ動揺しない境地)の基礎づくりを目指し、単独でヒマラヤを超えインド、チベットへ探検し仏教文物収集を行った。  

               
南海電鉄「七道」駅前 河口慧海銅像                     A・堺アセアンウイークポスター

 堺は、古代より積極的に国際交流が行われ、中世には世界的な商業都市としてヒト、モノ、情報の集積する国際都市として多くの国との交流があった。特に、アジア諸国との関係が深く、そのDNAは現代にも引き継がれ、2006年より「堺歴史文化交流会議」が開催され、「堺で出会う東南アジア」市民交流アセアンウィークが毎年「堺まつり」に合わせて10月に開催されている。

<引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 https://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館


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世界から「堺」へ 日本へ! 2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

2021-02-25 00:43:03 | 堺のアイデンテlティ―

世界から「堺」へ 日本へ!  2.大航海時代とアジア貿易圏の交易メカニズム

前田秀一 プロフィール

 

< 関連情報 >
  「世界と日本が出会うまち・堺 2017」プロジェクト
  
主 催 堺市(主管:堺市博物館)/大阪大学(主管:大阪大学歴史教育研究会)
  後 援 大阪府教育委員会 【協 力】堺ユネスコ協会/同プロジェクト研究会

 

                                世界から「堺」へ 日本へ!
                                      1.その出会いと歴史年表 はこちらから
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 大航海時代
 ヨーロッパでは、他の諸国に先駆けて、永い間イスラムに制圧されていたポルトガルとスペインで民族主義が盛り上がり、強力な国王を中心とした中央集権制度が確立した。さらに技術的に頑強な船が建造され、羅針盤がイスラムを通して伝わったことから航海技術の発展により外洋航海が可能となった。
 1415年、人口110万人の小国ポルトガルは、財宝溢れるジパングや、生糸・絹織物を産出する富めるアジアを見据え、アジアやアラブ商人が占有するスパイス(香辛料)の直接取引を目指し、西回りで独自の大量輸送が可能なモルッカ諸島(別称:香料諸島)への海上航路の開拓に乗り出しスペインと競う大航海時代が始まった。

   

 蛋白源として魚や動物の肉食を食生活の基盤としていたヨーロッパ人にとって、丁子(ちょうじ)やニクズクなどスパイスは蛋白源保存のための最良の防腐剤として毎日の生活に欠かすことが出来なかった。
 現実には、これらスパイスは、アラブ人やインド人および中国人の手を通して買い求めており、然も、地球上で唯一の生産拠点である香料諸島からの入手経路は陸路にしても海路にしてもオスマン帝国を通ることになり、物品税や通行税を課せられ金に匹敵するほど高価な値段で取引されていた。


 

 1451年、スペインは、イタリア人・コロンブスの地球球体説を受け入れ、支援して東回りで航路可開拓に取り組み新大陸を発見し、その後1545年にはポトシ(ペルー)銀山の発見に繋がった。
 1455年、ポルトガルは、スペイン王国の進出に先手を打ち、ローマ教皇からキリスト教布教を大義名分として非キリスト教世界の征服と貿易の独占権を認める教書を獲得した(「胡椒と霊魂」戦略)。
 1517年、マルティン・ルターがローマ・カソリック教会の求める免罪符の購入に異議を唱え、聖書を基本とするプロテスタントが独立し、カソリック教会に危機感が迫った。
 1519年、フェルディナンド・マゼランは西回りでモルッカ諸島に到達するルートの開拓に向かい、南米大陸南端のマゼラン海峡を発見してヨーロッパ人で初めて太平洋を横断した。途中彼自身はフィリピンで命を落としたが、その船団が1522年にスペインに帰り、人類で最初に世界周航に成功した。

  

 1543年、ポルトガル人が乗った倭寇の漂着船により種子島に鉄砲が伝えられ、鉄砲の模作に成功した種子島の鍛冶屋集団の中にいた堺の橘屋又三郎が鉄砲製造技術を堺に持ち帰った。堺では、分業生産方式で大量生産に成功し、以後一大鉄砲生産地として名乗りを上げ日本における戦いの戦術文明の転換を誘導した。
 1549年、ポルトガルの香料諸島への香辛料貿易船に便乗してフランシスコ・ザビエルが鹿児島に渡来し、1550年には京都の天皇への謁見を目指し堺港に上陸した。
 1600年、オランダ船「リーフデ号」が豊後に漂着(4月)し、豊臣政権の五大老の筆頭を務める徳川家康の命で堺港(5月)に曳航され、オランダ人船長に代わりイギリス人航海士・ウィリアム・アダムスが徳川家康の取り調べに応じた。
 オランダとイギリスは、ポルトガルやスペインのようなカトリック教国ではなく、プロテスタント教国としてキリスト教布教を目的にしていないことが評価され、さらにアダムスは航海技術と造船技術が注目されて徳川家康は外交顧問として処遇した。その後、オランダおよびイギリスとの交易の布石となった。
リーフデ号には大砲など武器・火薬を積み込んでおり、徳川家康にとって関ケ原の戦い(10月)に向けて戦備強化に活かした。アダムスは帰化して三浦按針を名乗り、徳川家康の旗本に処遇され250石の所領を与えられた。

  

                                          上「図」の拡大はこちらか(日本語版English

 ヨーロッパ人が来航する16世紀半ば以前は、中華思想に基づき中国を中核とした朝貢冊封体制(朝貢、勘合貿易)のもと東アジア特有の貿易圏を構成し、建前上は一元的な支配・被支配の国際秩序があり、現実的には相互依存の関係秩序が保たれた貿易構造であった。
 対明朝貢貿易の実態は、朝鮮が1年に数回、琉球王国が1~2年に1回、日本が10年に1回の割合で行われていた。この中にあって、琉球王国は「万国の津梁」(国乏しく仲介貿易拠点に徹す)を国策として明と日本の仲介貿易の役割を果たした。
 16世紀後半になると、アジアの海域は香料取引を巡る東南アジア貿易と、中国産生糸・絹織物の輸入国・日本を巡る東アジア貿易の二つの貿易圏から構成され、この二つの貿易圏は日本の銀を軸として密接につながっていた。
 この香料と銀を軸とするアジア内貿易ルートを開拓したのはポルトガル人であったが、キリスト教布教を目的とするカトリック教派は徳川幕府の禁教令により入港禁止(1624年スペイン、1639年ポルトガル)となり、実質的には、オランダがこれまで琉球王国やポルトガルが担っていた日本と中国の仲介貿易権を独占的に引き継いだ。
 1604年、生糸の輸入に関し外国商人が価格決定の主導権を有して利益を独占していたため、これを抑える必要に迫れ、幕府は京都・堺・長崎の特定商人に糸割符仲間をつくらせた。糸割符仲間には輸入生糸の価格決定と一括購入を許し、それを個々の商人に分配させた。
 堺のこの糸割符貿易には、薬種、香料、反物等の唐物取引が付随しており、堺商人は有利な立場にあった。

 <引用文献>
     1.小葉田 淳編集代表1976『堺市史 続編第六巻』堺市役所
     2.小葉田 淳編集代表1971『堺市史 続編第一巻』堺市役所
     3.朝尾直弘・榮原永遠男・仁木 宏・小路田泰直1999『堺の歴史-都市自治の源流』角川書店
     4.堺市立埋蔵文化センター2002『四ツ池遺跡-弥生時代編』堺市教育委員会
     5.角山 榮2000「堺-海の都市文明』PHP研究所
     6.桃木至明・角山 榮監修2009『アジアの海がはぐくむ堺-中近世の港町ネットワークを掘り起こす』堺市市長公室国際部
     7.吉田 豊2009「近世初頭の貿易商人」『近世初頭の海外貿易と陶磁器』関西近世考古学研究会
     8.堺市ホームページ 観光・歴史・文化 http://www.city.sakai.lg.jp/kanko/index.html
     9.以下ホームページ
        堺市博物館、みはら歴史博物館、さかい利晶の杜、堺市立文化館、堺伝統産業会館、堺自転車博物館

 

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