第一章 人生の行くべき道
一 私達の人生の道
1.一寸先も見通す事の出来ない人生
人々はしばしば、「人間は来ては逝くものだ」と言います。古来より、行くら立派な聖賢君子も来ては逝きました。この様な歴史の動き、この様な天倫の動きは、この瞬間、私にも続いているという事を考えなければ成りません。来ては逝くべき私達自身です。何の因縁と関係しているのかは分かりませんが、この地に来て、この万象と、あるいはある理念的な形態の中で身悶えして逝く事をよく知っています。では、私達人間は何の為に来て、何の目的の為に逝くのでしょうか。これを数多くの哲人達、数多くの宗教人達が心血を傾けて解決し様としました。しかし、解決出来ないままに、人類歴史はそれによる寂しさとともに今迄動いてきました。また今も、ずっと動いていっています。
*
私がなぜ来て、なぜ生きなければならず、何処に行かなければならないのでしょうか。生まれた事を、皆様自ら生まれたものと考えては成りません。生まれはしましたが、何の動機で生まれ、何の為に生まれたのか、私を生む様にした動機と目的が分からない私達です。生まれる事は生まれましたが、私が生まれようとして生まれたのではなく、生きるには生きますが、私が生きようとして生きるのではなく、死ぬには死にますが、私が死のうとして死ぬのではないというのです。
それなのに、自分をもち上げて何を誇るのでしょうか。自分自身が生まれたくて生まれる事も出来ず、自分自身のその何かをもって生きる事も出来ず、死の道を避ける事も出来ない自らをもって何かを誇ってみても、哀れで物悲しいだけです。生まれたから生きなければならない運命であり、またその様に生き、逝かなければならない運命です。
*
今私達は、知ってい様がいまいが、ある所に向かって進んでいます。私が動く時間にも進んでいるのであり、休んでいる時間にも進んでいるのです。単に私だけではなく、この民族、あるいはこの世界、さらには天と地迄もある所に向かって今、進んでいるのです。これは否定出来ない事実です。この一生をたどったのちに、私はどの様な所に行くのでしょうか。これが、人間が解決すべき重要な問題です。宗教もこの問題を解決する為に、哲学も歴史もこの問題を解決する為に動員されています。ですから、皆様自身もこの様な運勢に捕らわれ、引っ張られているという事を否定出来ないのです。
*
行く歩みを捕まえておいて、動く心と傾く心情を阻んでおいて「お前は何処に行くか」と尋ね、これを解決する為に闘って来た人々が聖賢賢哲であり、あるいは数多くの道主達だという事を私達は知る事が出来ます。彼らはそれを解決する為に現れましたが、この日迄「私の体と私の心、私の心情、私の生命と私の理念はこの様な所に向かって走るもの成り。故に全天下にある全ての万民、あるいは天地に存在する全ての存在物はこちらへ行け」と、自信をもって命令した人はいないのです。
P1
今日、人間の生活というものは七十年、八十年しかありません。七、八十年しかないこの短い生涯路程において、歴史的にこんがらかった善の圏を全て収拾し様とするなら、億千万年かかっても出来ないという事を、心は知っているというのです。ですから、この短い七、八十年のこの期間において、善成る圏を因縁づけるべき事が、その様に膨大にあるという事を知っているこの心、良心はどれほど催促するかというのです。
死んでは駄目だというのです。死ねば出来ないのです。生きている間、因縁を結んで地上で祖国光復をし、本郷の地を求めて天の主権者に侍り、その民とその国で生きて逝ってこそ、天上天国に行けるはずですが、その世界に行く事が出来ず、その世界を見つめる事が出来ないこの心が、どれほどせわしいかというのです。
*
どうせ逝くべき私自身だとするなら、この体は何処に行こうとするのでしょうか。この心は何処に行こうとするのでしょうか。またこの生命は何処に向かって傾いていて、私の心情は何処に行こうとするのでしょうか、また私の願い、あるいは希望と理念は何処に行こうとするのでしょうか。
この問題を解決出来ないとしても、私達はいずれ逝くべき運命に置かれているのです。私達が生来たのちに死ぬ日、この体は土に埋められる事によって終わるはずです。では、体が埋められるその日は、心も、この生命も、この心情も、この理念も、あるいは願い迄も共に埋められてしまうのでしょうか。消えてしまうのでしょうか。ここにはっきりとした内容と、はっきりとした解決点と、はっきりとした目的観を立てておかない限り、人は不幸な人であらざるを得ないのです。
*
私達は何を中心として生まれ、何を中心として行くべきであり、何を目的として行くべきでしょうか。これは神様を抜きにしては絶対に駄目なのです。神様を抜きにしては動機のない因縁に成るのです。動機をもつ事の出来ない人は、ある事を成就し様としても、その結果を収める事が出来ないし、価値を認めてもらえないというのです。ある建物を建てる時は、設計者が設計した設計図によって建築をします。設計の原本もなく造られた建築物は、設計者が目的とした建物に成り得ないのです。
*
出発を誤れば、とんでもない所へ行くのです。それ故に船が大海を航海しても、出発した港から羅針盤を中心として、行くべき目的地に向かって方向性を描いておいてこそ行くのです。それでは、人間が出発した港は何処でしょうか。分からずにいます。羅針盤をもって彼岸の世界に到達出来る、目的地を描いて行く事の出来る方向性は何処にあるでしょうか。ないのです。これがくねくねと、自分勝手に行ったり来たりしました。この様に考えると、人間は行くらやってみたとしても、人間として終わるのです。
P2
2.私達は何処に進んでいるのか
人生をこの様に生きて行く目的は何でしょうか。この問題を再び考えて皆ければならないのです。動機が自分によるものではなかったので、目的も私だけのものではないに相違ないのです。暮らす事において幸福な立場を嫌う者はいないし、豪華絢爛な立場で生きたくない者はいないと思いますが、思いのままに出来ないのが私です。しかし、また自分自身を誇ってみたいし、思いのままに生きたいし、思いのままに残りたい私です。この様な心情の交差点をもった私だというのです。
*
秋の季節が来たという事実は、冬が迫っているという事をいうのです。冬は、生命があるもののみが通過出来る過程です。生命をもっていないものは全て、ここで後退せざるを得ないのです。それで、冬が来る前に新しい生命を注入しろというのです。新しい生命は新しい愛を中心とした新しい主義と思想、そして、新しい人生観、新しい世界観、新しい宇宙観をもたなければならないのです。そうでなくては冬の季節を通過出来ません。冬の季節を通過出来る生命力をもつ様になれば、それを通過する過程は難しいけれど、行けば行くほど春が近づくのです。春が訪ねてくるというのです。統一教会はその道を行くのです。
*
私達はこの世に生きていますが、この世だけではなくて霊界がある事を知っています。この世と霊界は二つの世界ではなく、一つの世界として連結しています。私達が行くべき所、私達が行って住まなければならないその場所とは何処でしょうか。私達は肉身生活をしながらこの地にいますが、永遠の世界に向かって行っているのです。一般の人々はこの世に生まれ、十代、二十代、三十代を過ぎて青春時代を過ぎて壮年時代に入って行く様になれば、どんどんと一つの峠を越えて、その次には老年時代に入って行く様に成るのです。この様に、沈む太陽の様に一生を終えます。
*
霊界があるという事実を知っている人達は、人生というものがわずかの間で、死んだのちに私達が迎えなければならない世界が永遠だという事を知っています。故に一生の期間とは、永遠の世界を準備する為の期間だというのです。世の中とはその様なものではないですか。
P3
人は何処へ行くのでしょうか。霊界に向かって行くのです。霊界は海と同じです。どうせ行かなければならないのです。海にも流れがあるのと同様に、そこには調和無双な変化があります。海には主流の流れを中心として、淡水にはない調和の存在があります。海に数多くの魚族がいる様に、そこには数多くの新しい天地の家庭がいます。あの世に行く様に成っても同じです。
*
人は何処へ行くのでしょうか。天国へ。この様に成るのです。天使は何処へ行くのでしょうか。天国へ。父母は何処へ行くのでしょうか。天国へ。それだけでなく、育てた子犬は何処へ。地獄ではありません。昔避難する時、北韓でとても良い生活をする金持ちの家に、とても高い犬だと自慢していた人がいました。その人が避難する時、犬をしっかり門に結んでおいて、「おい! 元気でな。私だけ行ってくるから」と言うのです。私達統一教会の食口達は、それではいけないのです。今からは犬も天国へ。全ての万物も天国へ。主人が行く所には、何処でもついて行く事が出来るというのです。
*
霊界と肉界、人間の混乱した思想界の複雑な事を全て打開して、この様に単調で簡単な一つの方向が設定されて、明確な一つの価値観を私が見つめて行く様になったという驚くべき事実を知らなければ成りません。その段階ごとで力が分散されるのではありません。段階が発展すれば発展しただけ、力が共にあるのです。愛の原動力が私の生活圏に反応するのです。ですから、愛から生じ、愛を受けて愛したのち、愛の世界へ行くのです。神様に帰って行くのです。結果は原因へ帰らなくてはならないでしょう。ですから、神様の様な考え方をもたなければならないというのです。
*
私達は何処へ行くべきでしょうか。死線を越えてでも行くべき所とは何処でしょうか。神様を求めて、その神様に仕え心から喜んで楽しむ事の出来る日、私の心の世界で「これ以上の願いはありません」と言う事の出来る一時を迎えなければ成りません。その為に、私達は困難に耐えて、無念さに耐えて、悔しさに耐えながら、この世界を越えていかなければならないのです。この様な世界を越えて行く自分自身に成っていない限り、世界と共に消えるのです。
*
人間は何も考えずに流れに任せて生きながらも、死ぬ事を嫌い、「なぜ生きなければならないのか。根源がどの様に成っていて」と、皆様、疑問が多いでしょう。その全ての疑問は、人間の哲学書だけでは解決出来ないのです。哲学というのは、今迄神様を求めて行く道を開発したのです。宗教は何ですか。神様を知って、共に生きる生活から始める事が宗教生活です。
*
霊界を無視しては駄目です。これが行く原則である故に、行くら優秀な人もその原則に合う様にこの地上に生きて一体理想、均衡的な平準化を成し遂げなければならないのです。相対的平面です。均衡を取って、九〇度を中心として引っ掛からないで水平に回らなければならないのです。それで、三六〇度を回りながらも、ここで引っ掛かっては成りません。サタンが少しだけ口出ししても引っ掛かるのです。ですから、回っても、回っていない様に見えるこの様な歴史をもつ人が入っていかなければならないのです。家庭の本格的な再検討時代が来るのです。統一教会検討時代です。これからは教会が無くなるのです。神様に侍って暮らす事の出来る本然の時代です。
P4
生命圏、愛圏、血統圏の堕落、全世界が引っ掛かっているこの事が、同じ条件と同じ公式なのです。同じ公式の条件に引っ掛かっているのです。それ故に、どんな事があってもサタン圏の、自分の肉体が要求する全てを放棄し、良心圏が願う所に一〇〇パーセント移動すれば地上天国圏に立つので、神の国、地上天国世界と天上天国世界を境界なしに無限に通じる事が出来る自由圏を得る事が出来るのです。そちらへ越えていかなければならないという自覚をもたなければ成りません。この様な難しい問題があるという事を、人間は知らずに生きているのです。人間は、この様にもつれた背後の内容があるという事を皆知らずに生きて霊界に行くので、地獄に行くのです。
*
私達人間は、生まれると一度は死ぬ様に成っています。所で、死ねば何処へ行くのでしょうか。煙が消えてしまう様に消えてしまうのではありません。必ず霊界に行く様に成っています。霊界に行く様になれば霊界の国があります。では、その霊界の主人は誰ですか。神様です。それ故にその神様の息子、娘にならなければ成りません。神様の息子、娘に成る事が出来なければ天国に入れないのです。
*
霊界があるならば、霊界はああしたりこうしたりと変わると思いますか。「人の心は朝夕に変わり、山の色は古今同じである」という言葉もありますが、霊界は変わりません。神様がいるならば、その神様は変わりますか。神様は変わりません。神様が統治する霊界の国があるならば、その国は変わりません。億千万世に定めた法に従って生きながらも、不平不満を感じないで順応と柔和の道理に従って、厳然と存続し生存するのです。そこには革命家は必要ないのです。革命をすれば、全て滅びるのです。
*
皆様はカナン福地に入らなければ成りません。この地球星がカナン福地に成っている為に、天国の外的世界が近づいて来たが故に、地球村時代が来ます。人工衛星というものがあって、座っていても天上世界を旅行出来る時代が来ました。相対圏の人工衛星時代が来るのです。その次にはコンピューター時代が来るのです。霊界にコンピューターがあって、一生の全ての記録が現れるのです。人生の歴史や全てのものをあっという間に知る事が出来る時代になったのと同じ様に、統一教会を中心として地上地獄膨脹主義時代から地上天国出発時代へと交代するのです。
P5
アダムとエバがエデンの園で、食べ物のお金を払って食べたのでしょうか。全てただです。この様に見る時、霊界に行って住む時も、全ての環境的条件をつくられた神様が、人間に無限な価値をただでくれたが故に、霊界に行っても無限な価値の存在が全て自然に供給されるのです。その霊界は、神様が住まわれる本郷の地です。ここでは、お金を出して買って食べないのです。私達人間の想像が及ばないほど、全ての事が可能な補給地です。皆様はその霊界を知らないから、分からないのです。本来の堕落しない後孫ならば霊界を知っているのです。
*
なぜ本郷を恋しがるのですか。父母に対する愛、兄弟に対する愛、夫婦に対する愛、その地に対する愛、故郷山河に対する愛と同じです。あの世でも真の愛という全く同じ公式に成っています。本郷には父母がいて、夫婦がいて、兄弟がいます。全てのものがそこにあります。立派な食べ物もあるのです。食べ物も、見える食べ物と見えない食べ物を合わせてこそ本当の食べ物に成るのです。なぜ私達がこの様に苦労をするのですか。故郷に行く為です。その様な希望に満ちた霊界の相続を受け様としてそうなのです。
*
故郷というのは、制限されたここだけの事をいうのではありません。何処に行っても、故郷で暮らす様に生きなければならないのです。何処に行っても、一生を恋しい故郷で暮らすのと同じ心をもって生きなさいというのです。大韓民国の四千万を中心として和合し、その様に暮らす事の出来る人は、あの世に行けば霊的な人格の価値が大きく成ります。この様な事を知って、故郷を考える時は必ず霊界を思いながら愛の人格を備えて、父母の様に、お兄さんの様に、お姉さんの様に「為」に生きなさいというのです。それとともに、自らの愛と生命を投入し息子、娘を育てて、もっと立派な子孫を故郷の地に残すという心をもたなければ成りません。その様な思想をもって暮らしてあの霊界に行く様になれば、全てが私の故郷の地に成るのです。
*
私達統一教会の食口達は、どの様な道を行かなければならないのでしょうか。神様が願う道に従って行かなければならないのです。天意の道に従って行こうというのです。天意とは何ですか。天意には個人が行くべき天意の道があり、家庭が行くべき天意の道があります。そして、社会が、国家が、世界が、霊界迄……。皆様は霊界を知らないでしょう。その分野の専門家が文先生です。霊界は間違いなくあるのです。
3.一生は霊界へ行く準備期間
行くら考えても自然世界の摂理はやむを得ないのです。皆様も死なない事を願うでしょう。死なない自信がありますか。自然が調節するのです。霊界の法に従っていかなければならないのです。それと同じ道理です。
P6
霊界が私達の故郷の地です。本然の故郷の地です。この地は本然の体の故郷の地であり、霊界は本然の心の故郷の地なのです。この次に行く所が心の世界、霊界です。それ故に、ここであらかじめそこに合わせて訓練をしてこそ、そこに行っても支障がありません。アメリカの人々は、ハンバーガーを食べなければ成りませんし、チーズを食べなければならないでしょう。韓国の人々は、キムチを食べ、唐辛子みそを食べなければ成りません。霊界にもハンバーガーがあるのか、キムチがあるのか知りませんが……。ですからここで、そこに拍子を合わせる様にする事によって、あの世に行って苦痛がないのです。
*
今迄一般の人々は死ねば全てなく成ると考えたのですが、そうではありません。霊界があるので、そのままつながるのです。その霊界に行く為には地上で準備をしなければ成りません。霊界に行けば愛によって呼吸する為に、地上で愛を中心として生活してこそ、そこでも自由に呼吸出来るのです。地上で愛を中心として生活しなければ、そこで自由に呼吸出来ないのです。霊界は、愛を呼吸する世界です。愛が空気の様な世界だと自由に考えればいいのです。第二の新しい出発を「死」というのです。それ故に、その様に怖がる必要はありません。死は新しい出発の門を開くのです。
*
霊界が故郷です。故郷に帰って永遠に暮らす事の出来るその基準を、地上で合わせて逝かなければ成りません。地上生活で自分の思いのままに、今迄の世の中の何も知らない人々の様には生活出来ないのです。霊界を知って、そこに合わせて生きる事によって、この世を離れる様に成る時、神様の前に行って天国と関係を結ぶ事が出来るのです。そうでなければ、不可能だというのです。それ故に皆様は、霊界に対する事実をはっきり知らなければ成りません。
*
霊界は愛の空気で出来ていますが、皆様の霊人体が準備をせずに天国に入っていけば、息が出来ないのです。ここは空気で成っていますが、あの世界は愛の霊界です。皆様の霊人体が愛を感じる事が出来る様に準備をしなければ成りません。その様に出来なくて霊界に行けば、関係を結ぶ事が出来ないのです。これが問題です。問題が大きく成ります。何千万年はかかるのです。
*
皆様は、本然の愛で愛さなければならないのです。それ故に霊界に行く様になれば、霊界は愛が空気に成っています。細胞が愛化する事を体験してこそ、全てのものが自然らしく成るのです。細胞は全て呼吸するでしょう。愛の細胞を全て何処で育てて行くかと言えば、真の夫婦に成って神様の愛を中心として育て、神様の世界に行き愛の空気を永遠に吸いながら暮らすのです。それでこそ死にません。愛が根本であるが故に、愛をもてば何でも自由に実践実行出来る世界だというのです。愛する人の為に何でもつくり、何でも創造出来るのです。その様な霊界があるのです。私達の本郷があります。
*
塩水と淡水は何が違いますか。味が違うのです。塩水は塩辛く、淡水は何の味もありません。同じです。この地上では味がありません。しかし、霊界に行けば味があるのです。水は生命を伴う事が出来る力をもっていますが、塩は生命を生産する為に必要なものです。
P7
水は、海深く迄行かなければならないのです。行くら大きい川を流れる淡水であっても、海に入っていけば塩水に成ります。行くらきれいだといわれる有名な河川水でも、海に入っていけば間髪を入れず、さっと変わるというのです。全く異成る色合いと味とに変わるというのです。これと同じ様に人間達は、全て霊界へ行くのです。淡水で生きたそれが、そのまま通じないのです。海水に成るのです。
ですから、宗教人達は、生きていきながら塩水を加える事が出来る資格をつくらなければならないというのです。そうすれば、霊界に行って相反しないのです。万一、淡水がそのまま入っていってしまえば問題が起こります。人間もそのまま霊界に入って行く様になれば、大変な事に成るのです。
*
河川水は何処へ行きますか。海へ行くのです。海水と河川水は違うのです。地上は河川水と同じであり、霊界は海水と同じです。それ故に人間はどの様な者も、地上で生きた者は霊界に全て入っていきます。淡水と塩水と混ざった場合には、淡水魚は塩水ではどの様に成りますか。淡水魚は塩水では死んでしまいます。突然に入っていけば窒息します。それ故に、慣れなければならないのです。
水の色合いも同じで温度も同じだった場合には、何処にある水を飲んでも何でもないのと同じです。地上世界と霊界の世界が突然に連結した場合には、淡水魚が塩水と出合って死ぬのと同じに成るのです。どの様に呼吸しますか。大変なのです。鮭が塩水から淡水へ上って行くのには二週間の期間を費やして、少しずつ慣らしながら上って行くというのです。呼吸が苦痛でない様にしながら、歩調を合わせて移動していきます。
*
海へ入って行く時の気分はどうでしょうか。「ああ、入って行きたくない!」と言うでしょうか。皆様、そう思いますか。皆様に、死んでしまって何処へ行くのかと尋ねると、皆「霊界へ行く」と、その様に言うでしょう。それでは、その霊界へはどうやって行くのですか。死んで行くのです。かといって、誰でも死んでみたくはないものなのです。
それでは、河川水が流れてついに海に入って行く様になれば、どの様に成りますか。河川水が海水をかぶると、どの様に成りますか。「ああ、気分いい!」その様に言うのですか。全てのものが小さく成ってしまった様な衝撃を受けるのです。縮小されたとでもいいましょうか……。最も大きいものから最も小さなものに成ってしまった様な、大きい衝撃を受けるというのです。
P8
霊界に行来たくないとしても、誰でも行かなければならないでしょう。ここで自分は絶対に死なないという人、手を挙げてみて下さい。行くら刀をテーブルの上に刺して誓っても、人間は死なざるを得ないのです。死ねば何処へ行きますか。霊界に行きます。そこは大きい川と同じです。行くら大きい川といっても、流れていって全て海に行くのです。「海に行く事が出来ない。海に行きたくない」と言うのは、生きているけれど死んでいるというのです。それは存在の価値をもっていない事と同じです。
*
私達が霊界に行く前に、私が何をして暮らしたのかと、私達の生活を一度ずっと反省してみる時、それは深刻な問題です。皆様、霊界は未知の世界です。霊界はどうせ行かなければならない世界ですが、未知の世界だというのです。無限拡大の世界です。そこに行く様になれば、皆様の先祖に全て会えるのです。数千、数万の先祖と一遍に会える所です。彼らが皆様を迎える様に成る時、評価するのです。
*
準備といっても、易しい準備はありません。それ故に一生を見る時に、少年時代は青年時代の為の準備時代である事を知っている人は将来性があるのです。壮年時代は老年時代の為に準備しているのであり、老年時代は霊界に行く準備をするのです。一生自体は大宇宙の人格を備える為に一つの訓練過程をたどっている修練期間であり、準備期間だという事を私はよく知っています。
*
今はビザとか国境が問題に成る為に出来ませんが、言語だけでも統一されれば、何処でも私の故郷の様に、私の国の様に暮らす事の出来る時代に成るというのです。どうせ、その様に行かなければならないのです。ですから、ソ連でもアメリカでも、皆一つの家族の様に生活しなければ成りません。今後はテレビの様なものも、財布の様に小さいものを作るのです。今でもそうではないですか。ポケットに入る小さいテレビも出ているでしょう。ですから人工衛星を中心として、全て見る事が出来る時代に入ったというのです。何処に行ってもです。その様に集約された小さな世界が、全て入ってくるというのです。
人間生活が便利に、何処でも移動出来る様に成るのです。その様な小さなものを車一つに全て積んで、行き来しながら暮らす事の出来る時代にならなければ成りません。そうなれば、いいでしょう。韓国を離れて七十、八十歳迄世界一周をしながらですね。その様な時代が間違いなく来るのです。先生は、そこに対する準備をしているのです。
4.生涯はあまりにも短い
人間の一生は短いのです。生涯において十年がいつ過ぎたのか知らないのです。結婚して三十年以内に、全てのものが決定されるのです。それ故に、人生の道はいつも待っていません。忙しいのです。そして、一回ずつ皆死ななくては成りません。死なないですか。死なない自信がありますか。死ななくては成りませんね。死ねば何処へ行きますか。霊界がある事を知っていますか。先生は霊界を知っているが故に一生をかけてこの仕事をしています。世界を全て料理しながらです。この世はつかの間です。十カ月の腹中生活と同じです。
P9
統一教会は、その霊界へ行く事が出来る準備をするのです。ですから統一教会は、霊界で合格する為の準備をする所です。では、そこで完全に合格するか、不完全に合格するかというのです。また、落第生に成って不合格に成る事もあるというのです。この様に見る時、皆様は霊界に行く準備を地上でしなければ成りません。地上という所は、旅人の旅路の様なものです。いろいろな過程を通過します。女性としてある父母から生まれて育ち、今は年も取るだけ取って何処で生まれたのかも分かりませんが、その様に育ち男性に出会い、共に道を歩ん出来ながら愛を通して子供も生む様に成ります。その様な事をしていきながら苦労するのです。ちょうど苦労して馬車を引っ張って行く様に……。
所が、その車がいつ故障するか分かりません。険しい岩の道を通る事もあるでしょう。そこで誤ってしまうと故障するのです。故障すればどの様に成りますか。これ以上行く事が出来ません。それを修理しなければ成りません。修理する能力がないと大変です。それで、力や能力がない場合には一年もかかり、二年もかかり、十年もかかるのです。そこを抜け出てくる事が出来なければ死ぬのです。その様な旅路を行くのです。時には旅館に入っていっていろいろな人に出会ったり、時には立ち寄る所もいろいろあるでしょう。人生は、一つの旅行の道の様なものです。そうして行く所が結局は霊界なのです。
*
一生というものは早いのです。一生は本当に早いのです。物事の分別がつき事情を知って、ああだこうだしているうちに四十を越えればすぐ五十であり、十年はつかの間です。五十ならば六十はつかの間で、六十になれば七十がつかの間で、私も静かに考えてみると「一場春夢」という言葉を実感するのです。
*
私達の人生の一代というのはつかの間です。この一代が永遠の尺度を上げたり下げたりするというのです。秤と同じ様に上がったり下がったりするのです。その様に成っているというのです。
*
皆様、見て下さい。皆様が八十年生来たとしましょう。その中で夜に寝る時間を除くと四十年に減ります。半分に減るのです。寝る事も生きている事ですか。寝る事は死んだ事と同じです。寝る事は死んだ命なのです。それ故に、二十四時間の中で生き様とあくせくする時間は半分にしか成りません。
またここで御飯を食べる時間を一時間ずつ抜いてしまうとどうですか。御飯を食べる時間を一時間と考えなければ成りません。またその中で友人の祝宴の日、町内の人の還暦日、誰かが死んだ日、葬式を執り行う日、病んで横に成っている日、あらゆる日を除くと、生涯において生きている日が半分にも成りますか。この前計算してみると、生きているという事が七年と出てきます。その七年の中で「本当に生来た」と言う事の出来る日が何日出てくるかです。何日にも成りません。
P10 <次ページ>