人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

御言葉選集7(1,2)

2024年11月30日 16時42分14秒 | 学習


イエス様の死は「生きながらの別れ」であったと私は思います。それは生き別れです。ですから、私たちの先祖、信仰の先祖たちは何一つ誇るべきものを持っていないのです。イエスを殺したことは選民としての本分ではありません。イエス様が歩むべき道はそのような道ではありませんでした。それは生き別れの道ではなかったのです。


この地上には、イエスの生涯を奪った死の恨みが残っています。だからこそ、神はイエスの死を通して、今なお人間を心情的な理念を通じて導いてこられているのです。ユダヤ民族が世界で勝利することができたのは、一時の心情的な結びつきがあったからです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を見据えて進む人々を動かし、心情的な統一を成し遂げていたならば、そこから地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に深い感動を与えるような主義が生まれたでしょう。そして、ユダヤ民族を通じて一つの世界が必ず成し遂げられたであろうと私は考えます。


しかし、イエスを中心として成し遂げられるはずだったその故郷の国はどこに行ったのでしょうか?どこに行ったのですか?その民族が住むべきカナンの地はどこに行ったのですか?その故郷はどこに行ったのですか?アブラハムが祝福を受け、神の前に祭祀を行ったその地、その神殿はどこに行ったのですか?神が直接統治することができたアダム、選ばれたノアとその家族はどこに行ったのでしょうか?私たちが住むべき、天の安息所となるべき故郷の世界はありません、ないのです。だからこそ聖書では、私たちは孤児のようであり、未亡人のようであると記されています。


金サッカのような人は、放浪者として三千里の山河をさまよいながらも立派でした。立派だったのです。だからこそ、皆さんも人生の旅路においてその姿がどれほど哀れであったとしても、宇宙を歌える感情を持ち、天と共に、万物と共に、その流れる心情が天情と調和する人格者にならなければならないのです。もし私がそのような人に出会っていたならば、たとえ物乞いの缶を持って歩くことになったとしても、精一杯その人をお迎えしたでしょう。


私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自らを縛り、傷つけ、自己崩壊を繰り返してきました。それはノアの時代にも、アブラハム、モーセ、そしてイエスの時代にも同じでした。それでは、今日の歴史の終末時代において、人間の運命を解決し、人間が自らの使命を果たし、生命の道を切り開いていかなければならないというこの時に、神は人類をどのような方向に追いやろうとしておられるのでしょうか?イエスの時代には、故郷の国を取り戻すために人類を追いやりましたが、これからは神が望まれる故郷の世界を築くために人類を追いやっておられることを私たちは知るべきです。


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探し求めるべき故郷の世界、その世界を建て、治めるために万王の王が来られると言われています。その方こそ、私たちが待ち望む主です。人生の旅路で倒れることがあっても、故郷の国を探し求めるために引き寄せられ、命を失う者がいるなら、その国が建てられるとき、その者は忠臣であり功臣として名を残し、天によって称えられることは間違いありません。だからこそ、かつてパウロもすべての社会的な権威を捨て、一人で悲惨な死の道を歩むことができたのです。彼はその一時が来ることを確信していたからこそ、それができたのです。イエス様もその一時が来ることを確信していたからこそ、その道を進むことができました。そして神もまた、その一時が来ることを確信しておられるからこそ、今日までこのような摂理を続けておられるのです。この道を歩むべき人生だと知る皆さんは、自信を持ってこの道を進むべきです。自信がありますか?自信がありますか?


私たちが目指すべき場所は、ノアが探し求めた故郷の家庭であり、アブラハムが探し求めた故郷の地であり、モーセが探し求めた故郷の民族であり、イエス様が探し求めた故郷の国です。神とイエス様が成し遂げようとしているのも故郷の世界であるのに、皆さんはその世界と感情的に共鳴し、縁を結んでいますか?そうでなければ、皆さんには人類歴史の脱落者としての烙印を押される日が来るでしょう。


私たちは故郷の世界が恋しいのです。ノアの方舟も恋しいのです。今日、世界の二大陣営は岩礁にぶつかる瞬間に差し掛かっており、生死を分ける決断を迫られる厳しい局面に直面しています。善悪の出発が一つの起点を通じて始まったことを私たちは原理を通じて学んでいます。善悪が神を基に始まったのであれば、その解決もまた神を基にしなければならないというのが鉄則です。失われたものを探し求めるには、失われた場所に行って探さなければならないのと同じです。


本然の園は理想の園です。それは、互いに与え合い、通じ合う世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにでも通じることのできる世界でした。今日のように、民族的な感情や国家の主権的な違いを持ち出して議論するような理想や主義の世界ではありません。民族の差別や国家の主権といったあらゆる違いを超えて議論できる世界であり、経済的な状況や文化といった条件の違いを基に議論するのではなく、心情を基に議論する世界でした。


例えば、ある家庭に兄と弟がいて、その兄が大統領で弟が労働者であったとしましょう。その時、兄が弟に向かって「お前は労働者だから家に戻って労働でもしていろ」と言うことはできないはずです。本当の兄であるならば、弟が自分と同じ立場でないことを悔しく思い、彼を高めてあげたいという心情が湧き上がるはずです。それが真の兄の心情でしょう。


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神はそのような家庭的な理念、本然の家を恋しく思っておられるため、全人類もまたそのような故郷の家を恋しく思っているのだということを知らなければなりません。


これが私たちが必ず到達しなければならない運命的な歴史の解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるならば、その視点と基準が自分とどれほど異なっているのかを問い直すべきです。その違いが大きければ大きいほど、私たちは大いに嘆き悲しまなければなりません。そのため、こう祈るべきです。


「神様、哀れな私をお許しください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知りませんでした。歴史が目指す摂理の方向と目的を知りませんでした。人生の歩みがどれほど混乱しているかを知りませんでした。歴代の預言者や先祖たちの苦しみや歴史的な内的心情を知りませんでした。そして、私たちが信じるイエス様が歩まれた道も知りませんでした。神様が進まれた道も知りませんでした。知らなかった罪をどうかお許しください!」と。そして、「知っていても赦されるべきではないのに、知らなかった私はなおさらお許しください!」と訴えるべきです。


人間は無条件でそうすべきです、無条件で。それゆえ宗教では「高慢は敵だ」と教えています。「高慢になるな。自分を出すな。自分自身が敵なのだ」と言っています。それは、私たちが彼らに負い目のある存在だからです。このような心情で静かに目を上げて自分を見つめ直すと、恐ろしい現実を感じることでしょう。そのような歴史的な心情を持ち、天と共に何かを感じ取るとき、恐怖が込み上げてきます。歴史的な悲哀、悲運の幕が張られているのを見ると、身体が震えるほどの衝撃を受けるのです。


そのような山場を乗り越えてこられた父なる神。そのような山場に直面して命を落としながらも、その国、その世界を恋い慕い、その世界の自由を求め、幸福を求め、平和を求めて戦い続けてきた預言者や先祖たちがいます。それが私の考えです。今日の私、今日の私たち、今日の統一教会が反対を受けることは当然だと思います。


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それでもなお、この道を切り開かなければならないという確固たる信念のもとで、「迫害なら来るがいい」と言える度胸を持たなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一団の前に毅然とした姿で現れ、その堂々たる態度に彼らは頭を垂れました。イエス様は「来るなら来てみろ」という姿勢を見せられたのです。どれほど困難なことがあっても、心情を通じてすべてを超えることができます。そうではありませんか?


たとえ悪党が親子の愛を妨げようとしても、それを妨げることはできません。愛は何らかの意識的な啓示によって感じるものではなく、自動的で自然な感情として感じるものです。そのような感情が感じられる場があるならば、そこには悪魔がどれほど侵入しようとしても侵入できません。もし邪魔をすれば、悪魔自身が大変なことになるのです。悪魔が消え去るのです。人生の旅路でそのような感情を感じる人が天国に行くということです。


私たちは故郷を求めてもがき続ける人生の旅路を歩んでいます。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。しかし、ここにもう一つ付け加えられるべき言葉があります。それは『わたしは愛である』という言葉です。この言葉をイエス様はおっしゃらなかったのです。


ですから、ここに「神よ、私は愛であり、真理であり、道であり、命である。私を通さなければ神に出会うことはできない」と言える確信を持つ人、天の心情を通じることのできる人が現れるならば、その人を指して「お前はこの地で天を裏切った者だ」と裁きの座に引き出すことはできないでしょう。神はそのような息子娘が地上に多く現れることを待ち望んでおられます。それが、私たちがイエス様を高く見る理由でもあるのです。


私たち統一教会の信徒たちは、人生の旅路の中で荒れ狂う波に翻弄されながらも、天を探し求めてここまでたどり着きました。私たちには、自分の身体を委ねる場所、自分の心を委ねる場所、自分の心情を委ねる場所が必要です。本然のエデンの園においてアダムが万物の主人公であったならば、万物は彼に対してどう思ったでしょうか?すべての万物はアダムに向かって『どうか私たちの主人になってください』と言う存在であるべきだったのです。


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神はどのようなお方なのでしょうか?なぜ私たち人間が『神様、神様!』と呼ぶのでしょうか?それは、神がすべてのものから『私たちの主人になってください』と求められる立場にいらっしゃるからです。そうでなければ、理想的な主観を得ることができるでしょうか?


今日の人類は『私のすべてをあなたに捧げますので、神様、どうか私たちの主人になってください』と言える存在でなければなりません。そのように言える歴史、そのように言える摂理、そのように言える人格を確立した者であるべきです。そして、もし皆さんがそのような方と地上で出会ったならば、『私の身体を、私の心を、私の心情をどうかあなたが導いてください。私の主人になってください』と訴えるべきです。その時、万物もまたその方を待ち望んでいた主人として迎えたいと思う心が芽生えるでしょう。皆さんはそのような存在にならなければなりません。


今日の私たち統一教会の信徒たちが、真理を通してそのような身体となり、そのような心となり、そのような心情となれば、たとえ世間がどれほど反対しようとも、この真理が世界を支配する日が来るのです。そして、その日が来れば、この真理は世界を支配するだけでなく、それを超える影響力を持つことでしょう。


今、皆さんが「ここにいたい」「ここに住みたい」「ここに行きたい」と思う場所があるならば、それが本然の居場所であるはずです。その場所にいる家族や仲間たちは兄弟姉妹です。会わなければ会いたくなり、傷を負っていればその傷を抱きしめて涙を流すことのできる心が湧き上がらなければなりません。皆さんはそうなるべきです。仲間の誰かが傷ついたなら、その胸を抱えて涙を流すことのできる人間でなければなりません。


私たちの故郷の家とはどのような場所でしょうか?それは、お父様が私を抱きしめて涙を流してくれる場所です。主も共に涙を流してくださる場所です。心情の縁を一片も欠けることなく、同伴者として、友人として、あるいは新郎として接してくださる天の存在、それがありがたく、畏れ多いお言葉です。


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不甲斐ない自分を抱きしめて涙を流してくださる主、そのようにしてくださる父、それを思うとただ畏れ多いばかりです。その愛によって、人生の旅路で受けたすべての傷を忘れることができるでしょう。このように考えると、どうしようもなく圧倒的な父の愛を賛美する感情が先立ちます。それがなければ、天国に行くことはできません。そうではありませんか?


皆さん、学期の初めに初めて故郷を離れた学生たちは、学期の終わりになると故郷が恋しくなるでしょう。その心が純粋で本然の心情であるならば、どれほどの苦労をしても故郷に帰り、母や兄弟姉妹の手を握りながら涙を流し、自分のこれまでの苦労話を夜通し語り合える、そんな場所や村、山河を懐かしむはずです。


復帰の恨みを解消できていない私たちが人生の旅路を歩む中で、「ああ、主よ!お父様!」と叫ぶ瞬間に、天地万物が喜びの中で「その通りです!ハレルヤ!」と歓声を上げるような瞬間があったでしょうか。皆さんにはそのような瞬間が必要です。それがなければ、天は悲しみと哀れみの立場に置かれざるを得ないということを、皆さんは知るべきです。


皆さん、幸せな人とは、抱きしめて涙を流してくれる人がたくさんいる人です。子どもが素晴らしいというのは何故でしょうか?それは、親が困難に直面し、涙を流すときに一緒に泣いてくれるからです。そうではありませんか?また、親が喜ぶときに一緒に喜んでくれるからです。そのため、悲しみも喜びも共に分かち合える人がいる人は幸せなのです。


皆さん、友人を誇りに思ってはいけません。自分のために死ぬときに涙を流し、悲しみを共にするのは難しいことです。それができるのは親です。そして天もそのような存在です。


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私たちが進むべき道の理念を担う指導者や教団的な責任者がいるならば、その人は羊たちのために涙を流し、号泣し、哀れみの心を持つことができなければなりません。羊たちが自分のすべての事情をその指導者の前で打ち明け、その指導者によって喜びや悲しみ、怒りや楽しさの感情が豊かになるとき、その人々は真の牧者に出会った幸せな人々であると言えるのです。そのような天がいるからこそ、私たちは天を慕うのです。


ですから、今日の私たちは人生の旅路の中で疲れ果てた身体であっても、勝利の内容を持って現れるとき、歴史上のすべての聖人、賢人、そして天が歓喜して迎えてくれる日が来るということを知り、その日を栄光のうちに迎えるべきです。そして、その日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れることができ、待ち望んだ願いをすべて成就することを願いながら進むべきです。そのように進む人こそが、今日、道の道を歩む人々であることを皆さんはしっかりと認識すべきです。




<祈り>
お父様、招かれた道が容易いものだと思い進み始めましたが、それが困難な道であることを知りました。喜びの道だと思っていましたが、進むにつれて涙の峠がいくつもあることを知りました。


お父様、私たちに悲しみがあるならば、あなたを抱きしめて悲しみを分かち合いたいのです。人間を抱きしめて悲しみを分かち合うならば、失望することが多いことを知りました。そして、人を信じて進むと傷つくことを知りました。


変わることのない方は父なる神様であられました。お父様を抱きしめて泣いた時間がどれほど幸福な時間だったのでしょうか。そのためにイエス様もお父様を抱きしめて涙を流すための道を求められたのでしょう。


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今日ここに集まった統一の家族は、教派や形式が問題ではありません。お父様を抱きしめて涙を流すことのできる人々であり、人生の旅路が悲しく孤独であるからこそ、人類の前にイエスを立てて先にこの道を切り開かせた父の心情を理解し、父のために涙を流すことのできる真の息子、娘になりたいと願っています。


私たちが悲しいと嘆く前に、お父様が苛酷な鞭を受け、激しい迫害を受け、すべての不条理を耐え忍んでおられることを知るならば、どうして私たちが父の前で自分を弁明できるでしょうか?父の前では自分中心で悲しむ条件はないということを知ったのです。ですから、今日ここにいるあなたの息子娘たちをどうか憐れんでください。


故郷を目指す旅路がどれほど哀れで、悲運で、不幸なものであるかを知りました。お父様、私たちが自分を抱きしめて泣く前に、お父様が先に泣かれたことを知りました。私たちが打たれる前に、お父様が先に打たれたことを知りました。私たちが苦しむ前に、お父様が先に苦しまれたことを知りました。私たちが痛む前に、お父様が先に痛まれたことを知りました。そして、私たちが倒れる前に、お父様が先に倒れられたことを知りました。


これを知り、お父様に向かって言葉もなく進み続けるしかない自分自身を発見しながら、天の前で頭を垂れて「お父様」と呼ぶことのできる息子娘たちを、天はどれほど待ち望まれたことでしょうか。今日のこの言葉を通して、私たちの心にそのような感情が湧き上がることを許してください。そして、この国に対して、世界に対して、天に対して、そのような感情が湧き上がることを許してください。


そのような感情が湧き上がってこそ、個人から全世界的な理念圏に至るまで、自信を持った信仰を持っていると言えるのです。また、自らの理念を立てるための最高の心情を持つ天の立場に立つことができると知っています。そのような環境の道を切り開いていけるように、私たちの心を奮い立たせてくださいと、切にお願い申し上げます。


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今日のこの御言葉を通じて、これまでの人生の旅路で悲しみに暮れていた自分を省み、真の幸せに浸って生きることができるようにしてください。そして、自分の一身が天と結ばれている縁を高く評価し、謙虚に頭を垂れながら父の栄光を高めることのできる子女となることを許してくださいと、切にお願い申し上げます。


すべてをお委ねいたしますので、この者たちの命とその全生活、また彼らが持つすべての理念に至るまで、父の心情に背くことがないように、導き、統治してくださいと切に願い、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。





先生の「言葉選集」7巻 - 2. 父と私(1959年7月12日)
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19


<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。


4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。



そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。


今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。


メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。


このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。


イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。


師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。


奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。


お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。


生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。


お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。

今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。


2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。


死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。


お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。


どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。


お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。


集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。


この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください


さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。


残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン


<御言葉>
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。


世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。


キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。


悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。


人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。


私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。


それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。


人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。


私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。


絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。


キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。


この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。


このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。


これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。


私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。


皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。


堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。


人類を滅ぼそうとするのが天の意ではなく、彼らに生きる道を求めてくれる様に責任を負って貰い、天が摂理の意を立ててくる。この気持ちが出なければならないということです。歴史を数えてみると、これは否定できない事実です。


堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。


そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。


数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。


人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。


続く


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御言葉選集7(1)

2024年11月30日 16時40分21秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 1. 故郷を探し求める人生の道
1959年7月5日(日)、旧本部教会


ルカの福音書 15:11-32


1


<祈祷 (Ⅰ)>
死の影の中でもがいていた私たちが、父なる神を慕う心でこの日に再び集いました。どうか私たちの心が父なる神の心に留まることができますようにお許しください。そして、私たちの心と体が父なる神のものとして動けるようにしてください。


父なる神は、無限の労苦をいとわず、時代ごと、世紀ごとにわたり、私たちの祖先たちと共に歩んでくださいました。どれほどのご苦労をされ、祖先たちの道を切り開いてくださったことでしょうか。それにもかかわらず、私たちの祖先たちは天の労苦の功績をないがしろにし、父なる神の心に心配を抱かせる恥ずべき姿をしていたことを、どうかお許しください。


祖先たちが犯した罪が永遠の恨みとして残っていることを私たちは知っています。そして、その悲しむべき堕落の行いによって、6千年もの間、数多くの人類を苦難の中に陥れたことも知っています。私たちは、父なる神の御心を裏切り、嘆き悲しませた歴史的な祖先たちの堕落した心を、再び受け継いでしまうのではないかと恐れています。私たちは、堕落から生じた恨みの峠を越え、祖先たちが残した恨みを踏み越えて進まなければならない時に生きています。どうか今、私たちの心が父なる神の御心に捕らえられることをお許しください。そして、私たちの体が父なる神の体に代わることのできる、栄光のひとときをお与えくださるよう、心から切に願い求めます。


誰が父なる神の御心に一つになり、涙を流して訴えることができましょうか?誰が父なる神の事情を代わりに背負い、戦うことができましょうか?この地上には多くの人々が住み、多様な人類の姿が見られます。しかし、父なる神が胸に抱える事情と御心について相談し合う相手となれる場所も地域も人もなく、そのために嘆きと悲しみの歴史を繰り返してこられた父なる神のことを知る者はほとんどいません。私たちは、このような哀れで無念な父なる神の内なる御心を知っているゆえに、今日、心を開き、事情を打ち明け、すべてを父なる神のものとして接ぎ木する時間を持たせてくださいますようお願い申し上げます。


父なる神よ、私たちのすべてを赦すことのないこの時間を与えてくださり、ただ父なる神と一つに接ぎ木された場所で喜びを享受できる姿となることを、この時間、誠心誠意をもって父なる神の前に訴え求めざるを得ません。


2


この日、愚かで至らない私たちが天を慕い、ひざまずきました。私たちの哀れな事情を知っておられる我が父なる神よ、悲惨な環境の中で共に戦い、支えてくださった父なる神よ、今日、私たちは心を一つにして父なる神の御前にひれ伏しました。どうか私たちを受け入れてください。私たちは父なる神のものとならなければならず、父なる神の御前で導かれなければならないことを知り、心を尽くし、想いを尽くして父なる神をお迎えするために、長年の苦労の道も厭わず歩んでまいりました。そして、困難で苦しい峠道も耐えて越えてきました。


このような道を耐え忍んできたのは、父なる神との縁の歴史を残すためでした。今日ここに集った私たちは、父なる神が探し求める者を無視せず、敵をも排除せず、求める者を友の立場に立たせるために御苦労されたことを知っています。父なる神よ、今日私たちは心を尽くして求めたいと願います。誠意を尽くして探し求めたいと願います。すべてを捧げて父なる神との絆を結びたいと願います。どうか私たちを憐れんでください。求める心を満たし、探し求める願いを叶え、叩く扉の事情を聞き届けてくださいますよう切に願います。


今、足りない私たちが父なる神の御前で待ち望むことがあるとすれば、それは父なる神の御心と共に喜びを分かち合うひとときを持つことです。それこそが私たちの唯一の願いであり、私たちのすべての財産であり、私たちの全生命であることを知っています。父なる神よ、この時間、集まったあなたの息子娘たちを憐れみ、どうかお守りください。


父なる神よ、私たちが進むべき生命の道をお示しくださり、導いてください。今日まで困難の中で私たちを耐えさせてくださり、迫害の中でも耐える力を与えてくださり、倒れそうになる場面でも恨みを残さないように歴史を通じて私たちを支えてくださった父なる神であることを知っています。今日、再び自分の誠意と心情を父なる神に捧げるために集まったあなたの息子娘たちがたくさんおります。どうか彼らの心に直接働きかけてください。そして、彼らの心情の上に再び父なる神が御臨在し、彼らの生命に天の生命が接ぎ木されることをお許しください。


今、心に深く刻まれた恨みを抱きながら、敵に立ち向かって戦わなければならない最後の使命を果たす時が来ました。父なる神よ、どうかあなたの力を現してください。生命の権威を持って私たちの前に現れてください。


3


私たちが死を覚悟して父なる神の恨みを解き放とうとするならば、愛の原則を備えて進むことができるようお許しください。そして、生命の主の御前に立ち、敵に立ち向かい戦う勇士となることができるようにしてください。そのようにして、復帰されたエデンの園において、この地上の多くの生命が私たちを見て生きる希望を見出せる生命の基準を備えた子女となれるようお許しくださることを、心から切に願い求めます。


今日まで信じてきた自分自身の信仰を悔い改める心、自らの行動を振り返り悔い改める心、自分が抱いていた希望を反省し後悔する心、自分自身の内なる心情を笑い飛ばすことができる心をお与えください。そして、自分自身のすべてを否定し、父なる神のものとしてすべてを結びつけ、父なる神を呼び求める栄光の場へと私たちを導いてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、三千里半島を憐れんでください。この地は歴史を通じて多くの民族の前で蹂躙された地であり、敵たちに踏みにじられた地でありました。この地の三千万の民族が血に染まった歴史の恨みを抱いていることを私たちは知っています。父なる神よ、この民族の心情の上にあなたの心情が重なり、この民族の事情の上にあなたの事情が重なり、この民族が望む希望があなたの希望と結びつくように導いてください。私たちが苦しい過去を恨むところに留まらず、目の前に迫る天の時を迎えるために心配し、訴えることができる息子娘となれるようお許しください。愛する父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、天的な歴史が残されており、多くの民族に代わってこの民族を探しに来られた父なる神の足跡が、嘆きと悲しみによって引き返される日が訪れないようにしてください。この地が悲しみの恨みを残さず、この民族がそのような悲しみを抱えないようお許しください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


眠りについている27億の人類は、父なる神がそれぞれの心に灯をともして幸福をもたらす時を準備しておられることを知りません。この人類を目覚めさせなければならない使命が私たちにあり、人類の複雑な事情を解決し、新しい理想天国を建設しなければならない使命、福祉を築く使命が私たちにあることを知っています。今日のこの至らない、不完全で不足した私たちがひざまずき、恐れ多く申し訳ない心を抱いています。この時間、訴える心情を通じて、天上から驚くべき恩恵をお与えください。父なる神が現れてくださり、そうでない心情をすべて取り除いてくださり、私たちのすべてが父なる神のものとして結びつけられ、父なる神が私たちを『あなたの後継者だ』と認めてくださる時間となりますよう、心から切に願います。


4


父なる神よ、ソウルに残っている家族たちと地方から集まった家族たちが、あなたの御前に新しい祭壇を築こうとして集まりました。どうか、あなたの幼い息子娘たちを憐れんでください。語りかけ、慰めたい言葉は多くあれど、語ることができない事情をお知りください。悲しい時も天の御心のために、孤独な時もただこのひとつの目的のために、迫害される時もこのひとつの目的のために、落胆する時もこのひとつの目的のために、追われ、追い詰められる切ない心情を父なる神の御前に訴えるしかない事情を抱えた息子娘たちがここに集っています。


今日、心を開いて父なる神と語り合い、すべての事情を父なる神の御前に打ち明け、解決することができるようにしてください。困難だった事情をすべて父なる神の御前において、父なる神が喜ばれる姿となり、『たとえ自分が死んでもこの道のために純粋な生ける供え物となります』と再び誓えるこの時間となるようにしてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


言葉だけで天の御心が成し遂げられるのではなく、誠意だけでも成し遂げられないことを知っています。御心に深く触れ、天のために歌うことのできるその心を懐かしく思います。すべてを忘れ、天のために夢中で走り回るその姿を懐かしく思います。そのような懐かしい心情を抱き、父なる神の栄光を歌えるひとときと場所があるならば、恐れ多い心情で頭を垂れたいと思います。どうか、私たちのこの切なる願いと切なる心情をご存じくださり、この時間、私たちのもとを訪れてくださるよう、父なる神よ、心から切に願い求めます。


どのような道であれ、実際に通ったことのない者はその道を知ることができず、体験していない者の言葉には命がないことを知っています。この民族が悲惨な境遇に追いやられていることも、父なる神の哀れみ深い御心を知らせるためであることを私たちは知っています。孤独な場におられ、悲しみの中にいらざるを得ない父なる神の御事情を知っており、私たちを迫害の場に置かざるを得ない父なる神の無念さと嘆きの御心を知っています。


今日、私たちの心が父なる神のものとなるよう、どうか私たちの心に訪れてください。私たちの心情に父なる神をお迎えし、共に涙を流すことのできる存在となりたいと願い、この場に来ました。過去を悔いるのは父なる神を知ったからであり、過去の出来事が無念に感じられるのも父なる神を知ったからです。そして、私たちが悲しむのも天を知ったからに他なりません。父なる神はどのような状況であっても私たちを受け入れなければならず、私たちは復帰の恨みを残した歴史を恨むべき立場にあります。このような自分自身を悟り、今日も明日も懸命に走り続け、天だけを頼りに進むことができるよう導いてください。父なる神よ、このような私たちの事情を誰よりもよく知っておられることを信じています。この日、すべてを忘れ、自らの心を束ねて父なる神の御前に捧げる、生ける捧げ物となることができるようにしてください。


5


この日、地方に散らばり、ひれ伏して訴えるあなたの息子娘たちの心に、新しい生命の贈り物をお与えください。そして、彼らを荒れ果てた地のような場所へ送り、生命の灯をともすことができるようお許しください。光と栄光の灯として現れる礼拝のひとときとして受け入れてくださることを、父なる神よ、心から切に願い求めます。


事情はそれぞれ異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情を持つことができるようにしてください。心情が異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情に結びつけてください。父なる神よ、このひとときを導いてくださり、父なる神のもの以外のすべてを取り除いてください。そして、三位一体が喜ぶひとときとして整え、あなたにお捧げすることができるようお許しください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>


父なる神よ、私たちが祈りを捧げる前に、私たちの心情をご存じであることを信じています。このひとときが、父なる神が直接臨在される時間であることを知っています。天が私たちのすべてを注視している時間であることを、私たちが感じることができるようお許しください。


労苦に満ちた歴史の道を歩まれた父なる神よ、どうか今日、私たちの目の前に現れてくださり、新しい御言葉で私たちを飾り整えてください。新たな心情で私たちに向き合ってくださいますようお願い申し上げます。不忠なすべてを一掃し、幼子のような心で私たちのすべてをこのひととき、父なる神の御前にお捧げしたいと願います。世の中に染まった一切の意識や主義、観念を父なる神の御前に差し出し、幼子のような心、柔和で謙遜な心を持つことができるようお導きください。父なる神の御手によって再び形作られることを受け入れる謙虚な心を整え、御前にお捧げしますので、どうかお受け取りください。三位一体の神がこの場を導いてくださいますように。


悪魔的な要素を持ち、天に逆らう要素として残るものを、どうか一切お許しにならないでください。勝利の盾を備え、悪魔が侵略する場とならないようにしてください。


6


天の軍勢と天使たちに囲まれる中、喜びの心情でこのひとときを礼拝するこの場が、すべての生命を勝利へと導く祝福の祭壇となるようにしてください。心からお願い申し上げます。


すべてをお任せいたします。私たちの持つすべての主義と心情を父なる神の御前にさらけ出せるようにしてください。そして、私たちのすべてが父なる神のものに変えられるひとときとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈祷 (Ⅲ)>


この時間、頭を垂れるあなたの息子娘たちを憐れんでください。この場で誰が指導者となり、誰が天の御言葉を代行できるでしょうか?この者たちは、父なる神以外の誰も現れることを望んでいません。どうか、父なる神ご自身が直接現れてください。心情を通じて天を体験させてくださり、感じずにはいられない父なる神の御事情を理解することができるようお許しください。また、父なる神の御前で悔い改めずにはいられない心情を持つことができるよう、どうかお働きください。


人間同士が集まる場では、解決しようとしてむしろ絡み合ってしまうことが多いですが、天を中心に集まる場では、心のしこりが解けることを知っています。罪深い子孫のせいで絡み合ったすべてが、根本から解かれる蕩減の歴史、悔い改めの歴史、感動の歴史によって、私たち自身を振り返り、過去を悔い、新しい日を憧れる深い心情を引き起こしてください。そして、その心をしっかりとつかみ、もう一度自らを悔い改める再創造の歴史が起こることを、この時間どうかお許しください。心から願い求めます。


これから御言葉をお伝えしようとしています。この時間、集まったすべての者たちの上に、父なる神の愛と守りの御手を広げてください。語る者の心も聞く者の心も、心情の帰一する一点で動くことを求めます。今日、私たちは身体だけの幸福を望んでいるのではなく、ただ心だけに執着して生きることも望んでいません。ただ、心情をかけて永遠に生きることのできる楽園を望んでいます。日常生活の中でも、心情的な縁のひとつの条件が各自の心の深くから沸き上がり、心情の奥深くに根差す縁が結ばれることをお許しください。父なる神よ、切に願い求めます。


7


父なる神よ、これまであなたの愛する息子娘たちにお与えくださった御言葉は多くあります。この御言葉を中心として心を一つにし、責任と使命を果たすことこそが私たちが進むべき道です。どうか父なる神よ、私たちと共にいてくださり、その歩みの道が遮られることのないよう守り導いてください。この御言葉を通して、父なる神の内なる心情にふさわしい結実を得ることができるようお助けください。さもなくば、与えられた御言葉によって天の御前に後悔を残す息子娘となるのではないかと恐れる者となることを許してください。父なる神よ、切に願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々の上に祝福の恩恵をお与えください。御心を代わりに担い、心情を抱いて天の御前に訴え、隠れた祭壇を築き祈る息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らにも祝福をお与えください。また、天の孤独な心情を抱き苦しむ者、蕩減的な解怨の日を待ち望む霊界の多くの霊人たちも、私たちと関わりがあります。父なる神よ、彼らのためにも私たちを通じて良い結果をもたらしてください。


三位一体の神が私たちを取り囲み、見守り、待ち望むその心情の基準に私たちが不足しているならば、その責任を満たさないまま父なる神を呼ぶことのないように導いてください。私たちの責任が満たされた場で「父なる神よ」と喜びを持って呼ぶことのできる者として、この時間私たちを立ててください。そのような恩恵を持たないならば、幼子のように柔和で謙遜な心を持ち、父なる神の憐れみと慈悲の心情を引き寄せる息子娘となれるよう、この時間導いてください。心からお願い申し上げます。


この日、地方に散らばる家族たちにも祝福をお与えください。多くの命が天の時を憂い、訴えています。どうか彼らの前にも生命の恩恵を許してくださいと、切に願い求めるこの時、すべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。






<御言葉>


皆さんと一緒に考えてみたい御言葉の題目は、「故郷を探し求める人生の道」です。「故郷を探し求める人生の道」という題目でお話しいたします。今日の御言葉は、そのような内容になります。


8


現在、この世界の人類は平和を切望しています。それだけでなく、自由を享受する個人となり、自由な社会、自由な国家、自由な世界で生きることを、誰もが望んでいます。


私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福は存在し得ません。真実の人生の道を歩みたいと願う人がいるならば、その人は真の平和の中で真の自由を謳歌し、真の幸福を享受したいと望むことでしょう。


では、皆さん自身と真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件を比較してみると、どのような立場にいるでしょうか?これが対立しているのか、それとも一致しているのかをはっきりさせるべき時が、終わりの日ではないかと考えます。


今日、優れた人もそうでない人も皆口をそろえて、この世界は平和な世界ではないと言っています。自由を叫んでいますが、心の底から自由を感じて生きられる環境ではないことを認めています。そのため、私たち人間は理念的に望む幸福な自我にはなっていないという事実を否定することはできません。


このような自分、このような私たち、このような社会、このような世界、そしてこのように歩んできた歴史の道、このように歩んでいる現実について、私たちはあまりにもよく知っています。


9


これを認めるならば、私たち自身は、自分が喜びを見出せる故郷の世界で生きているわけではなく、自分が幸福を謳歌できる故郷の園で生活しているわけでもありません。また、自分が考える通りに動き、主導できる本来の世界で生きているわけではないということに、誰も反論できないでしょう。


それでもなお幸福を願い、平和と自由を望まなければならない私たちの心の動きが、自分自身を急き立て、環境を急き立てているという事実を、皆さんは日常生活の中でよく感じていることでしょう。


このように内面的にも外面的にも、私たち人類が望む故郷の世界はまだ実現しておらず、人類がその世界で生きることもできていないため、今日の私たち人類は故郷を求めて彷徨い、苦しんでいるのです。このような状況にある人類であることを、私たちは明確に知らなければなりません。そのため、優れた人であっても故郷を求めて苦しみ、そうでない人もまた同じように苦しんでいるのです。


人間の姿をしているすべての存在は、誰であれ故郷への道を求めてさまよう歴史的な思想の潮流から抜け出すことができていないという事実を、この時間、皆さんは感じるべきです。


そこで今回は『故郷を探し求める人生の道』という題目でお話を進めたいと思います。


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これまでこの地上には、聖賢や賢哲たちが現れ、人々に人生の進むべき道を教えてきました。「このように進みなさい」あるいは「このような主義の中で生きなさい」と方向性を示してくれたのです。その中には、哲学が目指す方向性もあれば、ある権力者が掲げた理念による道もあり、また社会的な倫理観を通じて示される道もあります。さらに外的な世界を引き込んで、そこに永遠の理念を結びつけようとする宗教的な方向性も存在します。大きく見ればそのような道があり、小さく見れば「個人を中心に進むべき道」「家庭ではこうすべき道」「対人関係における在り方」といった方向性もあります。


しかし、これらすべては、全体的で天宙的な理念が目指す幸福の時を準備するために動く位置にあるべきです。そのような位置に立つことができなければ、それらすべては天倫を明らかにし、天の御心を完全に立てるその日には、必ず天倫に違反する立場となるのです。


では、宗教が進む道、倫理を中心とした道、あるいは哲学が目指す真理の道において、どのようにして幸福の世界を紹介し、平和と自由を見つけるべきでしょうか?


人間の心情は、誰もが同じです。数千年前に抱かれていた心情も、億千万年後に現れる心情も変わりません。心情の世界には進化がありません。


同じ基盤で動く心情を引き出し、幸福の園を築くことができる世界、幸福を感じられる社会的基準、幸福感を味わえる宗教的意識、そのようなものがこの地上に存在しないのでしょうか?もし存在しないと断定するならば、神はどこにいらっしゃるのでしょうか?そのような場合、その神は人類と共に存在することができないという結論に至るでしょう。


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しかし、人類を抱えながら摂理を進め、倫理と道徳を立てて善を目指すように導く天倫があるならば、天は必ず私たちと関係し、結びついたすべてを明らかにしてくださるだけでなく、さらに男性も女性も誰であれ、これを心情的に肯定できる日が来るはずです。そのような場において調和し共鳴しながら、この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由であると、声高に語れる時が訪れるべきなのです。それがなければ、神も、どれほど偉大な思想家であっても、私たちとは何の関係もないという事実を知らなければなりません。


私たちが人間を分析する際、内面と外面の両方から分析することができます。同様に、社会の実情を見極める際にも、表に現れる社会の組織と、表に出ていない計画された組織があるということです。このように、すべてのものが内と外の両面から展開されているのです。


人間も同様です。人は外的な事情を持ちながら生きると同時に、内的な事情も抱えて生きています。そのため、お互いに内外の事情が通じ合い、同じ立場で心と心が通じ合い、幸福を歌える環境が必要です。そして、その環境を求めて彷徨うことが、私たちの人生の道のりであると言わざるを得ません。


これまでの歴史の過程で、多くの聖賢や賢哲たちが現れては去っていきましたが、自分の人生の道を歌いながら勝利的なスローガンを掲げ、「万民よ、このように進め」と訴えた人は一人もいませんでした。また、「私を頼りにし、私の心情と共に、私の愛と共に、このように生きなさい」と言った人もいなかったのです。


イエス様も愛について語られましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念については解き明かすことができませんでした。「私についてきなさい、私を信じなさい、私を見つめて進みなさい」とおっしゃいましたが、ご自身の心情を明かし、「私の心情と共に天の情を中心として歌いながら生きよう」とはおっしゃいませんでした。


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そのため、時代を超えて多くの先覚者たちが歴史上に現れましたが、心情を中心に幸福を享受できる内容を紹介することはできませんでした。また、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和合させる喜びの内容を提示することもできなかったのです。


それでは、人類が切望する場所とはどこでしょうか?先ほど申し上げた通りです。それは「故郷の世界」、すなわち一度そこに行けば永遠に戻りたいと思わない世界、何度見ても飽きることのない世界、一度感じた感触が永遠に消えない世界、笑いがあれば永遠に笑い続けられる世界。その世界で主人を見つけたなら、その主人を決して手放したくないと思える世界です。そのような場所が存在しなければなりません。


そのような場所こそ、心情を持つ人間一人一人が住むべき場所であり、そのような故郷が人類歴史の終末期において紹介されるべき場所です。それがなければ、今日のこの世界はどれだけ収拾しようとしても収拾がつかないということです。すべてを説明できるような理念や主義を、論理的観点から打ち立てる必要がある時代が近づいているという事実を、皆さんは理解しなければなりません。そのため、私たちは永遠に生きられる故郷の世界、故郷の地、故郷の兄弟、故郷の家族、故郷の親戚、そして故郷の園を懐かしく思うのです。


では、今日、皆さんの中で『私はそのような故郷を見つけた』と断言できる人がいるでしょうか?いません。だからこそ、私たちは必然的にその故郷を探し求めなければならない運命にある存在なのです。


イエス様もこの地に救い主として来られ、『私についてきなさい』とその道を示されましたが、『私と共に暮らそう』と言える故郷の園を築き、それを実現してから去られたわけではありません。神もまた、人類を導いてこられましたが、今日のこの場で『私と共に暮らそう』とおっしゃるのではなく、『私たちが切望する故郷の園に行き、共に住もう』と言われ、そのような摂理を進めておられるのです。


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神がそのようにされたように、また神の子であるイエス様がそのようにされたように、この地上に生きる今日の私たち一人ひとりも、同じ運命に置かれているのです。


故郷を望みながらもがき歩んでいる皆さん、その日を迎え、喜びを感じたことがあるでしょうか?その日を迎えて『私は幸せだ』と歌った人がいるでしょうか?そのような人は今まで一人もいませんでした。神はそのような日を楽しむことができたでしょうか?神もまたそうではありません。では、その日を迎えさせてくれるような主義があるでしょうか?それもありません。天もそのような日を楽しむことができなかったのです。それが天地の現実なのです。


ゆえに、天地の運命を逃れることができない良心を持つ人間は、共通の目標と理念の下で方向を見つけていく過程の心情を体験することになっています。そのため、皆さんも進めば進むほど幸福への想いは切実になりますが、幸福そのものは皆さんから遠く離れ、さらに遠ざかっていくことを知らなければなりません。皆さんが自由や平和、幸福を心から切望し、それを目指して懸命に進んできたとしても、実際にはそれは掴もうとしても掴めない遠いところで、ぼんやりとしたものとして皆さんの心の世界に映っているだけなのです。


ここで私たちは、どうしても進まなければならない過程の現実を乗り越え、幸福の故郷を歌える存在となる必要があります。そしてその後に、万物と共に調和し、共に歌い、共に幸福を分かち合えるその日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、どのような宗教があってもその宗教の目的です。また、創造主が存在するならば、その創造主も同じ目標の下で人間を導いているのです。そのような摂理の範囲から外れることのできない人間である以上、どのような個人であっても同じ方向に進まざるを得ないのです。


優れた人もそうでない人も、皆が同じ人生の道を歩んでいるこの状況の中で、皆さん、自分が優れていると誇らないでください。その環境が良いと自慢しないでください。その持っている力が強大であると誇らないでください。それらを持ってしても人生の道を解決することはできませんし、故郷の世界を解決することもできません。なぜなら、今日の人類が目指している方向性は、人間によって作られたものであるため、それでは解決されることがないからです。このことを知る必要があります。


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天がこのような立場で摂理を進めてこられたとしても、道理や真理の面で私たちに方向を示してはきましたが、心情を中心として私たちの進むべき方向を教えてはくれませんでした。心情の面で、実生活の中で実感できる幸福、日々の生活の中で肌で感じられる平和と自由を示してはくれなかったのです。そのため、神の摂理は人間にとってこれらを遥かな希望の一点として見上げさせるものとなっていたのです。


このような運命から逃れることができない私たちの立場において、優れた人もそうでない人も、悲しい時も嬉しい時も、一日の生活の中で自由があるかもしれません。あるいは一年の生活の中で感情の自由があるかもしれません。そして、生涯において生活の感情的な自由があるかもしれません。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情、生活、理念、価値観においては、皆同じです。天はそのように見ているでしょうし、そのように見なければならないのです。


だからこそ、この人を見ても哀れに思い、あの人を見ても哀れに感じるのです。この哀れな人類を前にし、その哀れな自分自身の姿を教えることができる人が必要な時代が来ました。「自分自身の哀れさを嘆け、自分の哀れな姿を見て涙を流せ。天と地を抱えて泣け。自分が歩む道の終着点はどうなるのか?移り変わる環境の結果がどのような内容を持ち、目的地に到達するのか?」このような問題を解き明かし、「自分自身のことを憂いなさい」と言える指導者が現れるべき時が来たのです。


これまでの歴史時代において、革命的な新しい文化を創造していく過程で、時代を越え、世紀を越えて、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、「新しい」とされるさまざまなものを持ち込んできた多くの人々は、時代の壁を越え、哀れな自我を解き明かすために努力してきました。しかし、彼らはその時代に影響を与えた使命者であり、特定の時期や時代に必要とされた使命者に過ぎませんでした。


今日の時代は、新しい世界的な主義の時代です。ですから、今こそ世界の人類を取りまとめ、世界人類の模範となるべき存在が必要です。そして、「あなたたちは行くべき場所を知らず、立ち止まっていることを悲しみなさい」と訴える存在が現れる必要があるのです。


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イエス様は2000年前にこの地に来られ、ご自身が神の子であると語られました。しかし、その時、選ばれた民として誇っていたユダヤ人たちは、4000年という長い歴史の中で数多くの預言者の恩恵を受けてきたにもかかわらず、待ち望んでいたメシアが現れたことに気づくことができませんでした。そして、イエス様を十字架に送った後になって初めて、彼がメシアであったことに気づき、悲嘆に暮れる立場に追いやられたのです。


それでは、イエス様を救い主と呼びますが、彼は当時の人類の前でどのような救い主であるべきだったのでしょうか?「あなたたちの悲しみを私が引き受けよう」と自信を持って言える救い主であるべきでした。そのためにイエス様はこうおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負った人は、私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これは感謝に値する、素晴らしい御言葉です。その一言は、人類にとって偉大な先覚者の言葉でした。


悲しい心情を抱え、焦燥感を持ちながら自分自身を解き明かそうと努力している若者たちが、この一言を聞いたならば、手を高く挙げてその前に進み出るでしょう。そして、「2000年前に来られて御言葉を残してくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様を通して御言葉を授けてくださった神様、ありがとうございます」と感謝するでしょう。また、この精神と思想の流れから生まれた御言葉に対しても感謝を抱くことでしょう。


今、私たちには、この世界を担い、この民族を担い、そして心情の問題を引き受け、その重荷を解き放つことのできる一人の主人が必要なのです。このような背景があるために、イエス様は再び来ると約束して去られたのです。


イエス様がこの地に来られて成し遂げられなかったことは何でしょうか?それは、人類のすべての十字架の重荷を引き受けるために来られたにもかかわらず、人類の心情的な重荷を引き受けることはできなかったということです。そのため、今日、全世界の人類は心情的な重荷をイエス様のもとに再び委ねることを願いながら、『主よ、どうか早くおいでください』とイエス様を待ち望んでいるのです。


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だからこそ、歴史的に悲惨な環境に置かれている自分自身、私たちが生きているこの世界、そして流れゆく歴史に対し、「あなたたちの悲しみを知りなさい、あなたたちの哀れな姿を知りなさい、あなたたちの切なさを知りなさい。そして、こうしなさい」と語りかける何かが必要な時が来たということを知るべきです。


私たちは未知の人生の道を歩んでいるため、どこへ向かっているのか、どうなるのか分からないという恐怖が内在する世界の中で生きています。では、私たちが進む道の目的地はどこでしょうか?その道がどのようなものなのか、説明することができないまま、私たちは人生の道のりを歩んでいます。無鉄砲に引きずられるように進んでいるのです。しかし、その道中で岩にぶつかるのか、それとも崖から落ちるのかを知りながら進むべきです。皆さんがそのような状況に直面したら、どのような気持ちになるでしょうか?心がかき乱されるでしょう。


皆さんの中には、40年、あるいは70年、80年の人生を歩んできた人がいるかもしれません。「私は幸福を見つけ、幸福だ」と自慢する人がいるかもしれません。しかし、このような人生の道を突破した人は一人もいないでしょう。だからこそ、私たちは皆、哀れな存在なのです。


それゆえ、私たちは自分のこの哀れな状況をつなげ、世界と通じることのできる哀れな状況を抱えた方を探さなければなりません。また、自分に何か孤独があるなら、その孤独が世界と結びつき、何とも言えない息苦しさやもどかしさが心の中に深く刻まれているなら、その切ない心情が世界と通じる場を探し出さなければなりません。そして、それらすべてを解き明かし、私の不幸、私の哀れさ、私の孤独、私の恨みを引き受けてくださる方を見つけなければなりません。さらに進んで、私が待ち望んでいる理想の世界を紹介してくださる方、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を満たしてくださる方、その心情が永遠性と結びつき、存在するすべてのものと共に堂々と幸福を生み出すきっかけを与える主体となる方に出会えたなら、その人は人生において成功者と言えるでしょう。


悲しい世の中でそのような一時を感じ、体験させてくれる方こそ、イエス様であり、神でなければなりません。私はそれを信じ、知っています。そして、今日の皆さんも、自分が「知っている」と思って歩んでいるその足跡を見直し、避けて通れない時期を乗り越える秘訣を教えてくれる方を見つけなければなりません。


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そのためには、自分が置かれている状況を通過し、自分の抱えている希望の基準を超えて事情を理解し、心情を整理できるだけでなく、その内容的な問題を解決してくださる神であって初めて、安心して信頼することができるのです。


また、そのような心情の理念を備えて歩むことで、苦しい人生の旅路で悲しみに直面しても、その心情の世界から生まれる感情を抑えることができるのです。どれだけ打ちのめされても、さらに強くなり、天を裏切ることのない何かがあるならば、それは心情の絆から生まれる何かであり、それがある限り、地獄の最深部に追いやられても征服されることはないでしょう。そのような場所が必ず存在しなければならないのです。神が人間に対して摂理を進められる方向は、そのただ一つの場所、すなわち本然の園を目指しているのです。


このように、歴史を支配する神の摂理は、数多くの曲折を経てその基準を定めてきました。そして、それに従うべき人間もまた、多くの苦難を経て初めてその基準の前に立つことができるのです。それは、存在するすべてのものが目指すべき一点として、存在世界の中で位置づけられているということを私たちは知るべきです。この道を歩まなければならない私たちは、哀れな存在です。


「故郷」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?故郷には必ず愛する親がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟姉妹がいます。私たちが故郷を離れて遠く異国に行くとき、その故郷の範囲は広がり、祖国、つまり国そのものが故郷となります。また、宇宙や天宙という観点から見るならば、この世界全体が私たちの故郷になります。このように、視野が広がれば広がるほど、故郷の範囲も比例して大きくなっていくということを、皆さんはさまざまな生活の中で感じていることでしょう。


それでは、私たちが望む「本郷」とはどのような場所でしょうか?皆さんが「ここが私の故郷だ」と言うような場所ではありません。本郷、心の本郷とは、心が喜びを見出し、心情の安息所となる場所、心情世界の巣となる場所です。このことを知るべきです。


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私たちは神が人間を探し求める過程を「救いの摂理」と呼んでいます。天が私を見つけ出し、人類を見つけ出すというのなら、私は神にこう言うでしょう。「状況的な条件ではなく、心情的な条件によって私を見つけ出してください」と。それはなぜでしょうか?状況というものは千差万別であるのに対し、心情には唯一の条件しかないからです。このことが、真の信仰観を求める人々の姿勢ではないかと思っています。


イエス様はおっしゃいました。「天国はどこにあるのか?あなたの心の中にある」と。では、自分の本当の本郷はどこにあるのか?それは生活の中ではなく、心の中にあります。天国は心と縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるため、私たちは心を通してその本郷を懐かしむのです。心に感じる感情と共に、断ち切ろうとしても断ち切れない縁が絡み合っているため、その本郷が懐かしくなるのです。だからこそ、私たちの人生の旅路において、本然の心と縁を結ぶことのできる本郷の生活を送らなければなりませんし、本郷の園を感じなければならないのです。


では、そのような場所、今日私たちが住んでいるところではない、歴史が望んできた真の幸福の園とはどのような場所でしょうか?また、真の平和と真の自由を紹介できるその本郷には、誰がいるのでしょうか?考えてみてください。その本郷には誰がいるのでしょうか?そこには、偉大で尊厳に満ちた神がおられるでしょう。また、私たちが待ち望んできた主がおられるでしょう。そして、聖霊がそこにおられるでしょう。また、歴代の摂理史の中で現れて去っていった多くの功臣たちもそこにいるはずです。そうではありませんか?さらに、世界中の誰とも比べることのできない忠臣たち、そして孝子や孝女、節婦たちがそこにいるでしょう。しかし、皆さんが心の縁を広げ、理念的な感覚を持たないならば、その世界と縁を結ぶことはできないのです。


だからこそ、堕落した人生の道を歩む哀れな人間たちに対して、多くの聖賢たちは三綱五倫などの倫理を教え、モーセは十戒を示しました。また、多くの道を歩む者たちも、その一端を切り開くために努力してきたことは間違いありません。しかし、人類が故郷への道を進む上で、心の畑(心田)を開発する使命を持たない指導者、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙から退場させられるでしょう。退場しないと言っても、神が退けるでしょう。


皆さんは故郷を懐かしみ、その故郷を探し求めています。私たち人間が具体的な存在として、遥か彼方の故郷を目指して進んでいるとするならば、皆さんはその旅路のどこかの地点にいるでしょう。地獄の最底辺から天国の最果てまで、その道のりとは何か?それは故郷を探し求める道のりです。この道が故郷を探し求める旅路であることを知るべきです。


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もし皆さんの中に、70歳、80歳になり老いを感じている人がいるならば、自分自身を振り返って、「私は故郷の園からどれほどの距離にいるのか?」ということが心配の中の心配であり、憂慮の中の憂慮であるはずです。それでは故郷とはどのような場所でしょうか?それは、その場所を訪れた人を喜びの腕を広げて迎え入れてくれる場所です。その場所が懐かしいのです。


故郷を探し求める旅路では、不当な事情や痛ましい出来事、あるいは耐えがたい立場に立つこともあるでしょう。しかし、故郷を求めて進む者である以上、そのような事情は必然的にあると理解している人ならば、その道を引き返すことはないでしょう。そして、先祖たちが築いてきた歴史的な功績を無視することもできないでしょう。また、私たちの人生の道を切り開くために努力している指導者たちの功労も無視することはできないでしょう。


私たちは進むべきです。年を重ね、体力が衰える前に進むべきです。私たちは人生の旅路を切り開かなければならない存在です。ここで問われるべきは、「変わらない毅然とした姿勢を持ち、心情と心の中心を備えているか」ということです。この問いこそが、今日の皆さん自身が立ち向かい、答えなければならない中心ではないでしょうか。イエス様もこれを指摘して、『天国はあなたの心の中にある』とおっしゃいました。


本郷、それは懐かしい両親がいて、懐かしい兄弟がいて、懐かしい山河がある場所です。私たちが本郷を懐かしく思い、そこを目指して進むならば、喜ばない存在物は一つもない場所です。その場所を目指して歩む自分自身を振り返ると、「今日の私の生活は何と哀れなのだろう」「今日の私の人生の道は何と惨めなのだろう」と感じることでしょう。しかし、本郷を目指して進む道中である以上、無念さがあり、悔しさがあり、涙を流しながら生死を分ける決断をしなければならない瞬間があるとしても、本郷を想うその心を忘れて倒れてはいけません。これが私たちの人生の道であることを忘れてはならないのです。


すべての聖賢たちは、本郷を目指す道中で心と理念の世界をさまよいました。彼らはその世界を見つけるために、まず人間的な事情をすべて捨て、人間社会で情によって結ばれていたすべての環境さえも断ち切り、もがき続けました。私たちの先祖たちを挙げるまでもなく、天を代わって歩んだ預言者や聖賢たち、さらにはこの問題を解決し本郷を探し当てることを目標として来られたメシアであるイエス様も、この道を歩むために苦しみ抜きました。


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イエス様は、反対されて押しのけられていたわけではありません。反対や迫害が恐ろしくて静かな山河を訪れ祈りに逃げたのでもありません。ローマの圧政が怖くて、十字架の道が恐ろしくて、自らが歩むべき人生の道を引き返そうとされたのではありませんでした。イエス様は、必ず行かなければならない人生の旅路において、どのような状況においても進み続け、どれほど哀れな立場に置かれても進まなければならないと覚悟された方でした。


イエス様は、このように本郷の心情を感じ、本郷の事情を理解された方でした。そして、本郷が歓迎する主人公としての役割を果たさなければならないメシアだったのです。ですから、イエス様は本郷が懐かしくなればなるほど、その心の世界で本郷の世界が近づいていると感じれば感じるほど、悲惨な心情を耐え忍んで歩み続けられたのです。もし敵や悪魔がいるとするならば、この道を進む過程で最終的な決戦があることを私たちは知らなければなりません。


だからこそ、故郷への道を目指さなければならない世界的な新しい理念世界に直面している民主陣営の前には、望まない敵の槍や剣が立ちはだかることでしょう。しかし、それがどれほど妨げとなったとしても、民主陣営は天と地の運命の方向に従い、勇敢に進まなければなりません。


したがって、今や民主陣営は世界的な決断を下さなければなりません。一つの国家も決断を下さなければならず、民族や社会の機関だけでなく、一個人もまた決断を下すべきです。そして、故郷への道を進むにあたり、自信を持てる姿を備えなければなりません。天もそのような人を求め、またそのような家庭、社会、国家、そして世界を求めてきたことは間違いありません。


私たちが待ち望む再臨の日が来るとしましょう。理想が実現するその日が来るとしましょう。その日はどのような日でしょうか?傷つき、追いやられ、疲れ果てた足を引きずりながら、天の情を求めて故郷への道をもがきながら歩むその姿を見て、天はどのように対応するでしょうか?


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皆さん、考えたことがありますか?私はこんなことを考えました。「哀れなお父様が笑顔になれるその一瞬を見たい。私が慕い、しがみつきたかったその心情を理解し、私を抱きしめて共に涙を流してくれるお父様に会いたい」と。その時、その心はどのようなものになるでしょうか?


人生の道を歩む中で、他の誰よりも悲惨な環境で傷を受け、不当な扱いを受け、無念さを感じながら、それでも自分のためではなく、父のために、故郷を求めてその道を歩み続ける人がいるならば、天はその人を抱きしめて共に慟哭するでしょう。


私たちは故郷を求めて彷徨っています。進まなければならない運命の道のり、避けて通ることのできない過程にとどまっている存在です。どれだけ自分が賢く、優れていると豪語する人がいたとしても、『万民よ!全宇宙よ!私の言葉に従え』と堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。


では、今日、この人生の旅路で故郷を目指す足をどこに向けるべきでしょうか?そこは、真実の愛の父母がいて、真実の愛の情を分かち合える巣のある場所です。その場所が、私たちが留まるべき場所であり、私たちが安息を得るべき場所です。また、その場所が、幸福と希望に満ちた平和の世界であり、自由の園となるでしょう。皆さんがその場所を慕う心が強くなればなるほど、この地に対する怒りや憤りの心が大きくなるでしょう。そして、『地上において清らかに生きよう』という決意が強まるはずです。過去の歴史的な偉人たちは、皆そのように生きた人々でした。


今日でも、世間では失った親を探すために千里の道を遠いとは思わずに駆けつけ、愛する人に会うために万里の道を厭わずに探し求める人がいます。そのような人々に比べて、もし皆さんが故郷の園を探す思いに欠けているならば、反省しなければなりません。皆さんの人生の中で、ある時、ある一瞬、ある一期間でも、故郷の道を探して彷徨ったことがありますか?もしそのような思いに無責任であるならば、そうではいけません。


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その道に責任を持ち、その道に責任ある生活の一部を刻むことができてこそ、故郷の歴史を再創造し、故郷の摂理の意図を立てていく天倫の前に、面目を立てることができるのではないでしょうか?そのように歩んだ先祖たちは歴史的な人物となり、そのように歩んだ道主たちは宗教を形成することができたのです。ですから、今日の私たちも故郷の父母を慕い、故郷の山河を懐かしみ、故郷の家庭を恋い慕い、故郷の世界を懐かしく思わなければなりません。そのような時が訪れたのです。


今日の共産主義者たちは唯物史観を中心として世界的な故郷を夢見ていますが、それでは解決できないということです。


皆さん、外的な事情が通じる世界ではなく、内的な心情が通じる世界で出会った人は、その人が黒人であれ白人であれ黄色人種であれ、永遠に手放したくないと思うものです。そのような世界の人に出会い、そのような場所の人を見つけたなら、食べることや着ることを超越して、その感情の中で生きることができるでしょう。


どのような理想主義があるとしても、その主義を通じて、またどのような思想があるとしても、その思想を通じて、どの程度まで感情に深く影響を与え、人を動かす力を持つかによって、その主義や思想が評価され、判断されるのです。


キリスト教の偉大な点は、イエス様を信じた後に心情をさらけ出し、涙を流して通じ合える感情が湧き上がるところにあります。この感情が歴史の過程においてキリスト教の形態を変革してきたのです。キリスト教が変革の段階に入るためには、心情を通じる人が必要であり、また、その人が変わらない心情の中で動くことのできる感情、すなわちキリスト教主義が必要だったのです。


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どのような思想家でも、ある思想に感化され、自分の生活感情を支配し、瞬間を超え、時間を超え、永遠を基準として動くことができる感情を見つけたならば、彼は幸福な人と言えるでしょう。それは天地の歴史観において合格者であり、天倫を動かす天情観においても合格者であると言えます。


ですから、世界的な理想世界を求めて歩む人がいるとすれば、その人は地上の心の世界に安住することはできないのです。歴史を越えて進む旅路において、その人は安らかな生活を送ることができません。偉人たちの人生を見てみてください。すべて同じです。


このように考えると、霊界におられるイエス様もまた哀れな方です。霊界におられながらも地上を抱えて『お父様、地上の人間たちをお許しください』と祈られる哀れな方です。なぜイエス様が神に栄光をお返しする存在ではなく、祈り続ける存在であるのか。それは、地上で歩むべき人生の道をすべて歩み切ることができず、再び来られる運命に置かれているからです。だからこそ、天国ではなく楽園にとどまっておられるのです。


イエス様は神の御心を中心としてご自身だけの心情の中でその喜びを感じることはできましたが、人類と共にその喜びを分かち合うことができなかったことが、イエス様の深い恨みなのです。


では、再臨のその日は何が異なるのでしょうか?それは、神の御心を中心として、人類が自らの心情と共に天に対して喜びを感じる時間を持つことができる点が異なるのです。このことを求めて歩んでおられるのがイエス様の事情であることを、皆さんは知るべきです。


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では、今日の皆さんは、自分の心の世界の中でそのような面を探し求めたことがありますか?『私はたくさん学び、知識が豊富だ。この程度であれば、どこへ行っても困ることはなく、教師として尊敬され、威厳を示すことができる』と自負する人がいるかもしれませんが、大きな声で誇らないでください。


また、『私は学がなく、無知でみじめな存在だ』と言う人がいるかもしれませんが、人生の旅路においては皆同じです。優れていようと、そうでなかろうと、差はありません。


なぜでしょうか?人間が心情を基盤にして動くという点では、皆同じだからです。大統領が子どもを愛する心と、一介の労働者が子どもを愛する心は何ら変わりありません。むしろ、立場の低い人々の方が子どもや配偶者を愛する心が強いことを知るべきです。彼らは自分に対して不足していると感じる心がより強いのです。自分が親としての務めを果たせていないから申し訳ない、夫としての責任を果たせていないから申し訳ない、という心を持っています。しかし、自信満々の人々は、『私はやるべきことをすべてやっている』と言います。


心情的に見たとき、どちらがより高い心情と言えるでしょうか?むしろ立場の低い人々の方が、より高い心情に立つ可能性があるのです。ですから、人生の旅路において誇るべきではありません。


そうした点で、皆さんはその縁と共に、本来の心情と共に、何かを感じ取り、『ありがとうございます』と感謝しなければなりません。イエス様もそのように歩むようおっしゃいました。また、いつも祈りなさいともおっしゃいました。なぜ、常に祈りなさいとおっしゃったのでしょうか?それは、道を外れてしまうかもしれないからです。昼も夜も確信を持って正しい道を歩める人には祈りは必要ありません。祈りは必要ないのです。


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イエス様がゲッセマネの園で祈り、オリーブ山を訪れて孤独な心情を天に訴えたのは、何のためだったのでしょうか?それは、イエス様がこの地に来られた目的である心情を中心に、人類と共に喜びを分かち合うことができたならば、ゲッセマネの園を訪れ、天に訴える必要はなかったでしょう。しかし、それが実現しなかったのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?


故郷を求めて歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持っている人がいますか?もし確信を持ち、心情に浸りながら進むことができる人がいるなら、その人は前に出てみてください。それこそが審判であり、もし神がいらっしゃるならば、審判の日にそのような人を召喚するのではないかと思います。


人生の道を歩む中で、自分に確信を持ち、心情に浸って進んでいった人は、歴史がその人を支持します。イエス様もまた、自分に確信を持ち、神の御心に浸りながら生き、最終的には十字架を背負っていかれました。民族的にも、その民族の運命と進むべき方向を理解し、自分がその責任を果たすために命を賭けて進んだ人々は、忠臣や烈士と呼ばれました。歴史の流れがそのような人々の動きによって進んでいることを否定することはできないのと同様に、天情を求めて進む道もまた同じです。


このような故郷を懐かしく思う心を、誰が止めることができるでしょうか?心から湧き上がるその懐かしさを、誰が抑えることができるでしょうか?どれほど知識を持ち、多くのものを備え、自信に満ち溢れている人であっても、心から心へと新しい何かを目指すこの心を拒むことはできません。


そのような感情を持たない人には、理想的な感情を内包することはできません。そのような感情を切に待ち望み、その感情に浸りながら語る人だけが、今日のどのような主義や思想であっても導くことができるのであり、そうでない人はそうすることはできません。


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では、人類の前に立つ指導者とはどのような人でしょうか?その人は人生の旅路において、自分自身に確信を持つべきです。その確信は、人間の前でだけではなく、神の前で、そして被造物のすべての前でも、自らを立て、神の心情に浸りながら進むことのできる人でしょう。


そのような心情に浸る人がいるならば、誰もがその人のもとに行き、寄りかかって安らぎたいと願うでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰もがその人を崇拝したいと思うでしょう。それは、本然の心情の発露として、そのような道を進むことが運命であると感知し、その道が必ず進むべき旅路であることを知っているためです。心は常にその方向を目指し、動かずにはいられません。そのため、皆さん、落胆しないでください。そして、誇ることもしないでください。


同じ人生の道を歩む中で、悲惨な姿を見せている哀れな事情を理解し、私たちの同胞がその道で倒れるのを見て涙を流す人は、天に近い人です。兄弟たちが人生の旅路で挫折するのを見て、『お前はいつ来るのか』と心を痛める人がいるならば、その人は心情の指導者でしょう。今日の信徒たちはそのような指導者を、羊たちはそのような牧者を求めています。


そのため、イエス様は人間を見て涙を流されました。『私のもとに来なさい』と涙を流しながらおっしゃいました。また、エルサレムを見て嘆かれました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏がひよこを翼の下に集めるように、私はお前たちの子らを集めようとしたが、お前たちはそれを望まなかった」(ルカ13:34)と、ご自身の悲しい心情を訴えられました。


今日、この民族を抱きしめたいと願う青年男女はいますか?この民族が進むべき道を切り開き、ある目的地に近づけようとする使命感を抱き、それに対する責任を感じている人はいますか?そのような人がいるならば、その人は、この民族が苦しんでいる現実を見つめ、イエス様が天に向かって訴えながら流された涙が、この民族を支え、今日まで歴史的な縁をつなげてきたという事実を知るべきです。そして、その人もまた、イエス様のように、この民族のために天に向かって訴えなければならないでしょう。


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今日、歴史的な潮流もまた、未来の民族の展望も同様です。人類が天理的な時代を待ち望んでいることを否定できないのであれば、その過程で私たち自身もまたもがき苦しむ存在であることを知るべきです。したがって、自分が歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持つ必要があります。それがなければなりません。


その確信を持ち、希望の故郷を懐かしむ心情に深く浸りながら走り続ける人がいるならば、その人はこう言うでしょう。「山よ、遮れ。海よ、立ちはだかれ。敵よ、現れよ。私の進む道を誰が阻むことができるのか?」と。迫害の風が吹いても、それは一時的なものです。試練の矢が飛んできても、それも一時的なものです。死の恐怖が襲ってきても、それも一時的なものと理解し、その一時を乗り越えるために走る人、さらなる大きな一時を見つけるために自分の小さな人生の一時を忘れて駆け抜けることができる人、それこそが人生の旅路における成功者です。その通りではありませんか?


先ほど述べたように、皆さんが歩むその姿を見て、神が涙を流されることが必要です。そして、イエス様が十字架にかけられて亡くなられた時、なぜ神が顔を背けられたのかを知るべきです。それは喜んで顔を背けられたのではありません。死の道を進みながらも故郷の御心を思い、故郷の父母を気遣い、孝行を果たせないことを恐れるイエスの心情、それに対する天の深い痛みが、骨の髄にまで染み渡る瞬間だったからこそ、神は顔を背けられたのです。そうではありませんか?


そのようなイエス、その心情の究極点が天地を貫く基準に立ったため、死の境界を乗り越えて復活されたのです。皆さんも、そのような心情が動かなければ、死の世界を振り払い、勝利の歓喜を歌うことはできず、勝利の王者となることはできないということを知るべきです。


今日、そのような方をお迎えしようと考えるならば、私たちはもがき続けなければなりません。そのような感情、そのような心情に結びつき、それに浸ることのできる一貫した生活内容を持っていないならば、私たちはもがき続けるべきなのです。歴史の旅路を歩んできた多くの先祖たちももがきました。歴史を導いてきた神もまたもがき続けてこられました。それなのに、私たちがどうして動かずにいられるでしょうか。


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その道を切り開くために、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)もし安楽な場所で、すべてが整う天の摂理であるならば、このような言葉は不要ではないでしょうか。


苦しい人生の道を歩んでいく中で、自分では正しい目標に向かって進んでいると思っていても、実際には逆の方向へ進んでいたということです。これが天の悲しみなのです。親が望む方向はこのようなものなのに、子が放蕩者となり、反対方向へ進んで苦しむ姿を目の当たりにする親の心情を知らなければなりません。そのような子どもの姿を見つめる親がいるならば、その親は慟哭することでしょう。


今日、歴史の流れの中で、人間を中心に進んでいく方向、人間たちが進むべき方向は、天が目指している方向ではなく、その反対の方向です。そのため、天はこのような人間たちを引き戻すために、彼らの進む道を阻むことを何度もしてこられました。見てください。神はノアを立てて家庭的な基準を確立し、家庭の正しい理念を探そうとされました。そして、神は人類を滅ぼす覚悟であっても、誤ったすべてのものを阻止し、天が目指す方向にノアの家庭を導こうとされました。しかし、ハムの失敗によってその家庭を完全に取り戻すことはできませんでした。


アブラハムはどうだったでしょうか?故郷を探し求めるために選ばれたノアも哀れな存在でしたが、祖国の地、カルデアのウルを離れ、祝福の地であるカナンを目指して彷徨ったアブラハムもまた哀れでした。そうではありませんか?アブラハムだけではなく、ヤコブもモーセも同じです。しかし、本然の民族を回復するためにモーセをエジプトから荒涼たる荒野へと追いやった神の心情はどうだったでしょうか?


モーセの生活以上に、より深い痛み、より大きな無念、そして嘆きに満ちてイスラエル民族をエジプトから追い出した神の心情を誰も知りませんでした。一体誰がそのような神の心情を理解していたでしょうか?さらに、民族を導いていたモーセが神の心情に浸り変わらずに進んでいたならば、岩を二度打つことはなかったでしょう。しかし、モーセが天の心情を通じることができなかったために、彼自身が民族の道を阻む要因となったという無念の事実を私たちは知っています。


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本然の家庭を見つけるために神が追い出されたノアも、祝福の地を確立するために追い出されたアブラハムも同様です。


では、故郷の地を恋しがったヤコブはどうだったでしょうか?エジプトで死が近づいたとき、彼は自分の骨を故郷の地に埋めてほしいと遺言しました。それほどまでに故郷の地が恋しかったのです。死んだ後も、敵の地にその体が腐り流れ出ることすらも許したくなかったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を深く感じていたのがヤコブだったということを知るべきです。


再びモーセに目を向けてください。本然の民族を探し求めるためにモーセを追い出された神は、彼を通してどれほどその民族を導き共に生きたかったことでしょう。しかし、モーセはその願いを成し遂げることができませんでした。


全人類に故郷の家庭を取り戻し、山河を取り戻し、その地に民族を築き、国家を建て、世界を回復させようとする神の御心が、選ばれた人々によって果たされず、失敗したとしても、その御心はより大きな範囲で条件的な縁を結びながら進んでいくということです。その結果、本然の民族を探し求めようとする神の御心は延長されても、天はこれを収拾し、本然の国家を建てるためにメシアを送られました。しかし、そのメシアはどうなったのでしょうか?


イエス様は、民族を中心として神が主導される国家の形態を整え、天の主権をこの地上に確立したいとどれほど切実に願われたことでしょう。しかし、民族の責任者として来られたイエス様をイスラエル民族はどのように扱ったでしょうか?彼を中心に一つの本然の国家を建設し、悪魔に向かって行進する天軍となり、神の精兵となるべきであったイスラエル民族はどうだったのでしょうか?

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御言葉選集6(11)

2024年11月23日 15時00分15秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 11. 慕わしいエデン(1959年6月28日)
1959年6月28日(日)、元本部教会。
創世記 2:1-25

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<祈り(Ⅰ)>
本然の姿を見ることができる本然の人が天地間に存在しないということが、父なる神の嘆きであったことを、私たちがこの時間に感じられるよう許してください。父の本性を受けた人間たちであるにもかかわらず、父なる神が彼らと共に喜びを分かち合う一日を自ら持つことができなかった父の悲しみを、この時間に私たちが考えられるよう許してください。さらにその悲しみを私たち自身が直接体感することができる時間となるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


偉大な理念を抱き、喜びの園を夢見ておられた父なる神の御前に、悲しみの嘆きを与えてしまった人類の祖先の過ちをお赦しください。そして、その希望を再び取り戻すために、苦労と困難の歴史の路程を歩ませることになった、これまでの私たちの先祖たちの誤りを、再びお赦しくださるよう心からお願い申し上げます。


あなたが千秋の恨みを払いのけ、勝利をもってその理念を成し遂げられることを私たちは知っており、また信じております。その働きのために、私たちは自分のすべてを捧げ、忠誠を尽くしたいと願っております。どうか、父なる神よ、その心と思いを導いてくださり、勝利の基準を成すことのできる息子娘の姿となるようお導きくださることを、切に願い、求めます。


私たちが一週間の間に過ごす中で、父なる神の御旨と御心、そして御理念に対して切なる思いを抱くことができなかった生活がありましたら、どうかお赦しください。父の御心と通じたいと切に願っておりましたが、それが一致し得ない基準にある私たちを、どうかお赦しいただけるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


歴史の路程を歩まれながら先祖たちのために嘆き悲しまれた父なる神の御心を知る私たちが、この終わりの日を迎えるこの時において、先祖たちの過ちや人類全体の過ちを私たちが責任を持ち、父なる神のその御心を慰めることのできる最後の真実な息子娘となることをお許しください、愛する父なる神よ、心からお願い申し上げます。不忠実で不完全な者たちではありますが、この朝、父の御前に礼拝を捧げるためひざまずき、伏して祈りを捧げますので、どうか顧みてください。


2


もし私たちの心に、父なる神の御前に正しくない主義や主張、観念、あるいは認識を抱き、お父様を計り知るような心があるなら、そのすべての心を取り除いてくださり、それらを許さないでください。父の御心とともに喜び、父の御心とともに体感することのできる感化の心と憐れみの御心を、この礼拝の一時間、私たち全員の心と体に表してくださるよう切に願い求めます。そして、天におられる無数の聖徒と天軍天使が私たちとともに喜び、その歓喜の栄光を父なる神の御前にお返しするこの時間としてください。


本然の園で悲しみを体感された父なる神が、私たちを通して解怨され、私たちを通して慰めを受けられるこの礼拝の時間となることを願います。足りないながらも私たちの誠の心を父の御前に束ねて捧げたいと思いますので、初めから終わりまで悪魔が入り込むことのない時間となるよう導いてください。勝利の盾をもって、父なる神よ、私たちを導いてくださり、燃える炎のような目で私たちを顧みてください。


私たちの心性から正しくないすべての根性を取り除いてくださり、その場に本然の心情を呼び覚ましてくださり、父なる神とともに活動することのできる喜びの礼拝の時間となるよう導いてくださることを、切にお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


シオンの園を失った人間たちが再びシオンの地を取り戻さなければならないという苦難の歴史が残されていることを、私たちは骨身にしみて感じております。本然の心情を持つ真実な人々が生きる地となっておらず、本然の心情の痕跡を地上に築くこともできません。どうか、彼らを支えながら本然の世界を夢見て戦っておられる父なる神の悲しい御心を、この時間に慰めることのできる息子娘となれるよう許してください。


父なる神よ!私たちは、父の悲しい歴史の路程を思い起こすとき、恐れを禁じ得ません。また、苦労される父の御姿を目の当たりにするとき、恐縮の念を抑えることができません。この私たちが自らの身と心を捧げ物として差し出し、父の労苦を少しでも和らげ、終わらせることのできる息子娘としてお立てください。どうかお願い申し上げます。


3


あなたは喜びを感じ、喜びの場で解放の歌を歌う勝利の日が早く来ることを待ち望んでおられましたが、その解放の目的を成し遂げるのは、あなた自身ではなく、死の権勢に苦しむ不孝な私たち人間でなければならないという事実を、私たちは理解しております。


このように重要な立場に置かれていながらも、自らの価値を知らず、死の路程で苦しんでいる人類をどうかお赦しください。そして今、私たちに本然の心情を回復するための新たな旗印を掲げ、父なる神の栄光の御心を賛美する切なる心を起こさせてください。本然の性相と本然の形状を備え、真の息子娘の姿を備えて、父の解放を歌うことができるようにしてください。


これが私たちの永遠の願いであることを、父なる神はご存じであられると信じております。お父様、勝利の日が来ることを知っている私たちが、悲惨な境遇で呻いているこの民族に代わり、頭を垂れてあなたの御前に祈ります。どうか勝利の基準の場に私たちを導き、あなたが託されたい大きな御旨の前に、捧げ物となることのできる私たちとなるよう、導いてくださることを切に願い求めます。


今、私たちは父なる神の御前に集いました。この時間に私たちの心を開かせてくださり、私たちの体のすべての事情を解き放たせ、真実な心情から湧き出る切なる思いを持って、お父様を慰めることができるよう許してください。そして、お父様に向き合い、謙虚に頭を垂れる心情の動きがこの時間に表れるようにしてください。私たちが過去を悔い改め、現実を振り返り、父の聖なる恩恵を慕う切なる心を起こさせてくださり、その心を父なる神ご自身が導いてくださるようお願いいたします。今、新たな感覚と新たな触感を起こし、新しい方向を取らなければならない自分であることを悟る一時間となることを許してください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの不足している誠を束ね、この一時間に生ける祭壇を整えることを許してください。私たち一人ひとりが勝利の捧げ物とならなければならないということを私たちは知っています。どうか、父の御前に正しくないすべてのものを取り除いてください。そして、お父様、御力の御手を広げて新しい再創造の権能をもって働いてください。父以外のすべてを取り除くことのできる本然の再創造の性相を備えてくださり、形状を整えてくださることを、父なる神に心からお願い申し上げます。


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今、父なる神よ、眠っている三千万の民を目覚めさせてください。そして、苦難の中をさまよっている27億の人類を、父の御手の中にお納めくださり、彼らを一つの場所に導いてください。父の本郷の園、お父様が理想とされる善の園へと彼らをお連れくださるようお願い申し上げます。どのような迫害や困難を乗り越えてでも、この人類を早くお父様が望まれる園へと導いてくださることを切にお願い申し上げます。


そのためには、父なる神よ、人間が実践しなければならない責任があることを私たちは知っています。どうか、お父様、愛する息子娘たちに命じてください。残された罪の地と、残された民を探さなければならない責任があるのならば、彼らを奮い立たせ、命令してください。勝利の園を建設する天の精兵として、働き手として、お父様が望まれる場所へと命じて送り出せる時間を、この一時間に定めてくださるよう、切にお願い申し上げます。


父なる神よ、この日も孤独なあなたの息子娘たちが集まり、訴えるその場所ごとに、あなた自らが栄光と愛の御手を差し伸べられたことを、彼らが感じられるようにしてください。そして、心を尽くし、一つの祭壇に一つの心情を集め、一つの形として捧げることのできる時間としてください。多くの民族を代表して集まっている多くの教団にも祝福を与えてください。勝利の日が成し遂げられ、父の喜びが回復された喜びの地となることを、心から願い求めます。今、私たちのすべてをお委ねいたします。


今、父の御旨に反するいかなるものがあれば、それが悪魔が入り込む条件となるのではないかと心配せざるを得ません。お父様、悪魔が入り込むすべての条件を取り除いてください。御力の恩寵によって、このすべてを抱きしめ、父自らが命じ、そして抱きしめてくださることを、切に願い求めます。


最初の時間から最後の時間まで、すべてを父の御ものだけで導いてくださることを心からお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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<祈り(Ⅲ)>


父なる神よ、真実な心を持つ人がいるならば、本然のその世界を恋しく思わない人はいないでしょう。また、真実な体を持って生きる人がいるならば、本然のその世界の生活を懐かしく思わない人はいないことを、私たちは知っています。


堕落する前に、直接父なる神に向き合うことができた本然のアダムとエバの姿、天が生まれ、地が生まれ、万物が生まれた後に、最初に人間として創造されたアダムとエバの姿、その姿がどれほど父なる神を喜ばせたことでしょうか。父なる神に向き合う栄光の場にあった私たちの先祖たちのその姿が、どれほど尊いものであったことでしょうか。


今、私たちが心を込めて本然の世界を慕い求めることのできるこの時間をお許しください。父の御心に直接響く善の心情をひどく恋しく思い、父の御手をつかむことのできる本郷の善の姿をひどく懐かしく思います。本然のその先祖を恋しく思うことのできる私たちとなることをお許しくださるよう、心から願い、求めます。


心情の世界には歴史的な距離もなく、時間や空間の限界もないということを、私たちは地上で生きながら知っています。それなのに、無限の愛の心情によって生まれた本然の祖先のその姿、本然の私自身の姿を、死の権勢の中で眠り、方向を失い、さまよっている私たちが恋しく思えるように許してください。そのような私自身の姿を恋しく思い、止めどなく涙を流し、私を創造された父なる神を求めてさまよう姿を許し、焦燥感に駆られるような姿であっても、その世界の雰囲気、その世界の環境、その世界の万物、その世界の万象と調和できる美そのものが、今この瞬間、私たちの体と心に体感されることをお許しくださるよう、心から願い求めます。


地上に生きるすべての人々は、それぞれが自分が優れていると言い張りながらも、お父様が望まれた本然のその姿を備えていないままで、自分を表そうと必死になり、自分を高めようと苦闘しています。そのような人類を前にした父なる神の悲しみは、天に届き、地に届き、一つの主を失った万物さえも嘆きの中にとどまっていると、言葉は伝えています。そして私たちもまた、その事実を知っています。父なる神よ、今日、私たち自身がこの嘆きの中から抜け出し、お父様を解怨させるべきであるということを知らずに生きる者とならないようにしてください。


6


父なる神よ、私たちはあなたを呼び求めるとき、堕落の歴史の路程で苦労されていたお父様を呼び求めることは喜んで行ってきました。しかし、堕落の悲しみを感じることなく、善の園で喜ぶことのできる本然の父なる神を思い描くことはできませんでした。そして、そのお父様を探し求めてさまようこともありませんでした。真の救い主を信じることにおいても、私たち人間は十字架にかけられたイエスを真の救い主と信じましたが、十字架の苦難を受けることなく、苦痛や迫害を受けることなく、栄光の主として顕現するイエスを中心として信じることはできませんでした。この私たちの過ちをお赦しください。


父なる神よ、今日、私たちに本然のその存在とともに、本然のその理念、本然のその善を中心として生きる調和の世界を恋しく思う心があふれ出ることを許してください。本然の心情をもってお父様を呼び求めることのできる喜びの場を許してください。私の父なる神よ、心から願い求めます。


罪が地を染めたその日から、6000年の歴史が巡り巡ってきましたが、悲しみが止む日もなく、今に至るまで歴史の嘆きが重なり続けているという事実が、私たちの祖先の過ちによるものであることを私たちは知っています。歴史的な悲しみを脱し、悲しみから解放されなければならないこの哀れな私たちの身の上を、父なる神よ、どうか知っていただき、私たちを慰めてください。


お父様、力のない手を支えなければならないあなたの事情が残されており、弱い者たちを急き立て、強い勝利の軍隊と勝利の将兵を作らなければならないあなたの悲しい事情が残されていることを私たちは知っています。どうか今日、私たちを戒めてください。善の御言葉で、真実な心情で私たちを諭し、それでも聞き入れないなら、むちを取ってでも私たちを打ち、お父様が使うことのできる働き手として、また使い走りとしてでも役立てる姿へと私たちを立たせてくださるよう、心から願い求めます。


エジプトでさまよっていた60万のイスラエルの民を導きたいと願ったモーセの心情を、私たちが理解できるようにしてください。モーセが切なる心情をもって民に接していたという事実を、私たちが知ることを許してください。今日、世界に散らばる「第二イスラエル」の祝福を受け継がなければならない世界のキリスト教徒たちが、まだ残されているカナンの福地を目指していることを知らせなければならない責任が私たちにあることを理解しています。この使命を果たさなければならない責任が今日の私たちにあると知っております。父なる神よ、残された恨み、残された憤り、残された痛みが私たちの身と心に深く刻まれることを許してください。


7


たとえ、この体と心が百回死に、千回倒れることがあったとしても、父なる神の敵に報いるという天の節操を持つあなたの息子娘となることを許してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、召命を受けて進み出てみると、十字架の路程がまだ残されていることを知りました。この困難な道を自ら進もうとする孤独なあなたの息子娘たちです。どうか、彼らの心の友となってくださることを願い求めます。


父なる神が永遠に永遠に私たちの中心であられるとき、私たちの体と心もお父様を見習い、不変の中心存在としてお父様に代わることができるという事実を知っています。どうか今、私たちの体と心を、父のものとして再び取り戻してくださるよう願い求めます。


私たちにはすでに覚悟した決意があります。この決意とともに戦い、この決意とともに生き、この決意とともに倒れることのできる、あなたの息子娘となることを許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


今日、この時間、孤独な家族たちに向かって御言葉を伝えようとしていますが、何を話せばよいでしょうか。どうか、父の御指示を心に感じたそのままに伝えることができるよう導いてください。そして、それを受け入れることのできる天の捧げ物となるよう許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


8


今、私たちの体と心を父なる神のものとして認めてくださり、お父様が取り戻され、お父様がご覧になる際に反するいかなる罪悪の憂いが残っているならば、それをお父様が三位一体の栄光をもって取り除いてくださり、悪魔が入り込む時間とならないように導いてくださることを、切にお願い申し上げます。


私たちが子どもの心に立ち戻り、知っていたすべての主義や主張を取り除くことができるようにしてください。そして、私たちが感じ、体感してきたすべてを取り除いてください。子どもの心情に戻り、慕う心、敬愛の心情に浸り、父の御言葉に導かれることのできるこの一時間となるように導いてくださることを切にお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしたい御言葉の題目は「恋しいエデン」です。「恋しいエデン」という題目でお話を進めたいと思います。


堕落のなかった本然の園、すなわちエデンの園を思い浮かべるとき、誰もが連想するものは何でしょうか。それは、神です。神が連想されるとともに、神が6日間の創造を終え、祝福されたアダムとエバが思い起こされます。また、神を中心として、罪のない本然の私たちの祖先がいたということが思い出される一方で、罪悪の侵害を受けなかった万物も連想されます。


万物が存在するのは人間のためであり、人間が存在するのは神のためである、ということを考えてみると、人間は天を中心とする存在にはなれず、万物も人間を中心として調和するものにはなれなかったというこの事実は、エデンを思い浮かべる私たち人間にとって、非常に大きな悲しみであり、嘆きであり、また恨みとして、今日の私たちの心と体を捕らえています。この事実は、誰も否定できないでしょう。


9


本然の世界、本然の園で生きていた私たちの祖先と、その祖先を抱え、善だけを中心に動いておられた神について深く考えるとき、私たちは、その神と現在の私たちがあまりにも遠い距離に置かれていることを認めざるを得ません。そして、その神と共に、どのような最高の善ともつながろうとする切なる心情があればあるほど、自分自身がその最高の善、すなわち神から遠く隔たっているという苦悩を感じざるを得ないのです。


このような苦悩を解決しようとする真実な人がいるならば、その人は神を中心として生きていたアダムとエバ、そして彼らと共に調和していた万物、善だけを中心にし、善だけを賛美することのできた本然の世界を壊してしまった堕落の痕跡に対して、深い怒りと強烈な敵意を抱かざるを得ないでしょう。


善を目指し、真実な本然の世界を夢見る一方で、それが自分とつながり、時間を超えて永遠に天的な心情と結びつかなければならないという使命があるために、私たちの心は知らず知らずのうちに、その天的な心情と結びつく道を求めて動いていることは間違いありません。しかし、その動く心をつなぎとめることのできる外的な環境がないことが嘆きであり、そのための内的な事情を備えていないことが私たち人間の嘆きであるのです。


このように見ると、自分自身が堕落したアダムとエバを責めないわけにはいかず、また、現在のこの現実の環境を嘆かざるを得ない状況で生きていることを否定できないでしょう。このような環境にただ流されて、自分の心と体が幸福を感じることができるでしょうか。それは到底不可能です。私たちは、そのような不可能な環境を打ち破り、乗り越えなければならない何か、何かは分からなくとも避けては通れない運命的な難関の道を進まなければならないのです。


私たちはこれまで、方向もよくわからないまま、何かを探し求めてさまよってきたという事実を、もう一度思い起こさなければなりません。今、時が来ました。そして、私が真実な良心を磨き、良心の主体である天と永遠の縁を結び、永遠の幸福の基準を築こうとする切なる思いが湧き上がれば湧き上がるほど、今日のこの地に対して怒りの心を持たずにはいられなくなり、私たちが生きているこの世界に対しても敵意を抱かざるを得なくなるでしょう。そして、この敵意を抑えることのできない現実があるため、これ以上の苦しみはなく、この問題を解決する以上の大きな課題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。


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もし天が存在するならば、このような苦しみの中にある私たちを愛してくださるでしょう。そして、このように哀れな状況に置かれている私たち人間を探し出してくださるでしょう。このようにして縁を大切にして探してくださる関係があってこそ、私たちは天が存在することを認めることができるのです。


このような哀れな立場に置かれている人間を前にして、神は人間が堕落したその日から今日に至るまで、悲しい心を抑えながら堕落した人類の足跡をたどり続け、労苦を重ねてこられたのです。この事実を、私たちは再び深く感じなければならないのです。


今日の私たちは、自分自身を誇る前に、堕落した種族であることを認めなければなりません。自分の何かを示そうとする前に、堕落の性質に染まった罪悪の歴史を明らかにし、罪悪の本性を告白しなければなりません。しかし、このような立場にあるにもかかわらず、その責任を避けようと、あちらへ逃れ、こちらへ逃れる人が多く見受けられます。このような状況を見ると、天は必ず歴史的に積み重ねられてきた罪を清算しなければならず、血統的に繋がってきた罪悪の恨みを解消しなければならないのです。


この罪悪の恨みを解くことが天の願いであり、私たちの願いでもあります。そのすべてを明らかにする日がなければ、解怨の日も解放の日も訪れることはありません。解怨と解放の一日がなければ、神が摂理される御旨が成し遂げられる日も訪れることはありません。そして、その成就の日がなければ、人間に対して摂理を進めてこられた神の栄光の日もなく、摂理を支えながら従ってきた人間もまた、栄光の日を迎えることはできないのです。このことを私たちは知らなければなりません。


ですから、今、私たちは心で、体で、あるいは霊性をもって、自然のすべての神聖さを感じ取れるようにならなければなりません。また、人間の本性が天の心情の触感を感じ取れるようにならなければなりません。本質、本性、本質的な気質を通して、体に染み入り感じ取れる天心や天情を感じ取れるようにならなければならないのです。もしそのような人がいるならば、その人はこの地上で誰よりも幸せな人であると言えるでしょう。


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堕落前の人類の祖先は、神の心情と通じる心を持ち、神が創造されたすべての万物を整え、万物を天の御前に栄光の条件として、喜びの象徴的な対象として、美の対象として、刺激を与える外的な対象として立てるべきでした。そして、その万物から受ける刺激を通じて内的な刺激を引き起こし、天性の心情に応えて栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、それができなかったことが何よりも大きな悲しみとなったことを知らなければなりません。


では、天の心情と共に生きることのできるエデン、善と調和できるそのエデン、天の理念と共に生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激しないものが何一つないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情と調和し、自らが善の場に立ち、父なる神を「父」と呼ぶことのできる栄光のひとときを持つことができるなら、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。


また、天がそのような人間と縁を結ぶことができるなら、それ以上の縁を望むことはないでしょう。このことを私たちは知るべきです。


神の創造過程を振り返ってみると、神は真実なご自身の姿を代わるものとして具現する本然のアダムとエバ、真実な善の父母であり、私たち人類の祖先であるアダムとエバを創るために、五日間をかけてすべての万物を創造されました。この主人公たちを創造された後、神がどのような心情で彼らを見つめられたのでしょうか。皆さん、このことをもう一度思い起こしながら、父なる神を心で呼び求めることのできる時間となることを願います。


私たちは日々、私たちの目に刺激を与える森羅万象を目にしています。しかし、皆さんはその日々を、同じ心情や同じ感情で森羅万象に向き合っているかもしれません。しかし、もし人間が堕落していなかったならば、それは善を中心とした本然の自然であったでしょう。そして、そうであったならば、私たちの祖先はこの自然を見て何を感じたのか、また私たちを創造された神はどのように感じられたのかを、もう一度深く考えなければならないのです。


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野に生えているたった一つの小さな草にさえ、神の御手が及んでいないものはないということを、私たちは考えなければなりません。生い茂る一本の木を見るときにも、そこには神の無限の内的な心情が通っているという事実を、もう一度思い起こすべきです。


それはただ草木だけに限らず、野を駆け回るどのような動物や昆虫、また鳥類に至るまで、これらが無意識に作られたものではなく、徹底的に神の内的な心情を通して創造され、神の実体の御手を経て作られたものであるということを、私たちは再び感じなければなりません。


もし神がご自身の創造された万物を愛しているとするならば、私たちは何を考えなければならないでしょうか。神が万物を創られたとき、「すべて良かった」と言われましたが、その中でも最も愛されたものは何だったのでしょうか。もしそれが草であるならば、草の中でも神が最も愛された草は何だったのかを考えるべきです。そのようなことを時間を惜しまずに深く考えることができる場に留まることができるなら、私たちは人間を創造される前に万物を通じて現れた神の恩寵に触れることができるのです。


そして、たった一つの草を手に取っても喜びを感じ、その草が一日の希望の対象であることを知り、喜びの心情を持つべきです。その草が神の御手を経て作られたものであることを体感するべきです。そのような人がいるならば、その人は堕落した人間でありながらも、天地を創造された当初の神の創造の心情の世界に立つ神の友の立場に入ることができるでしょう。そうではありませんか?


皆さんは、もし神が草をお好きであれば、草の中でもどの草を最も好まれるのだろうか、花であれば、花の中でもどの花を愛されるのだろうか、木であれば、木々の中でもどの木を特に愛されるのだろうか、と思いを巡らせるべきです。鳥はもちろん、飛ぶ昆虫から始まり、下等動物から高等動物に至るまで、すべてが神の心情を通して創造された存在ですが、その中でも特にどれを神が最も愛されるのだろうか、と考えるべきなのです。


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天の心情を慕い、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を願う真実な心を持つ人々の中には、神を高め、栄光の場で喜びを得ようと努力する人は多いかもしれません。しかし、小さな草木や昆虫から、すべての被造物に及ぶまでに広がる神の内的な心情の縁を思い起こして喜べる人は少ないのです。もし誰かが、自分の全ての精力を注ぎ込んで一匹の昆虫を創造したとしたら、その人が注ぎ込んだ以上の精力をもってその昆虫を愛そうとし、心と思いを込めてその昆虫を愛してくれる人が現れるなら、その昆虫を創造した者にとって、これ以上の満足はないでしょう。


では、2千年前のイエス様は、神の御前に民を取り戻して捧げる前に、何を探し求めて苦闘されたのでしょうか。イエス様の心情は何を探し求めてさまよっておられたのでしょうか。私はこう思います。イエス様は民を抱き、彼らが天の嘆きの中に留まっていることに心を痛めておられました。そして、彼らのために夜を徹して涙を流し祈られた方であったことは間違いありません。


もしイエス様が、人類の祖先の堕落によって本然の心情的な縁を侵された万物が嘆きの中にあることを見て涙を流し、夜を徹して悲しまれる方でなかったならば、彼は全宇宙を統治し、全宇宙を救う救い主とはなり得なかったと断言したいと思います。


人間から万物の要素を取り除いてしまえば、その命を維持することはできません。だからこそ、自分自身が尊い存在である限り、その本質を構成する要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜びの媒介者であるべきです。このような心情を持って進む人であれば、どこへ行っても自然の正道を備えることができ、どのような環境にあっても正道の場、万物と通じる場に立ち、神の御前に栄光をお返しすることができるのだということを、皆さんは知るべきです。


自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中で神が特にこの草を非常に愛されるだろう、花々の中でもこの一つの花を最も愛されるだろう、また、ある木や山河を見て、神はこれらを特に愛されるだろう、とお考えになったに違いありません。今日、皆さんはそのようなイエス様の愛の心情を、もう一度思い起こしていただきたいと思います。


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それでは皆さんは、これまでの人生の路程において、どれほど責任ある感情を持って、神が心を込めて創造されたこの万物に接してきたでしょうか。また、この山河に対してどのように向き合ってきたでしょうか。一握りの土を手に取り、その土を形作られた神の心情がどのようなものであったかを考えたことがあるでしょうか。もしそのようなことを考えたことがないのであれば、皆さんは創造の理想を掲げられた神の心情を無視する罪人になってしまうでしょう。


今日、私たちは、この万物世界、被造物の世界の原理や法則、公理や公式を解明しようとする分野が科学であることを知っています。また、自然の中に深く秘められた情緒的な領域を表現するのが文学です。自然に現れている、あるいは隠されている美を何らかの形で具現し表現するのが芸術です。そして、自然の根本的な理を解明しようとする分野が哲学です。そしてこれらの領域の上に位置するものが宗教です。


では、真の宗教と宗教家が解明すべきこととは何でしょうか。それは、自然の中に深く流れている静かな内面的な内容を明らかにすることです。この責任を担うべきなのが宗教であると考えられます。


人類の文化は自然を離れては考えることができません。自然を離れた人類文化は語ることすらできないのです。人間がどれほどその威勢を誇り、権力を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべてが成り立たないということです。


このように、私たちの生活を価値あるものとしてくれるのが自然であり、私たちの人生において必須のものが自然なのです。ですから、自然の万象に流れている心情を感じ取ることができない人は、真実な幸福を享受することができず、天と縁を結び、栄光の場に進むこともできないのです。このことを、皆さんは理解しなければなりません。


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今後、皆さんは一本の草を見るときでさえ、神の視点で見ることができなければなりません。花を見るときにも、神の心情を代弁する立場、神の心情と通じる立場で見ることができなければなりません。昆虫や鳥、あるいはどのような動物を見るときにも、神の心情とつながる内的な感情を体得することが求められるのです。


そのような人がいるならば、たとえその人が公式や定義、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、文学的にその情緒を表現することができなくても、また芸術的にその美を表現することができなくても、さらには感情的にその愛を体感する力がなくても、その人は偉大な科学者であり、偉大な文学者であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。


今日、世界的な人物とされる人々や偉大な学者とされる人々が数多く存在し、それぞれの立場で宇宙を探求しています。しかし、これまでの論理を超え、最終的な問い、すなわちこの宇宙とつながりを持つ何らかの存在についての究極的な答えを持っていない限り、その人を本当の意味で世界的な人物とは呼べません。


これまでの科学的な論理や公式、法則を用いて宇宙を観察し、感じる段階を超え、それらを超越した心情的な感応を体験できない人には、それ以上の発展はありません。これは文学や芸術、哲学、そして宗教にも同様に当てはまります。


真に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の奥底には自然の心情と調和できる感性が備わっているはずです。その感性が、自分の研究分野を超えて頻繁に接触する感覚をもたらし、それによって思いがけない示唆や幻想、あるいは夢の中での啓示のような現象が現れるのです。そしてこれらの現象は、自らの専門分野に深く没頭した状態でのみ起こるものです。


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情に豊かな人ほど大きな事業を成し遂げたというのは、歴史を振り返っても否定できません。また、そのような感情と調和し、一本の草を見ても「神様!」と呼び求めることのできる宗教家がいるならば、その人こそまさに偉大な宗教家であると言えるでしょう。


今日の仏教では仏像を安置し、その前で福を祈るという行為が行われていますが、主体と対象の外面的な違いが天地ほどに大きいとしても、心情の世界においては差がないということです。その場で感じられる感情や通じるすべてのものを、天と同じように信じ、受け入れるならば、天はその心を見捨てず、それを成し遂げてくださいます。ここから「願いの成就」という言葉が生まれるのです。


このように考えるとき、私たちがこれまで生きてきた過去の生活や、今現在生きている現実の生活は、あまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも堕落した宇宙観を持っていることが分かります。この事実を嘆き悲しむべきです。もし、これを嘆き悲しむことのできる人がいるならば、その人は新しい時代の人物として召命を受け、新しい時代の使命を担うことでしょう。このことは間違いのない事実であると断言できます。


私たちは、今日の自分の周囲の環境を見て顔をしかめ、嘆くのではなく、また社会の矛盾を見て落胆するのではなく、たった一本の草を見つめ、その喜びの中に自らの悲しみを忘れることのできる人間であるべきです。もしそのような人がいるならば、その人は新しい時代に残される人物です。理想的で心情的な世界を目指す人であるならば、その人は必ずや神と何らかの縁を結ぼうとする人であるに違いありません。


統一教会の皆さん、一本の草が育つのを見て、どうしようもないような心情を感じてみてください。そこには無限の生命があり、神がいらっしゃいます。一つの山頂を見つめるとき、昨日感じた感情と今日感じる感情が異なることに気づくでしょう。春夏秋冬、四季の移ろいによって自分の心情に湧き起こる感情の違いを歌にできるなら、それはなんと高尚なことでしょうか。それこそが、自然とともに調和して生きる人の姿です。堕落していない本来の人間とは、そのような人であったに違いないと私は思います。


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流れる水辺を見つめ、広い平野を流れる小川を眺め、そびえ立つ山脈を仰ぎ、昇る太陽の朝の光を浴び、東の空から差し込む月光に触れ、こうした万象を前に、どの瞬間でも心で歌い、心から楽しむことができる人がいるならば、その人こそ、神が万物を創造されたときに夢見られ、理想とされた存在です。その万物を託そうとされた、神が立てようとされた真の本然の姿です。


景色の美しい名所を訪れることを喜ぶ人間もまた同じです。神はそのような人間を求めておられるのです。


本然のエデンの園で、神がアダムとエバとともに自然を歌い、自然への感情を表現するひとときを持たれたかといえば、それは叶いませんでした。神はきっとこう言いたかったはずです。「わが子よ、あの山を見てごらん。あの山は私がこうして創ったのだ。あの草木を見てごらん。これもまた私がこうして創ったのだ。すべてはお前たちの幸福のために創ったのだ」と。しかし、神はその言葉を実際に口にすることはできませんでした。なぜなら、アダムがまだ成熟していなかったからです。それでも神がアダムを見つめながら、そのように語りかけたかった切なる内的な心情があったことを、私たちは知るべきです。アダムが情緒的に未熟な段階にあったため、神が語りかけることができなかったその事情を、私たちは理解しなければなりません。


もし神がそのような言葉をかけられる立場にアダムがあったなら、神は彼の手を取ってこう言われたでしょう。「アダムよ、私が見たいと思っているあの園の花を一緒に見てみよう。私が眺めたいと思う山河を一緒に眺めてみよう」と。私たちの祖先がそのような生活を送っていたならば、今日の人類はこの苦難と死の支配の中でさまようことはなかったでしょう。


ですから、今日、皆さんは恋しく思わなければなりません。本然のエデンを恋しく思わなければなりません。神の無限の愛が満ちている世界、ひとたび始まればそのまま永遠に愛の感情と調和できる世界、ひとたび歌えば永遠にその歌に酔いしれることができる世界、ひとたび跳ねれば神とともに永遠に跳ね続けたいと思う心が湧き上がる世界、ひとたび動き、ひとたび責任を果たせば、それが永遠の価値の責任となると信じ、努力できる世界。このような世界を恋しく思い、涙を流すことができる人にならなければなりません。


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そのような心情を持つ人間を見つけられなかったことが、神の悲しみです。地を相手に摂理を進めておられる神は、必ずそのような人を探し立てずにはいられないのです。


私たちが歌う歌に山河や自然が含まれているのは、それらを通じて私たちの感情を高めようとしているからです。すべてそうです。もし本然の世界でアダムとエバが、神が行きたいと思う心情と同じ心情で共に行くことができていたならば、それはどれほど素晴らしいことであったでしょうか。どれほど素晴らしかったでしょうか。


今、皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのような豊かな心を持つ人、そのような心情を体得した人こそが、新しい時代、新しい理想天国の時代の民として参加できるのです。


では、皆さん、復帰の恨みを晴らし、歴史の悲しみを乗り越えて栄光ある神の御手を掴もうとするならば、神はどのような人を掴みたいと思われるでしょうか。神は、「この万物を私の代わりに楽しんでくれ。この万物を私の代わりに感じてくれ。この万物を私の代わりに愛してくれ」と言うことのできる、そのような人を掴みたいと望まれるのです。


皆さん!これまでの人生で、神秘的な雰囲気や恩恵の満ちた場面において、自然の中の一本の花を心から恋しく思ったことがありますか?また、祖先の誰かに会うような切なる心で花に向き合ったことがありますか?あるいは、山河を見つめたとき、心に込み上げてくる感動から、思わず天に賛美を捧げたことがありますか?もしそのような経験がないならば、私ははっきりと言いますが、皆さんには万物の主になる資格がありません。どれほど素晴らしいとされるエデンの園であっても、万物とそれを見つめる人間が心情を通じて天を動かすことができない場所であれば、それは憧れるべき場所ではないのです。


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私たちはこれまで、祈りの中で人間のためだけに祈ってきました。しかし、私はそうではありません。人間のために祈るだけでなく、天のためにも祈るべきだと考えています。イエスのためにも祈らなければならないのです。イエス様がこの地上に来られ、私たちのために夜を徹して祈られたその恩に応えなければなりません。そして、今日まで労苦を重ねてこられた神のためにも祈り、さらに進んで、全人類のために祈るべきです。


そのような感情を持ち、そのような生活を送る人が、神に最も近い人と言えるでしょう。私はそのような体験を通じて、そのことを実感しました。


皆さんも、道を歩いていて疲れたときや、休むときに、そのような感情を抱くことがあれば、天は必ず共にいてくださるでしょう。そうなれば、一本の古びたケヤキの木の根を握りしめながら、そこから天の心情を歌うことができるでしょうし、大きな陰を作る岩に寄り添いながら、その場所を安息の憩いの場として天の情緒を歌うこともできるはずです。


今日、統一教会の私たちは、神がご自身で創造された善なる万物の中にも、最も愛されるものがあることを知っています。同じように、花であればその中で特に愛される花、木であればその中で最も愛される木があるはずです。このような感情を持つことができないなら、その人は心情世界では不合格者と言えるでしょう。花の中でどの花を、木の中でどの木を、草の中でどの草を最も愛するかを知り、それを表現できるべきなのです。そうしてこそ、自然を恋しく思う心が生まれるのです。


自分の命が躍動すると同時に、その命を抱き、自然を引き寄せる心情の縁を持つ人は、理想を持った人であり、決して軽々しく生きることのできない人です。


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今日、私たちが目にするこの自然はどのような自然でしょうか。また、私たちが踏みしめているこの地はどのような地でしょうか。それは悲しいことに、堕落した地であり、喜ぶべきところを悲しまなければならない地となってしまったのです。このことを、皆さんは感じなければなりません。万物を見るときに、心の中で「美しい」と感じる一方で、その万物が悲しみの中にあること、嘆きの中にあることを感じ取らなければなりません。美しい名勝地を見て「良い場所だ」と思うことがあっても、無限の悲しみを感じて神とつながることのできる人間であるべきなのが、今日の堕落した人間の立場なのです。


今、私たちは一本の草を手にして喜びを感じるのではなく、その草を見て悲しみ、涙を流せる自分になるべきです。また、一本の木を抱いて涙を流せる自分になるべきです。山河や万象を見ても深いため息をつけるような姿勢を持つべきです。それはエデンを恋しく思う心を持っているからだということを知らなければなりません。そのような心情に浸っておられる方が神であり、その心情の縁を未だに脱することのできない存在が人間であるということを理解しなければなりません。


そのような心情を持つ人であれば、自然を見てもエデンを恋しく思うことができるでしょう。「恋しいエデン」とは、自然そのものを恋しく思うことであり、また、その中で万物を統治することのできる本然の人間をも恋しく思うことであるのです。


イエス様は敵に対して祝福を祈られました。両手両足に釘を打ち、頭に茨の冠を被せる者たちに対しても祝福を祈られました。また、槍で脇腹を刺す無謀な敵に対しても祝福を祈られました。なぜそのようなことができたのでしょうか。それは、神が最大の精力を注ぎ、切なる事情を経て労苦の末に創られた存在が人間であるという事実を、イエス様が深く理解しておられたからです。わかりますか?


天の事情を背負って来られたイエス様は、ご自身が敵から反対される立場にあったとしても、天の本然の心情を辿ってみるとき、神が全精力を注いで創られた縁ある存在である人間に対して、祝福を祈らずにはいられなかったのです。


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イエス様はこの地上で30余年の生涯を送る中で、瞑想や思索を通じて神と完全な関係を結んでおられました。そのため、イエス様は本然の真の人間、本然の真の人間であられました。それは、万物が恋しく思うことのできる存在であり、神もまた恋しく思うことのできる存在だったのです。


今日、人間も自らが作るものに対して、今日仕上がらなければ明日また取り組み、完全に仕上げようとします。同じように、神もまた同じです。神は人間を創造された後、その姿を見てどれほど喜ばれたことでしょうか。その心情の世界に入り込み、それを体感した人がいるならば、踊りたくなるでしょうし、その喜びに何十年も踊り続けたいと思うことでしょう。


今日、多くの信仰者たちが語るように、単純な法則によって生まれた人間であれば、そんな人間は必要ありません。人間は法則で測ることのできない無限の柔軟性を持つ絶対的な原則によって創造された存在であり、その価値は計り知れないのです。そのような人間を見て、神はご自身のすべての属性を感じ取ることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。このことに接するとき、神は無限の喜びを抱かれたのです。


神が見つめ、喜ばれたアダムとエバ、神が恋しく思われたアダムとエバ、さらに万物が主人となることを切に望み待ち望んでいたアダムとエバ、こうして神が恋しく思い、万物が恋しく思ったアダムとエバはどうなったでしょうか。堕落の結果、その「恋しさ」は呪いと恨みに変わり、幸福と希望は嘆きと絶望に変わり、命は死に変わり、愛は慟哭へと変わってしまいました。この事実は、何とも言い難い悲劇です。


このような悲しむべき祖先を抱えているという事実に対して、何とも言い難い嘆きを感じるべき立場にありながら、私たちの中には、この悲しむべき事実がどこから始まり、今日の私たちとどのように関係を持っているのかを知らない人が多いのです。この嘆きを振り払い、この悲しみの心情を洗い流し、人間本然の心情を見つけて歓喜し、その歓喜の声を高らかに上げる群れは、この地上に存在しないのでしょうか。天はそのような人々を探し求めています。そのような立場に立つ者がいないのか、天は求めています。


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このような心情の問題において、天が恋しく思い、万物が恋しく思う価値ある人間が、今このような堕落した状態になったのであれば、それは裁きを受けなければならないのです。私はそう考えます。そしてこう祈らなければなりません。「父なる神よ、もし私が裁きを逃れたいと願うならば、あなたを恋しく思う心情において合格する者になりたいです。エデンでアダムとエバを創造され、喜ばれたその心情、行ってみたい、会ってみたいと思われたその心情、その心情に合格することによって、裁きを逃れ、喜びの歌を歌う勝利者となりたいです」と。天はそのようになることを望んでいます。


天倫を恋しく思うことができる自分になると同時に、人間を恋しく思える自分にならなければなりません。神がご自身の心情を体感させるために一人の男性と一人の女性を創造されたということが、どれほどありがたい恩恵であるかを、皆さんは深く考えなければなりません。


地上に男性と女性が存在するならば、彼らは神の全体的な性格と性相を代わって立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性でなければならず、一人の男性を愛することができる女性でなければなりません。神の心情を通じて、アダムが望んだ心情の基準、エバが望んだ心情の基準を持ち、自由を享受し、天を抱擁することのできる夫婦が地上にいるならば、神はその夫婦に全宇宙を委ね、安息したいと願われるのです。しかし、今日の人間はそのような神の御心を知りません。


人間はこのような心情の法度を踏みにじったため、今日、心情の世界において無限の「恋しさ」に苦しむようになったのです。芸術や学問、あるいは地上のどのような愛の対象を通じても、この恋しさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦悩するしかないのが堕落した人類の現実です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇なのです。


もしこのような恋しさが皆さんの心に込み上げてくるならば、本然の園を恋しく思った万物とともに、その本然の園を恋しく思うことができ、本然の心情を通じて神の心を引き寄せていた本然の人間の姿を備え、天を恋しく思うことができる人になるべきです。そのような人になるならば、神は両手を広げて「そうだ、わが息子よ、わが娘よ」と言いながら抱きしめずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。


23


もし皆さんが、自分の価値を高めて天の御前に進みたいと願うならば、主の御言葉を聞き、恋しく思っていた本然の園に住むことのできる本然の人間の価値を体得し、天を恋しく思う心情に応えられるようになり、天を恋しく思う心を持つべきです。そのような人が現れるならば、天はどれほど喜ばれるでしょうか。


「恋しさ」というものは、愛を抜きにして成り立つことはありません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の命の源である神の愛でなければなりません。だからこそ、キリスト教は他の宗教と異なり、愛の宗教としてその使命を全うしようとしているのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活における感情や宇宙万象のすべての理を司る権限を持つような人格者を育成することにあるのです。


神は、人間がまるで木や石のような存在であるにもかかわらず、6000年間、人類を恋しく思う心情の基準を保ちながら摂理を進めてこられました。歴史はさまざまな形で展開してきましたが、神は「アルファでありオメガ」であられる立場から、一貫してその恋しさを失われることはありませんでした。それに対して、人間が神のそのような心情と異なる心情を持つのであれば、その人間は敗北者であり、歴史の路程から脱落する者となるでしょう。


天が「わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」とおっしゃったのは、私たちにとってどれほどありがたいお言葉でしょうか。それだけでなく、さらに神は堕落した人間に対しても、恋しさと共に悲しみの感情を重ねて持ち続け、私たちを恋しく思い続けておられるのです。このことを私たちは知るべきです。


取るに足らないこの一つの体を抱え、本然の心情に傷を負わせた堕落した人間を抱きながら、それでも神はその恋しさを捨てられませんでした。このように、堕落した人間に対する悲しみを胸に抱き、悲しみの感情の中で恋しさを持ち続けておられる神を感じる人がいるならば、その人は間違いなく天国に行けるでしょう。


24


私はこのように祈ったことがあります。「お父様!私が自分の手を握りしめ、その手を恋しく思い、涙を流すことのできる人間になれたらいいのですが」と。神はそのようなことを望んでおられると思います。神が本当に愛をもって握ることのできる手であるならば、自分自身がその手を握りしめ、涙を流すことのできる人間になるべきなのです。


堕落せず、神を恋しく思った本然のアダムの手を握りしめ、涙を流せる人間であるべきです。さらに進んで、アダムを抱き、エバを抱き、涙を流すことのできる人間になるべきです。そのような人間になれば、堕落の歴史を踏み越え、乗り越えることができるでしょう。


私たちは、本然の人間を恋しく思い、その価値を誇るべき歴史的な責任があります。そして、その誇るべき価値を神の御前に高く掲げる責任があります。そのため、知らず知らずのうちに自分の価値を高めようとし、知らず知らずのうちに自分自身を恋しさの対象として立てようとするのは、人間の自然な感情です。それは、人間がもともとそのような理念を持って生まれたからです。


しかし、自分の価値を立てようとする中で少しでも誤れば、堕落した世界の価値を受け入れることになりかねません。また、自分自身を恋しさの対象として立てようとする中で誤れば、堕落の基盤となってしまう危険があるのです。


そのため、堕落した人類は全体が否定され、否定されなければならないのです。すべてを捨て去るべきだということです。なぜなら、アダムとエバがすべてを持つことができなかった位置で堕落したからです。アダムとエバはその理念を持っておらず、心情的な問題に関して何も持っていなかったのです。自ら万物を支配できる堂々たる権威を持つ立場に立つことができなかった、それが堕落ということです。アダムは万物を支配できる立場に立ったことがありましたか? いいえ、立っていませんでした。


25


このように、本然の人間を恋しく思い、彼を求めて進むべき歴史的な条件に縛られているため、人間はすべてを捨て、涙から出発しなければならない存在であることを私たちは理解しなければなりません。そのため、涙を引き起こす宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教で「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われているのを聞くことができます。イエス様がこの地上に現れ、「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われたのは、まさに「嘆きなさい」という言葉でした。自分自身を見て嘆き、家族を見て嘆き、愛するすべての人々、民族、国、そして自分が生きているこの地を見て嘆きなさいということです。ここには、恋しさの縁を新たに結ぶための神の御旨が込められているという事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちは、万物を恋しく思うことができ、人を恋しく思うことができる存在でなければなりません。皆さん、人を心から恋しく思ったことがありますか?純粋な天の心情とつながり、無限に与えても忘れてしまい、それを喜べるような心情を体感したことがありますか?そのような心情を引き起こすために、天は「宗教」という名を掲げ、「救主」という名を掲げ、「新郎新婦」という標語を掲げて摂理を進めてこられたのです。私たちは、その方のためにすべてを捧げる覚悟を持たなければなりません。


神は、心情と恋しさが結びついた心で捧げられる万物を受け取る日を切望しておられます。心情と恋しさに満たされて捧げられる家庭を受け取りたいと願っておられるのです。そして、その恋しさに満たされ、この国、この民族、この世界が神に捧げられることを望んでおられるのです。


皆さんは今、天に向かって恋しさに満ちた心で「たった一銭にすぎないこのお金ですが、どうかお受け取りください」と言えるようにならなければなりません。そのようなとき、その一銭は宇宙を代表する価値を持つのです。どれほど貧しい家庭であっても、「不足していますが、この家庭をお受け取りください」と言えるとき、その家庭は天国の継承を受けることができるでしょう。荒野をさまよっていたイスラエルの民のように哀れな民であったとしても、その民が天に向かって恋しさの心情で「この民をお受け取りください」と祈るならば、天はその民に地上天国を主導する権限を与えようとされるのです。


国家も同様であり、世界も同様です。今日、この地上で人類に提示されるべきどのような理想主義や理念であっても、それが天を恋しく思わせ、心情的に天を慕わせるものでなければ、人間の根本的な問題を解決することはできず、天倫の根本的な問題を解決することもできません。


26


心情的な問題を探し求め、天を恋しく思い、本然の園を恋しく思うひとときを持つことができなかったことが堕落であり、そのような関係を自らの存在を賭けて築き上げることが復帰の使命なのです。


そのような使命を果たそうという心情に満ち、父なる神の心を慰めることのできる一つの姿として、その心情的で恋しく思う理想の園の理念の中で動きながら、万物を探し求め、人間を探し求めて働かれる天に向かって「お父様」と呼ぶことのできる人がいるならば、その人を天が知らないはずがありません。そのような心情を持ち、本然の園を探し求めた人がいるならば、その人を神が知らないはずがなく、人類全体が知らないはずもなく、被造物すべてが知らないはずもないのです。そのような人こそ、本然の真の人間であることを私たちは知るべきです。


だからこそ、「恋しいエデン」、そこに生い茂る万物、そこに住む人間、そしてそこに訪れられる神が、個別に事情を通じるのではなく、一人の人を中心として、上には天、下には万物が調和し、応えることのできる一つの喜びの住まいを築かなければなりません。その場所にいる人は、神が愛することのできる人であり、人類が仕えることのできる人であり、万物が尊敬することのできる真の主人であるに違いないということを、私たちは知るべきです。


このことが成し遂げられなければ、復帰摂理、すなわち神が掲げられた全体の御旨が完結し、勝利の栄光を見ることはできません。また、私たちも堕落の悲しみを解消し、願いを成就することはできません。それが成し遂げられなければ、勝利の一日を備えた世界をこの地上に建設することはできないという事実を、私たちは明確に理解しなければなりません。


<祈り>
行けども行けども果てのない復帰の道程であり、悲しみが残されたまま巡り続けなければならない私たち人間であることを、私たちは知っています。しかし、苦労された父なる神の心情世界を通じてみるとき、巡り続けた悲しみの歴史が今日の私たちと関係を結び、今日の戦いの関係が未来の縁を構築する基盤となり得るのです。そして、無限の希望、無限の幸福、無限の恋しさの園を築き上げるという心情の縁を、私たちは理解しなければなりません。


27

お父様、アダムを伴い、あちらこちらを巡りながら誇らしげに自慢したかったその山河は、いったいどこにあるのでしょうか? アダムと共に誇りたかった咲き誇る花はどこにあり、成長する樹木はどこにあり、青々とした草原はどこにあり、流れる小川はどこにあるのでしょうか?

そのような心情を通じる境地において、父と同行できたはずのアダムは堕落して父のそばを離れてしまいました。しかし、今、私たち自身が恋しく思っていたお父様をそばにお迎えし、万象と共に、全人類と共に、全宇宙と共に楽しむことのできる喜びの姿へと導いてください。父なる神よ、心から願い、切に求めます。

残された十字架の恨みも、恋しさを通じなければ縁を結ぶことができず、残された栄光の場も、恋しさに満ち、理想の園を慕う心がなければ縁を結ぶことができないことを私たちは知りました。この恋しさの心情を持って、本然の人間として本然の園で万物に向き合うことのできる子女、堕落の縁を結ばず、父の祝福を受ける勝利の子女となれるよう導いてください。そして、真の人類の祖先となれるようにしてください。切にお願い申し上げます。

お父様、この日のすべてを委ねます。捧げた言葉を通して、この人々の心情の中に新たな喜びを体感する心情が芽生えるように許してください。

すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン。


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御言葉選集6(10)

2024年11月15日 15時31分54秒 | 学習
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歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。


既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。


良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。


そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。


イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。


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良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。


人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。


では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。


イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。


私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。


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人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。


そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。


さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。


そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。


では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。


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こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。


神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。


神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。


神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。


その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。


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そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。


天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。


神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。


死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。


神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?


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それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。


復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。


今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。


私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?


イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。


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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。


もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。


今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。


しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。


これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。


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このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。


そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。


絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。


そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。




<祈祷>


天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。


41


天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。


絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。


お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。


42


今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。


このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?


お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。


イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。


お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。


43


私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。


天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。


今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。


そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。



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御言葉選集6(10)

2024年11月15日 15時26分37秒 | 学習
文鮮明先生御言選集6 - 10. 解放、さらに解放すべき神様の御旨 (1959年6月14日)
1959年6月14日(日)、旧本部教会にて
マタイによる福音書 10:34-39、18:15-20




<祈祷(Ⅰ)>
本然の園を築き、本然の真の子女を抱き、本然の心情を通して楽しむべき御父様の理念が、この地上に現れなかったという事実を私たちは知っております。私たち人間は、死に捕らわれたその日から今日に至るまで、本然の心情をもって天を賛美することがなかったことをどうかお許しくださいませ。


本然の一個体としてお父様を呼ぶことができる栄光の位置に立つことができなかった哀れな私たちをお許しくださいませ。そして、本然の心情を備え、「私のお父様」と切なる心情を込めて呼び求めることができなかったことを、どうか憐れみをもってお許しいただけますよう、切に願い申し上げます。


本然の園を失った人間は、死の世界に落ち、暗闇と戦い、敵の手中に捕らえられ、嘆きと絶望の中にありましたが、本然の心の痕跡が残る良心を通して本然の故郷を慕っております。歴史的な戦いを経ながらも、一瞬一瞬に感じられる天の感触を通して天の生命の一筋を求めてきた私たちを助けてくださったお父様、感謝申し上げます。


極めて幼く未熟な私たちが、この一つの路程に苦しみ疲れていることをお父様ご存知であるがゆえに、この時間、再び憐れみの御手を差し伸べてくださいませ。再創造の力をお与えくださり、本然の心情を回復できるようお導きくださいませ。本然の姿としてお父様に近づくことができるように支えていただけますよう、私のお父様、切に願い申し上げます。


私たちは、この地上のすべてを断ち切ってでも、天が望まれる本然の世界に向かって進まなければなりません。どうか今、私たちに本郷を慕う切なる心を深く刻んでお与えください。そして、たとえ私たちの身体が疲れ果て、足が疲弊したとしても、本郷を目指して走り続けることができる位置へと、お父様、私たちを追い立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


1


私たちの身体と心が一つとなり、天の心情を慕うことを許してください。そしてお父様が最後に私たち人間と共に喜びを分かち合える幸福の園を、私たちが築くことができるようにお導きください。この時代において、何億万もの人々が阻もうとすることがあったとしても、愛の心を持ってそれを乗り越えて進むことができる私たちであるように、どうかお許しくださいませ、お父様、切に願い申し上げます。


堕落した私たちではありますが、どうしても復帰の路程を歩んで本然の自分自身を取り戻さなければならず、本然の故郷を探し、本然のお父様をお迎えし、本然の世界を築かなければならないことを、私たちは知っております。


今日、この邪悪で堕落した私たちは、父の愛の心情を知りませんでした。本然の故郷を知りませんでした。本然の人格と本然の存在そのものを知りませんでした。お父様!どうかもう一度、御言葉を通して、人格を通して、愛の心情を通して、本然の存在そのものとなるために必要なすべての要素を備え、お父様をお迎えして生きるのに不足のない者として、私たち自身を栄光の姿として立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


これらを阻止するために、多くの敵である悪魔たちは歴史の路程において、先祖から今日の私たちに至るまで、時と機会を問わず侵略してきたことを私たちは知っています。今やこれを拒絶し、これを制止する責任が私たちにあることを理解し、その責任を果たそうとしています。どうか、私たちが父の心情で武装し、父の御言葉で武装し、敵の前に堂々と立つことのできる天の真の息子娘となれるようお導きくださいませ。


今や私たちは、本郷を探し求めなければなりません。私たちの家庭、私たちの社会、この国土に住む三千万の民、地球上に広がる多くの人類、霊界にいる多くの霊人たちもまた、失われた本郷を探し求めてさまよっていることを知っています。お父様、どうか私たちが、父の心情と通じる本郷を築く責任者となれるようにしてください。私たちが敵の世界から真の息子娘を見出し、彼らを集め、本然の園を建設することのできる天の働き手、天の精鋭兵士となれるようにしてくださいますよう、お父様、切に願い申し上げます。


2


お父様、一週間の間に傷ついた心をそのまま抱えたまま、こうして父の御前に参りました。どうか憐れんでくださいますようお願い申し上げます。不義なるすべてのものを取り除いてくださり、父の心情と通じる要素だけが、父の本性に調和する本質的な要素だけが現れるようにしてください。それによって、お父様が喜ばれる最大の栄光を現し、捜し求めお捧げすべき本然の存在そのものを見出し、お父様が楽しめる時間とさせてくださいますよう、切に願い申し上げます。


足りない私たちが父の御前に集まり、礼拝を捧げるこの時間をどうか聖別してください。何億もの悪魔が入り込む時間とならないようにしてください。天にいる数え切れない聖徒、天軍天使がお父様を囲み、お父様を親しくお迎えし、心情と心情が通じ合う縁が結ばれる時間としてください。どうかこの時間を許してくださいませ。


この時間以降のすべての時間も、お父様が親しく主管し、運行してくださいますよう、心より願い申し上げます。このすべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。




<祈祷(Ⅱ)>


この地を摂理されるお父様!蕩減復帰しなければならない悲しい歴史上の罪を、どうかお許しください。数多くの人類があなたを賛美しましたが、あなたの御旨を成し遂げることができないまま、悲しい歴史が流れ、6000年が経過しました。それがすべて誰のせいなのかを考えると、恐縮の念に堪えません。この私たちの心情をご覧になり、どうか親しく訪れてくださいますよう、切に願い申し上げます。


今、絡み合った心と体を抱えて、父の御前に跪いております。私たちの主人はあなたでなければなりません。私たちのすべての事情を理解し、通じてくださるのもあなたでなければならないと知っています。愛のお父様、どうかこの時間、あなたが親しく主管してくださり、導いてくださいますよう、切にお願い申し上げます。


3


人間たちがお父様を求めて歴史の路程で彷徨ったとしても、いまだお父様をお迎えして生きている者たちは地上に存在しません。この地のどの一隅が父のものであり、どの家庭が父のものと言えるのか、一つとしてこの地上に見出して立てることができていない父のその悲しい心情を、かすかにでも察することができます。


あなたに悲しみがあるとすれば、それはこの地の主であるあなたが主としての位置に立てず、この地を責任をもって治めるべきあなたがその責任を全うできない立場にあることを、私たちは知っています。


地上の人々を責任をもって導くべき立場にありながら、それを果たせない摂理を進めてこられたお父様。私たちの心情を通して直接主管し、直接命じるべき立場にあるのに、それができないお父様。私たちの生活を通して私たち全体を主管すべき父であるにもかかわらず、私たちの内面の生活や事情を完全には主管できないお父様。私たちを見て、善の結実だと賛美すべき父であるにもかかわらず、そのような一日、一時、一人を見出すことができなかったお父様。このような悲しい立場にある父の心情を、私たちはこれまで知りませんでした。


今、たとえ私たちがこの地上のすべてを失うことがあったとしても、どうか父の悲しい心情を深く理解することができる息子娘となることをお許しください。父の事情や困難を親子としての立場から感じることができるようにしてください。お父様が涙を流されるとき、共に涙を流し、困難に直面されるとき、共にその困難を担うことができるあなたの息子娘となることをお許しください。切にお願い申し上げます。


そのような人を立てるために、そのような人を見つけるために、父は長い間ご苦労されましたが、人類を代表できる主人公に出会うことができず、天を代弁する天の法度を体現する主人公にも出会うことができなかったことを、私たちは知っています。


4


そのような中で、父は長い歴史の過程を経てイスラエル民族を形成され、お父様を代弁し、父の心情を握り動かすことのできる実体メシアを地上に送られました。しかし、イスラエル民族がメシアを迎えることができず、メシアと共に歩むことができなかったため、世界はさまよう客となったという事実も、私たちは知っています。


今日、終末の時代において再び来られる主の再臨の日を待ち望む私たちです。天を代弁し、天が探しておられるその一人とは、天が悲しまれる時に共に悲しむ者であり、天の事情を握り天と共に戦う者であり、天の喜びを代弁して天と共に歌う者であるということを、私たちは知っています。この地に数多くの人類が生きているにもかかわらず、歴史と共に、時代と共に、未来を代弁するその一つの存在を見出すことができなかったことを、どうか今この時、お許しくださいませ。


その唯一の存在を迎える希望の日を待ち望み、今日まで膝を屈め、父の御前で祈りを捧げてきました。どうか切なる愛の心情を持って来られる尊い実体を、お父様、許された園において、許された時に、この天地間で迎えることができる喜びの日が速やかに訪れるようにしてください。切に願い申し上げます。


お父様!私たちの心が不足していることを知りました。私たちの体が俗世に属していることを知りました。そして私たちの欲望が悪魔と共に動いていることを知りました。


このような内的な要素を持つ私たちですが、天に代わって許されたその時、その時代、その一瞬に来られる唯一の主人公を待ち望むことすらできない惨めな姿です。どうか憐れみ深いあなたの前で、自分自身の惨めさを嘆くことができるようにしてください。そして惨めな家庭、惨めな社会、惨めな人類、そして惨めな天地を前にして嘆き悲しむことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


5


悲しい心情を抱き、天と地の前で贖罪しなければならない時が来ました。お父様!どうか私たちの心の扉を開いてください。私たちの心情は、父の心情に向き合うこともできず、向き合う術を知らない状態です。このような私たちの体と心を、父の御姿と父の心情に調和する実体として再び形作っていただけますよう、切に願い申し上げます。


このまま私たちを放置すれば、私たちは死の世界で悪魔の餌にしかなり得ません。6000年もの間、摂理してこられたお父様!どうかこの終末において私たちを見捨てないでください。私たちを通して勝利の標を立て、勝利の園を建設し、敵の前で誇りとされたいという父の御旨が残されていることを私たちは知っています。どのような苦労の場であっても共にし、栄光の姿となれるようお導きください。たとえどんな困難に直面し、砕けることがあったとしても、父の御旨に対する一途な心情を天に、地上に残すことができる天の忠臣となれるよう、どうか導いてくださいますよう切に願い申し上げます。


お父様!この日、私たちがここに集まりました。どうか憐れみをお与えください。今、私たちが父の心情を悟ることができるようにしてください。そして、父の御旨の前にふさわしくないものがあるならば、それらすべてを取り除いてくださいませ。父の心情が私たちの心情となり、父の実体の動きに私たちの体が動かざるを得ず、私たちが父の御前で悔い改めざるを得ず、自分の事情を打ち明けざるを得ないように、どうか直接的な力強い御手を差し伸べてくださいますよう、心より願い申し上げます。


天が容認することのできない、これまで持ち続けてきたすべての世俗的な観念や自己主張を取り除いてください。そしてそれらすべてを父のものとして調和させることのできる本質的な感性の基準を高め、良心の基準を高めてくださいませ。私たちの心情を結びつけて父の心情と通じさせ、天的な事情と通じることのできるこの一時をお許しください。


お父様! 私たち人間がどれだけ善良であったとしても、父の御前で顔を上げ、「お父様」と呼ぶことのできない罪深い存在であることを悟らせてください。また、自らを弁明する内的条件をどれだけ整えていたとしても、天の御前で弁明の条件を提示することのできない堕落の子孫であることを、深く理解することができるようにしてくださいませ。切にお願い申し上げます。


6


天におられる数多の聖徒たちを送り、私たちの周りを聖別してくださいませ。私たちの心情を砕き、父の力強い御手によって再び形作ってください。それによって、私たちが再創造の御言葉とともに再創造の性品を受け入れ、死の実体であった私たちが命の実体へと変わり、栄光と歓喜の中でお父様を呼ぶことのできる喜びの時間を迎えられるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、今日という日は聖なる日です。すべての人々があなたを高らかに賛美すべき日であるにもかかわらず、この民族はあなたを知らず、人類の大半があなたに反対する立場にあります。そのような人類を抱え、悲しまれる父の心情の曲折を私たちが知るべき時が来ました。孤独な父の心情を理解することができず、孤独な父の姿を代弁することができなかった歴史的な罪を感じ、この時間、父の御前でひたすら涙を流すことのできる息子娘となるようにしてください。


その心情の痛みを感じ、たとえ私たちの身が消え去ることがあっても、父の心情を歌い、その心情を慰めることができる息子娘となるようお導きください。切にお願い申し上げます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、皆哀れな者たちです。彼らには地上に友もおらず、弁護してくれる者もおらず、共に働く者もおりません。孤独な峠、孤独な道、孤独な茨の道を歩みながら、打たれ、打たれ、また打たれながら、この道を探し求めてきました。このような形であっても進まなければならないと感じ、倒れ、命を落とすことがあってもこの道を守るべきだという御旨を知ったからこそ、今日父の御前に集まりました。どうか憐れみをお与えくださいませ。


命の枯渇を感じ、お父様に代わる天的な理念を待ち望んでいる息子娘たち。彼らの命を担うことができるのは父だけです。彼らの事情を慰めることができるのも父だけです。どうか彼らの心情、事情、環境を主管してください。彼らの上にお父様が運行される聖なる時間を与えてください。聖なる心で礼拝を捧げるこの時間を守ってください。切にお願い申し上げます。


7


終末の時代、この緊迫した時期に差し掛かった私たちは、今、私たちが留まっている場所、その位置がどのようなものであるかを第三者の目で批判すべき時に来ています。私はどこに留まり、どの方向に向かい、どの目的地を目指して歩んでいるのか、自らを振り返り、批判できるようにしてください。もし天の望みと私たちの望みに違いがあるならば、それを埋めるために努力しなければならないことを、私たちは知っています。どうかそのための力を与えてください。切に願い申し上げます。


お父様、今この時、私たちの心と体を通わせ、一つとなれるようにしてください。お父様が動かれるなら私たちも動き、お父様が留まられるなら私たちも留まることができるようにしてください。お父様、どうか摂理の基点を築いてくださり、私たちが天の心情を代弁する一つの姿を備え、天の栄光を歌い上げ、天上の数多の聖徒たちをも動かすことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


お父様、この日、多くの祭壇を祝福してください。彼らが御前で心を開き、胸を広げ、自らの過去のすべてをさらけ出して、お父様によって新しい血縁的な兄弟の縁を結ぶことができるようにしてください。父の摂理が成し遂げられる復帰の日が、速やかにこの地上に現れるようにしてください。心より願い申し上げます。


お父様、この時も、地方に散らばり膝を屈めて御前で訴えている孤独な家族がいることを知っています。どうか彼らにも同じ恵みをもって歴史してください。心が張り裂けるような事情を抱えて御前で訴えるその場その場において、お父様が親しく愛の御手を差し伸べ、命の動きを起こしてください。切に願い申し上げます。


この時、復活の栄光を歌うことのできる支配の領域へと導いてください。愛の心情で私たちを抱きしめてください。子どものような心情でお父様を慕い、渇望する心情に満たされ、体と心が一つとなってお父様に捧げられる私たちとなれるよう、どうか祝福してください。これらすべてを主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


8


<祈祷(Ⅲ)>


お父様、私のお父様! 私たちの心が父のものであると感じられるようにしてください。私たちの体がお父様によって作られた、欠けも汚れもない本然のアダムとエバのような姿であると心で感じられるこの時間をお与えください。


心と体が一つに調和し、栄光の結実体としてお父様に捧げられるべき自分たちであるという責任感を、この時間、自ら感じながら、「私のお父様」と呼ぶことができるよう、天の恵みをこの時間お与えください。
切にお願い申し上げます。


人間にとって最も大きな悲しみは、父の愛と縁を結ぶことができなかったことであり、父の心情に通じる本然の良心を失ったことであり、その心情と良心が調和し、体と心が一つとなる位置に立つことができないことであると、私たちはよく理解しております。


堕落のゆえに、父の心情に通じる感覚が私たちから離れ、父の心情を体感して万物を愛することができる心を失いました。どうかお父様、その心情を回復できるようお導きください。私たちの体と心を一つにし、私たちのものを父のものとしてください。私たちのすべてを父の御前に差し出し、誇らしい姿で愛の翼を広げ、万物を抱くことのできる広い寛容の心を持てるよう、どうかこの時、私たちに歴史してください。切にお願い申し上げます。


私のお父様! このような心情に通じる御言葉が、今この時、切実に必要であることを知っています。私たちが失ったのは御言葉であり、その次に実体であり、そして心情であると理解しております。お父様、どうか御言葉を通じて、私たちが失った本然の心情を蘇らせてください。本然の御言葉に頭を垂れる心、本然の御言葉に耳を傾ける体となり、父の栄光の御胸に抱かれる恵みを、この時間お与えくださいますよう切に願い申し上げます。


9


事を始められたのはあなたであり、それを成し遂げられるのもまたあなたであることを知っています。善によって始まったのならば、善によって終わりを結ばなければならないでしょう。お父様、あなたは「私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。始まりであり終わりである」とおっしゃいました。しかし、最初に本然の心情を失った人間は、終わりにおいても天の心情に通じることができません。今や終末の時代には、本然の心情を掴み、その心情を繋げなければなりませんが、堕落による恨みの淵で喘いでいる私たちを、どうかお許しください。切にお願い申し上げます。


この時、私たちの心が私たちのものでなく、あなたのものであることを悟らせてください。また、私たちの体が私たちのものでなく、あなたのものであることを知ることができますように。そして私たちの心情、感情、これらすべてが私たちに属するのではなく、あなたに属して動いているという事実を、実体的に、また確証を持って体感できるようにしてください。


お父様、これから御言葉を伝えようとしております。伝える者の心と聞く者の心が隔たりなく結ばれるようにしてください。もし自分勝手な考えを立て、計ろうとするならば、天の恵みを妨げる恐れがあることを私たちは知っています。どうか応じることも、調和することも、すべてあなたのために成り立つようにしてください。この時、私たちが子どものような心情に戻り、聞こえるままに、感じるままに受け入れ、すべてを父の御手の中で始め、そして終わらせることができるようお許しください。切にお願い申し上げます。


お父様! あなたが許された御言葉を通して、イエス様がその当時語られた心情に通じ、彼の事情に通じ、また彼の理念と希望の実体となることができますようにしてください。そして、イエス様を迎え、彼の事情と心情に調和し、お父様をお迎えできる喜びの条件を見出し立てることができるこの時間となるよう、切にお願い申し上げます。許されたこの一時間を、父の栄光の恵みで満たしてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


私たちは自分自身を見つめるとき、自分一人では存在していないことを感じざるを得ません。私たち自身が、何らかの事情や縁によって結ばれている社会や家庭があることを否定することはできません。また、良心を中心に考えるとき、大きく崇高な善を目指す何らかの縁の中でお互いが絡み合っているという事実を否定することはできません。


10


したがって、私たちが自分自身を完全に説明し、完全に安定した位置に立つことを望むならば、これまでの環境的なあらゆる縁を整理し、新たな価値と絶対的な関係を結ぶ必要があります。また、心の理念の世界と絶対的な縁を結ぶことができなければなりません。このことを、私たちが今日この地上で生きている間に決定づけ、それを天のものとして、または人類のものとして、完全に自分自身のものとして掲げることができなければなりません。それが人間の最大の希望であり、最大の使命であると言えるでしょう。


もし神に嘆きがあるとすれば、それは神自身がそのような位置に立たれていないのではなく、神が直接創造された人間が天的な価値と調和できず、万物の存在価値と調和する存在となることができなかったことです。安定した位置で絶対的な縁を歌い上げる存在となれなかったことこそが、神の嘆きであり、人類歴史の嘆きであり、今日の私たちの心の世界に嘆きの条件として残されているという事実を否定することはできません。


私たちの心は、自分でも知らず知らずのうちに、このような絶対的な縁とその幸福を歌い上げたいと望み、自由と平和の理念を歌いながら生きたいと願っています。それが心と体の全体の願いであるにもかかわらず、心でそのような世界を成した人もおらず、体でそのような環境の中で生きた人もいません。この事実は歴史が証明しており、皆さんの生活が証明しており、皆さんの人生そのものが証明しているのです。


このように自分自身を振り返り、第三者の立場から冷静に批判してみるとき、私たちは決して幸福な者ではありません。もし私たちが不幸であるならば、それは天に代わって不幸な者であり、人類に代わって不幸な者であり、社会に代わって不幸な者であることを認めざるを得ません。


このような自分自身、そして私たちを解決し、補う方法がないとするならば、私たちは絶対的な価値を歌うことができる安定した位置に留まることはできません。そして、このような人間は、宗教的な表現を借りれば、堕落した世の中、汚れた罪の領域に生きる者と言えるでしょう。


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もし天が存在するならば、天はこのような人間を自由の実体として解放し、解放の園へ、そして理念の世界へ導こうとされるでしょう。万物を代弁し、自らの価値を尊重し、宇宙の実存世界と共に動くことができる調和の主体となると同時に、天上の創造主が私たちの動きに調和して現れることができる、そのような絶対的な姿となることが、人類が望む最終的な希望と言えるでしょう。


もし天の摂理の御旨があるとすれば、そのような存在を探し出し立てることが、摂理の最高目的であるはずです。また、もし歴史の流れがあるとすれば、その流れの目的は、このような一人一人が互いに通じ合うことができる世界を建設することにあるでしょう。


今日の自分を見つめるとき、自分が何らかの縁の世界に関与していることに気づかざるを得ません。今日の自分が存在するのは、自分自身から始まったのではなく、過去の縁を通じて存在しており、時代的な縁を通じて存在しているのです。また、未来の縁も持たなければならない運命にあることを私たちは知っています。


それでは、過去の縁の曲折、時代的な縁の曲折、未来の縁の曲折、さらに天上と自分が結ばれているこの縁の曲折をどのように解明するべきでしょうか?もし哲学者がいるならば、この問題を解明するために苦心しなければならないでしょう。もし宗教家がいるならば、この問題を解明するために尽力しなければならないでしょう。また、良心と情的な人格を備えた人がいるならば、この理念を歌い、この主義と思想を掲げて主張することによって、過去の歴史、現代、そして未来において新しい希望と新しい理念を抱き、その価値を代弁して現れる資格を持つと言えるでしょう。


しかし、人類の歴史が始まって以来、万物の霊長である人類のどの生涯においても、このような価値的な実体として万宇宙と共に歌い、万宇宙の幸福を讃美し、それを人間の前に提示した人はいません。


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それでは、天の目的、天の希望、あるいは創造の理念が、そのような一つの存在を探し出して立てることを基準としているとすれば、なぜ天はそのような理念の条件、私たちが心情で求め、縁を結びたいと願う体験的な感情を人間世界に表すことができなかったのでしょうか。また、なぜ歴史上の偉人たちは、そのような事情を私たちに紹介できなかったのでしょうか?それは、人類の歴史が私たちが望む本質と本性が調和した善の世界を促進する足場にはならなかったからであると理解すべきです。


今日、私たちが生きているこの社会も、善の理念の実体を立て、その価値を讃え、その価値を育むことができる条件を備え、またその価値のある場所に私たちが留まることができる社会ではないということを、私たちは知るべきです。しかし、この歴史や社会は、私たちの理念の世界と一致する立場ではなく、むしろ相反し、対立する立場であるということも理解しています。


したがって、この相反し、対立している状況を解消するための何らかの行動や主義、または一つの主張が出現しなければなりません。現状のままでは、すべての人間が本心で、本然の心情で求める理念の世界に到達することはできません。そのためには、ある一つの主義や理念がその方向を示しながら現れる必要があります。しかし、その理念は、相反し、対立するすべての状況を覆すことのできる歴史的な条件と時代的な環境の条件を備えなければならないのです。


しかし、歴史の中には、大衆が関心を持たない一つの分野を切り開き、その時代において大衆の支持を受けることなく、独自の道を歩んできたものがあります。それが何かといえば、「宗教」というものです。宗教です。歴史の流れに逆らい、その歴史的な路程において相反し、対立する道を歩みながらも、歴史の背後で全体的な善の理念を引き出してきた歴史的、社会的、条件的な基盤、それが宗教というものなのです。


天は歴史と共に、私たち人間と直接的な関係を結びながら進んでこられましたが、その歴史の路程において、縁を結ぶための基盤や条件的な環境を整えてこなかったとするならば、その天は今日の歴史的な私たちと何の関係もないものとなります。この基盤を成し遂げていなかったとするならば、天は今日の私たちの良心とも関係がないということになります。


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そのため、歴史的な縁を経て進み、環境的な基盤を築き上げてきた宗教は、その時代の社会と相反する立場であらゆる主張を行ってきました。それ自体も現実と調和することができず、時代の流れに反する立場から主張を行ってきたのです。しかし、この宗教がいつまでも社会と調和しないままである限り、歴史的な終末や摂理的な終末において現れるはずの幸福の園、すなわち、天が動き、人類が動き、万物が動く幸福で自由な平和の園は建設されることはなく、そのような理念も成立することはありません。なぜなら、天が崩れると私たちの良心の絶対的な善の基準も崩れてしまうからです。


したがって、その絶対的な善も、歴史的な縁の過程を経て初めて歴史的な人間と関係を結ぶことができるため、天はそのような摂理を進めてこられたのです。


6千年という長い年月を経る中で、天は何をしてこられたのでしょうか? 歴史上の人類に対して、天は新しい善の理念を打ち立て、それを基盤として宗教の形態を整え、絡み合った歴史上のすべての条件、歴史上のすべての縁を開放するために、善の理念を提唱してこられたのです。


天は、個人の歴史性と絡み合っているものや、民族が築いた伝統に固執しているものを開放する運動を進めてこられました。言い換えれば、「解く」歴史を進めてこられたのです。


歴史の始まりは善ではなく、悪でした。悪が先に出発したのです。今日の共産主義者たちは弁証法の論理を用い、その核心である「正反合」の論理によって歴史を解明しようとしています。しかし、それは正しくありません。「反正合」の論理を適用すべきなのです。つまり、ある正が存在し、それに矛盾する反が現れ、その対立と闘争の過程を経て新しいものを生み出すという論理は誤りです。むしろ、間違ったものが現れたので、それに対応する真の形態が出てきて、それと調和しながら新しい何かを生み出すという論理を適用すべきなのです。


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歴史の始まりは善ではなく悪でした。そのため、悪に対抗する新しい何かが現れ、その悪を統合して新しいものへと昇華させていく過程が歴史の発展過程であると言えます。


いずれにしても、天の目的が成し遂げられるときには、最大の善がその位置を占め、最大の解決点が現れるでしょう。その日は歴史の終末であり、宗教の終末であり、その時代の人類が抱いていた希望の終末であり、天的摂理の終末と言えるでしょう。


だからこそ、天は個人を掴み、個人を解放するために働いてこられました。また、異なる民族、異なる環境に住む人々、間違った習慣や古い伝統に浸っている人々を解放するために、多くの苦労をされてきました。このようにして、歴史的な私たちの先祖から今日の私たちに至るまでを導いておられる天が存在することに、私たちは感謝しなければなりません。


人類の歴史は縛られた歴史であるため、天はこれまで縛られた人類の歴史を解く摂理を進めてこられました。絡み合い、縛られている歴史、それが神の善の理念と調和する縁の歴史とはならず、むしろそれに相反する堕落の内容を中心として縁が結ばれているため、天はこれを解放する歴史を進めておられるのです。


誤った歴史を解放するという目的があるため、天は個人を掴んで個人を解放し、家庭に対しては家庭を解放し、民族に対しては民族、国家に対しては国家、世界に対しては世界を解放できるその一日を探し求めて来られるのが神の摂理です。これを私たちは心に留めておかなければなりません。


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それゆえ、今日皆さんにお伝えしたい題目は、「解き放ち、さらに解き放たねばならない神の御旨」です。神は、縛られ、塞がれたすべての縁の歴史を否定する立場に立ちながら、歴史的な終末の時代を見据え、この世界が神の摂理によって解放されるその日まで闘いを続けて摂理を進めておられることを、私たちは理解しなければなりません。


「解き放ち、さらに解き放つ神の御旨」、この神の御旨が歴史を解放することだとするならば、歴史を振り返ると、過去のすべての主権形態は解放運動によって徐々に崩壊してきたことがわかります。そして現代においては、民主主義の形態に至るまで解放運動が展開されています。言い換えれば、神は中世には農奴を解放し、その後封建社会を解放し、君主国家を崩壊させ、今日の民主主義という形態を築いてこられたのです。


その中で、神は全体が国家を代弁し、全体が世界を代弁し、全体が理念を代弁するという方向を目指して解放運動を進めておられます。同時に、個体が全体を代弁し、全体が個体を代弁できる基準を目指し、全体が個体を無視することなく、個体が全体にしっかりと向き合うことができる、そのような基準を目指して解放運動を進めておられるのです。


しかし、その方向性は歴史的な方向と一致するのではなく、むしろ相反する方向へと流れています。そのため、歴史的な終末時代である今日、二大潮流が対立しています。一方は共産主義であり、もう一方は民主主義です。共産主義と民主主義が対峙しているのです。


歴史的な実証から見ると、民主陣営は神の摂理の御旨を支持する基盤の上で動く陣営です。では共産陣営とは何か?それは外的な、すなわち物理的な基盤の上で動いており、心の基盤を持つ人間世界では受け入れがたく、私たちとは反対の立場にある陣営であることを否定できません。こうして双方が世界的な解放運動を掲げて展開しています。世界的な基準において、双方が解放運動を掲げているのです。やがてこの二つの陣営がぶつかるとき、何が正しいのか、何が誤っているのか、正(正)か否(否)か、または反(反)かが判断されるでしょう。


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人の価値を論じるとき、外見が良いからといってその人を立派な人と評価することはできません。その人の価値を評価するときには何を基準とするか?それは、その人が持つ思想と良心の基準です。


また、その人の思想と良心の基準に、心情の問題がどの程度まで関わっているかによって、その人の人格を論じることができます。個人の人格もそうですが、主義や思想も同様です。もし単に外面的な形だけで理念を立てたとしても、人間はそれに満足することはありません。人間は外面的なことだけで満足する存在では絶対にないのです。私たちが幸福を感じるときも、内面的な幸福の基準を確立してから初めて外面的な幸福を感じることができるのです。これが人間の本質です。


したがって、物質を基盤とし、今日の現実社会を土台にした主義や思想は、最高の善を目指して動く人間に対し、そのすべてを伝え切ることも、結びつけることもできないのです。


それゆえ、今こそ神を認め、神の働きに従って良心を動かし、この良心を基盤として主義や思想を提唱すべき時です。平和と幸福、愛を掲げ、無条件で奉仕し、無条件で犠牲となる本質的な要素を持つこのような主義や思想を持たなければ、また良心を通じて善を自動的に感じ取り、自動的に体感しなければ、人間世界で幸福の条件や幸福の理念、幸福の主義を確立することはできないということを、私たちはよく理解しています。


歴史は流れ、民族主義思想は過ぎ去り、今は世界主義思想が全体を代表できる時代です。この世界は、ある機関や代表者が支配する世界であってはならず、民主主義の形態、平等な立場で、すべての人々が「この世界は私のものだ」「主権も私のものだ」「理念も私のものだ」と言える世界でなければなりません。天は、このような境地に到達するように歴史を解放し、導いてこられています。このように摂理が進められているのです。


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神の摂理を振り返ってみると、天は時代の流れに反する立場で、内面的な面から摂理を進めてこられました。それぞれ異なる民族を対象としながらも、全体を動かすことができる善の方向を確立し、民族を団結させてきたのです。また、民族と民族を結びつけるために、新しい中間的な宗教の形態を整え、これを通じて民族を統合してきました。


今日、もしこの天的な摂理の御旨を代表し、天の摂理の前に立つことができる宗教があるとすれば、それは長い人類歴史の伝統的な基準とともに、歴史的なすべての基準、時代的な環境、そして将来の希望的な理念に応えられる内容を備えていなければなりません。


この観点から各宗教を見てみると、キリスト教が他のどの宗教よりも指導的な位置にあると言えます。長い伝統を持ちながら、神の摂理の御旨を代弁してきたこのキリスト教の歴史は、人類歴史の動きの中で変革や革命の過程を経ながらも、途切れることなく続き、今日の時代にも対応でき、未来の希望の基盤ともなり得る内容を備えてきたのです。


このことを考えるとき、私たちは神の愛がどのようなものかを理解することができます。なぜなら、神は歴史が発展し進歩するにつれて、人間が掲げる主義や思想、あるいは民族的な伝統をも変革する必要があったため、摂理の御旨に従うすべての宗教者たちに対して、世俗と縁を結ばないようにされてきたからです。一見、彼らは孤独で惨めな立場に置かれているように見えますが、歴史を知り、変革を進めてこられた神の立場から見れば、それこそがむしろ愛であり、守り導く手段だったのです。


旧約時代においては、神は律法を通して人々を天に導かれました。そして、新約時代においては、人格を基盤とした信仰を通して人々を天に導いてこられました。イエスの到来によって旧約時代が終わったように、再臨主が来られると新約時代も終わりを迎えます。つまり、宗教も最終的には開放的な歴史観を包含できる形へと変わっていくのです。


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今日、世界的な宗教、例えばキリスト教をはじめ、仏教、儒教、イスラム教がありますが、これらをどのように新しい段階へと進ませるのかが、今後の神の摂理計画において重要な課題となるでしょう。


が解放の歴史、解放の摂理を提示しているとするならば、教祖を中心とした時代、教祖を崇拝する時代は過ぎ去らなければなりません。封建社会において君主を崇める体制を打破するために闘争の歴史が展開されたのと同様に、終末の時代には、信者が崇拝する教祖と平等な価値を議論できる宗教が必要です。天はすべての宗派を超えられる人格者を探し求めるでしょう。それがなければ、歴史的な終末時代において解放摂理の御旨を完了することはできません。


現在、キリスト教徒は、他宗教を異端として扱っています。過去にもそうでした。しかし、過去のその形態をそのまま維持したままでは、新しい時代を迎えてそれを解放しようとすると、非常に大きな努力を要します。


過去のすべてをそのまま融合させることはできませんが、最終的にはそれらを一つに清算し解放しなければなりません。そして、歴史も理念の時代、主義や思想も理念の時代、私たちの心も理念の時代、そして天も理念の時代に入ることができる、そのような解放の歴史を提示できる主人公こそが神に属する者となります。また、そのような主人公が動かす宗教こそが、世界の人類が敬愛し崇拝することのできる宗教となるでしょう。


それゆえ、今日のキリスト教信者たちは、もし天の摂理がこのような解放運動を進めていることを理解しているなら、自分たちの信仰観念を解放することが何よりも急務の課題です。同時に、社会全般の条件が天に認められる縁の条件になっていない以上、そのすべての条件を解放する責任があります。そうではありませんか?これまで宗教と政治は分離してきましたが、これからは宗教と政治が結びつく時代が訪れるでしょう。


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カトリックの中心であるバチカン王国も、近い将来、政治的な形態を持つようになり、理念や思想を掲げる体制と対立する時が来るでしょう。見守っていてください。


このようにして進められる解放、その解放の方向は、一方は右に、一方は左に、すなわち左右の方向に歴史が分かれてきました。しかし、これが無限に分裂し破壊されていくわけではありません。一つの目標に向かって、「あなたも必要であり、私も必要である」という立場へと導かれるべきなのです。つまり、左右に分かれた目的は破壊のためではなく、完全に一つに統合するためであったことを、私たちは理解しなければなりません。


今日の思想でも同様であり、宗教の理念においても同じことが言えます。理念の分裂は最終的には統合のための過程であり、その方向性が天の摂理によって進められているのです。今日、世界宗教と自称するキリスト教、そして自分たちにはそのような価値観があると自負するクリスチャンたちが、自らの心と教派をどの程度まで解放し、柔軟性を持つことができるかが問題です。やがて天が時代の終末の最前線に立ち、すべての宗教や教派、信者たちに対して提唱する時が訪れるでしょう。そのような時代は必ずやってきます。


今日のキリスト教を見てみると、キリスト教もまた過去のカトリックの儀式を中心に行われていたように、ある種の形式や観念に縛られています。しかし、そのような儀式や形式に縛られていては、天の御前に立つことはできません。形式や儀式を超越し、それらを主観できる人格者は天の御前に立つことができますが、形式や儀式に囚われた者は天の御前に立つことはできないのです。


そのため、ルターは、すべての形式や観念を打破し、聖書に基づく信仰を通じて神の御前に立ち返ろうと主張したのです。これは、形式主義からの脱却を目指した改革であり、神との直接的な関係を重視する信仰を再確立しようとした動きでした。


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それゆえ、御言葉に依存して生きている人々、御言葉に支配されている人々、御言葉に縛られ、御言葉によって動く人々は、神の息子娘にはなれません。御言葉を支配し、御言葉を語ることのできる人、それがイエスであり、その代わりに立つことのできる人こそが天の息子娘となる資格を持つのです。天はそのような人を求めておられます。


ここで、今日私たちが、新教や旧教を問わず、待ち望むべきものは何でしょうか?それは、聖書の御言葉だけではなく、御言葉の中心である実体です。つまり、イエスというお一人が必要なのです。そのお一人を待ち望むべきです。御言葉は過ぎ去っても構いませんが、過ぎ去るべきでないものは御言葉の主体です。


それゆえ、今日のキリスト教の最終目標とは何でしょうか? それは聖書の完成ではありません。また、御言葉の完成でもありません。御言葉を通過し、御言葉を超越してそれを左右することのできる一つの実体が必要です。その実体こそが再臨主であり、キリスト教の希望の標本となる存在です。そしてその実体は、単にキリスト教だけでなく、仏教や儒教、すべての宗派にとっての希望の標本でもあります。


その一つの実体を待ち望む視点は宗派ごとに異なっていたとしても、彼らが証しし、紹介した内容は一つでした。それは、どの宗派であれ、必ず再び現れるべきその一つの実体に対する人格基準を明確に示していることからも理解できます。


今日のキリスト教の歴史、つまり6000年の歴史を振り返ると、旧約時代の律法主義の時代があり、新約時代の信仰の時代がありました。そしてこれからは、新しい御旨を成す「成約時代」が来なければなりません。歴史はこのように縦的な流れで進んできました。もはや特定の制度や主権が全体を動かす時代は過ぎ去り、個人が主権や組織を左右できる時代に変わらなければならないのです。


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キリスト教も同じです。今日の韓国のキリスト教を見てみると、教職者のための信徒、教職者を支えるための団体のように見えます。しかし、本来のキリスト教はそうではありませんでした。それは信徒たちのための、羊の群れのための牧者であり指導者であるべきでした。


したがって、牧師の時代は過ぎ去ります。そのまま放置してはいけないのです。天はそのように摂理を進めておられます。つまり、牧師の時代を解き放ち、清算されるのです。そして牧師の時代が過ぎ去ると、長老の時代がやってきます。「何々長老」という時代が生まれました。その後、執事の時代に移行します。「何々執事」という時代が生まれました。


では、執事の時代が過ぎ去るとどのような時代に移行するのでしょうか? それは「平信徒の時代」です。全ての信徒が主体となり、組織や主権が個々人によって動かされる時代へと進んでいくのです。これが天の摂理が向かう方向です。


すべての人間にとって、歴史的な終末も平等に訪れるものであり、摂理的な終末も平等に訪れるものです。その時代を代表する教団も、平等な基準で動いていきます。イエスも「私のため」、牧師も「私のため」、信徒も「私のため」という基準のもとで、絶対的な価値を重視し、全体的な価値に対比できる存在を探し求めるのが、天の摂理の歴史なのです。


韓国の教会界はどうなるのでしょうか? そうなります。見守ってください。これから韓国の教会、そして世界の教会に向けて叫ばなければならないのは何でしょうか?それは、教権者たちの権威は下がり、平等な形態を備えるべきであるということです。そして、世界の宗教は統合されなければなりません。こうして「世界連合」や「キリスト教連合」といった動きが生まれるのです。


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いま、私たち平信徒が責任を果たすべき時が来ました。そうではありませんか?歴史を振り返ってみても、そうではありませんか?旧約時代は神が直接摂理された時代であり、新約時代はアダムとエバに代わってイエスと聖霊が摂理された時代でした。そして今日、この終末の時代は、私たちが摂理を果たさなければならない時代です。


神の摂理を私たちの手で成し遂げなければなりません。しかし、ある教権者の支配の下に生きる命は必要ありません。私たちは、自分の価値を世界的な価値と平等に対比し、共に楽しむことができる命の価値を持つべきです。それが、今日の終末の時代における使命なのです。


それゆえ、私たち青年男女は、今日の現実の教会、教派主義に対して、まず反旗を掲げるべきです。そして平信徒の団結を呼びかけなければなりません。平信徒は団結し、不正なすべての教職者を追放する運動を展開する必要があります。


時代の潮流は、これを要求しているということを理解しなければなりません。昔は、一部の主権者や帝王、君主が神の代わりのように振る舞っていました。しかし、彼らが神そのものだというのでしょうか?彼らだけが神の役割を担うべきだというのでしょうか?違います。そうではありません。


すべての人が神の血統を受け継いだ息子娘である以上、誰もが天の息子娘なのです。


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それゆえ、民主主義という形態が生まれました。天は、あなたにも、私にも、天の息子娘となる権利を授け、解放の歴史を進めてこられました。すべてを解放し、開かれた時代を築いてこられたのです。


こうして今日に至るまで、解放を進めてきたこの歴史をどのように収束させるかが問題となっています。歴史も摂理も宗教も解放され、平等の形態を持ちながら動いており、世界の潮流もこのように動いています。この動きの中で、この世界をどのように調整し収束させるべきなのでしょうか?これが今日、政治家の悩みであり、歴史家の悩みであり、宗教家の悩みでもあるのです。では、どう収束させるべきでしょうか?


神は罪の歴史から人間を解放するために、6千年もの間苦労されてきました。多くの預言者や先祖たちを犠牲にし、さらには愛する独り子であるイエスまでも犠牲にしながら、忍耐強くその摂理を進めてこられました。しかし、こうして解放されてきたこの世界を、再び秩序ある新しい形態に変える天的な使命が残されていることを、今日のクリスチャンたちは知りません。そして、今日の人類も、どの宗教も、どの宗派もそれを理解していません。


社会と宗教がこのように動いている中で、終末においてどうなるのでしょうか? 私たちが改めなければならないものは、改めなければなりません。この課題に取り組むことが、今の時代における私たちの使命なのです。


イエスは言われました。「私が世に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)。これは驚くべき宣言でした。イスラエルの民は、メシアを平和の王であり、すべての人の罪を贖う救い主と考えていました。しかし、イエスはこのような驚くべき宣言をなさったのです。民族的にも、社会的にも、国家的にも、また家庭的・個人的にも、存在するすべてに影響を与える重大な宣言でした。


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さらに、イエスは続けて言われました。「私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と不和にするためだ。そして人の敵はその家族の者となる」(マタイ10:35-36)。このような言葉があり得るでしょうか?


さらに進んで、こうも言われました。「父や母を私以上に愛する者は、私にふさわしくない。息子や娘を私以上に愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を背負って私について来ない者も、私にふさわしくない」(マタイ10:37-38)。そして、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそれを得る」(マタイ10:39)と。


これらの言葉は、時代の観点から見ると矛盾の中の矛盾とも言えるものでした。この言葉は、当時の価値観や常識に正面から挑むものであり、イエスがもたらそうとした摂理の方向性を示しています。これは、地上の平和や調和を超えた、神との完全な一致と新しい秩序を目指した言葉だったのです。


イエス以後、2千年の歴史が経過しましたが、もしイエスの時代を摂理の総合の時代、摂理の統合の時代と理解するならば、その時代に提唱された御言葉は、終末の時代において解放されなければなりません。また、聖書66巻の解かれなかったすべての御言葉も、終末の時代に解放されなければなりません。絡み合ったこの世界が解放され、絡み合ったいかなる主権も、いかなる社会も、いかなる家庭も、いかなる個人も、終末の時代にはすべて解放される必要があります。それでは、この中で自分自身はどうなるのかを考えてみるべきです。


イエスは、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。これは、革命的な言葉の中でも最も革命的な言葉でした。この言葉には、自分の両親への思いも含まれておらず、愛する息子や娘への思いも、愛する夫婦への思いも含まれていませんでした。


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天は、この世界が堕落した世界であることを認めておられます。では、この歴史はどこから始まったのでしょうか?それは、アダムとエバが悪魔を中心に血縁関係を結んだところから始まりました。天使長との不義の愛を基盤として、歴史が始まったのです。このような基盤を通じて繁殖された私たち、悪を中心に悪の種を繁殖してきた国家や民族を、天は決して容認することはできません。ここに天の苦悩があるのです。


この現実を前にして、私たちは自分がどのようにして天の御旨に応えるべきかを深く考えなければなりません。それが、今日私たちが直面している課題です。


私たちは、ノアの洪水の裁きで、ノアの家族8人だけを残して世界全体が滅ぼされたことを知っています。なぜ神は、120年間の歳月をかけて箱舟を建造したノアの家族8人だけを残し、当時の全人類と繁殖していたすべてを水で裁かれたのでしょうか?それは、悪魔の血統を受けたその時代の人類と万物を裁き、神の心情と繋がることができる、神を中心として心と体を調和させ、血縁的な縁を結ぶことができる血族と万物が必要だったからです。悪魔と縁を結んだ血族ではなく、神の愛と縁を結ぶことができる血族が必要だったのです。このため、神はノアの家族8人を残し、当時の全世界の人類を滅ぼされたのです。


イエスが万民の救い主として来られたとき、どのような救い主として来られたのでしょうか? それは、特定の主義や思想を掲げるための救い主ではありません。また、社会の環境を開拓して幸福な環境を作るために来られた救い主でもありません。


では、どのような救い主だったのでしょうか? それは、万民の命を神の命へと移し変えることのできる救い主でした。神の理念を人々に与えることができる救い主でした。そして、神の命と神の理念を備えさせ、神の愛を享受できる立場へと万民を導くことのできる救い主でした。


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イエスはこのような内容を持って来られましたが、その生涯、その心情、その愛の心情を人間の中で理解できた者は一人もいませんでした。イエスの使命と目的は、地上で天の命、天の理念、天の愛を実現することであり、それを通じて全人類を神のもとに導くことだったのです。しかし、人々はそれを理解できず、イエスの心情を受け入れることができませんでした。


このような背景の中で、イエスは嘆かれました。「もし私が地上のことを話しても信じないならば、天のことを話せばどうして信じることができようか」(ヨハネ3:12)。また、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とも言われました。この言葉は、何を基盤として語られたのでしょうか?それは、当時のいかなる主義や思想、制度、または家庭的な基盤や人情的な基盤を基にしたものではありませんでした。


イエスは、新しい理念を基盤とする制度を思い描き、その新しい制度の中で命の実体が喜びを享受できる時を夢見ていました。さらに、その実体たちが神と共に永遠の愛を歌うことのできる時を切に願う心情から語られた言葉だったのです。


このように見るとき、イエスには本当に「枕するところ」がありませんでした。イエスは極めて孤独な存在であり、哀れな存在でした。なぜなら、彼は世の中と正反対の、180度逆方向の内面的な心情と世界観を持って来られたからです。


彼が立っていた場所も、敵の土地であり、彼が生きていた生活環境も敵の環境でした。彼が従っていた主権も敵の主権であり、彼が愛を探し求めた場所も敵の世界でした。したがって、イエスがどこに動いても平和はあり得ませんでした。彼が出会うすべてが敵であり、彼が向き合うものすべてが敵でした。


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それゆえ、イエスの生涯は闘争の連続であり、彼が歩んだ道は苦難の道そのものでした。このような中で、彼の心情と摂理の目的は決して理解されることなく、受け入れられることもありませんでした。それが、彼の孤独と苦しみの根源でした。


そのような状況の中で、天の生命的な基盤を築き、神に代わって解放運動を進める責任を担ったのがイエスでした。また、天の永遠の理念的な基盤を築き、その理念を中心に革命を起こす使命を持ったのがイエスでした。今日、私たちが知っている「十字架で血を流し、死によって万民を救った弱きイエス」ではありませんでした。イエスは、億千万の人々の心と良心を貫き、イエスが右に行けば彼らも右に、イエスが左に行けば彼らも左に向かうような運動を起こそうとされました。彼の関心はそこにあったのです。


天は解放運動を進めるとおっしゃいました。時代も解放され、歴史も解放され、この世界のすべての主義や思想も解放され、宗教も解放されます。これらすべてを解放した上で、何をもってこれを統合するのでしょうか?それは、人間社会には存在しなかった「一つの心情」によって統合されるのです。


そのため、今日の人類が堕落の縁によって生まれた人種であるため、間違った関係の世界を打破する歴史が展開されています。この歴史は、解放と同時に、天の愛と心情を中心として人類を一つに結びつける新しい基準を築く運動であり、イエスが示そうとした方向性を完成させるための歩みなのです。


そのため、終末の時代には、イエスが過去に宣言されたように、「私の親、私の子が、つまり父子の関係が敵となるべきだ」となるのです。また、「あなたの夫婦、あなたの家庭そのものが敵である」と言われました。今日、家族を単位とした社会の形態を見てみてください。父子関係の義理が崩れていっています。そうではありませんか?親が子を殺し、子が親を殺し、夫婦の義理も崩れ、家庭内の義理も壊れています。


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人々が提唱していた倫理や道徳も崩れ去り、宗教の教理さえも破壊されています。このようにして、何が正しいのか、何が間違っているのか分からない時代に突入しました。すべてが揺れ動き、混乱しています。


このような中で、希望を見出せず嘆き、悲しむ立場にある時、「お父様、どうかこのような時代を迎えさせてください」と祈る人々が、三千万の民族の中から現れなければなりません。「どうかそのような時代を実現させてください」と祈る、天の息子娘たちが現れる必要があります。


今日、私たちは、イエスが宣言された言葉が、外的な形ではありますが、自動的に実現している様子を目の当たりにしています。では、なぜイエスはこのような言葉を語られたのでしょうか?それは、結局のところ、過ぎ去らなければならない歴史であり、清算されなければならない情的な基盤であったからです。


そのため、イエスは「私は神の息子である」とおっしゃり、天の心情を抱いて来られた神の息子であると宣言されました。そして、天の心情に代わって、信徒たちを兄弟姉妹と呼ばれました。すべてを明確に語られたのです。この宣言の中に、天が地上で成し遂げようとする新しい秩序と心情が含まれているのです。


では、終末のこの時代に、全世界の人類は何を感じるべきでしょうか? 神は解放運動を進められ、歴史も、宗教も、私たちの家庭基盤も解放されました。それでは、これらを統合する一つの基準とは何でしょうか?それを見つけ出す必要があります。


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神は人間に対して、万物を主管するよう祝福を与えられました。神が創造されたすべてのものは、人間の主管権の下で動くようにと約束されたのです。そのため、今日の世界は、人間が主管できる世界の形態へと向かっています。これは外面的に実現されつつあることです。


私たちは「神の御旨を復帰する」と言いますが、復帰は神からではなく、個人から始めなければなりません。その次に家庭の復帰へと進み、兄弟を復帰し、さらに親を復帰していく必要があります。


復帰の順序は、個人が神との関係を回復し、それを基盤にして家庭、兄弟、親と広がる形で進められます。この順序を通じて、神の御旨が地上に実現されるのです。全人類がこの方向性を認識し、自分自身から始めて家庭、社会、世界へと神の主管のもとに復帰していくことが求められています。


今や私たちは、イエスに代わることができ、イエスが提唱された御言葉を通じて、私たちの情的な心情を貫くことのできる存在を切望すべき時代に来ています。この存在が問題の核心です。どれだけ多くの人が集まっていようとも、神が最も愛する存在が複数いることはありません。情的な世界は一人の存在が主観するものであり、二人が主観することはできないのです。


今日のキリスト教や社会の歴史を総合的に見たとき、歴史的に代表できる民族、時代的に代表できる民族、宗教的に代表できる民族が必要です。その中で、主義や思想を代表する一人の存在が必要です。この一人が問題なのです。天はこれを広げて統合しようとしており、そのためには一つの中心を立てなければなりません。


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4千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られたのがイエスであったように、6千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られる方が再臨主です。そして、その再臨主はどのような主義や思想を持って来られるのでしょうか?それは、「心情主義思想」です。


歴史を振り返ると、思想主義の時代以前には真理主義の時代がありました。哲学的な基盤や知識的な基準を持って社会を導いてきた時代です。そして、それを経て今日の思想主義の時代に至っています。しかし、今日においても哲学的な基盤に基づいて動いているものの、それも思想圏内で互いに批判を受けています。


最終的には、再臨主が心情を中心とした思想を提示し、すべての歴史、思想、そして心情を統合する基盤を築かれるでしょう。この新しい基準が、人類を導き、神の御旨を地上に成し遂げる鍵となるのです。


思想主義の時代が過ぎ去った後、人類が最終的に求める時代は「情的主義の時代」です。それは単なる人間的な感情(人情)ではなく、天の心情を通じることのできる「情的主義の時代」です。この時代について私たちは深く考える必要があります。どれほど優れたものがあったとしても、必ずこのような時代が訪れなければ歴史は解決されることはありません。


このような世界的な終末時代が訪れるとするならば、宗教理念を持つ世界的な宗教の中で、キリスト教がこれを最も深く洞察してきました。では、キリスト教の情的な基盤とは何でしょうか?それは、イエスが「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られた新郎新婦の横的関係、そして「神は父であり、私は子である」と語られた父子関係に基づく理念です。また、「すべての人類は兄弟である」と宣言し、全世界の人類を兄弟として結びつけた理念です。


31


これらは単なる観念主義ではなく、良心を超越した情的主義です。この時代は天の心情を通じる「天宙主義の時代」となるのです。


「天宙主義の時代」では、神と人間、そして人間同士が天の心情を通じて真に結びつき、横的な新郎新婦の関係、縦的な父子関係、そして全人類の兄弟関係が実現されます。この新しい時代は、人類の最終的な希望であり、歴史を完成させる鍵となるのです。


天は、一つの完全なものを見出すため、完全な「一つ」が現れるために、偽りのものを打ち壊されます。腐敗していくように見えながらも新たな革命の旗が掲げられるように、世界が分裂しているかのように見えながらも内面的には統合に向かっています。このような原則があることを私たちは理解しなければなりません。


このような世界は必ず訪れます。その世界は全体として来ると同時に、個体としても訪れます。問題は全体ではなく、個体にあります。そのため、個体を尊重する観念、自分自身に対する観念が重要です。では、あなたは今どこにいますか?天はあなたに対して、「どのような主義、どのような宗教、どのような歴史的な潮流、どのような位置にいるのか?」と問いかけるでしょう。


この問いに対して、あなたが「お父様!」と答えられるためには、かつてイスラエルの選民に向かってイエスが主張されたように、「私は平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来た」と言える存在でなければなりません。また、「人間を愛するよりも天を愛せよ」と堂々と述べることができる、責任感を持った毅然とした姿の人物でなければなりません。


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そのような責任を完遂することができる人物、天の御旨に応えることのできる人物になることが求められます。それは、全体の変革や統合の中で、自分自身が個体としての使命を果たし、天と直結する存在となることを意味します。あなたの位置を問い直し、天の問いかけに真に応える準備ができた人が、その役割を果たすことができるのです。


だからこそ、すべてを解放しなければなりません。歴史を解放し、宗教を解放し、心情の世界を解放しなければなりません。そして、これまでの主義や思想、理念に代わる新しい理念、これまでの生活環境で得ていた命の力に代わる新しい命の力を持たなければなりません。その命の力と理念と共に喜びを享受できる新しい心情を持つ必要があります。


イエスは、当時の悪魔の世界に来られたために、その時代に歓迎される存在ではありませんでした。イエスには、その時代に友人や協力者はいませんでした。孤独に迫害を受け、最後には一人で十字架を背負われました。天を代表して来られた方でしたが、悪魔の世界という敵の地に来られたため、その世界にとってイエスは敵そのものでした。敵を歓迎することなどあり得ません。それを歓迎するなら、それは偽りです。


今日、民主社会においても、その社会に反対する代表者が現れると注目を集めます。同様に、共産社会でもその社会に反対する主義を掲げる者が現れると、関心が集まります。キリスト教社会でも、その思想に反対する主義を持つ者が現れると注目されます。さらに、心情世界において新しい主義を掲げる者が現れると、すべての人間が関心を持たざるを得ません。このような時代が訪れていることを、私たちは認識しなければなりません。


この時代には、新しい命、新しい理念、新しい心情を持ち、人々の注意を引きつける中心が現れる必要があります。その中心がすべての対立を超え、解放を成し遂げ、統合する新しい時代の基盤を築くのです。この歴史的転換点において、私たちもまたその変化にどう向き合うべきかを深く考えなければなりません。


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御言葉選集6(9)

2024年11月03日 17時38分42秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 6 - 9
新しい自分と、その自分が生きることのできる天国
1959年6月7日(日)、旧本部教会


ヨハネによる福音書 3:1-15




1
<祈り(Ⅰ)>


困難な人生の道を歩む私たちが、心に沈んでいることを知らないであり、考えが残っていることも知らないであることを信じます。神様になる、そしてこの地と全ての人々に向かって歌う心を大切にしていなかったことを知っています。


父なる神さま! あなたが私たちに与えてくださった賜物が圧倒的に素晴らしいものであり、偉大である私たちが感じていますが、その賜物を受けながらもあなたに栄光をお返しすることができなかった私たちを、お父様、どうかお許しください。


父なる神様、あなたは悲しみに満ちた世の中にあって、その悲しみを覚悟する道を先に私たちに示してくださったのに、その予告された御心に十分に受け止めることができなかった私たちを、どうぞお許しください。


私たちは、残された人生を父なる神様の喜びと栄光のために捧げ、すべてを神様の心に忠実になって生きていきたいと願っております。悪魔の権勢があまりにも強く、私たちの周囲を取り囲んでおります。 これらの束縛から抜け出すことが非常に難しいことを、父なる神様もご存じであると信じます。この時、私たちのもとに顕現してお導き下さい。


これまで、解放された場であなたの栄光を讃え、あなたの先に喜びを捧げることができなかった私たちを、どうかお許しください。力と希望をお与えください。 私たちの勝利の姿で復活の栄光を賛美することができるよう、再創造の御業を起こしてくださいますよう、父なる神様、心から切にお願いいたします。


2


死の権勢が私たちを押し流しているため、私たち生命の覚悟を持ち、生死をかけた闘いを経てこれを押し進めていくための、自発的な力と自動的な能力が必要です父なる神様、今この時、その力を切にあなたの息子や娘がここにおります。に、一日一日の生活を切り拓いていく天の鋭精たちとならせてくださいますよう、愛する父なる神様、心から願い求めます。


これまでの歩みが前進したとしても、父なる神様、どうかお許しください。 もし未来にあなたの御心があれば、その御心と理想、そして希望を見据え、今日も明日も開拓者としての責任を果たせるようお考えくださいますよう、愛する父なる神様、切にお願いします。


父なる神様、今は自主的に聖別し、自主を省いてあなたの前にあってはいけない時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心情を通じ、自らサタンの勢力を取り除き、自らの勝利の姿であなたに栄光を讃えることができる者が必要とされます。


父なる神様、この道を歩むために、あなたの心情を察する御言葉も聞き、あなたの恵みを証する行為も見てきました。祭壇を向こう、天の精鋭とならなかったことで、あなたの嘆きを言うのではないかと恐れております。


お父様に対して忠誠を尽くしたと自負する者があり、お父様に対して自ら正しいと主張する者が果たしているでしょうか。私たちはただ不足しているものばかりであり、不忠な部分ばかりがある者たちでございます。善を志向されるお父様の御心を知り、善の意志を立てようとされる方をお探しであることを承知しつつも、思い通りに行動できない不忠の身でございましたことをお許しくださいませ。このような事情が交錯するお父様の御心を知ることにより、私たちのすべてを差し出し、お父様がお受けになることができるものとして再度整頓させてください。お父様の御心をひたすら抱きしめ、お父様にすがり、お父様の行かれる所に私たちも共についていくことができ、お父様が動かれるままに私たちも共に動き、お父様が行動されるままに私たちも行動できるようにしてくださいと、お父様、心から切望し願っております。


3


ただひたすらあなたの情に抱きつき、あなたにしっかりと捕らえられて、あなたが行ける場所にはどこでも私がいられるように、あなたが動けるたびに私たちも一緒に、あなたが行動されるたびに私たちも一緒に行動できるようにしてください。父なる神様、心から切に願います。


父なる神様、今は自主的に聖別し、あなたの御前に立っつべき時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心を理解できる者、自ら悪魔の勢力を抑える事ができる者、そして自ら勝利の姿を備え、あなたに栄光をお返しすることができる者が必要とされます。そのような姿を成し、そのような存在を立てるために、あなたは私たちをお呼びくださいましたが、今日の私たちはあなたですの御前に顔に向けられない姿であることを、お許しください。


父なる神様、この道を歩むにあたって、あなたの心情を理解するための御言葉も聞き、あなたの恵みを証明することも目にしてまいりました。天の御前に忠実な祭壇を築くことができず、天の精鋭になれないため、あなたが怒られるのではにもどうか恐れております。


父なる神様、あなたに対して忠誠を尽くして言う者や、自主的に正しいと胸を張り張って言う者が、私たちの中にいると信じています。私たちには至らない点ばかりで、善を追求されるあなたの心情を理解し、善の御心を中心として見る者をお探しであることを知りながらも、その御心通りに行動できない私たちを、どうぞお許し下さい。


このような状況の中で交じり合ってあなたの心情を考えて、私たちを差し出して、あなたが見つめられるように再び整えられることができますように。捉えられ、あなたが行ける場所へどこへでも私たちも共に行き、あなたが動くたびに私たちも共に動けるようにしてください。神様、心から願い求めます。


4


どうか、この三千万の民族を再創造してください。この人々の生命を再び、父なる神様の希望の園へと導いてください。この民族を導くために適当たち私とならせてください。この御心を申し上げますために、まず私たちを神様の御前にお招きいただきましたので、この皆様に天の心を伝える責任を果たせるようにお許しください。 そして、天の御言葉を伝えることのできること息子娘とならせてくださいますよう、父なる神様、心から願い求めております。


父なる神様、今日ここに集まったあなたの息子娘達、それぞれの心情は違うかも知れませんが、その心の中心は同じであると信じています。あなたの心情を供えたいと願っていますから、この思いを元にお導きください。父なる神様、どうか動かれて、私たちに復活の栄光をお示しください。そして、私たちを解放の恵みの領域に移してくださいますよう、愛するお父様、切に願っております。


この時、あなたと私たちの間に隙がないかと、数え切れない悪魔が見つめていることを私知っています。私たちの体、あなたの事情と私たちの事情、あなたの願いと私たちの願いを合わせて、お父様が優しく私たちに取り組んでこのひとときとなりますよう、心から願いを求めます。


どうか私たちが押し寄せる悪魔のあらゆる力を避け、父なる神様の御前に勝利の栄誉を捧げることを約束するこの時とならせてください。そして、最終的な決断を下して頂きます様に、愛するお父様、心から願っております。


父なる神様、この時間をお決めしましたので、どうかあなたの御心のままに導いてください。そして、私たちの前に親しく御言葉を伝えて頂き、その御言葉をお授けください。


5


これからのすべての時間を聖なる三位一体の神が優しく主宰してくださいり、数千万の聖徒が共に守って悪魔が一切入っていないことのできない時とならせてください。た体、聖別された心情とともに、生ける供え物として父なる神様の御前に寵愛され、「神のものである」と認められるこのひとときとならせてくださるこの礼拝の時間となりますよう、心から願っております。


出席できなかった兄弟姉妹がいた同様に、どうか父なる神様、同じ恵みによって彼らをお守りください、祝福が恵みによって守られるよう、心からお願い申し上げます。すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン


どうか今、私たちの心がどこに残っているのかを見つめられるようお許しください。 体は一つの場所に集まっておりますが、心は様々な方向に動いていることを承知しております。の塊が自由に動ける父なる神様の御手に従っていたアダムのように、私たちの心もまた、父なる神様が主管されます様に願います。


今、私たちの体は一つの祭壇の形を成していますが、その心の本来の姿と本質が、父なる神様の心情を近く至聖所としているように、このひととき、尊き父を恋い慕い、畏敬の思いを持てる様にお許しください。


穏やかな父なる神様の御姿に接して、自分でも知らぬ間に切なる思いが心に染み渡るような感覚がなければいけないと感じています。深いところで私たちと語り合うことを喜び、静かに現れて私たちの使命を傷つけようとされる父なる神様の御働きを、私たちは心から望まずにはいられません。


6


私たちは、静かにおられる父なる神様をお迎えし、父なる神様と密かな事情を通せることができる姿になれなかったとき、悲しくて孤独な方は父なる神様であり、困難な立場にいらっしゃったのはお父様であった事をしっております。


そのような立場に優しい父なる神様を私の優しい父としてお迎えし、一体となる関係を結び、永遠の命と永遠の愛を中心として一時的に分かれることのない縁で結ばれていると思われてもいいと思うそれでも、もし私たちの心にこのような思いが湧き出ない時には、どうして私たちはあなたの息子と娘と呼ばれることができますか?もしそのような私たちであるならば、許されようとしている天国の理想も私たちには関係がなく、歴史を通して労をとっていた父なる神様の慰めの基盤も私たちには無縁であることを、この時に悟らせてください。


慈悲深い父なる神様、愛の父なる神様、哀れな者達をそのまま放置すれば、死の影の中で永遠に抜け出せない姿になってしまいます。 、何を持っているというので、父なる神様の前で自分を弁明できるでしょうか?何もありません。あると言うのは至らなさばかりであり、感じているのは畏敬の心のみであり、お父様の御前にお許しを願うばかりで御座います


摂理の時は終わりを急がせており、死の波が私たちの周囲を押し寄せて、私たち一人一人を容赦なく飲み込んでいます。覚悟の父なる神様が、私たちのために憂θされるその心情がこの地に残されており、労苦の跡が残っていることを知っています。神様の心が言い表せないほど焦っておられることを理解します。どうか、お父様、この時、私たちを見つめて、導いてくださいますよう、心から切願っております。


私たちが孤独な心情を抱えているなら、この時すべてを把握して頂き、その心情を包んで変えて頂ける様にして下さい。悲しみと苦しさを抱えているなら、お父様の喜びを持って命の心情に変えて頂き、困難な状況をから再び力を求めなければならない事をお許しください。お父様、心から切に願い求めます。


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お父様、ここに集まった者の心情を共に一致させて頂ける様にお許しください。そして、お父様の天的な理想を目指し、その摂理の理想を仰ぎ求めてここに集まりましたので、お父様、どうか私たちを覚えて下さり、訪ねてくださいますよう、心からお願い致します。


誰がお父様の御前で自信を持つことができるでしょうか? お父様が「自信を持ちなさい」と語って下さったので私たちもまた自信を持ちたいと願いました。 「これが正しい」と言われたので、私たちもそれが正しいと感じたいと願いました。


父なる神様、三千万のこの民族をご覧下さい。どこへ進むべきかも知らず、苦しみ中、生と死の岐路で叫び声を上げています。悪魔の手がこの人々の命に向かっています。その勢力はますます増しており、お父様、私たちはこれを悲しむことしかできておりません。この人々の道を切り開き、彼らを縛る死の縄を断ち切り、勝利の基盤を高めなければいけないことを私たちは知っています。お父様、もし私たちに力が足りないのであれば、その力をお与えください。また、決断と勇気の心が足りないのであれば、その決断と勇気をかつてヨシュアとカレブに「強くて、勇敢であれ」とお告げになったように、今この時、同じ励ましの言葉をお許しください、私たちを励ましてくださいますよう、お父様、心からお願い致します。


どうか私たちがこの三千万の民族をお父様の祭壇の前に考え、お父様の命と結びつけることができるようにお許しください。それが断たれないように、すべてを犠牲にしてでも戦い抜いて、お父様の息子娘となれるよう導いてくださいますよう、お父様、心から切実に願っております。


今日もまた、遠く地方に広がっているあなたの息子娘達、悲しい心情を抱きながらお父様の前で思い出していることと思います。私たちを励まし、慰めてくださいますよう、心から切にお願い申し上げます。


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悲しい状況に置かれても、人にその思いを理解する環境がなく、孤独な立場にあってもその心情を分かち合う家族を持たないあなたの息子娘たちを、どうかどうか考えてください。心情に結ばれた世界では、時間や空間の距離を超えて動くことができることを知っています。どうかお一人様に恵みの御手を差し伸べて、皆様の心を感動させて、またお父様の心情にしっかりと取り組んでくださいますよう、お父様、心から切にお願い申しあげます。


今、許されたこの時間に御言葉を持って下さるお父様、共にいてください。良い言葉も祝福の言葉も必要ありません。悟ることであり、苦痛の血統から抜け出さずにおり、裁きの座に立つことを恐れる心を持つことである事を悟らせて下さい。心よりお願い申し上げます。


どうか、伝える人の心も、受け取る人の心も二つにならず、一つの心情が繋がり合って、お父様の静かな心情に通じるように導いてください。神様の前にひざまずいて、自分でも知らぬうちに礼拝したような心情で溶け込む一時となるように導いてくださいますよう、お父様、心から切にお願いします。


今までに無い時間となるようお導きください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン






<御言葉>
「皆さんに伝えたいテーマは『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』です。この『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』というテーマについて、少しお話したいと思います。


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地上には多くの人が住んでいますが、その心に天国を持っていると認められる人は誰もいないでしょう。また、人間が憧れ、探し求めてきた理想世界とは何かと言えば、それがすぐそこにあった天国です。


「今日のこの世界には、良い生活を送り、恵まれた場所にいたいと望む人は多いですが、『よく生きた』とか『祝福を受けた』と言う人は非常に少ないのが現状です。今の状況を考えると、地上で生きている私たちの生活が天国生活ではなく、その逆の生活であるこの境界線に立つ私は、天国に向かって進むべき立場にあります。そのような場所を目指して生きていかなければ自分の立場である私たちである自分自身のことも否定できません。ただし、私の心はより良い理想を求め、私たちの身体もよいものを求めます。


「しかし、今日に続くまで、歴史上これが最高に素晴らしいものであり、ここが人間の本心に近い場所だと自信を持って示せるような場所や、それなりの生活様式や生活を営む社会組織は、まだ人類の歴史の中に現れていません。


私たちの心が理想の世界を超えているにもかかわらず、望まない生活環境から逃れられず、今日も困難と共に生きています。そしておそらく明日も同じでしょう。私たちの人生の歩みの中でも、理想の世界を憧れながらも、その環境の中で嘆きや不満を抱いて生きている状況にあることを、誰も否定することはできないでしょう。


このような困難な環境に置かれた自分自身を勇気づけ、乗り越えて、さらにまた乗り越えていくことで、私たちが望む希望の園、理想の園、幸福の世界をいつかは実現し、いつか私たちが本当に願うものを中心にして生きられるのでしょうか? これこそが、今日の私たちが全面的に深く考えなくてはならない問題の中の問題であり、人類が再び、解決しなくても良い、最も難しい課題であることを私たちは理解すべきです。


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だから、私たちはこのような問題をただ見ているだけで省略することはできません。 また、これは実現が難しい問題だとしても、私たちはそれを断ち切って生きることができない運命にあることを、自分の人生を通してよく理解しています。


私たちはこの地上に生まれました。しかし、この地上に一つの人生を持って生まれてきたのが先生たのか悪かったのか、私たちは深く考えたことがありません。人々の中には、現実の中でこうして生きていることが真実の人生なのか、今日はないのかを考えずに生きている人が多い。 「いく、一応死を迎えなければいけない立場にあることを理解しています。私たちには、死という峠を越えなければ運命に置かれていることをよく知っています。


そもそもは、自分の死が真実の死であるのか、自分が真実の場所で死ぬのか、現状ない場所で死ぬのかみたいな問題が、皆さん自身と直接関係しており、皆さんの人生真剣に取り組んでいます」ことを忘れてはなりません。私たちが一度始めたことには必ず終わりを迎えなければいけない、ありがたい関係の中に置かれていることを意識する必要があります。


自分が親の血肉を受けてこの地上に生まれたことを誇りに思う人も多いかもしれないが、真の親の心情を持っている者であれば、生まれた子どもを見て嘆いているおそらくその子が生まれた瞬間、幸福の巣にいるようであっても、その人生が幸せであると断言できない以上、産んだ親自身も喜びの心情を味わう前に、悲しみの心情を味わうのが一番なのです。


その子の誕生が幸福の楽園から来たものでないと認めない、その子が生きる生活もまた同様であり、そしてまた死の峠も同じようなものでしょう。このような状況の中『あなたは真の人生を切望したことがあるのか? あなたは真の人生の価値を讃えながら最後に嬉しい死を勝利のうちに乗り越えていける自信があるのか?」と問われたとき、誰も『いいえ』と答えるでしょう。


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そのため、このような個々の人間、すべての人間が堕落の範囲内にあり、嘆くべき運命にあることを否定できません。覚悟して、私たちは正常な心の世界にいるのではなく、異常な世界、異常な環境に置かれています。そのため、人生全体、とりあえずその日から死ぬその時まで、誰もが『幸福』という言葉を本当に求めることができないのです。


人間が求める幸福や理想、希望といったものは、実際には今日の私たちと関係を持っていないことを冷静に考えないといけません。自分が自ら楽しんでるだけで、喜ばせる存在にまだいないからです。


私が自分の内に希望の実体を持っていれば、その希望を実現したことで喜びを感じることができるでしょう。また、もし私が理想の実体になっていたら、あらゆるものに『私についてこい』と堂々と、自信を持って立つ立場に立つことができたはずです。ですが私はそのような立場に立つことができていないのです。


本来であれば真の理想を持つべき人間が、そのことを見据えず、幸福な環境で生きるべき人間が幸福の理想楽園を無理してしまいました。 本来、人間は自由と平和を歌い、さらに創造主の前で、自分の心に染み込むような全ての幸福の要素を持って栄光を讃える存在であるべきであるにもかかわらず、そのような存在になることができませんでした。


これ以上に哀れで悲しいことはないと、まず理解しなければなりません。


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そのために、イエス様は4千年の歴史のすべての重荷を背負い、4千年の歴史の中で生きた先人たちのすべての責任を担い、また4千年の歴史の中で人々が思ってきたすべての理想と希望を背負い、幸福な天国の理想を持って来られたのでした。これは中心の中の中心であり、私たちの生活全体の中心であり、希望や理想、さらには生死における中心にまでなれたはずです。そしてイエス様はこの地上に『幸福』という名詞を残しました。


天は、この嘆きの領域に残っている人間たち、不幸な死の領域に残っている人間たちを、新たな希望を持ち、新たな天国の理想の中で幸福を感じられる存在に回復させる」そのために、そして自分の意志をもう一度立て直すために、4千年という長い年月をかけて摂理を行ってきたのです。


では、この摂理を成就させるためには、まずどのような作戦を立てて進めばよいのでよろしくお願いします。 それは、一人の人を立て、その人を聖別し、特別な立場に立つという方法を現在、地上にいる人間はそのままでは天とつながることができないため、天は長い歴史の中で人間とつながりを持つために、選ばれた民を選んであげられたのですそして、その選民の中からさらに選ばれた者を立てられたという摂理の歴史の歩みを、私たちはよく理解しているのです。


ノアを選んだこともそのためであり、アブラハムを選んだこともそのためであり、モーセを選んだこともまた同じ理由でした。


神はイエス様お一人を立て、4千年の歴史を終結させ、このイエス様歴史上のすべての真剣を晴らし、解消しようとしました。それが神の御心だったのです。しかし歴史的な摂理に従って選ばれたイスラエルの民も、イエス様に反意を持つ状況に置かれました。イスラエルの民だけでなく、その時代に生きていたすべての人類もまた、イエス様に従えないという立場にあったのです。 これまでのどの被造物も同じ状況にあったのです。


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天が存在しないのであれば別ですが、仮に天が存在するのであれば、実体である人間が望む理想の中心や幸福な環境を実現するためには、必ず行う原則的な基準を定める、その基準から始めることが摂理の絶対的な法則であると言えるでしょう。


公式を通さなければ問題を解けないのと同様に、歴史的な懸案を乗り越え、人類の心に紹介できる一つの原則的な基準が立てられなければ、天のどのような幸福があってもいい」同様に、天のような理想や命があっても、それは人間と関係を結ぶことができません。そのため、天の心情を代わりに伝え、天の幸福を代わりに実現し、天国全体を代わりに担えるようにするために、神はイスラエルの民にそのような心情を忘れて理想的、理想的な継承が可能な摂理を進められたのです。 、そのイスラエルが天と実体的に不安く幸福の園、善の園を築くために、神は4000年の摂理の歴史を経てイエス様を送られたということを、私たちは理解しています。


では、イエス様とはどのようなお方でお願いします。4000年の歴史の歩みでは、誰も神の喜びを紹介することができませんでしたが、イエス様の到来によって神の初めての喜びが紹介され、神が許された幸福の園が築かれる可能性があったのです。私たちは、イエス様がそのように歴史的な新しい存在であったことを理解しなければなりません。イエス様の姿こそ、先祖たちが待っているだ一つの実体であり、先祖たちは戦いながら求めようとした希望の存在であったことを、当時のイスラエルの民は理解しませんでした。


また、イエス様ご自身は、先祖たちの希望を再び蘇らせて存在してあり、さらに神の心に深く刻まれていた地上の希望を代わりに考えて存在しました。そして、神が本気で思ってやまなかった天国の理想を人間世界に実現するために送られた神の代理人としての存在であり、人間にとっては幸福の園を築くための私たちの代理人でもあったのです。そのために、イエス様は地上に来られたもの、新しい世界の主人公とはならぬ、新しい世界の民を持つこともできず、新しい世界の生活を開く切り捨てることもできず、新しい世界の社会や新しい世界の国家を築かず去られたということを、私たちは理解する必要があります。


現在、私たちが生きているこの地は堕落した世界です。堕落したこの地上のすべては、神が頂上でおられた実体にはなりえないため、神が喜ばれる形として現れることができません」のです。、私たちが暮らしている今日の生活や環境、国というものは、神の心情に直接見られることができない環境であり、社会であり、国であり、世界であるため、神はこの世界「『裁き』という名前を考えて見られるということを理解しなければなりません。


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では、神が今待っているのは何でしょうか? それは新しいものを待っているということを理解しなければなりません。イエス様がユダヤ教の前に現れて、選ばれた民として誇示していたパリサイ人たちの前に現れたとき、イエス様は彼らに向かって『あなたたちが主張し、誇示しているものだけでは十分ではない』と言いました。実体として、新しい理念と新しい宇宙観を携えて来られたため、『誰も私を通らなければならない』ということを示すために、またその立場を宣言するために出ていき戦われたのが、イエス様の3年間の公生涯であったということを、私たちはわかりませんでした。


そのようなイエス様の前に集まった多くの群衆や、イエス様についてという弟子たちに対して、イエス様は新しい群衆となり、新しい弟子となることを願われました。はイエス様と出会いながらも、彼は新しい心情、新しい理念、新しい命、新しい幸福を紹介し、それらを築くために来られたと信じて従った人は随分いたのです。地上に来られながらも、自らが新しい理念、新しい主義、新しい生活様式、新しい世界の形を十分供えていました。


このような心情を抱きながら拝見されましたイエス様の前に、ニコデモが現れました。彼はユダヤの指導者であり、選ばれた民を率いる立場にある教師でした。イエス様は彼に『もう一度生まれなければいけない』ことを強調しました。 同様に、今日の私たちもまた、再び生まれなければ運命に置かれているのです。


6千年の歴史にもしも終末があると考えるなら、その時に歴史のすべてを清算しなければ天は見てられます。 天は、この罪に満ちた世界をある時点で裁き、清算そのため、私たちは今日、終末の日を恐れながら信じる道を心得ています。すべて清算し、新しいものを掲げる必要があります。


歴史の歩みを振り返ると、過去に多くの主義や主張が歴史の進歩とともに歩みやってきました。そして、終末の瞬間ある今日、私民主主義と共産主義がどちらも優劣を競い合っている状況にあります。


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今日、天は私たち人間に対して、新たな第二の自分となることを捉えております。そのため、皆さんの良心は、今の自分ではなく、さらに新しい自分を求めてさまよっているのです。良心に従って生きている私たちは、この事実を否定できません。私たちの良心は『このままではいけない、このような生活を続けてはいけない…』と感じ、このような社会や世界の現状ではいけないと感じています。


そのため、私たちは良心の働きによって、自分の心や理想に沿って、心の中に平和をもたらし、心の中で幸福を感じられる新しい自分の姿を、知らなければなりません。


イエス様は、4千年続く命の帰還摂理の歴史を終結させるために来られましたが、何を持って来てくれたのでお願いしますか?それは新しい命を持って来られた。だけでなく、新しい理想も持って来られたのです。 そして、新しい理想を持って来たと同時に新しい命を持ってこられました。


今日、皆さんは、自分の心情を通して天から与えられる運命の流れがある時々、その流れと一体となり、共に動ける生命の躍動を感じることができるでしょうか? 存在、理想的なものすべてを動かせる中心的なの心情を感じられているでしょうか? 万象を抱き、その心情で包み込むような愛の心情を体験できているでしょうか? 私たちは、残念ながらそのような状態には達していません。


神が存在するなら、その神はどのようなお方なのでしょうか? 生命力を持つどのような存在も、今日この瞬間も動き続け、さらに今日も、永遠の未来に向けても動き続ける方です。また、生命を持つ存在であれば誰でも、神と共に永遠にいたい、神を中心に生活を共にし、生死さえも共にしたいそのような理想の範囲から外れることができない世界において、本体として存在されるのが神なのです。創造された万物と深く関わりながら、全宇宙を主管されるお方であるのです。


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今日、私たちは新しい心情を待っています。そして、新しい理念を探しています。その新しい理念はどこで上映するのでお願いしますか?それは、人と人の間で成り立つものではなく、私と神歴史の終末には必ず裁きがあるだろうが、その裁きとは何でしょうか? それは、神と人間が存在していたすべての間接的な条件を清算する「してしまうことです。この間接的な条件が清算されると、そこから人類と神が直接見つめられる新しい歴史が展開されるのです。


こんなことがなければ、神が存在しても意味がありません。もし神がこのような目的を中心に摂理を進めておられないのなら、今日のキリスト教において『裁き』という言葉」 「しかし、『裁き』という言葉があるから見て、この目的を中心に摂理を進められるお神が確かに存在していると考えられます。


私たちは堕落によってすべてを学びました。生命の本体となる主人公を学び、理想の主人公を理解し、愛の主人公を通り抜けた存在なのです。そのため、私たちの心は真の喜びを覚悟生命私たちの心は、より高い宇宙的な理想を待っています。そして私たちの状況は、さらに高次の愛を求めています。


堕落後、人間が探し求めてきた生命力、人間が追い求めてきた理想、堕落した人間の情を中心に絡み合ったその愛というものは、堕落の歴史から出発したものであり、神の理想があった楽園から始まったものではありません。


今こそ、6千年の歴史のすべてを未練なく押し流せる生命力が必要な時が来ています。私たちには、歴史に代わることができる生命力、6千年の間に積み重ねた力や生命の価値を誇ったそのすべてを、ためらわずに押し流さなければなりません。


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6千年の歴史とはどのような歴史でしょうか? それは、生命力を持った人間に回復するための歴史です。 思い切って、今日の私たち、6,000年間サタンが守り、サタンが支配してきた領域で動いていたすべてを押し流すことができる生命力を持たなければなりません。


新しい自分として現れるためには、6000年の歴史の過程で今日まで形を成してきたあらゆる主義や思想があっても、それを押し流せるような新しい理念を持たなければなりません。でなければ、私たちは新しい時代の先駆者として立ち上がることができませんし、私自身が新しい自分として生まれ変わることもできないのです。 6000年の歴史を拒むだけの生命力を持ち、これまでのあらゆる主義「や人間が追い求めてきた理念を押し流せる新たな理念を持たなければ、新しい自分になることはできないのです。


今日ではありません。今日の人間社会において、私たちの家庭が最も情で深く深く考えて歴史は進んでいきました。天もまたこれを求めてきました。でも、家庭が理想を実現するための完全な基盤になれない為に、最終的にはそのすべてが崩壊する運命にあります。


今日の人類は、20世紀の文明を超え、世界を自由に動ける立場にあるように見えますが、実際には、彼らが持つ生命力はこの世界を動かすには非常に穏やか、十分なそして、彼らが感じている状況的な心情も同様に弱まっています。 物質的には世界規模の形が整えられつつあるように見えても、内面的な生命力においては非常に脆弱であるのが20世紀の文明の時代の人々である。


理念に抱いた深い心情を持つ人がいない時代、さらには真実の人間の愛の心情を見つけることができない時代になりました。


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そのため、家庭を見回しても、夫婦や親子の間において、天の前で誇れる心情のつながりを見つけることができない時代になりました。 夫婦の関係も、兄弟姉妹の関係も、友人の関係も、義理や倫理の法則はもちろん、情の基準までもが崩壊する


さて、今この世界の終末においては、この混乱した世界を収拾できる生命力が必要であり、理念的な価値が必要な時が来たのです。そのような時が訪れました。 生命力を持った愛が全体を見据え、一つの目的のためにが団結できるような形の求められる時が来たのです。


天はすべての人々に向けて御言葉で予告しました。 終末には愛が冷めることを、すべての人が天を断み、背を向けるを、そしてその時には皆が労働苦と苦痛の道で倒れるもし永遠の生命の力があれば、どんな苦しみも問題ではなくなるでしょうが、終末には苦痛に疲れ果て、天に背き、愛の心情が分裂することになると言われていました。 そうです、それが終末の時なのです。


では、天は何を持って再び来られるのでしょうか? 天は、世界を去る天ではなく、新しい理念を持ってこられます。天は生命の力を携え、約束の理念をもって、愛の源として現れるのです。


これは、堕落した歴史の道を織り成し、私たちにはこれまで感じてきたどんな生命の実感よりも、さらに強く、永遠に享受できる生命が必要だということです。その生命が感じられる場所こそが、永遠の安息の場であり、そこは一時も離れたくない場所なのです。


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変貌山で変わらなかったエリヤとモーセ、そしてイエスの姿を見ていた三人の弟子たち、その変貌山にずっと留まりたいと憧れました。皆さんも、こここそが『自分の永遠の幸福』と祝福を享受できる場所だ』と感じ、始まりも終わりも見えないような境地で生きる心情を持ち、そのような経験をしたことがあるでしょうか?


全ての天地万物が頭を垂れることのできる生命の威力を持って現れるとき、その人は万物の霊長となるのです。


その方が思い、見つめた理念の世界は、すべての被造物が安らぎ、憩うことができる理念であり、万物だけでなく、神もそこに来て留まりたいと言う様な理念と心情が必要なのです。それでなければなりません。


また、静かな心情が湧き上がれば、すべての万象がその心情とともに調和し、神もその心情とともに楽しむことができなければなりません。そのような静かな境地があるのです。とはいえ、今日の人類歴史の終末において実現されなければ、神の摂理は破壊の摂理として終わってしまう可能性があるのです。


神がこの地上で行ってこられたすべての摂理が、全て無に戻ってしまうのです。


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神はそのような摂理を行うことができないため、これまでずっと苦労してこられたのです。 だからこそ、今日の人類の前に新しい生命の園、新しい理念の園、新しい愛の園が必ずやってくる。そのことを否定できないのです。


では、今日この終末を迎えるために私自身はどうすべきでしょうか? この問題を解決するためには、私たちのために、また全人類のために来られたメシアをしっかりと掴んで、乗り越えなければいけないということです。私たち人間はこれまでの歴史的な因縁を経てきました。


だから、私たちが6千年の歴史を押し出せる生命の威力を持とうとすれば、6千年の歴史を見つめてきた天的な内容と一致しなければならないのです。2千年前に来て去られたイエス様も、歴史的な天の心情を通して4千年の歴史を押し進められました。


4千年の歴史のすべてを清算した土台の上に新しい楽園を建設しようとされたのはイエス様だったのです。


だから、今日、私たちはそのイエス様の心情を掴んで歴史を清算するために、その心情を掴んで未来を考えなければいけないのです。


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だから、今日、皆さんは自分自身がイエス様のその心情を掴み、当時イエス様が新しい理念でどのような事が現れることを待っていたのかを考えるべきです。


イエスはニコデモに対して、『あなたは生まれ変わらなければ天国に入ることはできない』と言われました。これまで生きてきた私は、結局歴史的に否定されるべき存在です。ただ自分がうまくいった人間以上にその範囲から抜け出すことはできないのです。大事な生涯であっても、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったということです。


それで、正常なように見えても正常な人生ではありません。非正常的な生涯を送り、非正常な生活をし、非正常的に死んだので、行くのは地獄だそうです。では、天国とはどのような所ですか? それは、正常に生まれて正常に生活し、正常に死んで行く所が天国です。


イエス様が地獄と天国を分け、地獄の門を閉じて天国の門を開く、天国を建設するために来られたと言えば、イエス様は否定されるような理念を持って来るされたのではないということです。 否定されるような生命を持って来たのではありません。否定されるような愛を持って来られたのではありません。皆さんはそれを知らなければなりません。


では、イエス様が地上に来られたとき、誰を探しに来られたのでしょうか? 4千年もの間、神が苦難の末に選民として立てたイスラエルの民、その民を探す為に来られ、そしてその中で選ばれた人を立てる為に来られました。


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だから、選民の宗教であるユダヤ教において、イエス様は絶対的な存在でした。イスラエルの民とユダヤ教にとって絶対に必要な絶対存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様が十字架にかけられてしまったと言う認識であるということを、皆さんは知っておいてください。しかし、その社会で絶対必要な存在、肝心なのに消されてしまったのです。


イスラエル民族とユダヤ教のために、絶対にあるべき存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様に全てがかかっていたと言う事です。


イエス様はなぜこの地に来られ、誰のために来られたのでしょうか? 天に感謝すべき存在として現れましたが、この地に来られたのは、神の歴史心情と通じ合える心情を持ち、歴史の道を歩むことができる人間を作るためであったということです。イエス様は摂理には従いましたが、イスラエル民族は神の心情を受け入れることはできなかったのです。


そのような理由で、イエス様はただ歴史的な心情を掴んで現れ、摂理の立場で動ける天の心情を持って現れました。 彼の心情は4千年の歴史を総合した実体の心情を持って現れたということです。ユダヤ教徒たちはそれを理解できませんでした。


神を求めていくことは、神の心情を通して現れる生命を掴むことであり、神の心情を通して現れる理念を探すことです。 心情を経ない生命はありず、心情を通さない理念はありず、心情を通さない愛はありません。


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イエス様はこの地に来られたとき、心情に関しては4千年の歴史の主人として来られました。その心情は天的な心情を代わりに担ったものであり、彼の心情全体を現わした生命力を持っていたのです。天的な心情を代わりに担ったのは、歴史的な生命の実体であり、歴史的な希望と理念です。


イエス様一人をイスラエルの民よりも、イスラエルの国よりも、ユダヤ教団よりももっと大切にしなければならなかったのです。それなのに捕えて殺してしまいました。イエス様一人を掴むことで、民族的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで摂理的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで、彼の理念と天宙全体を掴むことができたということを、その時のユダヤ教徒たちは知りませんでした。


今日、私たちはこのようなイエス様を信じています。今、私たちが信じなければいけないのは、死んだイエス様ではありません。「新しい理念と新しい生命を持ち、新しい愛の心情を備えた」実体としてのイエス様です。しかし、そのイエス様はどこに行ったのでしょうか? 亡くなられたのです。


そもそも、その方いつまた来られるのでしょうか? 地上で一時を過ごされたイエス様は、この地に来られたとき、新しい形態の理念を立てなければならなかったのです。新しい生命と心情で絡み合った新しい歴史と民族を築く責任があったとしても、それを放棄せざるを得なかったのです。


再び来るという言葉は、無限に悲しい意味を持つです。しかし、今日のキリスト教徒たちは、この言葉を栄光の言葉だと解しています。栄光の言葉として知る前に、イエス様について予想される、その後に希望として見なければいけない言葉であることを、今日のキリスト教徒たちは知らないのです。を敬うべきです。その方は新しい私を探しに来ているのです。それを彼らは知らないのです。


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今日、私たちはイエス様が来られて去ってから2千年の歴史が経過した、6千年の歴史の終末時代に生きています。では、私たちはどうすべきでしょうか? アブラハムの子孫は、アブラハムの忠誠を見習わなければなりません。モーセに従って出てきたイスラエルの60万人の大衆は、モーセの忠誠を見習わなければなりません。


イエス様が来られて去られてからの2千年のキリスト教徒は、イエス様の忠誠を見習わなければなりません。これがアルファでありオメガなのです。6千年を摂理してこられた神の切なる心を受け入れ、それを解決するために戦う聖徒にならなければなりません。


もし優れた孝子や孝女がいるなら、彼らはどのような人物ですか? 生活面で親が楽しんでいるのを見て楽しんでいる人が孝子や孝女ではないでしょう。楽しみが試されるまでの波乱万丈な過去の進行をその心で感じながら楽しめる人こそが、真の孝子、孝女であると言えます。


それが私たち人間の世界における前提であり、天の理を前にした未来の摂理の意味においても同様です。


では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? 4千年の歴史と交換できる新しい復活の実体であったということです。 彼は歴史の中で今まで見たことのない新しい天と地に新しく来られた方であったということです。


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イエス様がサドカイ派の信者やイスラエルの民のために来られたことをもし祭司や律法学者たちが知っていたら、ユダヤ教の信者たちは彼の行うことに反対せず、 『どうぞ行ってください』と言ったでしょう。しかしこれを最後まで阻止されて、30余年の生涯を生きたイエス・キリストは、この地に来て、哀れな思いで生き、哀れな思いで去って行かれたのです。これは人類の罪であって、神の罪でもなく、イエス様の罪でもないことを私たちは知らなければなりません。


たくさんの先人、先祖たちが4千年の間待ち望まれた約束されたメシアの実体が、まさか馬小屋に寝かされていたとは、どういうことでしょうか? 皆さん、考えてみてください。どういうことですか? 今日、多くの人々がクリスマスを楽しいと祝っていますが、それは胸が痛むことです。泣いても、泣いても、泣き止むことができないほど悲しい事です。


メシアの到来を心から待ち望んで、その真心が天に届くような人が当時存在していたなら、来られたメシアをそのようには迎えなかったでしょう。彼を迎えるために「準備をした人」がいなければならなかったのに、そういう人は存在しなかったのです。


私たちはこの終末を迎えたに関して、2千年前の先祖たち、今から6千年前から4千年前にかけて行った相当数の先祖たちに対して、来られたメシアを軽んじて歴史的な罪を行った先祖だったと言う事を覚えておかなければなりません。


さらに言えば、2千年前のユダヤ教徒とパリサイ人たちにとって忘れてはいけないということです。もしイエス様が怒りを感じていたら、それはイスラエルの民に対して怒りだったはずです。ユダヤ教徒たちに対しても怒りがあったかもしれませんが、選ばれた民である彼らを捨て去ってしまうと、天の足場が断たれてしまうからです。


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イエス様は、天が4千年苦労してきた天的なその心情を考えたとき、自分が彼らを恨んで捨てていけば、イスラエルの民に対して4千年ずっと積み重ねられ続けた天の摂理が全て無に帰してしまう事でした。


これを知っていたイエス様は、自分の死に関しては民族的な壁があったが、歴史縁が切れてしまうことが恐れたため、彼らの祝福を祈らずにはいられなかったのです。それは喜んで祝福を受け入れたのではなく、ユダヤ教徒を愛して祝福を迎えたのでも、イスラエルの民を愛して祝福を抱いたのでもありません。そうではなく、全人類のために祝福を受け入れたイエスであることを知るべきです。


終末に決着している今日の私たちは、怒りを抱いて帰天されたイエス様に代わり、彼の死に対する怒りを抱くことができなければ、神の心情を知ることができないということです。


今まで人間たちはイエス様が死ぬために来られたと言われていますが、今日では死の為では無く天のために来られたイエス様であり、民のために来られたイエス様であったのに、そのイエス様を十字架に掛けたので、その日は天地が暗くならずにはいられなかったのです。これを今日私は知らなければなりません。


イエス様は人間の歴史の過程で新しい存在としてこの地に生まれましたが、生活は悲しいものでした。


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それでは、イエス様は誰のために生きられたのでお願いですか? イエス様は自身のために生きたのではありません。しかし、そのように追いやられたのは、イエス様が自分を持っていなかったからではありません。イエス様は生命と理念の力を持っており、熱烈な愛の力を持っておられながら、それらすべてを完全に表現できずに生きた方であったことを理解しなければなりませんん。


哀れな民のために生きて去られました。復活されたイエス様は、生きた実体を持って死んだ私たちを生かすために、今まで苦労してこられたのです。このイエス様以降の30年余りの生涯は誰のための生涯だったのでしょうか? イエス様自身のために生きた生涯ではなく、神と堕落した人類のための生涯だったのです。


さらに言えば、イエス様を送られた神は、今まで誰のために苦労してこられたのでしょうか? 神も今まで自分のために生きたことはありません。堕落して死んだこの民のために苦労してこられたのです。


それでは、終末とはどのような時でしょうか? イエス様がご自身のために生きることができなかったので、そのイエス様のために我々が、自ら立ち上がり、生きることができる時を人類が迎えなければなりません。これまで神様がご自身のために動くことができなかったので、その神様がご自身のために動くことができる時を立てて差し上げなければなりません。そのような時が終末です。


今日この時まで、神様は堕落した血統を受けた人間、死んだ人間たちを生かすために、ご自身のために生きることができませんでした。イエス様も2千年の歴史を経てこられましたが、ご自身のために生きることはできませんでした。神様は死んだ人間たちを抱えて再び生かすために、新しい日を回復する摂理を6千年間続けてこられました。


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それでは今日、私たちはどのような覚悟をしなければならないでしょうか?新しく誕生されたイエス・キリストを見習わなければなりません。さて皆さんは、自分の心に染み込んでくる命の力、命の感触を感じたことがありますか?これだけが全人類が求めるべき唯一の理念だと感じたことがありますか?これだけが最終的に人間を復活させることができる、あるいは新しい歴史を創設することができるものだと感じたことがありますか?もしそうであるなら、皆さんは自分だけのために生きる生活態度を捨て、イエス様が歩まれた道を再び歩まなければならないのです。


復活されたイエス様は地上を見つめ、この地に神の憂いが染み込み、神が成し遂げなければならない苦労の歴史が残っている限り、『神よ!そのすべてを私に任せて、どうか安息してください』と祈りたいというのが、まさにイエス様の心情でした。しかし、神は安息することができませんでした。イエス様が悲しまれた時、神もまた悲しまれ、イエス様が十字架にかけられて亡くなった時、神も死の痛みを感じずにはいられませんでした。


このようにして去られたイエス様を私たちが信じている限り、あなたがたが復活し、終末の審判を超えて復活された主を再び迎える栄光の場所に進むことができるとしても、あなたがたの心は栄光の世界を憧れてはなりません。


イエス様はこの地上に万王の王として来られ、天国の主権を回復し、神の前で栄光の御子として神を慰め、万民を安息させるべきお方でしたが、そのような言葉やそのような心情を持って喜びを感じたことは一度もありませんでした。イエス様はただ私たち人間のために生きて行かれました。


私たちがイエス様の心情の友になるためには、天がまだこの地を抱え、イエス様がまだこの地を抱え、聖霊がまだこの地を抱えているのだから、『天よ、三位一体よ、今度は私がこの地を抱えます』と言える心情が必要です。


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それでは、イエス様がこの地に来られてどうだったのでしょうか?生まれたときも馬小屋で生まれ、生活される間も追われて蔑まれながら生き、亡くなるときも十字架にかけられて亡くなりました。ですから、その『十字架の道』を通過されたその心情を感じることが、今日の統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。


栄光があるなら、私が栄光を歌う前に主が父の前で歌い、父が万民の前で歌わなければなりません。その後に初めて私が栄光を歌うべきだというのです。父が万民の前で栄光を歌えるようにするためには、まずこの地が天国とならなければなりません。そのために、私たちがまず神を安息させてあげなければならず、イエス様を安息させてあげなければならないのです。神に創造主としての威信が立てられるようにして差し上げ、イエス様にも救主としての威信が立てられるようにして差し上げるべきです。ここでいう威信とは、一部の民族や限られた民の前に立てることを目的とするものではありません。天と地、天上と地上のすべての存在、そして霊界にいる数多くの霊たち、地獄にいる霊たちまでも、さらにはサタンまでもが『あなたは天の御子です』と言わなければならないのです。


今日のあなたがたは、悲しい歴史の道程がまだ終わっていないこと、審判の時がまだ来ていないことを知っています。それにもかかわらず、あなたがたが天の生命を感じ、天の理念を抱き、天の心情の衝撃を受けたならば、その生命、その感じ、その理念は誰のためのものなのでしょうか?もちろん、あなたがたに天の希望を引き継ぐためのものです。これが天の目的です。


天の憂いとイエス様の憂いがこの民族の前にある以上、私たちにはこの民族の前に残されたすべての憂いを引き受け、イエス様を解放し、神を安息させる心が必要です。そして、そのような心を中心に、あなたがたがどのような闘いの実績を持ち、イエス様の友となる基準を立てなければならないのです。それによって初めてあなたがたは実体を持って復活の段階に進むことができるということです。イエス様がそのように生きて亡くなり、復活されたように、今日の地上でもそのように生きて復活した立場を超えなければなりません。そのため、私たちは新しい自分を見つけるためにイエス様の行かれた道を追わなければならないのです。


神の歴史は新しい個人だけを探すことではありません。新しい家庭を探さなければならず、新しい民族を探し、新しい世界を探し、さらに天国を探さなければならないのです。イエス様が新しい存在としてご自身の人格的価値、天的な人格の基準をこの地に立てていくことができなかったために、地上に来られて去られる際に、新郎新婦という言葉を残されたのです。天の意図は、天的な個体を立て、家庭を探し、その家庭を基準に民族を探し、その民族を基準に国家を探し、その国家を基準に世界を探し、さらに天地を復帰して天国を建設しようというものです。


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それでは、新しい私、復活した私になるための過程を経るにはどうすればよいのでしょうか?神が私たちを見て『私はあなたのために弁明することができ、あなたの命を責任を持ち、あなたの理念を責任を持ち、あなたの愛と心情を責任を持とう』と言える基準を立てる必要があります。


どのようなものが侵入しても、神が責任を持つという基準があれば、打たれてもまた生き返ることができるのです。イエス様にはそれがあったので、この地上の多くのサタンが攻撃しても復活することができました。命の権威、理念の権威、愛の権威が神の心中と通じていたため、その心情を持って代わりに動かれたイエス様の実体は復活することができたのです。


同様に、私たちもこのような心情を持っているならば、私の命の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の理念の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の情的な威力を誰が侵すことができるでしょうか?天とともにいるならば、サタンに何万回打たれても、何万回殺されても再び生き返る権威があるのです。そのような権威を持って審判の前に立たなければならないのです。そうして初めて、新しい基準を持った新しい私として天から認められ、天国の民として認められ、天国の家庭となることができるのだということを皆さんは知るべきです。


そのため、キリスト教では『死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ』と言っています。今日、私たちが新しい自分になるためには、歴史的なすべてが死んだものと同じだから、終末には自分自身が死ななければなりません。そのため、審判の日が来る前にサタンの世界で死んで、まず神の心情と神の理念と神の愛の力で死の権威を踏み越え、復活の栄光を感じることができて初めて新しい私になることができるのです。


さらにそのような心情を抱き、この地上にどのような暴風が吹いても、堂々と天の命と天の理念と天の心情を抱き、それを溶かし出すことのできる存在にならなければなりません。それによって初めて待ち望んだ第2の私、新しい私、新しい時代の主人公としての資格を備えた姿、新しい時代にふさわしい姿になることができるのです。


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今この地には、天の悲しみが何であるかを理解することのできる人がいませんし、神の愛の心情を通じることができる血統もありません。神の理念を備えようとする民族もいません。神の命が繋がり、何億世代にも渡って神とともに続けて残ることのできる血統がないのです。そうでしょう?


今日まで、歴史的なすべてをサタンが占有してきたために、人間は養子です、養子。血統が異なります。それゆえ、養子の立場から新たな姿を備え、直系の子供となるためには、直系の形態を備えなければならず、つまり天的な命の威力、命の感触、命の理念、命を持った愛の衝撃を受けなければならないのです。そうでなければ、新しい自分として天国の民となることはできず、新しい天国の子供を持つことのできる親にもなれないのです。これを成し遂げることが神の願いです。これが私たちの願いであり、人類の願いであり、イエス様の願いであり、神の願いですが、これまでそれを知りませんでした。


そういった観点から、皆さんもう一度考えてみてください。皆さんには、新しい命を求める心がなければならないのです。もし新しい理念と新しい愛を求めて彷徨わないなら、皆さんは新しい時代に残ることのできる者にはなれないことを心に留めておかなければなりません。






<祈り>


来る人も行く人も数え切れないほど多くいましたが、お父様を代わりに来た者、お父様を代わりに去った者は非常に少なかったことを知りました。この地を中心に愛する人々は多くいましたが、お父様を抱えて愛する者はいなかったことを知りました。


数多くの人々が心で思い憧れたのは希望の園、理念の園でしたが、お父様を抱えてこれを希望の全てだと歌う者はいませんでした。お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、今感じた何かがあるならば、お父様に対する感情を感じさせてください。


32


お父様が理念の全てであり、お父様が命の全てであり、お父様が愛の全てであることを知らせてください。そしてお父様のすべての意図を代わることができない私たちであるために、今日お父様はその威信を立てることができる環境で私たちに対することができないことが悲しみであることを知らせてください。


今、私たちがお父様の威信を立てることができる者になれるように許し、イエスの威信を立てることができる者になれるように許してくださったので、地上に悲しみがあるならばそれを私のものとして引き受ける姿にならなければなりません。地上に苦痛があるならば、それは私が引き受けなければならないものであることを知らせてください。地上の私たちは真にお父様の心を通り、イエス様の心を通らなければなりません。お父様の悲しみと困難は私が引き受ける覚悟を持たせてください。そしてすべてを押しのけ、お父様の命の恩恵を感じざるを得ない歴史的な転換期にいることを知っておりますので、今私たちが新しい心の基盤を持つことを許してください。


今、私たちが新しい理念と新しい心情を持ち、お父様と関係を結ぶ基準を持てなければ、歴史の審判とともに清算される運命を免れることができないことを、この時間に悟らせてくださることを切に願い求めます。


イエスもこのために生きてきたことを知りました。そして、30余年の生涯を自分のためではなく、民族と堕落した人間たちのために生きてこられたことを知っています。


今やイエス様ご自身のために生きることができる天国の時代が来ることを知っており、その国の民として、その時代に選ばれた者として立つためには、地上でイエス様が経験された十字架の苦難の道をすべて乗り越え、勝利した実体として復活の栄光を許されなければならない最後の課題が私たちに残されていることを知っています。


33


ここに集まったあなたの息子娘たちも、この内容を知ったならば、その実体とその意志に自分を一致させ、その意志の目的を成し遂げるために実体的な供物を準備しなければならないでしょう。父よ、共にいてください。お父様が認めることのできる勝利の祭壇を作り、本来の聖殿を備える息子娘たちとなることを切に願い求めます。


お父様、この時間以降のすべてをお任せし、ご主管してください。この日に行われる全体の予定にも共にいてくださることを切に願い、この民族と家族たちにも一貫した保護の手を離さないでくださることをお願いし、主の御名によって祈ります。アーメン。


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御言葉選集6(7,8)

2024年10月19日 16時55分21秒 | 学習

そして、復活の瞬間を迎えて「お父様!私のお父様!」と呼ぶことができるだけでなく、父の前で自分の体が溶け込むようでなければなりません。さらに、パウロが三重の天に入って体験したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのかを区別できない境地に至ってこそ、天の基準が生活へと移行していくのだと、私はそう考えており、そのように理解しています。


そのような境地を探し求める天であると理解するとき、その天が存在する場所はどこであり、その天はどのような天なのか? その場所は私たちの国、永遠の私の国であるだけでなく、私が生きる場所です。そして、その神は私の父です。そのようなお父様を、そのような国、そのような生活の場を知らずにさまよっている人々が、この事実を知るべきです。そして、神に歓喜の歌を捧げ、悪魔に対しては怒りをもって打ち倒すことを誓い、立ち上がることができるとき、それがまさに審判の日なのです。


ですから、皆さんが悪魔を打ち破り、「主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください」と言える姿で現れなければ、イエス様は皆さんを抱きしめてくださることはできないということです。


イエス様がなぜマグダラのマリアを歓迎することができなかったのでしょうか。それは、悪魔との戦いに勝利しなければならない道がまだ残っていたのに、彼女がその道を通らなかったからです。勝利の道を通らなかったマグダラのマリアは、復活したイエス様の前に立つことができなかったのです。


悪魔との戦いに勝利した場に立ち、天に向かって「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができるならば、全宇宙を所有することができるのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのお父様を信じることができるほどの境地に至らなければなりません。そのような境地でお父様を思い、お父様を信じるとき、自分の感情が消えていくのです。


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今や、自分のお父様を敵視してきた悪魔に対して憤りを抱き、彼に対して審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れて「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができる人になるべきです。そのような場で喜びと悲しみに満たされて泣いた信仰者であってこそ、天国生活の理念の時代に入ることができると私は断言したいのです。


私たちはそのような世界で仕える生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、仕えながら実践して生活することのできる天国はまだ迎えていません。つまり、生活の中で主体となる神をまだ理解していないのです。


天は予告されました。「私はあなたたちの中にあり、あなたたちは私の中にあることをあなたたちは知るであろう」(ヨハネ14:20)と。この言葉は否定的なものではありません。観念的には神の存在を知っており、信仰の主体としての神を知っていましたが、自分の良心の主体であり、自分の体の主体であり、自分の生活の主体であり、生活の中で見つかる主体として神が実在するという事実を知らなかったのです。


なぜそうなったのか? 信仰の限界を越えられず、愛の心情と接することができなかったからです。したがって、人類を復帰する使命を負った終末の信者たちはこの事実を知り、どのような犠牲や困難、どのような迫害があっても、天性の悲しみと天主の恨みを解消するという心情に満たされて、天の旗を掲げて進む者となるべきです。


そのような者がどのような民族の前に現れても、その民族には善なる心が導く時代が来ることは間違いありません。今日の世界は知的なものや真理を追求する世界です。真理を動かす原動力は「体」でした。体を動かす原動力は「心」でした。心を動かす実体は何なのかははっきりとはわかりませんが、それは霊的なものでした。だからこそ、真理だけではすべてのことが解決されるわけではありません。だからこそ、未来には私たちの心の方向性を一つの場所に向け、心情の動きを一つの場所に向け、霊的な感情までも一つの場所に向けることができる世界が来るに違いありません。


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そのような理念の世界が来ると信じ、そのような世界を探し求めようとする今日の私たちは、観念的なものに囚われて生きてはいけません。実際の生活の中で、天に向かって歌うことのできる勝利の勇者になるべきです。そのような人がこの地に現れるべきです。


もしそのような信仰を持ちたいと考える人がいるならば、その人は夢の中でもそれを考えるべきです。また、可能性があり、天が存在するのであれば、実際にそれを実現してみたいという切実な心を持つべきです。そのような切実な心を持つだけでなく、時間を超えて、生活の中で6千年前の人間がエデンで歌った歌を今日の歌として歌うことができ、その時の感情を今日の感情として感じることができ、堕落以降抱えてきた悲しみの感情を、今日の喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、仕える主体であり、歴史的な恨みを解消する主体なのです。


そのような存在が現れることで、皆さんはその存在と関係を結び、勝利する者となり、天地の悲しみを解消できる存在となるでしょう。そのような関係の中で、皆さんは悲しみと苦しみの心情を抱く神が、永遠に私の父であり、私の国、私の家の主であることを実感するでしょう。そしてまた、皆さんは新郎である方のすべての悲しみを解消してあげることのできる真の息子娘となるのです。


今日、私たちがこの道を探し求めて進んできた結果、お父様が悲しむ父であることを知りました。その悲しむ父の息子娘とはどのような存在であるべきかを理解しました。天国を回復するために、悲しみの中で戦い続ける天の怒りを知りました。天の無念さを知りました。


したがって、皆さんは敵に対して怒りと無念さ、敵意を抱かなければなりません。そうして、どの民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべてを責任をもって果たし、確信をもって勝利するという基準が、皆さんの心から、体から、生活の中でしっかりと根付くことで、勝利の歴史が始まるのです。そうしてこそ、皆さんが実体を持って復活の権限に入ることができるのです。つまり、実体を伴って天国復帰の楽園に入り、神に向かって「お父様」と呼びかけることができ、神が皆さんに向かって「息子娘」と呼ぶことができる境地に至るのです。


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このような境地で心情の世界を探し求める皆さんは、自分のために信じてはいけません。天国に行こうという観念や、自分が何かをしようという観念を捨てましょう。


イエス様は自分が天国に行こうと考えたことはありませんでした。イエス様は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰の理念を持っていました。それは単なる言葉ではなく、事実そうだったのです。


自分が行うことは自分のためではなく、人類のために行うのだ、世界のために行うのだ、お父様に代わって行うのだという信念、それがどれほど素晴らしいことでしょうか。


私が愛するのは自分のための愛ではなく、民族をかけて愛し、人類をかけて愛し、神をかけて愛し、天地をかけて尽くすということです。したがって、私たちの仕える心も、人類をかけて仕え、天をかけて仕えるべきです。そして、仕えると同時に感謝の心を持ち、信じながらも実践しようという心を持たなければなりません。


心で愛し、体で仕え、心で仕えると同時に生活の中で感謝できるようにし、自分を超えて信じ、自分を超えて愛し、自分を超えて仕えるという観念を持って皆さんが信仰の道を歩んでいくならば、そこには決して悪魔が侵入することはできません。悪魔の誘惑の手がどれほど強くても、そのような信者には決して触れることができないのです。


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では、天の願いとは何でしょうか? 失われた天国の回復です。失われた親の回復です。失われた子供たちの回復です。


今、私たちは自分の国、自分の民、自分の親を見つけなければなりません。そして、真の親の真の子供となり、6千年のすべての恨みを忘れ去り、悪魔を打ち破り、勝利の条件、愛の条件を誇ることができるようになるべきです。それによって、悲しい歴史を乗り越えてきた神の前に、真の息子娘となることができるのだということを、皆さんははっきりと理解しなければなりません。




<祈祷>
お父様、極端な言葉を述べた後、父の前で心苦しい思いを感じざるを得ません。


距離が遠く、限界が大きいその世界の動きが、狭く荒く、欠けている私たちとどのような縁を結ぶことができるのでしょうか?


その縁を結ぶためには、多くの信仰の先祖たちが犠牲を払わなければならず、命の道を切り開くために多くの教役者たちが血の涙を流さなければならなかったことを、お父様、私たちは知っています。


40


今日この日を通じて、悲しみを感じる自分の姿を見つけ、父の栄光の恵みを慕うことができ、実践の場でも倒れることなく永遠に勝利する覚悟を持つ者だけが、お父様を「お父様」と呼ぶことができ、父は彼を「私の息子、私の娘」と呼ぶことができるその日があることを知っています。


お父様、信仰の道を歩むことがこれほど難しいことを知りました。人類の祖先から引き継がれた罪によって、人類が悲しみの道を歩まなければならないことを知りました。これまで悪魔の思考を抱きながら生きてきた人類は、迷える姿だったことも知りました。私たちは、自分たちの命をすべて捧げてでも、死の峠を越え、これを解放しなければならない復帰の基盤が目の前に来ていることを知っています。


これから私たちは天の父の息子娘となり、あなたを真の父として呼び、仕えることができなければなりません。人類に対する父の愛の心情が私たちの心に染み渡り、どのような逆境や悲しみ、どのような不便も乗り越えられるよう、お父様、導いてください。切に願い求めます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、自分たちが命を持っているという事実に感謝を感じられない者がいますか? 彼らが言葉の中に感動し、何かを感じるならば、命の炎を燃え上がらせ、復活の歴史を起こしてください。


天の理念を追求するこの時間をお許しください。そして、歴史的な今日の環境を切り開きながら、父の心情と縁を結べるこのひとときになることを切に願います。


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伝える言葉が、私たちの心の標準と私たちの生活の標準となるようにしてください。彼らの心を導き、彼らの生活観において刺激的な一つの基準となり、常に不正を整理することができる生きた言葉となり、心とその骨と肉を動かすことができるように、歴史を動かしてください。切に願い、求めます。


この時間も孤独な環境の中で、父の前で涙を流しながら訴える家族を慰めてください。父の前に礼拝する多くの人々にも祝福の手を差し伸べてくださるよう、切に願い、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 6 - 8. 恨多き父をお迎えする者
1959年5月24日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 23:1-39


<祈り(Ⅰ)>

天のお父様、あなたが居心地の良い場所は、無限の忍耐の世界であり、限りなく苦労される場であることを私たちは知っております。


先祖代々のすべての罪の状況に見られるお父様のご心情とご意志を知る私たち、創造本然の存在を取り戻すために、幾多の苦労の道と忍耐の道をしっかりでこわれたお父様前で、恐縮の念で垂れずにはおられません。


長い年月を一日一日、私たちの先祖とともに耐え忍び、先祖とともに戦いながら人間たちを守るために死ぬでこわれた父なる神様を、今この時、私たちの心を広げる、体を低くして心にお迎えし、体で耐えることができるようにしてくださいと、父なる神様、心から願います。


地上に住む多くの人々の中で、困難な道を避けて通る人は多いですが、あなたの事情をよく考え、あなたの心情を心と体に抱きしめるために、かなり困難な道を選んで進んでください行く人はごくわずかであることを知っています。


お父様のために忠誠を尽くし、お父様のために犠牲となり、お父様の祭壇を飾り、お父様が忍耐する心情を地上に示す人間が非常に少ないことを知るとき、お父様が少し哀れな方であるか人間を愛しながらも嘆き、人間に対して心を砕き、全力を尽くして協力するお父様であることを知ることができます。

1

私のお父様! 今、そのようなお父様の事情が地上に生きる人類の前に早く伝わる日が訪れますように。全人類の胸の奥深くに、そのようなお父様の事情がしみじみ伝わることを」心より切に願っております。


父なる神様、この一日、この聖なる日に、あなたに向かって優先して、頭を垂れて祝福を頂くことを心から待ち望んでいる方が多くおりますが、祝福は天のものであり、労苦と苦難、忍そして耐道は人間が担わなければいけないものであることを知らない者たちにならないよう、導いてください


天のものは天に返し、人間のものは人間が責任を持って、そんなあなたの息子や娘がとても少ないことを、私たちは知っています。な者たちと同じように、今この時、お父様なる神様に直面する際に恐ろしい姿を見せないように、どうか導いてください。


私たちに喜びがあるなら、それをすべてお父様のものとしてお返しし、また幸福と感謝の心があるなら、それもお父様のものとして認められるならお許しください。満たされたお父様の辛い道のりを私たち自身が考えることのできる、お父様の息子や娘たちとなれるようにお許しください、そして心からの願いを求めます。


一週間の間、恐ろしい世の荒波にもまれ、お父様の心と一致できない場所で戦い、疲れ果てたあなたの息子娘達ここにおります。疲れたその体はお父様の胸に覚悟できる恵みを待っていておいで。受け取られた責任のための励ましの時となり、心を揺さぶる恵みの時として導いてください

2

お父様、この日に私たちの心を考え、罪に苦しむ私たちのすべての考え方を統べてください。私たちが頭を下げたこの場で、お父様の慈しみの手は離さないでください。そして、心を尽くしてお父様の憂θを見出したいと願う私たちの心を念頭に置いて、お父様が直接私たちに向き合って協力してこの時間となることを、切に願いを求めます


この日も、世界中に広がるばる孤独な家族達膝をつき、戦いの道の中で疲れ果てた体でお父様に向かって懇願していることを私たちは知っています。その御手を差し伸べ、試練に晒される場所においても最後まで残る者たちとなれるようにしてください。


どうかこの哀れな民族を祝福し、多くの教団も祝福してください。 お父様が与えてくださった使命のためにすべてを尊び、あらゆる犠牲を払い、最後の日に大いなる使命のために生き、使命の「民族と組織となれるよう、どうか切に願い求めます。


すべてをお任せしますので、最初から最後まで主管してください。また、悪魔に隙をつかれない様にして下さい。


千千万の聖徒が行動する中で、お父様の喜びと栄光がこの現れることを許可して頂く様にお導き下さる様に、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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「祈り(Ⅱ)」


この時、私たちの体と心がどのようなような場所に残っているのかをよく見て、私たちの心お父様の心のあるところに、私たちの体もお父様の聖体のあるところにあることを了承しております。


お父様と共に生きるその一日が待ち遠しいです。お父様を思い、お父様に向かって歩く私たちが、お父様と共に生きる栄光の日を迎え、お父様の前で感謝と喜びの賛美を尊重することで、創られたすべてものを喜ばせる子どもたちになりますようにお導きください。


お父様! あなたの悲しい心が地上に宿っていることを人々は知らず、天の悲しい涙の跡が人類の歴史に残る中でそこにいるを知らないのです。限りない天のための情報が私たちのものです」心と体に漂っていることを知らなければ、天の前に顔を出すこともできず、天の信任を受けることも堕落した人間の子孫であることを認めざるを得ません


お父様、地上にはあなたの涙を受け止める人がいなくて、あなたの別れを抱いて慰める者もなく、あなたが歩むその道を守る者もいません。 、それは天の悲しみが深く刻まれた地であり、悲しみがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地であり、恨みがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地なのです。


それゆえに、この地に住む人々は、悲しみの供物となることを遠慮することができない運命に置かれている、悲しい場所を超えることを恐れています。



絶望の中で最後の声として天に向かって『お父様! 私たちを助けてください。』と叫ぶ時が来ております、『お父様、愛の心を持って人類を訪ねてください。』こんな時に、お父様の心を抱きしめて悲しんでいる者は誰であり、お父様の心を抱きしめて泣いている者は誰ですか? その様な者がいるなら、彼はお父様の真の息子・娘であると言えるでしょう。


私たちの心に力を与えてくれたおお父様、切実で痛い程におお父様の心情を感じることができる心の動機が欲しいのです。その心情の源に触れたいと思いますので、触れることができる恵みを頂けます様に、そうすれば、その心情に触れるなら、その場では自分の不足に勝てず、人間の罪を受け入れて悔い改めずにはいられないということを知らせてください。


お父様、未熟で不足している私たちを支えてよろしく、心配してくださる協力おお父様の前に、申し訳ない気持ちを抱きつつ、お父様の悲痛な心情と悲しい心情を慰めることで、栄光の中に現れることができる基盤を整える聖徒たちにならなければなりません。 どうか、お父様の力と能力によって不足している私たちを導いてください。


人間を創造し祝福して協力する力が、お父様にあることを知っています。私たちをお父様の懐に楽しんで見てください、お父様の手の中におさめてください。そうそうことで、お父様の栄光の前に供え物として足りないのではなく、お父様のもので受け入れられるあなたの子供たちになるよう導いてください。願っております。


私たち自身が生命を維持する信念の道を持っている中で、数え切れないほどの悪魔たちに力に引きずられることが多かったですが、内面、お父様を思う気持ちはあります。集まったあなたの子供たちをお守りください


彼らは、地上で勝利する最後の一日、最後の一時間まで、お父様のために覚悟を決めた者たちです。突進できる天の聖徒たちとなることをお許しください。お父様、切に願っております。


この日、数え切れない悪魔たちが私たちの周りを取り囲んでいるのも、天の主に全力を尽くそうと私たちの心の前では、その存在を隠してくださいますように。の業を起こし、私の心と体が復活の働きに参加できる場所に立つことができるように、私のお父様、切に願っております


この日、この場が私たちだけの参加となることがありませんようにお許しください。 哀れな何千万もの人類を祝福してください。 方向を見つめ、行くべき道を知らない限りの教団を祝福してくださいし、命の危機に耐えて死んでいる多くのあなたの子どもたちを祝福してくだい。


「終わりの日」に、哀れな人類の前に命の実体を示し、彼らをお父様のもとに繋いでください。


今、お父様の優しい栄光を示し、熱いことのできる心情を持った子供たちが、お父様によって祝福される日が早く訪れるようにお寛容ください、お父様、心から願い求めます。



試練や苦難に耐えても、私たちはお父様のために生け犠牲になる覚悟ができていますので、その心再びサタンに奪われるような子供たちにはなりませんように。体はすでにお父様に別れられていますので、死んでも生きていても、お父様のものであり、尊重されることができるようお許しください。


すべてをお父様に先に進みますので、私たちのものが動くこの時間ではなく、あなたのものであり続けるこの一時間を支配して協力してください


孤独な家族を直接導いてください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。






<祈祷(Ⅲ)>


この時間、私が伝えるべきことは何もありませんので、お父様が表したい言葉を示してください。


私たちの心と体が、この一時間だけでも半分概念に囚われないようにしてください。 お父様が動けば私たちも動き、お父様が定まれば私たちも定まり、お父様が和れば私たちも和することができる、私たちにはどうしようもないような心の土台を、お父様、この一時をお許しください。そうして、お父様が動機となり、私たち結果になりますようにしてください


この日を祝福してください。孤独な家族が地方に広がり、お父様の前で祈る時間ですので、同じ恵みの手で守ってください。


お父様、考えられた聖書の言葉は、何も言わない立場に立ったイエス・キリストの冷静な心情から出た最後の後悔の言葉であることを私たちは知っています。 、私たちにもこのような言葉が覚えておいてください、心の扉を開き、身を屈めて、帽子を下げて受け止めることができるようにしてください。


ここに集まった皆さんを導いてください。愛の懐に抱きつき、新しい言葉で励ましてください。このひととき、あなたの心に包まれる時間となることを心から願っています。


伝える人の心と受け取る人の心に隔たりがないようにしてください。また、聖別された供え物となれる様にとを心からお願いします。


三位神が全てを担って導いてくださること、暗黒力が襲わないように導いてくださることを心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前において祈ります。アーメン。

10

<御言葉>

今日の内容は、イエス様がそのまま決められた道を進まなければいけないことを考え、イスラエルに対する希望と期待が非常に多かった為に、決して先に意志を示さずに進まなければならない、悲しい心情から生まれた最後の御言葉でした。


今日はこの御言葉を中心に「恨多きお父様を迎える者」というタイトルでお話します。


今日、私たちは幸福な生活を切望しています。 さらに、自由の世界を心から憧れています。は相反する立場があることを、日常生活を通じてよく理解しています。


一日を生きている間にも、相対的に考えを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを忘れないために心を描く場所に行きたいと思っても行けないのまた、心から望む行動に集中したいと思っても、思い通りに移せないことを私たちは生活の中で感じていますし、また感じてきました。


今日、私たちは幸福な生活を気に入っています。 さらに、自由の天国を心から憧れています。 しかし、心の中で憧れ、憧れ、期待していることと、今日私たちは生きている現実とは対立している立場にあることを、日常生活中によく知っています。

11


一日を生きている最中も、対立しているものを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを持っていないために、心を描く場所に行ったくても行けまた、心から望むことが行動に移ることを重ねても、自由に移すことができないことを私たちは生活の中で感じています。


そのような中で、自分を支配できる理念も持たず、自分の環境を整理できるような悩みも持っていない自分を感じています。また、生活の中で大きな希望や願いを抱きながら歌って生きていますが、向こう、心の中には悲しみがあることを私たちは常に感じています。


このような悲しい人々が集まり、一つの国家を形成し、世界を作り上げてきました。それを人類歴史はよく知っています。


人間だけが悲しい歴史の中にいるわけではありません。人間が悲しい道を歩いているので、人間に掛かっているすべてもこの悲しい環境に含まれています。


さらに、人間を支配する創造主がいて、天の法則を運営し、一つの理念世界を再び探し求める神様もまた、悲しい歴史を経てきた人々のために、この地に立つとき、喜びを持つことができないということを理解すべきです。

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このように、私たち自身に悲しいことが多いほど、私たちの社会で起こった悲しい事実が多い方が多いほど、またこの世界全体を通して悲しい出来事が多い方が多いほど、私にとってこの悲しいことが人類全員の間でとりあえず、人間個人の中で終わるのではなく、この地を超えて歴史を導く天の領域にまで考えることを考えざるを得ません。


堕落以降6千年の間、人間を守って導いている神がいることを否定できないのであれば、6千年の悲しい生活を守るために導いているその天の悲しい出来事と、今日の皆さんの心の中に浸透している悲しい出来事とを比べれば、対照も比較もできないほどの違いがあるであろうと言う事です。


真の人間がいて、人間の世界のすべての不快な要素を取り除き、天が苦しんでいるを解決し、地上に平和の国を建設できるような偏見主義や思想を持って現れたら、彼は自分自身の苦しい逆境を乗り越え、人類の苦しい瞬間やその切実な心情をすべて経なければなりません。 さらに、天のすべての苦しい心情、天の切実な心情を解決できる何かを持って現れなければなりません


人間の世界には、悪魔の侵入を受けない平和の世界、幸福の世界、自由の楽園は建設されないということです


皆さんの胸を掘り下げて、自問自問してみてください。私は誰で、誰のために、どのような目的を持ってさまよっているのかと反問したとき、その問いにどのような答えが出ますか」確実な自信や価値を持った答えが得られない場合、その問いが深刻であればあるほど、皆さんの心にぶつかりながら嘆きの心情も比例して高く評価します。

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今日、私たち歴史の悲しみと天の理の曲折を整理して清算しなければそんな立場にいるのに、皆さんはどのような覚悟で、どのような形で、どのような態度でそのような問いに答えることができるでしょうか? もし天が人類の歴史を懸けて、覚悟に満ちた心情を解消できないまま人間に向き合って 実際、事実はそうです そのような天の覚悟の心情を解消しますする者は誰になるのでお願いしますか?この悲しい曲折の原因が天にあるのではなく、人間にあることを私は考えなければなりません。


人間がこのような憂いの曲折を解決すべき立場にあることを認識せず、その曲折を我慢できない、覚悟の歴史は回って時代を越え、世紀を経ても、天の摂理から離れた歴史として続いていきます。

天がいるなら、もしこのような歴史を阻止し、天の覚悟と人類の知恵を清算してくれる一人の人を探していることでしょう。天はその一人を立てるために、これまで戦っその一人を迎えるために、今日まで歴史を支配してきたのは確かです。今、私たちはこのことを振り返って、また思い出した時が来たのです。を約束し、その一人を立てるために無限の戦いを続け、その一人を生かすために無限の苦しみの歴史を重ねています。


しかし、歴史の中でその一人を迎えた者はおらず、その一人を支えた者も気づかれず、天は今も真剣なお心の情を抱いています。これを私たちはまた考え直さなけれはなりません。


神様はこのように思いを重ねている方です。神様は人間の前に自主的に考えを考えることができることができず、人間の前に自主的に考えを伝えられず、じっくりと充実した方です。この満たされた天の憂いは、天から生まれたものではなく、人類から生まれたものです。摂理を行い、未来を切り開くために今も憂いの心情を考えて努力されています。

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したがって、天の憂いを解消できる一つの姿を立てようとすることが神様の意志であり、その一つの存在を生かめることが神様の意志であることを知っているので、歴史的なもの終末に終わっている今日、皆さんは私大切、私たち子供、この民族が天の悲しみを解消できるその日を築くための恵みを許可していただくことを切望に心を持たなければなりませんまた、悲しみの多い神様であるため、私たちの人間は悲しみに満ちた神様を迎え入れ、その覚悟を解消して上げる歴史的な負担を積んでいることを忘れてはなりません。


天は今も人類を救うために、人類の悲しみを解消するために、人類のすべての悲しみの曲折を乗り越えるために、千辛万苦の努力をしていることを皆さんは感じなければなりそれを感じる人がいるなら、その人は先に進んで足を止めて、生活を整理し、過去の生涯を清算し、苦しい心情を抱えながら生きることになるだろう。もしこれを感じないなら、心に満ちた裁きの日を迎える覚悟をしなけれなりません。


私たちは今日、この瞬間も憂いを感じている天を迎え、苦しい天の心情を受け止め、話し合いの多いこの世界を清算しなくても神聖な使命を担った子供たちであることを心に留める私たちは堕落した人間の子孫であるため、多くのお父様の心情を解消するために、人生をかけて戦わなければならない責任と義務があります。


それで、天は人間が堕落した後、4千年の歴史を経て警告し、選民を選んで立て、彼らに『あなたたちの指導者、あなたたちの主人、あなたの平和の王子、自由の王子、幸福の王子になる人を送る。』と約束しました。こうして天は幸福の主人公であり、平和の主人公であり、自由の主人公であり、天の憂鬱を解消し、天の恵みを紹介できる一つの存在として、長い歴史を経て約束されていたその一人を送られました。


そして、長い歴史を経て約束されていたその一人が現れましたが、選ばれたイスラエルの民がその一人を迎え入れず、歓迎し、彼の意志に従って生きていなかった、あくまで彼の意志に従って団結し、天の意志を立てて心の悲しみを解消するために戦わなかった為に、悲しみの歴史は今まで延長され続けているのです。

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では、平和の王子、幸福の王子、自由の王子として来られたその方は誰かというと、堕落以来4千年の歴史の苦しい心情を担って来られたイエス・キリストでした。歴史を責任を持って考えるべきイエス様、4千年の天の摂理を責任を持って考えるべきイエス様は、歴史的な視野と天国的な視野を持って来られました。


イエス様はその悲しみを解消するために、どのような過程を経なければならなかったのでしょうか? 悲しみの過程を経て、苦痛の過程を経なければなりませんでした。だから、この地に来られたイエス様は、4千年の歴史の中でよりも悲しみの体験された方であり、苦痛の悲しみを体験された方であることを皆さんは忘れています。


今日、キリスト教の信者たちはイエス様を信じています。 彼を万王の王、天の独り子、自分たちの苦しみ主として信じています、平和の王子、自分たちに幸福を紹介してくれる方であると。


そんな良い面のあるイエス様であることを知る前に、まず知っておくべきことは、彼が悲しみの王子、苦しみの王子、全人類の悲しみを思い出した悲しみの王子であるということです。


そのように、苦しい持っているイエス・キリストの心情、その心情は誰のためだったのでしょうか? 当時の人類のためであり、人類を抱きしめている神様のためです。

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しかし、その苦しい心情を受け継ぎ、苦しい立場から天との戦いを解消するために悪と戦って勝とうとした者はいなかった。 、彼を送られた心の痛みはさらに勝利を収めたことを私は考えなければなりません。


だから、私たちは全体を責任を持つことができる一人の主人公と出会う運命にあるのです。だから、死にかけていたイエス、復活して昇天されたイエスが、この苦しい心情の曲折を清算するために、悲しみに満ちたこの地に来なければならないのです。


私たちは神を愛しております。だから、神様は6千年間にわたって人類を愛し続けて下さいました。だから私達が今此処にいます。


悲しみがある場合、愛の心情感情感じる悲しみ以上の悲しみはなく、苦痛がある場合、愛の心情感情深い悲しみ以上の悲しみはありません。


それなら、天は愛と言われているのに、愛である神は喜んでいるのでしょうか?愛の神として知られているのに、その愛の神には喜びや幸福、平和だけがあると思われていまいりましたが、実際には今日にはありません。

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愛の心情を持っているからこそ、人間を救おうとする気持ちが大きいほど、その心情に浸透することが大きいことを感じる者は、この地上には無い。その愛の心情に満たされる」居る天的な苦痛を知っている者はいないのです。


人類は神が愛であること、愛の本体であることを知っていますが、神が人類のために美味しい血を流している


ここで、終末に近づいている私たち信者が知っておくべきことは何でしょうか?愛の神を知っている以上、その神の心情に浸透する天的な埋葬を、その神の心に浸透する天的な苦痛を覚悟しなくてはならない。


幼い愛天的な喜びがこの地上に許可されるとしても、その喜びは今日私たちが信じているように喜びを求めている信者たちには考えられません。与えられる一つの幸福であり、歴史の前に約束された一つの希望だからです。

そのため、神の愛と呼ぶなら、今日の愛の神を求める心を持つは、神の愛の心情に浸透する悲しみを抱く者であり、愛の心情に浸透する悲しみを抱く者だとそのような者だけが、天の愛育ちを紹介される幸福を受け継ぐことができるということをはっきりと理解する必要はありません。

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では、神の覚悟とは何でしょうか? 神を信じる人がいないわけではありません。 神を知っている人々がいないわけでもありません。に浸透する悲しみを理解する人がいないことであり、愛の心情に浸透する悲しみを理解する人がいないことです。


人類の割り当てを整理し、天的な課題を解消しなければ終末が来るかもしれない、その時私たちはどのような主人公にならなければならないのでしょうか?抱き合い、苦しみの心情を楽しんで『人類を愛してください』と言う人ならなければなりません。そのような心を持つから出発しなければなりません。自分を抱いて『私を愛しなさい』そのような深い心情を大切に、自分でも考えないうちに行動に移すことができる人がいるなら、その人は人間の世界に天的な悲しみを証明する者であり、天的な苦痛を経験した者と見ることができます。


だから、天の憂いを解消するために来られたイエス様は、幸福を持って現れず、自由を持って現れませんでした。 彼は神の前に最高に善い位置にいながらも、足元中の議論のようにたの出現です。


全宇宙が歓喜することができる天の王子であるにもかかわらず、地上では踏みにじられる王子であり、迫害される王子であり、消え去る王子として生きていたイエスの国境以上の悲しみはない


天の威厳と自分の立場、そして与えられた使命を果たすことができず、逆境にぶつかって黙って消えていっていたイエス様以上に悲しい者はいないでしょう。イエス様は4千年の間、が苦労して選ぶイスラエル民族の前で排斥されました。摂理の意志を受け入れるために長い間愛してきました

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ちょっとではありません。愛する民族に追われ、愛する弟子達の前でも追われたのです。民族のために来たのに、教団が裏切り、民族や人権、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られたのです。


このような立場で、イエスが憂慮を抱いて従来表現的に呪おうとして、言葉ではできないほどの懸念をかけることができたでしょう。その間、彼らの悲しみの悩みを抱え、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。


イエスが天国建設の王子だと思っていたのに、今日はありません。それは後のことです。イエス様は、世のすべての妥協を乗り越えるために、多くの先を知っている善を望み、意志を求められてきた歴史の道の切実な心情、深い悲しみの心情を体験して、歴史を代表する迷宮の王子でした。内面的には悲しみの心を、外見的には苦痛の重荷を負い、それをサタンの前に解決しなくても、そうして天の前に勝利の足場を築かなければいけない、悲しみと苦しみの王子であったのです。


そして、そのようなイエスがこの地に来て、人間のために悲しみと苦しみの中で生きることを見ている神の心情は、イエスの悲しみより辛かったに違いありません。


神はエデンの園にアダムとエバを創り、彼らが成長することを大切にさせていただきました。 しかし、許可された自由の園で、許可された理念の世界で、天とともに平和「幸福に生きるべきアダムとエバが堕落したために、そういうものを踏まえて、エデンの園から追放されたその事実は、神のために計り知れないほどの深く興味深いだったのです。

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神様と永遠に共に生活しなければならないアダムとエバが、天の懐を離れて悪魔に踏みにじられ、その悪魔に移っていくのを見なければならなかった天の深い心情、その長く深い心情を忘れられない天でありました。


この4千年の悲しみに満ちた人類の歴史を覆うために、その悲しみの歴史を清算し、幸福な復帰の世界を構築するためにイエス様が来られましたが、こうして来られたイエス様を受け入れるべき民族はどこにいたので問う? 受け入れるべき洗礼者ヨハネはどこにいたので問う?


イスラエル民族を選んだのは、イエス様に限界の苦難の道を歩めるためではありませんでした。このイエス様を迎えるべき民族であり、支えるべき組織であり、仕えるべき洗礼者ヨハネだたのです。皆イエス様を見捨てて去ってしまいました。 彼らが皆去っていくのを見て、イエス様は何を感じたのでしょう?


地のために来た道だったが、地を捨てて歩いていけず、民族のために来た道だった、民族を捨てて歩いていけず、団体のために来た道だったが、捨てて行けなかった、それがイエス様の運命でした。


だから、イエス様は何度もオリーブ山へと足を運びました。 その程度に天に向かって言ったイエス様は、どんな祈りを尊重したのでお願いしますか?よりも、一応ご自身をお遣わしになった天が悲しむことを心配されていたのです。

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神は、イエス様を待っては民族と共に平和に生き、民族を導いて理想国家を築くためで結局、その道が閉ざされたため、イエス様は天の前に切なる祈りを守る立場に追いやられしかし、それはご自身の覚悟を忘れるためではなく、ご自身を遣わした神様より大きな悲しみを慰めるためだったのです。


イエス様が道を歩いていく中で、「私のお父様、もしできることなら、この杯を私から取ってください。でも私の思いはそのままではなく、御心のままに行ってください」 (マタイ26:39)と祈られた際の心情。その心があったからこそ、天の悲しむ心情とイエス様の使命の悲しみが、イエス様一人心に一つとなることができたのです。その瞬間が、玄関上での死の瞬間に実現したということを、私たちは知っておくべきです。


4千年前、アダムが堕落して以来、神の胸には痛みが刻まれてきました。そのため、イエス様は地に対して「裁き」という名前を思いながら、痛みを解放する道を開拓し続けてきました。


イエス様の死によって第一イスラエルは崩壊しましたが、復活したイエス様を中心に再び立て直す道が、第二イスラエルの選択民の道です。


過去の第一イスラエルは選択民としての権利を誇りましたが、今日の世界に広がる第二イスラエルであるクリスチャンは、第二イスラエルの精神を奮い立たせ、約束の地である天国を建設するために総力挙げて立てなければならなくなりました。

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神様はこのように、世界に通用している第二イスラエルを集めて、天の選ばれた民の権利を立ててこられ、裁きの歴史を越えて進んでいける権利を持つイスラエルを注目してられました。


さて、このような悲しい歴史を抱いて進んできた神の悲しみは、いつ解放されるのでしょうか? かつて選民としての権利を誇っていた第一イスラエルはサタンの前に追いやられ虐げられましたが、天の選ばれた民である第二イスラエルは悪魔を追い払わなければなりません。 そうすることで、今日の私信者によって歴史に刻まれた痛みは癒され、イエス様の死後2千年の間多くの苦難と痛みを通り抜けてきたイエス様と聖霊の前に、希望の一線が立てられるのです。


私たちは今、歴史の終わりに立ち、嘆きの歴史を乗り越え、痛みに満ちた人類と世界を超えて、悲しみに満ちたお父様の胸に触れ、その心の奥底にある悲しみと苦しみを共に感じ取り、歴史的なすべての悲しみと深く刻まれた怨念を胸に抱き、その理由となった無数の悪魔に対して最後の一撃の覚悟を持つ、天の息子娘とならなければならない時が来たのだということを、私たちは覚悟しておかなければならないと言う事です。


今日、このような世の中を乗り越えたのが悪魔であり、当面を導いたのも悪魔であり、この現状をしばらく見ていた悪魔です。心に抱き、また体で背負い、天の選ばれた民としての権利を持って行動し、歴史的な恨みの原因である悪魔との関係を清算しなければなりません。一つの民族、一つの主権がこの地上に現れることを天はできるでおられることを理解しなければなりません。


そのような者となるには、どうすれば良いのでよろしくお願いします。 私たち統一信徒は復帰原理を読んで知るように、私たち自身が神の心情に深く共感する信仰生活を行わなければなりません。名前だけのお父様ではなく、現実のお父様として共感しなければならないのです。 そのような立場から、エデンの園でアダムとエバが堕落する姿を見て深く悲しんで神に向かってて、無限の悲しみの心情を持って涙を流す者とならなければなりません。

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さらに、神がカインがアベルを殺したときの無限の悲しみの心情に共感しなければなりません。 その後1600年を経てノア、さらに400年後のアブラハム、その後400年後のモーセ、そしてさらに1600年後のイエスの時代まで、各時代において天の使命を担った多くの先祖たちの悲しみと怨念に満ちて戦い続けてきた歴史を見つめられる神の悲しい心情を実


また、4千年を経て6千年の歴史の間ずっとその摂理に行き続けてきた代表人物たちが抱えていた悲しみの心に共感しなければなりません。遠くて悲しまなければなりません


そのような心の覚悟を持ち、過去の悲しみと悲しみをもたらした怨念に同情し、歴史悲しみと心の悲しみを晴らして差し上げようという溢れ出す心情を持つ者優しく、イエスが求め、天が求める終わりの日の希望として立つことはできるず、花嫁の立場をとることもできないのです。


そこで、今日の終末の信徒の中で真実な信仰生活住民がいるとすると、その人は自分でもわからないほどの深い悲しみの心情に消えない瞬間に何度も諦めるだろうが、そのような瞬間を乗り越えなければなりません。


歴史的な怨念、将来的な怨念、その覚悟の原因を清算しなければ時が終末です。未来とともに涙を流せるようにならないのです。

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そして、自分の幸福を忘れ、人類の葛藤と問題を乗り越えて進むことが避けられない立場に立ったとき、天の喜びはそのような人々に対して目に見えるのです。


私は神が愛であることを信じています。また、多くの教えも神が愛であることを伝えています。たでお願いですか? 天の心情を抱き、悲しみに満ちた歴史を見つめ、悲しみを思い心の心を思いやったことはあるでしょうか?神が愛の心で人類を招かれるその思いには、私たちに喜びを伝えたいという心よりも、私たちを探しているよう求めているのと対話がより多く含まれていることをよく考えてきたでしょうか?このような神の心を理解する必要があります


『お父様! 天を気にすると、言葉にできないほどの悲しみがこみあげます。 お父様を見つめ、そのご意志を思うとき、限りなく悲しむべき人類を見つめるとき、言葉に尽くせないほどの覚悟が感じられます』という心、これがイエスが天に対して抱いた忠誠の心でした。このように、喜びをお父様のもとに帰すよう望む心、イエスが広めようとした福音の内容であったことを、私たちは知っているべきです。


私たちは天の祝福を得るために、これまで一生懸命に頑張りました。 「この道を切り開くためには、ただ楽しいだけで着せられるものではありません。


キリスト教の歴史は、悲しみの歴史であり、歴史の歴史です。キリスト教という宗教は、アメリカの宗教であり、知覚の宗教なのです。これはキリスト教に限定されず、道を目指すどの宗教も、このような形で歩かなければなりません。


また、歴史的な認識とともに人類の認識を抱き、心に溢れる瞬間を体感したことがありますかか?それを知覚していないなら、死んでも知覚しなければならない、死んでからでも。

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偶然、この地上にいる信徒たちは、地上で地獄の危機を乗り越え、地上で地獄の試練を踏み越えていく必要があります。


民族を救う者とは誰で頼むのですか?それは、民族の苦しみを骨の髄まで感じ、民族の対話を深く理解する者です。では、世界を救う者とは誰で頼むのですか? 現在の先進国はアメリカですが、皆さんは彼らに期待を寄せてはなりません。 彼らは色々世界的な役割を果たすことはできても、世界を主管することはできません。世界を主管することはできないのです。


一つの国に正義を優先者がいるとするならば、その者はその国の悲しみと覚悟を共に背負い、洞察し続ける存在であるべきです。 この世界をまとめられるのはどのような人たちでしょうか? それは、世界の懸案を抱きしめて泣き、世界の視野を向いて議論する人々です。


私たち韓民族は哀れな民族です。長い歴史を乗り越えられたもの、他の民族に誇示や民族的な自信を持つことができませんでした。民族が21世紀の新しい文化の時代に、天が望む心を抱き、人類の悲しみと共に奮闘し、人類の意思をともに背負う民族となり、さらに神の世界と思慮を奮って立って民族となるならば、この民族は世界を考え、天の愛を受ける民族になるでしょう。


イエスが万王の王として決定されたのはどのような場所でのことだったでしょうか? それは、豪華で華麗な宮殿の玉座に座り、幸福な立場で人々の前で誇り高く歌う場でイエス様は、対話的な道において、歴史的な森と人類の葛藤、歴史的な議論と人類の認識を問われ、すべての人々の前で天の喜びを広げようとする情熱に彼はそのような心情に満ちていました。 だから、彼はすべての人々を救う救世主となり、信念の歴史の道において、天の主人公として輝く存在になったのです。は天が正義できた覚悟の歴史の中で、誇りとなる存在となり、未来の信念の歴史においても王としての地位を当然なことを知っておくべきです。

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ここに、悲しい歴史霊の道を先にできた多くの人たちも、イエスを救世主として迎えなければなりません。同様の理由であります。


今日、イエスの希望を実現する者として現れ、花嫁となろう者は、自分中心の信念に満足してはなりません。な問題を抱えて、イエス様に別れて『もし喜びがあるなら、それは天のものであり、迷惑と問題があるなら、それは私のものだ』と言う心情を持った者にはならないの「です。このような者であればこそ、天を支配し、地獄さえも支配することができるのです。


だから、今まで私が持ってきた信念、これから「信じて天国に行く」という信念観念を断ち切ってください。「自分が信じて天国に行く」というその考えを捨ててください。王子であるという考えすらずに生きました。 もし自分を天国の王子だと思っていたら、どうやって死ぬことがあるでお願いしますか?そのようなことは考えてないのです。のすべての悲しみと悲しみを背負い、「お父様よ、どうか御心のままに」と切りに受け入れたのです。


では、現代の人々はどのような心を持っているのでしょうか? 自分たちの悲しみに泣き、自分たちの対話に苦しむだけの民族には絶望しかありません。を抱きしめ、共に悲しみ、苦しむ民族がいるなら、その民族には希望があるのです。道がこの民族の前に行かなければいけないのです。これを考えて進んできたのが統一教会なのです。


この統一戦士の心情、統一戦士の精神を抱く者は、「自分が救われるために信じる」という思いを持つべきではありません。を開き、怨霊に満ちた地獄のたちまで救うために信じるのだという心情が必要なのです。イエス様が今日あったからこそ、歴史的なメシアとなったのです。

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教会に通うクリスチャンの後ろ姿を見つめる時、皆さんも考えてみてください。 あなたの歩みは何のためにあるのでお願いしますか?自分の命の問題を解決するために動いているのでお願いしますか?もし、天の子供にはなれません。民にはなれても、しもべにはなれても子女となる事はできません。


天の子供になりたいのであれば、そしてその思いを持っているのであれば、天の悲しみを失っている人類に向かって、神と人類を悲しみから解放するための解放運動の先駆者となる必要があるそして、天の戦いに負けない勇者として、敵に立ち向かうための精神的な取り組み、理念の歩みをしなければなりません。 それは自分中心の理念ではなく、全宇宙を考えることができる理念で前進しなければなりません


今、天は復帰の摂理の門を開き、終末における聖徒たちに向けて、個人、家庭、民族、国家の代表者を探しています。歴史を見渡しても、天が求めるそのような個人や家庭、国家、そして世界を見つけることはできません。自己中心のままでは不可能なのです。意識をもって生存行動し、天の法則に沿って生存意識をもって歩むことができるようになるべきです


限られた範囲の中で得た意識を生存の価値と見なして、それなりにして生きている人は自分です。 歴史はその人を反省するでしょう。私たちの意識を超えたところに世界の意識があり、そのさらに上には天の意識があります。皆さんは心を広げ、世界の意識を越えて、その意識の中にある困難と困難を乗り越え、喜びの姿で「天よ、どうか私たちを顧みてください」と言えるような復活の姿を持つべきです。


イエスもまたそのような道を歩いたのだ。同様に、今日のこの歴史的な幕を脱ごうとする世界の前に、大宇宙の光を放ち、新しい自己意識を持って前に立つ者こそが、終末の再臨と復活の時代において、天が求める栄光の国民、栄光の子供として立つことができるということを皆さんは理解する価値がある。


その立場に立つ者だけが、歴史的な壁を乗り越え、天の葛藤を解き放ち、この時代において天の喜びを携えて進むことができるのです。

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今一度、神の立場に立って戻って考えてみると、愛する子供たちを迫害にさらされなければならないと言う、神にとっての辛さがありました。子女が叫び訴えた後も2千年の歴史の中でも多くの聖徒たちが殉教し続け、そのような悲しみを抱き続けた神の目的はどこにあったのでしょうか? それは、私たちの困難のためだったのです。


天がこれまで私たちのために尽力されたのも、天が悲しみの道をずっとこれたのも、私たちとこの世界のためでした。


皆さんが今日地上にいる人々を見つめ、天が歴史の歩みの中で感じられた心情を体験し、天の前で「困難と苦難をすべて乗り越えて進んでまいります。万宇宙よ、私を見て喜んでください。私を見て栄光をお受けください」と言えるようになるためには、皆さん自身が悲しみの王子、天の王子となる必要があります。全人類と生死を共にする信念を持ち、現実において死の峠を越えて、覚悟の峠を越えて、今日のあらゆる困難を打破し、天からの喜びを感じる必要があります。


そのようにして、「お父様、私を見て喜んでください。万民よ、私を見て喜んでください。万宇宙よ、私を見て喜んでください」と言えるようになる事が願いであったと言う事です。


私たちがこのような存在となり、会いたかった神様をお父様として迎え、共に生きたいと願った神様をお父様として共に生活できる時、天の悲しみと歴史の交差点、天の試練と歴史の覚悟が私徹底的に解決されるのだと考えなければなりません。

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このような存在になってこそ、統一王国の子供として代表者となることを、皆さんは理解すべきです。



<祈祷>
お父様! 長い長い歴史は、今も私たちを巻き込み、私たちの心に影響を与え続けています。この悲しみの中で日々を過ごす私たちは、お父様の深い悲しみを解消し、天に刻まれた嘆きを解消しならないという、計り知れない使命があることを知りました。


そのような使命を担った私たち、天と地の心情を抱き、悲しみを分かち合い、正義を感じ、幾度も命を尊重することがあったとしても、お父様を慰める息子娘で有るべき事をしりました。


イエス様がこの地上に来られた時、多くの教団や信者たちがメシアの到来を待っていましたが、彼らはメシアが自分たちの希望を超える存在として現れて信じていました。来られたメシアは、喜びを実現する存在ではなく、人類のすべての橋を架けた悲しみのメシアであり、歴史のすべての知覚を体現したメシアでした。メシアがそのような姿で現れたと考えた者は、誰一人としていなかったことを私たちは知っています。


歴史は示された通りに行われるということを私たちは知っています。感情、歴史を通して流れ続けてきた悲しみの感情、それら縦の歴史で生まれた悲しみを、私たち一人ひとりが横の歴史として展開し、それを整理して、横的な喜びをお父様に返す責任が終末の聖徒たちにあることを私たちは知っています。

31

お父様! 私たちは世界のために忠誠を尽くしたいと願います。 すべての人類のために天の幸福を目指したいと思っています。必要と考えを全て受け入れられる者だけが、天からの喜びを継承する者として登場できることを知っています。滅びることを理解できるようにして下さい。


お父様! 喜びを求めてさまよい戦う者は、勝利の成果を得られないことを私知っています。誓い出た者こそが、歴史の讃え物を高め、歴史を導いたことを、そしてそのような人こそが滅びゆく民族や滅びゆく世界を導かなければならないことを、理解出来る様にして下さい。


終末の犯罪を見ても、人類を見ても悲しみがあり、天地を見ても恐れに包まれるこの時、私たちは誰を信じて生きますか? お父様を仰ぎ、お父様の悲しみを解くために戦い、命を大切にしない最終審判の時がございます。敢えてない陰に心が包まれている人がいるなら、その陰を打ち砕いてください。ことを知るようお許しください


わからない宇宙の声に悩まされ、嘆きと死の道をさまようあなたの子供たちがいますか? 彼らの命が今危機に瀕していることを自覚できるようお許しください。


このように、生死の危機を覚悟の上で、悲しみと嘆きと覚悟が生まれたのは人間の故です。私達は天を求めてこそ、初めて天に向き合うことができると理解できるようお許し下さい。

32

今日お聞かせいただいた御言葉が、あなたの子供たちの心から忘れ去られることを遠慮せずご容赦ください。ただ悲しみの歴史を乗り越え、喜びの心で勝利の姿を成し、「お父様、どうか悲しまないでください。あなたが待ち望んでいた栄光の子供たちがここに来ましたので、どうか抱きしめてください」と言って堂々とした姿になれるようにお許しください。

お父様、どうか私たちの努力と犠牲のために、この地上に喜びの子供の姿が現れる様にしてください。先に現れる道を切り開き、基礎を築く者となれるようにお許しください。

お父様、心からの願いとともに、すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン


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御言葉選集6(7)

2024年10月14日 18時43分54秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 7.  天国を探し求めようとする悲しい父と息子娘たち (1959年5月17日)
1959年5月17日(日)、全本部教会。
ヨハネによる福音書 14:1-24

1
<祈り(Ⅰ)>

死の波が押し寄せる災害の中にいるたち人間は、この地上に覚悟の日を勝ち取るために、長い年月を乗り越えて苦労し、不当な扱いを受けながらも戦いの歴史を摂理してこられた父の御前に顔を上げることができず

今、エジプトの奴隷生活のような6000年の歴史から私たちを解放してください。栄光の一時と一日を約束してくださったことに感謝いたします。血と涙の道を歩み、進むべき道とその方向性を示された時が一度や二度ではなかったことを、私たちは歴史的によく知っています。

愛深き父なる神様!愛の父なる神様!私たちは、この地をあなたの慈悲深い御手で支えて頂くことが難しいと知っております。不忠実で不完全な私たちですが、あなたの認識を慕い、あなたの愛を恋しく思い、父なる神様の御前にお伺いしました。

悲しみと悲しみが残るこの地に生きる私たちを自覚してください。また、天のために嘆くか悪い状況を、私たちは嘆かざるを得ません。のような、6000年の試練の歴史における嘆きの領域を、父なる神様、取り

私たちは人間を信じて従ってきました。 しかし、その道は苦役の道であり、歩む足取りが悲しみを呼ぶものであることを知っておりますが、堕落という罪を犯した人間であることが、絶望の淵で苦しむ人間は、天の約束を知ったその日から、この死の淵から逃れようと諦めることができましたが、今日に至るまでサタンの支配下から逃げ抜けていないそして、その中で特に私たち自身がその一部であることを認識しています

2

今生きていくために、ずっと生きられる父を呼ばなければいけない時が来ました。だから、賢明な自分を憂い、足りない自分を嘆き、迷惑な自分を打ちながら、今日もその国を建てるためにあえぐという切実な心情を我慢してください、明日、愛する父よ、切に願います

今始まった歩みであり、戦いの盾を取りましたので、その日その日戦いに天の力をお与えください。そして、勝利の一日を予告してください。でなければ、苦難のその道を進んでいることはできず、荒野である荒野の道を開拓することもできません。

お父様! イスラエルの60万人の民がファラオの宮廷を抜け出した時には、喜びの歓声が天に満たされましたが、その後ファラオの戦車が追ってきた時には、嘆き、天を恨んだ先祖たちの足取りをよく知っています。今日、私たちの父の前に立つ時、喜びの心がありますか? その心情に反して、天を恨んで心が大きくなるのではないかと恐れています。その一日を誇りに思い、すべての人々が喜んで天を讃えることのできる終末の日を希望としなければなりません。


どのような困難やどのような悲しみが襲ってこようとも、敵が罪の深淵を掘って待っていようとも、粘り強く戦い、天の精兵に相当な気概を覚悟してください、愛する父よ、切に願いを求めます


進む道には山の峠もあり、石ころだらけの道もあり、荒れ地もあり、敵が私たちを狙う時もあるでしょう。また戦いの道を切り開き、約束のカナンの地を解放するその日まで、心に責任を感じて突進できる天の勇士となるよう許してください、父よ、切に願い求めます


今日、父の前に集まったあなたの息子娘たちを覚えてください。父よ、この日にここに集まったあなたの息子娘たちが、父の前で新しい約束をできるようにしてください。新しい決意と覚悟を決めてください。


天にいる何千万の聖徒たちよ! この一時間聖別してください。私たちはこの時間、父が動ける、父が主導される、父が行われることに足りないような切実な心情だけが満ちて、父の心情とそこにいることができるよう、心より切に願います。


今、すべてを父の前に進みますので、主導してください。 三一体の神が動ける、すべての悪の要素を分けてください。の中に捉えられるこの一時間としてくださいと、心より切に願います。


この日も地方に囲まれ、孤独に御心のために戦い、心配している多くの息子たちが娘ですので、彼らと共にいてください。父よ、彼らに許された賜物を与えてください。命の賜物をこの目立つの聴衆にも許してくださいことを心よりお願いし、願い求めます。


父よ、この日は聖なる日ですので、集まる場所ごとにあなたの愛の烽火(のろし)を慎重にさせてください。栄光の賜物をお与えください、すべての民が蘇ることのできる賜物の炎を下してください。


すべてを通りますので、御心のままにお考えください。主の御名によってお祈りします。







<祈り(Ⅱ)>


限りない悲しみが天に満ちていることを、この地上に住む人類はまだ知らないでいます。限りなく苦しいのが天の歴史であるという事実を、私たちは天を信じていながらも知りませんでした。


お父様、私たちに耐え難い御言葉をお与えになり、今まで人々が探し求めても見つけることのできなかった希望の時を私たちに予告してくださり、お父様、感謝いたします。未熟な私たちが、天と地の前で身も心も低くし、お父様に向かって叫ぶには、恥ずかしさを感じずにはいられません。


お父様が「来なさい」とおっしゃる道を歩み始めた私たち、その道が喜びの道だと思っていましたが、進んでいくうちに、限りなく涙を流しながら歩まなければならない道であることがわかりました。そして、他人には知られない中で、天と地を代わって恨みの心情を抱かざるを得ない、悲しく孤独で心配の多い道であることがわかりました。その道は、生きようとする者には進めない道であり、死の覚悟を持った者だけが進むことのできる道であることを感じずにはいられません。


お父様、ここに集まったあなたの孤独な息子娘たちを憐れんでください。この者たちの心に天的な理念が動いていますか?その理念が自己を中心とした理念ではなく、歴史的な理念であることを悟らせてください。理念によって動かされる心情がありますか?その心情が自分の一生にとどまるものではないことを悟らせてください。


5


与えられた賜物と感じ取った恵みをこの者たちが体感したならば、もはや自分自身を中心として、自分ひとりで天国を築いて生きるのではないことを悟らせてください。この業を始められたのはあなたですから、自分のすべてをお父様のものとして捧げることを知る私たちになれるように許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


お父様が「来なさい」とおっしゃるその道に私たちが踏み出すとき、私たちはすべてをすでに神様の前に捧げました。私たちが持っているすべてのもの、私たちの心情までもお父様のものとして捧げました。


すべてを捧げても喜びを感じられるような姿を、神様は待ち望んでおられるのに、失うことを見て悲しむ私たちをどうかお許しください。すべてを委ねても限りなく喜べる心を持たせてください。このような心を持つ者は、お父様のすべてを受け継ぐ者となり、このようにして天への切なる心情を抱いて進む者は、天と地で勝利することを知っています。


お父様、私たちの生活環境からすべてを奪い去るのは、神様が楽しむためではなく、神様のすべてを私たちに託すための摂理の御心であることを理解しました。そのような複雑な御心をもって、私たちを探し、呼び、招かなければならない父の心情を知りました。まだ自分を中心とした意識や感覚が残っているのであれば、今それをすべてお父様の前に差し出させてください。そして、天地に存在するすべてのものを見て、神様に限りない感謝の心を持てるよう、私たちの心と体にその心情を満たしてくださいますよう、心から願い求めます。


神様が悲しんでおられるのを見て、自分も悲しむことができることを感謝できるようにしてください。神様がご苦労されているのを見て、私たちも共に苦しむことができる自分であることを感謝できるよう、助けてください。


6


天の戦いの道のりを見て、私たちもそのような場所にいることを感謝できる人間となれるようにしてください。そして、このひとりひとりを父の御胸に抱き、立たせてくださいますよう、私のお父様、心から願い求めます。


お父様、この日に私たちは集まりました。どうか憐れんでください。一つからすべてがお父様のものとして結びつく時間となることを切に願います。孤独な足取りをたどってここに来ましたので、この一週間の間に受けたすべての傷をお父様、引き受けてくださり、癒し、慰め、励ましてくださり、あなたの恵みの手を差し伸べてくださるよう、心から願い求めます。


お父様、この日は聖なる日であり、この地と縁を結ぼうとする天の時間であることを知っています。天の無数の聖徒たちと、善を求めて努力しているこの地上の多くの人々をどうかお支えください。さらに、お父様の前にひざまずき集まるすべての場所で、善の業が協力し、そこにあなたの力の業を加えて、死が渦巻くこの地に勝利のしるしを立て、お父様の栄光を讃えることのできる一日としてくださいと、心から願い求めます。


命の源であるお父様、この時間に現れて栄光の賜物をお与えくださり、直接の業で導いてくださるよう、心から願い求め、すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈り(Ⅲ)>
 待ち望んでいた希望の一日を迎えるために摂理を進めてこられたお父様、不信する人々を見捨てることができず、無数の孤独な人々を抱きしめるためにイスラエルという祝福を授け、歴史を導いてこられた中で、約束されていた一人の存在をお送りくださったその日は、父の栄光が天に満ち、全人類の歓喜の心によって天にも地にも喜びが満ちるべき日でした。しかし、4千年の悲しみがイエス様お一人にのしかかったという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


7


馬小屋で生まれ、30余年の生涯を生きたその日々は、あまりにも悲惨で、あまりにも孤独で、頼る場所がありませんでした。この地上で信じられる者がいなかったイエス様、自らの心の奥底をさらけ出し、その切なる心情を伝えられぬまま、恨みの主人公として去っていかれたイエス様であったことを、今日私たちは知っています。


天からの勧告の御言葉が残っていましたが、それを受け入れるべき人々が信じなかったために、その御言葉をすべて伝えることができず、心に抱えたまま去っていかれた2千年前のイエス様の悲しみを知らないすべての人々を、どうかお赦しください。それでもなお、天に従う弟子たちを集めて、勧告し、お願いされた御言葉と祈りを私たちは聞きました。この地上の縁と天の縁が交わるその瞬間に、天の喜びが現れ、さらに地上に新しい国が建設されるべきであったのに、その瞬間に喜びは消え、嘆きと悲しみが始まり、恨みの十字架の道が生まれたという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


私たちの先祖たちは天の前に借りを作り、私たちもまた天の前に宇宙的な借りを作っておりますが、それを清算することを知らず、自分の安逸を求めて苦しむ者たちとなっていることをどうかお許しください、お父様、心から願い求めます。


孤独な者たちがお父様の前に集まりましたので、もし勧告すべき御言葉があるならば、どうかお与えください。これまで多くの御言葉を伝えてまいりました。伝えてみると、父の悲しみが現れていることに気づき、知らせてみると、私たちが父の心配を抱えながらも一致していなかったことを知りました。人間に対する父の悲しみがそのように道々に現れ、世紀を超え、時代ごとに現れてきたことを知りました。


お父様、痛ましい心情を感じ取り、地を憂い、天を憂う心を持つ息子娘たちがこの地上にどれほどいるでしょうか? それが極めて少ないことを知っています。哀れな全人類を救うために、数々の苦労をいとわず、孤独な私たちを励まして時を重ねてこられたお父様、私たちの前に新しい約束を立ててください。この者たちに新しい約束と新しい時代の使命を託そうとする天の御心があるのであれば、お父様、どうかお働きください。


8


この韓民族を哀れんでください。朝鮮半島を憐れんでください。この民族は哀れな民族であり、頼るべき場所がない民族です。誇るべき伝統も、誇るべき何物もなく、天の前に誇れるような民族性も持たない民族です。この民族の命を担うべき者が誰もおりませんので、哀れなこの民族を憐れんでください。この民族は孤独な民族ですので、どうか彼らの生きる道を開いてください。そして彼らの進むべき道を憂い、彼らが立っている位置を顧みて、慈しんでください。


お父様、この地に希望を託せるものが何もない民族ですので、天の心情を通じてこの民族の生きる道を切り開くことができるようにしてください、お父様、心から願い求めます。


天に対して、地に対して、この民族の悲惨さを訴える者が多くなるようにしてください。進むべき道が塞がれたからといって倒れる者が出ないようにし、進むべき道が塞がれたその事実を持って、お父様の前に訴え、嘆き悲しむ人々が多くなるようにしてくださいと、心から願い求めます。


お父様、迫害される統一教会の道を見つけて進んできたあなたの息子娘たちを憐れんでください。この道を進むことを望んではいなかったのですが、この道に入って他の人が知らないことを知り、他の人とは違う責任を負うようになり、もう後戻りできない立場にいることを知りました。お父様、これまで孤独な道を導いてくださったあなたの心情と、御心を成し遂げてこられたあなたの心情を知りましたので、孤独な私たちの後に続く者たちをどうか導いてください。


哀れな場所で天に向かって切なる心情で訴える者がいるなら、その後に続く者も同じ立場にあることを知りましたので、お父様、どうか彼らを憐れみ、支えてください。


9


彼らは人間の仕事によって動いてきたのではなく、人間の事情に絡まって動いてきたのでもありません。天上の愛を通して出発する歩みであり、人間によってその歩みを失わないようにしてください。そしてその過程で絶望することなく進むことができるように、お父様、心から願い求めます。


歴史の道を振り返ってみると、新しい時代と新しい歴史を創り上げてきた人々は、その時代に追いやられた者たちであり、追い込まれ追い込まれた末に残された者たちであることがわかります。お父様、この動きをどうか憐れんでください。


天の御心を抱き、あなたのために忠誠の心を持つ息子娘たちが、どれほどの苦しみが襲ってきても、もしそれがお父様の望む御心であるならば、このことのために何度でも命を捧げることがあっても、結果を残し倒れることができるようにし、最後まで戦い抜くことを許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


今日は4月10日(旧暦)です。お父様、この民族を祝福してください。お父様、人類に愛の手を差し伸べられたのなら、その手を引っ込めないでください。真理の使徒たちをこの天地に送り、愛の使徒たちを全地に送り込んでください。誠実を立て、あなたをお迎えできる誠実な使徒たちを送り出してください。


探し、待ち望み、願い求め、戦ってこられたお父様の愛を受けて、最後の審判の場で悪魔を恥じ入らせることができる者たちになれるようにしてください。お父様、心から願い求めます。この時間に何を申し上げることができましょうか? お父様、どうかすべてをお任せし、導いてください。


10


伝える者の心と受け取る者の心が二つにならず、一つになるように導いてください。このひとときには、お父様の御心と御心情、そして事情に自然と結びつき、父の願いを叶えるための誓いと覚悟ができるように許してくださることを心からお願い申し上げます。どうかすべてをお任せし、導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


皆さんに少しお話ししたい題は、「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」です。「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」という題で、少しお話しさせていただきます。


人類の始祖が楽園を失った悲しみを感じ取ったその日から、今日に至るまで、すべての人には心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあります。そして、その悲しみが全世界に、さらには天までも広がっているという事実を、私たちは知っています。


一つの目的を追求すべき私たち人間が、二つの目的に直面する立場に置かれたことで、本来は唯一の主人である神様に向かうべき人間が、神以外に悪魔にも向き合う立場に立たされることになりました。ですから、堕落した私たち人間は、二つの目的の世界に直面する立場にあるということを、日々の生活を通じて感じざるを得ず、それは誰も否定できない現実です。


人間を創造された神の御心から見ると、人間は一つの主人を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在でした。しかし、堕落したその日から、人間は二人の主人に向き合い、二つの目的の理念を追い求める存在となってしまったのです。


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そのために、善と悪の問題は、私たち一人一人の環境に限らず、全世界にまでつながっていることを私たちは知っています。さらに、それは地上だけでなく、天にまで及ぶ因縁となっているという事実も私たちは知っています。


今、私たちは目的の世界に向かって進まざるを得ない運命にあり、何であれ私の良心がある方向性を指し示して私を急き立てていることを、拒むことはできません。したがって、今日の私たち人間は、現実の社会の矛盾に直面したとき、世界の複雑な状況を超えた新しい理念の世界を心の中で追い求めずにはいられません。


では、私にそうした心情を感じさせ、私自身も気づかないうちに、ある感覚を通じて心をその一つの方向に導いている動機はどこから始まったのでしょうか。それは、一つの目的と理念を持つ唯一の主人から始まったのです。そのため、その方は、一つの理念を持ち、一つの目的に向かって進んでいける人間と一つの世界を再創造するために、私たちの生活環境を導いているのだと知る必要があります。


今日の人類は、新しい文化世界を創造しようとしています。それだけでなく、その文化世界を創りながら、その文化を通じて心の世界の理念を目指しています。このことを拒むことのできない立場にいる自分を知るならば、皆さんは安穏とした日々を過ごすことはできないでしょう。


なぜなら、私たちの祖先が楽園を失ったその日から、その悲しみの感情は私たちにまで繋がっているからです。この重大な事実は、歴史的に証明された事実です。私たちの心情を通して、生活の中で感じ取るその事実を、何によっても拒むことはできません。このようなことを深刻に考え、御心を抱く人がいるならば、その人はこの悲しみと苦しみの因縁を解くために、天地に向かって両腕を広げ、訴え、もがく立場を免れることはできないでしょう。


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したがって、皆さんは、今日の私たちがそのような姿になるために、どのような目的と理念を持ち、どのような中心を目指して生活する開拓者の立場にいるのか、もう一度振り返って考えなければならない時が来たということを知る必要があります。天はこのような時代を作り、このような御心を成し遂げるために、歴史の道を歩みながら、良心を基盤にして善を追求し、善の理念を探し求める摂理を私たちの先祖たちに働きかけてこられたことを理解しなければなりません。


ですから、皆さんの心が善を目指すように何らかの衝撃を感じる瞬間があるとすれば、それは崇高な瞬間です。崇高な瞬間です。それは、歴代の私たちの先祖たちが、皆さんを立てて、人類が願う善の目的の方向へと進むように急き立てる瞬間です。さらに言えば、それは天が皆さんを立ててくださろうとする瞬間であることに違いありません。


そのため、真の理念、真の中心を目指す良心の動きを持つ人がいるならば、その人はそれをどのように整理して自分の心の中心、体の中心、生活の中心、理念の中心、あるいは目的の中心に据えるために苦しんできたのか、反省しなければなりません。


このような観点から、人間が自分自身を批判し、自分を中心に結びついている世界を批判し、さらにはこれらすべてが目に見えない無形の創造主と結びついていることを憂う心情を抱いて苦しんできたとすれば、私たち人間の心に抱かれた恨みの峠は、すでに歴史のある時点で崩れ去っていたはずです。天がこの問題を解決しない限り、天としての責任を全うしたことにはなりません。


そのため、天はこのようなことをある時、ある一人、ある集団、ある国家に予告し、摂理を進め、またそのような歴史の痕跡を残さざるを得ないのです。


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私たちがその痕跡を探し求めるとき、その恨みの歴史を清算することは、論理的な手段や理論的な形式によっては達成できません。そのため、心の世界を探り、善の理念を追求し、さらに霊的な世界、すなわち超自然的な次元の感情を引き出す方法を見つけ、人間と結びつかざるを得ないために、宗教というものが現れることになったのです。


宗教を通じて私たちが感じるべきことは、一つの目的、一つの理念、一つの中心が歴史の始まりから終末の時代まで変わることがあってはならないということです。一貫した思想で流れていかなければなりません。なぜでしょうか?


皆さんは、善悪の基準、つまり善なる民族、善なる人、善なる事を何を基準にして判断しますか? 始まりと終わりが同じであるものは天であり、善であるから、それを基準にして判断するのです。真の善、真の天であるならば、昔も今もその目的、その理念、その方向が変わることはありません。そのため、宗教が一つの理念を立て、歴史の変遷があっても、その理念は変わることなく着実に進み続けているのです。


人間の悲しみは堕落によって生じました。さらに言えば、天の悲しみも人間の堕落によって生じたのであり、この悲しみを解消するための一日を予告するような何らかの御心がなければならず、それを実践するための方法が必要であり、それを解決できる人がいることは間違いありません。


この役割を担い、この責任を果たすために送られた方が、宗教的に言うと「道」の責任を負った者なのです。


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世界的な「道」の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教ではイエスの降臨と呼ぶのです。


そのような中心的な存在が、天の悲しみと地の悲しみを解消するためにこの地に現れるならば、絶対に栄光に満ちた姿で現れることはできないのです。なぜなら、神の実体が現れるには、歴史の過程を無視することはできず、時代の状況を軽視することもできないからです。


天が悲しみの過程を経てきた歴史があるため、イエスが天の理念を代行できる理念の主体であり、目的の主体であり、命の主体としてこの地に現れるためには、そのような過程を経る必要があったのです。


実存するということは、因縁の過程を経なければならないということです。そうして初めて実存の基盤を持つことができるのです。だからこそ、イエスも歴史的に結びついたその悲しい心情を感じ取らなければならなかったのです。人間を代表してその心情を感じると同時に、天を代表して神の悲しみの心情さえも感じ取らなければならなかったのです。


倫理的な視点と宗教的な視点は異なります。人間が見ると、自分を否定し、全体のために民衆の苦しみを背負おうとする人を「善人」として称賛しますが、宗教的に見るとそれだけでは不十分です。人間の悲しみを代わると同時に、天の悲しみをも代わる立場に立たなければならないのです。


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これは、堕落によってもつれた恨みの問題を抱えた人間が必ず持たなければならない天の要求であり、全人類の要求であることを理解しなければなりません。


このような恨みを解消し、堕落によってもつれた問題を解決するために来られたのがイエスであるとすれば、彼は4千年の人類の歴史の中で誰一人として感じ取ることのできなかった神の悲しみの心情を感じ取る道を歩まなければなりませんでした。したがって、イエスは4千年の歴史の中で現れたどの主義よりも、神の心の奥深くに染み込んでいる悲しみの感情を感じ取らなければならなかったのです。もし地上の人間の中で天の悲しみの心情を感じ取った者がいたとすれば、その人は涙なくして地を見つめることができないでしょう。天と地にまで悲しみが染み渡り、嘆き悲しみ、泣き叫ぶ境地に至ることでしょう。イエスはこのような心情を感じておられました。


それは誰のためだったのでしょうか? まずは天のためであり、天が人間のためにイエスをこの地に送ったのですから、その次は人間のためだったと言えます。だからこそ、天の悲しみを抱いて人間を慰め、共に涙を流さなければならなかったイエス、人間の悲しい状況を抱えて天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエスであったのです。


もし天が存在し、このような世界の状況を見つめておられることを知ったならば、私たちはさらに大きな恐怖を感じるでしょう。心の世界において、自分でもわからない恐怖の刺激は、時が経てば経つほど、そして時代が切迫してくるほど、ますます強くなるでしょう。


ですから、その世界、その方向をそのまま受け入れて進んではならないのです。その道を進めば、命の危険を感じ、生死の危機に直面することは間違いありません。その道は本来の心を持った人間が進むべき道ではないと再認識し、引き返せる環境を探してみるゆとりを持たなければならないのです。皆さんはそのような心を持つべきです。これまで以上に、地上においても天の前においても忠誠を尽くし、苦難を受けた以上の苦難を耐え、あらゆる情熱を注いできた以上の情熱を注がなければなりません。


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どのような善の主体、どのような善の目的、理念の世界が心に深く刻まれていて、皆さんがそれを感じずにはいられず、もがかずにはいられないような状態でなければなりません。そのような状態になれば、皆さんは何らかの目的の世界を目指して進む動機を持っていることは間違いないでしょう。


これまで自分が持っている合理的な論理を通じて築かれた主観や認識、あるいは自分なりに築いた観念に基づいて、人生を任せて生きていることに安堵を感じている人がいるとしたら、その学んだ知識が自らを縛る結果をもたらすことになるのは間違いありません。


皆さんの心の奥底を掘り下げて考えるとき、このような感情の流れを否定できない一つの真理であり、実在であることを知っているならば、その姿は宇宙的なものであり、宇宙的な証拠であり、歴史的な証拠であり、理念の証拠であり、一つの主体に対する対象的な存在であることは確実な事実です。


もし天が存在するならば、私たちは主体である天が対象である私たちの個々を100%信頼してくれるその一日を探さなければなりません。その目的に対して100%の信念を持って、その一つの場所を目指さなければならないのです。また、100%の信念を持って突き進む方向性を備えなければなりません。これが、現代の人類が解決しなければならない最も重大な問題です。


このような悲しみの環境を乗り越えなければならない人間であるがゆえに、神はこれを解決するための何らかの条件を立ててこられたことは間違いありません。それでは、神は歴史の中でどのように摂理を進めてこられたのでしょうか。人類の祖先が堕落したのは、神を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったからこそ堕落したのです。さらに言えば、神を愛することができなかったからです。そして、神を迎えることができなかったために堕落したのです。これが、キリスト教で言われている信仰の三大要素、すなわち「信仰」「希望」「愛」を象徴しているのです。


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私たちの最終的な希望は何でしょうか?それは神をお迎えすることです。人間が必ず取り戻さなければならないのは、天との縁を回復することです。恨みを晴らすための歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとすれば、それらの条件はどのようにして私たちにやって来るのでしょうか?過去の私たちの先祖たちが信じることができず、愛することができず、お迎えすることができなかったために、信仰の運動や愛の運動が提唱されてきたという事実を私たちは知っています。このようなことを通して、私たちに近づいてきているのです。


イエス様が来られる前までは、信仰の基盤を築くために苦しみ、イエス様がこの地上に来られてからは、人類を愛するために戦われましたが、その御心をすべて成し遂げることなく、新郎新婦の理念だけを残して去って行かれました。ですから、この人類を抱きしめ、愛することができる愛の主人公が来なければならないのです。


では、その主人公を迎えたその日からはどうすべきでしょうか?日常生活の中でその方をお迎えしながら生きるのです。それが地上天国です。そのように無限にお迎えしながら生きる世界、そのような天国の世界で生きることこそが、信仰者たちの希望であり、理想の基準です。歴史の摂理の道筋もその方向に向かって進んでいます。


そのため、天が悲しみに沈む人間を探し出すためには、逆説的な要素と逆理的な条件を通じて、順理的で法に適った条件を築かなければならないのです。ここに天の困難があります。人間の悲しみも大きいですが、天の深い悲しみはそれ以上に大きいのです。しかし、人間はそのような天の悲しみを知りません。無知な人間に対して法を定め、順理的な過程を経て近づいてこなければならない天の悲しみを知る人はいません。


それゆえ、イエス以降の歴史は、信義の歴史です。人類の歴史は、信仰の一つの基準を形成し、その基準を高め、善の成果を積み上げてきたことを私たちは知っています。イエス様は愛の中心としてこの地に来られましたが、来られた目的を完全に果たすことなく去られたため、これからは信義の時代から侍義の時代へと移行しなければならないのです。


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そのために、天は悲しい環境に置かれている私という一人の存在を救うために、再び訪れてくださるのです。


歴史的に見ると、天が人間を探し求めてこられたのは、信仰という条件を通じてだったということです。天は人間にこの信仰の条件を立てさせる一方で、人間に何を求めたのでしょうか?それは実践を求めたのです。天と人が結ばれ、悲しみの感情を取り除くための一つの足場を築くためには、信仰を中心に実践的な行動が必要でした。そうしてこそ、歴史的な縁を結ぶことができるのです。


なぜなら、私という存在は、私個人のために生きるのではなく、私を否定して天の進む方向に従わなければならない運命にあるからです。天は私たち個人を超えて、世界と宇宙のための方向性を持ち、その方向に進んでいるので、善の方向性は私を中心にしていないのです。善の基準は私を中心にしていません。それは国家が対象であり、天が対象となっているのです。したがって、天は信仰と実践を強調しながら、人類に対して摂理を進めてきました。


今日に至るまで、信仰と実践を強調してきた歴史は6千年に及びます。この6千年の歴史を振り返ると、言葉では言い表せないほどの悲しみの歴史でした。しかし、今日の皆さんが人類の悲しみ以上に、人類を抱えて進んでいる天の悲しみの方がさらに大きいという事実を知らなければ、天との縁を結ぶことはできません。これまでそれを知る者は誰もいませんでした。


私たちは、人間が天を追い出し、預言者や先祖を殺してきた歴史的な先例を持っているということを理解しなければなりません。


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天は、人間が無限に信じ、実践しながら自分を見つけてくれることを望んでおられましたが、人間には神に向き合う心がなく、信仰をもって実践し、行動するための足場も整っていなかったのです。


また、信仰の基盤があるとしても、人間が天の悲しみを理解し、それに共感する心をもって実践しなければ、天の信仰と人間の信仰が交わり、人間のすべての悲しみを解消することはできません。しかし、私たち人間はそのような境地に立つことができなかったのです。


今日、皆さんが新しい理念に向かい、新しい御心を目指して進んでいく中で、自らの信仰に自信を持っていますか?おそらく自信はないでしょう。その自信と共に歴史的な縁を断ち切るだけの命の力を持っていないのであれば、歴史的な縁のある環境を開拓するための実践の道が残っているのです。たとえ信じることを実践できる資格があったとしても、天の悲しみを感じ取り、神の信仰に囚われ、神の実践に囚われようとする感情が先立たないのであれば、皆さんは神が見出し、実現しようとしている天国とは何の関係もないのです。何の関係もないのです。


人間同士の信頼関係も、悲しみの面と喜びの面が相対的な関係を結んでこそ、それが長く維持され、その信頼を基盤に約束された事柄を長く実行することができます。天との信仰の道や実践の道においても、それは変わりません。天の喜びの面と悲しみの面を感じながら、信じて実行できることが必要です。したがって、喜びの自分になるためには、まず悲しみの自分を見つけなければなりません。


そのため、信仰の主人公として来られたイエスは、全ての人々を代表して信仰の中心となる心情を持ち、真の信仰者の姿を備えて天の前に立とうとしました。そして、天はイエスが全ての人々を代表して神と信仰の縁を結び、そのイエスが人々とも縁を結ぶことを望んでおられましたが、その願いがすべて叶うことはありませんでした。つまり、イエスと天は縁を結びましたが、イエスと人間の間には、天が望まれていた縁を結ぶことができないまま、今に至っているのです。これまでの信仰者たちは信仰を立てて実践してきたと言っていますが、信仰と実践が自分の中で完結したと言える日を迎えられていないのです。


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天国とは、真の信仰は「こういうものだ」と解釈でき、真の実践は「こういうものだ」と解釈できる場所です。したがって、今日の人間たちがそのような真の信仰と実践を成し遂げる道で、天が受ける苦難や悲しみの感情を感じ取り、その感情の限界を分析し共感できないならば、その人はまだ天国の理念の世界では両手を挙げて歓迎される立場にはないことを理解しなければなりません。


そのため、イエスが歩んだ足跡は非常に貴重なものでした。イエスは、自分の一言が成り立てば天が成り立ち、その言葉を実行すれば天の御心が実行されることを知っていました。この基準に基づいて生きられたイエスには、人間を心配する心が大きく、天を心配する心が大きく、天地の悲しみを感じ取る感情が大きかったのです。


聖書の中には、イエスが喜びに満ちて踊りながら語ったという箇所はありません。なぜでしょうか?それは、神が今まで喜びの園で子である人間に語ることができなかったからです。イエスは心に喜びがあったとしても、天地を超えられるような喜びの感情で自由に話すことができなかったのです。


イエスの言葉は、喜びの感情を持って紹介されるべきものでしたが、実際に語られたその言葉は、悲しみの感情を通して語られたものであることを知っておかなければなりません。したがって、皆さんはそのような感情に触れ、言葉の尊厳性を理解できるようにならなければなりません。


もしイエスと私が歴史を超えて関係を結べず、現実の生活の理念の中で縁を結ぶことができない言葉であれば、それは天の言葉ではありません。


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皆さん!もし皆さんが真理の道を求め、信仰の歩みを蘇らせようとする切実な心があるならば、イエス様が悲しみの感情で語られた信仰の観念の最終的な限界線がどこにあるのかを知り、その限界を越えなければなりません。イエス様は神の悲しみを解消し、人類の悲しみを解消しなければならない中間的な責任者であったため、その心は計り知れないほどの悲しみで満ちていました。イエス様は人類の悲しみを百なら百、千なら千と感じ取り、さらに神の無数の悲しみをも感じておられました。ですから、すべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れた言葉に対する人間の信仰の基準が確立されて初めて、神と人間の間に途絶えていた縁が再び結ばれるのです。そのような基準を立てることこそが、信仰者の本質だと言えます。


したがって、キリスト教は笑いの宗教ではありませんでした。涙の宗教でした。だからこそ、私たちがイエス様について何か一つを知れば胸が詰まり、二つを知れば思わず号泣し、さらに知れば知るほど自分自身が犠牲となるべき立場にあることを感じずにはいられなくなるのです。そのような感情からの信仰、そのような感情からの実践を行えば、死んだ人間をも生かすことができるのです。


どれだけ天の前に素晴らしい功績を立てたとしても、その功績は自分によって成されたものではありません。それは天によって成されたのです。


では、摂理の始まりはどこから始まったのでしょうか?それは、人間の心が天の悲しみと通じたその瞬間から、新しい摂理の歴史が開かれ、築かれてきたことを私たちは知るべきです。


神は人間に対して信仰と実践の道を歩むように促し、6千年という長い歴史の道を歩んでこられました。神は全人類に対して、そのような存在になることを心から願っておられました。神ご自身を全人類の前に100%示すことのできる実体を望んでおられたのです。


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天は、限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまえるような存在を探しておられます。天の基準とはそのようなものです。「信じなさい」という言葉が必要なく、「行動しなさい」という言葉が必要ない存在を探しているのです。イエス様を通して与えられた言葉を立てることができ、実践の模範を示し、天の感動を起こせる存在を求めてこられました。しかし、そうして天が人間を探し求める限界を超えて実践した人は一人もいませんでした。


今日、キリスト教には多くの信者がいますが、そのような心情の限界を超えて実践の道を誇れる天の子はどこにいるでしょうか?天の子はどこにいるのでしょうか?問題はここにあります。今日の皆さんは、信仰の模範を夢の中でも望み、それを立てることができなければなりません。そして、どんな事実に対しても、時代性や歴史性を超えて、永遠から永遠まで自由自在に自分のものと感じ、楽しむことができ、自分のものとして応じることができなければなりません。神が人間に対して信仰の基盤となる道を確立されたという内容が必要なのです。


世の中で信義の法則を忘れることができる一つの存在、実践の価値を忘れ、実行の価値以上に大切にできる境地で天の御心に染まるとき、天はようやく「我が子よ」と呼ぶことができるのです。だからこそ、真の息子娘を見つけられないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみでもあります。この人類を息子娘として迎えられないことが天の悲しみなのです。


今日、絶対者を「神」と呼ぶ言葉は持っていても、神を「こうだ」と紹介するときに真に感情が通じるものがありません。皆さんも感情を抜きにした言葉は存在し得ないことを知っています。では、言葉が通じ、感情で触れ合える神はどこにいるのでしょうか? 皆さんが信仰の道を進む中で、切実な心情を持ってこの問題に向き合い、信仰という言葉や実践という言葉を越えて、お父様に囚われ、自分でも知らないうちに自分の細胞や心が連動してお父様を呼ぶことができなければなりません。天は必ず、そのような叫びが生理的な状態で持続できる一つの存在を探しておられるのです。


今日の人類が泣かなければならないことがあるとすれば、それは人類全体が責任を果たせなかったことに対して悲しみ、涙を流すことです。6千年の間、天を悲しませてきた反逆者であり裏切り者である私たちの先祖たちに対して、悲しみを抱かなければなりません。さらに進んで、今日の自分自身を振り返り、悲しまなければなりません。


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今日の信仰的な観点から、私たち自身がどのような限界の中でさまよっているのかを考えもしないまま動いているならば、そのような私たちに対して天は「良い」と言うでしょうか、それとも「悲しい」と言うでしょうか?その心情は、4千年を経て6千年の歴史にわたる悲しみで満ちていることでしょう。そして、皆さんは天が皆さんを見て嘆く立場にあることを認めなければなりません。


人間が堕落したことにより、信仰を失い、愛を失い、神を迎える生活を失ったその心情に流れているものは何だったのでしょうか?それは悲しい感情でした。何とも言えない悲しい感情でした。ですから、皆さんも信仰生活において、自分でも気づかないうちに悲しみの感情が芽生え、意識的な基準を設けていなくても、生活の中や周囲の環境で悲しみが訪れる時間があるならば、それは天が訪れる時間であると知ってください。そのような時に、その悲しみの実体を抱きしめ、涙で縁を結ぶ者がいるならば、その人は蘇ることができる人です。


本来、そのような縁を結ぶべき人間ですが、堕落した人間は天に対して立体的に向き合うことができないため、平面的な主人公としてこの地にイエス様を送られました。堕落した人間には、実体の主であるイエス様が必要だったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。


4千年の悲しい歴史の中で追いやられ、追い詰められてきたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱えたイエス様をしっかりと抱きしめ、共に涙を流すことができていたなら、その民族は今日、世界の前で名を知られる民族となっていたでしょう。そうであれば、民族を失い、主権を失い、国土を失い、さまよい続ける民族にはならなかったでしょう。そのような民族にはならなかったでしょう。そうではありませんか?


統一教会は本来、険しい道を進むためのものではありませんでした。私が皆さんが統一教会に入ることを望むとき、歓迎する気持ちよりも心配する気持ちの方が先に立ちます。そのような心で見つめるようになるのです。歓迎するよりも、ためらいの心を持って見つめるようになるのです。


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このような天の思いと天の事情、つまり私たち人間に対して探し求めておられる天の切実な心情を感じる人ほど、自分を立てることができず、自分を否定せざるを得なくなるでしょう。


もし自分の意識や自分の主観で批判できないような境地に、自分でも知らず知らずのうちに引き寄せられるような存在であるなら、そのような境地で悲しみを感じながらも、主体的な立場で天を安心させ、慰めることができる部分を引き受けて繋げる場所でしか、この道を進むことはできないのです。そのようにして初めて、この道を進むことができるのです。


楽な道を進みたいと思う人は、この道に来ないでください。私が歩んでみたところ、その歩みは友がいない孤独な歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を分かち合うことができない歩みであり、頼ることができない歩みであり、信頼できるものがない歩みであるとわかりました。歩んでみて、そんな困難を抱えていたイエス様の心情を少しばかり理解できるようになりました。


今日、私がイエス様を紹介するとすれば、まず悲しみの側面を持つイエス様を紹介したいと思います。食事の時間も忘れ、眠る時間も忘れ、悲しみの胸を抱えてあちらこちらの村を追われながら彷徨っていたイエス様。その時代に誰がその心情を理解し、友となった人がいたでしょうか?天は哀れな天でした。天を代わろうとした預言者たちも哀れな犠牲となり、イエス様までもが亡くなったことで、御心を抱いておられた天は、哀れな天でありました。


その天とは誰なのでしょうか?よくよく考えると、それは父でした。神と私たち人間の関係を知ると、それは父と子の関係だったのです。私たち人類は、父の哀しみを知らない存在になってしまいました。しかし、神がご自身で知らない人間にその哀しみの心情を伝える責任はありません。それは人間にあるのです。だからこそ、この使命を果たすために預言者が来たのであり、イエス様が来られたのです。


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天は今までずっと待ち望み、求めてこられました。イエスが進んだ悲しみの信仰の道、イエスが戦った悲しみの信仰の戦い、その戦いを、今日、子としての名分を持とうとする者は代わって戦い、勝利しなければならないのです。


人類はまだ地上で喜びの日を迎えたことがなく、栄光の日を迎えたこともありません。そのような事情に向き合い、悲しみの感情に触れて天を呼ぶとき、人は知らず知らずのうちに天の存在を感じることができるでしょう。


私が知る限り、イエス様は誰にも知られずに多くの涙を流された方です。この事実を皆さんは知るべきです。聖書にはいくつかの場面しか描かれていませんが、イエス様は人知れずたくさんの涙を流された方です。山や川を見て責任を感じ、広がる民族を見て責任を感じ、無限の天に対しても責任を感じておられました。責任を負わされながら、それを実行できない分野があるのを見て、さらに深い悲しみの心情を抱かれました。また、天を慰めるべき立場で慰めることができなかった悲しみ、人類を救わなければならない救世主の責任を全うできなかったことから来る悲しみなど、彼は真に「悲しみの王子」でした。


私たちが信じているイエス様は、どんな万王の王子、栄光の王子、勝利の王子というよりも、悲しみの王子です。御心のための悲しみの王子であることを、私たちは感じ取るべきです。


こう言うと、キリスト教の異端者だと烙印を押されるかもしれませんが、よくよく考えるとそうなのです。「イエス様は、全人類の前に、歴史の前に、初めて現れた天の悲しみの心情に通じる王子だったのだ!」と感動に胸が打たれる瞬間を持たなければ、皆さんはその方と縁を結ぶことはできないのです。そしてそれだけではありません。イエス様は苦しみの王子でもありました。


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天を裏切り、天に対して呪うことの先頭に立った者たちは誰だったでしょうか?それは、信じて従うべきとされたユダヤ教徒であり、イスラエルの民でした。天がイエスを捕らえて殺させるために、4千年もの間、イスラエル民族を準備されたはずがありません。


これを見れば、イエス様は完全に勝利して去られた方ではありません。完全な勝利を収めることはできませんでした。皆さんもそう思いませんか?


イエス様が十字架にかけられて亡くなられたことが完全な勝利であったならば、その苦難の日はこの上なく喜ばしい日であったはずです。十字架で亡くなられた瞬間が最終的な勝利の瞬間であり、全ての人々と全ての万物を動員して喜べる瞬間であったはずですが、実際にはそうではなかったことがわかります。だからこそ、マグダラのマリアが歓喜の心で迎えようとしたとき、イエス様は「来るな」と制されました。イエス様は、愛する弟子たちと共に喜びに満たされ、天の前に栄光を捧げることができませんでした。それができなかったのです。ですから、イエス様は悲しみを抱えたまま亡くなられ、その死は嘆きに満ちていました。そして、その悲しみを抱いて成し遂げられた復活であったことを、私たちは知るべきです。


私たちは、天の悲しみの心情を感じ取りながら、自分の居場所もわからず、自分の生活の手段も忘れて、家々の門前で冷たい視線を受け、この村からあの村へと彷徨い、追われながらさまようそのやつれたイエス様の同志となるべきなのです。


イエス様は民族の前に追いやられ、宗教団体の前に追いやられ、親戚の前に追いやられ、愛する弟子たちにさえ追いやられました。このように、悲しみの中の悲しみを感じたイエス様でしたが、天の心情を抱き、世界の人類に自分のすべてを捧げようという心を持ち、また人類を信じようとする心を持っておられました。


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イエス様は、悲しい感情で通じ合える人類との縁が過去も現在も未来も続けられなかったため、自分の心の中に抱いていた切なる願い、切なる思い、切なる事情を人類の前にすべて伝えきることができませんでした。このことを皆さんは知るべきです。


今日、終末にいる信者たちは、御言葉を持っているだけで、自分が天の王子の前に立つ約束の花嫁だと名乗り出てはいけません。それはそうなっていないのです。実際にはそうなっていないのです。


ですから、皆さんは今、「お父様! 私たちは御言葉を恐れ、私たちの行いが足りないのです」という畏れ多い気持ちに満たされ、お父様を呼ぶ時には涙が先に出てしまい、お父様を想う時には胸が詰まり、切なる心情がこみ上げてこなければなりません。たとえ自分が何万回犠牲になろうとも、歴史を導くために苦労してこられた父の前に自分を立てることで何かを期待することはできないと知るべきです。その心が天に向かい続けても足りなく、向かい続けても畏れ多く、向かい続けても申し訳ない気持ちに満たされ、悲しみの涙を流す者であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の花嫁になることができるのです。


私たちがその境地に入って初めて、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがない」(マタイ8:20)または「カペナウムよ、お前が天まで上げられると思うか? 地獄にまで落とされるのだ」(マタイ11:23)と語られた言葉を理解できるのです。


そのような心情で御言葉に触れるとき、その御言葉はイエス様の言葉としてではなく、自分自身の言葉として骨身に染み渡るようでなければなりません。そして皆さんは新たな理念、新たな覚悟、新たな決意を持ち、新たな目的の時代を目指さなければならず、そのような衝撃を伴った姿で周囲の環境を開拓できる信義の子供となるべきです。


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そうして初めて、本質の世界を通してイエス様の前に花嫁として立つことができる一つの対象となり、信仰者と呼べる存在になるのだということを、皆さんははっきりと理解する必要があります。


私たちを探し出してくださったイエス様は、信仰の重要性を強調する一方で、神は愛であると語られました。愛の神、慈悲の神、正義の神など、神の様々な側面をお話しされましたが、神のすべての側面を代表する結論として、神は愛であるという定義を示し、私たちを導いてくださいました。つまり、真の愛を探し求めている神であることを教えてくださったのです。


「何よりも私をもっと愛しなさい」という言葉はどういう意味でしょうか? それは、私があなたを信じ、あなたを愛するという意味です。また、天も私たちに対してそのように接しているのです。天は私たちを愛するがゆえに、時間を惜しみませんでした。


今日、教会に責任者がいるとすれば、迷っている羊たちを見て、自分の骨身に染みて彼らの命を守り、涙を流して号泣できる心がなければ、天の法に反する牧師になるでしょう。天の法に引っかかるのです。そのような心を持たない牧師がいるならば、その人は死んだ牧師です。


神がなさることは、言葉よりもまず心情が先に立つのが特徴です。心情に染みて自分でも知らずに溢れ出る言葉の前では、悪魔は屈服するのです。悪はそのようなところから屈服していくのです。そうでなければ、どんなに良い言葉を語っても、悪は屈服しません。心に染みた心情が現れ、人間の命が生死の境に立っていることを憤り、それを自分の苦しみとして感じ、自分の状況を顧みずに身を投げ出して、彼らを救いたいという切実な心情が先に立つとき、そこから救いが実現するのです。


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イエス様は十字架を背負って亡くなられるとき、「愛しなさい」という言葉を残して去られました。十字架の上でも、天を離れて敵のもとへ向かう人々を恨むことも、呪うこともしませんでした。


自分自身の痛みよりも、彼らへの哀れみの心が先に立っていたからこそ、敵のもとへ向かう彼らを阻むことができ、手を挙げて敵のために祈ることができたのです。そのような祈りの前でのみ、悪魔は屈服するのです。


したがって、天のために生きようとし、天の前に進もうとする人であれば、自分が食べているものが他人よりも良いものであるときには、罪の意識を感じなければなりません。着ているもの、住んでいるもの、見ているものすべてについて罪の意識を持って歩んでいる人がいるならば、その人は飢えることもなく、追われることもなく、追い詰められることもありません。もし悪魔の世界では追い詰められることがあったとしても、天の心情を求めている者たちの前では、追い詰められることはないのです。


だからこそ、天は私たち人間に対して「私を愛しなさい」と言われました。その愛は、今日の皆さんが感じるような感情の愛や、限界のある愛ではありません。6千年の悲しみを解消できる愛でなければならないのです。それはエデンの園でアダムを追放しなければならなかったその哀れな心情、さらに地獄に行く命までも哀れに思って号泣できる心情を持った愛だということを、皆さんは知るべきです。


神の愛は、本来なら罰を受けるべき罪人であっても、悪魔と天の前に置かれた条件の法則があるため、その法則の条件を実行させるために彼を叩いた後、悲しみ、捨てた後、また引き寄せてこられるのです。


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イスラエルの歴史を見ると、反逆したイスラエルの民は、神の前で誰よりも裏切り者でした。しかし、天は彼らを捨てては拾い、再び捨てては拾ってこられました。個人を取り上げては捨て、また取り上げ、その中で生まれた家庭を取り上げては捨て、さらに一つの家庭を立てて天の前に何百、何千、何万の家庭を取り上げては捨て、取り上げては捨てながら、イスラエルの民を立て、今日の第二のイスラエルとされる世界のキリスト教を展開してこられたのです。つまり、第二のイスラエルといえる世界のキリスト教を築いてこられたのです。


ここにいるすべての信者は、悪魔に対してさえも執着心を持つ神の心情と、悪魔さえも許す法を思い、摂理を進めて戦ってこられた神の心情を理解しなければなりません。そのような神であることを私たちは知るべきです。


今、そのような心情を持つ神であることを知り、今日、皆さんは天を裏切った罪と、自分が至らず引きずってきた過去の生活を振り返り、愛する心だけでなく、無条件で仕えたい心、無条件で尽くしたい心が湧き上がらなければなりません。そのような瞬間から、皆さんは天が愛する者になります。親を忘れ、親を覚えることすらできないほど心を動かされるその一つの境地こそ、天の立場です。


堕落した人類の親でさえ、子の過ちを忘れようとするのに、ましてや天の心情を代行しなければならない私たちは、なおさらそうすべきではないでしょうか?


今、皆さんがそのような心情に触れ、そのような父であることを感じ取って、そのお父様を無限に尊敬し、無限に仕えなければなりません。そうして、自分自身をすべて捧げ、誰かが自分のすべてを奪い去っても「私は感謝します」と言える心情に満たされるべきです。まさにそのような瞬間が、神の愛の世界と結びつく出発点であることを、皆さんはしっかりと理解しなければなりません。


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そのため、イエス様は愛を強調し、愛の主体としての使命を全うしようとされました。ですから、彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活でした。与えることができず、もがいていたイエス様でした。彼は自分の命を与えようとし、自分の言葉を与えようとし、自分の栄光を与えようとし、自分の座さえも与えようとしていました。しかし、自分のすべてを与えても受け取ってもらえなかったため、ついには自分の体、自分の血と肉さえも人類のために捧げて去られました。


これが、愛を掲げて実践されたイエス様の生活でした。私たちもそのような愛を追求して進む者であるならば、長く信仰を持ってきた人を見れば自然と頭が下がり、天のために苦労した人を見れば自然と仕えたい気持ちになるべきです。皆さんの信仰生活にこのような心情がなければ、天の愛の縁は切れてしまうでしょう。


人間がこれまで持っていた愛は永遠の愛ではないため、人々は「愛」という言葉を掲げ、その永遠の愛を見つけるために死を覚悟して苦しみ続けています。人間的な愛が天的な愛の理念に触れて、愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権を決定できる価値の甘美を感じるのです。天の愛に触れるその瞬間、すべてを失っても未練はありません。そのような世界は幻想ではありません。何らかの作り話の空想の世界ではなく、実際に存在する現実の世界です。


そのような感情が、今日の人類の心情の中、大宇宙の中にあります。私たちが理解できない天の心情の世界が、人類に向かって回っている感情があるのです。これを否定してはいけません。イエス様は、愛の真髄を紹介するために来られました。これを紹介し、神の愛を立てるためには、人類を代わって何千年もの間苦労されてきた天を仕え、敬う心に満たされなければならなかったのです。


これまでの信仰の世界もそうでした。第一に信仰の世界であり、第二に愛の世界でした。愛の世界は、新郎と新婦の世界を意味します。これからの時代はどのような時代かというと、「仕える時代」です。しかし、信仰の過程を経て愛の過程を経なければ、「仕える時代」に入ることはできません。これを今日のキリスト教徒ははっきりと理解すべきです。


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これまで「信仰だけで救いを得られる」と主張する人は多くいましたが、「愛で救いを得る」と主張する人はいませんでした。使徒パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつもある。しかし、その中で最も重要なのは愛である」と言いました。信仰だけでは行くべき場所がありません。ですから、今日の統一の戦士たちは、信仰の論理を掲げて「信仰で救いを得る」と主張するのではなく、「愛で救いを得る」という標語を掲げて進むべきなのです。


愛とは、自分個人を愛するのではなく、民族を越えて世界と天を愛する心情です。自分に熱意があり、力があり、生きている限り、心から尽くし、叫びたいという気持ちであり、世界を越えて天と縁を結びたいという思いです。


そのような愛を実践するために、今日も困難があり、明日も困難がやって来ても、与えてまた与え、仕えてまた仕えることを続けたのが、イエス様の30年以上の生涯でした。イエス様はパリサイ人たちに「白く塗った墓のような者たちよ」と叱責し、呪われたことがありますが、それは限りなく尽くしたい、限りなく支えたいと思っていたのに、彼らがその心を理解しなかったために、そうおっしゃったのです。


今日、私たちは「ために生きる」人を見つけることができていません。本当に「ために生きる」人を見つけることができていません。この民族は「ために生きる」民族になれていません。「ために生きる」という理念を持っていないのです。過去のこの民族のために尽くす理念を持てず、現在のこの民族のために尽くす理念を持てず、未来のこの民族のために尽くす理念も持っていないため、尽くそうとする天の摂理の御心とは矛盾しているということを私たちは知るべきです。


皆さん自身も同じです。自発的に、過去と現在と未来のために尽くせる心が現れなければなりません。「自分が成功して名を上げよう」といった、自分を中心にするのは堕落の道です。堕落の道はそのようなものです。どのような権力者の立場に立ったとしても、その人は高められるべき者ではなく、3千万人のために尽くさなければならない者です。


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この民族全員が、一口のご飯を食べるときにも3千万人の血と肉を食べる心情であり、1着の服を着るときにもそのような心情を感じることができれば、この民族は滅びません。絶対に滅びません。今日、キリスト教が強調すべきことはそれです。そのような個人、そのような牧師、そのようなキリスト教が現れてこそ、民族が生きるのです。


私たちは今、このような悲しみと困難の嘆きに満ちた現実を見て、目を覚まさなければなりません。


天が掲げた愛の標語を実践するための重要な要素とは何だったのでしょうか? 肉が裂かれ血が流れても、相手のために幸せを祈りたいという気持ちが宇宙全体に満ち溢れ、神さえも引き寄せることができる心を持った存在が現れれば、その人は世界を動かす主人公になるでしょう。心情の主人公になるでしょう。そのような人物が現れれば、心情の世界の理念を掲げて進んできた天さえも、その人を手放すことができないと決心せざるを得ないのです。


だからこそ、天は皆さんの信仰の道において重要な要素である「愛」という言葉を掲げたのです。罪悪に満ちた世の中でも、愛を求めるには心情が必要です。そのような心情に満たされ、相手のために尽くすことができる何かがなければ、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。


では、天の嘆きを解消するために掲げられた目標は何だったのでしょうか? 失われた天国の回復でした。失われた真の息子娘、永遠に抱きしめて愛することができる息子娘を見つけることでした。日常生活において神を失わず、永遠に共に暮らすことができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような本来の人間に戻ることだということを、皆さんは知るべきです。


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堕落した人間が信仰の道をすべて通り、審判を越えて天国に入るために父の子として現れようとするならば、まず本来のアダムとエバの姿を持った状態で、信じなさいという言葉が必要なく、悲しみの境地を超えて愛しなさいという言葉や、仕えなさいという言葉をかけられなくても、感情的にも身体的にも、行動的にも、そして生活全体や理想全体が自動的にその方向へと動くことができなければなりません。


どのような法律的な規定や命令によって動くのではなく、私たちの心情が法を先立ち、私たちの良心の働きがどんな論理や最高の規則を超越する場所であってこそ、天的な縁が完成した世界になります。天の心情に満たされ、動きたくなくても動かざるを得ず、行いたくなくても行わざるを得ず、愛したくなくても愛さざるを得ず、尽くしたくなくても尽くさざるを得ない、そんな崇高な姿であるべきです。キリスト教徒にとってこれが最高の信仰の基準になるでしょう。今日、これが現実に現れなければならないのです。


皆さんがそのような人と出会うその瞬間、マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたときに、イエス様がそれを止めた心情を感じ取ることができるでしょう。今、皆さんは「さあ、死の道よ、来るがいい」との覚悟で困難を乗り越え、実践の道を歩みながら愛の心情を抱いて進まなければなりません。苦しみや追い詰められた中でも、その困難を乗り越えて復活の恵みに感謝し、天の前に栄光を捧げられる瞬間、愛の心情を抱いて仕えることができる栄光の境地に入ってこそ、そこから天国生活が始まるのです。


今日、皆さんにとって「天国」という言葉は観念的な言葉として残っています。その観念的な言葉が、いつ私にとって生活的な言葉に転換されるのか、これが問題です。もし天が存在するなら、この転換点を成し遂げるための一つの場所を見つけてくださるでしょう。そのときを「終末」と呼ぶのです。


この観点から、天は私たちを探し求めてこられました。では、今日、皆さん自身を振り返ってみてください。皆さんは天を信じていると言い、天を愛していると言いながら、それを基盤にして信仰の源である神を自分に従わせようとしてきたのではありませんか? 偉大な実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代行する小さな存在にしようとしてきたのではありませんか? 宇宙的な愛の主人公を自分の愛の心情の中に見つけようとして、尽くす主人公である神に対して、自分を支える友になってほしいと願ってきた過去を悔やみ、悲しい心情に満たされなければなりません。


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御言葉選集6(6,7)

2024年10月12日 17時35分19秒 | 学習

皆さん! これから世界的に70門徒の歴史時代が来ます。歴史は復帰摂理の歴史であり、法度に基づいて再び上がります。失われたものを取り戻すために再び上がるのです。70門徒時代の次には12使徒時代が来ます。韓国にはそのような立場の哲学者が多く出てきては消えていきました。そして次に3弟子時代が来ます。三つの形の代表的な動きが起こるということです。


イエス様の足跡をたどることがキリスト教徒の信仰の道であるとすれば、皆さんはどこに留まっていますか? イエス様の荒野の時代に留まっていますか? あるいはイエス様がガリラヤで育っていた時代に留まっていますか? どこに留まっていますか? 皆さん! イエス様の生涯は人間として行くべき道を行かれた、人間の典型的な生涯でした。人間の模範であったということです。しかし、皆さんはどの位置に立っていますか? イエス様の40日断食の期間にいますか? あるいは3年間の公生活の中で苦労しているのでしょうか? あるいはゲッセマネの園で祈る位置にいますか? それとも十字架で最後の生死を判決するその道を歩んでいるのでしょうか?


主が行かれた道をたどるべき私たちは、使徒の門であるキリスト教の門、キリストの狭い門を通って行くべきです。しかし、そのような狭い門を探し求める聖徒はどこにいますか? いません。今日、教職者と教役者たちはむしろ狭い門を求めて行こうとする聖徒たちを阻んでいます。


イエス様は夜通し祈られ、絶えず祈るようにと命じられました。絶えず祈るとどこへ行くのでしょうか? 人間世界を忘れ、霊界に入ります。霊界に入り、さらに絶えず祈るとどうなるでしょうか? 天使に会うことができます。そこからさらに進むとイエス様と聖霊に会うことができます。しかし、人間が行くべき未知の行路、すなわちイエス様が行かれた未知の世界の関門を突破して進むべきキリスト教徒の道は閉ざされています。使徒たちは死を迎える場所まで導いたが、天国がどのような場所であり、イエス様がどのように進まれたかについては説明していませんでした。それを解明し、イエス様が生涯で感じられた心情を体感させることができる真理も出てきたことはありません。


だからこそ、統一教会に来た皆さんはイエス様が行かれたその道をたどらなければなりません。イエス様が開いて入られた門を開いて入らなければなりません。そしてイエス様が復活されたその位置まで進まなければなりません。そのために私たちは集まりました。だからこそ私たちはこの使命を果たすために全世界の前で訴えなければなりません。


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では、その次にイエス様が復活されて再び地上に現れた目的はどこにあるのでしょうか? イエス様が歩まれた復活の道程を私たちがすべてたどったとしても、私たちは復活昇天してはなりません。イエス様は復活の喜びを迎えられても天に昇らず、死の権内にある人類を探し求めました。


皆さんも恵みを受け、天の御心の前に立って、神様が許された賜物の場に立つなら、その時に天に向かって走るのではなく、地に向かって走らなければなりません。向かって走ることができるようにならなければなりません。皆さんは今までそのような信仰生活をしてきましたか?


復活された後も、地を求めなければという一つの中心を忘れないことを知っていたイエス様は、裏切り者の裏切り者である弟子を訪問されました。裏切られたのは、どの民族やどの宗派が裏切ったことよりも残念でした。


皆さんが信仰の旅を終えた後、どうですか?そして、復活したなら復活した後はどうですか?を証しすることができる血族を作ってから、主の前に行くことができます。


皆さんは心に深く感謝の恵みを受けましたか? そうであれば、皆さんはイエス様が40日間の断食期間に努力されたように、6千年間を悩みながら迫害を受けつつ、私たち自身に必要な天の基盤を見つけて築くために努力しなければなりません


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主がこの地に再び来られるとしても、そのような基盤、環境的な土台を持っていなければ、花婿であるその主の前に花嫁として立つことができないということを、皆さんはよく知っていますだからこそ、そのような基盤を見つけて築かなければなりません。それが必要です。


これは善の御心を目指すことで、その御心はイエス様が勝っている御心であり、神様が勝っている御心であり、聖霊があり優先している御心です。その御心は、イエス様と共に生きることです。その御心の目的と内容もまた、イエス様と共に生きることにあります。


そのような境地に進むためには、皆さんが今日復活の恵みを受け取ったとしても、そのこと自体に満足せず、恵みを受け取った者として、地上の死の権限の中にいる人を見つけて、天気の前に立つための当面の条件を築かなければなりません。


イエス様は復活された後、12人の弟子を再び探し、70人の弟子を再び探し、120人の弟子を再び探されました。


同様に、私たちの帰還の過程にも、まずは真の親が必要です。その次にはノアの8人の家族が必要であり、ヤコブの12人の兄弟が必要で、その後には70の家族が必要で、120の許可が必要です。このような意味の基盤が完成する前には、イエス様が実践的な第二の業を行うことができません。


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今日、信じて皆さんがイエス様の精神を受け続けているので、イエス様の精神を受け継いだ生きているイエスの型となり、生きた指導者のような者を立て、生きた70人の弟子のような者たちを立て、120人の弟子のような生きた教団を立てなければなりません。


聖書の言葉には「主よ、主よ、私たち主の名前によって預言者の務めをし、主の名前によって悪霊を追い出し、主の名前によって多くの力が行われなかったのでお願い」とその時、私は子供に明確に言います。「私はあなたたちを全く知りません」と言われました(マタイ7:22-23)。


また、「父の御心に従う者以外は私の前に来る者はいない」と言われました。父の御心とは何でしょうか?イエス様の心情には込められていたのでお願いしますか? その探索の目的は何であり、その内容は何かを理解し、その御心者だけがイエス様の花嫁となることができます。


イエス様が私たちにこのような道を示されたのは、今日の私たちもそのように生きることを勝ち得ていたからです。様の目的体として、天の前にまずかなければなりません。 そうすることで、イエス様の模範を受け継ぎ、主の御心を大事に花嫁となるのです。祈ってください。




<祈祷>


お父様!これまで私お父様の御心が何であるのか知りませんでした。 歴史御心も知らず、時代的な御心も知らず、個人の生涯的なや生活に対する御心も知りませんでした。歴史的な御心を知ることができることを感謝致します、感謝いたします。


37


時代的な心情、生活的な心情、時間的な心情まで教えていただきましたに、お父様、本当に感謝いたします。


この心情を思って、私が代表の門を越えなければならなくても、キリスト者が従ったその道同様狭い門から入らなければなりません。そのために、死の境で戦い、勝利を収めて復活の最善を得ることができる者となり、再び地上に復活した善の覚悟を残し、現実を結ばなければならないことを知っています。


善い実を結ばない木はすべて切り捨てと言われたので、善い木契約になりません。善い木となり、善い実を結んでください。イエス様も善い実を収穫するために2千年間戦ってこられましたので、今日、私たちも復活の瞬間を受けて善い木として善い実を結ぶことができるようにしてください。お父様、切に願っております。


これが父の御心であり、これが地に来た父の目的であり、これがお父様が戦って来られた内容であることを、その御心、目的、内容に充実して生き、戦い、お父様をしっかりとつかむことができる私たちにお許しくださいと、お父様、切に願っています。


残された御心をすべてとして、走るべき道を全力で主を慰め、お父様を慰めることができる最高の孝子、孝女となるよう心からお願い申し上げます、すべての言葉を主の名前によってお祈りお捧げいたします。 アーメン







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御言葉選集6(6)

2024年10月12日 17時30分36秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 6. 主が歩まれた道を見習おう (1959年4月26日)
1959年4月26日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 7:1-20

1
<祈祷 (I)>

天の栄光を求めて長い歴史の過程を見つめ、戦い続けてこられた父なる神様!その摂理の栄光が、父だけが享受できる日が、一日も早くこの天地に現れることをお認めください。が決断を犯したその日から、お父様が定められた本来の御心は無数の悪魔の前で容赦なく蹂躙され続けたことを、私たちはよく理解しています。代わりにされるべき御心に蹂躙されたため、その御心に応えられる人を探さなければいけないという天のご事情を、私たちは知りませんでした。

御心を残す人がいないために、父は独りで多くの困難な道を歩み、御心を人間に移すために無数の労苦を重ねられたのが、今日まで続く救済摂理の歴史であることを私たちは理解しています

お父様!今、私たちはこの現れた救済摂理の御心を通して、歴史の道をずっと探して、お父様が喜ぶその御心に自分の心に抱きつき、父の栄光の道を求め、すべての誠心 誠意を尽くして歩く天の息子娘となれるようにお許しください

父の御心は真の息子娘を探すことであることを知っております。天地を計画されるように、どうぞよろしくお願いします、これが父の切なる願いであり、御心であることを私たちに教えてください。

真の息子娘が、全ての万物をもって賛美を讃えることこそが、6千年続いて戦ってこわれた父の最大の喜びであり、希望であることを私は知り、その国を建設するために全てを頑張って進んでください。

2

お父様、その日、その時までにはまだ無限の距離がありますが、今日、私たちが父の御心を知り、父の御心によって選ばれた息子娘であることを一応し、父の栄光の一日を目指して、今日も明日も、戦いの道、不条理な道、死の道を恐れずに進んでください息子娘となりますようよろしくお願いいたします。お父様、切にお願いします。

お父様、今日この時間、あなたの息子娘が希望の地で、心を込めて、息子の栄光を代わりに出てきました。どうかお守りください。お父様が近くくここに臨んで、全体を主導してしてくださる様にお願いします

真の御心を持った真の息子として、お父様をお迎えし、お父様に礼拝を捧げることのできるこの時間をお許しください。この御心を成就するために集まる場所ごとに、無数の悪魔の勢力が私たち一人一人の心と体に襲い来る闇の勢力を受け止めてください。 私たちを父の寛大な胸に抱いて、命ある姿父の栄光の時代を実現させてくださる協力者として、切に願いを申し上げます

この時間、父の御前に集まりましたので、どうぞ軽く主導してください。 この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。の御前に栄光と喜びを尊重することができる時間となりますようお願いいたします。

過ぎた一週間の中で、父の御前にふさわしくないすべてのことを、この時間に清算し、今、天の御心を持った真の息子として、生ける信仰物としてお父様に尊敬されるよう祝福しどうか、優しくお考えいただくことを切に願い、主の御名によってお祈りいたします。


3

<祈祷Ⅱ>

お父様!、この日を覚えておいてください、お許し協力者の恵みを現してください。たちにもお許しいただけるのであれば、どうぞお許しください

私たちには心があるもの、それが私たちのものがないことを知りません、体があるもの、それも私たちのものがないことを知りました。心は善の方向を選ぶもの、体は悪の方向へと進みたがり、そこで悩んでいる自分です。私たちを見守ってくださっていることを知っております。お父様、このような私たちを大切にして、天の命の恵みを私たちに与えてください。 、強力な復活の力を与えて頂けなければなりません。

体は心を屈服させようとしますが、天の御心は、心を体を打ち、心の前で体を永遠に屈服させることができる勝利の基準を見つけて守ることです。 、今日私たち自身が日常的に考えなければならない必然的な戦いが私たちに残されていることを私たちは知っています

このような理由で、私たちの前に連続して戦いに出ることは、私たちが恐れるべき戦いではなく、このような戦いの環境でぶつかってくるあちこちが大きな壁ではなく、心と体の戦いにおいて、心体に支配されているという事実がもっと大きな悲しみであることを、今日私たちが感じることをお許しください。

私の心体を屈服させる能力を頑張って助けてください、お父様、切に願い求めます。

4

このことが私たちに対して考えられなければ、全体の生命の復活を考えることができないことを、私たちは心を中心とした生活全体を知っています。

命に向き合う心、恵みに向き合う心、復活の歴史に調和できる心、その心に受けた衝撃と感動が私の体を包み、私の環境を包み込むことができるようにお許しください。ような天的な再創造の歴史が私の体の中に現れることをお許しください、お父様、切に願います。

私たちの心は父の栄光に向かって無限に湧き上がっておりますが、私たちの体は父のために無限に疲れ果てて、楽しんでいます。 、心が望む通りに体を動かすことができる喜びの園が、この地上のすべての人々の前に早く現れるようにお許しください。がこの地を主観し、天を動かせるように祝福してください、お父様を愛し、切に願い、求めます。

地上に生きる人間が心の天国を超えられない問題があるなら、御言葉に基づく天国は広がっていないということを知っています、心の平和を一歩も当てられないなら平和の国は建てられないということを知っております。まず私たちの心の深いところで、お父様に対して激しさ、お父様に対して喜び、お父様に対して歌うことができる心を回復できるようにお許しください。心で体が動いて調和する勝利の姿を天は見えていることを知っております。

お父様、私たちそのような姿になるために今まで戦ってまいりましたので、勝利の姿を回復できるようにお許しくださいと切に願います。

5

そんな人たちが集まっていますこの時間をお許しください、そして真剣な心の中心を持ってお父様を迎え、憂いの条件となるすべての要素を考慮して準備してください。それでも主観が残るほどの勝利の難しいこの場に耐えられるようにしてください、愛するお父様、切に願い、求めます。

心の天国、心の平和が私たち自身に対話されないなら、その栄光ある天国も私たちとは全く関係がないということを悟らせてください。

お父様、ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、あなたを慕う切なる心情が動機となり、あなたに直接お会いできるという栄光ある資格を持つ者がいるでしょうか。あなたのために天倫の心情に満たされ、生ける犠牲として敬拝を捧げようとする者がいるでしょうか。死の道をも厭わず進んでいこうとする、その純粋で涙に満ちた心が、無限に天の心情と一体となり、生命の動きに変わり、平和な集まりを成し遂げようとする者がいるでしょうか。そのような心が私たちに無いならば、天も悲しみ、私たちの心も悲しみ、今日のこの集まりも悲しいものになることでしょう。

お父様、ここに栄光の姿で現れてください。みずから主人として現れてください。そのような恩恵を感じる者がいるなら、その心の扉を開き、父の希望を再び注いでください。多くの命が暗黒の権力に囚われ、死の世界で嘆いているゆえ、生命の復活を起こし、復活の権限を与えて再び創り直してくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

こうして来られる主を迎え、両手を合わせて父の前に敬虔に拝礼する私たちとなれるようお許しください。父の前で忠誠を尽くそうとした存在が多くの試練を受けたことを、この時間に感じさせてください。今日まで幾度も天を裏切ってきた先祖たちの子孫であることを感じさせてください。

6

私たちはこれまで悪魔の犠牲となり、天の道を阻むことに誰よりも先頭に立っていた姿であったことを悟り、恐れ多い気持ちを抑えきれず涙を流しながら、父の前に許しを求める敬拝を捧げられるようお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

お父様、この時間、ここに集まった聴衆を憐れんでください。彼らの心に悪魔が侵入しようとしているので、見分けてください。彼らが心の方向を定める灯台となってください。この時間に集まった全ての聴衆にみずから訪れ、その心を通じて体までも父の恩恵によって喜びの中で父の栄光を賛美し、全体を代表して父の前に敬拝することができる時間とならせてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。

お父様、この日は聖なる日です。一週間の間に受けた傷が深いことを知っております。父の心情から離れて誤った場所で悲しみに沈んでいた全てのことを許し、みずから香油を塗ってください。お父様が恋しいと言える者に印を押す恩恵を、この時間、集まった聴衆にお与えください。

三位一体の神は、哀れな者を助けるために苦労されていることを知っております。父の憐れみを望み、自らの卑しさを嘆き、父の尊さを歌いたいとする者を見つけてくださることを知っております。今日、私たちの心がそのような父の尊貴さを知り、自らの卑しさを嘆くようにし、お父様が訪れてくださる恩恵を受けるにふさわしいものとなるように導いてください。

この日は聖なる日ですので、三千万の民衆を祝福し、全人類を祝福してください。天上にいる無数の聖徒たちも私たちを支え、喜びの敬拝を捧げられるように、お父様、みずから導いてください。特に地方に広がり、孤独な心情を抱きながら志を思い祈る家族たちが集まる場所々において、父の憐れみの手を引かないでください。愛の手で守り、終わりの日に残る労苦の山を越える際に疲れ倒れることがないようにお許しください。父の手を取り、最後まで耐え忍び進んでいき、お父様に捧げるいけにえとして受け入れてくださいますように。

7

困難の中で仕事を成し、悲しみの中で志を立て、失望の中でもその志を高く掲げることで、父の心に記憶される息子娘たちとなれるようにお許しくださいと、切にお願い申し上げます。

この日を通して、私たちを父の特別な恩恵の懐に抱いてください。そして残された恩恵を約束し、勝利の日まで支えてくださいと、切にお願い申し上げます。この一時間を御心のままに導いてください。主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<祈祷(Ⅲ)>


お父様、御言葉に接するとき、2千年前のイエス様の御姿が恋しくなります。御言葉を伝えられたイエス様の前には荒涼とした世界が広がっており、自分を中心にし、自分を高めようとする群れがありました。そのような群れを見つめられたイエス様の眼差しに無限の悲しい心情が流れていたことを悟ります。


ユダヤ教団は教派同士で争い、教徒たちは互いに争う様子を見つめられたイエス様。自らの欠点は隠し、他人の欠点を暴き出して自分を立てようと必死になっていた当時の時代状況を振り返ると、確かに世と時代を背負って来られたイエス様の心が無限に悲しかったことを理解します。


それでも「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と叫ばれたイエス様の心情が思い浮かびます。求め、探し、叩くべき者は民族であり、教団であり、個人であったが、求めるべき者が求めることを知らず、探すべき者が探すことを知らず、叩くべき者が叩くことを知らなかったことを見て、イエス様は人間に代わって求めなければならず、人間に代わって探さなければならず、人間に代わって叩かなければならない立場におられたので、お父様、それが悲しいことでありました。


8


人間が見つけてくれることを切望して送られたメシアが、むしろ探さなければならない立場におられ、人々が迎えることを望んで天は長い歴史の道を準備してきましたが、人間から迎えられなかったイエス様の悲しい心情を、この時間私たちに感じさせてくださるよう、お父様、切にお願い申し上げます。


イエス様は地上の人間に接するとき、涙を流し嘆くしかない状況にありましたが、それでもお父様が祝福してくださる地となることを切望されました。イエス様のその御姿が今日私たちの目の前に現れて歴史を導き、私たちがその命じられる声を聞き、静かにその内に流れる天的な心情を慕い、共感して涙を流しながら敬拝する者たちとなれるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


今、私たちはお父様に向かって手を挙げ、裸のような姿で現れました。憐れんでください。私たちの心には父以外が存在しないようにお許しください。私たちの希望と欲望、そして一切の要求は父のものである以外にはないようにしてください。無限の父の心情に染み渡るその心を持って生き、その心を共感しながら生き、その心と共に戦いながら生きる息子娘となれるよう、切にお願い申し上げます。


お父様、ここに集まった聴衆を憐れんでください。自分の心と体が自分のものではないことを知りましたので、その心と体、そしてすべてを父のものとして所有できる主導的な権限が現れるように導いてください。この時間が父の息子娘たちとして認め、印を押すことのできる約束の時間となるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、この時間、お父様がお許しくださった御言葉を持って現れましたので、ここに共にいてください。与える者の心と受ける者の心に隔たりがないようにしてください。


9


一つの心で父の前に立つことをお許しくださり、人間同士の絆を結んで父の前に栄光をお返しすることができるようにしてくださいと、お父様、切にお願い申し上げます。すべてを御心のままに導き、すべてを御心の通りに現してくださることをお願いするとき、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>


神の希望である実体としてこの地に現れた方がイエス様でした。そのイエス様が来られるまで、神は4千年という長い歳月を切なる心情と悲痛な心情で、数多くの預言者と多くの先祖たちを立てて歴史を導いてこられました。


神がこのように歴史を摂理してこられた唯一の目的は、希望の実体であるイエス様を立て、神とイエスが一つの起点で天の願いと歴史的な先祖たちの望み、そして全人類の願いを成し遂げることでした。その一瞬を願って天は歴史を進めてこられ、私たちの先祖たちは戦い続けてきたという事実を私たちは知っています。


このような立場に立たれたのがイエス様でした。神がイエスを見たとき、彼は神の唯一無二の独り子であり、この世界の万物と引き換えても代えられない貴重な存在でした。イエスが現れるとき、神が現れることができ、イエスが喜ぶとき、神が喜ぶことができ、イエスが栄光を享受するとき、それは天の栄光を代弁するものでした。彼がいなければ、天の御座も、霊界も、地上のいかなる万物もその価値を表すことができません。全体の中心となる価値ある存在がイエスだったのです。


このような天的な価値を持って来られたイエス、人間的に見ても、イスラエルの民が自分たちの先祖を誇り、自分たちの歴史を誇り、自分たちが選ばれた選民であることを誇っていましたが、イエスはその時までイスラエルの歴史上に現れたどの義人よりも尊い存在でした。


10


彼を捨てては自分の命も得られず、彼を捨てては自分の教団も立てられず、彼を捨てては自分の民族も立てられず、彼を捨ててはイスラエルが望んでいた国も立てられない、なくてはならない天と地の中心存在でした。


天がこの方を人間に送ったのは、嘆くためではありませんでした。地がこの方を迎えて失望し、絶望するために送られたのでもありませんでした。天がこの方を通して喜ぶために送り、地の人間がこの方を迎えて喜ぶための中心存在として送られました。


それゆえ、イエスの一挙一動すべては天の栄光を描くものでなければならず、彼が生活の中で感じる感情は、歴史的な怨恨の条件を打ち破ることができる栄光の感情でなければなりませんでした。しかし、イエスの生涯はそのような生涯とはなりませんでした。


また、人間たちはイエスを迎えたその日から、誰よりも彼を栄光の座に迎え、誰よりも彼を敬い、誰よりも彼を称賛すべきでした。しかし、民族は民族として彼を離れ、イエスは民族を失う立場に立たされました。神は民族を守るためにイエスを送られましたが、そのイエスを失わざるを得なかったのです。こうしてイエスを失ってしまったことで、天の喜びも失われ、天国も失われてしまったのです。このような事実を私たちは知っています。


このようにあってはならないイエス様であったことを私たちは知るべきです。不幸に遭い十字架で亡くなられたイエス様は、そのような不幸を経験することなく勝利の栄光を備え、天と地が喜ぶことのできる一日を再び築くことを約束されましたが、その日が終わりの日であり、再臨の日であることを私たちは知るべきです。


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天から送られ地上に現れ、地上の生涯を経て霊界に行かれたイエス様は、神の歴史的な目的を成し遂げるために、今日まで父と聖霊と共に戦い続けておられます。そのイエス様を慕うべき私たちです。そのイエス様を再び迎え入れなければならない私たちです。そのイエス様と共に生きなければならない立場にいる私たちです。そのような私たちになるためには、神と共に生きることができなければなりません。神と共に生きることができなければ、イエス様と共に生きることはできません。それではどうすればよいでしょうか。神の希望を成就する者となり、イエス様の願いを成し遂げる者となり、人類の歴史的な願いを成し遂げる者となるべきです。そのような者にならなければ、栄光の姿で現れるイエス様の前に立つことはできないことを私たちは知るべきです。


それでは、このようなイエス様を迎えるために、私たちはどのような道を歩むべきでしょうか。それが問題です。来られるイエス様は天から地を訪ねてこられますが、私たちはそのイエス様を地上で迎えることはできません。人類を訪ねて来られるイエス様を、今日ここでただ迎えることはできないのです。


イエス様の事情を理解できる心情を持ち、イエス様が地上で成し遂げるべきことをすべて終えた後でなければ、来られるイエス様を迎え入れることはできません。そのイエス様を再び迎える日が、今日のキリスト教徒たちが望む再臨の日であることを知るべきです。


したがって、イエス様を迎えるためには地上で責任を果たさなければならないというのは避けられない条件です。地上で責任を果たした後でなければ、イエス様を迎えることはできないのです。ですから、今日皆さんにお伝えしたい御言葉のタイトルは「主が行かれた道を見習おう」です。「主が行かれた道を見習おう」というタイトルでお話しします。


天使がマリアの前に現れ、マリアが聖霊によって受胎することを予告しました。そのとき、マリアは「私は男を知らないので、そのことを引き受けることはできません」と拒否しました。しかし、再び「全能なる天が行うことであるから、聖霊を通じて受胎するだろう」という天使の言葉に対して、マリアは「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えました。マリアが「主のはしためです。御心のままになさってください」と答えた瞬間、それは4千年の歴史の道程において、一介の若い女性が天に向かって歴史的な答えをした瞬間でした。


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今日、私たちは主を考えるとき、しばしば主の十字架を思い浮かべ、栄光の復活を思い浮かべることが容易です。しかし、それ以上にマリアの身の上を考え、ヨセフの家族の立場を考えなければなりません。


4千年にわたって苦労しながら人間を探し求めてきた天の最後の一言がマリアに伝えられたとき、「主のはしためです。御心のままになさってください」と言ったマリアのその一言が、歴史を摂理してきた天の基盤を築いたのです。御心を持って来られるその存在を、マリアは誰よりも切に望んでいたということを、ここで私たちは考えざるを得ません。これを見て、私たちは純潔な乙女の心情でイスラエルの国に救い主が現れることを誰よりも切に望んでいたマリアであったことを推測することができます。


「主の御心のままになさってください」と言ったことから、マリアは天の隠れた御心が現れることを無限に望み、祈りながら生活していた人であることを知るべきです。


何よりも天の御心を考える基盤を通して、天が入って来られたことを知るべきです。それはイエス様だけでなく、預言者や先祖たちも同様でした。一人の預言者が生まれるためには、その預言者を迎えるための基盤が必要だったのです。


したがって、預言者たちが地上に生まれるためには、その預言者を抱くことのできる親が必要であり、その親がまず御心の基盤とならなければならなかったのです。


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マリアがイエス誕生の予告を受けた後、「主の御心のままになさってください。御心のままに成し遂げてください」と言ったように、この言葉は堕落した人間なら誰でも一度は言わなければならない言葉です。それはマリアだけでなく、生命の道を探し求め、天の道を探し求める人であれば「主の御心のままになさってください」と言える心が必要です。そのような一言の答えをしなければ、イエス様と生命の縁を結ぶことはできません。


イエス様はこのような基盤の上に来られました。イエスを身ごもったマリアは、胎児が育つにつれて誰よりも強く御心を考えました。この子が誕生するその日には、民族の願いである救い主が現れ、民族の怨恨を晴らし、民族の悲しみを清算することができると信じ、地上における神の御心が成し遂げられるその時間を誰よりも強く考えたことでしょう。そして、イエスは誕生されました。


もしヨセフの家族がいなかったならば、イエスはどのようにして生まれたでしょうか。乙女として子を宿したという事実が世間に知られれば、モーセの律法によって石で打たれて死ぬことが起こったでしょう。そのような事実は当時の社会的な環境と時代的な状況では容認されない違法中の違法であり、民族の恥中の恥として残る汚点でした。しかし、マリアとヨセフにはこのすべての環境を拒否する立場で御心を果たすための切なる心情があったため、イエス様を誕生させることができました。


このように、御心のみを考えながら歩んでいく彼らの歩みが、悪い世の中にぶつかるたびに、天は生きる道を切り開いてくださいました。イエスはこのような道をずっと歩んでこられました。エジプトの地に避難し、そこで3年の道程を経て、帰ってきてからは生計を維持するために大工の仕事をしていた父ヨセフを助ける補助者の一人として、黙々と生活しながら御心を成し遂げる一日を願い準備していたイエス様を、私たちは思い浮かべるべきです。


今日読んだ聖書の中に「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。門を叩きなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)という句がありました。この御言葉は、イエス様が新しい福音を持って開拓の道を歩み始めたとき、切なる心情で叫ばれた御言葉です。


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イエス様は、その民族がメシアを迎えるべき立場であることを知っていました。誰よりも切なる心でメシアの実体を求めなければならない民族でありながら、求めることができない立場にある民族、誰よりも切なる心情で探さなければならない立場にあるユダヤ教団が、その立場を離れ探し求められないことを見ながら、イエス様は生活しておられました。さらには、天の門が開かれることを望み叩かなければならないユダヤ教徒たちが、叩くことを知らない状況を見つめながら生活しておられたのです。


天の御心が成就することを願う心は切なるものでしたが、その御心を成すための実体を探し、求め、叩く心が切実でない民族を見つめておられたイエス様は、遠からずして天の真の御心を知らない民族と関係を持ち、天的な御心を成そうとする心情を抱いていたので、一日、一時間、一秒も御心を考えなかったことはなかったという事実を、皆さんが知るべきです。


御心の実行者として来られたイエス様の心情は、マリアが御心に対して抱いた心情以上のものでした。ヨセフの家で生計のためにヨセフの仕事を黙々と助けていたイエス様の心情は、民族を見れば見るほど、民族に対する信頼が失われれば失われるほど、御心に対する心配をせずにはいられず、新たに覚悟せざるを得ない心情でした。イエス様にはこのような30余年の準備期間があったことを、私たちは知るべきです。


そのように御心を心配する切なる心情を抱き、他の人が知らない場所で天のために民族を代わって責任を果たすために尽力されたイエス様の生活であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも切なる心情で求め尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。民族を代わって誰よりも心配する思いを持ち、天の門を叩くために絶え間なく尽力されたイエス様であったことを、私たちは知るべきです。


イエス様は物心がついた後からは食べることも民族のために食べ、生活することも民族のために生きておられました。彼が何よりも心を痛めていたのは、天の父の御心を成すことでした。しかし、天の御心を成すために心を尽くされたイエス様の30余年の生涯を知り、イエス様を支え、求めた者はおらず、イエス様を支え、探し求めた者はおらず、イエス様を支え、その心中を叩いた者は当時一人もいませんでした。


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そのような環境であったため、哀れなイエス様となってしまったのです。天のために民族を代わって求めなければならない立場となり、民族を代わって探さなければならない立場となり、民族を代わって門を叩かなければならない立場となったのです。イエス様はこのようにして、上には天を代わって求め、探し、門を叩かなければならない立場に立ち、下には地を代わり、民族を代わって切実に求めなければならない立場に立たされました。また、切なる心情を抱いて探し求めるとき、民族の心情を叩き、民族の心を開かなければならない立場に立たされたのです。


そのような場所で、イエス様は天のために30余年を準備されました。そして「私を愛してくださる天よ、私を送ってくださったお父様、私を送ってくださったのは民族の進むべき道を示すためであり、私を送ってくださったのは民族の命を父と結びつけるためであることを知っています。民族の過ちと不足をお許しください」と祈られました。


不信と裏切りの民族を見つめておられたイエス様は、その民族が眠っているときも、享楽にふけっているときも、安らかに眠ることなく、休むこともなく、楽しむこともなく、民族を支えて天と結びつけるために戦われたのです。このような事実はイエス様ご自身だけが知っておられました。民族の中の誰一人として、イエス様の心情を慰める者はいなかったのです。


環境から孤立していたイエス様の心情は、御心の時を待ち望むにつれ、言葉にできないほどの焦燥感を抑えることができなかったでしょう。30余年が過ぎ、御心の実行の道を覚悟して進まれたイエス様の心情は、壮絶であったと言わざるを得ないものであり、形容することもできない心情であり、人間には理解し得ない切なる心情であったでしょう。このような心で御心を実行しようとされた公生涯の道を心配していたイエス様を、私たちは理解しなければなりません。


イエス様はこのように天を代表して来られ、全人類の救い主として全ての人を救うために来られましたが、救われるべき民族の中でそのイエス様の心中を理解して現れた人は一人もいませんでした。イエス様の心中はもちろん、彼の30年の苦労の道程も理解されませんでした。荒野での生活をし、民族を責任負う立場にあったバプテスマのヨハネでさえもイエス様に反対しました。


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このような悲しい心情で民族を見つめ、バプテスマのヨハネに一縷の望みをかけたにもかかわらず、ヨハネさえもイエス様を見放したとき、イエス様にはさらに大きな悲しみが加わったという事実を私たちは知っています。


民族の前に天の福音を持って現れるべき時が近づいているにもかかわらず、民族は行方をくらまし、民族の前に天が立てたバプテスマのヨハネもいなくなり、イエス様は人々の前に現れることができなくなりました。それで荒野で40日間の断食の道を歩むことになったのです。


今日のキリスト教徒たちは、イエス様にとっての40日間の断食期間が栄光の期間であり、イエス様に必ず必要な期間であったと考えていますが、そうではありません。イエス様が40日間の断食期間を過ごされたのは、イエス様の前に民族が消えたためであり、バプテスマのヨハネ一派がいなくなったためでした。さらに東方の博士たち、アンナ、シメオン、そしてイエスを受胎したヨセフの家のマリアさえも、イエス様の実践の道に出たとき、彼を理解できなかったからでもありました。地の主として来られたイエス様、全人類の命を救うために来られた天の皇太子であり、また全人類の救い主であるイエス様がこのように哀れな境遇になったということを私たちは知るべきです。


4千年の歴史を終わらせ、新たな天の祭壇を築くべきイエス様が築こうとされた天の祭壇は、栄光の祭壇であり、喜びの祭壇であり、勝利の祭壇でありました。しかし新しい祭壇を築くために立ち上がったイエス様は哀れな立場に置かれ、飢えるイエスとなり、悪魔の試練を受けるイエスとなりました。悪魔に試みられるその場面は、全人類が最も悲痛に感じなければならない場面です。イエス様が40日間飢えた後に悪魔に嘲弄され、その悪魔が提示した様々な試練の条件を受ける悲しみの時間は、本来は民族が経験すべき試練の期間であったのに、逆にイエス様の悲しみとなったのです。このことを考えると、イエス様は選ばれた選民であることを誇り、その民族を見限り、その民族を怨み、呪うべき立場にあったにもかかわらず、ご自身の飢えた身体を奮い立たせ、天の心情を抱き、民族のために悪魔と戦われました。


そのときイエス様が置かれていた場所は、イスラエルの民族も知らない場所でした。そのような場所で覚悟を決め、天の前に現れたときのイエス様の心情は、どのような悲しみの場所を通ろうとも、自分が来た目的と自分が抱いた父の御心に対する一片の心が変わることはないというものでした。


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本来の父の御心が、民族を通して全人類を救おうとするものであることを知っていたイエス様、その御心を尊重するイエス様であったがゆえに、飢えと裸の状態、そして襲い来るいかなる迫害と試練も、彼が30年余りの間待ち望んできた御心を打ち砕くことはできなかったのです。したがって、御心を抱いて現れるたびにイエス様は、天を代表してご自身が経験する悲しみと天が受ける悲しみを同時に感じざるを得ませんでした。そしてそのような場所で御心に対して一層固い決意をされたため、裏切った民族と裏切った人々を再び探し求めることができたのです。


イエス様は、ご自身が生きている間にイスラエルの民族が迎えてくれることを望まれましたが、それが叶わなかったため、逆に死んでから迎えられるイエス様となりました。民族がイエスを迎え入れなかったことによって、生きている場所で人類を救わなければならなかったイエス様が、死んでから救いの歴史を進めることになったのです。生きている実体のイエス様の心情を通して叩き、求め、探さなければならなかったのに、死んでから叩いているのが今日のキリスト教徒の運命であり、全世界の人類の運命なのです。このようになったのは、イスラエル民族の過ちによるものです。


では、神の悲しみとは何でしょうか? 神の怒りとは何であり、神の憤りとは何でしょうか? イエス様が生きている間に救わなければならなかった時を失ったことです。生きている間に探さなければならなかった時を失ったことです。生きている間に叩かなければならなかった時を失ったことです。生きている間に天の秘密を明らかにするためにその門を開けるべき環境を失ったことです。このすべてを失い、気づいて見てみれば、救い主であるイエス様はすでに霊界に行ってしまわれました。そうなると、イエス様を送った人間は、去られたイエスを求めなければならない運命となりました。去られたイエス様を探さなければならない運命となり、去られたイエス様の心を再び叩かなければならない運命となったのです。それゆえ、終わりの日にある今日、私たちはイエス様が去られる前に求めることを知り、去られる前に探すことを知り、去られる前に叩くことを知る人間を立てることができなかったことが神の悲しみであり、イエス様の悲しみであり、人類の悲しみであることを知るべきです。


イエス様が去られたことにより、このような悲運の歴史が続いています。イエス様は実践の道で御心を抱いて立ち上がるとき、弟子たちに「狭い門から入れ」と勧められました。イエス様の歩みはそのようなものでした。


マタイ福音書7章の内容はすべてイエス様の生涯の全般的な事実を暗示的に表しています。求める場所、探す場所、叩く場所を経て御心を探し求めて歩まれたイエス様の道は平坦な道ではなく、険しい山々であり、栄光に満ちた大きな勝利の宮殿ではなく、狭い十字架の門であったことを皆さんは知るべきです。


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民族が信じず、民族が従わず、民族が見つめることもない立場に、民族が嫌がる立場に立たれたイエス様は少数の弟子たちを集めて「狭い門から入れ! 滅びに至る門は大きく、その道は広く、多くの人がそこに入って行きます。しかし、命に至る門は狭く、その道は細く、それを見つける者は少ないのです」(マタイ7:13-15)と勧められました。この言葉は、イエス様と彼に従う弟子たちの状況がそうであることを指摘したものでした。この言葉は、イエス様が当時の社会環境とは反対の立場にある自分自身を例に取り、自分とその社会環境との中間に立つ弟子たちに語った言葉であることを私たちは知るべきです。


イエス様が民族の前に現れて実践の道を歩まれたとき、平坦な道を歩むことはできませんでした。ユダヤ教団が立ちはだかり、民族が立ちはだかり、バプテスマのヨハネが立ちはだかりました。それゆえ、彼に進むべき道があったとすれば、その道はすべての人が行きたくない道でした。その道にも門はありませんでした。道のない場所に道を開かなければならず、塞がれた壁に門を作らなければなりませんでした。このような道を歩まれたのがイエス様でした。


4千年の摂理の歴史の道のりで、天に通じる一つの門を立て、天と全人類がつながる道を開くために送られたイエス様、このイエス様をイスラエル民族が信じて受け入れていたならば、平和の道は開かれていたでしょう。そうであれば、4千年の苦労の末に築き上げたユダヤ教団は、神が往来できる大道となっていたことでしょう。また、天国に向かう民たちの出入り口となっていたことでしょう。


しかし、民族が反対したために民族の行く道が閉ざされ、民族の門が閉ざされ、教団が反対したために教団の行く道が閉ざされ、教団の門が閉ざされたのです。


ユダヤ民族に追い詰められ、ユダヤ教団に追い詰められ、自身の証人たちに追い詰められ、最終的には弟子たちにさえ不信されたイエス様は、人間として行ける最大の悲劇の道を避けることができず、歩まざるを得ませんでした。


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このようにして4千年の歴史の道のりで、天国へ向かう門は多くあるように見え、6千年の歴史を通して天国に至る門はさらに多く見えるかもしれませんが、イエス様が開かれた門はただ一つであり、その門はいまだにこの地上で開かれていないことを知るべきです。これを忘れてはなりません。


終わりの日にある今日、キリスト教信徒は多くいます。彼らは自分たちの信仰を高め、教派を立てて紹介し、主張していますが、彼らが進む道が天に至る道のように見え、彼らが案内する門が天国に至る門のように見えても、イエス様が生きておられた時に開拓されたその道ではなく、イエス様が生きておられた時に開かれた狭い門ではないことを私たちははっきりと知るべきです。


イエス様は3年間の公生涯で命をかけて戦われ、その道は十字架の道でした。死の道でした。血を流しながら敵に向かって祝福を祈る道でした。イエス様はその道を通り抜けて復活されました。このような道がイエス様が歩まれた道でした。イエス様が歩まれた道は、民族が裏切った道でした。イエス様が歩まれた道は、教団が裏切った道でした。


イエス様が歩まれた道は、親兄弟、さらには愛する弟子たち、さらに三人の弟子たちさえも裏切った道でした。その道は、イエス様を追って数多くの人類が歩まなければならない道でしたが、イエス様が歩まれた後、その道は閉ざされてしまい、イエス様が入られた門も閉ざされてしまいました。そして、使徒たちが歩んだ道だけが開かれているのがキリスト教です。


ですから、私たちは使徒たちが歩んだ道を歩まなければなりません。その道をたどり、どこへ行くのでしょうか? イエス様が歩まれた道をたどらなければなりません。その道をたどるためには、目的が明確でなければならないのです。


20


その目的とは何でしょうか? それは父の御心を成就することです。父の御心がこうであるというその目的が明確であると同時に、その内容も明確でなければなりません。それがイエス様が歩まれた御心の道でした。この御心の内容と目的は、イエス様が33年間苦労して見つけた内容であり、苦労して立てた目的でした。その内容と目的は、30年余りの生涯を犠牲にして見つけた内容であり目的であったため、どんな災難が一度にイエス様を襲おうとも、死の壁が押し寄せようとも、それは否定できない御心として残されたのです。


そのような内容を持っていたイエス様であったため、今日私たちはイエス様が歩まれた道を歩かなければなりません。イエス様が狭く険しい道を歩まれたので、今日私たちもその後を追ってそのような道を歩まなければならないのです。私たちはそのような立場にあります。


それでは、イエス様はどのような道を歩まれたのでしょうか? 死の淵に立ち、死の波が押し寄せても「生きておられる神がいらっしゃるから、神は私に復活の権能を与えてくださるだろう」と信じ、すべてを蹴り飛ばして進まれました。イエス様には、死を乗り越え復活しなければならない何かがあったのです。それを通じて神が復活の権能を起こすことができたのです。


今日の私たち信仰者にとって重要な問題はここにあります。イエス様が悲しい世界を見つめながら求めていた心を感じる者、死の地を見つめながらイエスが探し求めた心を抱く者、滅びの頂点を走る世界を見つめながら叩いた心を胸に抱き、命を注ぎ込みたいという切なる心を持つ者たちでなければなりません。このような心を持つ者たちが天の望む目的を心に抱き、この地に対して戦う覚悟を持って立ち上がらなければ、天が私たちをイエス様が歩まれた道に導くことはできないでしょう。そして、私たちはイエス様が通られたその門に入ることはできないのです。


今日、終わりの日の信徒たちは歴史的な怨恨を晴らさなければならないことを私たちは知っています。2千年前に選ばれた第一イスラエルが選ばれた本来の目的を達成できなかったために、彼らは選民権を失いました。しかし、イエスが宣言された真理によって、民族を超えた全世界のクリスチャンたちは第二イスラエルの選民権を与えられることになりました。この第二イスラエルの選民の権利を持つ終わりの日にあるキリスト教信徒たちは、天を裏切ったイエス様当時のイスラエルのようにならず、再臨される主の前で失われた第一イスラエルに代わる第二イスラエルにならなければならないのです。


21


それでは、イエス様が霊界で苦労しておられることは何でしょうか? この地に来られたとき、実体を持って第二イスラエル王国を建設できなかったことが嘆きの内容であるため、イエス様は2千年の間、聖霊と共に全人類を動員して第二イスラエルの選民権を成し遂げてこられたのです。


イスラエルの選民権が形成されたらどうするのか? イスラエル王国を建設しようとしているのです。したがって、終わりの日の聖徒たちは十二使徒の門を経てイエスが入られた門を通過しなければ、天国の民になることはできません。終わりの日の聖徒たちの前に開かれている天国の門は十二使徒の形で示されています。したがって、終わりの日の聖徒たちが天国に入るためには、この十二使徒の門を通らなければなりません。その方向に進まなければなりません。それがキリスト教です。


しかし、今日の世界のキリスト教徒には無数の門が開かれています。無数の教派に分かれています。彼らは自分たちが天国を紹介する門の使命を果たしていると豪語しています。しかし、天の原則はそのようにはなっていません。


イエス様を中心とする十二使徒によってキリスト教が始まったので、終わりの日の聖徒たちはその十二使徒の門を通らなければならない運命にあります。6千年の終末に見つけられるべきイエス様当時の第一イスラエルの形である第二イスラエルにならなければなりません。


では、皆さんはどの教派に属し、どの門を通っていますか? 皆さんはまず、十二使徒の一つの理念の印を額に受けなければなりません。そうして初めてイエス様の門を通過することができます。


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今や全世界に広がるキリスト教徒たちの前に、イエス様当時の使命を代行し、その時代の使命を実体として完結しなければならない世界のキリスト教徒たちの前に、十二使徒の門を探さなければならない時が来るでしょう。無数に分かれた宗派は、天地の運勢に従って、自分たちも知らずに統一理念の形を備えた環境圏内に入っていきます。したがって、今日、全世界に広がるキリスト教徒たち、そしてその他の教派に属するすべての人々は、自分がどの支派に属しているのかを知り、イエス様の十二使徒の列に入らなければならない時が来るということです。


モーセが60万人を率いて十二支派と七十長老を立てたのと同じように、選民であるイスラエルを収拾するためにこの地に来られたイエス様もまた十二弟子と七十門徒を立てました。それによって民族的なイスラエルの理念を世界的な理念にしようとされましたが、その御心が成就しなかったため、今日の全世界のキリスト教徒たちは第二イスラエル圏内にいます。


第二イスラエル圏内にいながらも、彼らは自分が第二イスラエルであることすら知らず、自分がどの支派に属しているのかも知らない、支派の列を失った人々となってしまいました。そのような世界のキリスト教徒たちになってしまいました。


イエス様は十二使徒によって選ばれた民族を収拾し、十二支派の列を再び整えようとしましたが、失敗して帰られました。そのため、イエス様は世界のキリスト教徒たちの前に再び十二支派、七十門徒、百二十門徒の形を地上に立て、天の摂理と合致させる使命を持って再び来られるのです。


したがって、今は皆さんが使徒の門を通り、イエス様の門を通った者を探さなければならない時です。この地に真の聖徒がいるとしても、どんなに信仰の深い聖徒がいても、「あなたはどの支派か?」と尋ねられたとき、「私はどの支派だ」と自信を持って答えられる一つの支派、一人の指導者を持っていないならば、天国建設の理念の時代に参加することはできません。


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したがって、終わりの日には理念や一つの民族の前において自分の位置が明確でなければ曖昧な人になってしまいます。どちらからも干渉されることのない立場に置かれるのです。


皆さん! 今の時代は教派が問題ではなく、皆さんが共に集まるべき時です。終わりの日とはどのような時かというと、6千年の歴史の道程において善なる人々を集める人類歴史の終末時代の収穫期です。収穫期であることを知るべきです。


これまでは一つの畑にさまざまな穀物を植える時期でした。穀物を植えるときは一つの畑にさまざまな穀物を植えることができましたが、収穫期には同じ種類の穀物だけを一つの倉に入れなければなりません。今は収穫期なのです。


イエス様が当時来られて成すべきことは何であったのでしょうか? それはイスラエル十二支派の列を再び収集して天国の倉に入れることでした。しかし、その使命を完遂することができなかったために、去りながらこれを再び実現するために立てられた再臨の日が約束の日であるのです。その日を前にした地上の聖徒たちには、ユダヤ教が問題ではありません。サドカイ派教会が問題ではありません。本来の支派と本来の指導者を探し求めなければならない時です。


そうするためには、過去のどのような理念、慣習的な節操、伝統的な法、これまでの習慣的なすべての観念を拒否し、新たな面で覆すことのできる何かを持たなければなりません。そうでなければ、今日の皆さんは第一イスラエル時代であったイエス様当時の時代と同等の世界的な理念の時代を超えることはできないでしょう。


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そこで今日、心の合う聖徒たちは分かれていきます。教派は次々に分裂しています。外面的には統一の形を叫んでいますが、内面的には分裂の形を備えていっています。外見は統一されているように見えても、内側は分裂しているのです。これを内面的に収集する時が来るのですが、その時が再臨の時代です。


内面的に収集する時が来れば、外面的な統一の形が反旗を翻して現れるでしょう。これは避けられない事実です。一つの種の中から芽が出るとき、その殻は逆に割れて落ちるのと同じ現象です。


種の実と命の芽は異なります。それと同じように、私たちに必要なのは聖書そのものではありません。聖書の内容にある命が必要です。イエス様ご自身が必要なのではなく、イエス様の中にある神の御心が必要なのです。問題はそこにあります。


では、イエス様が去られるときに望まれたことは何だったのでしょうか? ご自身の身体が犠牲になることを意に介さず、ただ御心が成就することがイエス様の願いであり目的でした。イエス様が語られたことは、人々に命を与え、彼らが生命体を築いていくようにすることでした。そこに目的があったのです。ですから、今日私たちが求め、叩くべき時が来たのです。


イエス様は十二使徒を立て、モーセが築いた十二支派の権限をそのまま継承させるべきでしたが、それができませんでした。それがイエス様の悲しみでした。


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また、生きて天の前で求めなければならなかったイエス様がそれを果たせず、生きて天を探さなければならなかったイエス様が天を探せず、生きて天に向かって門を叩かなければならなかったイエス様が天に向かって門を叩けなかったため、終わりの日に全世界のキリスト教徒たちは生きてイエス様に求めなければならない時が来ます。生きてイエス様を探さなければならない時が来ます。生きてイエス様の心の門を叩かなければならない時が来るのです。神の願いもこれであり、イエス様の願いもこれです。


その場所に入るためにはどうすればよいのでしょうか? 落ちたのだから上がらなければなりません。上がるためにはまず使徒の門を叩かなければなりません。今、全世界のキリスト教徒たちの前に、イエス様当時に倒れた使徒的な姿が現れる時が来ました。全世界のキリスト教を収拾し、十二支派の代表的な形を備える三使徒の姿が現れる時が来ました。


使徒の中の使徒であり、弟子の中の弟子であるこの三人の弟子は東の門を代わりにしました。天は天国の門を象徴し、東西南北にそれぞれ三つの門を示されました。東の三つの門、南の三つの門、西の三つの門、北の三つの門です。そして、イエス様を中心とする三人の弟子であるペテロ、ヤコブ、ヨハネは東の門でした。そのため、キリスト教はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教、ヨハネ的キリスト教に象徴され、旧教はペテロ的キリスト教です。ペテロは信仰を象徴し、ヤコブは希望を象徴し、ヨハネは愛を象徴します。縦に見れば、キリスト教の歴史はペテロ的キリスト教、ヤコブ的キリスト教が現れ、ヤコブ的キリスト教が新教です。


では、終わりの日に求められるものは何でしょうか? それはヨハネ的キリスト教です。イエス様は「ヨハネは死なずに主を迎える」と言われました。ヨハネは殉教しませんでした。イエス様は終わりの日にヨハネ的キリスト教が新たに現れ、主と会うことになると予見して、そのように言われたのです。ヨハネはイエス様の胸で可愛がられ、深い愛を受けました。ヨハネは愛を象徴していました。ですから、ヨハネ的キリスト教は愛のキリスト教であり、終わりの日にはこのヨハネ的キリスト教、愛のキリスト教が現れなければならないのです。


このような事実が示されているのに、未だにキリスト教徒たちは自分たちがどの門を通るべきかを知りません。ペテロ的な門も良く、ヤコブ的な門も良いのですが、私たちはヨハネ的な門、愛の門を通って求めるべきです。この愛の門はイエス様が正面から見つめた門でした。神はその門を見つめ、6千年の間戦い、イエス様もその門を見つめて2千年の間戦ってこられましたが、歴史的な希望の門はいまだに開かれていません。


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それで天はこの門を開くことのできる代表者を立て、約束を果たそうとされました。これが、御言葉を成し遂げるために花嫁という名を立てられた理由です。


では、再び来られる主の前で世界の人々はどうすればよいのでしょうか? 祈らなければなりません。「あなたが地上に来られて残された悲しみがこれであることを知りました。生きている間に解放されなかったその恨みの曲折がこれであることを知りました。歴史の怨恨を背負い、悲しみながら戦い、どれほどご苦労されたことでしょうか?」とイエス様を慰める者となるべきです。


2千年前にイエス様を裏切った使徒に代わって、生きている使徒、裏切る前の使徒たちのような聖徒にならなければ、歴史的な人物、歴史的な救いの完成者となるべき人類、救いの摂理を完遂すべき人類は天の前に顔を立てることができないことを知らなければなりません。


終わりの日の再臨の日を準備し、待ち望んでいる今日の世界のキリスト教徒たちは、ゲッセマネの園とカルバリの山でイエス様を知らないと言った三人の弟子のようにならず、教団を統率し、多くの聖徒たちを胸に抱き、イエス様に代わって祈り、イエス様の十字架の山も代わって越えることのできる弟子たちになるべきです。教会はそのような集まりであるべきです。


宗教の歴史は復帰の歴史だと言われました。イエス様は「私はアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」(黙示録22:13)と言われました。アルファとオメガという言葉は堕落によって生まれた言葉です。今日の人々がそれを永遠性として語るのですか? 彼らが言うのは永遠性ではありません。堕落という言葉が生まれたためにアルファが生まれ、復帰して再び戻るオメガという言葉が生まれたのです。イスラエルの国に来られたイエス様が成し遂げるべきアルファ的な理念が、終わりの日の聖徒たちのオメガ的な理念として収められなければ、イエス様は現れることができません。


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イエス様は神の願いであり、人類の願いです。神の喜びであり、人類の喜びです。しかし、彼のアルファ的な理念がオメガ的な理念として終結する前には、喜びの姿で人類の前に現れることはできません。もしそのようなイエス様として現れないならば、イエス様は再び悲しみの姿で現れる運命にあることを知らなければなりません。これを知らないのです。自分勝手な天国は建設されません。自分勝手な信仰観念、自分の主張、自分の理念では天国の心情を通じることはできません。


そのため、地上の聖徒たちはまだイエス様が開かれたその門を通っていません。もしその門を通っていたならば、花嫁となっていたでしょう。ですから、マグダラのマリアがイエス様を抱きしめようとしたとき、阻まれたのです。「あなたを使徒に立てたのではないので、使徒の門を通って来なさい」ということです。天の法はそのようになっているのです。


そのため、今日私たちは全世界の人類の前に、使徒のような使命を持つ者がいるかを探さなければなりません。今がそのような者を探すべき時です。皆さん! 初代教会は異言を話し、霊的な歴史があり、予言があり、様々なことが起こりました。このように初代教会で霊的な歴史が多く起こったため、その内容を知らない無知な人々が霊的な現象にぶつかり、混乱が生じたため、それを防ぐために「聖書の言葉が最も重要だ」とされました。ですから、聖書にもこのような言葉があります。「終わりの日には私の霊を多く注ぐであろう」(使徒行伝2:17)。そのため、初代教会で起こった現象が終わりの日のキリスト教の歴史世界に現れ、あちこちで狂った、邪教だ、異端だと言われる人々が多く現れるのです。私たち統一教会もその中の代表的な一員です。


霊の注ぎを受けた者は、あえてそのようなことをすることはできません。彼が理由を知らなければ、天が教えてくださいます。彼が目を開けば霊界を見、彼が行動すれば霊界の人々の行動をします。皆さんの目と皆さんの心と皆さんの行動とは全く異なります。狂った人のように見えます。かつてイエス様も賢い人のように見えましたか? 当時の人々から見れば、愚か者でした。


今後このような霊的な現象が広がり、民族を席巻し、教団を席巻するでしょう。


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そのため、今日世界的に原因不明の精神系の患者や神経系の患者が急増しています。恐怖の世界、不安で焦燥感のある世界が近づいています。これは、神の子であるイエス様が焦燥感と不安感、興奮した心情を持って一生を過ごし、御心に向き合われたからです。だからこそ、世界的な運命がそのように広がっているのです。


その結果、最終的には方向を見つけたくても見つけられず、真実が偽りのように見え、偽りが真実のように見える現象が起こります。偽りが優勢であり、真実が劣勢になる時代、偽りが繁栄し、真実が言葉にできないほど微弱な状態になる時代が来るのです。私たちはそのような時代を通り越さなければなりません。


今日が終わりの日であるならば、世界的なイスラエルとして現れたキリスト教、つまり第二イスラエルを収集すべき十二使徒はどこに行ったのか、十二使徒を統率する一人の主人公メシアはどこに来られるのかということが、意識あるクリスチャンたちが解決しなければならない重大な問題です。


イエス様に従った弟子たちが四方に散ってしまったので、これを復帰するためには来たる主を迎え、ゲッセマネの園での祈りがこの地に再び世界的に現れなければなりません。地上のどこにおいてもゲッセマネの園での祈りの声を聞くことができる聖徒であるべきです。そしてその後に残された使徒たちが祈っていたその声を聞くことができる者たちでなければなりません。そのため、最近では自らをペテロだ、ヤコブだ、ヨハネだ、アンドレだと言う人が多く現れます。それはノアやアブラハム、イエス様の十二使徒と同じような支派の列がないためです。


私たちは十二使徒の中でも特に使徒中の使徒である三人の弟子、そしてその三人の中でもヨハネを見つけなければなりません。それによって私たちは第一の復活に参加できるのです。


29


願いが成就する日を望みながら戦ってきたイエス様が三人の弟子を伴って祈っていたゲッセマネの園を懐かしむ祈りの時間を、皆さんは持ったことがありますか? イエス様は眠らずに血の汗を流して祈っていたのに、三人の弟子は眠りこけていました。


イエス様の心情を理解していなかった彼らは、イエス様がゴルゴタの丘で十字架にかかるとき、皆裏切ってしまいました。


ですから、ゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られたイエス様に代わって血の汗を流しながら祈る者たちを探すべき時が来ました。


花婿であるイエス様が人間のためにそのように行かれたのならば、その心情を理解するために私たちはどうすべきでしょうか? ユダヤ教団に追われて十字架を背負われたイエス様が敵に対して祝福を祈られたように、世界のキリスト教徒たちに追われる十字架を背負い、彼らのために祝福を祈ることができる一つの集まり、一つの群れが必要です。それは誰でしょうか? それは異端者たちです。イエス様と同じ異端者です。彼らはイエス様のように民族の前で反逆者であり、主義と思想において異端者であり、既成観念の破壊者です。そのような動きが現れなければ、世界は新たな方向を見つけることはできません。


既成宗教を持ってしては、皆さんの心に覆い被さっているすべての暗雲を取り除き、人生の変革をもたらす霊魂の解放運動を引き起こすことはできません。どのような論理、どのような哲学的思想を通しても心の変革を起こすことはできません。それらの手段を用いても何千年経っても無理です。


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全人類は科学万能を叫び、それによって世界平和が築かれると思いましたが、それも違いました。宗教を興し、世界の民を救うと思いましたが、神の選民を通じて失われた民を救うと思いましたが、それも違いました。ここに確かな答えがないのです。


そのような状況において、ただ一つ必要なのは、黙って十字架にかけられながらも人類のために祝福を祈ったキリストの姿です。死を超越し、命への執着を捨て、自分の希望のすべてを捨てる場面でも、その希望を敵の前に残して去られたそのような姿が必要なのです。


イエス様は「行ったところから戻る」と言い、「アルファでありオメガである」と言われましたので、キリスト教の終末時代にはイエス様の姿に似た花嫁が現れなければならず、十二使徒も現れなければなりません。ここがその場所であることを皆さんは知るべきです。


しかし、今日の世界のキリスト教にそのような人々が現れたとしても、少し間違えれば昔のイスラエルの道を繰り返す現象が起こるでしょう。彼らが歩んだ足跡の道を避けようとしても避けることはできないでしょう。だからこそ、今日の全世界のキリスト教徒たちは目覚めなければなりません。イエス様と共にゲッセマネの園で目を覚まし祈るべきです。イエス様と共に十字架にかけられるべきです。


胸に刻まれた天的な悲運がイエス様の死によって生じたので、自分自身もそのような天的な心情を抱いて天を慰め、「私はこのような場所でイエス様と共に死ぬとしても行きますので、私を受け入れてくださり、その心情に刻まれた怨みを晴らしてください」と言える存在を求めるべきです。


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終わりの日の聖徒たちはそのような同志、そのような友、そのような指導者を探すべきです。地上に来られたイエス様、求めれば与えられ、探せば見つけられ、叩けば開かれることができたそのイエス様に再び会うことができる喜びの時が万人の前に開かれていることを知るべきです。


今日、既成教団が分裂する現象を見ていると、それが命の足場にはなり得ないことを直視することができます。ここに志ある指導者、天の心情を抱いた青年男女は奮起すべきです。今日の既成勢力に対して奮起しなければならないのです。


イエス様はこのような立場で「偽預言者を警戒せよ」(マタイ7:15)と言われました。偽預言者を警戒せよと言われた偽預言者とは誰だったのか? イエス様に従った弟子たちではなく、イエス様に反対したユダヤ教団、イスラエルの国でした。


今日、社会の発展状況はそのようなコースを辿っています。イエス様は偽預言者を警戒せよと述べ、外見を飾る者たちに試練を与えて打たれました。また、外見と形式に流れるユダヤ教を打破する先鋒に立たれたイエス様は、ゲッセマネの園を経てゴルゴタの丘で敵に対して祝福を祈られました。それは悪魔のためではなく、悪魔を屈服させて悪魔の手にある人々を取り戻すために祝福を祈ったのです。悪魔の手にある彼らに希望をかけ、祝福を祈ったのです。


今日のキリスト教は既成勢力を中心に形式主義に流れています。志ある指導者、青年男女がいるならば、命を失ったそのようなキリスト教信者に教会を任せることはできないという運動が必ず起こるでしょう。「牧師や長老に教会を任せられない。私たちの教会は私たち信者で任せよう」という運動が起こります。その時が来たら終わりであることを知ってください。その時が来たら終わりです。だからこそ牧師の時代が過ぎ、長老の時代が来ます。この長老の時代には様々な長老が現れ、活躍します。この時代が過ぎると執事たちが活躍します。その後、一般信者たちが活躍する時が来たら、それが終わりであることを知ってください。


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歴史を汚し裏切った者たちを救うために来られた方が、歴史的な指導者であったイエス様です。しかしその指導者を引きずり、十字架にかけて殺したのはイスラエルでした。天はこれをはっきりと知っています。今こそ平民を中心に解放運動を起こすべき時です。第一次世界大戦後には上流階級が台頭し、第二次世界大戦後には中流階級が台頭し、現在は下層階級である労働者や農民が台頭する時が来ましたが、信仰も同様です。


今、全世界に広がるキリスト教徒たちは、どの指導者も指導者として信じず、自分の良心を指導者として再び見るべき時が来たのです。どの指導者を前にしても求めるべき時が来たのです。「求めなさい、そうすればあなた方に開かれるであろう」(マタイ7:7)と言われた御言葉は、天上で必要な御言葉ではありません。地上で必要な御言葉です。神がイエス様を地上に送られたのも、天国で必要であったからではありません。天国はそのままでも存在できますが、地上で必要であったからこそ送られたのです。


歴史がこのようにして滅びたため、天はこの滅びた歴史の怨みを晴らすために立ち上がる勇者を待ち望んでいます。では、新しい時代の勇者とは誰でしょうか? 初代教会に戻り、かつてのように使徒の心に燃えることができる青年男女、主が鞭打たれるのを見て代わりに打たれることができる青年男女です。今日、腐敗したこのキリスト教を見て自分の体が裂け、鞭を受けても責任を取るという青年男女です。したがって、そのような青年男女が団結して新しい指導者を求める日が終わりに訪れるでしょう。遠くないうちに韓国の教会はそうなるでしょう。


今日、キリスト教の団体は多くあります。世界的なキリスト教団体であるNCCやWCCなど、外面的なものはたくさんあります。しかし、内面的には何もありません。この内面的な問題を解決するためには、イエス様の心情に燃え、無知なネロ皇帝の圧政の下でも燃え上がる心情で前進することができた聖徒たち、そのような天の青年男女が必要です。そのような天の勇者たちが必要なのです。このような現象がこの終わりの日に実証的に起こるとすれば、クリスチャンたちはどうすべきか? これをもう一度考える必要があります。


ルネサンスが古代のヘレニズム文明を復興し、人本主義思想を開拓したように、今日私たちは2千年前のキリスト教を回想し、イエス様の神本主義による天国を建設しなければなりません。中間の橋は必要ありません。今の時は終わりの日です。だからこそ奇妙な現象が起こっています。何かというと、長老や統一教会などが現れています。皆さんはこれを霊的に分析できるようになるべきです。これが皆さんの使命として残されています。

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御言葉選集6(5)

2024年10月05日 17時37分46秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集6 - 5. 天のように目覚めていなければならない時(1959年4月19日)


1959年4月19日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 25:1-13


1
<祈祷 (Ⅰ)>
父なる神をお迎えしなければならなかった本来のアダムとエバが堕落したことによって、今までの歴史は悲しみの道となったという事実を、私たちは知っております。罪を犯したアダムとエバの子孫となった人間たちが、残された罪の重荷を背負ったまま、追われ、迫害され、試練を受けながら、今日まで進んできたこの人類の歴史を、私たちは心から憤りを覚えるべきだということを、どうか悟らせて下さい。


このような状態に落ちた人間たちを、天は忘れたくても忘れられない創造主としての責任があるがゆえに、どの時代、どの時点でもかかわらず、再びこの人間たちを取り戻すために、労苦の歴史の道を歩んでこられたことを、私たちは知っております。


今日このような立場に置かれている私たちは、自分たちを振り返りながら嘆き、同時にお父様が無限の労苦と痛みの道を歩まれたことを、心から痛ましく思うことができる姿であらせてください。お父様に対して恥じるべき自分たちであると感じ、歴史的な罪の血統を受け継いだ人間たちに対しては憤りを覚える心を持てるようにさせてください、とお父様に切に願い求めます。


私たちの心にはいまだに罪悪の根性が残っており、私たちの身体は今も罪悪の鎖に縛られていることを感じております。憐れみ深いお父様が力と能力をもって現れてくださることを待ち望んでおり、真実の息子娘となれることを望んでおります。お父様が罪悪の鉄網を断ち切り、深く食い込んでくる罪悪の縁を断ち切り、それに対して戦い抜けなかった失敗している息子娘たちを見る時、さらに悲しまれることを知っております。


どうか今、心の扉を開き、身体の束縛から解放され、新たな心と新たな身体を備え、元来のお父様を「私の父」と呼べる一つの姿が現れることを待ち望んでいるお父様の前に、「お父様、あなたの御心を代わる者として、どうかお受け入れください」と言える息子娘となれるようにしてください。


2


そのような歴史的な勝利者、すなわち敵と戦い勝利し、お父様の悲しみを慰めることのできる息子娘が現れることが、お父様の願いであることを、私たちは知っております。


今、私たち自身がそのような立場で、お父様を「私の父」と呼び、お父様を慰めることのできる息子娘となれるようにお許しくださることを、切に願い求めます。


これが私たちの願いであり、またお父様の願いであることを知っておりますので、どうか私たちを励ましてくださり、その立場にまで導いてくださることをお願い申し上げます。導いてくださるお父様の御手を握り、「どのような逆境の道であろうとも歩んでいく強い意志を持つ息子娘とならせてください」、とお父様に切に願い求めます。


お父様、この日、私たちを祝福してください。私たちを見つけ出してください。私たちの心と体に染みついたすべての暗闇を取り去ってくださり、光り輝くお父様の懐に抱かれることができるこの一日となるようにしてくださることを、切に願い求めます。


この民族を祝福してください。この人類を祝福してください。特にこの日、孤独な心を抱き、お父様の前に頭を垂れる兄弟姉妹たちの上に、お父様、憐れみの御手を差し伸べてくださり、彼らが勝利の姿を見つけ出し、誇れるようにし、この者たちが捧げる敬拝と賛美に天と地が共に喜びを分かち合うことのできる時となるように導いてくださることを、切に願い求めます。


3


初めから終わりまで一切をお父様の御前に委ねますので、どうか御支配ください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>
聖なる日を迎え、準備もないままに出てきた身ですが、恥を忍び、父なる神の御前に進み出て頭を垂れましたので、愛のお父様、憐れみのお父様、寛容のお父様、私たちをお許しください。


私たちの心はお父様の心に似たいと思い、私たちの身体は父の御姿に似たいと思っております。しかし、知らずにその願いを成し遂げられなかった私たちに、どうか心で教えてくださり、身体で体験させてくださって、あなたの聖なる御姿に倣った姿で、この一時を父の御前にひれ伏せることができるよう、切に願い求めます。


お父様の御心にふさわしくない息子娘がいるならば、どうか御自ら訪れてくださり、訓戒してください。耳が聞こえず、目が曇り、あなたの御言葉を聞くこともできず、あなたの姿を見ることもできない私たちに、再び聞けるように、再び見られるようにさせてくださるあなたが、私たち以上に悲しみ、私たち以上に胸を痛め、私たち以上に歯がゆく思われていることを、どうかこの時間、心と身体で体験させてください。


お父様は、私たちに対して何千回となく御手を振られたにもかかわらず、それに応じることができなかった私たちであり、何万回も呼ばれたにもかかわらず聞くことができなかった私たちであることを知っております。どうしてお父様の御前に立つ顔があるでしょうか。それでも「来なさい」とおっしゃるあなたの声を聞き、なおも手を振って呼びかけてくださるあなたがいらっしゃることを知り、ひれ伏しております。哀れな者の中の哀れな者であり、頼るべきものがない者の中の頼るべきものがない者であることを、お父様はご存知でしょう。醜い姿ではありますが、どうか私たちを見つけ出し、愛の御手で支えてくださらなければなりません。たとえ私たちの目が曇り、私たちの身体が傷つき、生命の本体を知ることができない場所にあったとしても、お父様、愛をもって御自ら抱きしめてください。疲れた足を止め、悲しみに満ちた心を喜びの心に変えて、私たちを慰めてくださることを、切に願い求めます。


4


悲しみを残しながらも、お父様に再び悲しみを与えるのは、この堕落した世界のせいであることを知っております。悪魔が私たちの進む道を阻み、死の権勢をもって世界を覆っていることを知っているからこそ、私たちに責任を負わせることなく、お父様御自身がその責任を引き受けて敵と戦ってこられたのです。そのようなお父様を敬う心が大きければ大きいほど、私たちの罪と過ちを赦したいという心が大きいことを知っております。その御心を通して、この時間、もう一度私たちを見つけてください。お父様、切に願い求めます。


真実の生命の感情を持って、お父様に礼拝を捧げるべき地上の人間たちが、そのような姿になれなかったことを赦してください。お父様を呼びたい心、お父様に従いたい心、お父様に尽くしたい心を持つ私たちではありますが、無限の悲しみを抱えていることを、お父様、どうかお知りください。


今、この一時、私たちは歴史的な罪を憂い、時代的な罪悪を憂い、未来に残るであろう罪悪の条件を憂いながらも、どうか私たちが「お父様」と呼ぶことができるようにしてくださり、不完全な姿ながらもお父様をお迎えし、頭を垂れて礼拝を捧げられるようにしてください。お父様、心から切に願い求めます。


罪人であることを悔い改め、涙を流し、憤りの心をもって涙を流しながら、切なる心で悔い改めるとき、お父様は6千年にわたり私たちを許してくださり、今日この時も憐れみの心をもって私たちに接してくださることを知っております。どうか、泣いている私たちの心の扉を叩いてください。そして、今まで罪悪に染まった私たちのすべての主張や観念を取り除き、この時間、私たちの心と体でお父様の命を感じることができるようにしてください。


今まで感じることができなかった天の愛の恩恵、天の愛の心情、天の切なる曲折の心情を体験し、私たちが「お父様」と呼ぶことができ、お父様が私たちを「息子娘」と呼ぶことのできる縁が結ばれるこの時間としてください、とお父様に切に願い求めます。


5


お父様、三千里の半島に住む三千万の民族を憐れんでください。彼らを心配する真実の人々は多くないように思います。また、彼らのために涙を流し、汗を流す者たちは極めて少ないことを知っております。お父様が憐れんでくださらなければ、この民族には留まる場所も、頼る場所も、見つめるべき場所もありません。お父様、どうかこの哀れな民族を顧みてください。心から切に願い求めます。


この民族に新たな約束を予告し、命の動きを起こそうとしておられるお父様の労苦があることを、今ここに集まった私たちは知っております。今日までこの民族を救うために天の摂理を支えてきた私たち自身の不足を、今この時間、お父様の前に告白せざるを得ません。どうか、私たちの不足を顧みてください。新しい命の動きを起こし、新しい希望の楽園を建設する責任を担うことのできる天の息子娘となれるよう、お父様、どうか励ましてください。


私たちが不足していて、死の影の中でうめき、悪魔の鉄網から抜け出せないとしても、どうかお父様の恵みの御手を差し伸べてくださり、私たちを導いてくださることを、切に願い求めます。


今この時間、多くの人々があなたの懐を恋しがって礼拝を捧げていることを知っております。どうかその前にお父様、すべてをお示しください。摂理の御心を予告し、その御心を成就させてください、と切に願い求めます。


今この時間、多くの孤独な息子娘たちが父の前にひざまずいて訴えていることを知っております。どうかその切なる心でお父様に願い求めているすべての場所に、愛の御手を差し伸べてくださり、お父様、あなたの御臨在の栄光を彼らの前にお示しください、と心からお願い申し上げます。


6


残りの時間をお父様の御前に委ねますので、どうかお父様で始まり、お父様で終わらせてください。お父様の命の喜びをこの時間に感じ取り、お父様の前に栄光を捧げることができるよう、御自らお導きください。


すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅲ)>
お父様! 静かにお父様からすべてのことを教わっていたその時が恋しいです。その栄光を眩しく見つめながら、この地に留まりたくなかった時が恋しいです。深い愛に浸り、お父様の心情を体感したとき、天地が歓喜したその時も恋しいです。


お父様は静寂の中で現れることを喜ばれ、困難な中に現れることも厭わなかったことを知っています。戦いの場でも自ら私たちと共に戦ってくださり、絶望の場でも私たちと共にいてくださった歴史を持つお父様であることを、私たちは改めて悟りました。いつも私たちと共におられ、いつも私たちと共に戦い、いつも私たちと共に生きたいと願われていたお父様であることを、この時間に思い返すとき、この地に生きながらも、この地を拒絶し、避けることを喜んでいた過去の信仰の歩みを悔い改めさせてください。


崇高な場で喜んでお迎えしていたお父様は、栄光の父であられましたが、この地に現れた父は哀れで、やつれ、悲しみに満ちた父であることを知りました。そして、そのような姿で私たちに接してこられたことを、歴史の道程を通じて学び知りました。


7


今、私たちは栄光の中に現れたお父様を迎え喜ぶのではなく、この地で傷を負い、苦しみに苛まれ、真の息子を探して苦闘しておられるそのお父様を迎え喜ぶことのできる、そんな栄光の立場に立たせてくださることを切に願い求めます。


そのような立場でお父様を迎えたいと願うならば、まず涙の道を歩まなければならず、茨の道を進まなければならず、十字架の苦難の道を超えなければならないことを知っています。そうして初めて、そこにお父様がおられるという事実を知ることができるのです。私たちにはこのような悲しみの信仰の道がまだ残されていることを思わざるを得ません。


愛するお父様! 愛するお父様! この時間、私たちは自己を嘆く場所にいますか? 自分自身を抱えて悲しむ場所に留まっているのでしょうか? それとも、民族を抱えて悲しむ場所にいるのでしょうか? あるいは、世界や天を抱えて悲しむ場所に留まっているのでしょうか?


今や私たちは、自分自身の正体を明確にし、お父様がどこを見ておられるのかを自覚し、天の願いが何であるのかを思い悩みながら、頭を垂れることのできる息子娘にならなければならないことを知っています。お父様の前に立つ自信がないならば、心からでも悔い改め、お父様の前に出るのに不十分であるならば、自らを清める姿を持つ者とさせてください。


お父様! このような群れを再び急き立て、天性の道を予告しなければならないあなたの事情が残されていることを、地上の人間たちは知りません。現れようにも現れることができない環境に直面し、お父様の心情に引き寄せられようにも引き寄せられないこの地上の環境ですが、人間を立てて導くことができない環境を、導かなければならない責任を負っておられるあなたの事情を知りました。


8


<祈祷 (Ⅲ)>
お父様!これまでこの使命を担って現れた多くの預言者たちを、私たちは勝手に追い払い、勝手に追放し、勝手に迫害し、勝手に殺してしまった罪深い血統を受け継いできた者たちです。どうか、今、私たちが天の責任をどのように果たそうと決心しているのか、自ら悔い改めることができるようにしてください。


天は今が眠りから覚めるべき時であると予告されました。暗い夜に光輝く灯火を掲げるべき時であると告げられましたが、私たちの心は暗闇に閉ざされているのでしょうか?私たちの身体は死の鉄網に縛られているのでしょうか?どうかこれを断ち切り、打ち破って前に進み、天を目指して走り出し、天の代わりに戦い、天の代わりに責任を負うことができるように導いてください。そして、「お父様」と呼ぶことができ、父が来られるのを待ち望む息子娘にならなければならないことを知っています。父の御心に立つに不十分な者がいるならば、どうかこの時間に励ましてください。


時が迫っていることを教えてください。死の影に巻き込まれて裁かれる者とならず、命の呼びかけに導かれてお父様の懐を見つけ、自由の園を目指し、その身体が引き裂かれようとも、死ぬことがあろうとも、走り続けることのできる息子娘とならせてください、とお父様、切に願い求めます。


天性を仰ぎ見るとき、悲しいことがあまりにも多いことを知り、私たちは悲しまずにはいられません。お父様、私たちが進むべき残された道が血の涙で連続する道であることを知るとき、私たちは躊躇し、恐れざるを得ませんが、このような環境に置かれた私たちを呼んでおられる父の心は、もっと悲しく、もっと切実であることを悟らせてください、と切に願い求めます。


この日は復活祭を過ぎた初日です。どうか今、心の灯火をともすことを許してください。私たちの身体と心に父の永遠の命の生命液を注いでいただかなければなりません。お父様!この新しい一時に命の業を起こし、再創造の業を起こしてください。


9


死の力に巻き込まれて嘆く者たちがいるのでしょうか? お父様の叫ばれる声を聞いて自ら悔い改め、尊きお父様の前に懺悔することができるように導いてください。死の苦い根が心身に残り、お父様を裏切ろうとする心を持つ者がいるならば、それを取り除いてください。そして復活の権限、命の権限で働いてください、とお父様、切に願い求めます。


さまざまな人々が集まっておりますが、一つの心となり、一つの心情で調和できる時間としてください。この新しい心で行動できるこの時を許してください、と切に願い求めます。


無数の悪魔が今も私たちを狙っています。どうか悪魔が侵入することができないようにし、天にいる無数の聖徒たちを動員し、真実の心情を持って天に向かって訴える地上の聖徒たちを動かせる礼拝の時間としてください。天と地の縁をつなぐこの時間となるよう、お父様、切にお願い申し上げます。


もう多くの言葉は望みません。許しを遅らせるお父様の心情を知り、躊躇されるお父様の心を知りました。お父様、どうか今、私たちを憐れんでください。伝えたいという心を知ってくださり、受け取りたいと願う息子娘たちの心を知ってください。すべてがお父様から始まり、伝える者の心と受け取る者の心が一つとなり、この一時をお父様の栄光で満たしてくださることを許してください、と切にお願い申し上げます。


すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。


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<御言葉>
「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたはその日、その時を知らないからである。」(マタイ25:13)という御言葉を中心に、これからお伝えする御言葉の題目は「天のように目を覚ましていなければならない時」です。この「天のように目を覚ましていなければならない時」という題目で、しばらくお話しさせていただきます。


皆さん自身をこの時間、父の御前に置き、皆さんの心と体の中で目を覚ましている部分がどれほどあるのかを考えながら、また、父が皆さんを目覚めさせるためにどのような心情と事情を持っておられるのかを感じながら、この時間、御言葉を聞いてください。


家族であれ、社会であれ、あるいは民族や国家の興亡史を振り返るとき、目覚めていない社会や民族や国家は滅びたことが分かります。したがって、私たち人間にとって非常に大切なことがあるとすれば、それは目覚めていることです。


では、何を見据えて目覚めていなければならないのでしょうか?現実を見つめて目覚めるのではなく、これから来る時を見据えて目覚めていなければなりません。つまり、切に希望を持つ心情を持った者にならなければならないということです。そのような者になる時、希望の人、あるいは希望の国の人として残ることができます。ですから、過去の歴史において、国を愛した人々は、その国が暗闇の中に沈み、死の権勢に飲み込まれるとき、国民に未来を見据えて目を覚ましているようにと叫んだのです。


では、天は私たちのためにどれほどの労苦を払われ、どれほど目を覚ましておられたのでしょうか?私たちが知っている範囲は、自分が労苦した分だけ、自分が目覚めていた分だけしか分かりません。しかし、それでも天が私たちの知っている分だけ目覚めて人類に対して働かれてきたのかというと、そうではありません。天はアダムとエバを創造されて以来、創造の理念に対する希望を一度も忘れたことはありません。どの日も休むことなく、眠る時間もなかったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


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エデンの園にアダムとエバを造り、その成長を見守るだけでは天は満足されませんでした。天は、アダムとエバの明日、すなわち未来を憂いながら目を覚ました状態で、彼らの成長を見守っておられたという事実を私たちは忘れてはなりません。それだけでなく、天はアダムとエバの後、歴史上のすべての子孫に対しても、未来を見据えた目覚めた立場で彼らを見守ってこられたことを、私たちは忘れてはなりません。


では、何が堕落だったのでしょうか?目覚めておられる天の心情を知らず、天の事情を知らず、天の願いを知らなかったことが堕落でした。目覚めておられる天の心情!目覚めて、自らとの関係を結ぼうとされる天の心情!未来において自分たちと共に栄光を分かち合いたいと願われる天のその願い!その希望を失ったことが堕落でした。そのため、堕落した人間は、神が望まれた希望の一日を見ることができなくなり、また神の深い事情と関係を結ぶこともできず、さらに私たち人類は、今に至るまで想像もつかない神の愛の懐を失ってしまいました。


天は御自身の懐を離れた人間を憂い、再び見つけ出そうと摂理を進めてこられました。これが救いの摂理です。天の心情と天の事情と天の願いと何の関係も持っていない今日の私自身を振り返ってみると、お父様の心情、お父様の事情、お父様の願いに報いることのできる何ものも持っていない私たちであるということを知らなければなりません。


アダムとエバが堕落するのではないかと心配しておられた天は、堕落してしまった彼らに対して再び心配の心情を抱かれました。そして、悪魔の懐、すなわち死の権勢に落ちた彼らを再び救おうとされたのが天でありました。つまり、神は人間が堕落するのではないかと心配され、堕落すると、堕落した人間を心配され、死の中にあるアダムとエバを再び生かしたいという心情を持たれ、6000年という長い年月、一度も眠ることなく、まるで一日が如く私たち人類を探し続けてこられたという事実を、この時間、心で感じ取ることができなければなりません。


人間の欲望とは何か?それは、自分の家族を超え、民族を超え、国家を超え、世界を制覇したいという欲望です。しかし、たとえそのような欲望を達成したとしても、神の心情、神の事情、神の願いと一致する立場に立てないならば、神の心情、神の事情、神の願いを持つ立場に入れなければ、天の御前に立つことはできません。


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これまでの歴史の道のりを振り返ると、個人、家族、国家、世界は一つの土地をめぐって希望を見つけようと苦闘してきました。今も何か分からない新たな希望を求めて苦闘しています。


しかし、私たち自身がこれまで生きてきた経験だけでは、新たな希望を見つけることはできません。つまり、歴史的な縁を通したすべての概念や主義をもってしても、新たな希望を見つけ出すことはできません。なぜなら、そこには限界があるからです。このことを私たちは予測しなければなりません。


それでも人間は希望を抱き、天の倫理と人の倫理が同じ立場で関係を結ぶことのできる一つの事情を探しているのです。東西を問わず、すべての人々が一つの心情を基盤に、新たな理念の世界を建設する事情を探しているのですが、そのような事情はまだ人類の歴史上に現れていません。


民族を超え、東西文化を超え、心情的に感じ、生活の中で交わり、公平で一貫した事情で絡み合わなければならないのですが、そのような事情を人間は知りません。


そのため、人々は何とも言えない心の不安を感じています。何とも言えない衝撃的な心情の衝撃を待ち望んでいます。しかし、何とも言えないその衝撃はまだ受けていません。したがって、私たちが希望を求め、愛を通して関係を結んだとしても、心情的な一致点を見つけられなければ、いずれは分散してしまうことになるでしょう。


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人類の歴史の道のりは、天が人類の祖先に対して持たれていたその天的な内容を表しています。これを人類に示すためのものが歴史の実像だと言えるでしょう。このことを私たちは知らなければなりません。


では、今は終末だと口々に言っていますが、これまで人間が望んでいたその希望は退かなければならないでしょう。これまでの人間の事情も永遠に関係を結べないものであり、退かざるを得ないでしょう。そうすべき時が来たのです。


そして、自分の心情を中心とした家族的な基盤や社会的な基盤、あるいは国家的な基盤や世界的な基盤が変わろうとしても変わることができない一つの天宙的な中心、誰も動かすことができない一つの岩のような中心でなければ、それらは結局崩れ去ることになります。ですから、人々の心は動揺しているのです。


このように人間の心の動揺が大きければ大きいほど、焦りを感じれば感じるほど、さらに大きな心情の時が訪れ、その時が来ると人類には希望があるのです。


もしそのような時が訪れなければ、人類は絶望で始まり、絶望で終わりを迎えるでしょう。しかし、人類に対する天の御心があるならば、それは希望で始まり、希望で終わりを告げなければならないものであり、また、天にはその御心を成就しなければならない責任があるため、歴史の目的が成し遂げられる時が必ず来るでしょう。


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しかし、今日の人々は、すべての始まりが人間から始まったと思っていますが、そうではありません。今日の社会や国家、あるいは世界も、ある歴史的な縁を基盤として成り立っていると思っていますが、それも違います。歴史的な縁というものは、人間から始まったものではありません。それは、さらに高次の縁とさらに高次の希望が成し遂げられるまで動き続けている歴史の軌道に合わせて進んできたに過ぎないことを、私たちは知るべきです。


「今は眠りから覚める時だ」と言われましたが、これは夜に寝て目覚めることを言っているのではありません。これは時代ごとに予告される言葉です。そして、終わりの日に成し遂げられるべき理念的な世界があるとするならば、その世界を目指して進む人々に向けて、時代ごとに予告される御言葉なのです。


今、皆さんに自己を主張し、自己を表に出し、全体を統率したいという思いがあるならば、その思いはどこから始まったのでしょうか?


皆さんは眠りの中にいます。今日の人類は眠りの中にあります。個人も、家庭も、社会、国家、世界、さらには霊界までも、希望の一時を迎えることなく深い眠りの中にいるのです。


このような歴史的な縁が、この時代でそのまま終結するのではなく、もう一段階を超えて、新しい何かで終結されなければならないということを、誰もが共通して感じているならば、その「新しい何か」が問題になるでしょう。


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しかし、過去の歴史を振り返ると、伝統的な習慣を絶対的に主張していた民族は、歴史の中で取り残されてきました。私たちは、昔の古い時代の考えを捨てなければなりません。今日の人々は、復帰の道を歩んでいるため、歴史の遺物を重要視する傾向があります。これは、人間世界にあったものは神の心が反映されて現れたものだと見るしかないということです。


したがって、今日の現実に生きている私たちは、古い考えに満足するのではなく、それを通して本来の理念に対する貴重な価値を知り、その貴重な理念に自らを委ねようとする心を持たなければなりません。そのような者だけが、太初から神の心情の中に隠されていた理想を回復することができるのです。


だからこそ、終わりの日に直面している私たちは、歴史を振り返って何かを探すのではなく、歴史を総括して、神の中に隠されている全体の理念を自分を通して再現し、新しい形で示すことのできる、その一時を探さなければなりません。その一時こそ、神も目覚める時であり、地上の人々も目覚める時だということを知らなければなりません。


復帰の時代がすべて過ぎ去ったときには、新しいものを探し求めなければなりません。ですから、この時代が終わりの日であるとするならば、この時代に生きる青年男女は、これまで人々が貴重だと言っていたすべてのものを一掃し、新しいものを探し求めて苦闘する切なる心が芽生えなければ、目覚めた新しい時代の力強い担い手にはなれません。この終わりの日に、新しいものを探し求め、目覚めて苦闘する群れ、そのような群れには、未来の希望と接する道が近づき、未来の事情と関わりを結ぶことができ、歴史的な終末時代に現れる天の心情と縁を結ぶことができるでしょう。


では、ここで問題となるのは、私はどのような立場に立っているのかということです。堕落した世界、死の権勢が荒れ狂う地、善の血を吸い取る地、民族が民族を食い尽くし、国家が国家を食い尽くすという歴史的な縁を持つ地に立っているのではないでしょうか?もしそうであるならば、新しい希望の心情世界とは何の関係もないということを知らなければなりません。


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「あなたはあなたの行くべき道を行き、私は私の行くべき道を行く」という確固たる限界点が、皆さん自身に設定されなければ、死の波に飲み込まれてきた歴史の流れが、皆さんを新しい時代と縁を結ばせることなく、死の世界へと追いやるでしょう。したがって、これまではこのような歴史の流れにしがみついて進んできましたが、終わりの日の裁きの前では、これを超えなければなりません。言い換えれば、イエスが30余年の生涯を終え、十字架で亡くなった後、復活の勝利を迎える時、イエス自身が30余年の生活に未練を持ったり、自己を主張したり、自己を何よりも大切に思っていたならば、天が復活させようとしても、復活はできなかったでしょう。


しかし、イエスが復活できたのは、それまでの生涯を未練なく清算し、新しい希望に燃えていたからです。また、彼の心情と事情と願いが地上のものではなく、天のものに置き換わったからです。その瞬間、復活の恩恵を受けることができたのです。


同様に、皆さんも今、このような置き換えの時期を迎えているのですが、その日を間近に見据えている皆さんは、確固たる心の覚悟を持たなければなりません。そして、皆さんがどのような集まりに加わっていても、その集まりの代表者を基準にしてその覚悟を持つのではなく、その集まりを通して皆さん自身が心情的な基準を持たなければなりません。そのような者だけが、目覚めることのできる自然な環境を持つ者であると言えるでしょう。


では、今、皆さんがそのような立場に進まなければならないときに、今日の皆さんがその立場に進む手立てがないと認めるならば、どうすればよいのでしょうか?ここで何を清算すべきでしょうか?まず、皆さんは人間同士の縁、人間同士の事情、人間同士の願いに基づいては、決して進むことができないことを知るべきです。


では、何と縁を結んで進んでいくべきでしょうか?悲しい人類の歴史を論じるだけではいけません。摂理の歴史の悲しみと天の悲しみを清算しなければなりません。そうする前には、すべてを清算することはできません。


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なぜなら、今日までの人類の歴史は、天が希望を持って設定された意図に対して、何度も裏切ってきた歴史だからです。ですから、このことを骨身にしみて感じなければなりません。そのような心があってこそ、罪悪の現実を憎む心を持ち、悲しい人類の歴史を断ち切ることができるのです。


今日、私たちは自分の行動について、この行動は堕落した人類の歴史の何を証しているのかを考えなければなりません。


そして、私が取ったこの行動が、天の計画に基づいて摂理されている天の行動とどれだけ矛盾しているのかを考え、その違いから生じる衝撃を感じることができなければなりません。


私のこの行動が、神の心情、神の事情、神の願いを裏切っているものであり、天の心に血の涙を加えた行動であると感じたとき、初めて、天に対する私自身の心情が、地に対する心情よりも何百万倍も大きいことを知るでしょう。そうなると、死の世界に対するすべての未練は断ち切られるのです。


天はこれまで、このような立場に立っている私たち人間を見守ってこられました。神は一日も休むことなく、眠ることもありませんでした。創世以来、堕落の歴史を見てこられた天は、私たちが見られなかった姿を見られ、私たちが経験できなかったことを経験され、私たちが測り知ることのできない悲しみと憤りと無念を感じてこられたでしょう。


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時には、真の息子娘を送られましたが、彼らを殺す人間たちを見ながらも耐え忍ばれたお父様! そのお父様は、一日も休むことなく、目を覚まして私たちを見守ってこられたのです。このことを皆さんは感じ取らなければなりません。皆さんがそのような心情に浸って生きているならば、皆さんは裁きの場に出ることはないでしょう。


今日、皆さんの身体は非常に小さなものですが、歴史はこの一つの身体に向かって訴えています。時代はこの一つの自我に向かって訴えています。世界はこの一つの自我に向かって訴えています。天はこの一つの自我に向かって、「来なさい」と叫んでおられます。


このような岐路に立っている皆さん一人ひとり!必ずや正しい方向を定めなければならない時が来ました。暗闇に包まれた環境を整理しなければならない時が来たのです。皆さんは、進むべき方向がどこであり、暗闇の環境を整理できるのは何かをまだ知りません。


そのような皆さん自身を見守っておられる天の心情は、昔、エデンの園でアダムとエバが堕落するのではないかと心配されたその心情よりも、堕落したアダムとエバを見つめられたその心情よりも、堕落した人間を救うために6000年もの間労苦されてきたその心情よりも、さらに切実なものだということを知ってください。ですから、今日、皆さん一人ひとりが天を裏切る日には、天地にさらなる悲しみをもたらすことになるのです。


今、私たちは目を覚まさなければなりません。目を覚まさなければなりません。眠っていた目を開き、私たちの行動を見直さなければなりません。


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では、このような立場にいる私たちが目を覚ますためには、何を中心として動けば目を覚ますことができるのでしょうか?それは、皆さんの人生の道程に積み重ねた功績ではありません。それでは歴史的な縁から抜け出すことはできません。今までの歴史は、堕落した人間の歴史であり、裁かれるべき縁の世界に留まっている歴史であるため、この地上に残された縁や、どのような実績を持ってしても、それを覆すことはできません。今までの権勢を持っても、それを覆すことはできません。また、今まで手に入れたすべてのものや、どのような栄光の条件を持ってしても、それを覆すことはできないのです。私たちはそのような状況にあるのです。


ここで、私たちが目覚めるためには、新たな覚醒をしなければなりません。しかし、新たな覚醒をして進むためには、人間の持っている心や、人間の持っている心情、あるいは人間の縁や願いだけでは不十分です。


では、持たなければならないその一つの心とは何でしょうか?それは、私たち以外の歴史、すなわち私たちが生きてきた歴史以外の歴史があったということです。これはどういう意味かと言いますと、今日の人類が知っている歴史以外に、もう一つの歴史があったということを知る必要があるということです。私たちが知らない歴史があったということは、私たちが知らない歴史的な心情もあり、私たちが知らない歴史的な事情もあり、私たちが知らない歴史的な願いもあったということです。6000年前にもそのような内容があり、4000年前にもそのような内容があり、2000年前のイエスの時代にもそのような内容があったということです。


では、天の代わりに来た人々、その時代を目覚めさせるために来た人々はどのような人々だったのでしょうか?ノアのことを言うならば、ノアは堕落後1600年の間に流れてきた人間の歴史的な心情や、歴史的な事情、人間が望んだ歴史的な願いではなく、別の歴史的な心情、別の歴史的な事情、別の歴史的な願いを抱き、希望を知らない人間に希望を知らせ、事情を知らない人間に事情を知らせ、心情を知らない人間に心情を知らせなければならなかったのです。これが、ノアの洪水審判の目的でした。


イエス様も同様です。では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? イエス様は、歴史的な心情や、歴史的な事情、歴史的な願いを紹介するために来られた方ではありませんでした。それはすでに紹介されていたからです。イエス様は、そのような歴史ではなく、人類が知らない天的な願いや、天的な心情、天的な事情を持って来られました。その願いを基盤として心情を目覚めさせるために来られ、事情と縁を結ぶために来られ、希望の中心となるために来られたのです。しかし、その時代の人類はイエス様を拒絶したため、歴史の道程には、天が望んだ希望の基準も、事情の基準も、心情の基準も消え去り、天の歴史そのものだけを残してイエス様は去られたのです。


20


そのため、天はこれを再び延長させ、6千年の歴史の終末に向けて、人間の歴史ではなく、天的な歴史の計画を進めてこられたのです。


ですから、皆さんは天の歴史と、この地上の歴史の進行基準を合わせて、上には天を握り、下には人類の歴史を握り、自信を持って進める姿にならなければなりません。今日の人類もそうするべきです。天もそうすることを望んでおられるでしょう。


では、その一つの姿とはどのようなものでしょうか?それは、6千年の摂理歴史、人間の歴史ではなく、天的な摂理歴史の心情を握った者であり、天的な願いと天的な事情を握った者であると言えるでしょう。


人類の歴史過程には、二つの流れがありました。しかし、今までの人類は、地上の歴史の内容は解明できても、天倫が動かしてきた歴史の内容は解明しようとしても解明できなかったのです。


では、人間の悲しみとは何でしょうか?それは、歴史のすべてを知らないことが悲しみではなく、歴史と縁を結べないことが悲しみでもありません。人間の悲しみは、天的な歴史の道程を知らないことです。そして、天的な歴史の希望とは何か、事情とは何か、心情とは何かを知らないことです。


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もし、終末において、こうしたことを青年男女に知らせ、彼らの胸に衝撃を与える時が来ないならば、この世界は歴史とともに滅びるでしょう。


この観点から見るとき、眠っている私たちは目覚めなければなりません。私たち人類は、祖先たちが眠っていた眠りを引き続き続けているのです。祖先の時代から数千万年の歴史の道を歩んできましたが、天と人間との歴史的な結合点を確立し、自信を持って天に向かって叫んだ者はまだ誰一人としていません。天倫の前に自信を持って責任を果たした者も、まだ一人もいないのです。


天が悲しまれることは何でしょうか?それは、その結合点が結ばれていないことです。では、人類が悲しむべきことは何でしょうか?それは、人類の中に、一人でもそのような縁を結び終えた者がいないことを悲しむべきです。


これが歴史の流れ、あるいは天倫の流れです。この二つの流れは、私たちの心と体を分断し、互いに主張し合っています。心は「天倫に向かって進め」と言い、体は「歴史的な縁を離れるな」と言っています。この戦いに苦しむことを知っている青年男女がもっと多くいなければならないのに、この戦いの苦しみを感じる者がいないのです。


この観点から、パウロは「なんと私はみじめな人間だろうか」(ローマ7:24)と嘆いたのです。心の法と体の法があり、その二つの法が戦っているとも言いました。これは、歴史の全体性を暴露したものです。


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摂理的な希望の基準を遠いところに置いている人間を、歴史的な距離を超えてその闇の権勢が支配しています。このように、今日の私を支配している闇の権勢と恐怖を突破して進むための刺激を、自ら引き起こすことができないならば、救いの摂理は完成できないということです。そうなると、天国の理念は無駄に終わるのです。ですから、心で喜び、心で生き、心で歌うことができる自分を求めて進むことが宗教人たちの道程でした。


皆さんは心を落ち着けて、過去の縁を振り返り、現在の縁を考え、未来の縁を思い描きながら、その心の中の自分自身を探し求め、どれだけ切迫していたかを反省しなければなりません。


天は、時と季節が変わっても、私たちの心を通して常に連絡を取っておられます。それにもかかわらず、歴史的なその心情を体感できていないならば、皆さんは一つの国家を裏切った逆賊を超え、全宇宙を裏切った反逆者であると言えるでしょう。


このようなことを知らずに生きている人間になってしまったのです。真の心情、変わらない心情が大きければ大きいほど、その事情が大きければ大きいほど、その願いが大きければ大きいほど、歴史の過程を摂理してこられた神の憤りがどれほど大きかったか、神の悲しみがどれほど大きかったか、神の切なる苦労がどれほど多かったかを考えるべきです。この心情に反応して、神を掴んで知らずに涙を流す感激した心を持つ者は、決して滅びることはないでしょう。


したがって、皆さんが今、何か分からなくても、天的な縁があることを知り、天的な心情を思い描き、天的な道を見据えなければなりません。自分でも分からないほど、切なる天の事情を恋い慕い、天の事情を体感するその場で、神を「お父様」と呼べるようになるべきです。もし、そのような人がいるならば、歴史の道程を歩んでこられたお父様は、ようやくその人の手を握ってくださるでしょう。


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その人を中心にして、億千万人のすべての人々が手を握らなければならないのですが、選ばれた過去の預言者や先祖たちは、自分たちが握った手を放すことが多かったのです。天は、私たちの先祖たちを握っていたその手を、終わりの日まで握り続けたかったのですが、いや、世界の全人類を握り続けて進みたかったのですが、私たちの先祖たちはその手を振り払って裏切ることがしばしばありました。


その度に、そのような先祖たちを失い、再び目覚めさせ、再び立ち上がらせた天のその心情と、再び立ち上がるべき立場にある皆さんの心情とは、大きな隔たりがあります。感じ取ろうとしても感じ取れない悲しみがあるならば、無限の悲しみの峠が残っているでしょうし、困難があるならば、無限の困難の峠が残っているでしょうし、憤りの十字架の道が残っており、無限の十字架の壁が立ちはだかっているでしょう。


だからこそ、この問題を解決しなければならない今日の私たちは、心を握りしめて泣くことを知らなければなりません。心を握りしめて泣くとき、何を心配しながら泣くべきでしょうか?心を握りしめて泣くとき、私の心を握ろうとされる天を憂いながら泣くべきです。体を握りしめて泣くとき、その体を握ろうとされる天を心配しながら泣くべきです。


天に対して、「今日の悲しみよりも明日の悲しみがさらに切実であり、今日の無念さよりも明日の無念さがさらに深く、今日の苦しみよりも明日の苦しみがさらに強くなるとしても、私は進みます」「たとえ死んでも進みます」と誓える心情を持って、自らを見つけ出す立場に立たなければ、皆さんは目覚めることのできる位置に立つことはできないということを知らなければなりません。そうではありませんか?


世の中でも同じです。ある失敗者が成功しようとするならば、その心に新たな希望と新たな覚悟、新たな決意を持たなければなりません。自分が落胆した時よりも、自分が失敗した時よりも、さらに強い心の衝撃を受けなければ、失敗の基準を超えることはできません。


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これと同じように、今までの歴史的なすべてのものよりも、人間が心情的に苦しんでいたすべてのものよりも、さらに強い衝撃を受けなければ、今日の人類には生きる道がないのです。


だからこそ、今日が6千年の歴史の終末であるならば、天は人類に対して、6000年間切実な心情で叫んでこられた以上に、この時間、私たちに対して叫ばれるでしょう。天倫に対しても叫ばれるでしょう。天が6000年の歴史のどの時代にも持っていた心情よりも、抱いていた希望よりも、この時代に私たちに抱いておられる希望の方が大きいでしょう。希望もそうですし、事情も、心情もそうでしょう。


では、自分を目覚めさせて立ち上がらせなければならないこの時に、皆さんはどうすべきでしょうか?皆さんが自分を目覚めさせるためには、天的な心情を感じ取らなければなりません。そして、皆さん自身が自らこのことに責任を負わないのであれば、責任を負う何者かが地上にいなければならないのです。このことを皆さんは知らなければなりません。


天はそのように歴史を進められます。天はノアの時にはノアを立て、アブラハムの時にはアブラハムを立て、モーセの時にはモーセを立て、イエスの時にはイエスを立てられました。ですから、終わりの日には、立てることのできる一人の人物が現れなければなりません。


しかし、その現れる姿を、これまでの伝統的な歴史や環境は認識しませんでした。だからこそ、行動から始めて、生きること、動くすべてのことを考慮し、その新しい姿を中心に据えて過去のすべてを捨て、それに代わる中心人物を立てなければなりません。そして、その方に対して絶対に従い、絶対に服従し、絶対に調和できる皆さんでなければなりません。そうでなければ、皆さんは目覚めようとしても目覚めることはできないでしょう。


25


皆さん、今は自分でも知らず知らずのうちに焦りを感じる時です。神は人類を新しい時代に希望の存在として立てるために、人間自身も気づかぬままに焦りと恐怖に包まれ、脅されることを許されています。


これから皆さんは、最終的な鉄槌を受ける前に、その鉄槌が皆さんの額を打つ感覚を感じることでしょう。その感覚が皆さんの環境を覆い、恐怖の心を感じるでしょう。その時が来ます。天が打つと同時に、人類も打ちます。人類が打つと同時に、悪魔までもが打ちます。それが大審判です。


今日まで人類は互いに戦ってきました。悪魔とも戦ってきました。天もまた、皆さんを打たれました。このように三方から人間を打ってきました。地上でもそうではありませんか?陸軍や空軍、または海軍というものがありますよね?終末の時代には、一人の人間を中心にして、この三つの形態で襲撃してくるでしょう。


陸軍のような人間たちの襲撃があるでしょうし、海軍のような悪魔の世界の襲撃があるでしょうし、空軍のような天の世界の襲撃があるでしょう。このように襲撃してくるのです。


そのような大審判の時代がやって来ますが、こうした恐怖の時代が襲いかかってくるのは何のためでしょうか?それは滅ぼすためではなく、悪を打ち砕き、歴史の道程に押し込められていた心を回復させるためなのです。この隠れた意図を皆さんは知らなければなりません。


26


人間を殺そうとする天ではなく、生かそうとする天です。ですから、天が私たちを押し出すのは、上昇させるためなのです。私たちを脅かすのは、ある側面を開放するための力の作用なのです。だからこそ、私たちは脅かされているのです。ですから、恐怖の時期が来たからといって落胆しないでください。恐怖と戦わなければなりません。正面には恐怖が現れますが、その背後には新たな安息の基盤があるのです。このことを人々は知りません。


今や、すべての恐怖の世界を打ち破り、新しいものを手に取らなければならない時が来ています。そうです。人類を支配しているのは悪魔です。その悪魔は、私たちの鼻を引っ張り、手を引っ張り、私たちのすべてを引きずり、最終的には恐怖と死の場に連れて行っています。人類は、まるで屠殺場に引かれる牛のように悪魔に引っ張られているのです。しかし、人類はそのように引っ張られているにもかかわらず、天は私たちの後ろからついて来ておられます。


皆さんの心は、皆さんの行動をまとめて決断に導いています。そうではありませんか?皆さんが行動を先に起こしても、その結果としての責任はすべて良心が負っているのです。これがそれを証明する証拠です。これが歴史全体の証拠なのです。


同じように、皆さんも引きずられています。死の罠に引きずり込まれています。しかし、皆さんがこの引きずられる状況にあっても、そのすべての恐怖を打ち破る心の衝撃を受けるならば、立ち返ることができるのです。


だからこそ、私たちはその一時を持たなければならないのです。私たちが置かれている場所は目覚めた場所ではなく、暗闇の場所であり、死の場所です。これを覆し、目覚めることができるその一瞬を持たなければなりません。その瞬間こそが、歴史の終末である終わりの日なのです。


27


したがって、皆さんは内的なすべてが複雑になればなるほど、混乱すればするほど、恐怖の世界が押し寄せてくればくるほど、生きる日の到来が目前に迫っていることを感じ取らなければなりません。生命の線が死の線の上に繋がっていることを感じ取らなければなりません。そうではありませんか?


今日の人類は、この事実を知りません。皆さんは生きているのですが、その背後には死の線と繋がっているのと同じように、生命の線が死の線に繋がっているということを人類は知らないのです。


これまで人間は歴史的な方向とともに心の方向を探し求めてきました。歴史的な方向とともに希望を見据えてきました。そして、どのような縁や心情、あるいは事情においても、それを歴史的な方向とともに見据えて進んできました。したがって、このような絶望的な動きでそれを突き放し、立ち返るその一時から、新しい世界、新しい宇宙が展開されるのです。


では、今進んでいる私たちの方向を転換しなければならないとしたら、どうすればよいでしょうか?死の波が渦巻くこの場で立ち返るためには、どうすればよいのでしょうか?皆さんは、3つの点を基盤にした1つの点を見つけなければなりません。皆さん自身は、歴史的な流れに飲み込まれる渦の中から抜け出そうとしても抜け出せないので、その反対側にある天の1点を見つけなければならないのです。


だからこそ、恐怖と死の淵に引き込まれつつある立場から抜け出すためには、皆さんは天的な指標や3つの基盤に基づく1つの点を選ばなければなりません。そして、さらに冒険をしなければなりません。冒険、冒険をしなければなりません。その流れを蹴り破りつつ、隣にある新しい何かを掴もうとする覚悟をしなければ、生き残ることはできません。そうしなければ、誰が歴史と共に審判の犠牲にならないと保証できるでしょうか?


28


だからこそ、私たちは自分が流れている方向を見極めなければなりません。そして、その方向を見極める際、自分の感情で見極めるのではありません。終末が近づく中、恐怖と不安、死の切迫感が強く感じられれば感じられるほど、自分の方向を正しく変えるか、あるいは別の視点から生命の救助線を見つけなければなりません。そして、自分の世界観や心情のすべての縁を蹴り破って、新しい何かがないかを探す心を持たなければなりません。そうでなければ、目覚めようとしても目覚めることはできません。


もし、皆さんが心の中から、または自分の感覚を通じて感じる何かがあるならば、それは死の場所よりもましなものであり、それを掴んで冒険をするために、すべてを蹴り破って前に進まなければなりません。その瞬間に、死の縁が断ち切られるのです。過去の歴史を振り返っても同じことが言えます。


ノアが作った箱舟は、歴史的な流れに反するものでしたが、その箱舟は神が人間に命を与えるために立てられたものでした。イスラエルの民がエジプトで苦しみの労働を強いられていたときに現れたモーセも、民の流れに反するものでしたが、民を救うための標識でした。そしてイエスは、4000年の罪の歴史を覆し、死の道を生きる道へと転換させるための神の標識でした。


私たちが心で聖賢たちを慕うのは、私たちが復帰されるための標識を探し求め、希望の場所、事情の場所、心情の場所である理念の世界を無限に慕って動いているからです。私たちはこのようにして戻ろうとしているのです。歴史も同じです。したがって、天地の流れのすべて、歴史のすべて、つまり6000年の歴史を終結させることのできる不変の中心が立たない限り、この世界は破滅するのです。破滅です。


もしそれを立てられない神であるならば、そのような神は必要ありません。それを立てられない神であれば、「私を信じなさい」という信仰の標語を掲げたことはすべて虚偽であり、外面だけのものとなります。人類を支配しようとする神にしかなりません。しかし、神は切迫した瞬間、死の場に生命の救助線として現れるのです。


29


皆さんは、新しい覚悟を持ち、新しい希望、新しい心情、新しい事情を持って、歴史的な希望の時、天的な希望の時、すべての存在世界の希望の時が迫っていることを認識し、すべてを蹴り破って復活した姿で冒険を覚悟し、1つの中心を掴んで進み出なければなりません。そのような心であれば、歴史の道程、あるいは摂理の道程でようやく目覚めることのできる心となるでしょう。したがって、まずは希望を持ち、死の波が押し寄せる状況においても最後まで耐える覚悟をしなければなりません。


今日、韓国の青年男女を見ると、彼らはまるで漂流する浮草のように方向もなく流れています。このように波に流されて、一体どこに向かおうとしているのでしょうか?この波に逆らって、別の方向に流れ出す動きはないのでしょうか?目覚める道はないのでしょうか?今日、自分が置かれている環境を無限に憎み、怒りを感じ、そうした道があるならば、悪の歴史と悪の世界を蹴り破るために、これまで忠誠を尽くしてきたどの人物よりも優れた忠臣、孝子、孝女になるという覚悟を持って、大いなる冒険に挑むことのできる時代の英雄が必要な時代なのです。


そのような人々が多くなれば、この民族にとって希望の日は近づくでしょう。また、この世界において、私たちが望んでいた希望の時代が開かれるでしょう。


しかし、このようなことは天がしてくれるものではありません。それは天がするべきことではなく、私たちがしなければならないことです。ですから、皆さんは現在置かれている場所に満足してはいけません。天の切なる心情を抱き、死の権勢の中にいる人々の死を心配して人々を目覚めさせるために叫ぶ人を探し、その叫び声を聞くことができるようにならなければなりません。その声を聞き、叫んでいる人の姿を見て、次に行動を開始しなければなりません。


皆さん、聞く耳を持っていますか?見ることができなければなりません。そして、見たならば行動するための体の準備ができていますか?これが問題です。ここで聞くこと、見ること、行動することは、歴史的な冒険の行動でなければなりません。そうでなければ、歴史的な死の権勢を蹴り破ることはできません。


30


それでは、皆さんはどのような声を聞き、どのような姿を見て、どのような行動をしましたか?自分自身も見えず、聞こえず、行動する方法も分からないという人が多いために、天はそのような人々に示し、聞かせ、行動する者たちを立てて、歴史を進めてこられたのです。


皆さんは、生死の岐路に立って自分の行動を決定しなければ、死ぬか生きるかの勝敗を決めることはできません。審判は天が先に行うものではなく、人間自身が先に行うものです。したがって、まず自分自身で審判し、勝利して残る場所に立たなければ、天の審判を受ける場に立つことはできません。自分自身で審判して残る姿になっていないのに、天の審判とは何の審判でしょうか?


皆さんは、自分のすべての罪を止め、自分のすべての感情を止め、自分のすべての生活をもう一度整理し、立ち返ることができるでしょうか?これが問題です。歴史的な預言者たちはその道を歩んできました。ノアもその道を歩んできました。天はノアに「立ち返れ」と命じられました。「今まで生きてきたすべての環境を蹴り破って立ち返れ」と命じられました。その命令に従って始めなければならなかった行動は、ノア自身もこれまで想像できなかった行動でした。「山の頂上に舟を造れ…」舟は水の上に浮かばなければならないのに、山の頂上に造れとは、そんな理不尽がどこにあるのでしょう?しかし、ノアは従順でした。


アブラハムも同じでした。天が「カルデアのウルを去れ」と命じられた時も「はい」と答え、「イサクを捧げよ」と命じられた時も「はい」と答えました。モーセもまた、民族の苦しみを憂い、これまでの流れを食い止めてエジプト人を打ちました。それを見たイスラエルの民がそれでも良いと言ったならば、またイエスも「すべてを捨てて私について来なさい」と言いました。


歴史はこのようにして流れてきました。しかし、そのような預言者たちの叫びを聞くことができる人、彼らの姿を見ることができる人、彼らの生活を憧れることができる人は、歴史の道程に一人もいませんでした。これが天の悲しみでした。そして神の悲しみは、ゴルゴタの丘で死んでいくイエスの姿を見て悲しまれたことだけでなく、死んでいくイエスを見て天の心情を憂い、彼を哀れんで涙を流し、死の場所も気にせずに進む者がいなかったことでした。それがさらに悲しかったのです。


31


天は、私たちが進むべき道を時代ごとに1つの標識として立ててこられましたが、終わりの日も同じでしょう。死の恐怖が押し寄せれば押し寄せるほど、それを蹴り破って進み出る心の切迫感を感じなければなりません。これを解決するためには、常に焦りを感じなければなりません。眠ることが問題ではなく、食べることが問題ではなく、生きることが問題ではないと言わなければなりません。このような切迫した心情を感じ、心に衝撃を受け、冒険を覚悟して未練なく進み出る歴史的な新しい動きが現れなければ、この世界に生きる道は開けません。


神はこれまでの歴史の道程においてそのようにしてこられましたが、終わりの日にも必然的にそのようになさるでしょう。このような動きがあるならば、これまで自分が信じてきた過去の信仰や過去の主義、あるいは過去の縁にこだわることはないでしょう。そうしなければ生き残ることはできません。


見てください。聖書には、マリアの夫ヨセフを「義人」と呼んでいます。処女としてイエスを身ごもったことは、歴史的には理不尽でした。しかし、天が天使を遣わして予告し、マリアを立てようとされたとき、マリアはためらわずにこれに従ったのです。


歴史上の忠臣、孝子、烈女たちが残したものは何でしょうか?それは、悪党たちが反対する流れの中で、ためらわずに命をかけて冒険した先祖たちだったということを、皆さんは知らなかったでしょう。神の意志を受け入れたどの一人もその道を歩まなかった者はいませんし、歴史上のどの忠臣・孝子・烈女もその道を歩まなかった者はいませんでした。生死を分かち、最後の栄光を見据えて、天国の民、いや、天の息子娘になろうとする人々は、当然その道を歩むべきです。


皆さんはそのような覚悟を、決意を、誓いをしたことがありますか?もしないならば、皆さんは歴史的な摂理を冒涜した者中の冒涜者であり、裏切り者中の裏切り者です。時が来る前に、皆さんはそのような覚悟を持たなければ、新しい自分を見つけることはできません。この行動を開始するその瞬間こそが、眠りから覚めた6千年の歴史の道程を蹴り破り、ようやく目覚める瞬間であることを知ってください。


32


皆さんが目覚めてみれば、自分一人ではなく、両親がいることに気づくでしょう。このようにして目覚め、その両親を掴んで涙を流すその日を「再臨の日」と呼ぶのです。目を開けてみれば、私の前には、6千年の間、私のために悲しみを代わりに担ってくださった真の両親がいらっしゃること、6千年の間、私を探し求めてさまよってくださった真の親がいらっしゃること、私が悲しむ前に私に対して悲しんでくださった天がいらっしゃったことを知るのです。このようにして、歴史的な心情に深く刻まれたすべての事実が一日にして展開されるとき、ようやく私は天に対して「お父様」と呼ぶことができ、天は私に対して「息子よ」と呼ぶことができます。その日が、まさに最終的に目覚める日なのです。


その時、歴史的な希望の心情とその他すべてが、私の胸の中に訪れる時です。したがって、その時の喜びは、神の全体的な目的が達成された時に感じる喜びであり、その時の感情は、人類が堕落せずに完成した時に感じることのできる感情です。


そして、人類が感じた数多くの歴史的な悲しみと、人類が受けた多くの歴史的な苦しみに比例する喜びを感じ、悪魔の前に堂々と現れて誇ることができる姿を示すことができるのです。


このような境地まで到達しなければならない私たちであるので、その立場に立てなかったならば、私たちは立ち返るべき方向に向かって心と体と環境を整え、聞こえてくる言葉と現れる現象を見て心を落ち着け、命を覚悟して立ち返らなければなりません。そのような行動ができないならば、私たちは目覚めようとしても目覚めることはできません。目覚めようとしても目覚めることはできないのです。


外的な環境が脅迫してくるほど、それに比例して内的な決意はさらに大きくなければなりません。絶望と落胆が社会を覆うならば、私たちの内的な心情においては、さらに固い覚悟をし、希望の一時を切に求める心が芽生えなければなりません。そうしてこそ、私たちは希望の一日、あるいは事情の一時、心情の一姿として私たちを見つけに来られる天との縁を結び、悲しみの歴史を蹴り破って勝利の再出発を果たすことができるのです。皆さんはこれをしっかりと心に刻んでおかなければなりません。


33


<祈祷>
お父様! 私たちが新しいことを考えようとする時、これまでの動きが続く場所では考えることさえできないことを知りました。歴史の流れを止め、自分を見つめ直す瞬間を持たなければ、目覚めることはできないと知りました。眠っているこの姿は、新しい刺激を受けなければ目覚めることができないことを知っています。どうか、お父様! 私たちに歴史的な縁から抜け出すための新しい衝撃を次々と与えてください。


刺激的な心がなければ目覚めることができないことを知っております。ですから、そのような心を見つけて慕うことができる存在にならなければなりません。


お父様! あなたは時代ごとに目覚めさせるための責任者を送ってくださいました。あなたが堕落した人間を見つめ、悲しんだその心情を掴んで生きた者たちのおかげで、ノアもそのように生き、モーセも、イエスもそうでした。


お父様! どうか私たちの心の奥に新しい感覚の衝撃を与えてください。そして、私たち自身を越えて、あなたの悲しみを体感し、死の世界に巻き込まれていく民族を憂う心を与えてください。


このような心を持つ者がいるならば、その者は民族的な解放を受ける者であり、さらに進んで世界を掴んで憂う心を持つ者がいるならば、その者は世界的な解放の恩寵を受ける者であり、さらに天宙的な解放を憂いながら涙を流すことのできる者がいるならば、その者は歴史と共に滅びることなく、新しい歴史の世界に残る人物であることを知っています。今日、自分の感情に溺れ、自分を掴んで泣く者にはならないようにさせてください。全体が求める善を行い、私たちを見つめておられるあなたの切なる心情を代わることのできる私たちにしてください。お父様、切に願い、求めます。


34


私たちが従わないのではないかと心配されていたその心、人間が堕落するのではないかと心配されていたあなたの心を代わることができるようにしてください。従ってくる者たちが落ちるのではないかと心配し、また落ちた者たちが倒れて死ぬのではないかと心配されていたあなたの心を見習い、民族を見つめ、世界を見つめることができるようにさせてください。お父様、あなたを見つめながら「お父様、私がここにおります。あなたの心情を私が引き受けましたので、どうか安らいでください」と言うことができる息子娘がいるならば、その姿を通して歴史は新しい方向へと流れていくことを知っています。


そのような方向に出発しなければならない私たち、眠りから覚めなければならない私たち、歴史的な不運の叫びが現れるにつれて、心の奥深くで新しい決意と覚悟、誓いを持ち、新しい方向に向かって出発するための万全の準備を整えて進むことのできる者たちにしてください。


このような立場に導くために、涙を流しながら戦った者に代わって天的な心情を持って戦う者がいなければ、天は彼によって安息され、地には新しい喜びの園が建設されることを知っています。どうか、私たちがその責任の立場に立つにふさわしいように、お父様、励ましてください。私たちの歩みが遅いならば、鞭を打ってでもその立場に導いてください。お父様、切に願い、求めます。


天が目覚めているように、私たちも目覚めて、天倫と共に、歴史と共に悲しみ、喜ぶことのできる私たちにしてください。これを切に願い、主の御名により祈ります。アーメン。

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御言葉選集6(4)

2024年09月28日 19時50分24秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 4. 慎重に見守らなければならない信仰の道
1959年4月12日(日)、元本部教会
マタイによる福音書 11:1-30

   1

<祈り(Ⅰ)>
不足な姿の私達がお父様の聖なる御姿を恋しながら再びお父様の御前に出て、心と体を伏せましたので、憐れみの恩恵をもって私達に接して下さいますようお願いいたします。
何十万回も愛してくださったお父様であり、数えきれないほど忍耐してこられたお父様でございます。

私達を見捨てる事なく、新しい愛で導く事を休まれなかったお父様! 今日現れた私達の姿が御心に適わず、お父様の心に喜ばれないかもしれませんが、哀れみの心をもって私達に臨んで下さい。
それでも、険しい世を避けて、お父様の心情の世界に入り込もうとする切なる心がございますので、この心をご覧になって、お父様の憐れみの愛を注いでくださり、この時間、私達を受け入れ、見つめて下さいますよう、お父様、切に願い求めます。

お父様の愛を受けるその一席は、創造されたすべての万物が慕う席であり、過去の無数の人類が慕ってきた席であり、現代の人間と未来の人間達が慕わなければならない席です。

   2

これを思い、私達がお父様の愛の心中に抱かれようとすればするほど、万物が注目しているという事実を、この時間に感じさせて下さいますようお願いいたします。お父様、切に願い求めます。
今、私達にお父様を「私の父」と呼べる心を与え、そのお父様が私のために苦労された父である事を知る心、お父様が私によって悲しみに沈んでいる事を知る心をお与え下さい。
そして、その心に感動して、お父様と呼び、お父様を掴むことができる切なる息子、娘の姿を表して下さい。
切なる心情でお父様を探し求め、お父様の事情を心配しながら現れた者は、お父様が見捨てられないという事を知っておりますので、私達の心がお父様の心に向かって走り出す事をお許し下さい。
私達の体がお父様の胸に抱かれるために走り出す事をお許し下さい。

   3

怒りと悲しみ、そして痛ましい罪の歴史を蹴り出して進み出る動きが、この時間、私達の体と心に満ち溢れるようにして下さい。
そして、私達の体と心を奮い立たせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。
私達は、確信を持って天を探し求めて進むことができない弱い者ですので、どうかお父様が信仰の主としておられる事を願い、地が険しく、困難な試練の道が残っている中で、私達は疲れ果てておりますが、天が強く現れる事を望みます。
お父様が私達人間を探しに来られ、失望されることが多かった事を私達は知りませんでした。
人間を心配し、人間のために苦労され、望んでこられた事が私達によって成し遂げられない時、お父様は再び打撃を受け、後退せざるを得なかった事を知りませんでした。

   4

私達の望みよりもお父様の望みが大きいという事を私達が知るようにして下さい。
お父様は、私達が弱いときに強くあらん事を望まれ、御心を支え、摂理される時に強い者を求められる事を私達が忘れないようにして下さい。
私のお父様、心から願い求めます。
今、私達の心はお父様の聖姿を恋い慕い、私達の体はお父様の御姿を見たがっております。私達の手はお父様の手を掴みたがり、お父様の体にすがりつきたいと願っております。
そのような真の息子娘、お父様の愛を歌うことのできる息子娘達を迎えたいと願っているのが、人間に対するお父様の中心の願いである事を知っておりますので、私達の心がそのような心情に深く浸ることができるこの時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。

   5

今日、私達は罪に染まっており、闇の中におります。これまで私達の感覚や五感は、お父様の悲しみや嘆きを感じる事ができず、お父様の悲しみに満ちた心情を忘れ、自分自身の悲しみを訴えることに急でした。
お父様の御前に差し出すべき何も備えていない私達に、せめて自らを悲しむ心をお与え下さい。
過去の誤りを責め、今日の未熟さを恨む悲しい心情が私達の心中から溢れ出て、お父様を呼ぶことができるようにして下さい。そうすれば、お父様は私達を掴み、お父様は私達を見つめ、お父様は私達を抱きしめてくださるでしょう。
お父様、そのような心情を私達にお与え下さい。そのような心情に満ちて、不完全な自分を認識し、お父様の御前にすべてを捧げる切なる心を私達にお与え下さいと、お父様、切に願い求めます。
お父様、この場に集まった恥ずかしい子供達を憐れんで下さい。知っていると思っていた事も知らない時が来た事を知っております。

   6

自らの口で自分を弁明していた自分を否定し、再び生まれ変わらなければならない時が来た事を知っております。
すべての歴史的な悲しみは、蕩減条件を通らなければ解放されない事を知っています。
今、私達には、お父様の理念の前でカインとアベルの立場に置かれる時が来ている事を教えて下さい。
個々の心と体が争い、体が心を非難し、心が体の前に屈服する時、歴史的な終末時期が近づくにつれ、個人から家庭、教会、社会、世界に至るまで繋がって起こる事が私達の目の前に近づいている事を教えて下さい。
その時を知らず、悲しみの歴史に押し流された私達の先祖達を知っている私達も、罪の歴史を紡ぎ続ける道具に簡単にされてしまう立場に置かれています。

   7

しかし、私達には、天の善を築き上げるために使われる要素が非常に少ない事を知っている私達に、どうか話したい時でも口を閉ざす術をお与え下さい。
見たくないものを見ても、耐えることができるようにして下さい。聞きたくない言葉を聞いた時には、耳を塞ぐことができる心をお与え下さい。
天に向けるべき心が混乱の中でさまよっており、体が留まる場所を見つけられない環境に置かれているかもしれませんが、お父様、私達を見捨てず、お父様の恩恵の手で私達をお父様の胸に導いてくださると信じています。
どうか私達を憐れんでくださり、お父様の御前にひざまずいて訴える事のできる心を起こして下さい、お父様、切に願い求めます。
このような心情がなければ、永遠に悲しみを呼び起こす天の裏切り者になってしまうのではないかと恐れ、自分を掴んで泣く者となるようにして下さい。

   8

兄弟を思って悲しむよりも、自分の心を思ってもっと悲しみ、隣人の兄弟が私と同じ悲しみに陥るのではないかと心配し、彼らを助けたいという心が私達の心から湧き上がらなければ、最後に超えなければならない最後の峠を越えられない事を知っています。
ですから、お父様、この時間、愛する家族達の心をお慰め下さい。
ここまで私達を探し出してくださった摂理の目的が何であり、希望が何であるかを知り、自らを立てようとする内容を心で分析し、立て、守り、お父様の御前に決断しなければならない時である事を教えて下さいますよう、切に願い求めます。
お父様、聖なるこの日、多くの人類を祝福して下さい。ここに集まった多くのあなたの息子娘達を祝福して下さい。
天に向かって「父」と呼ぶ息子娘が数多くおりますが、「父」と呼べる真の息子娘、お父様が「私の息子娘」と呼べる真の息子娘が非常に少ない事を知っています。この悲しみを止める者は誰であり、お父様のこの悲しみを慰める者は誰でしょうか?

   9

地上には誰もいない事を知っております。
このような理念を備え、お父様の心情を通じる事ができる真の息子娘達が、あなたを探し、あなたの胸に抱かれ、万宇宙を代わって誇る事ができるその一瞬が、歴史的な終末期に、希望の最後に現れなければならない事を知っています。
お父様、ここに集まったあなたの息子娘達が、誰のためにここに来たのか、誰に仕えるためにここに来たのか、誰を迎えるためにここに来たのかを自ら反省し、孤独なお父様の前に軽率な態度を捨て、温和で謙虚な姿勢になるようにして下さい。
お父様の悲しみの中の悲しみを感じ、苦しい心情を体験し、お父様を慰め、お父様を呼ぶ事ができるこの時間となるよう切に願い求めます。
この時間、孤独な家族達が地方に広がり、お父様の御前にひざまずいて祈っている事を知っております。

   10

彼らの事情をご存知のお父様、彼らを見捨てず、彼らの主宰者となり、保護して下さい。
すべての心配をお父様が共にしてくださり、慰めてくださり、お父様の栄光を歌う事ができる喜びの時間となるよう、切にお願いいたします。
不足な者達がお父様の御前にひざまずき、礼拝を捧げようとしておりますので、どうか親しく聖別してくださり、初めから終わりまで、悪魔の一切を許さないようにして下さいますよう切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお捧げいたします。アーメン。


<祈り(Ⅱ)>
お父様、私達の行く道は険しいですが、この道を行けば天の人に会えるという願いの日が遠くない事を知り、この道を行く私達の歩みが疲れる事もありますが、お父様が歩まれた道であるために、行かざるを得ない人生の道である事を知りました。
今、私達が心に染みてお父様を呼ぶ事ができる切なる心が湧き上がるその時には、私よりも切なく、切実な心情で見守られるお父様がおられるという事を知りました。そして、一歩、二歩と探りながら進むことの分からない道を行けとおっしゃるお父様の声に従って進む歩みも楽ではない事を知りました。

   11

今日、残された御心の前に、私達が未熟であり、忠誠の捧げ物とならなかった事を嘆かざるを得ず、苦難の歴史を振り返り、天の前に喜びを返す事ができなかった悲しい歴史を振り返るたびに、嘆かざるを得ません。このような姿が、かつてお父様の前に祝福を求めた時の不足をお許し下さい。
お父様、人間達を見つめ、人間を探すために心を痛めるお父様の御姿を見つめる息子娘がいるならば、お父様の前に祝福を祈る事も、その御姿の前で自分の主張を広げる事もできない事を知っております。このような歴史的な悲しみが残っている事を千度万度忘れていたこの不忠不孝な子供達をお許し下さい。
今、心の奥底からお父様を呼ぶ事ができ、天地が喜ぶ事のできる、父と私達が一つになるその瞬間に新しい歴史が始まり、希望が成し遂げられる事を知っておりますが、今日の私達の心の根底がそのような心情に満ちる事ができる場所にいないため、失望し、嘆かざるを得ません。
お父様、ここに出てお父様を呼ぶ者達の姿を憐れんで下さい。彼らがお父様の前に忠誠を尽くした内容があるならば、お父様がそれを覚えておられないはずがない事を知っており、彼らがお父様のために知られずに苦しい場所にいるならば、それを知らないはずがない事を知っております。お父様、私達が天に心配をかけたとしても、お父様は私達の前に心配を残されなかったという事実を忘れさせないで下さい。
地上に悲しみがあるとするならば、悲しむ者を慰められるお父様の悲しみ以上の悲しみがどこにありましょうか? 苦痛があるとするならば、お父様を裏切って苦しむ者を抱き慰められるお父様の苦痛以上の苦痛がどこにありましょうか?

   12

お父様はご自身の威信と体面と権威を立てる事ができず、希望を残したまま歴史の道を歩んでこられる間、多くの善なる先祖達を抱いて、「私の心情を分かってほしい、私の事情を分かってほしい」と泣き叫びながら、切に訴えてこられたという歴史的な言葉を私達は聞きました。しかし、今日の私達は歴史を代弁する事もできず、歴史的な実体を証明して善の実体であると誇る事もできない姿で、お父様の前にひざまずいております。この面目ない私達の姿を、この時間にさらけ出し、告白させて下さい。そして、悪魔に弄ばれている自分達である事を悟らせるこの時間となるよう、切に願い求めます。
残された摂理の御心の前で、不忠な者は多いですが、忠誠を尽くす者がいないため、今日も明日も心配され、摂理の御心と心情を打ち明けて話す事ができないお父様の御事情を、この時間に私達が理解できるようにして下さい、とお父様、切に願い求めます。
この時間、ここに伏せておりますので、私達の心がどこに留まっているのかを考えさせて下さい。
お父様は天の御心と心情の基盤の上で動く事を望んでおられるにもかかわらず、今日の私達の心は虚空に向かって走っていないでしょうか? 目的と方向を失ったまま悲しみの場所に留まっていないでしょうか? お父様の心配の鞭を受けるにふさわしい悲しみの場所にいるのではないでしょうか? 自ら悔い改めさせて下さい。
私は残された善の園に向かって進む者であり、残された使命のために戦う天の勇士であると誇れるようにして下さい。お父様が探し求めておられる姿が自分自身である事を知り、探し出されるために努力している事をお父様の前に明らかに示す事ができる者とならせて下さい。自ら決意し、自らを清める事ができるこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。

   13

散り散りになった心を集めて故郷を恋しがる事ができる、再創造の御手が及ぶこの時間とならせて下さい。そして、お父様の祝福を受け継ぐ前に、まずお父様の悲しみを受け継ぎ、その悲しみの主人公となって、お父様の前に堂々と立ち向かい進む覚悟と決意を持つこの時間とならせて下さい、とお父様、切に願い求めます。
今日、統一の理念を備えておきながら、他人ではないとするこの場に追いやられたお父様、自分が望んでいないその一か所に足を早めて追いやられたお父様、善なる事を始められた方も父であり、善なる事を成し遂げられる方も父である事を知っております。お父様の御心と通じない限り、呼ばれ、集められるという目的が成し遂げられないという事を知っておりますので、その御心の前に水となり、火となり、油となり、今日も明日も御心の前に謙遜な供え物となる事ができるよう、切に願い求めます。
悪しき世を焼き尽くす事のできる油となり、火となるべきであり、善に対しては柔和謙遜でなければならない事を知っております。お父様はこのような法則をもって私達を探し求めてこられたゆえに、イエス様は「高くなりたい者は低くなり、低くなりたい者は高くなる」とおっしゃられ、犠牲と奉仕、柔和謙遜で天の道を築かれた事を知っております。
私達もその中心に染み入って、自らの不足を知り、お父様の前に無限に謙遜になる事ができ、自分のすべてを捧げる供え物とする心情が、それぞれの心と心を通じて天心にまで届く事ができるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
この日も時を知らずにさまよっている多くの人間達がおりますので、彼らの運命を握って下さい。そして、さらに、五千年の歴史を誇りながらも、哀れな境遇にある三千万人の民衆を憐れんで下さい。この民族の歴史の道は血で染まった道である事を知っており、この民族は善を阻む存在達と戦ってきた哀れな民族である事を知っております。

   14

このような民族を立てておきながら、天は摂理の御心を予告され、摂理の時を教えて下さいました。彼らの前に一つの中心を知らせてくださったお父様! この民族によって重くなったお父様の悲しみを少しでも和らげる事ができるようにして下さい。そして、そのような条件がこの民族にないならば、まず御心を知り、心情を知った私達がお父様の心情を抱き、その悲しみを抑え込む事ができるようにしてくださるよう、切に願い求めます。
今、私達の心がお父様に向かって無限に走れるようにして下さい。お父様を恋しく思い、抱きしめたい気持ちと、子供のような心情を持って、お父様を無限に慕う事ができるこの時間となり、罪に染まったあらゆる主義やあらゆる観念、あらゆる意識が私達から離れるようにして下さい。
どうか願わくば、この時間、私達の本心が表れ、本性が表れ、本来の姿が現れるように導いて下さい。お父様が喜んでくださり、お父様が再び私達を抱きしめ、万宇宙と悪魔の前に立って誇られる事ができる私達になるよう、この時間、歴史を動かして下さい。そして、一歩先に進み、お父様の前で頭を下げる姿となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
終わりの日に、お父様がこのような姿を探し求められる時、小さくか弱い声ででも、「万民の悲しみを抱えて訪れてくださったお父様、不足な者がここにおりますので、どうか憐れんで下さい」と言えるようにならなければなりません。自らの不足を感じながら、お父様の呼びかける声に応じる事ができず、顔を上げる事ができない自らの不足を悔い、再び反省する事ができるお父様の息子娘達となるようにお許し下さい。お父様、切に願い求めます。
お父様に対してはこのような心を持ち、不義と悪に対しては憤り、我慢できない正義の心情を持ち、この身が祭壇に上がる事があったとしても、天の法を開拓する者として、立てられた天の精兵の体面を損なうあらゆる事に対しても屈する事なく戦う姿となるようお許し下さい。お父様、切に願い求めます。

   15

お父様をお迎えする事のできるこの時間となるようにお許し下さい。そして、孤独な心情で祈っている家族たちの上にも、均一な恩賜をもって歴史を働かせてくださるよう、お願い申し上げます。
初めから終わりまで、お父様が主宰して下さい。千千万の聖徒達と天軍天使達がお父様を取り囲む中、お父様の深く広く高い御姿を体感させて下さい。私達の目でお父様を見させて下さい。私達の耳でお父様の声を聞けるこの時間をお許し下さい。そして、天の聖霊が実体として現れるようお許し下さい、とお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお捧げいたします。アーメン。


<祈り(Ⅲ)>
胸に釘痕を残した悲しみがどのようなものであるか、私達は御言葉を通して学びました。お父様!この御言葉を読むと、身に余る光栄であり、この御言葉を語られたイエス様の焦燥した姿が懐かしくなります。心情を抱えて嗚咽してくれる友一人もいなかったイエス・キリストの生涯の悲しい事情を同情する私達になるようお許し下さい。
人間的な生活から抜け出せなかった弟子達と、天の悲しみを知る事ができなかった人間世界の悲しい現実を見つめられるイエス様の御言葉を共感した者がいなかった事を知っています。
お父様、30余年もの間、荒野でイナゴと野蜜を食べながら修行した洗礼者ヨハネが抱いた願いとは何であったのでしょうか? 彼の願い全体、その心の中心の一つは、来られるメシアを迎える事であった事を知っています。

   16

メシアを証した彼には、メシアと一つにならなければならない天倫の縁があったのに、彼が私の心の中にあり、私が彼の中にあり、彼のものが私のものであり、彼の心情が私の心情であり、彼の生涯が私の生涯であるという、すなわちイエスのすべてが洗礼者ヨハネの心中に反映されて一体を成すべきであったのに、彼はそれを成し遂げられませんでした。
ヨルダン川岸の多くの群衆の前で手を挙げて天の子だと証した記憶を持っていた洗礼者ヨハネは、悲しく孤独な姿で鉄の牢に閉じ込められ、自分の悲しい境遇を嘆かざるを得ない状況の中で、自分が証したメシア、天が証し立ててくださったメシアに弟子達を送って、「来るべき方があなたでいらっしゃいますか、それとも私達は他の方を待つべきでしょうか?」(マタイ11:3)と問い返した場面は、歴史的に悲しい場面であり、天が超える事のできない悲しい場面であった事を私達は知りました。
歴史の流れの中に、洗礼者ヨハネの道程はそのまま残っています。新しい理念を探し求めて苦しんでいる私達、新しい歴史を待ち望みながら準備している私達が、今、洗礼者ヨハネと自分自身を置き換えて考える事のできる者達になるようお許し下さい。
天の民達が天の御心を拒んだ事実を歴史を通じて知りましたので、今日私達がそのような歴史的な過ちを繰り返す者達とならないよう導いて下さい。そして、荒野で鍛え準備させてくださったその御心を失う者達とならないよう切に願い求めます。
今日、あなたの愛する息子娘達が多く集まりましたので、今、その心と心を開き、その体と心がお父様の前に面目ない事を悟るようお許し下さい。この時間、勧告される御言葉を聞き、イエス・キリストの悲しい心情を受け継ぐことができるようにし、天的な悲しい心情を抱いて人々が知らない新しい理念の主人公を迎えることができる心と体とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。

   17

この時代を導いていく主人公は誰であり、この時代に残される事のできる民族はどのような民族なのかを憂慮し、そのような姿を思い描きながら悲しい心情に浸る事のできるこの一時間とならせてくださるよう、お父様、切に願い求めます。聞こえてくる御言葉と聞こえてくる声に耳を傾け、それに同調し反応する生活をする私達が、今、自分達の歩んできた道を振り返り、新たに覚醒しなければならない時が来ました。
混乱と混沌の中に置かれ、生死を決する立場にいる自分自身を心配する状況から私達が脱する事ができるようにして下さい。信頼できない社会であり、信頼できない世界である事を知っておりますが、信頼できる理念の世界に沈み、その理念の世界と結びつけるように自ら覚醒し、自らを認識して天を掴まなければならない時が来た事を知っております。そして、心の変革を起こさなければならない時が来た事を知っています。
このような環境に置かれている自分である事を肝に銘じて、新しい自分を追い求める事ができるように導いて下さい。そして、怨恨に満ちた悲しみの峠を越え、歓喜の姿を迎える事のできる私達となるようにして下さい。その姿を恋い慕い、その世界に引かれ、その世界と和合できるようにして下さい。今日、この社会環境が自由でなく、悲しみに満ちている事を悲痛に感じ、これを阻止して戦える力と勇気をお与え下さい。永遠であり、絶対的である天があるならば、罪悪の一切を追い払う事ができる力をお与えくださるように願い、祈ります。
ミディアンの荒野で羊を飼っていたモーセ、たとえ彼の手には杖があったとしても、彼はイスラエルの運命を左右する事のできる新しい覚悟と新しい希望、新しい理念を持っていた事を知っています。また、その希望と理念を抱き、ミディアンの荒野で40年間過ごしたモーセの忠誠心を私達は知っています。
今、私達は御言葉を聞ける場におり、待ち望んでいたその方に会う事ができる場所におります。しかし、待ち望んでいたその方の前に立つ私達の姿は、新しい姿でなければならない事を知っています。お父様が「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にある」とおっしゃった御言葉を私達は知っています。これを知る私達が、「すべてをお任せいたしますので、再創造して下さい。お父様の喜ばれる御心のままに、望まれる供え物として用いて下さい」と言えるこの時間となる事を、切に願い求めます。

   18

お父様、何も言いたくはありませんが、許されたこの時間、今、御言葉を語らなければならない時ですので、口を開かざるを得ない事を知っています。
ここに集まったあなたの息子娘達が、あなたの御姿を見たいという気持ち、あなたがいらっしゃる場所に行きたいという切なる気持ち、あなたと共に暮らしたいという切実な心情、慕う心情に満たされ、愛の心情だけがこの雰囲気を包み、再創造の栄光が現れる時間となるようにして下さい。お父様、切に願い求めます。
一つで始まり、一つで終える事ができるように、一つの主導的な働きが全体の上に現れる事をお願いし、悪魔が入り込む時間とならないようにしてくださる事を願いながら、すべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。



<御言葉>
今日、私達は心に引かれて動くのか、事情に引かれて動くのか、さもなくば、何らかの希望に引かれて生きています。世の中での生活もそうであり、天の道を歩む事もそうだという事を、私達は知っています。
このような立場から離れられない私達であり、自分という存在を認めるならば、私の人生というものが必ずしも私自身から始まるものではない事を否定できません。私達の社会的な環境や信仰の道も、やはり何らかの全体的な計画の下で、何らかの目的に向かって進んでおり、その形が次第に変わっていくという事実を私達は考えるべきです。

   19

これを考えると、今日の人生の旅路で勝利したと断言し、自慢でき、あるいは摂理の御心の前に堂々としていると言える人がいるとしたら、その人は、この混乱した世界で生きている人ではないと言い切れるでしょう。
そのような存在が今まで歴史の道に現れていないこと、そのような存在が歴史を支配できていない事を否定できないのならば、私達はそのような自分を心で思い描き、主義や思想、あるいは生活の過程を通して追い求め、それを探し続けていかなければならないのだという事を知らなければなりません。
そのような個人を中心に据えた家庭になり、そのような家庭を中心にして天を讃え、証する事のできる社会になり、そのような社会を中心にして天を讃え、証する事のできる国家、さらに進んでそのような世界にならなければなりません。天の前に現れて、自信を持って「お父様、私を見て下さい。お父様、私を掴んで下さい。私を見て、歴史的なすべての悲しみを忘れて下さい」と言える個人を探して、歴史は流れてきたという事を私達は知っています。
しかし、人間が堕落した事によって、希望の自分となれず、望まない嘆きと絶望の中で、未知の旅路で苦しんでいます。さらに、そのような自分を急かし、私が住んでいる社会や国家、世界を急かす何かがないかと、私達は悲しんでいます。このように、希望の自分と希望を成し遂げられなかった自分を抱え、最後の決断を下して、長い間探し求めてきたその自分を見つけ、すべての被造物の前で誇り、万物の霊長と自負できるその瞬間を目指して、人間は今日も戦い、明日も、この年も、そして今後数年後も戦い続けるという事を忘れてはなりません。この運命に置かれている自分自身を考えるとき、私達は今日、どれほど大きな責任を負っているかを知らなければなりません。
エデンの園のアダムとエバが神の御腕の中で育っていた時は、現れるすべてのものに対して自信を持って生活していました。しかし、許されていない天倫の法を破ってからは、彼らの心には自分を誇れる自信がなくなりました。ここに悲劇があり、ここに曲折があるという事を、私達はもう一度考えなければなりません。

   20

人間を放棄できない神は、創造された責任があるがゆえに、これを再び回復させるための運動を提唱されました。これが、人間を導いてきた宗教運動です。
人間は堕落して落ちてしまいましたが、神が創造の理念で立てられた一つの法則と、本来の自分を誇れる自由の理念は、創造の前から創造の後、現在に至るまで変わらずに神の心中に深く刻まれているという事を、私達は知っていなければなりません。しかし、今まで神の心がどのようなものかを解明した者はいません。神の理念がこれだと主張した者もいないのです。
天は人間のために存在し、天のために人間が創造されたと言えるならば、神と本来の人間が共に生きられる理念の世界、神の心中に隠されている本来の世界は、必然的に現れなければなりません。
今日まで、神は正常な道を歩んでこられたのではなく、堕落した人間を掴み、曲折の道を歩んでこられた事を、歴史を通してよく知っています。聖書を中心に歴史を振り返ってみると、カインとアベルから今日まで、天を信じない人間を導いて曲折の道を歩んできた事を、私達は知る事ができます。
このような歴史の流れは、最終的には一つの理念の世界に向かって進むでしょうし、天はその理念の世界に人間を追いやるに違いありません。人間の良心がその理念の世界に向かって今日も明日も苦しみながら進まなければならないと急き立てているという事も、確かな事実です。これを誰も否定する事はできません。天が立てようとしておられる理念と、私達が求めている理念が交わる瞬間が、人間にとっての希望の瞬間であり、天が導いてこられた摂理の目的である事を、私達は再認識しなければなりません。

   21

天は信仰の道を求める宗教者達、特にキリスト教徒に終わりの日を予告されました。その日が再臨の日であり、その日の主人公が再臨主だと予告されました。したがって、その一日が神の希望の終着点であり、人類の願望成就の終着点である事を否定する事はできません。
では、その日を迎えなければならない私達は、どのような姿でなければならないのでしょうか? 問題はここにあります。どのような姿でなければならないのか? 今まで真にこれを教えてくれる論理もなく、宗教もなく、心情を整理してくれる友もありませんでした。私達はそのような状況に置かれています。
私達の心は刻一刻と変わっています。社会生活の形態も変わっており、主義や思想も場所や時期によって変わっていきます。
絶対的な自分、全体の理念を代わって立つ事のできる自分、変わる事のない自分を探し求める事が信仰の道だとするならば、紆余曲折の道を歩まなければならない地上世界で、私達が持つべき心情は何であり、どのような道を歩むべきか、私達が整えて立てるべきものは何か、これらは誰しもが考慮しなければならない重要な問題です。
これらを理解したときに、終わりの日を見据える私達が、私が待ち望む太陽がどこから昇るのか分からない今、あなた方の目はどこを向いているのか、どこを見据えるべきか? これが問題です。注意深く、全力を尽くして、東の太陽が昇るところに向かって自分の心と体の方向を合わせなければなりません。

   22

人類の運命がこの道で終わらなければならないゆえに、また、この縁を断ち切る事ができず、この領域の中で信仰生活をしている私達だからこそ、注意深く見守りながら進まなければならないという事です。ですから、皆さんの前にお話しする題は「慎重に見守らなければならない信仰の道」です。
今、皆さんは自信を持っていますか? 自らを断言していますか? 自信があるなら、その自信は誰を通しての自信ですか? 個人を通して、環境を通過する事ができますか? 社会、国家、世界を通過する事ができますか? さらに、天倫があるならば、それを通過する事ができますか? これらの問題に対して自信を持てない限り、皆さんは自分自身を絶対的に否定しなければなりません。
このような立場に置かれている人間だからこそ、皆さんは常に天倫が向かっている方向はどこであり、その終着点はどのような形で現れるのかを探し求めなければなりません。自信を持って主張し誇る何よりも、そうした心が切実でなければならないのです。これを知らずに自らを誇り、自らを中心にして動く範囲が大きければ大きいほど、終わりの日に歴史的な裏切り者として登場する事になるという事を、私達は考えなければなりません。
私達は足りない者達です。私達は押し流され、状況に巻き込まれています。このような私達が、「天倫よ、私を押してくれ」と言える自信を持つ事ができるでしょうか? できません。持てません。私達の先祖達も、自信を持てない歩みで天を探し求めました。ですから、天が命じるところに行くとき、彼らは一歩一歩を慎重に進み、二歩も慎重に進み、一日の生活も慎重に過ごし、一夜の眠りの中ですら慎重に歩んできた事を、私達は知っています。
そのため、このような生活ができない者であれば、たとえ御心に従うといっても、最終的には天の御心から離れ、天の御心を悪魔の世界に返す事に貢献した者として終わる可能性がある事を、私達はあまりにもよく知っています。

     23

自信のない家庭、自信のない民族、自信のない国家、自信のない世界だからこそ、この世界の何も、誰も天倫の前に不変の存在だと主張する事はできません。このような立場に置かれている私達だからこそ、私達は一日の生活を慎重にし、一年の生活を慎重にし、一生の生活を慎重にしなければなりません。このように慎重に歩む事が、善を求めて進む歩みである事を知り、私達は歩まなければなりません。
歴史は発展してきました。個人から始まり、氏族を経て、部族へ、さらに民族を経て、国家、そして世界にまで発展してきました。過去の多くの氏族は自分たちの理念や主張を持っていましたが、時代の流れによって氏族時代から民族時代に移行するとき、氏族時代のすべての思想が民族時代の思想に飲み込まれ、また民族時代の思想は国家時代の思想に飲み込まれ、国家時代の思想は世界時代の思想に飲み込まれました。そして世界時代の思想は、今後、天倫に飲み込まれていくでしょう。歴史はこのように、一つの帰結点に向かって吸収されてきたという事実を、私達は理解しなければなりません。
このような歴史的事実を否定できないのであれば、今日の私はどのような立場で生きているのか、どのように動いているのか、どこに立っているのか、ということが問題となります。皆さんが今生きているその場所が、最後の終着点であれば問題は単純ですが、ここでまた変革が必要な歴史が残っているのであれば、皆さんは歴史理念時代、あるいは摂理理念時代、あるいは信仰理念時代の目的地に達しておらず、途中で止まる者にすぎない事になるでしょう。
天は人間と切り離せない関係を結んでいるゆえに、人類を放棄する事なく、人類を掴んで歴史の道を動かしてこられました。そして時代が変わるごとに、新しい理念をお与えになりました。氏族から部族に移行するときには、部族時代に移行できる理念をお与えになりました。氏族に対して、部族権を超えた遠くの理念を与えると、それについていけないので、良心と繋がる程度で、一歩先の理念をお与えになってきたのです。このように、氏族時代には部族の理念を、部族時代には民族の理念を、民族時代には世界の理念をお与えになり、連結してきたという事を、信仰の歴史を見ても、人類の歴史を見ても、否定する事はできません。
では、歴史の道のりに残される民族、歴史の道のりに残される氏族とは、どのような民族、氏族であるべきでしょうか? たとえば、氏族時代から部族時代に移行するとき、天倫を掴んで超えていける氏族です。そして、天倫が部族を越えて国家の理念を求めるならば、国家の理念に向かって立ち上がる事のできる群れです。あるいは、その国家の前に世界の理念が残されているならば、国家を越えて世界の理念に向かって進む事ができる群れです。このような群れが、最後に残される群れであり、同時に世界を建設する事ができる群れであり、世界を支配する事ができる群れなのです。このような氏族、部族、民族、国家、世界を完成して、歴史的に勝利する民族、勝利する国家として立つ事ができるのです。

    24

したがって、このような理念を求めて進む氏族が必要であり、このような摂理の御心に従って進む氏族が必要です。さらに、この摂理の御心に従うために、闘いの道を歩む民族が必要です。そうしてキリスト教が登場し、イスラエル民族が登場したのです。イエス様が統一された家庭、統一された国家、統一された理念を主張された原因がここにある事を、私達は理解しなければなりません。
では、そのイエス様はどのような方なのでしょうか? イエス様は、本来の主人公であり、最初に天の理念を備えた実体であり、天と永遠に共に住む事のできる理念を完成された実体として現れた方です。イエス様は、人類全体を導く立場では指導者であり、私達個々人に対しては父であり、本来の創造理念世界を求めていく立場では新郎です。イエス様はこれを結論づけておられました。
では、これから一つの世界、一つの理念の園、一つの理念国家が成し遂げられる時の理念はどのようなものになるでしょうか? それは、歴史の変化や革命にも変わらない理念でしょう。たとえば、親の愛のように変わらない愛の理念です。親が子供に対する心情は変わりません。変わらない天の愛を中心にして、絡み合った世界、関わるすべての場所において愛の感情が先立つその社会、その国家、その世界においては、「革命」という言葉は成立しません。その世界は、神の心情が個人の生活を通じて現れる世界です。そして、神がすべての人々を子供として思われる心情をすべての人々が体感する世界です。だからこそ、お互いに兄弟姉妹と考えないわけにはいかない心情の世界である事は間違いありません。このような世界が、人間が探し求めなければならない最後の終着点です。イエス様はこの地に来られて神を「父」と呼び、ご自身を「新郎」と呼び、さらに私達を一段高く引き上げて「兄弟」とおっしゃいました。真に感謝すべき恩恵の御言葉なのです。
イエス様は、個人の縁を通してこの地に現れた方ではありません。4千年の歴史を経てくる間に、天が多くの預言者、聖者達を通して「送りましょう、送りましょう」として来られた方でした。したがって、イエス様は天倫の背景を備え、摂理の歴史の御心を基盤として人類の歴史をまとめるために現れた方であると言えます。それゆえ、世界はイエス様を中心として今日まで進み、イエス様の名は今まで残されています。
今日のこの時代は、善と悪が交差する時代であり、善に合流していく時代です。このような時代に置かれている私達はどうなるのでしょうか? 善と悪が交差して合流した後には、どのような世界になるのでしょうか? この世界が進むと、どのような世界がやってくるのでしょうか? これは気になる問題です。今日、天の御心を持った若者達がいるとすれば、歩みを止めて天が存在する事を知り、地にある万物の希望を知らなければなりません。そして、その希望の爆発地点が交差点にとどまるこの世界ではなく、まさに自分たち自身である事に気付かなければなりません。

   25

このような問題を解決するために、神は今まで摂理を進めてこられました。もしアダムがエデンの園で神の前に罪を犯さなかったならば、堕落の悲しい道を歩まなかったならば、アダムは6千年が過ぎた今でも神の御心に従って歩んでいた事でしょう。皆さんはそれを考えたことがありますか? アダムが神の祝福を受け、神の御心を受け継ぎ、神の摂理を責任を持って果たし、神と共に住んでいたならば、数多くの預言者や先祖たち、そして御心を抱いて来た数多くの善なる人々が命を落とす悲劇はなかったでしょう。そうではありませんか?
私達が願い、待ち望むものは何でしょうか? 私達が希望し、探し求めるものは何でしょうか? それは、堕落していない姿、歴史に永遠に残りうる姿、変化する歴史をまとめられる姿、善の理念を立てられる姿です。そのような姿がこの終わりの日に現れるならば、私達は嘆く事はないでしょう。絶望の場所にいる事もないでしょう。
では、何が嘆きと絶望の原因なのでしょうか? それは、御心の前に立つ事のできる歴史的な主人公がいないという事実が嘆きであり、絶望であり、悲しみなのです。この歴史的な主人公を探し求めてきたのが歴史の流れであるため、私達人間はあちらこちらで倒れながらも、一度も歩みを止める事なく、この時間も歩き続けているのです。
今日、全世界の人類が再び訴えるべき事があるとすれば、それは「歴史的であり、時代的であり、未来的な主人公はどこにいるのか?」という事です。この主人公を切実に待ち望む時が来ました。歴史はすでに過ぎ去ったのに、その主人公はいつ来られるのでしょうか? もし天倫がなければ、その主人公は人類の前に現れる事はないでしょう。しかし、天倫があるゆえに、この時代の主人公はいつか必ず人類の前に現れるのです。ですから、皆さんはその主人公がどのような姿で来られるのかを知っておかなければなりません。
なぜなら、過去にも新しい主人公が来られたのに、その主人公を認識できなかったからです。今日もまた、天の御心を終わらせるための天の摂理が残っていると知っている限り、皆さんはこの時代の主人公が誰であるかを考えなければなりません。もし皆さん自身がその主人公になる自信がないならば、頭を下げ、その主人公を探そうとする決意と行動を取る事ができなければなりません。

   26

私達が求める最後の主人公は、この時代の主人公だけでなく、未来の主人公にもなり得る方です。だからこそ、今日、キリスト教思想の中で感謝すべき事は再臨主思想です。4千年の歴史を代わって歴史的な指導者として来られたイエス様、その時代を代わって来られたイエス様が未来の主人公として再び来られるのですから、そのイエス様は私達人類にとって必要な方なのです。人類は今や再び来られるイエス様を必要としています。再び来られるイエス様がそのような主人公として責任を負う事ができるからこそ、そのイエス様の名が人類に必要であり、今日、人類は再び来られる主に向かって進んでいるのです。これを誰も否定できません。否定できないのです。
では、終わりの日に直面している皆さんは、この時にどうすべきでしょうか? 皆さん自身がこの時代の主人公となり、未来の主人公となるべきです。そのための準備をしなければなりません。これが、天を見上げて進む者達が必ず憂慮しなければならない最後の問題であり、中心問題であるという事を忘れてはなりません。
もし皆さんがそのような事を解明できず、そのような理念を主張できないならば、皆さんは何らかの流れに巻き込まれてしまうでしょう。この巻き込まれる流れを阻止し、新しい何かを待ち望む自信がない限り、最終的な審判の場で後退しなければならない敗北の種族となってしまうという事を知っておかなければなりません。そうではありませんか?
今日の世界は再び変わらなければならない世界です。今まで世界がこのように変わってきたのですから、今日の時代は再び大きく変わらなければなりません。このような世界に生きている皆さんは、変わらずにいられるでしょうか? 変わる世界、変わる思想の中で変わらない自分でいなければならないのです。そのためにはどうすればよいのでしょうか? それを解決してくれるものが、宗教であり、真理であるはずです。
歴史は一つの目標に向かって変わらずに流れてきましたし、現在もそうであり、これからもそうでしょう。しかし、人々の心は変わっています。皆さんの心も一日の生活の中で何度も変わります。皆さんが主張する主義も、一生の間に何度も変わります。このような歪んだ人間であり、エデンで天を裏切った堕落した子孫であるという事を、私達は生活の中で感じなければなりません。

   27

これを止めてくれる宗教はないのか? これを止めてくれる指導者はないのか? これを止めてくれる責任者はいないのか? そのように胸を開いて宇宙の悲しみと哀れみを嘆き、叫ばなければならない時が来たのです。
歴史は時期ごと、あるいは世紀ごとに変わってきました。神の6,000年の摂理の歴史を振り返ってみると、そこには捧げ物の時代があり、律法の時代があり、信仰の時代がありました。また、旧約時代があり、新約時代があり、やがて成約時代が来る事を知っています。今、新しい理念の世界が来なければなりませんが、この世界が変わらなければ、その理念の世界は来ないのです。
ところが、今日、私達は一日にも千回、万回と変わりながらも、平然と眠っている歴史的な悲しみの果実である事を知らなければなりません。いくら自分の主義を高らかに誇ったとしても、自分自身を弁明したとしても、それは変わるべき誇りであり、変わるべき弁明です。
では、人も変わり、歴史も変わり、この地も変わるならば、これを収めることのできる心情的な態度はどのようなものでしょうか? それは「慎重にする」しかありません。慎重に見守るしかありません。こちらに来ても、心を痛めながら慎重にし、あちらに行っても心を痛めながら慎重にしなければならないのです。変わる時代を乗り越えるためには、新しい世界を恋い慕い、その世界を望み、変わるものを避け、慎重に進もうとする心を持たなければなりません。
過去の預言者達も、天に呼ばれるときは勇敢に現れました。天の前に呼ばれたときは勇敢に現れましたが、悪魔に送られたときは皆敗れました。そうではありませんか? 天に呼ばれたときは喜んで出発しましたが、天が呼ばれた目的を果たすために悪魔に向かって突き進んだときは、皆倒れてしまいました。このような敗北の足跡を持つ歴史がある事を、私達は知らなければなりません。

   28

では、今、私達は何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 死の権能の中にいる、何度も死んで当然の人間を探して来られる天の御苦労があるという事を、慎重に見守るべきです。天が死の権能の中にいる私達を探し出してくださるときは、世の中の何よりも貴いものを持って来てくださり、死の権能の中にいる私達を救ってくださるときは、心配する心と切なる心情を持って救ってくださる事を忘れてはなりません。お分かりですか? 天が私達を死の権能から奪い返すときには、天が持っているすべてを犠牲にする覚悟をして奪い返されるのです。
だからこそ、私達は探し出してくださったその御苦労を知るべきです。また、探し出してくださったその愛の心情を知るべきです。そして、探し出してくださったその闘いの道のりを知らなければなりません。本来、父と私は一つなのです。したがって、お父様の心が私の心であり、お父様の目的が私の目的ですから、行けとおっしゃるところに行かなければなりません。責任を果たそうという心情に染まって行かなければなりません。億千万の苦難の道があり、どのような十字架の壁があったとしても、それを越えられるという信念を持って進まなければなりません。このような信念とお父様の心情を基に、歴史のすべてを乗り越えて立とうと決意した人がいるならば、その人は必ず勝利する事でしょう。
皆さんの中にそのような燃え上がる心情があれば、変わる世界を蹴り飛ばす事ができます。摂理の御心、歴史的な闘いが終わる事を願うお父様の心情を掴んで進む事ができる心が、信仰者である皆さんの心の中から消えるならば、皆さんは歴史と共に変わってしまう人となるでしょう。
啓示録では、「初恋を失うな」と言われています。初恋は命を捧げても変わる事はありません。天が初めて与えてくださったものを、皆さんの一生の中で最も貴重なものとして大切にしなければなりません。それを、皆さんが持っているどんな価値よりも高く感じなければなりません。この恩賜は、世の中のどんなものと交換する事もできない恩賜であり、死が幾千万倍加重されても変わる事のない恩賜だと感じる人は、必ず神の心情の中にいる人であり、神の愛の中にいる人です。そういう人こそ、神の偉業を手にする事ができるでしょう。
だからこそ、私達は慎重に見守らなければなりません。では、何を慎重に見守るべきなのでしょうか? 天がいつ、私達に貴重で価値ある贈り物を与えてくださったのか? 歴史を振り返ってみると、私達の先祖たちが歴史的な贈り物であり、2千年前に来られたイエス様が人類の前に現れた愛の贈り物でした。この感謝すべき歴史を振り返り、泣き叫ぶその瞬間に、私達の心は天と通じ合う事ができ、その心情を基に天の再創造の歴史が始まる事を、私達は知っています。
   29
このような心情に燃える姿、この胸の高まりを抑える事のできるものは何もないという自信を持つ者だけが、歴史的な実践の道において最大の勝利者として登場する事ができるのです。
イエス様は、そのような方でした。神は歴史の道のりで何度も私達を探してくださり、私達のために犠牲を払われました。私達は、いくら報いても報いきれない恩恵を考えた事がありますか? 私達は、歴史的な裏切り者である事を認めなければなりません。天的な贈り物を持って歴史を摂理してこられた天の前に裏切り者である事を認め、罪人である事を嘆き、少なくとも悔い改めなければならない私達です。
統一教会の信徒である皆さんは、他の人々が行かない道を行くためにこの場に来ました。そのような皆さんに、私は問いたいです。何のために来たのですか? 一生のすべてを悪魔に奪われるとしても、先祖に代わって感謝する事のできる心を持たなければなりません。現実のすべてを犠牲にする事になっても、死の場に出ていく事になっても、「私を守ってくださり、私の事を心配してくださる天の恩賜だけは忘れません」と言える心、そのような不変の心情を持たなければ、統一の理念を成し遂げるその日まで残る私達とはなれないのです。
このような心情が皆さんの胸に芽生えないならば、このような理念の世界に対する感情が皆さんの心の中で動かないならば、皆さんはどうなるのでしょうか? 彷徨い、彷徨い、彷徨った挙句、最後の瞬間には自分自身を弁明する事もできずに、死の落とし穴に落ちてしまうでしょう。このような事を知らない人がいるならば、目を閉じ、耳をふさぎ、口を閉じ、鼻をふさいでも、もう一度よく考えてみる心が必要です。立派な信仰者の態度は、人との関係においても同様に、慎重に見守る態度です。このように見守る心、慎重な心がなければなりません。このような心を持たない人は無責任な人です。
歴史は責任者を求めています。では、どのような責任者を求めているのでしょうか? それは、歴史的であり、時代的であり、未来的な責任者を求めています。そのような責任者を求めています。過去の聖人たちや歴史的な私達の先祖たちは、皆その時代に歴史的な責任を訴えた方々です。だからこそ、歴史の終わりである今日まで、その方々の言葉は私達の心を打ち続けているのです。また、その方々の行動は私達の心情を動かし、その方々の生涯は私達の生涯に方向を示してくれているのです。これを否定する事はできません。
   30
さて、皆さんは、一言話すにしても、聞くにしても、見るにしても、感じるにしても、慎重に見守り、注意しなければなりません。皆さんは歴史的な責任を果たすために、どれほど努力しましたか? 困難も気にせず、憤りも気にせず、追い詰められたり、追い立てられたりすることも気にせず、飢えも気にせず、死も恐れずに、歴史的な責任を果たすために自分のすべてを投げ出してみましたか? どれだけ慎重な心を持ちましたか?
もしかしたら、自分の環境に自分を引き寄せようとする摂理的な天倫の手が伸びているのではないかと、慎重に見守りながら、責任感に燃える心、それを見つけたいという心が自分の中に渦巻き、今までの自分の立場を否定して新しい考えを持つ時間を、皆さんはどれだけ持ちましたか? 持っていなければ、皆さんは顔を上げられないと感じるべきです。
エデンの園には、まず創られた天使長がいました。しかし、新たにアダムとエバが現れると、すでに環境を支配していた天使長は攻撃者になりました。攻撃者です。これが歴史の出発点でした。慣習的な歴史、あるいは伝統的な歴史を主張する人間たちは、いつも神が進まれる道に反対しました。どの時代においても協力しませんでした。なぜなら、祖先がそうだったから、子孫もそうだという事です。歴史の中で追い詰められた者達が、戦いながら歴史を動かしてきたのです。
天に仕えていたノアもまた同じでした。当時の社会の伝統を主張する者達の前では、彼は狂人にしか見えませんでした。狂人、いい加減な者、愚か者にしか見えなかったのです。アブラハムもまた同じでした。百歳にして天から祝福されて生まれた一人息子イサクを殺そうとしました。モーセもまた同じでした。このように、御心を抱いて進んだ者達を謀り、裏切り、追い出そうと扇動したのは誰だったのでしょうか? 歴史的な伝統を固守する者達でした。天があるならば、そのような者達は裁かれなければなりません。
今までの歴史的なものに対する未練を一度に断ち切り、過去の古い服を脱ぎ捨て、新しい園で新しい朝を迎え、白い衣をまとい、新しい希望を持って現れることが、復帰の理念なのです。
   31
このような歴史過程を経てきた堕落した人間であるがゆえに、新しい学説が現れると、それを打ちました。新しい何かを主張すれば、それを殴りました。しかし、家庭的に殴られれば、それは家庭的な使命を代行した事になり、民族的に殴られれば、それは民族的な使命を代行した事になり、国家的に殴られれば、それは国家的な使命を代行した事になるのです。そして、その時代の国家の民衆から殴られれば、それはその時代と国家と民衆の理念的な使命を代行した事になるのです。
歴史は進み、今日に至っては、民主主義と共産主義が対立しています。ですから、将来的には必ず攻撃戦、あるいは防御戦、すなわち激しい闘いが繰り広げられるでしょう。これが歴史全体の終結点となり、これで全ての問題が解決されるのであれば別ですが、そうならない場合には、ここに新しい何かが現れなければなりません。その新しいものはどのようなものになるのでしょうか? 宗教を掲げて出てくれば宗教者達に殴られるでしょうし、何らかの責任を掲げて出てくれば社会環境で拒絶されるでしょう。何らかの理念を掲げて出てくれば、世界の主義から拒絶されるでしょう。最後には、民主主義からも共産主義からも拒絶されるでしょう。
今日、この世界はそのような過程を経ていかなければならない堕落世界であるゆえに、拒絶され、追い詰められながらも、それに屈しない何かが現れなければ、この世界は新しい世界に進むことはできません。私達はその何かが必ず現れる事を知っています。また、私達はその理念を紹介するために話しているのです。その目的を成し遂げるために、私達は迫害を恐れず、今日も明日も進むために集まっているのです。
ここで、皆さんはどのような決意をしなければならないのでしょうか? それは歴史的な決意ではありません。時代的な決意でもありません。一瞬の決意でもありません。それは、天宙的な決意、天宙的な決意です。宇宙を支配する天は、必ずそのような決意を持つ群れを集めるでしょう。宇宙の理念に燃える抱負を持ち、追い詰められる群れに加わる勇者達がいて、時代に打ち負かされる事なく残るとすれば、彼らは後の歴史を動かす事ができるでしょう。
今日まで宗教は提唱してきました。イエス様は「億兆蒼生(おくちょうそうせい)を救おう」と仰いました。善の理念圏内へ人類を導き、一つの目的世界を紹介するために提唱されたのです。
   32
これから新しい宗教理念が出てくるとすれば、それは地上の人類だけでなく、これまでに来て去った数多くの預言者や先祖、そして御心を裏切って地獄に行った霊人たちまでを救わなければならないでしょう。新しい理念を備えた主義であるなら、そのような宗教であるなら、地上の億兆蒼生を救うのはもちろんのこと、天上にいる霊人たちや地獄にいる数多くの罪人たち、さらには天を裏切った悪魔までを救わなければならないでしょう。
そのような宗教が必ず出てこなければなりません。そのような宗教の理念が出てきて、すべての宗教を統一し、すべての宗教人の心に火を投げ込み、平和と喜びを感じられない人々の心に平和と喜びを与え、新しい理念圏内に突き進む決意と誓いを立てさせる必要があります。この地上にそのような決意、そのような誓いをさせる事のできる新しい運動が出てこなければならないのです。
皆さんはそのような事を考えた事がありますか? 探し求めた事がありますか? 想像でもしてみた事がありますか? その理念の目的はすべてを統一する事です。地上も統一し、霊界があるなら霊界も統一し、恨みに満ちている地獄までをも解放する事です。直接できなくても、理念を備えた宗教が出てこなければなりません。そのような理念を備えた宗教が出てくれば、私達が憧れる世界、すなわち善の世界と悪の世界が関係を結ぶ事ができるのです。
現代を終末と言う皆さんは何を探し求めているのでしょうか? 皆さんの生命問題に関わる理念は、極めて小さな一言から、一つの手の動きから、一つの足跡から、一つの象徴的な示唆から皆さんに接触してくるのです。これを今日の人間たちはすべて忘れています。
このような観点から世界を見渡すとき、敵はいません。悪とぶつかるとしても、悪が私の進む道を急がせるものになるのです。また、善も私を急かすものとなるのです。このような見地から、私達は何かを探し、慎重に見守る生活を送らなければならないでしょう。
   33
今日も明日も天に対する希望を持たなければならず、罪悪の現実、絡み合っている世の中に対する未練を断ち切り、動く事のできる心の衝撃を受けなければなりません。その衝撃が一日、一年、さらに一生にわたって続くかどうかによって、皆さんが憧れるその目的地に到達できるかどうかが決まるのです。
そのような衝撃がなければ、言葉では表せないほど焦燥感を抱く事になるでしょう。今日のこの時代は、自分でも知らないうちに心が焦燥し、恐怖の雰囲気に巻き込まれる事を感じ取る事ができる時代です。わずかでも良心のある人なら、何かしら分からない不安と焦燥感の中に自分が追い込まれている感触を感じるでしょう。多くの青年男女がこのような事を感じたとしても、その焦燥感を解決し、恐怖を克服できる何かが芽生えれば、それによって人間の希望の基盤を支配していた恐怖と焦燥が退き、良心的なものが動く事のできる世界が現れるでしょう。したがって、今、焦燥と恐怖心を超えて慎重にそれを探す心が、皆さんの歩みを急かし、皆さんの体を引っ張っていくならば、今でも決して遅くはありません。なぜなら、最終的な統合点は、物質的な理念や人間的な理念が見つけてくれるものではなく、私の心に爆発的に湧き上がってくる切なる心情だからです。最後に残る理念の一箇所に向かって動いていくのは心情です。心情が最終的に私のすべてを決定してくれるのです。
この心情だけを握りしめて慎重に探し求める者が、伝えられる言葉を聞く事ができ、見せられる幻を見る事ができ、生活におけるすべての実情を分析する事ができるのです。自分に与えられた責任を感じ、焦燥した心情と不安な心を抑えながら新しい理念を探し、動く青年男女がいて、彼らの叫ぶ声が聞こえるようなそのような心情の動きがあるならば、皆さんは彼らの心情を通して、歴史的なすべてのもの、長い間感じてきたすべてのものを一度に感じ取ることができるでしょう。
その心情を感じ、自分を覚醒して「天が探していた理念の主体はこれだったのか! 世界が探していた真の姿はこれだったのか! 天地の前に立って誇ることのできる姿はこれだったのか!」と無意識に叫ぶ瞬間を持つ者こそが、歴史的な主人公であり、摂理的な主人公であり、天倫的な主人公であるという事を、皆さんは知っておかなければなりません。
今日の皆さんは、自分が一人で生きる事のできない存在である事を否定できないでしょう。関係と縁の世界において責任を果たし、実績を残さなければならない人生の道を歩んでいる私達である事を否定できないでしょう。
   34
責任を果たし、実績を残せばどうなるのでしょうか? 自分を誇る事ができ、本来の人間を代弁する勝者の姿が私だったのかという覚醒が生まれるでしょう。その瞬間に、世界は皆さんのものとなり、この宇宙も皆さんのものとなるでしょう。また、今日まで摂理を進めてこられた神も皆さんの神となり、皆さんはその神の偉業を相続できる直系の子供となる事ができるのです。
これを探し求めるにおいて最も重要な事は何かというと、それは慎重に見守ることです。そのようにしているうちに、このような事が成し遂げられ、見つけられるという事を皆さんは心に留めておいて下さい。


<祈り>
変貌山で激しい戦いをしていたイエスの心は、悲しみに沈んでいました。しかし、ペテロ、ヤコブ、ヨハネは「先生、ここにいることが良いので、私達はここに幕屋を三つ作りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために作ります」と言った弟子たちの心情を、私達は感ずる事ができます。
地上で理念の痕跡も感じ取れず、理念の世界の実状も知らなかった無知で愚かな彼らは、全天宙を主観し、包み込む事ができる理念的な環境が広がっているその場で、そのような言葉を口にする者がいなかったでしょうか。確かに彼らが思い描いていたその一場面、生きたいと願っていたその一場面である事は心で知っていましたが、現実的な過程を経て初めて実現するという事を、その時のペテロ、ヤコブ、ヨハネは知らなかったのです。
今日の世界に散らばっているキリスト教徒たちも同じように、心では天国を待ち望み、憧れていますが、天国を探すには戦いの道が残されているという事を忘れています。このようなキリスト教徒たちを覚醒させなければならない責任が私達にあるのです。
   35
特に終末の今日、歴史も変わり、信仰も変わり、人の心も変わり、伝統も変わり、主義も変わり、愛の心情さえも、これがなければ死ぬと言っていた心情さえも変わりつつあるこの時、変わらない理念、変わらない姿、変わろうとしても変われない存在、それ、それを持つ楽園、その世界、その主権、その指導者、その声、その生活、その環境慕っております。
お父様、塞がっていた胸を開いて下さい。今日の私が、このように焦燥し、このように狭い自分自身である事を知りました。今日の自分を乗り越えて、明日の自分を追い求める事に急がなければならない私が慕わしいのです。
統一教会の信者達が進む道に迫害があるとしても、その迫害を私が行く道を妨げる悪の要素として受け止めるのではなく、私を天の心情にもっと近づけるための刺激的な作用として利用することができる信徒たちとなる事をお許し下さい。その迫害は迫害ではなく、心情を結びつけるためのお父様の歴史である事を悟らせて下さい。
お父様の前で手を合わせ、頭を下げ、天上の法則は歴史の道と矛盾しないと言える場において、勝利の歓喜をお父様に捧げることで、お父様が「まさしく私の子だ」と言っていただける姿となる事をお許し下さい。お父様が喜ばれるとき、共に喜ぶ事ができ、私が喜ぶとき、悪魔さえも恥ずかしい顔で笑わざるを得ない心情を引き起こす事のできる子供たちの姿を、天は求めている事を知りました。そのような私を探し求める世界のキリスト教徒たちが出てくる事をお許し下さい。そして、そのような私を急がせる先頭に立つ統一教会の信徒たちとなる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
私達が願っていたものはあまりにも小さかったのです。私達が大切にしていたもの、それで終わりだと思っていましたが、それを超えて無限の愛と無限の恩寵がある事を知りました。
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お父様の恩寵の前に道を閉ざしていた自分自身であった事を嘆く心が、今この時、一人一人の信徒たちに湧き上がらせて下さい。今や心情の刺激を受け、使命感に燃えて「来なさい」と呼ばれたときに喜んで来て、「行け」と言われたときに喜んで行ける人々となる事をお許し下さい。呼ばれる声に感謝したならば、命じられる声にも感謝し、敵陣を向かって突き進む事のできる天の勇者達となり、天の世界の主人となる事をお許し下さい。ここには、矢に当たって倒れる者がいる事を知っています。そんな場においても、敗北して後退する者達にはならないように導いてくださる事を心から願い、求めます。
幸福に浸り、父と相談する瞬間がある一方で、戦場で血の涙を流し、天の恨みを訴えながら倒れる瞬間が、この息子娘たちにある事を悟らせて下さい。
喜びも責任を負い、悲しみも責任を負い、戦いも責任を負い、無念さも責任を負い、終末の審判の場に立ち、歴史の全てを拒絶し、「お父様、どうか手を挙げて私達を祝福して下さい。お父様、私を見て怒りを抑えて下さい。お父様、私を見て苦しみと無念を耐えて下さい。お父様、私を見て苦労を収めて下さい」と言えるようにして下さい。このような息子娘たちが現れる事を願い、6千年も慎重に探してこられたのです。お父様、恐れ多くも痛ましい事です。探されるその視線、探されるその姿、慎重なその足跡を、私達は忘れておりました。
今日、聞きました。そして、この時間に知りました。慎重に探せと言われた事を知りました。慎重に探してこられたお父様、私達を掴もうとしたその手を、何度も裏切ってきた私達が、お父様の体面を忘れていた自分自身である事を知りました。
今や、私達がお父様の前に立ち、父と縁を持つ生活をし、お父様に代わって慎重に進むべき道を歩めるようにして下さい。この道をすべて歩んだ後、この道を知らない他の人々に慎重に進むべき方向を教えるべき私達である事を、どうかお許し下さい。そのような天的な命令を受けた私達が、ここで悲しみの涙を流して後退する者達にはならないようにお許し下さい。
   37
裏切る者達を愛し、裏切る者達を祝福しようとされたお父様の心情が、怒りとして残っている事を知っています。今、終末においてエリヤが祈っていた以上の祈りをお父様に捧げ、その現れた一人の悲しみを慰める者がいない事を知り、その悲しい条件を乗り越え、その方を励ます事のできる切なる心を持つようにさせて下さい。お父様、心から願い求めます。
探し求める足取りが疲れ果てて倒れ、慎重に探し求める歩みが疲れ果てて倒れるたびに、お父様が「私がいる、私の行く道に来なさい」とおっしゃったその時が恋しいです。お父様は人間を信じて働くことができなかった事を知り、人間と相談すると天の業が遅れに遅れていた事を思い出さずにはいられません。
今日、この時は、多くの群れが必要でない事を知っています。この時は、乗り越えていかなければならない時であり、この時は、清算して進まなければならない時であり、この時は、すべてを結びつけて超えていかなければならない時であり、この時は、ありのままに現れなければならない時です。この道は不平を抱く者が進める道ではなく、自らを弁明する者が進める道でもなく、自らを誇示する者が後退する道である事を知りました。この道は、イエス様が血を流して進んだ十字架の道、延長されたゴルゴタの道である事を知りました。自分を弁明する事を知りながらも弁明せず、誇りたい気持ちを持ちながらも誇らず、怒りを感じながらも踏みにじられながら進むべき道である事を知りました。6千年の摂理の道を歩んだ天の聖徒たちを思い出すとき、本当に胸が痛みます。
しかし、それ以上に、お父様の心情がもっと苦しいという事を知ったとき、悔い改めなければならない私達なのです。これは悲しみの中の悲しみであり、言葉にできないほど後悔しなければならない事情だと知っています。私達のすべての願いがお父様のものであり、私達のすべてがお父様の所有であり、私達の心情と愛の中心が父であるのに、その事を感じる事のできない者がいるならば、その者は哀れな者である事を知っています。
イエス様も、十字架で血を流しながらも、そのようなお父様を知り、しっかりと掴んでいたので、死も恐れないとおっしゃいました。むしろ、敵に対して祝福を祈る、その堂々とした、余裕のある人格が恋しいです。その歩みが恋しいです。今日も、明日も、歴史の変化と生活の変化、自らの変化を笑い飛ばせる勝利の王子はどこにいるのでしょうか? お父様、慕わしいです、慕わしいです。
   38
歴史的な主人公、時代的な主人公、未来的な主人公が分かれてしまうのではなく、一つの実体として現れ、あなたの心情を人間に伝えることのできるその時、その世界、その楽園が慕わしいのです。お父様を「父」と呼べる群れが出てこなければならず、教団が出てこなければなりません。
すべてを忘れてそれを探し求める準備をし、誠心誠意を尽くして責任を果たすことができるようにお許し下さい。すべてを蕩減し、お父様の前に立つために、どんな犠牲も恐れずに駆け出す事ができる息子娘達となる事をお許し下さい。お父様、心から願い求めます。
お父様、この三千万の民族をどうするのでしょうか。この地に散らばっている27億の人類をどうするのでしょうか。民族の運命を憂慮せずにはおられませんし、人類の終末が悲劇的な黒幕に覆われている事を見るとき、悲しみを感じずにはいられません。
感じずにはいられないお父様の歴史的な悲しみの心情を知るがゆえに、無知な人々の前にこの心を伝えることによって、この心を呼び起こさなければならないので、このように言葉を発しました。お許し下さい。愚かな人々に、不忠の座を避けさせるために、このような切なる悲しみの心情を伝えております。お許し下さい。この祈りをお受け入れ下さい。愛するお父様、心から願い求めます。
十字架で亡くなられたイエス様の悲しみが、歴史的な悲しみである事を知っております。カルバリの丘で血の涙を流されたイエス様が慕わしいです。今、その代理者として、お父様の実体として歴史を笑い、歴史を叱責する事のできる一つの姿が現れる事を、人類は待ち望んでおります。天も待ち望んでいる事を知っております。そのような存在が慕わしく、今日も明日も探し求める息子娘たちとなるようにして下さい。心から願い、求めます。

   39

進むべき道をすべて進み終えず、悲しむ者達にならないようにお許し下さい。進むべき道をすべて進み終えた後も、さらに進みたいと願い、進むべき道をすべて進み終えた後に見つけられる喜びを胸に抱くために、懸命に努力する群れとなるようにして下さい。そうしてこそ、驚くべき大きな摂理の御心の前に一つの礎となるのだという事を、私達は学び知りました。今日も明日も、この御心のために動員される事をお許し下さい。
今日の世界も、この御心のために、私達の後世もこの御心のために動員される運命にある事を知っております。命じてくださり、導いて下さい。私達は進んでまいります。
お父様! 私達が訴えたいすべての心情をご存知であり、祈る事を成し遂げてくださる事を心からお願い申し上げます。残された険しい道もお守り下さい。
主の御名においてお祈り申し上げます。アーメン。 

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御言葉選集6(1,2)

2024年09月15日 19時31分18秒 | 学習
アハブ王が天を裏切り、イスラエル民族を弄んだと言っても、それは民族的なものでした。しかし、今日では世界的に人々が物質を偶像化し、その文明の奴隷となり、自分の生命の中心がどこにあるのか、自分の進む方向や位置がどこなのかを知らず、天を求めることができずにもがいています。このような者は、かつてアハブ王に囚われた者たちと同じです。


今日、私たちの前には世界的な神の審判が残っています。アハブ王とイスラエル民族の前に審判があったように、終末にある私たちの前にも偶像の束を打破すべき審判の日があることを私たちは知っています。このような時、天はエリヤを迎えた以上の悲しい心情で今日の皆さんを迎えていることを夢でも考えたことがありますか?ないとするなら、反省しなければなりません。


アハブ王を中心としたイスラエル民族が死んでも聖殿であり、生きても聖殿であるという心で天を迎え、天の伝統を継承し、天の血族を築くために努力すべきでしたが、そうしなかったために、アハブ王を中心としたイスラエル民族は血の戦いで終わってしまったことを私たちは知っています。このような歴史的な実情は、時代的な実情として今日に再現されています。


世界も世界ですが、私たちはこの時代を見つめ、私たちの民族を理解するべきです。私たちは大韓の子供たちです。先祖から血と肉を受け継いだ大韓の血族です。私たちは国のため、民族のため、民族の未来に光明の朝を迎えさせるために、民族精神を鼓舞するために血を流し涙を流した忠臣たちが多くいたことを理解しなければなりません。どの民族の歴史にもない悲しみと悲劇の惨状を経てきた民族であり、そのたびに多くの忠臣烈士たちが血の道を歩んできた歴史を持つ民族であることを知っておかなければなりません。


このような歴史的な伝統を継承し、人倫的なものよりも天倫的なものを持ち、アハブ王時代の偶像のようなこの世界の文明を押しのけて、天が君臨できる新しいエルサレム聖殿を建設する者は誰かを心配する時が来ました。


今、私たちは心を広げなければなりません。自分の悲しみよりも民族を抱きしめて悲しみ、さらに世界の人類を抱きしめて悲しみ、さらに神と天地のために悲しむことができる者にならなければなりません。


堕落権内で嘆き悲しんでいる民族を抱きしめて、天の代わりに泣ける心情を持つ主人公はどこに現れるのでしょうか?もしこの地に万王の王である主が降臨するとすれば、間違いなく世界的な理念を持って来ることでしょうし、世界的な指導者として人類と心的な縁を結ぶために来ることでしょう。


しかし、今日、皆さんがそのようなことを考えないなら、主は皆さんとどのような関係も結べません。そのような理念を持って統治される主が来ても、そのような理念の世界を夢見たり考えたりしなければ、その世界と何の縁も結ぶことができません。思考し、心配し、空想することさえしないといけない状況に皆さんは置かれています。


皆さんは個人を心配したことがありますか?苦しんでいる家庭を心配したことがありますか?どのような社会や国家を心配したことがありますか?そうできなかった自分を見つけたなら、宇宙歴史の前に罪人である自分の正体を暴露し、天の前で悔い改める心を持つべきです。


皆さんにそのような心すらないなら、この民族はどうなるのでしょうか?5000年の歴史を誇る韓民族ですが、神の摂理の歴史を経て苦難の歴史を経て残された民族ですが、そのようなものがなければ、世界史、あるいは世界文明権内で、あるいは神の摂理権内で何をもって貢献できるのでしょうか?


私たちが誇るべきものを持っていたとしても、それが天と天的な縁を結ばなければ、むしろ天に悲しみを増すだけであることを私たちは理解しなければなりません。


歴史は流れ、流れ込む群れたちが主役でした。歴史を支配してきた主義はそのような群れによって作られました。高台の広い部屋で贅沢に暮らし、盛大なご馳走を楽しんでいた人々がどのような主義を作ってきたわけではありません。流れ込む席、踏まれる席、哀れな席にいる者たちが作り出したのです。彼らは足を踏み出すとき、涙の足取りを運んだ者たちです。


民族が腐敗し、世界が混乱するとき、世界を抱きしめて天の代わりに涙を流す群れは世界的なエリヤの後継者たちです。そのような群れはエリヤが心配していたイスラエルの民に代わって天の前に立つことができるでしょう。「エリヤはエリヤ、私は私」と言っていたら失敗します。天が泣き、天が悲しまれるときに、共に泣き、共に悲しむことができる私たちでなければなりません。


天は単なる言葉だけの存在ではありません。言葉と実体と心情と愛の神です。しかし、私たちは言葉さえも知らない者となっています。体が何かもわからず、自分の心情がどんなものかも理解していません。天が主張する天の愛がどんなものかも知らない私たちです。


皆さん!神の愛が何であるか説明できますか?心情がどんなものであるか説明できますか?自分自身がどんな存在であるか説明できますか?自分が言う言葉がどんな意味を持つか説明できるものを持っていますか?持っていません。ありません。


今日、人々は自分の優れた点を自慢します。しかし、それを自慢しても、何世紀も続けて自慢できるのでしょうか。過去のどの時代で自慢された名前は何世紀も続きました。それゆえ、人間が唯一自慢できることがあるとすれば、それは他の人が進むことのできない道を進むことです。そのような民族は滅びないでしょう。


これまで全ての民族が共通して進んできた道を進んだ人が民族を救い、世界を救ったわけではなく、他の人が進むことのできない道を進んだ人々が民族を救い、世界を救ってきたのです。キリスト教が歩んできた道もそのようなものです。今日の世界のキリスト教は嘆くべき時です。神を信じ、イエスの十字架の死を知り、イエスの後に聖霊が送られて2000年間努力してきた歴史を知っているとしても、現実のキリスト教を見て安らかな眠りを得ることはできないでしょう。


イエスの時代のユダヤ教徒たちは、この時代の教会よりも教会に行くことを楽しんでいました。この時代の教会よりも儀式や形式が整っていました。言葉がなかったわけではなく、歴史がなかったわけではなく、自慢する条件がなかったわけではありません。それなのに、なぜそのようなユダヤ教を天の前で自慢できなかったのでしょうか?それは彼らが天の新しい摂理を知らなかったからです。


それゆえ、イエスは今日のキリスト教徒たちが自分の死を思い起こし、「イエスの心情が私の心情であり、ゴルゴタの山で釘付けにされたイエスの体が私の体である」と考え、自分のために涙を流すことを望んでいます。そのような友を待ち望んでいます。また、死ぬときに言えなかった心の奥底で心から慕っていた花嫁を待ち望んでいます。その花嫁と出会う日には心を開いて彼の全生涯を語り、6000年間歴史を築いてきた神の内なる心情の悲しみを語ることができるでしょう。その内容は聖書の言葉とは異なるでしょう。


もしイエスの悲しみと神の悲しみがあなたの愛する子供たちの前にあったとしたら、どうしますか?あなたの愛する親の前にあったとしたら、どうしますか?


時は次第に終末の解決点に向かっています。歴史も流れ、宗教も流れ、主義も流れています。このような問題を解決しようとすると、ここでも戦いがあり、そこでも戦いがあり、ここで嘆き、そこでも嘆きが続いています。


この混乱の時期に、信じられないほどに信じられず、制御できない時期に、エリヤが現れて新しい心情を吐露したように、歴史で見つけることができなかった天の心情を吐露する新しい声は存在するのでしょうか?皆さんはそのような考えをしなければなりません。


主義と思想は今日、皆さんを刻々と刺激しています。しかも、この時期は妙な時です。歴史に対する恐怖が皆さんを追い立てており、その恐怖と戦って個人的に勝利の歌を歌う者は誰でしょうか?いません。


それでは、この歴史はどこへ行くのでしょうか?死が近づいている中で、新しい希望と新しい解放を叫ぶ声はどこから生まれるのでしょうか?早く現れなければなりませんが、これが問題です。


今、皆さんが想像できなかった新しいものが出てこなければなりません。皆さんが想像もせず、夢にも思わなかったものが出てこなければなりません。


この時代は宗教の戦いを経ている時代です。これからは民族の戦い、国家の戦い、世界の戦い、主義の戦い、宗教の戦いがすべて過ぎ去るでしょう。心の戦いが残るでしょう。それゆえ、皆さんの心が皆さんが知らない何かに巻き込まれても、それを勝ち取ることができるようにしなければなりません。そのような時が来ました。


この世界には多くの人が住んでいますが、神との縦の関係を中心に見ると、皆さんとは全く関係がありません。3000万の民族が皆さんと切っても切れない関係で結ばれていると思っても、神との縦の関係を中心に見れば、全く関係がありません。


カルメル山の頂上でエリヤが「神よ、私だけが残ったのです」と叫んでいたその叫びは、エリヤの叫びだけであってはなりません。今日の終末に審判を受ける群れの叫びでもなければなりません。


皆さん、そのような立場に置かれていませんか?皆さんの命を誰が保証してくれますか?親も愛する配偶者も子どもも国家も主義も保証してくれません。皆さん、自分自身をどう考えますか?果てしない渦に巻き込まれて自分の正体を説明できない空しい自分を自慢しないでください。


今日、世界の人類はカルメル山で戦っていたエリヤの闘争の歴史を経なければなりません。天に向かって「私だけが残ったのです」と訴えるエリヤのように、天に向かって訴えることを学ばなければなりません。自分も知らない歴史の道を経て歴史の終点に立っている自分たちを救う主義がないことを理解したなら、天に向かって頭を高く上げなければなりません。頭を高く上げて、心が向かうところ、心を解放してくれるところ、それを望むべきです。このような欲望に心をこめなければなりませんし、私たちの中に命が活気を帯びるべきです。そして、私たちがしなければならない残されたことがあることを認識しなければなりません。


今日、イエスがゴルゴタの山で天の代わりに「すべてが成し遂げられた」と言ったように、そのような言葉を言える者がいますか?「天よ、私だけが残ったのです」と言える者でなければなりません。そのような時が皆さんに迫っています。


審判の一日を契機に新しい歴史を始めようとする摂理の意志が皆さんの前に残されている限り、皆さんは「私だけが残ったのです」と言うことができるべきです。なぜなら、なぜなら、なぜなら。


今日、私たちはどの宗教も信じられず、どの主義も信じられず、どの家庭、親戚、師も信じられず、どの道も信じられません。私たちはそのようにどれも信じることができない立場に置かれています。


皆さんは天に向かって「私だけが残ったのです」と言わざるを得ない立場に置かれています。このような立場で取るべき態度は、天に向かって「私だけが残ったのです」と叫ぶことです。皆さんは心からこのように叫ばなければなりません。


今、皆さん各自が闘争の過程を経なければなりません。成し遂げなければならない天的な意志があり、探さなければならない民族があり、区別しなければならない教団があります。それを知り、天の側に立つ者たちは意志のために動員されなければなりません。

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御言葉選集6(1)

2024年09月15日 19時22分42秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 1. エリヤに対する天の心情 (1959年3月15日)
1959年3月15日(日)、全本部教会(青坡洞 1街)
聖書拝読:列王記上 19:1-21


<祈祷(I)>

今日、あなたが許してくださった日を迎え、不足な自分たちを心配しながらひざまずき、あなたの御前に集まりましたので、私たちの心がどこにあるのかを洞察することができるようお許しください。

お父様が命の道を切り開いてこられた道は、極めて厳粛な道であり、極めて聖別された道であったことを私たちは知っております。

お父様、この場所に集まったあなたの息子娘たちを憐れんでください。ここに尊厳なるお父様の姿を示してください。そして、許された勝利の基準を立て、聖別された群れと認めてくださるよう、切に願い、求めます。

残された摂理の道が悲しみの道であるなら、その悲しみを防ぐ責任が私たちにあることを知っています。そして、天の無限の悲しみを感じることができない者は、その悲しみを責任を持って背負うことができないということも知っています。残された天の悲しみと戦いを責任をもって担うことが求められていることを知っていますので、どうか私たちが天の悲しみと戦いを担う者となることを許してください。

このことを果たすためには、誰よりも大きな悲しみを感じなければならないことを知っており、誰よりも不当な立場の戦場でも脱落者にならないことが求められていることを知っています。

お父様、私たちの体が天の前に捧げられる勝利のいけにえとなるかどうか、心配する気持ちを持ちながらこの時間に参加している群れであることをお許しください。切に願い求めます。

イエス様が来られた後、2千年の歴史が過ぎ去りましたが、イエス様がカルバリの山で積み上げられた、天が共に泣かれた真の勝利の祭壇はこの地に現れていません。天が動かざるを得ない、地上の人々が動かざるを得ない、天と地が交わる世界的なゴルゴダの山が現れなければならない時が来ており、ゲッセマネの山が現れなければならない時が来ていることを知っています。この責任を果たす多くの聖徒が必要です。しかし、天が喜んで探し出してくださる群れがいないことを知れば知るほど、お父様の心情を憂う息子娘たちはこの地を見て嘆かざるを得ない現実を私たちは知っています。

お父様! あなたの願いの一日を待ち望むお父様の切なる心が大きければ大きいほど、お父様のために忠誠を尽くす一つの姿がこの地に現れることを待ち望む心情も大きいことを、許し理解させてください。

今日、私たちの心と体をすべて捧げて、お父様の手に取り込まれ、お父様の心中に立てられる息子娘となり、歴史のすべての悲しみを担う姿となることをお許しください。

お父様が直接働かれるその働きを通して、私たちの心と体が新たに復活するこの時間がなければならないことを知っております。過去一週間、私たちに委ねられた責任を果たせなかったことをお許しください。お父様の前に忠誠を尽くせなかったことをお許しください。お父様の心情を掴んで涙ながらの生活を送れなかったことをお許しください。私たち個々を探し出すために、あなたが労を惜しまず歩んでくださった事実を忘れたことをお許しください。

今日この時間、新たな決意と新たな決心をし、各々過去のすべての不足を認識し、お父様の心情を中心に自らの心を掴んで進む息子娘となることをお許し下さる様に、求めます。

お父様、この日は聖なる日であるので、困難な状況にある三千万人の民を憐れんでください。彼らの友となってください。彼らの指導者となってください。彼らの命を復活させる主となってください、お父様、切に願い求めます。

お父様、彼らの希望の中心となってください。彼らがあなたから離れては動けない群れとなることを許してください。彼らがあなたのもとで一つの民族となり、一つの教団となることを許してください、お父様、切に願い、求めます。

この民族に許される祝福を、この時間を通して授けてくださることを切に願い、求めます。勝利の日を担うあなたの息子娘たちが、その使命と責任を果たすことができるよう許してください。この使命を成し遂げ、あなたの栄光を現さなければならない責任が、この民族にあることを私たちは知っています。その責任を果たす過程には無限の試練があることを知っていますので、その試練の道でも責任を全うし、あなたに代わって立ち上がることのできる息子娘たちとなることを許してください、お父様、切に願い求めます。

この使命を知らない多くの人類にも祝福を与えてください。生死の波に飲み込まれていくこの時に、お父様、あなたにしっかりと縋りつき、あなたの息子娘となる群れが、この人類の中から多く現れることをお許しください。

人類を裁きの鞭から救う全体の責任を果たし、お父様の御前に立つことのできる息子娘たちが、この地上の人類の中から多く現れることを許してください、お父様、切に願い求めます。

このような使命を、このような時期を、このような責任を知らない者たちがいるならば、私たちを通して警告し、彼らが終わりの日の責任と使命を果たすことができるように導いてください、お父様、切に願い求めます。

今日、この日を祝福してください。地方に広がり、孤独な心情を抱えながら、お父様の御前に訴えている者たちの上に、あなたの恩賜の手を一律に伸ばしてください。そして、許された勝利の日を取り戻すための戦いの中で、倒れる者が出ないように、彼らをしっかりと守ってください、お父様、切に願い求めます。

この時間、始めから終わりまで、お父様、直接ご指導ください。そして、闇の力が働く時間とならないようにお許しください、切に願い求めます。

すべてをお父様の御前に捧げますので、どうかお受け取りください。主の御名により祈りました。アーメン。


<祈祷(Ⅱ)>

この地上で多くの人々が、目的のために苦労し、血涙の戦いを重ねてきたことを私たちは知っています。今日、私たちはその血の実を結ばなければならないことを理解し、残された摂理の基盤の上に勝利の旗を立てなければならないことも知っています。

今日のこの一時間、私たちが自分自身のものだと考える者とならないようにしてください。私たちの心も、私たちの生命も、私たちの欲望も私たちのものではないので、私たち自身を基準にして天を相対することがないように許してください。私たちは父から始まった者なので、お父様のものだけで動くこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。

私たちの心も体も、また私たちの主張もお父様のものでなければならないことを知っており、お父様のものでないものは許さないでください。私たちの心と体にお父様が望まない悪の要素があれば取り除き、お父様のものでない主張も取り除いて、お父様のものでのみ動けるこの一時間となるように許してください、お父様、切に願い求めます。

地上にいくら優れた者があっても、誰が天に対して立つことができるでしょうか? どんな言い訳の条件を持っても、お父様の前に立てる者はいないという事実を思うと、私たちは心から悔い改めなければならず、罪の歴史に浸った私たち自身が、歴史的な罪の上で悪魔の供物となったことを自覚すべき時であると知っています。

お父様、私たちの心が私たちのものでなく、私たちの体が私たちのものでないと知っているのに、悪魔の供物となっていることを知っているので、これを悲しむ心を回復し、このことを痛み深く思う心情を起こしてください。自分を自覚し、天と縁を結ぶことができるようにしてください、お父様、切に願い求めます。

無数の悪魔が私たちの心と体を狙っていることを知っています。お父様が許せない罪の苦い根が残っているならば、お父様!現れて、その能力の権限で再創造の歴史を起こし、私たちの心がお父様の前に服従できるように天の歴史を起こしてください、お父様、切に願い求めます。

天が動くとき、地が動かざるを得ず、地が天に要求するとき、天がそれを実現しないわけにはいかないという事実を知っています。今日、真の心を持ち、真実の心情で天を自分のものとして掴むために戦っている天の息子娘はいるのでしょうか? 天のすべての事情を自分の事情とし、天の事業を自分の事業とし、天の理念を自分の理念とし、これを掴むために戦い、これを掴むために蔑まれ、これを掴むために追い詰められて一生を生きた者はいるのでしょうか?私たちがそのような位置にないならば、私たちは天の前に受け入れられない罪人であることを告白できるようにしてください。

今日、私たちは知らないかもしれませんが、天は6千年という長い年月を経て、多くの預言者を送り、血の祭壇を築かせ、またこの民族に忠臣烈士を送り、民族の進むべき方向を示してくださったことを忘れないようにしてください。どの地域をも気にせず、民族を超えた領域まで内面的に摂理を導かれたお父様の苦労を忘れないようにしてください。

お父様、この一つの目的を達成するためにすべての心を尽くし、すべての努力を注ぎ、どんな犠牲も覚悟して私たちを探し出してくださったのに、こうしたお父様の恵みの前で面目を失う無礼な息子娘とならないようにしてください、お父様、切に願い求めます。

今、天が存在することを知り、天のお父様が誰であるかを知っています。父と私たちの間には必然的な条件が残っていることを知っているので、今日このような心情を通じて、天の父と縁を結び、お父様の悲しみを自分の悲しみとし、お父様の嘆きと哀しみを自分の嘆きと哀しみとして感じることができるように許してください。悪魔と壮絶な戦いを繰り広げる天的な行軍がこの民族の前に現れるように、またこの地上に現れるように許してください、お父様、切に願い求めます。

6千年間、天に対して誹謗していた敵悪魔を地球上から追い出し、お父様の嘆きを解消し、求められていた理想の園を早く築くことができるように許してください、お父様、切に願い求めます。

お父様、民族が進むべき方向を示し、教団が進むべき方向を明示し、真の息子娘が進むべき道を示してください。混乱と混沌の中で、暗黒の権勢に捉えられる歴史的な悲しみの時が来ていることを知っていますので、この時を乗り越えられる一つの基準を定めてください、お父様、切に願い求めます。

人類を導いてこられたイエス様と神様には悲しみが晴れる時がなかったことを知っています。2千年前のイエス様を振り返るとき、彼は誰にも知られない涙を流し、誰にも知られない飢えた生活を送り、誰にも知られない迫害の道で涙を流したことを知っています。

イエス様もこのような歩みをされ、多くの聖徒たちも血の道を気にせず歩み、死の道も気にせず戦い抜いたことを私たちは知っています。

今日、天を向かって礼拝し、生ける祭物を捧げて祝福を受けるべき時が近づいています。全生命を捧げて天の栄光を賛美する時が近づいていますが、天の前に生ける祭物を捧げるあなたの息子娘たちはどこにいるのでしょうか? 栄光の姿で父を喜ばせ、讃美を捧げる姿はどこにあるのでしょうか? そのような姿を求めるお父様の心情を知っています。悲しいことは、あなたの相手を見つけられないこと、栄光の実体を見つけられないことです。このような天の悲しみが、今日私たちが動く足跡を通じて千秋万代の子孫にまで及ぶことを恐れて、少しでもその心を持つことができるように、お父様、歴史を刻んでください。

ここに集まったあなたの息子娘たち、何を期待してここに来たのでしょうか? どんな目的でここに来たのでしょうか? 彼らが行くべき場所はこの場ではなく、お父様の家です。彼らが留まるべき場所はお父様の心の中心です。お父様の玉座に座る者がいるのでしょうか?お父様の心の中に記憶される者がいるのでしょうか? 私たちがそのような姿になれないならば、私たちは多くの悪魔の嘲笑の対象となり、供物となるだけだと知っています。この時間、心を一つにしてお父様の前にひれ伏し、お父様の心に入ることができるようにしてください。

天性に至る道は十字架の道です。そのため、自分の十字架を背負い、ゴルゴタの山頂にまで行き、十字架の流した血の実を持ち、天の前に祭物を捧げることが私たちの使命です。今日、心を整えて、お父様の前に進み出てください。

お父様、この一時間を支配してください。今日、私たちの心情を通じてお父様の悲しみを感じ、お父様のために生ける祭物となるようにしてください。天のすべての息子娘が集まって、あなたの栄光を賛美し、あなたを心から喜ばせる時が来るようにしてください。

神様、私たちはあなたを求め、あなたを知りたいと願います。どうぞ、私たちがあなたの前に自分を捧げ、あなたの心に入り、あなたの願いを実現するために一つとなることができますように。

あなたの永遠の栄光がこの地に現れることを祈りながら、私たちは主の御名によって祈ります。アーメン。


<御言葉>

神様は堕落の歴史が始まった後、長い年月の間、無数の苦労を厭わず、選ばれたイスラエルを支え続け、3千年後に、その時のイスラエル民族が知らないうちに、大いなる希望と期待を持ってサウル王を立てられました。しかし、サウルがその責任を果たせなかったため、神の本来の意図はダビデ王を経てソロモン王の時代まで延ばされました。つまり、サウルを立てて成し遂げようとされた神の意図は、ソロモン王の時代まで120年間も延長されたということです。

ソロモン王は天の意志を受けて神殿を建て、彼の民族を統率して神殿と一体になるべき天的な責任がありましたが、その使命を果たせず、自身も罪を犯したため、民族はサタンによって弄ばれる立場に陥ったことを私たちは知っています。結局、ソロモン王が死んだ後、ヤロブアム王とレホブアム王によってイスラエル(北王国)とユダ(南王国)に分裂しました。神を中心とする一人の指導者が出て、彼が左と言えば一緒に左へ、右と言えば一緒に右へと進むべき選ばれたイスラエル民族が、神の労苦の歴史を経て導かれながらも、天の導きに逆らい、南北の二つの王朝に分裂した悲しい事実を私たちはよく知っています。イスラエルの12部族全体は、天に立ち、一つの祭壇を中心に天と一体にならなければなりませんでした。

ヤコブがハランに向かう際、神はベテルでヤコブに現れて祝福を与え、ヤコブは枕にしていた石を立てて碑とし、神に誓いを立てました。そして、ヤボク川を渡る前にギルアデの山で石の山を築き、神の名をかけてラバンと約束を交わしました。このようにして天から祝福を受けたヤコブから始まったイスラエル民族は、神が権限を行使できる一つの主権国家として、一つの主権民族として一体となり、神殿を支えなければなりませんでした。しかし、その天的な使命を放棄し、12部族は北王国10部族と南王国2部族に分裂しました。この悲しい事実を私たちは単なる歴史的事実として理解してはならないでしょう。

当時のイスラエル民族は、神の涙の3000年の歴史と戦いの道を経て生き残った者たちであり、追われ、侮辱されて残った悲しい民でありました。彼らは先祖たちを虐げた多くの異邦の民や、神の意図を裏切った多くのサタンたちを怨むべき立場を忘れ、同胞同士で血戦を繰り広げました。このような悲しい事実を見つめるイスラエルとユダを前にした神の心情を私たちは考えずにはいられません。

ヨシュアとカレブの導きでカナンの地に入ったイスラエル民族は、ソロモン王を中心に神が宿る神殿を建て、神を迎えなければなりませんでした。それにもかかわらず、北王国イスラエルと南王国ユダに分裂し、互いに争い、バアル神やアシェラ神を崇拝するに至りました。この惨状を見つめていた神の心情を私たちは理解しなければなりません。

このような歴史を導いてこられた神は、悲しみで胸がいっぱいになり、その悲しみは今日まで続いています。では、その歴史的な悲しみはどこへ行き、民族的な悲しみはどこへ行き、さらに天的な悲しみはどこへ行ったのでしょうか。このような条件が皆さんの心情を囲んでいること、このような条件が天を求める私たちの周りを取り巻いていること、このような条件が私たちの意識世界を超えて、私たちが進むべき方向を正そうとしているという事実を私たちは知りませんでした。

このような悲惨な状況を見ていた神は、ギルアデの地に住む農民の中からエリヤという人を選びました。イスラエルの王もいましたし、10部族の族長もいましたが、彼らをすべて後回しにして、ギルアデの地でただ農民として生活していたエリヤを選ばれたのです。この悲しい事実を皆さんは知らなければなりません。

イスラエルを支配し、天の神殿を通るべきイスラエル王は、その責任を忘れ、天を拒み、民族を侮辱しました。さらに、天の敵であるバアルのために祭壇を築き、アシェラの木像を作って民族の前に立てて崇拝させました。このようなアハブ王を神がどれほど憎まれたかを私たちは考えなければなりません。神はその憎しみの心を抑えきれず、選ばれた民がサタンに虐げられるのを見て、悲しい心を抑えることができず、その悲しい事情と心情を解放するために一人の人を選ばれました。しかし、その選ばれた者は、国の王でもなく、王族でもなく、族長でもない、ただの平民エリヤでした。

神は、求めるべき者を見つけられず、持つべき者を持つことができず、導くべき者を導くことができない立場に置かれ、焦燥感を抱きながら王や族長、そして多くの人々を探し回られましたが、見つけられず、その時代の民族的悲しみと天的な悲しみを知り、憂慮し、天に向かって祈り、嘆き叫ぶ姿を探して、エリヤを選び出されました。

そのようにして立てられたエリヤでした。皆さん!そのエリヤを思い起こしてください。エリヤは、同族からの支援を受けた人でもなく、彼を擁護し、彼の立場と状況を支持する環境を持った人でもありませんでした。彼は天の心情を知り、天の召命を受けて現れた人でした。

彼が当時置かれていた環境は、アハブ王の主権下にある敵の環境でした。そのような環境の中で天の召命を受けたエリヤは、たとえ死んでもこの民族を抱えて死ぬという強い心を持っていました。たとえ死んでも、民族的な摂理の歴史の道で、歴史的な心情を代わりにした先知先烈たちの伝統を尊重しようとしたエリヤでした。さらに、誰よりも神の心情を憂い、涙を流し、民族と歴史を代わりにして涙を流したエリヤであったことを皆さんは思い起こさなければなりません。だからこそ、神はこのエリヤを探し出されたのです。

今日、皆さんにお伝えしたいタイトルは「エリヤに対する天の心情」です。「エリヤに対する天の心情」という内容で、少しの間、お話ししたいと思います。

ご覧ください。神は3千年の悲しい心情を代わりにして、エリヤを見出されました。つまり、多くの先知先烈が歩み感じた歴史的な心情を代わりにして、神ご自身が手を挙げて「イスラエル」と祝福してくださった約束を忘れず、それを心にかけておられた天が、ヤコブ以降、エリヤの時代まで1千年余りの歴史過程を経て、摂理を導いてこられた心情を抱えてエリヤを探し出されたのです。

敵に囚われたイスラエル民族を再び回復するためにエリヤを立てられた神には、悲しみの反面、希望もあったことを私たちは思わなければなりません。

神が選ばれたイスラエル民族がアハブ王とその王妃イゼベルと共に異邦のバアル神を崇拝し、アシェラの偶像を作って汚れていくのを見て、悲しみをこらえきれずにエリヤを召された時、彼は喜んで神の前に出て行くことができませんでした。

エリヤは神が召したからといって、「お父様!その通りです。あなたが望む道を私が進みます。あなたが召されたその意図を私が責任を持って果たします」と言うことができなかったのです。そこで彼は「私は何者でもない平民です。天よ、私よりも優れた族長も多く、王もおり、王族もおり、数多くのイスラエル民族がいる中で、私のような取るに足らない者を選んでくださったのはどういうことでしょうか」と言いました。良心を持つエリヤは、イスラエルを憂う心が大きければ大きいほど、無私の心で天の前に辞退せざるを得なかったのです。

しかし、天は時として、その民族全体を立てることができず、エリヤでなければならないことを知っていたため、エリヤを選ばれました。

したがって、神はエリヤにその使命をすぐに果たすよう命じて追い立てたのではなく、その環境を整理し、様々な形で衝撃を与えて、自然に現れるようにされたのです。

ですから、エリヤが天の召命を受け、アハブ王の前に現れる時、天は「お父様の命令ですから、すぐに行います」という即決ではなく、行こうとしなくても行かざるを得ない状況に追い込み、彼の悲惨さと民族の悲惨さが増していくことを自覚させ、「民族の代わりに私が死にます。族の代わりに私が死にます」という覚悟を持たせた後に、戦いの責任者として立てたという事実を私たちは知るべきです。

私たちの祖先であるノアもそうでした。「120年後に全世界を水で裁くから、あなたは箱舟を作りなさい」という神様の言葉を実行しながら、ノアは内面的な戦いの道のりで神を疑うことも多かったでしょうし、自分自身の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそうした立場に立てば立つほど、心にしみたのは、この地上の人々が水に流されて裁きを受ける日が近づいているということでした。

また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエル民族を誰よりも深く心配していた真のイスラエルの女性でした。天が何千年も前から約束していた私たちの指導者メシアはいつ来るのだろうかと、メシアを待ち望む心情がイスラエル民族の誰よりも強い人でした。

メシアを送りたいとする天の心情を知っていたのがマリアでした。このようにメシアを迎えるべきイスラエル民族を代表したマリアの心情を、人々は知りませんでしたが、天は知っていました。このような心の基準をマリアは持っていたのです。

マリアのその心の基準は、民族を代わりに敵を打ち破ろうとするものではありませんでした。苦しみの中で嘆く民族の悲しみを清算するために戦いの勇士として立とうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り、涙を流すことのできる心情、当時の人々は知らなかったものの、民族の背後に悲しみの歴史があったことを知る心情、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心情を持っていたのです。

このように、現れるべき堂々とした姿が現れないとき、その姿が現れることを願って涙を流し、骨に染みる心情を抱いていたことによって、天の歴史的な心情と結ばれることができたため、思いもよらぬときに天使が現れ、「あなたは身ごもり、男の子を産むでしょう…」(ルカ1:31)という、まるで青天の霹靂のような知らせを伝えたのです。しかし、マリアはためらい、「私は男の人を知りませんので、どうしてそのようなことが起こり得ましょうか?」(ルカ1:34)と言いました。すると天使は再び「神にとって不可能なことは何もありません」(ルカ1:37)と言いました。父の御心を成し遂げようとする天使の言葉を聞いたマリアは、ためらわずに「主のはしためです。御言葉通りになりますように」と言ったのです。

このように、天の心情と結びつこうとしたマリアの心情は切実であり、自分の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない立場に置かれていましたが、「御心のままに」と言ったのです。なぜなら、乙女の身で懐妊したという噂が広まれば、その当時はモーセの律法によってすぐに石打ちの刑にされ、民族から追放され、同族からも受け入れられなくなるからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人自分を歓迎してくれないことが分かっていながら、マリアは「主よ、はしためです。御心のままに」と言ったのです。

悲しみに染みた内的な心情と現実的な信仰を示す中で、マリアは歴史の主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界の人類の主人公であるメシアを誕生させる母となったのです。

同じように、エリヤも天の前に召されました。天が彼を探し出すまで、エリヤは他人が知らない涙を流し続けた涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。哀れな境遇で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らが流した涙は自分自身のための涙でした。しかし、一介の平民であったエリヤが自分の環境や威信を忘れて流した涙は、自分自身を超えた涙でした。彼は「天が導いてくださったイスラエルがなぜこのようになったのか?」という思いが誰よりも強かったことを、皆さんは知るべきです。

エジプトでの400年の苦役を経て、荒野での40年の旅路で60万人の大衆を失った後、カナンの地に入って国家を築いたイスラエルが、異邦の国々によってこのような状況に置かれ、敵に弄ばれ、神に選ばれた選民の権利が崩れ去っていくのを見て、深い悲しみを抱いたのがエリヤでした。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に向かって誠心誠意を尽くしました。このようなエリヤだけがイスラエルを代表できたため、天は彼を探し出されたのです。

天の前に召されたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ」という声を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これはどういうことでしょうか?これは夢にも思わなかったことですし、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように恐れ多くも大いなる使命に向かうとき、天は「私がいるから、行ってアハブ王に警告しなさい」と言われました。天のその言葉に、エリヤは天に代わってアハブ王と戦うことになったのです。

異邦の国から来た王妃イゼベルによって持ち込まれたバアルとアシェラの木像のために、裁きの日が遠からずやって来ることを心配していたエリヤは、長年、天の悲しみと民族を抱えて悲しんでいたため、天の命令に対し「父よ、民族が救われるなら、この身が犠牲になってその事業を遂行いたします」と言って立ち上がったのです。このように天の命令を受けて、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活に「喜び」という言葉は存在しませんでした。彼は見たことのない現象を見なければならず、聞いたことのないことを聞かなければならず、食べることや着ること、寝る環境も快適ではなかったことを、皆さんは知るべきです。

エリヤはアハブ王に、異邦の神々を崇拝すれば滅び、飢饉が訪れ、飢えに苦しむだろうと予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、むしろエリヤを殺そうとしました。そこでエリヤは逃げ、ケリテ川に避難しました。そのとき、エリヤの心情も限りなく悲しかったのです。

もし天を知らなければ、彼には横になれる家もあり、親もあり、親戚もあり、兄弟もいたでしょう。住む土地もあり、彼を認めてくれる環境も持っていたでしょう。しかし、天を頼りに進んだその日から、彼は思いもよらぬ谷に避難しなければならない身の上になったのです。

それでもエリヤは天を恨むことはせず、アハブを恨みましたし、民族を恨むことはせず、イゼベルを恨みました。そのように追われ、困難な状況にあっても、天への忠誠心がなかったならば、エリヤはその環境を捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が厳しくなればなるほど、さらに天の悲しみを抱き、民族を抱きました。天を抱き、悲しむ生活が、一時の喜びを感じる生活よりも価値があることを知っていたエリヤだったため、歴史的な先祖たちの功績を捨てず、自分の苦しみを顧みず、天の前に近づき、さらに近づいていったのです。

それでもなお、エリヤは兄弟が自分を思ってくれる以上に天が自分を思ってくれ、親族が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれ、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知りませんでした。いつも、過ぎた後に天の心情を知ることができたのです。これが、天を求めていく者たちが抱える悲しい事情です。

エリヤは、ケリテ川に避難していたその環境の中でも、新たに決意を固めました。アハブとイゼベルを打ち倒し、イスラエル民族を救うために避難していたエリヤの切ない心情を人々は知りませんでしたが、カラスが食べ物を運んできました。このように飢えに耐えながらも、天の心情を知ることのできる仲間を見つけようと決意していたエリヤのことを、皆さんは知るべきです。

彼は、生死の岐路に立つ民族のために天の悲しみが染み込んでおり、その染み込んだ心情が強まるにつれて、裁きの日が来ることを知っていました。しかし、それを一人で背負うことはできないと感じれば感じるほど、天の意志のために自分を犠牲にできる同志をエリヤは求めていたのです。民族を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいと願い、天を愛する気持ちが大きいほど、自分の前に現れる同志たちを愛したいという思いに駆られていたエリヤでした。

そのようなエリヤの心が、民族を救うことのできる心であり、民族を救える仲間を集める心でした。また、天と人間を結びつけることのできる切実な心でした。エリヤがそのような心情を持っていたため、天は彼を選び、彼を導いたのです。

一度、飢えたエリヤが天の導きでサレプタの寡婦の家に行き、パンをもらって食べましたが、その哀れなエリヤを助けてくれた寡婦は、自分が食べた後に残った小麦粉でパンを作ったのではなく、一食分しか残っていない小麦粉でパンを作ってくれました。そのため、その後サレプタの寡婦は食糧に困らなくなったという事実を、私たちは知っておかなければなりません。

エリヤがサレプタの寡婦の家に滞在していたとき、その寡婦の息子が病気で重篤な状態になり、息を引き取りました。寡婦はその子を抱いてエリヤに訴えました。その寡婦の切実な訴えを聞いて、エリヤが天の前に祈ると、死んでいた子供が生き返りました。また、カルメル山の頂上では、バアルの預言者とアシェラの預言者800人を捕らえて殺しましたが、これは偽りの神と真の神を明確に区別するための一大決戦でした。

このような立場において、エリヤは神が民族を愛しておられるために自分を召されたことを知りました。神が自分を召されたのは、敵を憎む神に代わって戦うためであることを知ったのです。民族を代表して召され、神に代わってバアル神やアシェラ神の預言者たちと戦う責任者として召されたことを知り、エリヤは、水に濡れた祭壇に天から火が降りて燃え上がったとき、バアル神の預言者とアシェラ神の預言者800人を捕らえて殺しました。この出来事が終わった後、飢饉と飢えで嘆いていたイスラエル民族を哀れに思ったエリヤは、カルメル山の頂上に上り、命をかけて天の前に7度も繰り返し訴えました。すると、アハブ王が戻る前に雨が降るという現象が起こりました。

この歴史を通じて、アハブ王とイスラエルの民は生ける神を知り、自分たちが崇めていたバアル神が偽りの神であることをはっきりと知り、悔い改めてエリヤの後に従うべきでした。しかし、彼らはエリヤに従いませんでした。アハブは民衆の中に入り、イゼベルにそのことを詳しく報告しました。すると、イゼベルはエリヤに「お前が剣を振るって殺したバアルの預言者たちと同じ運命にお前もなるだろう」という伝言を送りました。

それを受けたエリヤは、イスラエルの国境を越えてユダのベエルシバに到達し、そこに従者を残して荒野に入ってさらに一日の道のりを進み、ロデムの木の下で天の前に祭壇を築いて祈りました。

イスラエルの国境を越えて期待していたユダの地に行きましたが、進むべき道が閉ざされました。選ばれたイスラエルを救うために自分が召されたことを知ったエリヤは、数々の逆境と多くの戦いの道のりを経て、尽力できる限り尽力しましたが、実績を残すことはできませんでした。それでユダの地へ逃げて行きましたが、行くべき道が閉ざされたエリヤは膝をついて、「天よ、あなたが送られた預言者たちはすべて殺されてしまい、私が立てられましたが、天を求め、天に向かおうとする心情を持った者を見つけることができず、また彼らが私を捕えようとしています。私はもうこれ以上進むことができません。どうか私を殺してください」と言いました。

こうしてエリヤは、絶望的な状況に陥りましたが、天は彼を見捨てませんでした。その瞬間、天使がエリヤに現れ、「起きて食べなさい」と告げました。エリヤは目を開けてみると、頭のそばに焼いたパンと水が置かれていたのです。エリヤはそれを食べて力を得ました。しかし、それでも彼の旅路は終わっていませんでした。天の命令に従ってエリヤは40日間と40夜、ホレブの山まで歩き続けました。

ホレブ山に到達したエリヤは、神の山にある洞窟に入り、そこで夜を過ごしました。その時、天の声が彼に語りかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは答えました。「イスラエルの子らはあなたの契約を捨て、あなたの祭壇を壊し、あなたの預言者たちを剣で殺しました。私はただ一人残されましたが、彼らは私の命も取ろうとしています」と。

神はエリヤに、外に出て山の上で立つように命じました。その瞬間、大風が山を裂き、岩を砕くほどの激しい風が吹きましたが、神はその風の中にはいませんでした。次に地震が起こりましたが、神はその地震の中にもいませんでした。さらに火が降り注ぎましたが、神はその火の中にもいませんでした。そして、その後に、静かな細い声が聞こえてきました。それが神の声でした。

神はエリヤに再び問いかけました。「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と。エリヤは再び同じ答えをしましたが、神は彼に使命を与えました。ダマスカスの荒野に戻り、ハザエルに油を注いでアラムの王とし、エリシャを後継者として油を注ぐように命じたのです。そして、エリヤは神の命令に従い、エリシャを見つけ出して弟子としました。

こうして、エリヤは神に対する忠誠と信仰を示し続けましたが、彼の時代が終わりを迎える時が来ました。エリヤは火の戦車に乗って天に引き上げられ、地上を去ることとなりました。彼の後を継いだエリシャが、その使命を引き継いでいったのです。

エリヤの物語は、困難な状況においても神に忠誠を尽くし、信仰を持ち続けることの重要性を教えています。彼のように、天の声に従い、神の意志を全うする者は、最終的に神の祝福を受けるという教訓を私たちは学ぶことができます。


エリヤが天に引き上げられた後、彼の後継者であるエリシャはその使命を引き継ぎました。エリシャはエリヤから受け継いだ力を使い、数々の奇跡を行いました。まず、エリヤのマントを拾い、ヨルダン川の水を打つと、川の水が二つに分かれ、彼は川を渡ることができました。これにより、エリシャがエリヤの後継者として神の力を受け継いだことが明確に示されました。

その後も、エリシャは人々の病を癒し、飢饉の時には食糧の奇跡を行い、神の力を示し続けました。彼は神に忠誠を尽くし、エリヤのように天から与えられた使命を果たしていきました。このようにして、エリヤが果たすことのできなかった使命はエリシャによって引き継がれ、神の計画は続けられたのです。

エリヤとエリシャの物語は、神が選んだ者たちが苦難に直面しても、神の計画を信じ、最後まで忠実であり続けることの重要性を教えています。彼らの信仰と忠誠は、私たちにとって模範であり、私たちもまた、自分たちが置かれた状況の中で、神の導きに従い、与えられた使命を全うすることが求められているのです。

神は、彼らのように信頼に足る者たちを選び、彼らを通して神の意志を成し遂げていくのです。私たちもまた、エリヤやエリシャのように、たとえ困難に直面しても、神の力と導きを信じ、忠実に歩み続けることが求められています。そうすることで、私たちもまた、神の大いなる計画の一部となり、歴史に名を刻むことができるのです。

ここで、エリヤとエリシャの物語が締めくくられますが、彼らの信仰と献身は、私たちにとって今日でも重要な教訓を提供しています。

エリシャがエリヤから受け継いだ使命は、単に奇跡を行うことだけでなく、神の民であるイスラエルを導く霊的な指導者としての役割も含まれていました。エリシャの生涯には、いくつかの重要な出来事がありますが、その一つは、ナーマンの癒しです。

ナーマンはアラム王国の軍の司令官で、権力も富も持っていましたが、彼は重い皮膚病に苦しんでいました。彼の妻の召使いであったイスラエルの少女は、エリシャがその病を癒せることを知っていたため、彼に会いに行くよう助言しました。ナーマンは最初、エリシャが自分を直接癒してくれるものだと思っていましたが、エリシャは使者を送り、「ヨルダン川で7回身を洗いなさい」と指示しました。

ナーマンはその簡単すぎる指示に怒り、すぐに帰ろうとしましたが、彼の部下たちが「もし難しいことを言われてもやったでしょう?それなら、言われた通りにすればいいではありませんか」と諭しました。ナーマンは結局、エリシャの言葉に従い、ヨルダン川で7回体を洗った結果、病は完全に癒されたのです。この出来事は、信仰と従順が奇跡をもたらすという重要な教訓を私たちに示しています。

また、エリシャがかかわったもう一つの出来事は、飢饉の時の食料の奇跡です。飢饉に見舞われたイスラエルでは、人々が食べるものも乏しくなり、飢えに苦しんでいました。しかし、エリシャは人々に信仰を持って食料を集めさせ、それを祝福しました。その結果、わずかな食料が奇跡的に増え、多くの人々を養うことができました。この奇跡もまた、信仰と神の力が困難を乗り越える手段となることを示しています。

エリシャの生涯は、神の導きと力があれば、いかなる状況においても人々を助け、救うことができるという強いメッセージを伝えています。彼は決して自分の力に頼るのではなく、常に神に祈り、神の意志に従って行動しました。その姿勢こそが、彼を偉大な預言者として歴史に刻まれる存在にしたのです。

エリシャが亡くなった後も、彼の影響力は続きました。死後に埋葬されていたエリシャの墓に他の死者が葬られた際、その死者が蘇るという奇跡が起きたのです。エリシャの生涯は、生と死を超えて、神の力がどれほど偉大であるかを示すものでした。

エリシャの物語を通じて、私たちは神に対する絶対的な信頼と従順の重要性を学びます。彼のように、たとえ困難な状況に置かれても、神に頼り、神の導きに従うならば、奇跡が起こり、私たちもまた神の計画の一部となることができるのです。

神は時代ごとに忠実な僕を選び、その僕を通じて歴史を導いていかれます。私たちもまた、そのような神の僕としての役割を果たすことができるよう、エリヤやエリシャの信仰に学び、日々神に忠実であり続けることが求められています。

エリヤとエリシャの物語は、単なる歴史の一部ではなく、今日の私たちに対しても深い示唆を与えるものです。

エリシャの物語が終わった後も、神の預言者たちによる導きは続きます。エリシャの後継者たちも神の計画に従って、イスラエル民族を導き、神の意志を成し遂げていきました。これらの預言者たちの使命は、常に神の民を正しい道へと導き、彼らが神と共に歩むことができるようにすることでした。

しかし、イスラエルの民がしばしば神の教えに背き、偶像崇拝や不義に陥ることがありました。そんな中で、預言者たちは神の警告を伝え、民が悔い改めるように導く役割を果たしていました。彼らは時には迫害を受け、苦難に遭遇することもありましたが、それでも信仰を失わず、神の言葉を忠実に伝え続けました。

特に預言者イザヤやエレミヤなどは、イスラエルの民に対する神の憐れみと裁きについて多く語りました。彼らはイスラエルが悔い改めない限り、神の裁きが下されることを警告しましたが、それでも神は彼らを完全に見捨てることなく、常に救いの道を用意していると伝え続けました。彼らの預言には、神の深い愛と正義が込められていたのです。

また、預言者ダニエルの時代には、バビロン捕囚という大きな試練がイスラエル民族を襲いました。ダニエルとその仲間たちは、異国の地で強い信仰を持ち続け、神に忠実であり続けました。彼らがライオンの巣や火の炉の中に投げ込まれるという厳しい試練に直面しても、神は彼らを守り、救い出されたのです。この出来事は、神の信頼に値する者は、いかなる困難の中でも神の守りを受けることができるということを強く示しています。

さらに、神が選ばれた預言者たちは、メシアの到来を預言しました。彼らは、イスラエルの民を救うために、やがて神が約束した救世主が現れると告げました。これらの預言は、旧約聖書の中心的なテーマの一つであり、イスラエル民族にとって大いなる希望の源でした。このメシアの約束は、やがてイエス・キリストの到来によって成就されます。

イエス・キリストが現れた時、彼はイスラエルの失われた羊たちを探し出し、神の愛と救いを伝えました。彼の教えと行動は、すべての人々に対する神の愛と憐れみを示しており、彼の生涯は預言者たちが伝えた救いの成就そのものでした。イエスは十字架上で命を捧げることで、人類の罪を贖い、神との和解をもたらしたのです。

イエスの死と復活は、神の救いの計画の完成であり、すべての人々に永遠の命をもたらすものとなりました。彼の生涯と教えを通じて、私たちは神の深い愛と救いの計画を知ることができ、今もなお私たちに対する神の約束が生き続けていることを確信できます。

エリヤからエリシャ、そしてメシアに至るまで、神の救いの計画は途絶えることなく進んでいきました。私たちもまた、神の導きに従い、信仰を持って神の計画の一部となることができます。歴史を通じて神が示された愛と憐れみを忘れず、日々の生活の中で神に忠実であり続けることが重要です。

私たちは、神がすべての時代にわたって忠実な僕を選び、彼らを通じて神の意志を成し遂げてきたことを学びました。そして、その救いの計画は、私たち一人ひとりにも関わるものであり、私たちもまた、その一部となることができるのです。

このように、神の救いの歴史は、預言者たちを通じて続き、最終的にはメシアによって完成されました。私たちはこの歴史に学び、神の愛と憐れみに感謝し、信仰をもって神と共に歩んでいくことが求められています。

我々の先祖であるノアもそうでした。神は「120年後に全世界を水で裁くので、あなたは方舟を作りなさい」とおっしゃいました。ノアはこの神の言葉を実践しながら、内面的な戦いの過程で天を疑うことも多かったでしょうし、自分の弱さを嘆く環境に置かれることも多かったでしょう。しかし、ノアがそのような立場に立つほど、心に深く刻まれていたのは、この地上の人々が水に流される裁きの日が近づいているということでした。

また、マリアを見てみましょう。彼女は純潔な乙女であり、イスラエルの民を誰よりも深い心で思っていたイスラエルの真の女性でした。天が数千年前から約束していた我々の指導者メシアはいつ来るのかと、メシアを待ち望む心がイスラエルの民の誰よりも強い人でした。

メシアを送ろうとする天の心情を理解していたマリア。イスラエルの民を代表してメシアを迎えなければならないその心情を、人々は理解できませんでしたが、天は知っていました。マリアはそのような心的基準を持っていたのです。

マリアの心的基準は、民族を代表して敵を打ち砕こうとするものではありませんでした。苦しみの中で呻いている民族の悲しみを清算するために戦う英雄になろうとするものでもありませんでした。天の悲しみがあることを知り涙を流す心、当時の人々が知らなかったが民族の背後には悲しみの歴史の道程があったことを知る心、選ばれたイスラエル民族が神の前に立てない惨めな状況を嘆く心を持っていたのです。

そのように現れるべき立派な姿が現れないとき、その姿が現れることを望み涙を流し、骨に染み入る心情を持っていたため、天の歴史的心情と縁を結ぶことができたのです。そのため、予想もしない時に天使が現れて「あなたが身ごもり、子を産むことになるでしょう」と(ルカ1:31)青天の霹靂のような告知をされたのです。しかし、マリアが「私は男を知りませんので、どうしてこのことがあるでしょうか?」(ルカ1:34)とためらうと、天使は再び「神のすべての言葉にはできないことはない」(ルカ1:37)と言いました。その言葉を聞いて、マリアはためらうことなく「主の僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。

このように天の心情と縁を結ぼうとしたマリアの心情は切実であり、彼女の生涯が破滅し、最終的に死を迎えるかもしれない状況に置かれても「御心のままにおなりください」と言いました。なぜなら、処女の体で妊娠したという噂が広まると、当時はモーセの律法により即座に石で打たれて死ななければならず、民族から追放され、部族から受け入れられないからです。そのような環境でも、イスラエル民族の中で誰一人として彼女を歓迎しないかもしれないが、マリアは「主よ!僕女ですので、御心のままにおなりください」と言ったのです。

悲しみに満ちた内面的な心情と実際の信仰を示すことで、マリアは歴史的な主人公であり、時代の主人公であり、未来の主人公であり、世界的な人類の主人公であるメシアを生む母親となったのです。

同様に、天の前にエリヤは呼ばれました。天が彼を探すまで、エリヤは他の誰も知らない涙を流した涙の王子でした。イスラエルのどの王よりも、イスラエルのどの人よりも多くの涙を流した涙の王子でした。かわいそうな立場で涙を流したイスラエルの民がいたとしても、彼らの涙は自分自身のための涙であり、エリヤは平民でありながら自分の環境や名声を忘れて流した涙は、自分を超えた涙でした。彼には、天が導いてくれたイスラエルがなぜこのようになったのかという心が何よりも大きかったことを皆さんは知っておくべきです。

エジプトでの苦役400年を経て、荒野の40年の道程で60万人を失い、カナンの地に入って国家を作ったイスラエルが、異国の国によってこのようなことをされ、敵に嘲笑され、神の選ばれた民の権利が衰退するのを見て、エリヤは悲しみの心を持っていました。彼は誰よりも民族のために熱心に祈り、誰よりも天に対して精を尽くしました。そのため、天は彼を探したのです。

天の前に呼ばれたエリヤは、天から「エリヤよ、エリヤよ!」という言葉を聞いたとき、驚いたことでしょう。彼は「これは何の理由ででしょうか?これは夢にも思わなかったことであり、予想もしなかったことです」と言ったことでしょう。このように驚きながらも偉大な意義に向かって立ち上がると、天は「私がいるので、行ってアハブ王に勧告しなさい」とおっしゃいました。天のその言葉に応えて、エリヤは天に代わってアハブ王と戦いました。

異国の国から来た王妃イゼベルを通じて持ち込まれたバアルとアシェラの偶像によって、すぐに裁きの日が近づくことを心配していたエリヤは、長年天の悲しみと民族を抱きしめて悲しんでいたため、天の命令に「父よ、民族が生きられるのならば、この身が犠牲となってその仕事を遂行します」と立ち上がったのです。そのように天の命令を受けてから、アハブ王に向かって出発したその日から、エリヤの生活には喜びという名詞は存在しませんでした。彼は予想もしない現象を見なければならず、聞くことも考えもしなかったことを聞かなければならず、食べたり着たり寝たりする環境も快適ではなかったことを皆さんは知っておくべきです。

エリヤはアハブ王に対して異国の神を崇拝すれば滅び、飢饉が来て飢えが訪れると予告しましたが、アハブ王は彼の言葉を聞かず、逆にエリヤを殺そうとしました。すると、エリヤは逃げてクリト川に避難しました。その時、エリヤの心情も無限に悲しかったのです。

天を知らなければ、彼には寝る家があり、親があり、親戚があり、兄弟がいたでしょう。生きる土地もあり、自分を認めてくれる環境もあったでしょう。しかし、天を信じて立ち上がったその日から、彼は予想もしなかった谷に避難しなければならない身となったのです。

それでもエリヤは天を恨むことはなく、アハブを恨むこともなく、民族を恨むこともなく、イゼベルを恨みました。そのように追われ、追い詰められる環境で、天に対する忠誠の心がなければ、エリヤはその環境を見捨てたでしょう。しかし、エリヤは自分の環境が締め付けられるほど、ますます天の悲しみを抱き、民族を抱きしめました。天を抱きしめて悲しむ生活が、しばらくの間の喜びを感じる生活よりも大きいことを知っていたエリヤは、歴史的先祖たちの功績を見捨てることなく、自分の苦痛を気にせず、天の前に近づき、さらに近づきました。

それでもエリヤは、兄弟が思ってくれる以上に天が自分を思ってくれることを知らず、親戚が心配してくれる以上に天が心配してくれることを知らず、親が心配してくれる以上に天が自分を心配してくれることを知らなかったのです。いつも過ぎ去った後に天の心情を知ることが、これが天を求める悲しい事情です。

天の計画を管理する神が、信じて呼び立てられた目的を達成するために努力し、民族を導いたエリヤが、悲しい状況で「父よ、私だけが残りました!」と訴えるのを見守る天は、さらに増した悲しみを感じたという事実を私たちは理解しなければなりません。

天は、追われて避難しているエリヤを、数多くのイスラエル民族よりもさらに貴重に感じ、イスラエルの地に置かれていた希望よりも大きな希望を彼に持たせました。疲れ果て、希望も断たれ、進むべき方向も見失った荒野で最後の決断を下すように訴えたエリヤを、私たちは考えてみるべきです。さらに、イスラエル民族を導いた神、エリヤを呼び立てるために苦労された神、エリヤが困難に陥ったときにさまざまな形の奇跡で助け、家から彼を支えた神を知るべきです。ここで、エリヤに対する天の心情が悲しみに沈んだことを、皆さんは理解するべきです。

ユダの地にも留まることができないことを悟ったエリヤは、40日夜を歩いてイスラエル民族がエジプトから出るときに神が彼らに祝福を与えた山、彼の先祖たちが天と縁を結んだシナイ山近くのホレブ山に逃げました。エリヤが国境を越えなければならないことを知っていた神も、逃げるエリヤの道が遠く、彼が進む道に友も同情者もないことを知っていました。そこで、神はロデムの木の下で眠っているエリヤに、天使を通して炭火で焼いたパンと一瓶の水を与え、食べるように命じました。

エリヤはそれを食べて再び力を得て、天の悲しみと民族の悲しみを抱え、敵を討つための憎悪を抱き、悲しみの地であるイスラエルに向かって駆け出さなければなりませんでした。それにもかかわらず、エリヤは反対にホレブ山に逃げたのです。

そうして40日夜を歩いてホレブ山のどこかの洞窟で眠るエリヤは、敗北者のような哀れな状況になりました。神が導く道を逸れて、自身の安全を守るために逃げて洞窟で眠っているエリヤを、天は再び訪れました。眠っているエリヤに神は「エリヤよ、ここで何をしているのか?」と尋ねました。エリヤは「天を熱心に考えています。しかし、私は先祖たちよりも弱い者です。」と答えました。その言葉は神を慰めるものではありませんでした。しかし、神は眠っていたエリヤを山に立たせ、さまざまな形で警告しました。強い風で、または地震で、または火の中で警告されたのです。

しかし、神は直接エリヤの前に現れませんでした。その後、静かな中で神は現れ、エリヤを呼びました。エリヤは答えました。「父よ、あなたの預言者たちがすべて彼らの手によって死に、イスラエル民族の前に私だけが残りました。行きたいけれど行けません。追われ、追い詰められたこの場所で、私はどうすればよいのでしょうか?」しかし、神は再び「イスラエルはアハブの手中にあるが、その中に割礼を守り、バアルに屈しない7000人がいる。彼らをどうするのか?」とおっしゃいました。「アハブ王の下で苦しむ、バアルに屈しない7000人はどうするのか?」これがエリヤに対する天の悲しい心情でした。

ここでエリヤは再び決心し、天の命令に従ってダマスカスに戻り、ハザエルとイエフに油を注いで王とし、エリシャに油を注いで自分の後を継ぐ預言者としました。

エリヤは足を返し、バアルに屈しなかった残りの7000人を天が心配していることを知り、新たな決意をしました。

同様に、今日、摂理の意図に応じているすべての人々は、苦労の道を歩んでいます。血の涙の道を歩んでいます。十字架を背負って迫害の道を歩んでいます。この悲しみと憤り、悔しさの状況は誰のために生じたのでしょうか?それは民族のためであり、さらに神の6000年の敵であるサタンのためであることを理解しなければなりません。

悲しみと苦痛が押し寄せ、迫害の嵐が吹き荒れる状況に置かれる原因は何でしょうか?それは民族を救うためであり、天を解放するためです。しかし、天の意図に応じる人々もそのような神の心情を感じるのは難しいのです。

イエスは教団から追われ、民族からも追われました。教団からは異端者、律法の破壊者と見なされました。彼は自分の民族からも追われ、家からも追い出されました。ヨハネの一団からも追われました。荒野に出ても、そこでもサタンに追われました。それで終わりではありませんでした。後には全体が動員されて、十字架の道、ゴルゴタの道に追いやられました。

しかし、反逆者として追われる民族のために、むしろ涙を流したのがイエスでした。イエスはユダヤ教団から異端者と見なされましたが、イスラエルのどの祭司よりも彼らのために多くの血の涙を流した人でした。その時代のどの人も彼の味方にはならなかったが、イエスはその時代の友でした。民族の反逆者として追われながらも、民族の忠臣であり、教団の異端者として追われながらも、教団の忠臣でした。

彼の歩みはどのようなものでしたか。引き裂かれ、追われ、倒れる、十字架を背負った悲惨な歩みでした。それだけではありませんでしたか。無謀な悪党たちが鞭を持って追い立てる状況にも直面しました。このような状況で、もしイエスがエリヤのような人であったなら、「父よ、私だけが残りました。」という祈りをしたかもしれません。

しかし、イエスはゲッセマネの園で三人の弟子を後に置いて祈るときに、「我が父よ、もしできることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の意志ではなく、父の意志を行ってください。」(マタイ 26:39)と言いました。これが偉大です。自身の状況も悲しい中で、自分自身は民族の犠牲であり、人類の犠牲であり、天の理の犠牲であることを知っていました。

このことを知っていたイエスは、自身の悲しみも悲しみですが、天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。民族のために現れながらも、民族の前で裏切られる自分を見る天の悲しみがどれほど大きいかを心配していました。イエスは天の王子であり、万宇宙の主人公であり、メシアでした。そんな「イエスが悲惨な十字架の運命にどうしているのか?」と嘆くならば、この宇宙を動員して嘆くことができたでしょうが、嘆くことができない自分であると感じたため、追われる立場に立つことに恥じたのです。

教団をまとめ、民族をまとめて天の王国を築き、世界を父の懐に抱きしめる責任を担ったイエスは、その責任を果たせずに十字架の道を歩むときに、恨みを感じることはありませんでした。「この杯を避けさせてください。」と祈ったのも、自分の死が悲しいからではありませんでした。自身の死によって民族の悲しみと天の悲しみがさらに増すことを知っていたからこそ、そう祈ったのです。

イエスは自分が十字架に倒れると、後世の世界人類にさらに増す十字架が残り、そのために悲しみの歴史が終わらないことを知っていました。ゴルゴタの道が終わらないことを知っていました。死の道が終わらないことを知っていました。そして、自分がゴルゴタの道を行けば、自分に従う者たちもゴルゴタの道を歩まなければならないことを知っていました。十字架だけでなく、さらに困難な道が残ることを知っていたイエスでした。

両手両足に釘が打たれ、脇腹に槍で刺されて血を流す状況、いばらの冠をかぶる状況に立つときでさえ、これが自分に止まらないことを知っていたにもかかわらず、イエスは天に向かって「すべてが成し遂げられた」と言いました。その言葉は人間の世界における十字架の道が全て終わったという意味ではありませんでした。十字架のために涙を流し、心配する気持ちの訴えが天と通じたということです。

イエスは数多くの先祖たちが天の前で犯したすべての過ちを背負い、天を慰めるために自分自身が生け贄として天の前に捧げられたという事実を、皆さんは知っておくべきです。

それでは、ここでイエスに対する神の心情はどうだったのでしょうか?死にゆくイエスの姿、天を心配しながら十字架の坂を越えていくその姿を見たとき、人間世界に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょうし、天の4000年の歴史の中に怒りがあったとすれば、それ以上の怒りがないでしょう。

しかし、イエス自身は死にゆく中で「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのかを知らないのです。」と言いました。神は直ちにノアの時代以上の審判をしたい気持ちがありましたが、イエスが民族を守り、教団を守り、十字架を守って死んだので、神は人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。このような心の繋がりが後世の人間、残されたイスラエル民族と結びついていたため、裏切る後世の人間たちを見捨てることができず、つかみ続けているのです。裏切る後世の教団をつかみ続けているのです。

後代に生まれた私たちは、今、こうした天の心情を理解しなければなりません。イエスはこのような心情で天を迎えたく、こうした生涯を送りたいと望んでいました。イエスの族であり、イエスの後継者であり、イエスの偉業を継承しなければならない私たち、天の前に栄光の実体として誇れるべき私たち、こうした使命と責任を担い、天の期待に応えて立つ今日の私たちは、今何を求め、何を感じ、何をすべきかを考えなければなりません。

私たちは今、さらに何を考えなければならないのでしょうか?イエスの友となり、イエスの花嫁となるようにとの教えに従い、そのような人になることを考えなければなりません。さらに、私たちは先祖たちが天の前に抱えていた歴史的な恨みを解消しなければなりません。そして、死の嘆きの因縁を後代に残さず、戦いの道を死のゴルゴタに残さず、勝利のゴルゴタとして残すことができるようにしなければなりません。天はこのような責任を担う者を探していることを知っておくべきです。

この終末の使命が信者たちにあるとするなら、審判の日を待ち、復活の主を求めて栄光の場に立ちたいと願う私たちは、イエスの心情とノアの家庭に対して天が抱いた悲しい心情を理解しなければなりません。天の前に立ったノアが120年間の労苦の末に洪水の審判を免れたとき、天は残されたノアの八人の家族を通じてその間の恨みを解消しようとしましたが、ハムの失敗により再び嘆きの条件が残ったことを知り、ノアの家庭の悲しみを再び解消できる者となるべきです。

アブラハムは犠牲の失敗により息子イサクを犠牲として捧げなければならず、彼の子孫はカナンの地を離れてエジプトに入り、400年間の苦役時代を過ごしました。

天はイスラエル民族をカナンの福祉へと戻すためにモーセを立てて努力させましたが、その復帰の過程でイスラエル民族は何度も天を裏切りました。それ以後、多くの先祖たちがその意志を貫こうとしていますが、天から「よろしい。お前が意志を成し遂げた。私の願いを成し遂げた」との称賛と祝福を受けた者はいませんでした。

このように先祖たちによって悲しみに満ちた天の心情を理解し、今日の言葉のように、アハブ王の前であらゆる迫害と抑圧を受けたエリヤのような立場に立つとしても、晩年の人生として消え去るとしても、自らの境遇を嘆かず、ただ神をつかんで進まなければなりません。

ゲツセマネの園とゴルゴタの山頂でイエスが抱いた心情をエリヤが抱いていたなら、そして天と縁を結んでいたなら、天はそこから歴史的な悲しみの一端を解消したでしょう。しかし、そうすることができなかったために、天の悲しみはイエスにまで延長されたのです。

しかし、イエスの死によってこの意志は解消されることなく、今日まで延長されていることを私たちは知っています。

今日、世界で起こっている現象を見ると、それはかつてイスラエルのアハブ王の時代に起こった現象と匹敵するものです。偶像とは何ですか?天を捨てて他の何かを崇拝し、それを神よりも高くすることが偶像です。しかし、今日の多くの人類は、自分が知らない間に文明という偶像の下にあることを私たちは知っておかなければなりません。

このような時に、アハブ王を見守っていたエリヤのような心情を持ち、すなわちアハブ王を見て天の悲しい心情を内的な心情に重ねて感じる者がいるとするなら、エリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守り、「この地を天の懐に抱くことができる愛する子供たちにしてくださいますように」と祈る者がいるなら、その者はエリヤ以上の激しい心を持ってこの時代を見守るべきです。そのような者がいないなら、自分がいかに下位であっても、先祖たちが天の意志を受けて天の道を築き、摂理の伝統を築いて摂理しようとする神の歴史が残っていることを知り、自分がいかに不足していても不足と考えず、他人の知らないところで祭壇を築き、他人の知らない涙を流す者となるべきです。このような者がこの地に現れ、戦わなければ、この世界の終末的な形を阻むことはできません。


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御言葉選集5(10)

2024年09月01日 19時00分41秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 5 - 10. 誇りたかった神様を知ろう (1959年2月8日)

1959年2月8日(日)、前本部教会にて

聖書拝読:創世記 1:24-31


<祈り>

お父様、お父様が本来の楽園を失い悲しまれたその心情を、今この瞬間、私たちが理解できるように許してください。アダムとエバの悲しみが私たちの悲しみであることを、これまで私たちは知りませんでした。また、私たちの悲しみよりも、お父様の悲しみがどれほど大きかったかを、私たちは体も心も感じることができませんでした。お父様が私たちの知らぬ間に涙を流し、無限の悲しみと無限の苦しみの中におられたことを、今この瞬間、体と心に感じさせてくださいと、切に願い求めます。

アダムとエバの堕落によるお父様の悲しみも大きかったですが、復帰摂理の使命を担い、地上に降り立ったイエス・キリストがすべての使命を全うできずに十字架で亡くなったことも、お父様にとって言葉にできないほどの大きな悲しみであり、孤独であり、苦しみであったことを、今この瞬間、私たちが理解し、そのすべての悲しみを体と心で感じさせてください。

私たちの先祖が、お父様を裏切ったために、やむを得ず怒りと悲しみに満ちた歴史の道を歩んできたことを思い、今日の私自身が、お父様の前でさらに悲しみを加える哀れな立場に立たないようにお許しください。アダムとエバの悲しみを感じ取り、イエス・キリストの悲しみを理解できるような姿勢を私たちにお許しください、お父様、切に願い求めます。

今、私たちの体と心が、単なる私たち自身の体と心に留まらず、私たちの心が、お父様の心を代わり、私たちの体が、お父様の形を代わることができるように許してください。私たちが、悲しみの心情を持つお父様を証し、呼び求めることができるこの時間をお許しください。

威厳を立てることのできない私たちではありますが、お父様によって立てられ、見つけ出されたお父様の内なる心情を知ることのできる群れとなるようにしてください。愚かな姿ではありますが、体と心を合わせてお父様に祈り求めますので、この時間、憐れみの手を伸ばし、愛の光を注いでください。お父様の勝利の軍勢として立ててくださり、悪魔と戦って進んでいけるお父様の息子娘となれるよう、愛するお父様、切に願い求めます。

     1

イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖が天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

先祖たちが犯した歴史的な罪状を私たちは知りました。今、私たちを立て、お父様が求めておられる生命の基準を見つけ出し、立てることができるように許してください。そして、本来のアダムとエバに代わる実体として立つことができるお父様の息子娘となれるよう、切に願い求めます。

今、私たちの周りには無数の悪魔が徘徊し、狙っていることを知っています。私たちの行く道を導いてください。そして、無数の悪魔を打ち負かすための内的な準備と外的な準備を整えるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

お父様、この時間を通じて勝利の基準を立て、お父様の栄光を現してください。もし眠っている息子娘がいるならば、その者たちを目覚めさせてください。お父様がその者たちを親しくお世話してくださることを切に願い求めます。そして、無数の悪魔が入り込むことのないこの時間となるように許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

この時間、私たちが、お父様の心情を似ることができるように導いてください。そして、お父様の憤りの心情を体験できるように許してください。お父様の切なる心情に私たちが共感し、ただお父様の忠告と助言を仰ぐことができるこの時間を許してください。愛するお父様、切に願い求めます。

     2

この時間、民族を代表して集まっている数多くの祭壇の上に祝福を下してください。地方で切なる心情を持ってお父様の前に訴えている孤独な子供たちがいることを知っています。お父様、その者たちを祝福し、一律の恩賜で導いてください。内的な使命を全うすることができるように、復活の歴史を彼らに加えてくださることを切に願い求めます。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


<説教>

今日の本文の言葉は、私たちが非常によく知っている言葉です。創造の最初の日から六日目まで、神様は創造された万物を見て「良し」と言われました。すなわち、善であるとおっしゃいました。この「善である」という言葉の中には、無限に誇りたい神様の内なる心情が含まれていたことを、私たちはもう一度思い出さなければなりません。

神様は六日間で創造された万物を見て、誇りたく思われました。すべての被造物を見つめた時、無限の喜びを感じておられたのです。その喜びをもって「善である」と繰り返しおっしゃられましたが、この言葉は誰に向けたものでしょうか?この言葉は、天使長に向けたものではありません。万物に向けておっしゃられた言葉です。神様が万物に対してそのように切なる心を持っておっしゃったということを、私たちは理解しなければなりません。

しかし、創造されたすべての被造物がエデンの園で「善である」と賛美されたにもかかわらず、その被造物は善の価値を失ってしまいました。神様が誇ろうとされたその意図が、万物の中で実体的に現れることができなかったのです。この悲しい事実を考えるとき、「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったことを私たちは再び思い出さなければなりません。「善である」とおっしゃったその言葉が、悲しみの言葉となったのです。真に神様の心情と事情を理解する真の人がいたならば、神様は御自身の大いなる労苦の手を経て創造された万物を見て、さらに大きな喜びを感じられたことでしょう。

しかし、「善である」とおっしゃったその言葉の価値基準を理解し、その言葉に応えてくれる捧げ物がなかったのです。このことを思い起こすと、被造物を愛されたお父様の心情には、悲しみが隠されていたに違いありません。本来、神様は「善」として創られたその被造物よりも、その被造物を創造されたお父様御自身をもっと誇りたかったのです。このことを私たちは理解しなければなりません。

     3

そのため、今日私が皆さんにお伝えしたいテーマは「誇りたかったお父様を知ろう」というものです。「誇りたかったお父様を知ろう」というテーマで、しばらくお話しさせていただきます。

お父様はアダムとエバを創造され、彼らが成長し、万物を支配し、善の理念圏内で言葉の価値を実現することを望まれました。また、アダムとエバを通して万物の前に誇ることができる日が訪れることを待ち望んで、アダムとエバを見つめておられたのです。この事実を私たちはもう一度思い出さなければなりません。

お父様がアダムとエバを見つめられるとき、彼らが完成の段階に到達し、万物を支配し、お父様の代わりに存在するその日を心の中で渇望し、待ち望んでおられました。お父様はアダムとエバを立て、長い時間をかけて万物を創造された事実を誇ることができる歴史的な一瞬を持ちたかったのです。また、アダムとエバを立て、彼らが「あなたの内なる性格と外なる形を似た実体として、あなたの心が私の心であり、あなたが喜べば私も喜び、あなたが応えれば私も応える、二つではなく一つの姿である」と言えるその日を待ち望んでおられました。このような天の心情を、今日私たちは探り、理解しなければなりません。しかし、このお父様の心情を人間の祖先が理解しなかったために、堕落したのです。この事実を私たちはよく知っています。

創造以来、お父様は人間の祖先を通して誇ることができる人、誇ることができる家庭が現れるその日を心の中で待ち望んでおられましたが、堕落によってその誇りの条件がすべて失われてしまいました。誇りの条件が悲しみの条件に変わってしまったのです。この事実を考えるとき、私たち堕落した人間には、すべての精力を注ぎ込んで、本来の父の内なる心情に刻まれている誇りを探り出し、それを引き出してお父様の前に誇ることができるその一日を見つけるために探し求める歴史的な責任が残されているということを、私たちは考えなければなりません。

被造物を創造されながら、一度も誇ることができなかったそのお父様、誇りが悲しみに変わり、誇りが涙に変わった天のその事情を、私たちは知らなかったのです。

     4

ですから今は、お父様が誇りたいと思われる本性を探さなければならないときです。元来の生命を探さなければならないときです。したがって、皆さんは今、お父様と対面することのできる本性の愛の心情を持つ存在として、お父様が誇りたかった本来の姿を備える必要があります。

お父様は悪魔を恥じさせることができる一つの実体の姿、誇ることができる一つの姿を6000年もの間待ち望み、探し求めてこられましたが、そのような人を見つけることができず、今日この時間まで来ています。この悲しい事実を私たちは知るべきです。

人間は誇りたいと願うものです。自分を誇りたくなるのが人間の心です。また、自分を中心にして、親や兄弟、子供、つまり家庭全体を誇りたくなる心があります。さらに進んで、民族を掲げて誇りたくなり、国家を掲げて誇りたくなり、さらに世界や天地を掲げて誇りたくなるのです。堕落した人間ではありますが、誇りたいという本心が皆さんの生活を支配し、これまでの歴史を支配してきたことを、私たちは知るべきです。では、今日誇りたいこの心を正しくないものとする原因はどこにあるのでしょうか?それは、人間が堕落したからです。

私たちは日常生活の中で自分自身を誇りたくなります。隣人に対してだけでなく、全世界の人々に対しても自分を誇りたくなります。自分自身を誇りたいという心は悪い心ではなく、本性の心です。それは天国に行ける創造本来の心なのです。

私たち一人ひとりが自分を誇り、家庭を超えて社会を超えて国家を超えて、世界にまで自分の名前を広めたいと思うのは、地上に生きる私たちの心情です。では、こうして誇りたいという心情が私たちの心を動かし、心を激しく揺さぶる原因は何でしょうか?それは、本性として誇りたかった心が私たちにあるからです。このような心があるのは、お父様と人間が一体的な理想を成し遂げたならば、私たちの誇りがお父様の誇りとなり、お父様の誇りが私たちの誇りとなる本来の関係があったからです。

     5

ですから、たとえ私たち人間が堕落してしまったとしても、そのような方向に向かって進んでおり、今日私たちはその万物の中心価値を見つけるために苦しんでいます。しかし、堕落した人間であるために、私たちの心に働きかけるすべての誇りの法則は順理的な法則ではなく、逆理的になっていることを、私たちは知らなければなりません。本来の心情に従って順理の法を求めて進むべき人間であったはずが、堕落したためにそれを失い、逆の道を歩まざるを得ないため、本来の心情が指向する方向と現実の環境とが対立していることを、私たちは知るべきです。

ですから、お父様を探し求める私たち、道の道を探し求める私たちは、今、誰を掲げて誇るべきでしょうか?自分を掲げて誇る前に、一つの中心を掲げてまずその者を誇るべきです。国を誇りたければ、自分を中心にして誇るのではなく、忠臣を立ててその国を誇るべきです。民族を誇るときも、一つの中心を立ててその民族を誇るべきです。家庭も同じです。

そのため、堕落した人間は自分を捨てて、自分を超えて、団体では団体の中心、道では道の中心、国家では国家の中心、世界では世界の中心、さらに天地においては天地の中心であるお父様を掲げて誇るという道を歩まなければなりません。それができなければ、お父様の前に誇りの存在として立つことはできないということを、私たちは知るべきです。

自分を中心にして自分が喜ぶために誇る人は、天理原則に反する条件を立てる者です。したがって、皆さんは自分自身の誇りの条件を超えて、相対的な存在を誇ることができなければなりません。相手の善を誇り、相手の特性を誇ることができればできるほど、その分だけ天に近づくことができるのです。

すべての人間は自分を超えて家庭を誇りたくなり、教会や国家、世界を誇りたくなる心が湧き上がっていますが、これまでの歴史の道のりで、また今日この地上で、真に頭を垂れて誇りたいと思える世界や国家、教会、家庭を見つけたことはありません。永遠に誇ることができる世界や国家、教会、家庭をまだ見つけていないのが人間です。

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私たち人間がたとえ不信の立場に立っていても、いずれにせよ、お父様の前に誇りの縁を結ばなければなりません。自分を超えて家庭を誇り、社会や国家、世界を誇らなければならない立場にある私たちです。ですから、私たちの心は常にその方向へと導かれているのです。

今、私たちは誇りたかった天の心情を思い起こさなければなりません。私を見つけるために、お父様が6千年間続けてきた労苦の歴史、血戦を繰り広げてきた悲惨な歴史の道を経て、今日私を見つけ出してくださったお父様を考えるとき、お父様は歴史のどの時点においても、人間を立てて誇ることができる条件を持っていませんでした。この天の事情を知るとき、今日の私たちは、お父様の前に自分を立てて誇ることができるものもなく、どんな条件を持って現れることもできません。

本来、善の楽園では、私たち個々をお父様が誇ることができました。私たち個々を立てて万物の前に誇ることができましたし、万物を立てて天使の世界の前に誇ることができました。誇りたかった本来の心が私たちから出発し、家庭、社会、国家、世界を通じて、私自身の誇りが天の誇りと縁を結ばなければなりませんでした。しかし、それができなかった立場にある堕落した子孫たちは、逆にその誇りの条件を立てるために自分を打つ歩みをしなければならない悲しい立場に置かれていることを知らなければなりません。

さらに、お父様の誇りの条件であったアダムとエバ、悪魔でさえも「あなたが誇ることのできる真の息子娘です。まさにあなたの愛を受けるにふさわしいです」と言って崇拝すべき本来のアダムとエバにはなれず、6千年という長い年月の間、悪魔の犠牲となってきました。このような人々を見つめるお父様の悲しみが、言葉に表せないほど大きかったことを、私たちは知るべきです。

今、私たちはこのような悲しみの中にあるお父様に、誇ることのできる条件を立てるべきです。一つが二つになり、二つが十になり、十が千になり、万を成し、民族や国家、世界を成して、お父様が目指される誇りの方向を探し求めていかなければならないのです。その方向を探し求めなければならない堕落した子孫であり、今日この地上に生きる人間です。

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したがって、皆さんは今、お父様が誇ることのできる本来の世界に向かい、お父様が誇ることのできる主権に向かい、お父様が誇ることのできる本来の人間に向かい、お父様が誇ることのできる本来の生命と本来の性質と本来の愛を求めて進まなければならない時が来たのです。

パウロは持っていた地位や学識があっても、自分を誇りませんでした。彼は自分の民族を立てて誇ることのできる背景があり、自分の教派を立てて誇ることができ、自分の国家を選ばれたイスラエルとして誇ることができましたが、彼の心に誇りたかったのは、お父様が掲げられた誇りの条件だけであったことを、皆さんは知るべきです。お父様が誇りたかったその誇りの条件を握りしめて戦い抜いたパウロの生涯を、皆さんは知るべきです。それだけでなく、ノアの時代から今日まで、お父様の前に立てられた無数の先祖たちは無限の苦しみを味わいました。

では、お父様はどのような条件の下で私たちに向き合われるのでしょうか? 悪魔世界で最も嫌がる条件を立てて私たちに向き合われるのです。このことを私たちは知るべきです。お父様は私たち人間が信じず堕落したので、信じることのできない環境で信じるように強調し、食べれば死ぬ危険な状況で食べないように強調された方でした。

したがって、私たちの先祖たちは、お父様の言葉を信じて実行することが難しい環境の中でも、その言葉通りに実行してきました。ノアは逆境の中で120年間、同じように信じ続けました。襲い来るすべての迫害や侮辱を断固として排除しました。お父様の心情に通じようとする心が切実でした。自分が誇りたいと思うどんな条件よりも、社会のどんな誇りの条件よりも、お父様が誇りたいと思われるその条件が大きく、尊いことを知り、従ってきました。

そのような道を歩んできたノアだったので、たとえ万人を水で裁いても、天を裏切り不信するその群れが抗議できるような条件は成立しませんでした。そのようなノアは、お父様が誇ることのできる人物でした。天的な誇りの価値と実体的な価値を立てたのがノアの審判です。ノアの息子娘たちは、ノアが中心として慕っていた、すなわちお父様が立てようとしている誇りの心情を通らなければなりませんでしたが、その中心を離れて自分を中心に考えました。そこから天倫は逆転していきました。

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アブラハムも同じです。カルデアのウルからすべてを捨てて出発することは、簡単なことではありませんでした。アブラハムは悪魔世界で誰よりも幸福で楽しく生きることができる人でした。彼の妻は非常に美しく、彼の生活は豊かでした。

お父様は悪魔世界で誰よりも豊かな生活の条件を備え、誰よりも楽しく生きていたアブラハムを呼び、その反対の立場である逆境の中に追い込まれました。自分の民族が歩んでいない道、家族や民族の誰もが歩まなかった逆境の場所へと追いやる、すなわちカルデアのウルを離れよという命令をされたことを、皆さんは知らなければなりません。

アブラハムは、自分を超えて民族と子孫を理想的な理念の世界へ導いていくお父様が存在することを誰よりも深く感じていた人でした。アブラハムは、自分が現実に生きている生活が、民族が生きるべき誇りの基準ではないことを知っていました。このような心情を持った彼にお父様の命令があったとき、彼は自分のすべてを捨てました。それは簡単なことではありません。楽しく生きていた家庭とすべての財産を捨て、ハランの荒野に向かって進んだアブラハムの事情は悲惨でした。しかし、今日たとえ哀れな放浪者の姿であっても、今日たとえ誇ることのできない立場や環境に置かれていても、いつかは誇る日が来ると信じて進んでいくアブラハムの歩みは堂々としていたのです。

どんな逆境や困難が襲いかかってきても、それを百回千回乗り越えていく覚悟を持ち、お父様が目指す誇りの楽園を求めていく心は、その時代の誰よりも大きかったことを、皆さんは知らなければなりません。

このようなアブラハムの心情と、誇ることのできる一つの相対的な存在を探し求めていたお父様の心情が見えない理念圏の中で何らかの合一点を結んだからこそ、お父様はアブラハムにお父様御自身が理想する絶対的な理念の楽園を掲げ、誇りの祝福を授けてくださったという事実を、私たちは知らなければなりません。

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こうしてアブラハムはお父様の前に信仰の祖として祝福された立場に立つことになりましたが、その後の子孫たちは、自分たちがとどまっている場所が誇るべき場所であると思い込んでいました。民族を超えて世界に向かって進むべきなのに、彼らはそれを知りませんでした。彼らはただ一箇所に留まり、自分たちの誇りを握りしめていたため、お父様が誇ることのできる理念の時代からますます遠ざかっていきました。その結果、人間は悲しい歴史の道を歩むことになったことを、皆さんは知らなければなりません。

モーセもまた同じです。華やかなファラオの宮殿で40年間、誰にも劣らない裕福な生活を送りました。しかし、羨まれることのない生活環境の中で生きていたものの、彼はお父様が民族を立てて誇ることのできる日を誰よりも待ち望んでいました。エジプトで400年間、苦しみの中で呻吟している哀れな民族でしたが、いつかはお父様が必ず彼らを祝福し、約束の地カナンに導いてくださることを信じていました。新たな希望の楽園を築き、どの民族や国家にも劣らない国、お父様が最も誇りとされる地上天国を築いてくださることを、モーセは望んでいました。

彼は自由な環境で不自由なことなく生活していましたが、それをすべて拒絶し、誇りの条件としませんでした。むしろ彼は呻吟し、苦しむイスラエル民族をお父様の前で誇りたかったのです。さらに進んで、アブラハムに祝福されたカナンの地、カナン七族に奪われたその地を慕い、誇りたかったのです。そのような心情がお父様がカナンの地にイスラエル選民を立てて誇りたかったその心情と通じたからこそ、お父様は民族の前にモーセを立ててイスラエル民族を導き出されたのです。このようなお父様の事情があったことを、私たちは知るべきです。

モーセが60万の群衆の前に現れたとき、イスラエル民族はモーセがそのような内なる心情を持って現れたことを知る者は一人もいませんでした。大多数がモーセに反対しました。しかし、お父様は多くの奇跡と奇蹟をもってモーセが神に代わり、イスラエル民族が生きるための誇りの楽園へと導く責任者であることを認識させ、そのモーセの心情を理解させてイスラエル民族を引き出しました。

それならば、イスラエル民族は誰よりもモーセを天に立てられた者と知り、最後までモーセを誇ることができるべきでした。そのような民族であるべきでした。しかし、天の権威を持ってファラオの宮殿に現れ、宮殿を討つときは、神に立てられた者であり私たちの指導者だと喜んでいましたが、荒野に出てみると、些細な環境に直面し、イスラエル民族を導くことができない存在だと不信しました。

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天が誇りの人物として立てたモーセに対して、イスラエル民族は誇りの指導者、誇りの代表者として認識し、彼の悲しみは民族の悲しみであり、彼が行く道は民族の運命を解決するための道であり、民族を導くのも民族を救うためであることを知り、日々モーセを中心として生活していた人がいたならば、60万の群衆は荒野の道で全員倒れることはなかったでしょう。

誇らなければならないモーセを恨んだその日から、従うべきモーセを裏切ったその日から、迎えるべきモーセを迎えられなかったその日から、お父様の誇りとモーセの誇りと民族の誇りは消え去りました。モーセによってこの使命を成し遂げるべきでしたが、それが成し遂げられませんでした。民族に代わって立てられたモーセを民族が裏切りました。ここからモーセはファラオの宮殿でカナンの地を憧れて生きていたとき以上の悲しみを感じたことを知らなければなりません。

モーセは希望の楽園であるカナンの地へと導くために民族を荒野に導き出しました。荒野で民族が拒絶し、不信する環境の中でも民族を導かなければならなかったモーセの悲痛な心情は、言葉では言い表せないものでした。民族全体が誇るべきでしたが、それを知らず無視する民族は、即座に滅びるべきです。もしイスラエル民族がモーセの心情を理解していたなら、不平を言うことはできなかったでしょう。

飢えに苦しむ民族を見つめるとき、モーセは飢えに苦しむどのイスラエル民族よりも壮絶で深刻な立場で天に向かい、彼らに祝福を求めて祈願しました。そのような心が天を動かしたのです。モーセが自分の立場を忘れ、自分たちのために祈っていたことをイスラエル民族は夢にも思いませんでした。

イスラエルの60万の群衆が滅びないためには、モーセが彼らよりもさらに飢えていて、彼らよりもさらに悲惨であったことを知るべきでした。また、民族を救おうとしていたモーセであったことも知るべきでした。したがって、モーセを永遠の後世の子孫の前に天の誇りの条件として立てるべき民族であったのです。しかし、それにもかかわらず、逆に後退し、反対の立場に立ったとき、モーセの心情は言葉にできないほど悲しかったのです。

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さらに、命を懸けて天を敬うモーセの意志に従って進んでいくべきであったことを民族が知らなかったとき、それによってモーセが悲しんだだけでなく、天はモーセ以上に悲しみました。モーセの悲しみよりも天の悲しみがさらに大きかったということを、皆さんは知るべきです。民族を代表する指導者、誰よりもお父様が誇ることのできるモーセでしたが、民族の不信によって悲惨な結末を迎えることになった悲しい事情を、私たちは知るべきです。

お父様はイスラエル民族がモーセに従ってくれることを望んでおられました。お父様がモーセを立てようとされるほど、従ってくれることを望んでおられましたが、その希望は消え去り、イスラエル民族は望まぬ悪魔の犠牲となりました。

お父様がモーセを通してファラオの宮殿で40年、ミディアンの荒野で40年、荒野の道で40年間一貫して望んでおられた希望は、跡形もなく消え去り、誇ることのできる民族と土地は失われてしまいました。それでもモーセは不甲斐ないイスラエル民族を異邦の国々の前に誇りたかったのです。しかし、このようにお父様が立てられた立派なモーセを、イスラエル民族は誇ることができませんでした。

では、将来、終わりの日に世界を動かすことのできる天の権威を持つことができる国家とは、どのような国家であり、その民はどのような民であるでしょうか? お父様が掲げられた者を天以上に誇ることのできる民と国家であることを、皆さんは知るべきです。それが当然ではありませんか?

イエス様を一度考えてみましょう。イエス様はお父様が4千年もの間労苦されて作り上げた結晶であり、愛と心情の化身でした。また、彼の言葉と事情と希望と心情は、お父様の全体の属性を代弁していました。お父様の希望を代弁し、誇ることのできる一つの存在として立てられたのがイエス様であったことを、私たちは知らなければなりません。

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お父様が4千年という長い年月を耐え忍んだ末に、イエス様を御自身の代理人として、誇ることのできる中心存在としてお送りになったのですが、そのようなイエスも、この地上に来て自分を誇ったことは一度もありませんでした。お父様が喜ばれる場所で、イエス様は一度も誇ったことがなく、お父様が喜ばれるほどイエス様を掲げて誇ってくれた者もいませんでした。

イエス様はお父様の代理として来られたため、自分自身を誇り、家庭や教団や民族や世界の前に誇りたいという心が切実であったのです。それが当然ではありませんか? 彼は4千年もの間待ち望まれていた誇りの結晶として来られたので、自分を家庭や社会や国家や世界の前に誇りたいという心が切実であったことを、皆さんは知らなければなりません。

そのようなイエス様が数万の群衆の前に自分を掲げて誇る基盤がありませんでした。お父様もイエス様を立てられたとき、天地のすべての被造物の前に誇り、悪魔の前にまで誇るために立てられました。それにもかかわらず、誰一人として彼を誇らず、一つの家庭も、一つの教団も、一つの民族も、世界も彼を誇りませんでした。

このように天を裏切った民族の子孫である私たちは、天の前に威信と体面を立てることのできない者です。歴史的な罪過を犯した私たち人間は、自分を掲げて誇ることのできる位置に立てず、そのような環境を持つこともできませんでした。それゆえ、これまで誇ることのできる一人の人間や、一つの教団や、一つの民族に出会えなかったことがお父様の無限の悲しみであることを、皆さんは知るべきです。

イエス様はお父様が彼を4千年の歴史を代弁して立てられたとき、「畏れ多いことです」と涙を流さざるを得ませんでした。しかし、イエス様の心に刻まれていたのは、その立てられた使命が成し遂げられなかったことでした。彼は自分を弁明するよりも、「私を立てて苦労されたお父様の願いがこんなことになるとは!」と嘆息し、天の前で頭を垂れたイエス様でした。したがって、皆さんは今、このような心情を持っていたイエス様を誇らなければならない時が来たということを知るべきです。

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今日のキリスト教徒たちは、イエス様が個人と家庭と民族と世界の前に立てて誇りたかったその一日を成し遂げ、彼を迎えなければならないことが自分たちの使命であることを知るべきです。これはお父様がこれまで望まれている願いです。今、お父様がエデンの園を創造され、人類を立てて誇りたかったその本来の心情を、皆さんが理解するべき時が来ました。

お父様の御子であることを誇らなければならなかったイエス様、栄光の姿で誇らなければならなかったイエス様が十字架を背負わなければならなかった惨めな姿となったこの悔しい事実を、私たちは知るべきです。そして、十字架の刑具を背負いゴルゴタに向かって歩んでいたイエス様の心、民族に対して、天地に対して、悪魔に対して抱かれたその怨念の心情を解き放ちたいという心が、皆さんの胸に満ちていなければなりません。そのような心が必要です。天の使命に対する切なる心情が染み渡るべきです。

心情の結晶として来られ、人類の希望の結晶として来られ、人間に天と切り離せない父子の縁を結ばせるために来られた真の父を怨念の場所に追いやったのは私たちの先祖であり、悪魔が行った行為であったので、今日私たちはその先祖たちの罪を清算し、悪魔を裁きたいという燃え上がる心が必要です。今も私たちの血には悪性の血が流れています。それゆえ、私たちは「天よ、力をお与えください。天よ、私をお許しください!」と叫ぶ心を持たなければならないのです。

誇りの楽園が悲しみのゴルゴタに変わるとは、これがどういうことですか? 今日、信者たちは十字架を誇ることはできますが、天のために十字架を背負ってはいません。イエス様を追い求めながらも、イエス様を誇ることができず、天に対して切なる心情を持ち、生ける祭壇を求めてさまよっていたイエス様の心情については誇りませんでした。イエス様が天と地で探し求めた一人の人間と一つの家庭と一つの民族を握りしめて、天の使命を成し遂げようとした心情は知られていません。

ですから、すべてを捨ててでも私たちが最後に行うべきことは、歴史的に犯されたすべての罪を清算し、天の心情を体験し、天がそのように探し求めていた一人の人間として現れることです。

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それによって、そのような家庭と民族が現れ、その後にはそのような選民が現れ、そのような天民が現れなければなりません。人間の事情がどれほど悔しく、どんな複雑な事情があっても、それが問題にはならないのです。そのような使命を成し遂げる心が皆さんから湧き上がらなければなりません。パウロはそのような心情を持った人でした。

イスラエル民族のために来られたイエス様は哀れな方でした。ダマスコ途上でイエスに出会ったパウロは、その日からイエス様の前に顔を上げることができない、すなわち顔向けできない自分であることを悟り、イエス様のために生きようとしました。彼はイエス様のために一生を捧げようという心情にとらわれて「死ぬとも生きるとも、あなたの栄光を現すことができるよう導いてください」と祈りながら、イエスに対して変わることのできない心情を持っていたため、キリスト教の新たな基盤がここから築かれることになったことを、皆さんは知らなければなりません。

今、私たちはイエス様を誇らなければなりません。彼の心情を誇らなければなりません。イエス様の事情と願いを誇り、さらに進んでイエス様が探し求めていた花嫁を誇らなければなりません。イエス様が探し求めていた花嫁を誇ると同時に、イエス様が探し求めていた家庭、民族、国家、世界を誇り、その後にようやくお父様が私たちを掲げて誇ることができることを知るべきです。このようなことを考えるとき、私たちが誇りたいと思っている私たちの前に立ちはだかっているものは何でしょうか?

私を阻み、私を裂き、私を迫害する十字架が立ちはだかっています。しかし、それを誇りながら進むことがキリスト教信者が進む道です。これは無限に悲しいことです。

実体のイエス様を誇るべきなのに、ゴルゴタの十字架を背負ったイエス様を誇らなければならない条件が人間の前に残されたため、その十字架を誇らなければ、皆さん自身が誇りの条件を立てることができません。天のために無限に苦しんだというこの一つの誇りの条件を立てなければ、お父様の心情やイエス様の心情を持つ、すべての被造物に対して誇りの条件を備えた天の息子娘たちにはなれないことを知るべきです。

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心ではそのような世界を知っており、感情の感覚ではそのような事実を知っているとしても、実際に皆さんが活動する生活圏内で誇りの条件を備えなければなりません。イエス様が十字架の上で「すべてが成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言ったのと同じその基準を持って進まなければ、お父様が私たちを信じてくださることも、イエス様が私たちを信じてくださることもなく、お父様が私たちを立てて誇ってくださることも、イエス様が私たちを立てて誇ってくださることもないことを、皆さんは知らなければなりません。

イエス様が去った後の2千年の歴史が経過しましたが、これまでイエス様を誇りたいという心に燃えている人に出会ったことがありますか? そのような教団や指導者になれなかったなら、それは堕落した雇われの羊飼いです。自分の体が裂かれ、脇腹に槍が刺さり、額に茨の冠が被せられ、手足に釘が打たれて死ぬとしても、天の前に誇りの条件を立てるために十字架の丘を甘んじて越えて行かれたイエス様の姿を、皆さんは誇らなければなりません。

イエス様は栄光の姿を誇ることのできる条件を備えていましたが、それを表すことはありませんでした。その代わりに哀れな一人の罪人の姿で生きられました。そして、死の道においてもお父様の前に誇らなければならないという心情を持って進まれたイエス様の生涯を見つめ、今日私たちもそのような心を持ってその丘を越えていかなければならないのです。

マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたとき、拒絶されました。復活した姿は歓迎されるものではありません。復活する前、生きているイエス様の悲しみを慰め、天と地の前に、悪魔の前に「すべてが成し遂げられた」という誇りの基準を立てるべきだったのです。このような歴史的な悲運のゴルゴタが残されたため、これまでのキリスト教徒たちはその丘を上がり下りし、上がり下りしているという繰り返しを続けています。上がっては下り、また上がっては下りするということを繰り返しているのです。

これまでゴルゴタを越え、主が永遠に私の花婿だと天と地に向かって叫んだ人は現れていません。「おお、主よ、私をお父様のもとへ導いてください」と祈る信仰者はたくさんいました。これまでのすべての人々は、イエス様を誇らなければならないその内的な事情を知らず、イエス様が来いとおっしゃるのでただ従っているだけです。イエス様の心情世界、その内的な事情を知らなかったのです。

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お父様が誇りたいと思われたものがイエスにおいて結実するべきでした。しかし、その実を結ぶことができなかったために、イエス様は花嫁を立て、その実を結ぼうと2000年の間待ち続けてきたのです。このことを知り、皆さん自身はイエス様の花嫁になる資格を備えるべきです。そうして、お父様が誇りたかった存在、イエス様が誇りたかった存在、さらに進んで皆さんが自分自身を誇ることのできる存在となってこそ、子羊の婚宴に参加することができるのです。このことを皆さんは確かに知るべきです。

親は当然、子供を誇ろうとします。自分を中心にしている前後左右上下のすべてを誇ろうとします。したがって、皆さんも自分の周りに属するすべてを誇ることができる人となってこそ、全体の主人であるお父様とイエス様の前に誇りの条件として立つことができるのです。

終わりの日にいる私たちは、自分自身を冷静に批判しなければなりません。私は誰を通じて誇っているのでしょうか? お父様は誰を通じて誇ろうとしておられ、イエス様は誰を通じて誇ろうとしておられ、私は誰を通じて誇ろうとしているのでしょうか?お父様を掲げて私を誇りたいと思い、イエス様を掲げて私を誇りたいと思い、すべての被造物を掲げて私を誇りたいと思っている私たちです。ですから、私たちは「お父様が誇りたかった本来の姿、お父様の心情を代弁した誇り高い姿がここにありますので、この体を掲げて悪魔の前に誇ってください」と祈ることができなければなりません。

お父様の誇りの心と生命の権限と本来の性質を備え、お父様が信じることのできる私となれば、お父様と私の間のすべてをすべての被造物の前に誇ることができ、万人の前に誇ることができ、三位一体の前にも誇ることができるのです。さらに進んで、悪魔でさえも「そうです。お父様の子供に違いありません」と告白せざるを得ないそのような位置に立たなければなりません。それによって初めて、悪魔が崇拝する基準を成し遂げることができるのです。

自分を誇りたければ、そのような基準を備えなければなりません。そのような基準が備えられていないならば、お父様が「良し」と言われたその基準に達することはできません。それは皆さんの責任です。皆さんは自分が誇りたくなるそのような基準を天に掲げることができなければなりません。そのような皆さんに対して、お父様が今、誇りたかったものを探し出してその位置に立て、世界の誇りとして天地万物の前に掲げようとされるのです。

     17

お父様が6千年間耐え忍んでこられたこの日を迎え、私たちも自分を掲げて誇りたいという心情が湧き上がるような息子娘がどこにいますか?私たちは自分を誇りたいのです。そのような心情の動機を持った皆さんであれば、自分を誇りたいと願うその誇りの対象の中心に自分を置いて、その中心的な誇りの基準を立てるために努力しなければなりません。

そうして、皆さん一人ひとりが掲げている誇りの基準が一つに結ばれて、世界的な誇りとして成長し、私たちが立つべき位置がいかに大きいかを見て、そのすべてを天に返して差し上げることができる立場に立たなければなりません。皆さんがそのような心情を持った者であるならば、お父様は歴史的な日を迎えて、皆さんの立場を立てて誇りたかったすべてを天に捧げようとしておられるのです。

そのような立場に立った皆さん自身は、今日私を掲げて誇りたいお父様の心を体験し、私たちを掲げて誇りたいイエス様の心を体験し、世界を掲げて誇りたいお父様の心を体験して「お父様、栄光を受けてください!」と祈らなければなりません。

皆さんがそのような祈りを捧げ、誇ることができれば、天は皆さんを中心として誇りたいと願われるのです。それゆえ、皆さんが誇ることのできる実体、誇ることのできる家庭、誇ることのできる民族を持たなければならないのです。

そのような信仰者の群れが現れるならば、天は地を抱えて誇り、皆さんを立てて誇り、栄光の基準を持って「このような息子娘が天の息子娘だ!」と告白するその日が来るのです。そのような基準に達することのできる皆さんでなければなりません。

     18

皆さんは誇りの立場に立たなければなりません。どのようにして立つべきでしょうか? 自分自身を天の前に掲げ、天のために掲げ、世界の前に掲げなければなりません。どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというお父様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心を実体で体験できるでしょうか?どのようにすれば、天と地が共に皆さんを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるでしょうか?

お父様が誇ることのできる一つの中心、イエス様が誇ることのできる一つの中心を見つけなければなりません。それを見つけて立つのが皆さんの使命です。

皆さんは今、どのようにしてお父様を掲げ、イエス様を掲げ、悪魔世界の前に誇ることができるでしょうか?皆さんは、そうして天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を誇ることのできる立場に立たなければならないのです。その立場に立ったその日から、栄光の基準が皆さんを包み、天と地のすべてが皆さんを中心に祝福されます。それによって、皆さんを掲げて誇るために、悪魔が敬服することができるそのような位置に立つことができるのです。

ですから、皆さんは自分の願いを誇るべきではなく、自分の生涯を誇るべきではなく、天の願いを誇り、天の心情を誇る立場に立たなければなりません。それが皆さんの今の使命です。そのような誇りを掲げた群れが現れるならば、お父様の恵みがその群れに臨み、栄光の賛美がその群れに響き、神の権威がその群れに与えられるのです。

そのような立場に立たなければならない皆さんは、歴史を総結集して、この日、誇りの道を進む決意を持って出発しなければなりません。ですから、皆さんは今日、自分の過去のすべてを掃除し、誇りたいという天の心情を掲げて誇りの位置を立てなければなりません。それによって、皆さんが天に誇るべき存在となり、皆さんの家庭、民族、国家、世界が天の栄光の基準に立つことができるのです。このことを、今日この時間、心に深く刻まなければなりません。

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<祈り>

お父様、今、私たちはあなたを迎えて誇りたいという心を持たなければならない時です。私たちを立てて誇りたいというお父様の心情を体験し、そのような立場で私たちを掲げて誇りたいというイエス様の心情を体験しなければならない時です。天を掲げて誇り、地を掲げて誇り、悪魔世界を掲げて誇り、皆さんを掲げて誇ることができる立場に立たなければなりません。お父様が私たちを掲げて誇り、天と地が共に私たちを掲げて誇り、万人の前に誇ることができる立場に立つことができるようにしてください。

イエス様が去った後の2千年の歴史の中で、私たちの先祖たちが天倫の道理を全うしなかったため、多くの預言者たちが血を流した事実を私たちは知っています。そのような事実に対して憤りを持ち、彼らの過ちと罪を背負い、悔い改めることのできる子供たちとなれるよう、切に願い求めます。すべてをお許しください。

この一時間をお父様の前にすべて委ねますので、最初から最後まで導いてくださることを切にお願い申し上げます。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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