文鮮明先生御言葉選集 7 - 3. 人間は真実を探し求める探検家 (1959年7月19日)
1959年7月19日(日)、旧本部教会にて。
ヨハネの福音書 10:1-18
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<祈り>
許された御言葉を私たちが拝読いたしました。この地上に生きている数多くの人々は、死の場にありながらも、自分自身を誇り、宇宙の前で自慢することに忙しい現実を私たちは目にしております。
このような世の中で、果たして自分を誇ることができるでしょうか? 自分の価値を高く評価することができるでしょうか? 心情をたどり、黙々と考えを巡らせてみると、偽りの立場に置かれている自分自身であることを否定できなくなります。
父なる神様!今日、私たちの心は何を求め、何を目指して高めようとしているのでしょうか? いまこそ、自分の心が自分のものではなく、自分の体が自分のものではないことを知らなければならない時です。そして、自分自身を立てて誇ることのできない悲惨な境遇に置かれていることを認識しなければならない時が来ました。
私の心と体の価値に対する最終的な決定を私自身が下すことはできず、現れた現象の過程を経て目的地まで自分を導くことができない悲惨な存在であることを、この時間に感じられるようお導きください。
私たちに生命があるとするならば、それは私たち自身によるものではなく、もし何らかの理念が私たちの心を善の方向へ導いてくれるのだとしても、それもまた私たち自身のものではなく、何か他のものによるものであるという事実を感じられるこの時間とならせてください。
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父なる神様、今日の私たちは、自分自身を立てて弁明することに急いでいた過去の姿を軽蔑できる心を見つけなければなりません。自分自身を表に出して高めようとしていた傲慢な心を無視し、踏みつけることができ、自我を征服できる勝利者こそが、天と地、世界、人類、社会、家庭、そして私自身が求めている姿であることを、この時間に理解させてください。
イエス様は「すべてを捨てて私について来なさい」とおっしゃいました。「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言われ、「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高められる」と教えられました。
この御言葉の内容を知るとき、堕落した先祖を持ち、堕落の歴史的因縁から逃れることができない今日の私たち一人ひとりが、捨てて捨ててまた捨てなければならない運命にあることが分かります。
それゆえ、今日の私たちの人生の道は悲惨なものであり、生活環境は複雑であり、私たちは善と悪を区別することができない混沌の中に生きています。このような地において、生命の道を切り開くために、天は努力されてきました。そして、人類の前に真実の人の姿、真実の理念、そして天地の真実の姿を紹介するために、多くの預言者たちがこの地に遣わされてきたことを知っています。
その中でも、万人のメシアとしてこの地に現れ、十字架の上で一片の藁のように命を捨てながらも、万人のために祝福を祈ることができたイエス・キリストの尊厳あるその姿と、そこから流れ出るその心情、そして深く刻まれたその理念を慕わなければならない時が来ました。
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この時代において、自分を軽蔑しなければならないにもかかわらず、自分を高め、万物万象を軽んじ、自分を立てて天を侮辱したことをどうかお赦しください。父なる神様、心から懇願し、願い求めます。
私たちが真実の心、真実の善を目指して動こうとするならば、私たちは天と地に対して負債を負っている者であり、人類の歴史の道程において、言い表せないほどの深い傷を負った罪悪の種族であることを悟らせてください。いま私たちに必要なのは、父なる神様を探し求める心と、本来の自我を追い求める忠誠心、それだけです。それを私たちが持てるよう、どうかお許しください。
イエス様が歩まれた生涯の道が、悲惨な涙の道であったことを私たちは否定できません。また、過ぎ去った歴史の一ページ一ページが、血に染まった激しい戦いで織りなされていたことも、私たちは理解しています。そのために、私たちは自分を立てて歴史的な何かを解明することもできず、時代的に誇れる何かを持つこともできない、宇宙史的な脱落者の立場にあることをどうか悟らせてください。
だからこそ、真実の指導者、真実の命、そして真実の心情を持った指導者が必要であり、天が人間の前に送られたその方こそが救い主でありメシアであると、私たちは信じています。
しかしながら、私たちがそのメシアである方の前に進むためには、それにふさわしい節操と忠誠心、そして心情を持っているのか、この時間に自らを省みて探らせてください。
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天はメシアを迎えるにあたり、人間が最高の情熱、最高の忠誠、そして最高の誠心を尽くすことを切に願っておられることを私たちは知っています。また、サタンと結びつかない最高の知性と燃える心情を求めておられることも理解しています。たとえ私たちがそのような位置に立つことができなくとも、その位置を慕い求める心を持ち、ひざまずいて贖罪の恵みを求める謙虚な幼子のような息子娘となれるようお導きください。父なる神様、心から懇願し、願い求めます。
父なる神様、許された御言葉を私たちはどのように受け取ればよいのでしょうか? 父なる神様、どうか私たちと共にいてください。私たちはこれまで多くの御言葉を聞き、多くの歩みを進め、さまざまな状況の中で動いてきましたが、いまだにあなたの前に捧げられるものを何一つ持たず、ただ空の手であなたの御前に立つ者たちです。父なる神様、どうか私たちを追い出さず、憐れみの目で見てください。私たちの心と体をすべて空にし、あなたのみが主観でき、あなたの恵みだけで満たされるこの時間となるよう、心からお願い申し上げます。
どうか、御言葉を伝える者の心と、それを受け取る者の心が一つとなり、その心情が一つに溶け合い、あなたの心情に通じ、直接あなたの恵みを受け取ることのできる時間となるようお導きください。このすべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。
<御言葉>
この時代は、皆さんもよく知っている通り、文明の時代であり、また、どのような思想、観念、あるいは主義であれ、何かに帰依しなければならない最終の時代です。このような時代を迎えていることを皆さんもよく理解していることでしょう。
では、この現実の中で生きている私たち自身はどうでしょうか? 自慢できる何かを明確に持っているわけでもなく、また、何かを立てて万人に勧めることのできる明確なものを持っているわけでもありません。今がそうであるなら、過去もそうであったでしょうし、今がそうであるなら、未来もそうなるのではないかと心配しなければならない皆さんであることを認識してください。
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人間は堕落という名詞を残して以来、数え切れないほどの波乱に満ちた道を歩んできました。時代ごとに変化する複雑な歴史の過程を避けることができないまま、今日まで人間は導かれてきました。しかし、この歴史の過程を通じて、人々が解決しようとし、探し求めてきた「自分の体と心」、そして「自分が持つ理念や心情」において、「これこそが私が探し求めていたものだ」と確信できる唯一の基点を、いまだに見つけることができずに生き続けているのが現実です。私たちの多くの祖先も同じように生きてきました。そして、今日この地に生きる多くの人々も真実を探し求めていますが、その「真実」とは何かを明確に解明できずにさまよっています。
そのような唯一の基点を解決するために、私たちの祖先たちは血と涙にまみれた道を恐れず、死の峠を恐れず、追放され、追い詰められる哀れな立場にも怯まず、もがきながら歩んできました。しかし、彼らが目指した目的地、心の中で探し求めていた安息の地は、いまだに人類が住むこの地上に、また地上を治める天の摂理のもとにも現れていないという事実を否定することはできません。
したがって、今日皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人間は真実を探し求める探検家」です。この内容についてお話しします。
私たちに心情があるとすれば、過去においても、現在においても、未来においても、その心情が切実に願うのは、「真実の主体となる存在」が解明されることです。これを宗教という言葉を借りて言うなら、「神がいらっしゃる」ということです。この確信があれば、私たちはその神を迎え入れ、自分の体、自分の生活、自分の生命、そして自分の心情に関連するすべてを解明することができるようになります。これが人間、特に宗教家たちが望む最高の目標であると言えます。
したがって、たとえ命を落とすことになっても、「真実」を考えずにはいられません。また、永遠の命を探し求める際にも、「真実」に帰依しなければならないという事実は否定しようがありません。このため、過去の歴史を生きた人々もこの目的に向かって動き、現在の時代を生きる人々もこの目的に向かって動いています。そして未来の人々も、この目的を達成するために動くことは間違いありません。
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もし神が存在するとすれば、神は人間が真実の主人公と向き合い、その主人公と共に喜びの歌を歌い、共に楽しみながら生き、共に調和しながら心情の中で生きることを望まれるでしょう。そのような日が訪れれば、同じ心、同じ心情、同じ生命の動きを共有する存在や実体に対して「私は望まない」と否定的な立場に立つ人は一人もいないでしょう。
古今東西を問わず、民族、主義、思想の違いを超えて、もし誰かが「真」に帰依し、その「真」と共に生き、その「真」と共に行動し、その「真」と共に死の峠を乗り越えることができる自分を持っているとするならば、その人こそ人類史が求めてきた「真」の実体であり、時代が望む「真」の証拠的実体であり、未来が望む「真」の根本的実体であると考えざるを得ません。
その「真なる実体」を求めて、人類は長い間さまよい続けてきました。
今日、地上には約27億の人類が生きています。しかし、その「真の実体」を見つけ、それと共に生きた人、それと共に戦った人、それと共に楽しんだ人がいるのかと問われれば、いるようでいないという曖昧な答えしか出てきません。どのような哲学的論理を探してみても、どのような宗教の経典を調べてみても、明確な答えを得ることは難しいのです。自分の体、心、心情、そしてあらゆる理念を総動員しても、自分を新たに立ち上がらせることのできる「真」を見つけ、それと一体化したと自認できる境地には到達できません。
では、これらはすべて空論なのか、それとも妄想なのか? この問題をどのように解決すればよいのか? これこそが、今日の人類が解明しなければならない最終的な課題なのです。解明されるべき「真」と、解明されるべき「私自身」との関係は、「彼が私であり、私が彼である」と言える立場でなければなりません。私たちが求める「真」が天であるならば、その天は私と一体化し、私は天と一体化する必要があります。そして、もしイエスが「真」であるならば、イエスと私、私とイエスが一体化することができなければなりません。
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そこには、私たちの感情的なすべて、認識的なすべてまでもが一緒に動くことが求められます。「真の感触」とでもいうべきもの、あるいは触感とでもいうべきものが、私たちの個体から創造された存在世界、すなわち万物だけでなく、全世界の人間にまで感じられ、一緒に動き、一緒に感触することで、宇宙全体と共に歌うことができる存在、そうした存在こそが天国で生きることのできる人間の姿ではないでしょうか。また、それこそが天が求めている真の息子娘の姿ではないでしょうかと考えざるを得ません。
堕落の恨みを持つ人類、堕落した血統の因縁から抜け出せない私たち、堕落した先祖の後継者である私自身、私たち、そして人類全体を認める立場から見ると、堕落とは何でしょうか。それは「堕ちた」ことです。心の中で望む理念の要素と対立する境地にとどまっていること、それが堕落です。
嫌なことを避け、良いことを望み、悲しいことを避け、喜びを求め、困難を避けて幸福を望む人間が、堕落したがために悲しみや苦しみ、困難を避けることができなくなりました。歴史の中で絡み合い、絡み合い、複雑に絡まり、今日の私にまでその束縛が及んでいます。
このような恨めしい立場にある私たち自身に、もし「真実の心に従って動くもう一人の私」が存在するとするならば、その姿を呼び覚まし、自分自身を冷静に批判するべき時が来たことを知らなければなりません。
そのため、歴史を通じて登場した多くの預言者や偉大な先人たちは、歴史そのものとその実体について、そして未来の歴史について訴え続けてきました。そしてこう勧めてきたのです。「心を広く持ちなさい。心の正しい目的である善を目指しなさい。本性の心に応じることのできる体を持ち、そのような行動をしなさい」と。
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またイエスは、「天国はあなたの心の中にある」と言いました。そして、「その心を通じて天の心情に触れなさい。その心情を通じることのできる人格を備えなさい。そうすれば天国の中心を代行する新郎がやって来るだろう」と語りました。しかし、今日の私たちはここに問題があることを認識しなければなりません。
この問題に直面したとき、明確な良心の基準を持ち、自分の体を主観できる一人の勇者がいなかったこと、天の法則と天の情に応じて、自分自身はもちろん、人間のすべての心情を主観できる勇者がいなかったことを、私たちは知っています。
だからこそイエスは、「天国はあなたの心の中にある」と言いました。そして天国に行くためには、「まず私イエスを愛しなさい」と言いました。その次に、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言いました。その後、「持っているものをすべて捨てなさい」とも言いました。また、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」「持とうとする者は失い、失おうとする者は得る」「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高くされる」と語りました。
このように逆説的な内容を語られた救い主は、どのような目的でこれらの言葉を述べられたのでしょうか。この問いこそが重要な問題なのです。
皆さんは心と体を持っています。しかし、自分の心が本来の心としての位置におらず、体が本来の体としての位置に立っておらず、心情が本来の心情としての位置に立っていないことは、嘆かわしいことです。
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私たちの祖先たちは、この地上で良心の基準を立て、この体、つまり肉体を征服せよと教えました。しかし、人類の歴史が6千年もの長い歳月を経ても、いまだに誰一人として心を中心に体を完全に征服したという勝利の基準を立てた者はいません。この恨めしい状況を誰が責任を取るのでしょうか? 天の深い心情を通じて、心が体を支配して前進できる確固たる中心を持てない状況をどうするべきでしょうか? 天の心情を持つ神がいるとするならば、どのようにして人間の心を征服し、永遠に神の心情の前に置くことができるのか? これが解決すべき重要な問題であることは間違いありません。
イエスは「私は新郎であり、あなた方は花嫁である」と言いました。花嫁となるための心情の基準は、古い慣習に染まった地上の良心の基準ではありません。また、時代の変遷によって変わる良心の基準でもありません。それは、地上の人倫道徳と調和し、それを証明するような良心の基準でもありません。そして、地上の人々が理解しているような花嫁の姿を意味するものでもありません。
新郎と呼ばれるこの一人の英雄の前に花嫁として立つことのできる人は、どのような姿をしているのでしょうか? 新郎の心情を慕い、それを深く体験した者こそが、永遠の良心の基準を立てることができ、永遠の体の基準を立てるための方向性を備えることができるのです。そうでなければ、イエスは人類の真の新郎の位置に立つことができないのではないかと、私たちは考えざるを得ません。
歴史の流れの中で、人類文化は発展してきました。その発展した文化が20世紀のこの文化世界を築き上げました。しかし、この文化は私たちの体と心の問題、心情の問題を解決する内容をまったく持ち合わせていません。
内的にも外的にも複雑な環境や複雑な組織形態が現れましたが、それらが私たちの心に完全に応じ、心情を通じて、一つのものに全体が応え、全体がそこに調和し、天と地が永遠に喜びを享受できる心の基準にはなり得ませんでした。また、天と地が完全に溶け合う心情の基準ともなり得なかったことを、私たちはよく知っています。
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今日のこの時代は、心が志向する方向や心情が求めている方向とは全く異なる方向に流れています。このような状況に置かれた私たち一人ひとりは、外面的には終点に達し、内面的には言葉にできないほどの空虚さを抱えています。では、自分を立てるための中心はどこにあるのでしょうか? この中心を探して、今日の人類はもがき苦しまずにはいられないのです。
人間は、心と理念が通じ合う心情を必要としています。そのため、心を支配できる心情、外面的な生活を支配できる肉体、そして実際の生活を調整できる基準を立てない限り、人類はどの時代でも苦悩する状況を免れることはできないでしょう。
もし神が存在するならば、神が目指す世界とはどのような世界でしょうか? それは現在のような文化の世界でもなく、文明の世界でもありません。文明を正しい方向へ導くことができる心の基準、心情の基準を立てることこそ、天が望む中心的な目的であり、私たちの祖先が後世の人々のために立てようとした基準の世界であることを理解しなければなりません。
そのことを知っておられたイエスは、環境が複雑であるほど、その環境に飛び込んで整理しようとはせず、そのような環境を避けていかれました。しかし、その逃れる道においても、すべてが喜びに満ちたものではありませんでした。イエスが夜中に深い森の中や山奥に分け入り、苦難の生活を送られたことを私たちは知っています。
イエス様がこの地上に来られたのは、目に見える世界の何かを探し求めて戦うためではなく、目に見えない世界の善きものを目に見える世界に移すために戦われた勇者であったことを、その時代の人々は知りませんでした。
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イエス様が祈られた場所は、世の中の誰も探し求めなかった場所でした。また、イエス様は万人が考えもしない瞬間に祈り、訴えられました。イエス様が歩まれた道は、全人類が共通して解決しなければならない道であり、天とサタン、善と悪が接触し、ぶつかり合う境界地帯を探し求めて進まれる道であったことを、私たちは知らなければなりません。
ゲッセマネの園で血のような汗を流しながら祈られたその場所は、安らかな場所ではありませんでした。それは、神とサタンが接触する境界地帯であり、そこで祈られる瞬間は、人間にとって苦しみ、悲しみ、困難、そして死があるとしても、その苦しみ、悲しみ、困難、死の境界線を超えるために、その境地を探し求めて入っていく瞬間だったのです。このことを私たちは知らなければなりません。
そのような境地を探し求めて進まれるイエス様には、一つの揺るぎない心情がありました。それによって、天上や地上のいかなるものがイエス様を揺さぶろうとしても、「私の心に通じているこの心情だけは侵されない」という基準が確立されていたのです。
イエス様がサタンと摂理的な条件を中心として戦われる過程で、サタンを打ち破ることができたのは、イエス様が特別であったからではありません。それは、イエス様が天上に向けた深く切実な心情を持っていたからです。天上で繰り広げられるサタンとの戦いにおいても、その切実な心情の前にサタンは手を挙げて降伏せざるを得なかったのです。このようなイエス様だったからこそ、全人類が憧れる心情の主人公、新郎の資格を持つ方となったのです。
私たちは、イエス様が地上の何かを探し求めるために来られたのではないということを知っています。この地上は堕落した世界です。いずれにせよ一つの峠を越えなければならない世界であり、いつかは解決されなければならない世界です。したがって、解決されるべき時代や世界そのものが問題なのではなく、それを解決できるその世界、その内容が問題なのです。解決済みの心情ではなく、解決し得る心情が重要なのです。このことを理解し、その道を切り開くために来られた方がイエス様です。
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解決されるべき理念の世界の中で、人間を代表して孤独な探検の勇者として現れたのがイエス様であったことを、私たちは知るべきです。
イエス様が、聖書で語り尽くせなかったこと、その深い心情の中に根を下ろし、ご自身を万人の救い主と呼ぶことができる、天と地を巻き込み、サタンとの戦いの道程で解決できる何かを持っていなければ、サタンの世界で勝利の中心を築くことも、また天がサタンの世界において勝利の目的を成すこともできなかったでしょう。
そのため、イエス様は新しい世界を求めて進まれた冒険者であり、探検者であったことを私たちは知るべきです。すべてを捨て去り、世のいかなる事情や理念よりも強い、神の愛と人間の愛の世界を探し求め、その冒険の場に身を投じた方、それがイエス様だったのです。
世には、誰も探し求めたことのない名勝地を目指して冒険に出る人々が数多くいますが、それは誰にでもできることです。しかし、イエス様が冒険の目標として掲げられた最高の基準は何だったのでしょうか? それは「心情の問題」です。心情の問題なのです。
キリスト教が今日の世界的な動きに貢献している理由は、死の峠を越えた殉教の歴史的背景を持っているからです。今日まで「真」が存在するならば、命を懸けて切実な心情でそれを掴み、前進する人々が残っているという事実があるからです。そのため、天はこれらの人々を導き、心情的な目的の世界を築こうとしているのです。こうした背景があったからこそ、神はイエスをこの地に遣わされたのです。しかし、その当時の人々が、ゴルゴダの丘で苦しみのうちに亡くなられたイエスが世界を導く立場にあるとは、夢にも思わなかったでしょう。夢にも考えることができませんでした。
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私たちは、探し求めなければならない人間です。私たちには、今日も明日も、一生を捧げ、どのような困難や冒険の罠が待ち受けていても、自らの身を投じてでも歩むべき道が残されています。
神とサタンの戦いが歴史を通じて連続していることを、皆さんは原理を通して学んで知っているでしょう。この戦いを解決し、「神よ!」と呼びかける本然の息子はどこにいるのでしょうか? 心情の中で切実に「私の父よ!」と呼びかけるその息子に対して、神が「私の息子よ!」と言えるその世界を、人間はまだ見たこともなければ、探し求めたこともありません。
イエス様はこの地に現れて「私は独り子である」と語られ、聖書にはイエス様について「独り子の栄光」と記されています。また、イエス様は神を「私の父」と呼び、「あなたがたは私を新郎として迎えなさい」と言われました。そして「あなたがたは私の花嫁」「私の兄弟」とも語られました。これほどありがたいことはありません。
天上から人間世界を摂理されている神がいるとすれば、そして「真」の歴史だけを導かれる神がいるとすれば、その神の目的は何でしょうか?
それは聖書ではありません。この聖書は、最終的に救いの摂理が完成されれば、堕落した世界とともに消えていくものです。
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聖書を信じること自体が問題ではありません。それを超えて、神への燃えるような心情が湧き上がり、6千年もの間苦労されてきた父なる神を知り、今この時代において苦労されている神を知り、そしてこれからも苦労されるであろう神を知り、その神を呼び求める一人の息子がいるなら、それが何よりも尊いことを理解すべきです。そのような一人の娘がいるなら、それが何よりも尊いことを知るべきです。神がすべての人類を見渡し、すべてを喜ぶことはできなくとも、喜びうる一つの象徴があるとすれば、それはイエス以外にはないでしょう。そうではありませんか?
私たちは「真」を探しています。「真」を探し求める私、「真」を探し求める私たち、「真」を探し求める家庭、「真」を探し求める社会、そして世界です。では、この宇宙が究極的に求めている「真」の主体は誰でしょうか? それは神です。では、神が立てようとされる「真」の内容とは何でしょうか? それは、人間が持つことのできなかった「真の親」、人間が持つことのできなかった「真の夫婦」、人間が持つことのできなかった「真の子供」、人間が持つことのできなかった「真の兄弟」、そして「真の民族」、「真の国家」、「真の世界」、「真の天と地」、そして「真の宇宙」こそが、神が求めておられる「真」の内容です。そうではないでしょうか?
神が地上において摂理を進められる中で、何を望んでおられるのでしょうか? それは、真の万物となることであり、全世界の人類が真の民となることです。その先には、その民が真の忠臣となることを、また真の夫婦と真の親となることを神は望まれるでしょう。
真の万物、真の民、真の忠臣、真の孝子孝女、真の夫婦、真の親が現れた後に初めて、神は地上に実体として現れたいと望まれるのです。
もし「真」の実体が神であるとするならば、神は必ず「真」を求めている人間といつかは関係を結びたいと望まれるでしょう。そしてすべての存在が頭を下げ、「その通りです。永遠に私の主人になってください」と言えることを願われているのです。体でも心でも、そして心情でも願うその実体に出会う日こそ、「善」を求め、「真」を求めてさまよってきた人類の歴史が終結する日であり、「真」を探し求め、「真」を立てるために摂理を進めてこられた神の願いが成就する日なのです。
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天はそのような日、そのような場所、そのような時を探し求めて進んでいます。そして、罪に満ちたこの地上、罪に満ちたこの世界に生きている私、罪に満ちた地上に住む家庭、社会、国家、これらすべてもまた、そのような一日、一つの場所を探し求めて歩んでいます。
もしイエス様が、神の願いと人類の願いを解決する使命を持って来られたのだとするならば、イエス様の心の奥深くにある宇宙的な「善」の理念を明らかにしてほしいと願う弟子が一人もいなかったことは、非常に悔しいことです。「わたしが地上のことを話しても信じないなら、まして天のことを話してどうして信じられるだろうか」(ヨハネ3:12)と嘆かれたイエス様でした。
「真」の言葉を携えてきた「真」の実体として、「真」の行動をすべきだったイエス様。しかし、その時代において「真」の実体として認められず、「真」の言葉を語り尽くすことも、「真」の行動を成し遂げることもできずに去られました。そのため、今日私たちに必要なのは、聖書に記されているイエス様だけではありません。
「真の個人とはこうである」「真の家庭とはこうである」「真の社会、真の国家、神と出会う世界とはこうである」と明確に説明し、私たちをその方向に導いてくれる実体が必要なのです。人類が切に求めてきた「真」を解き明かすことこそが、救い主としての使命でした。
しかし、その使命の内容を誰にも語ることなく、十字架の道を越えていかれたイエス様を知る人がいたでしょうか? 誰一人いませんでした。そのため、天国に行った人はいないのです。イエスを信じた人々は皆、楽園にとどまっています。楽園とは天国への待合室です。
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このような観点から考えると、「真」を求めて歩んできた道は6千年もの間続いてきましたが、いまだ解決されていません。6千年を費やしても終わらなかったのならば、今日私たちが感じ、悟った心情を持って、明日から再び始める生活の道程においても、終わらないかもしれません。終わる可能性がないならば、悔しい思いを抱きつつ、父なる神の御心を胸に抱き、天に向かって訴える心を持つべきです。
そのような思いを持つことさえできないのに、どうして天の民になることができるでしょうか? どうして天の忠臣や烈女になれるでしょうか? どうして天の孝子や孝女になれるでしょうか?
私たちは、神の摂理を復帰摂理と呼んでいます。では、復帰摂理とは何でしょうか? それは、失われたものを回復する運動です。失われたものを再び探し求める行動です。壊れてしまった人間を、御言葉を通して再創造する働きなのです。
私たちは再創造されなければならない人間です。体を通じる御言葉も、心を通じる御言葉も、心情と共に永遠に喜びを分かち合える御言葉も、すべて失ってしまった堕落した人間だからです。そのため、私たちは御言葉、すなわち真理を探し求めなければなりません。真理とは御言葉であり、真理は組織を導く原則であり、天倫の根本でもあります。これまで世界はこの真理を探し求めてきました。
しかし、いまだに真の御言葉は現れていません。真の御言葉がないので、真の生命の実体も存在しません。真の生命の実体がないため、真の愛の実体も存在しません。そして、真の愛の実体がないので、真の宇宙、真の天と地も現れていないのです。だからこそ、神は私たちを叱り、裁かれます。「この者たちは使い物にならない」とおっしゃるのです。
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神はこの世を征服しておられます。まずは個人を征服するために尽力され、次に家庭を征服し、民族を征服し、国家を征服し、さらには世界を征服するために、今も戦っておられます。見てください。ノアは自分自身を征服し、家庭を征服するために、120年間戦い続けました。簡単なことではなかったはずです。そうでしょう?
ノアは、神から「120年後にこの地上を裁く」と命じられたその日から、120年間毎日戦い続けました。一年や数年の話ではありません。神は大いなる志を抱く者に対して、一度だけ約束されます。一度です。そして、その命令を受けた者は、それに対して変わらぬ忠誠の心情を持ち続け、家庭の迫害、社会の迫害、さらには個人の肉体を通じて湧き上がる欲望、すなわち食欲や睡眠欲などを征服できる勝利者でなければなりません。そうでなければ、神はその者を認めません。
神は歴史の道程を通じて、個人を征服し、家庭を征服し、社会、国家、そして世界を征服してこられました。征服とは何でしょうか? それは、「打ち砕く」ことです。だからこそ、歴史が戦争の歴史であることは避けられないのです。
今日のこの時代は、6千年の歴史の終末期です。この時、神はすべてを天の前に立たせ、天に帰依させ、全体を征服できる権限を持つ勝利者を求めておられるのです。
過去にこの地を歩んだ私たちの祖先たちは、自らを征服するための冒険に挑み、どのような困難な道であれ、どのような開拓者の道であれ、躊躇せずに進んできました。
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しかし、今日、27億の人類が生きるこの20世紀の地上は、かつての祖先たちが生きた環境とは異なります。当時は、個人を対象とした摂理の時代、家庭を対象とした摂理の時代、民族を対象とした摂理の時代、国家を対象とした摂理の時代でした。しかし、今は世界を超え、宇宙を対象とした摂理の時代です。したがって、今日私たちがどのような冒険をするにしても、6千年の歴史を背負い、「私以上に冒険する者はいない」と言える覚悟を持たなければなりません。それが求められている時代なのです。
このような時代にあって、自分を抱えて泣いている者は天の家庭を築くことができません。家庭を抱えて泣く者は天の社会を築くことができず、社会を抱えて泣く者は天の国家を築くことができません。国家を抱えて泣く者は天の世界を築くことができず、世界を抱えて泣く者は天の宇宙を築くことができません。そのため、私は個人であっても、世界を引き寄せることができる心情を持たなければなりません。
歴史的な認定の場を明らかにする勝利的な実体を備えようと宣言し、それを信念として実行することは、まさに冒険です。冒険なのです。皆さんがもう少し神秘的な境地に入ると、その世界は冒険に満ちています。個人を超え、さらに広い次元へ進むためには、必ず冒険をしなければなりません。命を賭け、「生きるか死ぬか」という一線を越えた戦いをしなければならないのです。
見てください。ノアは家庭の基準を立てるために、自らの体を打ち続けました。体を征服するために、120年もの間、打ち続けたのです。彼は非難と嘲笑、そしてあらゆる理不尽な状況に直面しました。それは簡単なことではなかったでしょう。
そのようなとき、ノアは自分に言い聞かせました。「耐えよう。天が約束し、私を導いているのだ。天が立てた心情の基準に対して、私は変わることなどできない」と。そして彼は自らの体を打ち、すべての困難を征服していきました。
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もしノアの家庭が、世俗的なあらゆる条件を振り払い、民族の救いを目指して進んでいれば、その時、神の御心は成し遂げられたでしょう。ノアの家庭が家庭的な困難を振り払い、ノアの心情の基準を持って民族を目指して進んでいれば、その民族を通して神の御心が実現していたことでしょう。
しかし、ノアの家庭は家庭的な目的を達成できず、崩れてしまいました。それでも、神の御心を成し遂げるための摂理は進み続けました。個人が崩れたからといって、その個人を永遠に抱え込むわけにはいかないのです。家庭が崩れたからといって、摂理が止まるわけではありません。個人は崩れても、天の摂理は動き続けるのです。
このようにして、個人が崩れた後も、家庭の時代が来るため、神は家庭を立てる摂理を進めざるを得ませんでした。そして、その家庭が崩れても、摂理の時代は遅れることなく進み続けました。摂理は社会を復帰するために動き、さらには環境を広げ、民族的な範囲へと拡大していきました。
ノア個人とその家庭を失った神は、400年後に再びアブラハムを立てて摂理を進めました。アブラハムを立てることで、ノアが直面した以上の環境条件を整えなければなりませんでした。そのため、割礼を通して異邦人までも摂理に取り込む働きをされたのです。
しかし、アブラハムをも失った神は、さらに400年後にモーセを立てて摂理を進めました。民族的な時代が到来し、イスラエル民族をエジプトに追いやり、鍛えられるように導きました。鍛えられること、すなわち「打たれること」は、ひとつにまとまるための作戦だったのです。一つにするための計画だったのです。
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神はイスラエル民族に向けて言われました。「あなたたちが住んでいる地は敵の地であり、あなたたちが仕えるファラオの宮殿は敵の宮殿であり、エジプト人は永遠の敵だ」と。そして、イスラエル民族が生きるべき場所は、「その通りです」と全員が賛同できる一つの場所でなければなりませんでした。神はその場所へイスラエル民族を導き、その時期が民族的な摂理を進めるべき時代であったため、モーセを民族を代表する冒険の先駆者として立てられました。
この冒険の先駆者であるモーセは、未知のカナンの地を目指す探検者の中で最高の探検者であり、最高の偵察者でした。探検者の中でも最も勇敢な冒険の英雄として現れたのがモーセだったのです。
そのように現れたモーセは、ファラオの宮廷の妨害を振り切り、イスラエル民族を率いてカナンの地を目指しました。しかし、その道は平坦な道ではありませんでした。それは未知の旅路でした。
それでもモーセは、「どんな困難が立ちはだかろうとも、『立ちはだかるなら立ちはだかれ。神が先祖の時代から約束された地、カナンを見つけるためのこの心情が変わることはない』」という鉄のような心情を持っていました。
彼はファラオの地で生活していながらも、カナンの地での幸せを歌うことのできる心情を持っていました。そして、その約束が成就する日まで、百折不撓の心情を抱きながら前進の道を切り開いていきました。
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こうしてモーセは、60万の民を率いてカナンに向けて出発しましたが、40年間の荒野の旅路の中でその民のすべてを失ってしまいました。もしイスラエル民族がモーセと同じように冒険をする心を持っていたなら、滅びることはなかったでしょう。約束の地を求める切実な心情が、日常の感情や認識を超えて強かったならば、彼らは荒野で倒れることはなかったでしょう。しかし、彼らは「お腹が空いた」「私たちは死んでしまう」と嘆き叫びました。そのため、彼らはカナンの地を見ることなく、荒野で命を落としました。
歴史上のどの偉人や先駆者も、世の楽しみや満足を追い求めたのではありません。彼らはより高い理念、約束された一つの場所を目指し、すべての困難を克服して進んでいく探検者のような気質を持った人々でした。
モーセもまた同じでした。イスラエル民族を率いて前進している中で、紅海の障壁やアマレク人の攻撃が待ち受けていました。40年間の放浪生活の中で、ファラオの束縛から解放された壮年の者たちは、すべて途中で倒れてしまいました。
モーセがカナンの地を探るために、12部族の代表として12人を派遣した際、その中の10人は戻ってきて「私たちは彼らには到底敵わない」と報告しました。しかし、ヨシュアとカレブだけは違いました。ヨシュアとカレブはその時代に特別に優秀な人々ではありませんでした。むしろ、今の皆さんの方が賢いでしょう。彼らは頑固で、死ぬか生きるかも分からない冒険者としての気質が旺盛な人々だったのです。
ヨシュアとカレブはこう言いました。「私たちをここまで導いてくださった神は生きておられる。ファラオの魔術を打ち破った神は生きておられる。私たちの行く手を遮った紅海を分けて渡らせてくださった神は生きておられる。荒野で飢えと苦しみに襲われたとき、うずらとマナを降らせて養い守ってくださった神は生きておられる」と。そして、反旗を翻した民の前に堂々と立ちはだかり、対峙しました。この行動こそが、復帰の道を探し求めていたイスラエル民族に前進の道を切り開くきっかけを与えたのです。
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しかし、それだけではありません。これまでの歴史の道程もまた、このような試練の連続でした。そして、民族の時代を経たイスラエルには、国家の時代が訪れました。カナンの地に入った時、すでに国家的な時代が到来しており、国家を懸けて戦わなければなりませんでした。その時、神の心情はどれほど複雑であったことでしょうか。国家の形を整えなければならず、家庭の形も整えなければならず、個人の形も整えなければなりませんでした。しかし、国家の形が整えられても、実質的な内容においては、神が望む完全な勝利の基盤とはなりませんでした。このような複雑な背景を抱えて歴史を進めてこられた神の心情を、私たちは理解しなければなりません。
神はもがき続けてこられました。個人を探し求めても失い、家庭を探し求めても失い、祝福されたユダ国家も、イスラエル民族もすべて失われました。
これを受け継ぎ、世界的な敗北の王子のように現れたイエスは、世界的な復帰の恨みを背負う代表者でした。そのため、彼が現れた場所はイスラエルの地であり、彼が活動した範囲はガリラヤ湖のほとりやエルサレムの周辺に限られていましたが、彼の言動は神の御心、歴史、そして世界を代弁するものでした。
そのような道を苦しみの中で歩まれたイエスの死後、2000年の歴史が経過しました。そして今日、地上において勝利的な中心を築き、イスラエル国家を回復しなければなりません。この神の御心に基づく世界的な基準を達成するために進められてきたのが、イエス以後の2000年の歴史、すなわち聖霊の2000年の歴史であることを理解すべきです。
今日のこの時代は「終末」です。「終末」とは、神が望まれる個人を完成しなければならない時代であり、家庭を完成しなければならない時代、民族を完成しなければならない時代、国家を完成しなければならない時代、世界を完成しなければならない時代、さらには宇宙を完成しなければならない時代です。このような壮大な事業を進めてこられた神の心情を、今日の人類は知らずにいます。
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神が6千年もの間、苦難の道を歩まれ、歴史の終末時代に至るまで人類を一つの理念の中に導き、その全体を支配できる形式を整えられました。しかし、実質的な内容において、人類は神が介入できない立場にあります。この状況をどうするべきでしょうか?
私がこの時代に向けて叫びたいのは次のことです。歴史を通じて神が探しておられる個人はどこにいるのでしょうか? 神が探し求めておられるノアの家庭に代わる家庭はどこにあるのでしょうか? 神が抱きしめ、愛された民、エジプトで苦しみを受けたその民に代わる民はどこにいるのでしょうか? 地上に「万王の王」として来られた独り子の懐に抱かれ、愛されるはずだったその民はどこに行ったのでしょうか? 生きているうちに、手を取り合い、心を交わし、心情を分かち合いながら歌うことのできるその一つの基準が失われてしまったこと、これ以上に悲しいことはないでしょう。
神は探し続けられます。「真」の神であり、「真」の内容を持つ神であるならば、その神は何を探されるでしょうか? 神は「真の実体」「真の家庭」「真の社会」「真の国家」「真の世界」を探されるでしょう。そして、「真の主権」を通じて、天と地が一つの心情で動くことのできるその世界を探されるでしょう。そうではないでしょうか?
神が摂理を展開されている以上、いずれにせよ個人から始まり、家庭、民族、世界全体、すなわちこれまで人類が築いてきた民族的血統や国家的伝統、主義思想を断ち切り、一つの理念、一つの心情の世界を成し遂げられるのです。この視点から改めて考えると、神が探し求める世界とはどのような世界でしょうか? それは、「真の世界」、そして「真の親」がいる世界です。
人間は堕落によって「堕落した血統の親」を持つようになりましたが、神が永遠に愛することのできる本然の「真の親」を持つことはできませんでした。
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そのため、どれだけ自分を誇り、声高に語ったとしても、私たちは堕落した親の種族であり、「偽り」という烙印を押された種族に過ぎません。そこには誇るべきものは何もありません。
それでは、神が「真の親」であると祝福され、創造物がその親を称賛するような本然の親はどこに行ったのでしょうか? その親は歴史の過程で消えたのではなく、歴史の始まりの時点で失われてしまったのです。この恨みを誰が解いてくれるのでしょうか? この問いに答えることは容易ではありません。
本然の親とはどのような存在でしょうか? 永遠に存在される神と共に生き、「父よ」と呼びかけると、「そうだ、我が子よ」と応えることのできる存在です。しかし、神を父として迎え、子として共に生きることのできるその「真の親」が失われてしまいました。したがって、人類は「真の親」を探さなければなりません。
私たちが生きるこの地は、私たちが理想としてきた地ではありません。そして、私たちが生きるこの環境には、神の理念と結びつくものは何も存在しないのです。
統一教会においても重要なのは名前ではなく、私たち自身が「統一の心情」を持つ者になることです。
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看板や名称が問題ではなく、その中身が問題であり、さらに中身だけでなく、実際の行動と事実そのものが重要です。もし皆さんに「真」を求める良心の動きがあるなら、その「真」に訴えかけるスローガンをこうした観点で掲げるべきです。そして、その視点から神が何を望んでおられるのかを深く考える必要があります。
神が望むのは、「真の親」「真の夫婦」「真の子供」「真の忠臣」「真の民」「真の万物」「真の主権」「真の宇宙」です。
これらすべてが、神の御心に従い、神が動けば動き、神が静止すれば静止する、そのような日が訪れることでしょう。そして、そのすべてが一度に清算され、調和する日こそ、堕落世界の終焉の日です。
皆さんは再臨の日を待ち望んでいると思いますが、それを天変地異や大きな劇的変化が起こり、自分たちが空中に引き上げられるといったものだと思っていますか? そんな妄想や非現実的な考えは捨てるべきです。私自身もかつてはそのように考えていたことがありましたが、それは誤解でした。そのような考えを持つ人々とは議論し、真実を伝えなければなりません。
再臨とは、絡み合った複雑な歴史の因縁を解き、悲しみの歴史を清算し、個人から家庭、社会、民族、国家、そして世界が一つに通じる時代です。これまで縦の関係で結ばれてきたものを、横の関係で結び直す時代です。つまり、本然の個人が本然の家庭を築き、本然の社会、本然の国家、本然の世界を形成できる時代なのです。本然の世界で生きる「私」、その「私」を探し求めることこそ、人類が「真」を求め続けてきた究極の目標なのです。
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その「私」とは、目を開けば神と出会い、真の親と出会い、真の子供、真の民、真の忠臣と出会うことができる存在です。その「私」の前には、真の天と地、すなわち「新しい天と新しい地(新天新地)」が広がるでしょう。このような神の計画を、一つの特定の日を契機として、一斉に完遂しようとしているのが、神の摂理の核心であることを理解しなければなりません。
今日の主義や思想の外形は一見立派に見えますが、実際には中身がありません。人類は6千年という長い歳月をかけて「真」を探し求めてきました。しかし、真の個人として戦った人々は過ぎ去り、真の家庭、真の民族、真の国家、真の主義もすべて過ぎ去ってしまいました。すべてが過ぎ去った今、私たちはそれらを再び受け入れる運命にあります。
では、私たちがそれらを再び受け入れるべき今の時代とはどのような時代でしょうか?
それは、個人と家庭が通じ、家庭と社会が通じ、社会と国家が通じ、国家と世界が通じ、そして天と地が通じる時代です。ただ名前だけの神ではなく、神に向かって「父よ!」と呼ぶことができる境地、それこそが「善」が目指す最高の目的地です。皆さんの中で、すでにその境地に到達したと自信を持って言える人はいますか? もしそうでないならば、この現実は非常に深刻です。6千年の終末の時代が到来しているにもかかわらず、私たち自身の状況は6千年もの隔たりがあることを認識すべきです。外形的には摂理に関与しているように見えても、実際には中身が空虚であり、6千年を巡りながらも中身がない状態なのです。
時が進むにつれて、皆さんの胸はますます窮屈になるでしょう。「この虚しさでは生きられない」と感じる時が来るはずです。たとえ多くのお金や物を持っていても、どこか満たされない虚しさが残るのです。それに加え、個人の中での闘いも激化します。心は6千年前の本然の状態に向かおうとし、体は6千年が経過した現代の欲望に縛られているためです。
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聖書ではこう述べられています。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」と。このように述べられている背景には、この闘いを解決する鍵があるのです。
今日という新しい環境が生まれる時代において、心の奥深くから感じるこの闘いを解決するために、何の主義や主張がなくても、それを乗り越え前進する信念を持たなければなりません。そうしなければ、新しい飛躍の時代に立つことはできません。
それは、個人を革新し、家庭を革新し、社会を革新し、国家を革新し、世界を革新する信念が求められる時代です。どれほど激しい矢が飛び交い、死の十字架が襲いかかっても、それを堂々と乗り越えて前進できる力の源は何でしょうか?
それは、神と私たちが「父と子」の関係で深く結ばれている切実な心情を持つことです。このような心情で神に向かって「父よ!」と叫ぶならば、その前には神もサタンも頭を垂れるのです。もしイエスにこのような心情がなかったならば、彼はメシアとしての資格を持つことはできませんでした。
そのため、皆さんが「神の花嫁」となるためには、このような心情を持つ必要があります。そして、この境地に入るためには、冒険を恐れず進まなければなりません。
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今は忙しい時です。冒険をする時です。イエス様は「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高くされる」と言われました。この言葉は終末にすべて成し遂げられるでしょう。
今、皆さんが家庭的な次元で幸福感を感じ、それに満足しているとしましょう。その家庭や国家、その制度はすべて崩れてしまいます。そうではありませんか? 日本統治時代に皆さんも経験したことでしょう。
今日の復帰摂理時代に生きる全世界の人類は、「真」を探し求める探検者になるべきです。探検者にならなければなりません。
心を込めて祈り、あらゆる面で戒律を立て、天に向かって叫ぶ祈りが早く成就されなければなりません。今日、祈りを捧げる人々の中には、同じ祈りを何十年も繰り返している人がいますが、それでは成就しません。本当の愛の心情を持ち、約束を交わせる場において祈るべきです。一度祈って、30年、40年待てるような切実な心を持たなければなりません。30年、40年が過ぎても忘れない切実な心を持ち、祈り、待ってみてください。成就します。多くの祈りは必要ありません。
今日の時代においては、他人ができないことをするために探し求めなければなりません。やれば成し遂げられるのです。今日の皆さんがそれを探し求めるには、科学書のようにすべての内容が整っているわけではありません。この分野には専門家がいません。これに関して聖書にはヨハネの黙示録に示されています。ヨハネは霊的な世界において、他人が切り開けなかった世界を切り開き、他人が感じられなかった冒険的な境地で新しい世界を見ました。しかし、そこに至る旅路の詳細な内容はありません。旅路の記録がないのです。これが問題です。
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皆さんはもう一度心を引き締めて、真理を目指さなければなりません。生命が動き、生命を通じる心情を持ち、御心を抱き涙を流す者がいるならば、これまで信じてきたものを否定しなければなりません。これまで信じてきたものでは不十分です。これまで楽しんできた生命を否定し、これまで感じてきた心情を否定し、これまで望んできた理念を否定する、さらに大きな何かが必要であることを知らなければなりません。
その「何か」は確かに存在します。しかし、それを探すには、日常的な態度ではいけません。どれほど偉そうに自慢する紳士であっても、その立場を捨てて、最も低い立場に行き、そこで勝利しなければなりません。これが天が探し求めてきた道でした。
イエス様も天のすべての主権と地上のすべての主権を見つけるために、生命と復活の権限を持って地上に現れました。しかし、悪の世の中でそれを実践するためには、逆の道を歩まなければなりませんでした。イエス様は死にゆく生命を見るとき、その死んだ実体を心配するのではなく、その魂を見て心配しました。彼は民族を見るとき、その民族の悲惨さを憐れむのではなく、その魂を憐れみました。反対なのです、反対なのです。
あなたも神の息子、娘になりたいと思いますか? 天国に行きたいと思いますか? それなら行ってみなさい。「イエスを信じて天国に行こう」と言う言葉だけを頼りに歩む人は天国に行けません。天国はただでは行けません。
私たちがイエスを信じる理由は何ですか? それは天国を作るためです。イエスは私たちに何と言いましたか?「あなたの体が神殿だ」と言いました。では、あなたは神殿になっていますか? イエスは個人の神殿だけでなく、環境の神殿、万物の神殿まで願われました。私たちの体に神が臨在し、私たちの家庭、社会、さらには万物に至るまで神が臨在されることを願っているのです。
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イエスが地上に来られたとき、どうだったでしょうか? 天の御座に座るべき方が、罪人の友となりました。罪人の友だったのです。聖書にそう書かれていますね?「食べることを楽しみ、飲むことを楽しみ、何かを欲している」など、いろいろと言われました。しかしイエスはこう言いました。「私は義人を救いに来たのではなく、罪人を救いに来たのだ。」どれほど切実であったことでしょう。
今日のキリスト教がすべきことは、苦しみをどう受け入れ、乗り越えるかということです。天の心情を引き寄せ、「父よ! イエスが十字架の苦しみを乗り越え、死の苦しみを超えて哀れな万人のために祝福を祈ることができたように、私たちもそのような心を持てるようにしてください」と祈れる心を持つことが重要です。イエスは地上に来られ、心情の開拓者となられました。今日、心情に深く入り込み、死の恐怖を克服して進む人こそが必要です。
今日、教会が分裂する原因は何でしょうか? 牧師は牧師の威厳を保とうとし、信徒は自分たちの威厳を立てて権力を行使しようとすることに問題があります。イエスが残された教えは「奉仕の教え」です。人間にとって最も近く、そして最も難しい冒険の道、それが奉仕の道なのです。山を征服する人は世の冒険家かもしれませんが、心霊の世界の冒険家ではありません。人の心に深く苦しみが刻まれたとき、その苦しみを克服できる冒険家こそが神が求める人ではないでしょうか?
天の王子として地上に罪人の姿で現れる以上の冒険がどこにあるでしょうか。それは宇宙全体が引き止める道でしたが、イエスはその道を歩みました。その道は誰もが歩むことを避けたいと思う道でしたが、イエスはその道を選ばれました。
では、真の真理が存在するならば、私たちはそれを探し求めなければなりません。一つの心と一つの心情を中心として結ばれるべきこの体が、これまで歴史に縛られていたのであれば、その縛りを断ち切り、心と共にその真理へと引き寄せられる言葉を探し求めなければなりません。
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時間の限界を超越した無限の世界から湧き上がる切実な心情を持ち、地上のあらゆる苦労や苦痛、そして死の恐怖さえも克服して進んでいける人になるべきです。個人の道で勝利を収めるためには、どのような苦痛や欲望も拒絶し、堂々と進む覚悟が必要です。個人の道で勝利した人は、家庭、民族、国家、世界においても同じように勝利することができるでしょう。そのような人は、世界的な問題においても勝利者となるのです。
神がイエスを立てて祝福されたのは、彼がそのような道を歩まれたからです。彼の道は開拓の道でした。開拓とは困難な道から始めることです。良くて楽しいところから始めるのではなく、困難で辛いところから始めるのです。それは逆さまの道を進むようなものです。
真を探し求める私たちに対して、神は歴史の道程を通じて個人、家庭、社会、国家、そして世界を探し求めてこられました。
これを再び取り戻すために、私たちはこの終末の時代、末端の立場に立ち、神の独り子であり、天の皇太子であるイエスが罪人の友となられたように、神の心情を抱いて罪人たちを支え、共に戦う勇士となるべきです。そのような場において、自らの威信や体面をすべて捨て去り、神の前に堂々と立つことができる人でなければなりません。そのような人こそ、失われた自分自身を見つけると同時に、失われた個人を見つけ出すイエスの代行者となるのです。また、そのような心情を抱いて家庭を支え、戦う者であればイエスの代行者となり、さらに社会、民族、国家、世界のために戦う者であればイエスの代行者となるのです。
どれほど高い地位に就いているとしても、「それは低い地位にいる人々を私と同じ立場に引き上げるためのものだ」と考え、その高い地位を譲り、自ら下りて、彼らを敬うことができる心を持たなければなりません。そのような冒険的な気質を持ってこそ、天と地が変革するこの時代に、どんな条件でも掴み取ることができるのです。
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あなた方を見れば、目は高く掲げ、天と地のすべてを手に入れようとしているように見えます。しかし、失われた「自分自身」を見つけようとはしていません。もし、神が望む希望の家庭、希望の民族、希望の国家にふさわしい内容と目的を備えているならば、神も認めてくださるでしょう。しかし、目的や理念だけが大きくても、実際の内容がなければ認められないのです。あなた方がアブラハム、ノア、モーセ、イエス、そして神に「そうだ、正しい」と言わせる基準を見つけていく必要があります。
今日、あなた方が日々の生活の中で価値を見出そうとするだけでは十分ではありません。まず自分自身を捨てなければなりません。自らを打ち倒す「屠殺人」になる覚悟が必要です。そうでなければ、神の前に立つことはできません。
なぜなら、神は6千年もの間、この地を摂理してこられましたが、ご自身の威信を立てようとしたことは一度もないからです。神は愛する真の息子、娘を見つけるために歩まれており、その子女に出会うまでは威信を示すこともされないという覚悟を持っておられるのです。イエスもまた、長い間苦労されましたが、探し求める花嫁を見つける前には罪人に対しても頭を垂れました。十字架にかかられるとき、右側の強盗に「今日、あなたは私と共に楽園に行く」と言われたのは、その一例です。
今こそ、私たちは最後の冒険に挑むべき時です。歴史的な冒険に挑まなければなりません。
「真」を求めてきたすべての探検者の前で勝利者として認められるためには、歴史的な悲しみや苦しみも受け入れ、時代的な悲しみや苦しみも受け入れなければなりません。そして、神、真の親、真の夫婦、真の子女、真の兄弟、真の民、真の国、真の天地の前に堂々と立つことができる者にならなければなりません。このような深い心情が崩れない者だけが、その国の民として生き残り、その国の忠臣、烈女、あるいは孝子、孝女の位置を得ることができるのです。このことを理解しなければなりません。
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それでは、冒険中の冒険とは何でしょうか? それは、切実な心情を持ち、天に代わって哀れな人々のために涙を流すことです。安穏を望む心があったとしても、複雑で困難な使命を受け入れ、それを全うする覚悟を持つことです。たとえ全体が反対したとしても、天が目指す基準に向かって死を恐れず進む切実な心情を持たなければなりません。
世の中のあらゆることは冒険を通じて開拓されてきましたが、神の心情の世界で冒険を行った人はまだいません。ですから、神が「このように生きよ」と言われたなら、そのように生きてみてください。イエスが「このようにせよ」と言われたなら、一度そのようにやってみてください。その言葉が偽りなのか真実なのかを知るためには、自ら突き進む必要があります。
自分の心情を懸けた冒険ほど大きな冒険はありません。この冒険を通じて天と結ばれること、これ以上に新しく喜ばしいことはありません。そのことを理解し、心情の世界における探検者となってください。
<祈り>
イエスは30年間、いつもガリラヤの湖畔を歩きながら、哀れな漁師たちを見て心の中でどれほど同情されたことでしょうか。哀れな村を見て、どれほど同情されたことでしょうか。また、ユダヤ教会やその多くの教団を見て、どれほど心配されたことでしょうか。
エルサレム神殿から追い出された後、この村からあの村へとさまよい、最後には海辺まで行き、心情的な真の弟子を探し求めてさまよわれた哀れなイエスの姿を知りました。
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世の冒険の中で最大の冒険とは何かと思えば、それは自分の前にある目的物や対象物を探すことではなく、自分自身を征服すること、自分を完全に支配すること、自分を屈服させることだと知りました。それ以上の大きな冒険はありませんでした。
イエス様は、心情の世界に入って自分を屈服させる日には、全宇宙がやってくることを知っておられました。だからこそ、迫害される道も感謝して進み、十字架につけられる場所でも恐れることなく歩まれました。嘲笑されても感謝し、民を慰め、血の汗を流す体は痛み、心は憤りで満たされても、摂理を進められる父の心情が民に向けられているのを見つめ、父を高め、自分を否定する心情に満たされました。4千年の因縁と心情を無視し、その基盤を踏み外すことを恐れながらも、民のために祝福を祈られたイエス様の深い心情を理解させてください。
人々は外の世界を征服するためには、多くの冒険や探査を恐れずに進み続けていますが、自分の内面の心情を懸けて自分を征服する冒険には挑もうとしていません。この冒険の峠は、地上のどの険しい山々よりも、大海原よりも、猛獣の住む場所よりも険しく、大きく、恐ろしい領域であることを私たちに教えてください。
多くの道を行く人々は、自分が残っている時に失敗しました。イエス様は自分を失い、自分を超えて勝利した歴史的な主人となり、復活の栄光を得られたことを知っています。
失うべきこの世界、失うべき自分、失うべき恨みの歴史の道を歩む中で、自分の体と心に打ち勝つ力を与えてください。6千年にわたる天の心情を抱き、それに基づいて戦うことができるよう助けてください。そして、天に代わり万物に堂々と祝福を祈る勝利者となることが、人類の歴史的な希望であり、時代的な希望であり、未来的な要求であることを理解させてください。
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このような姿になるのは、神やイエスではなく、まさに自分自身であることを悟らせてください。そして、自分自身が神やイエス、そしてこの地上と存在する全世界の真の中心であることを知るようにしてください。この「真」を探すことも自分から始まるべきであることを教えてください。
イエス様は地上で約30年間の生涯を生き、自分を失い、再び生き返って復活の喜びを味わいました。同じように、私たちも自分を失い、再び見つけることで喜びを得られるようにしてください。死後に復活の喜びを体感しなければ、訪れる祝福の園とは縁がないことを私たちは知っています。ですから、地上と共に生きている自分を捨て、天と共に新たに生きることができるように導いてください。
今日、私たちは革命を起こさなければなりません。新しい世界を見つけ出さなければなりません。冒険が必要であり、探求心に満ちた気質が必要です。父なる神よ! 自分のことを考える者はこの列に参加することができず、これまでの環境的条件にしがみつく者はその環境を開拓することができず、これまでの主義や思想に縛られる者は、この世界の理念に参加し、神が喜ばれる世界的指導者の役割を果たすことができないことを私たちは知っています。
私たちは個人から家庭を経て、全宇宙に至るまで理念の心情を通じる心を持つ者となり、どのような分野に送られても感謝し、どのような犠牲になろうとも感謝し、どんな冒険でも覚悟を持って進む天の冒険の王子となることができるようお導きください。
すべてを責任を持って背負い、天が信頼し任せることのできる息子娘となれるよう、心からお願い申し上げます。このすべての祈りを愛する主の御名を通してお捧げいたします。
アーメン。
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