人生訓読 ブログ(日本語)

神様と真の御父母様を中心に全世界で御旨を歩む兄弟姉妹達と全ての人々の幸福の為にこのブログを捧げます。

文鮮明先生御言葉選集 メニュー

2025年01月26日 16時06分18秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集


第一選集
01-02 02-04 05-07 08-09 10-11 12-13 14-15 16-17 17-18 19-20
第二選集
01-02 03-04 04-05 05-06 07-07 08-09 10-12 13-14 15 16-17 18 19 20-22 23
第三選集
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10-11 12-13 14-15 16-17 18 19 20 21
第四選集
01 02 03 04 05 06 07 08-10 11-12 13 14-15 16 17-19 
 20 21 22 23
第五選集
01 02 03 04 05 06 07 08 09 10 11 12 13 14
第六選集
01 02 03 04 05  06-07-08 09 10-11
第七選集
01 02 03 04 05 06 
07 08 09



           
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文鮮明先生 御言葉選集 7-7

2025年01月25日 15時06分54秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7 - 7. 人生の道を歩む私たち (1959年9月6日)
人生の道を歩む私たち
1959年9月6日(日)、元本部教会にて。
ペテロの手紙第一 1:21-25


1
<祈り(Ⅰ)>


父なる神様、あなたは6千年という長い歳月を通して、どのような苦労も厭わず、私たちの先祖を導いてくださいました。しかしながら、私たちの先祖たちはたびたびあなたを裏切り、どの日もあなたの側に立ち、勝利と栄光の姿をもってあなたを喜ばせることができませんでした。このことを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がない罪人の子孫であることを認めざるを得ません。


父なる神様! 私たちの心をご憐れみください。天は、至らぬ私たちであっても再びつかまえなければならない立場におられ、至らぬ私たちは再びあなたを求めなければならない立場にあります。これをよくご存じのあなたが、至らない私たちを探し訪ねてくださり見守っておられることを思うとき、私たちはあなたに向き合う顔がありません。しかし、愛の御心をもって私たちを想い、今日も私たちを探しておられるあなたの前に、自分たちの至らなさを悔い改める心を持って集まりました。


訪れてくださり、教訓してくださるべき御言葉がどれほど多いことでしょう。しかしながら、御言葉を語ることができず、事情を伝えることもできない私たちであることが、天の無限の悲しみであることを知り、自らの未熟さを悲しむことのできる私たちとなるように導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


生命の権能をもって死の権勢を打ち砕かなければならない終末の時が、私たちの目の前に近づいていますが、私たちは生命の枯渇を感じながらも、生命を渇望する心が不足しておりました。父なる神様!このような私たちを励まし、奮い立たせてくださり、生命の全権者であるあなたをつかむことで強い力と強い心情を持ち、敵の前に立つことのできる息子娘として立ててくださることを切に願い求めます。


今や、父なる神様の御手に捉えられることが私たちの願いであり、父なる神様の姿に似ることが私たちの願いです。 このひとときだけでも、サタンによって汚されたすべての痕跡を洗い清め、父なる神様の内的な性状に似た者となり、外的な形状を整え、本来の美を現しながら、父なる神様の栄光を讃えることのできる姿としてください。そして、父なる神様が本来の御心を備え、創造の理念の実体となった私たちとともに喜び、私たちとともに語り合うことのできるこのひとときとなることを、愛する父なる神様、切に願い求めます。


2


死の波が目の前で私たちを狙い、サタンが生命の権能を奪い去ろうとあらゆる奸計を巡らせている瞬間であることを悟らせてください。 まず、私たちの心の土台を正しく整えさせてください。そして次に、私たちの体を清めて、父なる神様に向かってしっかりと立たせてください。体と心がひとつの目標に帰着し、「父なる神様のものでございます。お受け取りください。」という切なる心を持ってひれ伏す姿とならなければ、無数のサタンたちが容赦なく蹂躙するという事実を、私たちに実感させてください。


今、私たちの心と体から、私たち自身の主観的な観念や過去の意識的な考えをすべて取り除いてください。 そして、心の奥深くから湧き上がる声で天を呼び求めることのできる切なる心、切なる想いを、このひととき溢れ出させてください。それによって、天との新しい縁を結び、新しい心情を引き起こし、新しい生命の復活の歴史を起こすことのできる時間としてください。父なる神様、切に願い求めます。


今、私たちの前には戦いの壁が立ちはだかっています。 この壁を突破することのできる天の精兵となることが必要な最終決戦の段階にあることを悟らせてください。死の権能を持つ者たちに堂々と立ち向かうことのできる天の勇士となれるよう導いてください。そして、敵の陣地に向かって進撃できる父なる神様の息子娘とならせてください。死を恐れず、勝利の旗を目指して黙々と走ることのできる天の精兵となるよう導いてくださることを、父なる神様、切に願い求めます。


頭を垂れる姿勢はそれぞれ異なるとしても、目標だけは一つとなるようにしてください。 また、状況が異なるとしても、心情だけは一つとさせてください。置かれている立場が違い、感じる心が違うとしても、父なる神様に向かう心だけは同じであるようにしてください。真心から父なる神様のために尽くそうとするその心を、どうかお受け取りください。切に願い求めます。


ここに集まったあなたの息子娘たちは、孤独な場で戦い続けてきた者たちです。 この者たちは家庭からも社会からもあらゆる矢を受けながらも、天を呼び求め、一筋の生命の光を頼りに進んできました。これらすべてのことは、父なる神様が始められたことですので、勝利の栄光をあなたの前に捧げるその日まで、一人の命も疲れ果てて倒れることのないよう導いてください。父なる神様のために喜びをもって出発した私たちが、喜びの実を結び、あなたの栄光の基盤を広げることができるようお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


3


この日は聖なる日ですので、すべての人々を祝福してください。 多くの教団を祝福してください。そして、哀れな三千万の民を祝福してください。


私たちの生命の灯火が天にあることを私たちは知っており、復帰の道を歩む運命もまた天にかかっていることを知っています。この民族の事情をよくご存じの父なる神様、韓国の教団の現状をよくご存じの父なる神様、心情と心情が結びつき、心情を通して天を誇ることのできるあなたの生きた息子娘が多く現れるべきであることを私たちは知っています。隠れた祭壇を守り、訴えている息子娘たちがいるのであれば、どうか彼らを集め、小さな群れによって大きな群れを恥じ入らせるという御言葉を成就してください。


父なる神様! バアルにひざまずかなかった七千の群れが、狡猾な悪の要素を阻んだように、サタンの狡猾さを阻むことのできる七千の善の群れがこの地に存在するようにお許しください。父なる神様、切に願い求めます。


父なる神様とともに悲しみ、父なる神様とともに議論し、考えることのできる隠された息子娘たちを速やかに父なる神様の家庭に集めてください。そして、彼らを父なる神様の家族としてつなげ、望まれる栄光の園を一日も早く復帰し、すべての恨みを解消する成事を成し遂げてくださるよう、切に願い求めます。


このひととき、ただひたすらあなたにお任せしますので、始めから終わりまで父なる神様だけが運行してください。邪心が入り込む時間とならないようお許しください。 父なる神様の栄光を慕う基準のもとで、天と地全体が順応し、一つに和合する私たちの礼拝とさせてください。これを切にお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<祈り(Ⅱ)>


あちらこちらを彷徨いながらも、生命の道を探し求め、父なる神様の前にひれ伏した私たちであることを、否応なく感じます。


今日、父なる神様を「アバ、父よ」と呼ぶことのできる場に立たせてくださった恩恵と、 私たちが知らぬ間に、無限の労苦を惜しまず、私たちを守り、分別し、この場にまで導いてくださった恩恵の前に、何をもって報いましょうか。何一つ報いるものを備えておりません。たとえ体を捧げてもその恩恵に報いることはできず、心のすべてを捧げたとしても、父なる神様の労苦の功績の前には頭を垂れるほかない、不足した者であることを、この時間、否応なく感じます。


ここまで導いてくださった父なる神様には、私たちを生かさねばならない責任もありますが、私たちを通じて栄光の日をご覧にならねばならない父なる神様の事情があり、願いがあることを知っています。 また、このような私たちを見て慰めを得ようとしておられる父なる神様であることを思うとき、不足した私たちに希望を置き、歴史の険しい路程を耐えてこられた父なる神様の前に、顔向けできないことを感じざるを得ません。


私たちの肉と血が、父なる神様の御心を理解し、私たちの骨が一つの人格を形成する姿を備えたならば、その全体が父なる神様の不変の御姿を証する一つの構成体となることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


細胞の一つ一つまでもが父なる神様に属し、栄光を捧げることのできる聖なる、そして栄光ある実体を、どれほど待ち望んでこられたことでしょうか。 歴史の過程において、私たちの先祖たちはそのような姿で父なる神様をお迎えすることができませんでした。天に従いながらも時には不満を抱き、時には天を裏切り、選民の権利を誇りながらもそれを放棄したという歴史的な事実を私たちは知っています。


5


父なる神様! このような嘆かわしい血統を受け継いだ私たちは、今日天を信じていると言いながらも、明日には天を裏切ることもあり得る、悪しき世界と近い立場にいる者たちです。このような私たちをどうか憐れんでください。父なる神様、私たちを捉えてください。私たちの渇いた心に、父なる神様の生命の御心を接ぎ木し、新しい生命の力強い復活の歴史を起こしてください。これを切に願い求めます。


これまで地上に生まれ、去っていった人は多く、現在も多くの人が来ては去っていきます。しかし、父なる神様の御事情を握りしめ、父なる神様の御心をつかみ、涙を流す者はおりません。 どうか、今日私たちが父なる神様の御事情と御心を握りしめ、涙を流す者となることができるようにしてください。天地を嘆き、人類を嘆き、歴史を嘆き、堕落した先祖を嘆きながらも、父なる神様をお迎えしたい、父なる神様のために尽くしたいという思いに満ちた息子娘たちが、この地上に多く現れることができるようにしてください。父なる神様、これを切に願い求めます。


誰を見るためにこの場にやってきたのでしょうか? それは、どんな立派な服を着た人を見るためでもなく、どんな美しい人に会うためでもありません。醜い痕跡を持ち、傷ついた体でありながら、尊厳ある父なる神様の御姿に似るためにここに集まりました。どうか私たちを見捨てることなく、抱きしめてください。私たちの心、私たちの思いが寄りかかる場所もなく、孤独であることを父なる神様がご存じであるならば、この時間、私たちを慰めてくださるよう、切に願い求めます。


このような心情を抱き、現れてくださり、永遠の生命の主体として私たちを導いてください。 私たちの体と心にしみ渡る生命の御言葉を与えてくださり、父なる神様の恩恵に感謝し、礼拝することのできるこのひとときとなることを許してください。


この時間、御言葉を通じてお話ししようとするにあたり、父なる神様、どうかここに共にいてください。 伝える者と受け取る者の間に隔たりがあるならば、それがサタンの通路となることを私たちに悟らせてください。そして、その場がサタンの狙う死の領域であることを悟らせてください。伝える者の心も受け取る者の心も一つとなり、父なる神様の御心に連なり、共鳴し、清められる時間となることを許してください。


6


韓国各地に散らばり、孤独にひざまずき、嘆願するあなたの息子娘たちをどうか顧みてください。 困難に苦しむ彼らを励まし、助けてください。「最後まで耐える者が救いを得る」とおっしゃいましたように、忍耐によって父なる神様の栄光を高め、この民族の前に父なる神様の御姿を実体として証し、示すことができるよう導いてください。数多くの教団と多くの人々の上に祝福を注いでください。主の御名によって祈ります。アーメン。






<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人生の道を歩む私」、つまり「人生の道を歩む私たち」です。このテーマでお話しさせていただきます。


人々はよく「人間は来て去るものだ」と言います。昔も今も、どんなに立派な聖人や君子でもこの世に来て、そして去っていきました。この歴史の流れ、この天倫の動きは、今この瞬間、私たち自身にも連続しているということを、皆さんは心に留めなければなりません。私たちは、来て去らなければならない存在です。どのような因縁や関係でこの地に来たのかは分かりませんが、この世に現れ、無数の現象や何らかの理念的な形態の中で翻弄されて去っていく、という事実は私たちもよく知っています。


では、私たち人間は何のために生まれ、どのような目的のために生きていくのでしょうか?これを多くの哲人や宗教家たちが心血を注いで解明しようとしましたが、未だに解決できず、そのために人類の歴史は嘆きとともにここまで続いてきました。そして今なお、それは続いています。


私たちは、このような緊張した瞬間に立たされている存在です。行きたくなくても行かざるを得ない人生の行路を歩んでいる私たちであることを否定することはできません。親の血統を通して生まれ、気づけば自分が思いも寄らなかった世界で生きています。そして生きるうちに、老いていき、やがて去らなければならない運命に直面するのです。どんなに立派な人であっても、華やかな青春時代が過ぎ去るのを止めることはできませんし、自分の姿が老いていくのを防ごうとしても防ぎきれないのが現実です。


7


考えると切なくなり、考えると胸が詰まり、考えると何か分からないものに対する衝動が湧き起こり、すべてをかき乱してしまいたいという気持ちを、皆さんも人生の中で何度か経験したことがあるでしょう。


「なぜ私は来たのか、なぜ私は生きるのか、どこへ行くのか?」 自分が生まれたことを、自分自身が選んで生まれたと考えてはなりません。生まれはしたものの、何が動機となって生まれたのか、何のために生まれたのかを知らない私たちです。生まれたのは自分が生まれたくて生まれたのではありません。生きているのも自分が生きたくて生きているのではありません。死ぬのも自分が死にたいと思って死ぬのではないのです。


それでは、自分自身を誇ることで何を得るのでしょうか? 自分が生まれたいと思って生まれたわけでもなく、自分自身の力で何かを成し遂げることもできず、死の道を避けることもできない存在である自分を誇ってみても、それはただ哀れに映るだけです。生まれたからには生きなければならない運命であり、そのように生きて去らなければならない運命です。


では、このように生きて去る目的は何なのでしょうか? この問いを改めて考えてみる必要があります。私たちが存在する動機が自分自身によるものではなかった以上、その目的もまた自分だけのものではないはずです。生きる上で幸福な場を嫌がる人はいませんし、華やかで立派な場所で生きたいと思わない人もいないでしょう。しかし、それを自分の思い通りにできないのが私たちの現実です。それでもなお、自分を誇りたい、自分の思い通りに生きたい、自分の思い通りに存在したいと思うのが私たちです。このような感情の交差点を抱えているのが私たちの存在です。


私たちは、自分自身によって生まれたのではないにもかかわらず、より大きな何かを求め、より良い生き方を望み、より大きな目的の価値を追い求めています。それは自分自身のためなのでしょうか、それとも何らかの相対的な目的のためなのでしょうか。この問いについて明確に理解する必要があります。生まれた時、親の血を受けて生まれた私たちは、自ら生まれたいと思って生まれたわけではありません。そして、親が私たちを生んだとしても、私たちは親が自由にできる生命体ではありません。親の思い通りに導くことも、殺すことも、生かすこともできない生命体です。


8


そのような権限を誰が持っているのでしょうか? その権限の所有者を解明する日には、自分を中心として喜びを得ることができるでしょう。しかし、今日の人間たちはこの基準を超えることができず、迷い苦しんでいます。このような存在が私たち自身であることを知るべきです。


だからこそ、私たちは心の中でより大きな何かを追求しています。 また、生涯を通じて死の権限を克服し、実際により大きな生命の驚くべき世界と縁を結びたいと望んでいます。さらに進んで、人間の情的な世界を超え、永遠不変の情的な世界と接したいと願っています。それを解明したり証明したりすることはできなくても、そうした感覚に自分が絶えず引き寄せられているのを感じます。特に、良心が澄んでいるほど、その何かが矛盾した世界を捨てるよう促しているのを感じるでしょう。


そのため、この地上に生きている人間の中で、誰も自分を「善なる人間だ」と言うことはできないでしょう。 生まれてみれば、自分は善の種ではなく、悪の種であることがわかります。生まれてみれば、再創造の理念の前に立つことができ、何らかの価値を謳歌できる存在ではありません。自分自身の姿が、不肖の姿、不完全な姿、未熟な姿、不足している姿であることを否定できないのが人間です。このような人間をキリスト教では「堕落した人間」と定義しています。


人間の本心は、堕落した世界で楽しみながら生きたいとは思いません。 そのため、人間は6千年の間、この道を避け、逃げ続けてきましたが、いまだ完全に逃れたと言える基準を立てることができていないことを、私たちは理解しなければなりません。


今日、私たちは悪を避け、善を目指しながら、何らかの目的に向かって進んでいると言えます。 今日も、明日も、たとえ死んでも、悪を排除し、善を掴もうとする目的のもとで、悪の環境を避けながら進むその過程が人生の行路なのです。


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だからこそ、私たちの心は恐怖に震えています。 心の故郷に向かって動いているときはそうではありませんが、悪に傾く場所に立つときには、何かが自分を掴んでいるような恐怖を感じるでしょう。これは、私たちが罪悪の歴史、あるいは死の権威、暗黒の権力に向かって、本心を避けて進もうとしているからであることを、しっかりと記憶しなければなりません。私たちは、逃避の道程を歩んでいます。もし天が存在するとするならば、この逃亡者たちをどのようにされるのでしょうか?悪から逃れるべき人類をどのように導かれるのでしょうか?天が存在するのであれば、その導きの方法が明らかにされなければなりません。


それでは、この逃避の道程とはどのような道程でしょうか? この地上には真の指導者がいません。誰かの事情を考慮し、誰かを支えながら、自分の事情を述べる立場にはありません。多くの人類が生まれては去りましたが、人類は今なお逃れるべき運命に縛られています。それぞれが自分の道を進むのに忙しいのです。逃亡者の運命とはそのようなものです。


皆さん! ある犯罪者が鉄格子に閉じ込められていたところから逃亡するとして、その者に見えるものは何でしょうか?それは自分が生きる道、自由の世界、自分が憧れる何らかの世界であるに違いありません。自由の世界や自分が憧れる世界への思いが強ければ強いほど、置かれた環境から逃れようと全力で走るでしょう。


しかし、人類は逃亡者の運命にある中で、自分が切望する園がどこなのか、自分が望む場所がどこなのかを知りません。 そのような状況の中で、歴史は巡り巡り続けています。目的も方向も立場も分からないまま、自分を慰めながら生きてきた人間であったことを、私たちははっきりと理解しなければなりません。


私たち人間が堕落し、天の前で罪を犯したために、正義の神と不義の神が対立していることを私たちは知っています。 私という存在は不義のサタンの束縛から逃れようとしており、この世界の逃亡者です。私たちは逃避者です。では、救いとは何でしょうか?天国とはどこでしょうか?この世は逃避すべき場なのです。


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逃避にはさまざまな方法があります。 個人として立派に逃避する方法、家族全体で逃避する方法、民族的に逃避する方法、さらには世界的、宇宙的に逃避する方法があります。それらの方法を提示し、教えることができないのであれば、神を「愛の存在」や「創造主」、または「理念の絶対者」と呼ぶ資格はありません。


では、天が人間に対して逃避の方法を教え、指示する基準はどこにあるのでしょうか? それは、どんな学説でもありません。また、天上にあるわけでもありません。それは皆さんの「心」にあります。この事実をしっかりと理解してください。逃避の方向を指し示す基盤は、皆さんの心にあるのです。


心は自然の理にかなうものであり、善に向かって無限に動こうとします。 それは、磁石が南と北を指すようなものです。自然の理は方向を失い、善から外れることはありません。そのような現象は存在しません。同様に、人間の心も何らかの目的に向かって動こうとします。生命に向かって動く心、心情を通じて動く心、真理を見極める心、全体と調和しようとする心、全体の理念に適合しながら生きたいと願う心。この心こそが、天が逃避の方向を指示できる基盤であることをしっかりと理解しなければなりません。


この逃避者としての立場にある私たちが、天性に向かうこの心を守り抜くためには、戦わなければなりません。 戦いが必要です。この戦いを経て、逃避の目的を達成するか、失敗するかによって、救いを得られるかどうかが決まることをしっかりと理解してください。私たちはそのような過程を通過しています。


では、私たちはどのような姿勢で進むべきなのでしょうか? 皆さん、よく考えてみてください。この戦いの過程を進むには、天が望む姿勢で、天が望む戦術で、天が望むその地まで進まなければなりません。主体者の計画に応じて相対的な価値を築いていくことは避けられないのです。


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皆さん、ここで改めて考えてみてください。自分自身の今の姿がどのようなものかを。 どのような目的の世界の中で動き、その世界に囚われて今日も生きている自分自身であることを否定できないのなら、その自分が人生の逃避行路においてどのような立場にあるのかが問題です。


見てください。 敵が道を何重にも塞いでいるのに、目を開けることすらできない人がいます。このような状況に置かれていることを、夢の中でも気づかず、深い眠りに落ちている自分に気づかない人もいます。あるいは、走らなければならない道で疲れ果てて倒れている人もいます。その姿は千差万別です。


皆さん、自分自身を取り戻さなければなりません。 今日ここに出席した皆さんは、自分がどのような立場にいて、どのような姿をしているのか、心の基準を定めて自分を分析する必要があります。心は絶えず促しているのに、何か分からないものが胸を塞ぎ、何か分からない恐怖の圧力を感じています。そのため、「このような場所にいてはいけない」と自然に感じるだけでなく、目に見えるすべての物事を通じてそのような感覚が作用してきます。このようなことを通じてでも、自分がどのような姿でどのような立場にいるのかを知る必要があります。


もしも偶然にでも霊の目が開かれるならば、 数千年前にこの地を去った数多くの道を歩んだ人々が、多くの人々の前で叫んでいることに気づくでしょう。今日、皆さんの隣には多くの霊的存在が走り続けています。そして「一緒に行こう、敵が迫っている」と呼びかけているのです。しかし、皆さんの耳はその声を聞くことができず、目は見ることができず、体はその感覚を捉えることができないのです。この姿は哀れであり、これ以上の嘆きはありません。この嘆きは自分一人の嘆きではありません。このような状況は、存在の価値を全体の理念世界と結びつけようとする天倫の前で許されない罪となるのです。


人が道義の道を歩むには、ただ走るだけでは十分ではありません。目的を成し遂げるための必要条件と、目的とする内容を成就できる心の土台を整えて、その目的に向かって走らなければならないのです。


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人間は堕落によって、以下の4つを失いました:真理、心の故郷、生命の本体、そして愛の実体です。 この4つを失ったことで、人間は本来の状態から遠ざかり、迷いと苦しみの中で生きています。


それでは、逃避者の心に深く刻まれている願いとは何でしょうか? それは「本来の故郷に帰ること」です。その国に登録される国民となるためには、何を備えなければならないでしょうか?真理を悟る必要があります。サタンが支配する悪しき世界のすべての秘密を理解し、堕落したこの地上のあらゆる問題を解明することのできる真理を持たなければなりません。その上で走り続けなければならないのです。


今日の人間は、サタンの主権を天の主権へと結びつける目的 を胸に、真理の故郷、良心の故郷、生命の故郷、愛の故郷を慕いながら、その地を目指して走らなければならない運命にあります。


これまでの人類の6千年の歴史は、真理を探し求める道のりでした。走り続けるためには、真理という必須条件を見つけ、それを解明しなければなりません。真理を持たないままどれだけ走っても、無駄に終わるだけです。私たちが真理に基づいた目的観を持ち現れるとき、すべての価値が測定されます。真理が解明されなければ、すべては無価値となるのです。そのため、人類は今、心の方向性とともに、真理の方向を模索する段階にあります。


これまでの歴史の中で、「真理の王」や「真理の根本」と呼べるものは現れていません。 そのため、今日の世界の人類は、思想や主義に流され続けています。しかし、真理は二つ存在することはありません。それは唯一であり、永遠であり、不変です。にもかかわらず、この唯一の真理と全人類が調和できる内容を備えた真理は存在しないのです。


13


今日、倫理や道徳、社会秩序を築く過程で提示されてきたものは何でしょうか?良心の基準に応える真理の基準を求めてきました。しかし、それだけではすべてを解決することはできません。人間がいかにそれを解決したとしても、自分の前に訪れる生死の問題にどう対処するのかという課題に直面します。この生命の問題をどう解決すべきでしょうか?


人間の心は無限の世界と繋がろうとしています。この心の作用を無視することはできません。この宇宙の万物には、目的なしに動くものは何一つありません。さらに、目的に基づいた価値的な縁を離れて作用する存在も存在しません。


ですから、否定できない絶対的な基準に対する絶対的な信念 を持ち、内外から侵入してくるすべての悪の条件を防ぐ必要があります。この強い意志には必ず目的地があり、その目的地では、天の前で価値ある縁を示すことができるでしょう。その時には、心の動きに従い、心が指示する通りに生きることが求められます。たとえ全体の目的を知らなくても、日常生活の中で価値的な縁を築くために、そのように生きていくべきなのです。


皆さんは自分の心に問いかけ、本来の故郷がどこなのかを尋ねたことがありますか? 歴史は進歩し、文化も発展してきました。文化や人間の知恵により、外的な環境はある程度変化し、発展しました。しかし、心の世界は変わりません。この心の世界には革命も進歩もなく、ただそのままで「永遠」であり「不変」です。


心には明確な目的があり、それが定まると無限に進み続けます。 磁石が南北を指し示し、その方向を変えるには外からの大きな力が必要なように、良心の世界も外的な力によって動かすことはできません。したがって、この動かすことのできない心の作用は、絶対的な理念の領域に属しています。心の明確な目的観が解明されると、体のすべての細胞や感情までもが巻き込まれて動くことは間違いありません。


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問題は単純です。どれだけ素晴らしい良心の作用があったとしても、その人が備えている程度以上の作用は起こせません。 自分の限界を超える行動はできないのです。心は主体的な位置にありますが、それが何千倍、何万倍にもなることはありません。心は肉体を制御しなければならない相対的な立場にあるため、相対的な関係を超えては作用できません。


このため、良心にも違いが生じます。さまざまな違いがありますが、その良心には本質に向かう方向性が備わっています。この良心の方向性を確定させるために「観」が生まれます。たとえば「人生観」「宇宙観」、あるいは主義や真理の表象などがそれに該当します。これらは相対性を持つ完全体です。


完全なマイナスがあれば、完全なプラスをある程度推測することができます。完全なプラスがあれば、完全なマイナスが成立します。これは自然現象です。したがって、天上に永遠不変の完全な主体が存在するため、私たちの心はその完全な主体を手本とし、その主体の前に相対的な基準を形成するために、今日も明日も努力を続けるのです。


神は無理やり人間の心の基準を変えることはできません。それは肉体と調和しながら進めなければならないからです。まず肉体を整え、その肉体を特定の環境に置いた後で、その心情の方向を自然の法則に合わせなければならないのです。このような真理の法則を確立することを神は望んでおられます。


もし世界を貫き、天の原則に適合する真理が現れるならば、良心は無限に広がり、活動することができるでしょう。その真理は、私たちの心を完全な方向へ導き、肉体と調和しながら、その価値を永遠に発揮させる基盤となるのです。


15


そのため、人間は真理を求め続けています。 しかし、現代の20世紀文明が誇る文明世界においても、人間の心が湧き上がり求める無限の絶対者の前に、自然な相対基準を形成する姿へと促す真理は、地上に現れていません。このため、人間は堕落の悲しみから解放されることができていないのです。


神は、さまざまな形で人間に教え導き、目的に結びつけるための悲痛な歴史を歩まれていることを考えるべきです。


今日、私たちは人生の行路を進みながら、真理の方向を探し求める逃避行路にいます。その過程で、神はどれほどの労苦を積み重ねてこられたことでしょうか。人類の歴史が抱えるすべての悲しみと、惨めな状況を思い起こすと、私たちはそれが恐ろしい歴史だったと思うかもしれません。しかし、この歴史を進めてきた主体者である神の側では、それ以上に恐ろしい戦いが今も続いているのです。この戦いがなければ、私たちは安らかに眠ることも休むこともできない惨事に直面することになるでしょう。


心は始まりであり終わりであり、魂と実存的な本体と結びつくものです。 このため、その悲しみが解消されるまで、またその悲しみを完全に克服して解決するまで、同じような深い悲しみとして心に影響を与え続けます。この悲しみを引き起こしたのは人間であり、この悲しみを延長し続けてきたのもまた人間です。このような人間に対する裁きは、当然の処置と言えるでしょう。


これからの人間は、真理を手にして本来の故郷を目指して走らなければなりません。 次に、生命を探し求めなければなりません。「私の生命の主体はどこにあるのか?」「永遠不変の生命の主体はどこにあるのか?」さらに進めば、「神は愛であり、イエスも愛だと言ったが、その愛の主体はどこにあるのか?」という問いに答える必要があります。


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そして、それらに出会い、次のように宣言するのです。「私が持っている真理の価値はこれです。私が持っている良心の基準はこれです。私が備えている愛の基準はこれです。」その価値的な評価を受け入れた後に向かう場所が霊界です。


霊界には、極めて善なる天上世界がある一方で、それに反対するサタンの世界、すなわち悪しき地獄もあります。このような霊界を知り、目指すべき方向を明確にしながら、私たちは真理と愛を追求していかなければなりません。


皆さんは何を持っていますか? 今、私たちは探し求めなければなりません。心の現象を通じて、自分の心がどのような関係にあるのかを知ったのなら、次に必要なのは、自分の心を無限に高めてくれる本体の前に、自然な作用として陰的なマイナスの立場、あるいは陽的な主体の前に対象的な立場で立つことができる、歴史的・時代的・未来的な真理です。これが、私たちが真理を探し求める理由です。主義を探し求める理由でもあります。


さらに進んで、真理を求めてさまよった先祖たちをも超えられる、偉大な勇者 が現れる必要があります。歴代の聖人や賢哲たちに向かって「一体何をしてきたのか」と問い詰め、数々の道を説いた導師たちに「何を成し遂げたのか」と抗議できるような人物が、地上に現れることを私は切に願っています。それが必要ではありませんか?


このような存在が、逃避する生活を送る人間にとって必然的な条件であり、備えるべき絶対的な条件であるならば、今日の人間は、そのような人物を迎えるための運命的な状況に置かれています。人間は、自ら望んでそのような環境に生まれたわけではありません。また、自分で解決できる根本的な原因を持っているわけでもありません。そのため、常に相対的な立場で価値的な関係を持ちたいと願っても、実際にはそのような価値的な縁を結ぶことができないのです。


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人生の行路で自分の価値を誇る人を見てください。彼らがその価値で持ちこたえられるかどうか。もし不十分な姿で自慢しているなら、周囲の環境や万物ですら「こいつ!」と思うでしょう。これは、私たちが持つ良心に基づく自然な現象です。もしも不相応な者が偉ぶっているのを見たら、皆さんはどう感じますか?「素晴らしい!」と褒めたくなるでしょうか?そうではなく、「こいつ、いい加減にしろ」と叱りたくなるはずです。これは悪い心ではなく、本然の心情なのです。


このような状況にある皆さんは、自分の価値を主張する人々の姿をよく見つめるべきです。「どのような主義か?どのような観か?」という問いには、良心の世界には主義も観も存在しないことを明確に理解する必要があります。良心の世界は、主義や観が切り離されたり、解明されたりすることができない世界なのです。


それでは、今日の私たちの価値はどれほど誇れるものでしょうか?「私はこれこれの主義を持ち、私はこのような存在だ」というのは、愚かな行いにすぎません。観念の内容を中心とした真理、あるいは天理的な内容を内包する心や生命、そして愛の心情の前に立って、自分の姿が恥ずかしくないかどうかを判断してみてください。その瞬間から、自分を見つめ直す過程が始まるでしょう。


私たちはこのような運命に置かれており、行かざるを得ません。それは必然的であり絶対的です。 真理の故郷で共に喜び合える心、真理と心が一つになり動き出す生命、そして真理と心と生命が結びつき、天情(天の情愛)を呼び起こすことのできる愛こそが、人間が求める最高のものです。


今日、皆さんはどのような立場にいますか?確かに手足を持ち、感情を持っていますが、目は何を見つめ、頭は何を考え、手足は何に向かって動いているのか? この問いに向き合う必要があります。


18


「手よ、お前は真理を求めるためにどれほど苦労してきたか?」「体よ、お前は真理や本体を目指して走り続ける心にどれほど協力してきたか?」こう問いかけてみるべきです。


しかし、日々「まあ、何とかなるさ」「一杯食べたからそれでいい」「一眠りしたからそれでいい」と繰り返しているうちに、人生はあっという間に過ぎ去り、死の断崖に突き当たってしまう運命に陥ります。皆さん、人間はそのような無価値な存在ではありません。無秩序で無目的な生き方をするために、宇宙の主が私たちの命をこの地に与えたわけではありません。


原因と目的に基づく関係の現象世界を通して、不変の目的を推進しようとする縁を無視することはできません。 その縁を統合し、関係と価値を論じるべき人間が、そんなに浅はかであってよいのでしょうか?皆さんはそのような人間ではありません。


もしここに賢い人が来ているなら、「私はインテリだ」と言いながら、どこかで逃避しようとしている人に言いたいことがあります。それは、この道を一度ノックしてみてください、ということです。これこそ私が伝えたいメッセージです。


今、私たちは心の方向を高める必要があります。心の世界を広げ、地面を見るのではなく、高いところを見上げるべきです。 世界だけでなく、天を見つめるべきです。もっと高く、もっと遠くを見上げなければなりません。


19


今日の私たちの心の世界は、地上の生命では満足できません。 地上のいかなる目的も、良心の作用も、そこに留まろうとはしません。人生を通じて、永遠の関係を結び、心情が無限に広がる生命力を求めていることを、皆さんは否定できないでしょう。


それでは、歴史の終わりを嘲笑し、乗り越えることのできる真理はどこにあるのでしょうか? 心の姿はどこにあるのでしょうか? 生命の姿はどこにあるのでしょうか? 愛の姿はどこにあるのでしょうか? 私たちは探し求めなければなりません。


もしこの地にメシア、救世主が現れたとしたら、その人物は明確な目的観と実践的な価値を備え、 人間と神を結びつけることができなければなりません。そして、その内容を生活の過程で証明することができなければなりません。それができないのであれば、その人はメシアでも救世主でもありません。


人類の歴史が始まって以来、万人の前に新たな視点や方向性を直接的または間接的に示し、貢献してきたものがあります。それが宗教です。 宗教の中でもキリスト教は世界の文化創造において大きな貢献をしてきました。


では、キリスト教の本質とは何でしょうか? それはイエス・キリストです。信仰者たちはイエスを救世主と呼んでいます。それでは、救世主とはどのような姿であるべきでしょうか? 救世主は、真理の本体であり、心の本体であり、生命の本体であり、愛の本体でなければなりません。 もし心の本体でないのであれば、絶対者の本体に対して相対的な存在であってもよいのです。


20


この観点から天の摂理を振り返ってみると、歴史の中でイエスほど痛快な言葉を残した人物はいません。たとえば、彼は「私は神の独り子である」と宣言しました。この一言だけでも堂々としており、男らしいと思いませんか? イエスが救世主という肩書きを持っていなくても、その言葉の力強さは揺るぎません。歴史の中で、これほど痛快で堂々たる表現をした人物を見たことがありますか? 仮にそれが理想的な表現であっても、その宣言の輝きを否定することはできません。


さらに、イエスは「あなたたちは誰よりも私を愛しなさい」と言いました。どんなに感情豊かな男性でも、この言葉以上に痛快で情熱的な発言を耳にしたことがあるでしょうか? イエスは男性として最高の感性を持った人物でした。


また、彼は「私は道であり、真理であり、命である。私を通してでなければ、目的とする主体のもとへ行くことはできない」と語りました。この論理に基づき、イエスの言葉が解明され、すべての条件に適合しているので、私は彼をメシアと呼びたいと思います。皆さんはどう考えますか?


イエスは、人類を罪の束縛から解放するための王子として、私たちの人生の行路を切り拓くために先頭に立って来られた方でした。天上天下にただ一人現れた「逃避の王子」 だったのです。後に残るすべての人類も、罪の束縛から逃れるべき存在ですが、その彼らの王子として地上に来られたのがイエスでした。


イエスは私たちにとってただの聖人ではありません。彼は真理、愛、生命、心のすべてを結びつけ、神の摂理を実現するための中心人物です。この視点から、彼を救世主として受け入れることができます。


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イエスをそのように感じるならば、歴史的な真理を解明されなければなりません。 イエスに繋がるとき、本来の良心の基準が明確に立たなければなりません。イエスを見るとき、生命の永遠性が明確に刻まれるべきです。イエスを見るとき、絶対的な愛の感情が湧き上がらなければなりません。それができなければ、完全な花嫁になることはできません。


イエスは、すべての万象を創られた神の独り子です。 独り子は神の皇太子であり、天の王国に永遠に存在されるお方です。この目的を見据えて立てられた方ですから、私たちが待ち望む目的の日とは、その方に再び出会える再臨の日なのです。


そのため、人間は未だに絶対的で永遠の生命の縁を結ぶことができていません。どれほどイエスを信じても、いつかは離れてしまうことがあります。イエスが私の花婿であると告白しても、裏切りや離別が起こる可能性があります。キリスト教は真理を説いていますが、人間が進むべき心の方向を完全に示すことはできていません。このため、イエスは再び来られる必要があるのです。


今日、私たちが開拓すべきことは何でしょうか?それは、ただイエスをよく信じることだけではなく、聖書に隠された真理を見つけ出すことです。 人生の行路において悲運の曲折を引き起こした歴史的なすべての内容が、どのようにして現実と未来の世界と繋がるのかを知るために、内外の黒い障壁を切り開かなければなりません。そして、その障壁を突破し、前進するための戦いに勝利できる者となる必要があります。このような資格を持つ人々が現れるとき、初めて真理の世界が開拓されるでしょう。


真理はそのようなところで連絡を取り合い、真理の基盤はそこで根を張ります。 真理は華やかで最高の文化水準の中で根付くのではありません。それは、その文化の裏通りから真理の根を張る必要があります。真理の根は天上に張るのではなく、堕落したこの地上に張られるべきです。真理の根は天国に置くのではなく、地獄の底に置くべきなのです。


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真理の根が地獄の底に張られる日、 天上と連絡できる新たな生命体が現れるでしょう。そのとき、天の新しい生命の基準が確立されるのです。このようにして、真理は最も暗い場所から輝きを放ち、天と地を繋ぐものとなるのです。


だからこそ、私たちは真理を理想的な一面として、希望の標的として掲げましたが、それを探し求める道では、その裏通りをさまよっています。 私たちは生命の象徴を目指しながら生命の裏通りをさまよい、心の裏通りをさまよい、愛の裏通りをさまよっています。これが、人間が求める最高の道を探し求める基準であることを知らなければなりません。


道の生活をする人々は、本体的な基準で喜んでいるように見えるかもしれませんが、実際には道の裏通りで苦しみながら、それを称賛しつつ生きています。これが哀れな道の生活です。


どの民族の文化でも、その民族が革新し、新しい文化を創造する動機と源泉はどこから出てくるのでしょうか? それは、不幸な人々を抱きしめて彼らのために泣くことができる心 から生まれます。この心が爆発すると、新しい希望の炎が燃え上がり、歴史的な炎が燃え広がります。


この国が豊かな国、希望のある国になるためには、不幸で哀れな人々を抱きしめ、彼らのために泣くことができる環境を作る必要があります。 そうすれば、この国は世界を支配する存在となるでしょう。


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イエスの地上での状況はどのようなものでしたか? 彼は理想的な世界の美しさを追求する空虚な立場から、万軍の主ヤハウェの価値を称賛したわけではありません。その内容はそうであっても、生活の面では「地獄の王子」でした。このことを知る必要があります。


イエスは、真理を主張し、それを切り開くために、誰よりも心を尽くして働きました。世の人々が一つの問題を解決するために一つの苦しみを感じるのに対し、イエスは一つの真理を解明するために何千もの苦しみを感じました。そのような「地獄の王子」としての生活を送ったのがイエスだったのです。


そのようなイエスだったからこそ、地獄に行っても堂々と地獄を支配する権威を持つことができたのです。 それは、何の努力もせず、遊びながら得たものではありません。もし、体験も感じることもなく人々を罰するのであれば、その神は真の神ではありません。


イエスは、このような深い心情を持って地上に来られました。そして、「私を愛しなさい」と教えました。 その背景には次のような意味がありました。「一時的な立場で愛する者たちよ!たとえ自分の姿がどんなに尊いとしても、すべてを捨てて私を愛しなさい。そうすれば、神がさらに良い場所であなたたちを愛してくださるだろう。」


イエスの外見は哀れでしたが、180度反対の大胆な言葉を語った ということを知ってください。確固たる信念と内容がなければ、そのような言葉を語ることはできません。この視点から、イエスは真にメシアとなる資格を持っていたのです。


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今日、私たちにとって、あなたと私の縁がどのような関係で結ばれているのか分からず、また皆さんと皆さんが見ている人々との間にどのような曲折があるのか分からないとしても、去ったイエスの姿を追い求めるよりも、実体的なイエスを論じることのできる栄光の価値を持てたなら、どれほど良いことでしょうか。


これまで、多くの人々が歴史的なイエスを信じ、彼を歴史的な救世主と尊称してきました。しかし、神の摂理の前で、メシアの実体的価値を論じることのできる完成の基準を持って彼に向き合った人は一人もいませんでした。


人間として生まれ、歴史的な実体を持つ人間として生まれ、そのような資格を持つことができるならば、その人は真理の王子となるでしょう。


イエスは次のように言われました。「私はまだあなたたちに言うべきことが多いが、今はあなたたちがそれを受け入れることができない。」(ヨハネ 16:12)また、「もし地上のことを話してもあなたたちが信じないなら、まして天のことを話せばどうして信じることができようか。」(ヨハネ 3:12)


イエスは、単なる真理の実体ではなく、良心の根源であり、生命の根源であり、愛の根源 でした。そのようなイエスに対して、「これはこうではありませんか?こうあるべきではありませんか?」と問うことのできる堂々とした人物が現れるなら、私たちは両手を挙げて彼を歓迎し、迎えるべきでしょう。たとえその人物がイエスよりも高く評価されたとしても、イエスはそれを叱責されないでしょう。



25


メシアの基準を知った今、私たちはどうすべきでしょうか? イエスを知った今、どうすべきでしょうか? イエスは言われました。「私は道であり、真理であり、生命である。私を通してでなければ、父のもとへ行くことはできない。」また、「天国はあなたの心の中にある。」さらに、「悔い改めよ、天国は近づいている。」 とも言われました。これらはすべてイエス自身を指しての言葉です。


このイエスを聖書の中に再現することが、キリスト教徒の最大の義務です。 イエスを聖書の中に再現する必要があります。 イエスは言われました。「私はあなたの中にあり、あなたは私の中にいる。」この言葉の通り、イエスを私たちの心の中に再現しなければなりません。それができなければ、心が指し示す基準に合わなければ、すべてが崩れ去るでしょう。


心の中にイエスを再現し、生命が躍動する中でイエスを再現し、心情が動く中でイエスを再現できる者こそ、再び来られる主を迎えることができます。 私は架空の主を望みません。そのような主は必要ありません。


逃避の道程にある人間には、敵の攻撃があり、防御があるでしょう。その攻撃を打ち破る基準とは何でしょうか? それは真理です。真理は、サタン世界のすべてを解明し、神を裏切ったサタンを罪人として追い詰め、イエスを掲げ、最終的にはサタンに勝つ内容を備えるものです。


サタンとは何に例えられるでしょうか?それは検察官のようなものです。 イエスは弁護士です。神は裁判官です。そして私たちは罪人です。このような関係性にあるのです。しかし、逃避の道程では、私たちが検察官の立場に立ち、イエスを弁護士として神を裁判官にお迎えし、サタンを犯罪者として裁く必要があります。


26


サタンの起源からすべてを解明し、「これこれの罪状があるので、天の処罰をお願い申し上げます」と言えたならば、イエスは「そうだ」と承認し、神がその裁きを下されるでしょう。 そのような場面において、恐れるべきものは何もありません。そのような勝利の基準を持たなければならないのです。


そのようなイエスと縁を結んだならば、その心の世界には障害がありません。 その心には恐怖が入り込むことはできません。恐怖の現象は、悪による暗雲が広がり天地を動き回るために生じます。しかし、それを解明し、その主体を追い出せる立場に立てるならば、天地を揺るがすどんなものも、その人の生命を支配することはできないのです。


皆さんが生きているこの社会には、気づかないうちに真理の波が浸透しています。 良心の世界の流れが浸透しています。生命の感触が接近しており、心情の縁が巡り巡っています。


しかし、皆さんはそれらに対して涙を流しながら、「恐れ多いことです。どうぞおいでください」と歓迎したことがありますか? それがないのであれば、天上と地上の罪人となるのです。


「真理の波よ、私の心を打ち砕いてください。神の心情の動きよ、私の心に宿ってください。神の生命の感触よ、私の心に宿ってください。神の愛の縁よ、私の心情を支配してください」 と涙を流しながら祈る人がいるならば、その人は学問博士よりも立派な人です。このような人こそ、天が歓迎し、招くことのできる貴賓であるということを、皆さんは知るべきです。


27


イエスはそのような立場におられました。 イエスは民族の罪を見つめ、次のように語り涙を流されました。「この民族よ!あなたたちは、この民族の中に神の4000年の真理の流れがあることを知らないのか。あなたたちの心の中に神の心情が湧き上がっていることを知らないのか。あなたたちの体に神の愛が宿り、今この瞬間も切ない心情と悲しい心情を抱え、困難と悲哀と絶望の心で涙を流しながら嘆き叫ぶ神がいることを知らないのか。」 と。


イエスは去られました。 イエスは来られましたが、その使命を果たしきることができないまま去られました。では、イエスが残されたその使命を誰が引き受けるのでしょうか?学ぶべきだった真理を、誰が引き継ぎ、私たちに教えてくれるのでしょうか?開拓すべき心の畑を、誰が開拓するのでしょうか?確立すべき生命の基準を、誰が立てるのでしょうか?永遠に縁を結ぶべき愛を、誰がその縁を結んでくれるのでしょうか? イエスは嘆きに嘆き、神の右手で祈らなければならない運命にあることを、私たちは知るべきです。


そのようなイエスが私たちの新郎です。どんなに冷たい心の人間であっても、その心情に浸り、世界を見つめるとき、そこにはイエスの涙と血が染みついていることを知るでしょう。そして天地を見上げるとき、神の愛がその心に染み渡るのを感じるでしょう。


「父なる神よ!イエスよ!」 と呼びかけながら、他の人々が進まない道を昼夜を問わず走り続け、天倫と共に歩む人は、神の同労者です。天はそのような人を必要としています。人類はそのような人が現れることを待ち望んでいます。


私たちの大韓民国もそのような青年男女が現れることを望んでいます。 他の人々が華やかなネオンサインの光の下で酒を酌み交わすその時間に、胸を抱きしめながら、「天よ!地よ!この運命の悲しみを私に任せてください。」 と祈る青年男女がいるならば、この国は決して滅びることはありません。


28


全ての創造物の裏通りに生命の理念の根があることを忘れれば、その国は滅びます。 高い地位に登る前に、低い場所で犠牲の供え物となり、血を流し倒れながら、「この民族よ、この国の運命よ」と 心配できる人が必要です。また、そのような心配の声を聞き、その場所を訪れることができる指導者がいれば、その国は栄えます。天の歴史はそのような歴史でした。


この地に来たどの預言者や神に選ばれた偉大な者の中で、血を流さなかった者がいるでしょうか? 血と汗を流す道を歩まなかった者がいるでしょうか?人生の裏通りで苦しみ、踏みつけられ、蹴られ、押され、倒れながらもその道を行こうとする人々が、道義の道を行く人々です。


悲しみの中にある人々を尊敬します。 彼らは死の裏通りで生命の根を張るために苦しみ、追いやられています。この民族は、自分でも気づかないうちに、歴史と生命の流れ、真理の流れ、心情の流れ、愛の流れと縁を結び、その基盤を広げてきました。このような人々を、天も無視することはできません。天もそのような人々を無視することは決してありません。


人類の裏通りで人類全体を責任持とうとされたイエスは、栄光のメシアではありませんでした。 愛と喜びと幸福を歌うメシアではありませんでした。苦しみのメシアであり、悲しみのメシアであり、死のメシアでした。人類を責任持ち、裏通りの最も屈辱的な場所で、不当に扱われ、売られたイエスだったことを、私たちは知らなければなりません。


イエスを信じるということは、簡単に飛びついて掴むようなものではありません。「どうしようもない、もうダメだ」と嘆きながら、涙とともに掴み取る行為なのです。これを否定することはできないでしょう?


29


イエスは次のように言われました。「誰でも私について来たいと思うなら、自分を否定し、毎日自分の十字架を背負って私に従いなさい。」(ルカ 9:23)


ここで言う「自己」とは何でしょうか?それはサタン世界の権威を意味します。自己を中心とした個人の権威、自己を中心とした批判の基準、自己を中心とした感覚の世界は、この世の王、サタンから与えられたものです。これを断ち切り、孤独に涙を流しながら、暗く絶望的な人生の裏通りで苦しみ、肥やしとなり、そこに生命が根を下ろす基盤を築く人々こそが、道義の生活を送る人々です。


今日、キリスト教徒はそのような生活を送らなければなりません。華やかな文化の最前線で、新時代の夢を歌い、それに満足している人々がいるならば、彼らは歴史から糾弾され、この世の終わりの裁きの場に押し込まれるでしょう。


一方で、「あなたたちは皆行きなさい。私はここを守る」と言い、死の淵を自らの体で、血と涙で埋めて平地にしようとする集団があるならば、神はその集団を通して働かれるでしょう。


歴史は新しい理念と新しい形で成り立ちます。しかし、それは良い場所から始まるのではなく、悪い場所から始まるのです。このことを私たちは学び、知っているはずです。そのため、罪がある場所に恩恵が多いというのです。


30


神の歴史は、困難で低い場所から始まり、そこに根付いた人々を通して進んできました。この事実を忘れず、私たち自身もその流れに加わる準備を整えるべきです。


私たちがこれから進むべき道は、心を開き、次のように神に訴えることから始まります。「神様!イエスは来られて去られましたが、私の心は無限に高まり、絶対者の前に堂々と立つことができる相対的な価値を歌える心の基準を持つには至りませんでした。私はどうすればよいのでしょうか?」 このように神に抗議することを知るべきです。イエスに訴え、聖書を持って抗議する必要があります。他人の言葉をただ信じているだけでは失敗します。韓国の歴史も、他人の言葉を信じ続けたことで不幸な支配を受けた過去を持っています。


私たちはただの受動的な信仰ではなく、「本質的に正しいものは何か」 を問い続けるべきです。神が人類を探し求める中で、すべてのことを無条件に信じるのではなく、本質的に誤りが含まれていないかを見極める必要があります。イエスが教えられた真理や、聖書の中の言葉が結果として実現されていない場合、「なぜそのように実現されなかったのですか?」 と神に抗議する必要があります。その際、自分自身の立場を明確に証明し、神に問いかけることが必要です。神はそのような抗議を受け止められるのです。


今日、キリスト教ではイエスの再臨を、仏教では弥勒仏の降臨を、儒教では真の人の出現を語っています。これは、単に既存の教えを再現することではなく、「より高度な新しい言葉を持つ主」 の到来を示しています。そのため、私たちは天があると信じるならば、天が答えを出されるまで抗議し続けるべきです。


イエスを信じる目的とは何でしょうか?信じてその後どうするのでしょうか? 新婦になることが目的ならば、その先には何があるのでしょうか?新郎であるイエスと出会い、愛を受けることでしょう。しかし、その愛を本当に受けたことがありますか?もしそうでなければ、抗議する必要があるのではないでしょうか?


31


私は次のように考えます。「イエスが私を愛してくださるならそれでよい。もしそうでなくても、私はイエスを越えて神の愛を受ける。」 イエスは神の愛を受けるための条件であり、その役割を果たす存在です。


私たちは他人の言葉をそのまま受け入れるだけでなく、真実と本質を探し求め、神に向かって問いかけ、抗議する信仰を持つべきです。そうすることで、新しい歴史と新しい愛の基準が築かれるのです。イエスを通じて神の愛に近づき、さらなる成長を目指すことが、私たちの真の使命であると言えます。


だからこそ、パウロは「私たちの主イエス・キリストにある神の愛から、誰が私を引き離すことができるだろうか」と言いました。キリストにある神の愛は、新婦という名詞的な権限の中にある愛ではありません。イエス自身も新婦を迎え、神からの祝福を受けなければ、この天の大いなる事業を引き継ぐことはできません。これを皆さんは知らなければなりません。神を中心とした愛の縁を結ぶ必要があるのです。


では、皆さんはこの内容を備えるために、心の扉を開き、真理の波が押し寄せる感覚を感じたことがありますか?清らかな良心を駆り立てたことがありますか? 良心に囁きかけてくる生命の痕跡を掴み、それを歌にしてみたことがありますか?無限の世界と縁を結び、生命の爆発力として現れる心情的な何かを感じたことがあるでしょうか?それともまだ感じたことがありませんか?


神は被造物である人間に、自己創造的な真理の面、自己創造的な心情の感性、自己創造的な生命の感性、そして自己創造的な愛の感性を、それぞれの分量に応じて感じられるように創造されました。そうでなければ、愛されることはありません。死んだような姿であれば、誰が愛するでしょうか?


32


真理的な形、心情的な形、心の形、生命的な形、愛の形、それぞれが自己の本性に基づいた自発的な活力を感じられる刺激を得た人だけが、神から「よし、私の子だ」と認められるのです。それが生きることの本質です。これを否定できるでしょうか?


少しの間違いでも誤解を招くことがあります。本性として与えられた基盤の上で、自己の生命、自己の真理、自己の心の力、自己の生命の衝撃など、自己を表現しうる原初的な内容や動機的な内容を備えることが、絶対者の前に相対的な基準を立てるために必要です。 しかし、与えられたものをただ消費し、立たせても倒れるようではいけません。


今日、逃避の砦を目指して進む人生の行路において、自分の姿はどのようなものか、神は何を求めておられるのかを知るべきです。神は、人間が語られた真理の原動力となる実体になることを期待して、6000年もの間、苦しんでこられたことをはっきりと理解しなければなりません。


その境地に入るとき、キリストがそうであったように、「私は神の中にあり、神も私の中にいる」と 自信を持って言えることを、皆さんが体験を通じて理解することができるでしょう。


そのような動機的な感覚を持ち、死の道を堂々と進もうとする「逃避の王子」を捉えることは誰にもできません。彼は真理とともに動き、私たちの心の世界と調和し、生命の原則とつながり、無限に動き続け、心情の世界と共に無限の創造の妙味を示す存在です。そのため、彼は天が絶対的に保護するのです。


33


もしそのような境地において、自分自身の価値を論じ、自分を中心に神と自分の関係を語れるようになったなら、その姿を見られる神はどれほど喜ばれるでしょうか。たとえば、自分が書いた本の中で「この人はこういう人だ」と記した際に、その人が「なぜそんなふうに書くんだ!」と怒るでしょうか?むしろ、「あなたが言わなくても、あなたの心はこうではありませんか?」と穏やかな調子で歌い上げるように伝えられたらどうでしょう?どちらの方が心に響くでしょうか?


神の創造の理想は、自らの心情に内在するすべての刺激的な感性を人間に示し、その価値を見て喜ばれることにあります。


自分を中心に生きる人は、最終的に自分を失い、滅びます。 自分の価値を100%歌い上げた人々も、死と共に消え去る運命にあります。家庭の孝子、忠節な婦人、国家の忠臣であっても、その国家が世界の潮流に流され、融合し、滅びるとき、彼らも共に消え去ります。


私たちが逃避の砦に向かって進むためには、すべての個人的なものや自己中心的な感情を断ち切らなければなりません。 6000年の歴史の中で、そのような人が現れたなら、神がその人を祝福されないはずがありません。しかし、そのような人が現れなかったために、神は嘆かれているのです。


もし韓国にそのような青年が現れるなら、神を韓国にお迎えすることができるでしょう。これは過言ではありません。受信機が強力な信号を捉え、全ての力を引き寄せ、再び発信する力を持っているならば、その原動力を備えた存在となれるのです。


34


人類はこれまで、自分を中心にして嘆き、自らの狭い価値を語り、悲しみに暮れてきました。これは実に哀れな姿です。一つの家庭や国家、世界的な主義思想に自らを縛り付けて苦しむ人類の無価値な姿を見て、「お前たち、どけ!」と叫ぶ権限を持つ者、それがメシアです。


観念的な歴史観は簡単に過ぎ去ってしまいます。もし、宇宙を認識的に解明できなければ、歴史はこのまま続くでしょう。歴史は、私たちにすべての基準と基盤を整えて解決することができませんでした。 そのため、まずこの根本的な問題から解明しなければならないのです。


外面的には歴史の流れと、内面的には心が動く方向に歩調を合わせ、堂々と進むべき分岐点で神の前に立つならば、神は「よし、勝利の王子だ」と印を押してくださるでしょう。ここで語られる人は、そのように信じています。


今や私たちは、誰かの言葉をただ聞いているだけではいけない時代に来ました。どんな真理や、どんなに優れた教師の言葉よりも、自分の心の声を聞き、それをさらに聞きたくなるように、その心を探し求めなければなりません。そうすれば、自分でも分からない無限の何かが現れます。それが創造の内容です。


偉大な科学者が高度な分子公式を解こうとする際、相応する基準を見つけられずに苦労することがあります。しかし、一つの相対的な基準を掴めば、全てが解明されることもあります。その基準を掴むためには、眠りを忘れ、食べ物を忘れ、生活上の感情すらも忘れ、これまで五感で感じていた全てを忘れて没頭する必要があります。そのように苦闘する中で、内的な体系から外的で実証的な公式が文化の軌道として現れるのです。


35


人間は、このような働きをする中間的な存在に過ぎません。このような私たち人間は、現在どのような立場にあるのでしょうか?原因の世界にも、目的の世界にもいません。私たちは関係の世界で苦闘しています。この関係の世界もまた、やがて過ぎ去るものです。数学の問題を解く際、ある公式に数値を代入して答えが得られると、答え以外のものは必要なくなるのと同じです。


関係の世界が悲惨であったならば、この関係の世界の悲惨さを解明し、神の意志と心情をつなげることができる人がいれば、その人は必ず永生します。歴史と共に裁かれることはなく、終わりの日と共に滅びることもないのです。このことをはっきりと理解してください。


結論として、問題は自分自身にあるのです。私たちが信じるイエスが、食べるものも、着るものも満足に得られず、夜も眠らず祈られたのはなぜでしょうか?それは人生の道があまりにも忙しかったからです。イエスは自らの道を解決しなければならず、民族の道を解決しなければならず、世界の道を解決しなければならなかったため、何百倍もの努力をされたのです。


私たちも、人生の道を進む中で、どれほど苦労し、努力し、この道を切り開いていくべきかを各自で考えてください。人生の道の脱落者とならず、この人生の滑走路を進む途中で墜落する者とならず、堂々と大空を飛ぶジェット機のように飛翔できる勇者の姿を目指しましょう。




<祈り>


父なる神様! 多くの人がこの地を訪れ、去っていきましたが、時間と空間を超え、生命の縁を結んでくださった方はおられなかったことを私たちは知っております。その唯一の方を人類は歴史と共に待ち望み、今日も天に向かって悲痛な叫びを上げています。


36


ここにひれ伏しているあなたの息子娘たちは、御言葉を聞いて気づきました。問題は他者にあるのではなく、自分自身にあるのだと。いかなる対象的な存在の観念が問題なのではなく、自分を中心に据えて決断できる実体的な内容こそが問題であることを理解しました。


このような内容を備え、あなたを「父」と呼べる存在をあなたがどれほど待ち望まれているかを知りました。どうか、私たちがそのような息子娘となるよう導いてください。


私たちの心が無限にあなたの前に調和し、体もあなたの前に調和し、永遠なるあなたの生命と愛の前に、自らがあるのかないのか、体の内にいるのか体の外にいるのかすら分からないほどの近い距離で、証を立てる者となること。これが変わらぬ実体として唯一の目的であることを御言葉を通じて聞きました。どうか今日、その感覚を私たちが得られるようにしてください。


私はどのような立場にあるのでしょうか。居眠りをしているのか、道を外れて迷い苦しんでいるのか、休んでいるのか、それとも眠っているのか、どのような環境にあるのかを自分で知るために戦わなければならないことを認識しております。心の戦い、生命の戦い、心情の戦いを経なければならない開拓的な道程が、私たちの前に残されていることを知りました。


そのような過程を通らなければ、私たちが目的の世界と縁を結ぶことができないということも理解しました。


37


今日、この目的に向かって進む私たちの心と体をどうか励まし、本郷に近づけるようにしてください。生命の御言葉が私たちの骨と肉の奥深くに永遠に刻まれるように導いてください。


これらすべての言葉を主の御名によってお捧げいたします。アーメン。

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御言葉選集7(6)

2025年01月11日 15時07分22秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 7−6 父のものは私のもの
1959年8月30日(日)、前本部教会にて


ヨハネによる福音書 14:11
コリント人への第一の手紙 13:1-13


1
<祈り>
私たちは、ただ御言葉としての父を信じたいのではありません。歴史的な因縁を結びながら歩んでこられた父を信じたいのです。今日の私自身と直接的な関係を結び、直接的な因縁を築いてくださる父を求めています。そして、私たちに直接御言葉をお与えくださる父を切実に求めています。


今日、人類は神様を対象的な存在として信じていますが、私たちはそのような信仰の対象としての神様を求めているのではありません。私たちは、生活的で実証可能な主体として存在される神様を望んでいます。そして、私たちの事情や生活のあらゆる事実を貫き、分かたれようとしても分かたれることなく、あらゆる時に共に生活を共にできる父を切に待ち望んでいます。このような因縁が地上で実現するその時こそ、人類が望む時であり、同時に神様が望まれる時でもあります。


今日、私たちは、父が望まれる理想の園を観念的にどこかの理想郷であると考えていましたが、実際にはそれはそうではありませんでした。私たちは、心の奥深くから染み入り、実践を通じて感じられ、現実の自分自身を通じて感じ取ることができ、自分の感情を通じて歌うことができる、そうした天国観を持たなければならない時が来ていることを知っています。


こうした関係を築き、その因縁を結ぶことこそが救いの摂理の目的であり、復帰歴史の目的であり、十字架の救いの目的であったことを私たちは理解しています。それゆえに、今日、私たちが「真の父」と呼ぶことができ、また「真の息子・娘」として自ら認め、自ら断言しても恥じることのない立場で、歌うことができ、喜びを感じ、言葉を聞くことができる、このひとときをお与えくださいますよう、父よ、心から願い、切に求めます。


歴史的な父について私たちは多くを学び、御言葉の中におられる父を多く知りました。しかし、今私たちが求めているのは、私たちの心の中で証しできるその父、私たちの身体で体感できるその父、私たちの口から発する言葉が父の御言葉となるように力を発揮できるその父、そして私たちと共にいてくださるその父です。どうか、父が実証的な感覚を起こしてくださるこのひとときとなりますよう、お父様、心から願い求めます。


2


お父様、ここに集まったあなたの息子・娘たちが、それぞれの心と体を整理し、整えられるように歴史を働きかけてください。心の主人も自分ではなく、体の主人も自分ではありません。ただ漠然と遠くを見つめ、信じ、遠くを見つめて希望を抱き、さらには何らかの絶対者に帰依し、頼ろうとする私たちですが、主体的な絶対者が認めてくださる立場にはいない私たちです。


そのため、私たちが対象的な価値の位置に立つ者として、絶対者の恵みを受けるにはまだ不足していることを自覚しています。どうか、父が主体となってくださり、私たちを相対的な位置に立たせてください。絶対者であり主体者であるあなたの理念を、相対的な私たちの理念として受け渡すことができるようお許しください。そして、私たちの心がその理念に浸り、父のすべての愛を歌えるよう導いてください。


心で動き、心で伝え、感情で体感し、感情で伝え、身体をもって屈し、身体で一体となる働きが、このひとときに起こることをお許しください。父よ、心から願い求めます。


これから御言葉を伝えようと思いますので、どうかお父様、共にいてくださいますようお願い申し上げます。私たちは人の言葉を求めているのではありません。今日まで人間たちが語る言葉を私たちは十分に聞いてきました。また、講壇で語る数多くの教職者たちの言葉もすでに十分に聞きました。しかし、それを求めているのではありません。死んでいた命を躍動させ、冷え切った心情を湧き上がらせ、曇っていた心を清らかにすることができる新しい御言葉を求めています。そして、私の父が私の心情、私の志、私の理念、私の主体であることを知り、父と私たちが永遠に一つであることを感じられる再創造の御言葉を求めています。どうかそれをお示しくださり、直接的な恵みの雨を降り注いでくださるこのひとときとなりますよう、父よ、心から願い求めます。


語る者の心と聞く者の心の間に隙間を生じさせることがサタンの働きであることを知っています。ですから、この時間、自己の力で立とうとする思いを捨て、父によって立つという立場に立ち、父の前にすべてを委ね、頼り、希望し、期待する者となれるよう導いてください。父の憐れみを受けることができる貴い時間をお許しくださいますようお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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<御言葉>
今日、皆さんにお伝えしようと思う御言葉のタイトルは「父のものは私のもの」です。このテーマを広げるならば、「神様のものは私たちのもの」となります。このようなタイトルをもって、しばらくお話しいたします。


私たちはこれまで、自分の価値が無限であると考えてきました。しかし、価値の中身については理解せず、ただ価値を持つ存在であるということだけを認識している立場にいます。それにもかかわらず、自分自身の完全な価値を見出し、それを確立して完全に誇れる存在となり、歴史的で宇宙的な大いなる実在の前で堂々と威厳を持って誇示できる姿には至っていないということを、私たちは感じています。


このような立場にいる私たちだからこそ、価値のある存在、価値ある姿、価値ある因縁、そして価値ある世界を切実に求めているという事実を、誰も否定することはできないでしょう。私たちはそのような場所を求めて歩んでいかなければならない存在なのです。このことを認めつつ、万象を見つめ、大宇宙を見上げるとき、私たちは虚しさを感じずにはいられません。


そのため、私たちは頼るべき何かを追い求めざるを得ない運命に置かれていることを、常に良心の働きを通して、良心の作用を通して体感しています。この観点から見れば、たとえ神が存在しないとしても、仮想的な絶対者を立てなければならないのです。このような私たち、このような立場に生きる私たちが、もし感じ、楽しみ、歌い上げるような何らかの行動の過程があるとして、それが価値的な因縁を結び、感じ、楽しむことができるものであるのかと考えると、そうではないということを、私が言わずとも皆さんが確信できるでしょう。


このような状況に置かれた人間であるがゆえに、このような悲惨な事情の中に絡み取られた人間であるがゆえに、もし天が存在するならば、ここにどのような因縁を築かなければならない責任があるかを考えざるを得ません。もし天が絶対的な価値の主体であり、価値の本体であるならば、天がその価値ある因縁を探し出し、確立するために尽力しないのであれば、神に「愛」やその他の言葉を適用することはできないという事実を、私たちは論理的な観点から認めざるを得ません。


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私たちは人間が堕落したという事実を知っています。そして本然の位置を失ったということも知っています。つまり、本来の価値を失った存在が人間なのです。このような私、このような私たちは、この世界全体を見つめて、もし天が存在するのならば「天よ」と叫ばずにはいられず、もし絶対者が存在するのならば「絶対者よ」と叫ばずにはいられません。そして、善の形を備えた何かが存在するのであれば、それが実体として現れてくれることを切に願わなければなりません。また、そのような絶対者や天、あるいは善なる存在を心から切実に求め、憧れなければなりません。


天は、このような状況、このような立場にある人間をよくご存じであるがゆえに、私たちを探し出すために、あらゆる苦労と努力、そして自己犠牲をいとわず、全人類を救おうとしてご自身を費やすことも気にせず、全体の価値を超える価値を見つけるために探し求めておられるのです。この事実を認めるならば、私たちは謹んだ心をもって両手を合わせ、その前に礼拝を捧げなければなりません。


このような全体の動き、歴史の流れ、心情の流れを見つめるとき、私たち自身は気づかなくとも、歴史の背後や私たちの心情の深い流れの背後には、何かが私たちを導き、促しているのです。私たちの心情の深い部分には、私たちをして価値を追求させる何かが存在しているということを理解する必要があります。これを偶然のもの、自然のものとして片付けてしまってはいけません。それは、私たちとの間に断ち切ることのできない何らかの因縁が結ばれているからです。


皆さんがその因縁を解き明かし、その価値を語るとき、最大の善である神の存在がそこに関わっていることを理解する必要があります。このような関係は、結ぼうとしなくても結ばれているものであり、断ち切ろうとしても断ち切れないものなのです。


このように、天はその背後でご自身の苦しみを甘受しながら、絶対的な価値を人間に付与するために、今日まで尽力してこられました。そして今後もその努力を続けざるを得ない立場におられるという事実を私たちが知るとき、天について考えるだけで、畏敬の念を抱かずにはいられず、謹んだ心で頭を垂れることしかできません。


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このような事情から、神は人類に向かい、彼らがその内容も、意図も理解できない言葉を宣言してこられました。神は宗教を設け、深い因縁を結ぶための内的な意図をお持ちでありながら、その因縁を結ばなければならない私たちには漠然と「私を信じよ」と語りかけてこられました。その宣言の内容は曖昧なものでした。また、「私を仰ぎ見よ」と叫び、「私を愛せよ」と叫び続けてこられました。それがどのような因縁や内容に基づいているのかは分かりませんが、それを聞き、体験してみると、それは断ち切ることのできない心情的な因縁の世界に何か深く関係していることを否定できません。


人間はそのような漠然とした言葉に依存しながら信じて歩み、希望を抱いて進み、愛しながら歩んできました。しかし、信仰者たちは信じる場で倒れ、希望する場で倒れ、愛する場で倒れてきました。信仰の道を歩む中で挫折した人は非常に多かったのです。天を信じて命を落とした人の数は、ある一国の忠臣や烈士よりも何千倍、何万倍にも上ります。希望を抱きながら命を落とした人、愛を捧げながら命を落とした人もまた非常に多いのです。しかし、その中で「信仰の王者」「希望の王者」「愛の王者」と称された人は一人もいませんでした。


事実がそのようであるならば、私たちは神に対して恨みを抱くべきでしょう。事実がそのようであるならば、「信じる」という言葉も、「希望する」という言葉も、「愛する」という言葉も存在しないはずです。


6千年の摂理の歴史を振り返るとき、信仰の勝利者になろうとして倒れた人は多くいましたが、信仰の大王者となって人類の前で称えられた人は一人もいませんでした。また、希望の基盤を見つけようと彷徨った人も多くいましたが、その希望の基盤の上で天の称賛を受け、人類から称えられた人はいませんでした。愛を語った人も数多くいましたが、それも同じ結果でした。


しかし、イエス・キリストは、神が4,000年間探し求めていた信仰の実体であり、父の心情を完全に体感された方でした。そのような方であるということを、民族は知りませんでした。民族は知らなかったのです。世界中の誰一人として、それを知る者はいませんでした。それを知っていたのは、ただ一人、神だけでした。


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だからこそ、イエス様には行くべき場所がありませんでした。信仰の歴史を創造するために来られたにもかかわらず、それを理解し受け入れる人がいなかったため、世界を背にして理解してくださる方を探し求められた道が、十字架の道でした。こうしてイエス様は神の信仰を受け継ぎ、人類の希望となる神の希望を受け継ぎ、無形の神を代わる実体的な信仰の主体、実体的な希望の主体となられたのです。イエス様は、神の相対的な信仰の主体ではなく、絶対的な信仰の主体として、無形の神に代わり地上に現れた方です。そのため、たとえ神を信じないとしても、イエス様は信じなければなりません。


聖書は「イエスを信じよ、イエスを望め、イエスを愛せよ」と教えています。なぜなら、実体を持つ人間には実体が近しい存在だからです。だからこそ、私たち人類はイエス様を実体の姿として立ててくださった神の尽力と功績の前に、頭を垂れ、何万回でも涙を流して感謝するべきです。このことを知る必要があります。しかし、信仰の基盤を築き、希望の環境を切り拓き、愛の囲いを作ろうとされたイエス様の理念は、この地上で成し遂げられることはありませんでした。


4千年の歴史は信仰の実体を立てるための歴史であり、イエスと聖霊以降の2千年の歴史は希望の実体を立てるための歴史です。主義や思想の基準もまたそれに基づいています。しかし、イエス様が望んだ世界観と、その反対の世界観が、今日の民主主義と共産主義として現れています。このように希望が最終段階に達しているため、この時代を「終末」と呼ぶのです。ただ漠然と「終末」と言っているのではありません。


イエス様はどのような「祖先」でしょうか?信仰の祖先というよりも、希望の祖先です。それも、実体として希望を与えることのできる祖先です。人間に希望があるとすれば、皆さんは何を希望するでしょうか?私たちは、身体の中で心が貴いことを知っています。そして、心の中では心情が最も貴いことを知っています。もし希望があるとすれば、それは心の実体的対象、心情の実体的対象となる方以上の希望はないのです。だからこそ、イエス様は人類に対して「あなたたちは花嫁であり、私は花婿だ」と語られました。このことをしっかりと理解してください。つまり、世界がどれほど進んだとしても、人類が希望するその範囲を超えることはできないのです。


では、希望とはどのようなものでしょうか?今日のキリスト教は、言葉としての希望の世界を求めています。しかし、今は言葉を超えて、実体を待ち望む時代に来ています。どれほど多くの信仰的名詞があろうとも、信仰の歴史が素晴らしいものであろうとも、今必要なのは一人の実体です。その一つの実体が現れなければ、言葉としての希望の世界観は行き詰まってしまいます。実体を結びつけることができなければ、その世界は歴史とともに消えてしまうでしょう。見守っていてください。


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今日のキリスト教は、名実ともに世界的な宗教となり、民主主義を中心とした民主陣営の世界路線もキリスト教理念の一部によって動いています。しかし、それも終わりが近づいています。ここで必要なのは何でしょうか?言葉だけを持って喜ぶことが目的ではありません。実体として永遠の生活を喜び楽しむことができるものでなければなりません。


歴史は旋風のように回り続けています。このように渦巻く今日の時流の中にいる私たちは、過去の信仰の祖であるアブラハムと、その後の歴代の預言者たちの姿を仰ぎ見ます。そして、その後2,000年間の希望の王子であったイエスを見つめ、激しい闘争の歴史を振り返ります。


しかし、彼らが成し遂げようとしたのは、言葉を中心とした約束の希望であり、実体的な生活として現れる希望ではありませんでした。したがって、彼らが望んだ希望の一日が実体的に成就する時、それが終末であり、それを成し遂げることが再臨の理想です。そして、その意図を成就させるために来られる方が再臨主です。


では、今何が残されているのでしょうか? 信仰を中心とした時代は、イエスによって終わりを迎えました。イエスは信仰そのものの実体であるため、彼を信じるならば、それ以前の4,000年間で信仰してきたどの人物よりも素晴らしい価値を持つことができるのです。イエスは、信仰を持たない民の前に信仰を立てなければならず、希望を持たない民の前に希望を立てなければなりませんでした。そうではなかったでしょうか?


この聖書をご覧ください。アブラハム以降の予言を見てください。信仰を基盤とした希望とは、ただ一人のメシアを掴むことでした。しかし、再び象徴的な約束の領域内で「花婿と花嫁」という希望を持つようになりました。それはイエスが十字架で死を迎えたためです。皆さんはこのことを知らずに信じています。しかし、今はその意味を理解できなくとも、いずれ理解する時が来るでしょう。もしそれが実体的な神の働きであるならば、そうでなければなりません。それが道理にかなっているのです。


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では、希望の実体であり信仰の実体であるその方が成し遂げようとされることは何でしょうか?言い換えるならば、希望と信仰の目的とはどこにあるのでしょうか?それは、人間が自らを見出し、愛を歌うことにあります。それ以外にはありません。主に出会う目的とは何でしょうか?それは、主を通して自分の価値を認められ、主の愛の懐で生きるためです。これこそが人類の最大の目的です。


神が信仰を立てた目的、神が希望を立てた目的、神が愛を立てた目的――それらの目的は、イエスのためでもなく、アブラハムのためでもなく、私たちの先祖の誰かのためでもなく、まさに今日の「私」のためなのです。では、私のために6,000年の間、信じ続け、探し続けてこられた方は誰でしょうか?それは神です。その方は誰でしょうか?それは私の父です。そのことにこそ、天地が覆るような深い事情があるのです。


だからこそ、信じてきた父、希望してきた父、愛してきた父、その父をあなたたちが掴むとき、イエスも「今まであなたに会うために苦労してきた。あなたのために尽力した」と言えるようになり、神もまた同じように語られるはずです。そのような立場で、あなたたちが「神様、一緒に暮らしましょう。イエス様、一緒に暮らしましょう」と言うとき、神やイエスが「そうだ、あなたと永遠に一緒に暮らそう」と言ってくださる場所が天国です。空想的な天国や架空の天国は、人類には必要ありません。私たちはこのような実体的な天国を実現するために戦わなければなりません。


イエス様は地上に来てから去られる際に、「私が成し遂げられなかったことを、私を信じる代わりに聖霊を信じなさい」と語られました。皆さん、イエスだけを信じれば救われると思っていませんか?それは大きな間違いです。聖霊を信じても救われます。聖霊は人々をして神の子を信じさせる働きをされるのですから、聖霊も信じなければなりません。


聖霊とはどのような神でしょうか?聖霊は「母の神」です。このことを今日のキリスト教徒は知りません。もし私の言葉が嘘だと思うならば、神に尋ねてみてください。私がここで語っているのは確信に基づいています。それは真実なのです。


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聖霊は母の神であり、イエスは人類の真の父です。真の父とは完成されたアダムです。アダムが堕落して人類の真の祖先となれなかったため、私たちはすべて真の祖先ではなく偽りの祖先の子孫です。この状況において、真の祖先として来られる方がメシアです。すなわち「真の父」ということです。しかし、今日のキリスト教では三位一体の神についてあれこれと言いますが、イエスは真の父であり、聖霊は母です。この父と母の愛を受けなければ、人は再び生まれ変わることはできません。子供が親の愛なしに生まれることがあるでしょうか?


だからこそ、『ヨハネの黙示録』に「御霊と花嫁が言う、『来なさい』。これを聞く者も『来なさい』と言うであろう。渇く者も来るがよい。命の水を、値なしで受けるがよい」(黙示録22:17)と書かれています。この日は聖霊が実体として現れる日です。それが再臨の時代であり、花嫁が装いを整える日です。小羊の婚宴とは、失われた真の父母を迎え入れる日なのです。このようなときには、名目的な神、信仰の対象としての神はもはや必要なくなります。名前だけの神を信じることや、外見的な信仰生活は必要ありません。私たちには実体としての神が必要なのです。


では、信仰の実体の主体は誰だったのでしょうか?それはイエスでした。希望の実体、その主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。愛の実体、愛の主体は誰だったのでしょうか?それもイエスでした。このようなイエスを神は地上に送られましたが、人間は彼を認識せず、不信仰のゆえに彼は地上を去らなければなりませんでした。では、イエスはいつ再び来られるのでしょうか?一度「花婿」として来られたことを知る人がいなかったため、再び来ることができないのです。なぜなら、たとえ再び来られたとしても、また冷遇されることが目に見えているからです。このような悲しみを神は抱えておられることを、皆さんは知らなければなりません。「主が来られれば、私を探してくださるだろう」と考える信者たちが、キリスト教を衰退させ、神の意志を破壊しているのです。


神は人類を探し出しに来られるでしょう。しかし、信仰の実体、希望の実体、愛の実体がこの世に現れない限り、信仰を立てた目的、希望を立てた目的、愛を立てた目的は解決されません。それは確実なことです。ですから、皆さんは、「私自身がいなければ、神も神としての役割を果たすことができない」ということを知らなければなりません。私がいなければ、神もこの世界を動かすことができないのです。イエス様はこのような信念を持って生きられました。自分自身がいなければ、神の愛を紹介することはできないということをよく理解されていたのです。


今は「証明の時代」と呼ばれる時代です。「科学の時代」とも言われます。科学とは論理的なものです。論理的であるということは、原因と結果が体系的に一致している必要があります。その論理的な事実を生活の中で実証し、実行できるとき、それを科学的であると言います。人間は本来、そのように創造されています。生活的で実証的な立場を離れた幸せというものは存在しません。そのような基盤から離れた「民族」や「国家」もあり得ないのです。だからこそ、神もまた、実体を伴って議論しようとされるのです。


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では、終末とはどのような時代でしょうか?それは、信仰を立てるための4,000年の歴史と、希望を立てるための2,000年の歴史が終わる時代であり、信仰の王子、希望の王子、愛の王子が現れる時代です。しかし人々は、主が「雲に乗ってふわふわと空から来られる」と信じていますが、そうではありません。もしそうだとすれば、晴れ渡った雲一つない青空の日には、主は来られないことになりますよね?


私もそのような信仰生活を送ったことがあります。もどかしさと息苦しさから地を叩き、天に対して何十回も抗議したことがありました。しかし、突き進んでみると、それが本当ではないことを悟りました。そして正しいことを語るようになると、非難される者の代表となりました。「異端者」という烙印を押されながら生きています。過去にはパウロも「異端者の頭」と呼ばれましたし、真実をもたらしたメシアも「バアルゼブルの霊に取り憑かれた者」と揶揄されました。それは歴史的な悲しみでした。悲しみで始まった歴史である以上、悲しみで終わらなければならないのです。


信仰深い信徒がいるとすれば、教会の床に伏して祈る信徒を大切に見てください。教役者たちが彼らを追い出し、涙を流しながら振り返って教会を去る羊たちについて行ってみてください。そこには、新しい花園が近くにあることを感じるでしょう。冷たい風が吹きつける一瞬が過ぎれば、春の季節が訪れることを誰が予想したでしょうか?その身体は逆境の中にあっても、その心には春の季節を迎える威厳ある花嫁の姿を持つ一人、私は主がそのような人を探しに来られると思います。


大勢の人々の前で雄弁を振るう「言葉の王子」は数多くいますが、実体の主人公は存在しません。信仰の実体としての教役者はいません。希望の実体としての教役者もいません。愛の実体としての教役者もいません。このような状況で、この教団、この信徒たちはどこへ向かうのでしょうか?終末の信徒たちはどこへ行くべきなのでしょうか?


この韓国の天地で、「ムン」という一人の存在は異端者の頭として追われ、民族の反逆者とされ、命を失うことがあったとしても、この民族が祝福を受けるのであれば、私はその道を行きます。


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実際的で証拠的な祭壇がなくなった今、実体的な祭壇を築ける天の信仰の王子はどこにいるのでしょうか? 今必要なのは、そのような人です。数多くの群衆が必要なのではありません。数多くの兵士を従えて号令をかける指導者ではなく、数万の兵士のために眠れない夜を過ごす将軍が必要なのです。天はこれまで、寒くはないか、暑くはないか、空腹ではないかと人間を案じながら歴史を導いてこられたのです。


先頭に立って「私を見なさい」と叫んでいたのはパリサイ派の人々でしたが、イエスは後ろを振り返り涙を流されました。それがイエスの姿でした。先頭に立って叫ぶ人が人類を救うのではありません。歴史や時代の流れとともに倒れながらも天を掴み、「私を憐れんでください。あの人たちはどうなるのでしょうか」と涙を流した人たちのおかげで、歴史は今のような形で進んできたのです。このことを知らない人は、その報いを受ける時が来ることを覚えておかなければなりません。


だからこそ、たとえ統一教会の御言葉がいくら良いものであっても、その内容以上に実体が問題となる時が来るでしょう。「あなたは何を持っているのか?」「あなた自身はどうなのか?」と問われる時が来るのです。信仰そのものとなれる自分、希望そのものとなれる自分、愛そのものとなれる自分が必要であることをはっきりと理解しなければなりません。それだけを備えていれば、たとえ主が千年後に来られるとしても、あなたを捨てることはできません。「信仰があるところに私はおり、希望があるところに私はおり、愛があるところに私はいる」と言える自分になれば問題はありません。


いまや、歴史を実体的に解明しなければならない時代が近づいています。私たちが望む希望の一日は、実体に出会う日です。それは事実です。幻想でもなく、架空の言葉でもありません。


皆さんの中に主の花嫁となる資格がある人がいますか?誰かがそうなったと言ったことがありますか?「そうなるだろう」と言う人は多くいましたが、「そうなった」と言える人はいませんでした。それでは、私たちはどのような内容を備えなければならないのでしょうか?歴史的な信仰の内容を備え、歴史的な希望の内容を備え、歴史的な神の心情の内容を備えなければなりません。それらすべての内容を備えた実体、その実体によって6,000年の歴史を導いてこられた神の悲しみを癒す資格を持たなければなりません。そうして初めて、主をお迎えすることができるのです。


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この罪深い世の中、考えるだけで嫌気が差します。実体を見つけるために6千年の歴史を苦労して歩んできましたが、その間、数え切れないほど人間たちに裏切られてきました。夢の中でも二度と見たくない、夢に出てくるのさえ嫌な歴史です。しかし、それを掴んで再び考え、悲しみ、繰り返しながら実体を成し遂げなければなりません。その一つの実体が問題なのです。


では、結論として、皆さん自身はどうすればよいのでしょうか?「信仰も私のもの、希望も私のもの、愛も私のもの」と言える自分を持ち、皆さん自身を千年万年信じることができる資格を備えなければなりません。


何を言っているか分かりますか? 「私は信仰と希望と愛の実体です」と言い、6千年にわたり摂理を進めてこられた神を信じる以上に、自分自身を信じられるようにならなければなりません。


皆さん、自分の体を信じていますか? 自分の心を信じていますか?自分の心情を信じていますか? それを信じることができなければなりません。神は、皆さんを探し出すために、6,000年にわたって信じてきたすべてを皆さんへの贈り物として与えてくださいました。ですから、私は神に代わり、イエスに代わり、聖霊に代わり、すべての人々に代わり、罪と戦わなければなりません。そして、すべての間違ったものを打ち砕く裁き人としての資格を持つ者として、自分自身を信じられるようにならなければなりません。そのような立場に立たなければならないのです。


皆さん、イエスを信じて天国に行こうという時代は終わりました。「神を信じて天国に行こう」と言うのではなく、「神を天国にお連れしてください」と言うべきです。「天国に行ってイエスに会おう」と言うのではなく、この地上に天国を作り、イエスをお迎えしてみてください。「イエスの愛を受けよう」と思っていますか?罪に染まった皆さんが、イエスの愛を求めることができると思いますか?イエスは神の皇太子です。イエスは神の皇太子です。それは無理な話です。そのような信仰ではとても無理です。


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愛を受けたいのであれば、イエスが死に至った以上の心情を持って、「私は本当に愛したいのです」という気持ちが切実に心の奥底から湧き出てこなければなりません。しかし、今日の信仰者たちは全員が強盗のような心を持っています。自分の思い通りにしようとしていますが、それは不可能です。どれだけ霊界を探ってみても、それは成り立ちません。本質的に間違っているのです。


だからこそ、私たちは今、神を解放しなければならない運命に置かれています。「人類のために神が拘束されているのだ」「私のせいで神が拘束されているのだ」「私という一個人のせいで神がサタンの訴えを受けているのだ」「私のせいでイエスも死んだのだ」「私のせいで聖霊が血まみれの闘争の歴史を抱えて転げ回っておられるのだ」。そのように悟り、「神よ、どうか私に力をお与えください。私は父を安息の地へと解放の場へとお連れいたします。イエスも聖霊も解放の場へとお連れいたします」と言える信仰に飢えた者、希望に飢えた者、愛に燃える者を神は6,000年もの間探し求めてこられたのです。この事実を私たちは知らなければなりません。


この言葉に矛盾がありますか?そのように私たちを愛してくださらなければ、神は私の父と言える方ではありません。その境地では、山を眺めても涙が溢れ、責任を果たせない私たちは、歴史を振り返るたびに胸を叩かずにはいられません。そしてどれほど堂々と振る舞い、足を踏み出しても、結局は嘆きの王子でしかいられないのです。


皆さんは知るべきです。神は天国の玉座に安らかに座っておられる方ではありません。神は、地獄が存在することを目の当たりにされ、その神自身が地獄以上の苦痛を受けておられるということを人類は知りません。もし神が地獄以上の苦痛を受けることなく地獄を存在させているのだとしたら、その神を愛の神とは呼べません。神は6,000年の歴史の中で、地上の地獄の苦しみを一つとして経験しなかったことはありません。すべてを経験されているのです。そうして分かったのは、神は地獄の苦しみを受けておられるということです。


「そんな馬鹿げた話があるか」と言う人がいても構いません。しかし、私たちはそのような観点から神を信じ、神をお迎えしなければなりません。それでこそ、神は人類の真の神であると言えるのです。神は私を探し出すために、地獄の苦しみをすべて受けられたのです。


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イエスが十字架で亡くなられた後、陰府で過ごされた3日間とは一体何だったのでしょうか?彼は地上の救い主であると同時に、霊的な救い主であるべき存在でした。地獄にまで行き、そこで福音を伝えなければならなかったのです。だからこそ、イエスを信じる人々は、地上の地獄の最も底辺にまで降りていかなければなりませんでした。そのため、歴史の歩みの中で踏みにじられ、押しのけられることになったのです。神がそのような道を歩まれたのですから、私たちもその苦しみを共にする同伴者であり、協力者でなければなりません。そのような者たちに、天国という栄光の園を相続させるというのが復帰摂理であり、救いの摂理なのです。このことをはっきりと理解してください。


「神よ、私を地獄に送り、父の苦しみを体感させてください」と、心の奥底から湧き出る心情を持って祈る者は、地獄に行きません。しかし、「神よ、地獄は嫌なので、天国にだけ送ってください」と願う者は地獄に行きます。イエス様は十字架の上でこう祈られました。「アバ、父よ。私の思いではなく、父の思いのままにしてください。彼らの罪を彼らに負わせないでください」と。それは、4,000年間にわたり、この民族、この民を救うために地獄の苦しみを耐えられた神の心情と内的な想いを理解し、イエス様ご自身も十字架の道を避けることができないと感じられたからです。イエス様がこのような感情を持たれていたことを、しっかりと理解してください。


このような正義の基盤を築かなければならなかったキリスト教が、その基盤を失いつつあります。それを再び私たち自身の手で建て直すために、私たちは立ち上がりました。言葉なく戦い、言葉なく前進しなければなりません。その道は富と栄光の道ではありません。そのようなものを求めるならば、私たちの希望の時は訪れません。そのために力を費やし、時間を浪費している余裕はありません。世界がどうであろうと、私たちは進むべき道を進もうと決意しているのです。


皆さん、統一教会に何かも分からずに来た人や、御言葉を聞きに来た人がいますか?はっきり言っておきますが、統一教会の道は歩むのが非常に困難な道です。苦痛の壁に頭をぶつけ、体を投げ出し、血と肉が削られるような場所を通らなければなりません。私たちが進む道は平坦な道ではありません。主もその道を歩まれ、預言者たちも常にそのような道を歩みました。歴史を担った者たちは、歴史の精神を抱き、血を含んだまま戦いの勇士として立ち上がった者たちでした。そのような者たちが歴史を導いてきたのと同じように、天を掴んで進んだイエスの理念と精神を担う者もまた、そのような人々でなければなりません。皆さん、このことをはっきりと理解してください。


私は皆さんに伝えたいことがあります。盲目的な信仰の時代は過ぎ去りました。虚偽や架空の論理の基盤は無知によるものであり、その基盤には完成がないということを断言したいのです。だからこそ、今日この時点で私たちが提起しなければならない問題は、「私が私自身を信じること」です。


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神がイエスを信じ、イエスが神を信じたように、イエスが聖霊を信じ、聖霊がイエスを信じたように、私たちもまた自分自身を信じなければなりません。そして、「天倫の道理が変わったとしても、私は変わらない。天地がなくなったとしても、イエスの言葉は変わらない。天地が消え去ったとしても、私は変わらない」と言える段階にまで進まなければなりません。


しかし、皆さん一人ひとりには問題があります。皆さんは自分自身を信じていますか?天国に行こうとして奔走する皆さん、自分自身を信じていますか?口先だけの信仰、中身のない信仰は無意味です。中身のない殻や籾殻は何の役にも立ちません。だからこそ、聖書に「麦と籾殻の比喩」の言葉があるのです。中身のある信仰、中身のある希望、中身のある愛の化身となって行動するならば、この世界がどれほど広くても、アメリカがどれほど広大で先進国であっても、問題はありません。問題ありません。「あなたたちはいつか必ず屈服する」と確信を持つ者たちがいれば、彼らは世界を支配するでしょう。永遠の希望の父である神を代わる者は、永遠の希望の実体です。また、神は永遠の愛だと言われました。だからこそ、皆さんがその愛を抱き、与えるために努力し、与えるために奔走し、与えるために死ぬ場所さえ見つけられずに奔走してみてください。それでも、この国が滅びるでしょうか?


永遠に自分自身を信じ、自分自身を希望とし、自分自身を愛しながら、「神様、私の愛を受け入れてください。神様、私の希望をご覧になって喜んでください。神様、私の信仰をご覧になって喜んでください」と言えるとき、神が「そうだ」と答えてくださらなければなりません。信仰を立てた目的がそれであり、希望を探す目的がそれであり、愛を求めた目的がそれです。そのようになれば、そこで主と出会うことができるのです。そして、その主と共に生きるのです。


では、希望と信仰の目的は何でしょうか?それは、生活の中で天の愛を中心に生きるためです。宗教の名詞をすべて捨て去り、愛の歌を歌いながら生きる新しい理想世界が地上天国です。その世界は架空の世界ではありません。論理的観点から必然的な事実として現れるべきものであることを、知識の高い人々は理解するでしょう。


このような観点から考えてみると、この世界に残る民族とはどのような民族でしょうか?それは、信仰に燃える民族、希望に燃える民族、情熱に燃える民族です。歴史のすべてのページをめくり、あるいは国家の興亡を考察しながら、信仰の節操を守って戦い抜いてきた民族がどこにあるのか探してみなければなりません。希望に燃える民族、情熱に燃えて神のためであれば命を惜しまず動こうとする民族、そのような民族は天に近い民族だということです。


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社会的にも同じことが言えます。世の中で成功する人はどのような人でしょうか?それは、国への忠誠を守り、国家の理念を自分の理念として受け入れ、国家と心情を通じて結びつくことのできる人です。そうではありませんか?家庭でも同じです。家庭で信頼を得ている人、希望を持っている人、感情的な絆を持っている人、その人が継承者となるのです。そうではありませんか?これを否定しますか?


歴史的に見て、信仰心に燃えている民族とはどの民族でしょうか?神という言葉すら聞いたことがなく、預言者や先烈たちのいかなる予言も受けていなかった5,000年の歴史を持つ韓民族が、何か分からないけれども天に対する信仰心が非常に高いということを私は発見しました。皆さんが何と言おうと構いません。私はそれを発見しました。この民族、東半球の爪ほど小さなこの国が、これまで幾多の時代と時代、思想と思想を乗り越えながら5,000年の歴史を持ち続けてきたという事実は、まさに奇跡です。


韓国の歴史を見てください。数十回以上の侵略を受ける危険な歴史の道を歩んできました。侵略されては解放され、また侵略されては解放されました。そのたびに損害を受け、生き残るのがやっとの状態でした。それでも民族の精神を守り、希望の一日を夢見て歩んできました。極東の朝鮮半島を動かしてきた希望の民族精神があったからこそ、これまで戦い続けることができたのです。このような精神を持って歩んできた民族にメシアが来ないはずがないでしょう?私にはそう見えます。皆さんもこのことを理解しなければなりません。


また、感情的な面においても、極東の中で韓国人ほど情熱的な人々はいません。そして「東方礼儀の国」とも呼ばれてきました。キリスト教もまた同じです。しかし今、信仰の宗教、希望の宗教を主張してきた仏教や儒教、キリスト教もその使命を果たし終えた段階にあります。それでも残っているものは何でしょうか?それは民族精神を中心にして世界理念に燃え上がる隠れた情熱が心の中で湧き上がっていることです。若者は分からないかもしれませんが、年配の方なら理解できるでしょう。


それでは、この民族がなぜこのようになったのでしょうか?皆さん、時代的観点から考えてみましょう。すべての価値というものは、相対的な基準、比較の基準がなければその価値を決定することはできません。理解している人には分かるでしょう。主体と対象の位置を定めなければ、価値観というものを形成することはできないのです。一つの国家が世界的な指導理念を持って現れたならば、それを支持する相対的な国家が存在し、その理念を実践しなければ、その理念を提唱した国家が世界の主導権を握ることはできません。


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堕落する前の本来の文明とは何でしょうか?西洋文明は外面的な文明です。今日の統一教会の信徒たちは、アメリカのようなところに行けと言われても行きたくないと思うかもしれません。ご覧ください、すべてのものが崩れつつあります。昔の歴史を振り返ると、感情的な基盤を持つ母系中心の時代がありました。そして父系中心の時代がありました。これまで父系中心の社会が続いてきましたが、今それすらも崩れつつあります。そして夫婦中心の時代に移行しています。


そのため、今日のアメリカのような国は、自分たちの利益しか考えていません。しかし、それも崩れつつあります。次にどうなるでしょうか?兄弟関係、民族関係、世界関係、そして天の関係を中心とした感情的な世界へと展開していくのです。この言葉の意味が分かりますか?


また、主権の観点から見ると、帝国主義思想も崩壊します。なぜなら、悪しきものをそのまま放置することはできないからです。だから崩れていくのです。その結果、君主制の時代、帝国主義の時代が崩壊します。人間の堕落によって天の帝国主義の理念が壊れたのです。したがって、天使長が君主となり、天使長主権の時代へと進んできたのです。


今日の世界の思想を見てみると、帝国主義的なものはすべて崩壊しています。君主主義的な形態は崩れ去り、民主主義的な平民主義の時代へと移行しています。では、この中で何を目指すべきでしょうか?そこから、「神が我々の王であり、天の意志と善を抱いて生きる人々が私たちの家族であり、神の善のために戦う人々が私たちの国民である」と言える世界へとまとめ上げていく必要があるのです。


だからこそ、世界の流れをじっくりと見てみると、最近では怪しいものがたくさん出てきています。もう少し経つと、他人の名前を借りて王のように振る舞う行為も見られるでしょう。「女王だ」とか「何々だ」と騒がれる時代が過ぎ、さらに少し経てば、美しい男性を「この都市の王子だ」として崇める時代が来るかどうかを見ていてください。今の時代の流れは、まるで逆さまに回っているようです。年配の女性が若い男性と暮らし、若い女性が年配の男性と暮らす時代になっています。このように奇妙な状況が生じていますが、その具体的な理由を彼らは理解していません。


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そのような中で民主主義が登場しました。民主主義は平等主義です。なぜこのようなものが出てきたのでしょうか?それは、キリスト教が帝国主義から迫害され、軽蔑されてきたからです。ローマ帝国によって虐殺され、多くの信者が命を奪われましたが、それでも命脈を保ち続けました。キリスト教徒たちは逆境の中でも後継者を育ててきたのです。そして、キリスト教理念に徹した人々が平民思想を基盤として、今日の民主主義の世界に参加する権利を築き上げてきました。つまり、神の側に立つ人々が主権を動かす世界へと変革しようとしたのです。この平民主義の時代を天の主権時代へと再び方向転換させる世界運動、すなわち「天宙運動」が起こらなければなりません。


しかし今日、民主主義の行く末は行き詰まりを見せています。これからの方向性について、誰も明確な答えを持っていません。


今後の世界がどうなるかというと、外的文化の発展を成し遂げた西洋から、内的な極東に目が向けられるようになります。現在、韓国の女性たちは金髪に染め、髪をカールし、顔に何かを塗って装っていますが、やがて純朴な韓国人の姿、東洋人としての気品ある姿を懐かしむ時が来るでしょう。そのような時が来るかどうか、見守ってください。


西洋の哲学や思想の根はすべて掘り尽くされ、終焉を迎えています。一方、東洋哲学は私たちの生活観や人生観と結びつきながら、4千年、5千年にわたる歴史の中で絶え間なく続いてきました。この東洋哲学が今日、大きく注目されるようになっているのです。文化というものは総合的な理念の中に融合されていくのが歴史的な現実ですが、この時代において、一面的なキリスト教の理念だけでは十分ではありません。これからの宗教をどのように再編するかが問題となります。


ここで、極東の文化全体と西洋の文化全体を調和させる運動が起こるべきです。それは、キリスト教精神を内包しつつ、東洋の思想や宗教の形態を取り入れ、人間の精神を導いてきたすべての思想と調和するものでなければなりません。新しい時代の形を構築しながら、古い時代の良い部分を尊重し、受け入れることができる内容と体制を備えた宗教や理念が登場しなければ、今後、世界が一つにまとまって動くことはないでしょう。


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ご覧ください。太陽は西から昇るのではなく、東から昇ります。歴史的な観点から見ると、戦争はどこで多く起こりましたか? 極東よりも西洋で多かったことを私たちは知っています。


知識とは「知る」ことです。そして「知る」ことで得られるものがあります。しかし、何を得たのでしょうか? 精神的な収穫ではなく、物質的な収穫だったのです。西洋人たちは外的な自然科学と文明を通じて、物質的に豊かな世界を作り、自分たちの「天国」、つまり外的な天国の中で眠りについています。しかし、その眠りから覚める時が来ました。


東洋人は道(タオ)を尊ぶ人々です。道というものは、十のことを知ろうとすれば十のものを失わなければならず、千のことを知ろうとすれば千のものを失わなければなりません。この極東の民族たちは道を尊ぶ民族であるがゆえに、物質的な面では貧しい状態になってしまいました。道を十知れば物質を十失い、百知れば百を失ったのです。その結果、赤手空拳の哀れな姿となり、ついには物質に屈服する人間となってしまいました。しかし、これを笑い飛ばして乗り越える新たな動きが、極東に現れる時が来るということを、皆さんは予測しなければなりません。


このような点で、特別なプライドを持たなければなりません。極東において、韓国人は信仰的な観点から見ても、希望的な観点から見ても、情熱的な観点から見ても、どの民族にも引けを取りません。


人は、水、土、空気、そして太陽の光によって生命体を完成させていくというのが鉄則です。では、将来、どの国が世界最高の文化の中心地となるのでしょうか?それは、水が澄み、土地が豊かで、空気が清らかな場所です。その場所こそ韓国です。韓国は水が澄んでおり、山でも野でもどこでも冷たい水を飲んでもお腹を壊さず、元気に生きられる国です。韓国はこのように水が美しく、山が素晴らしい国、つまり山水が豊かな国です。


20


次に空気が清らかです。夜の空気、朝の空気が春夏秋冬、一年中清らかです。韓国の一日をじっくり見てみると、とても面白くできています。朝は春の季節、昼は夏の季節、夕方は秋の季節、夜は冬の季節です。一日の中に創造理想世界の四季の形をすべて備えています。気候においても三寒四温のすべての要素が均等に備わっています。このような場所に住む民族が偶然の産物だと思いますか?


また信仰的に見ても、韓国の現在のキリスト教は70~80年という短い歴史を持っています。しかし、その短い伝道の歴史を持ちながらも、信仰的にどの国にも引けを取らず、世界で第1位の位置に立っています。信仰問題において、韓国は世界のどの民族にも劣らない権威を持っていると、自信を持って言えます。


信仰と希望と愛という内容を基にして考えるとき、皆さんはどのような人を友人として選びたいですか?信頼できる人、希望を持つ人、そして「味のある」人を友人にしたいと思うでしょう?そうではありませんか?神様も同じです。私たち人間は神様に似ているので、神様もそのような人を好まれるのです。信頼できる人、希望がある人、そして「味のある」人を好まれるということです。


ですから、私たち人間がこの地上で生きるとき、どのような環境に置かれても、どのような状況であっても、今日の生活の中で「味」を感じて生きる人々が地上天国に住むことができる人々であり、「味を感じて生きなさい」と教えるのが聖書の教えなのです。ですから、「天国は心の中にある」という言葉の通り、その心の天国を中心として罪悪の世界の中でも苦しみを感じず、外的世界をあざ笑うように生きる人がいれば、その人が天国の国民であるという結論が出てきます。


このように考えてみると、問題はどこに帰結するでしょうか?外的世界も良い、国内のすべてのものも良い、ということです。世界がどうなろうと、それが終わりを迎えるとしても、今日の問題解決の焦点はどこにあるのでしょうか?その解決の焦点は「私自身」です。皆さん一人ひとりです。


21


ですから、これから皆さんは神をお迎えするだけでなく、神の対象的な位置に立ち、その対象的価値を高め、「父よ、私が参りました。6,000年もの間、どれほどお待ちになったのですか?」と語るべきです。一度そう言ってみたいとは思いませんか?「どれほど涙を流されましたか?私が参りました。どれほど待ち望まれましたか?私が参りました。どれほど慕われましたか?私が参りました。」この一言を神様は聞きたがっておられるのです。


神様はそのような息子娘と出会い、天と地のすべてを統治するように祝福し、6,000年の恨みを忘れて「今日は私の誕生日であり、私の歓喜の日だ」と喜びたいと願っておられるのです。6,000年の恨みを思い出すことなく、新しい天地で新しい息子娘と情緒的な歌を歌いながら生きていきたいと願っておられる方が神様であり、その神様が今日私たちの父であり、その父の息子娘がまさに私たちだということを、はっきりと理解しなければなりません。




<祈り>


話をしているうちに力が尽きていくのを感じますが、父なる神様は6千年もの間どれほどのご苦労をなさったことでしょうか? 人々を見れば信頼できない姿ばかりですが、父なる神様、どれほどご苦労をなさったことでしょうか?


ああ、哀れな方は私たちが信じているお父様であることを知りました。そして、お父様を慰めることができる真の息子娘の姿を待ち望んでおられるお父様であることを知りました。どうか今日も明日も声を立てず純粋な捧げ物を持って、あなたの傷ついた心情を癒すために奔走できるようお許しください。


信仰も良い、希望も良い、愛も良いですが、実体を失った者は永遠に父なる神様の前に立つことができないことを知りました。そして、問題は私自身であり、私たち自身であることを悟りました。


22


どうか、「自分自身を信じよう」というこの信念をもって、「父なる神様、私を信じてください。私を希望として見てください。私を愛してください」と言える自分を持てるようお導きください。そして責任を果たすことができる私たちとなるよう、切に願い求めます。すべてをお委ねしますので、あなたの御心のままに成してくださいますようお願いいたします。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。

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御言葉選集7(5)

2025年01月05日 15時23分48秒 | 学習
文鮮明先生の御言葉選集 7 - 5 神様の競技場に立つ人々 (1959年8月9日)
1959年8月9日(日)、旧本部教会
コリント人への第一の手紙 9:14-27




1
<祈り>


父なる神様、この日は多くのあなたの息子や娘たちが羊の群れを集め、あなたが残された摂理の御心を受け継ぎ、その命令の言葉を分かち合う時間であることを知っております。彼らの心と思いに同じ恵みで働いてくださいますようお願いいたします。


私たちもその一部の姿として父なる神様の御前に集いました。どうか、立っている姿を憐れんでくださり、座っている姿を憐み見守ってくださいませ。


今、私たちの中に、自分を中心としたいかなる主義や主張、あるいは自分が感じている意識的な観念があったとしても、これらすべてを取り除いてくださいますようお願い申し上げます。私たちは新たに創造されるべき運命に置かれており、復帰の恨みを未だに拭えない者たちです。たとえ天の御前で堂々と何かを主張するものを持っているとしても、それが父なる神様の御前では何の理念的な条件にも、対象にもなり得ないことを悟りました。


どれほど私たちが天の御前で自分を弁明し、自分の困難を訴えたとしても、父なる神様の無限の善と労苦の前には、比較することもできない哀れで惨めな姿であることを知っています。


今、私は自らが自分であるのではなく、私が「私」ではないことを悟りました。そして、私を「私」にしてくださった本然の存在を慕い、本然の心に溶け込み、本然のその主人の前で頭を垂れるこのひとときをお許しください。


2


万物宇宙の絶対的な主人がいることを心では知っています。そして、その存在が私たちのすべての行動を制約していることを知るとき、それは無目的な縁の中で起こるものではなく、絶対的な目的によって制限された環境の道を進まねばならない運命を背負っている存在であることを感じられる子どもたちにしてください。


今、父なる神様の栄光に満ちた御座を思い描き、父なる神様の御膝元に集いました。しかし、私たちの心がどこへ流れていくのか、またどちらを向いて動いているのか分からずにおります。父なる神様、どうか本然の私自身が天と共に喜び楽しむ方向へと導いてください。たとえ私たちの顔が恥ずかしく、視線が恥じらいを帯びていようとも、父なる神様への想いが募る心から「父よ!」と叫び、拙い手を差し出すならば、その手を父なる神様が握りしめてくださるとの約束が与えられるひとときとなることを心から願い、切に祈ります。


私たちは礼拝をする際にも、父なる神様の御心を握りしめて礼拝したいと願い、父なる神様との深い縁を結びたいと願っています。それ以外のすべてのものを望んでおりません。天の国の金銀財宝のような輝かしく栄光に満ちた条件が備わっているとしても、それを望むことはなく、ただ父なる神様の御心を握りしめ、父なる神様と共に暮らすことができる、その一つの約束、その一つの生活的な真実だけを求めております。


そのようなことが永遠に誇ることのできる栄光の証となることを願いながら、私たちは父なる神様の御前にひれ伏しました。この日に私たちが至らぬところがあったとしても、どうか父なる神様、お許しください。御心を成し遂げたいという願いを成し遂げてくださり、父なる神様と私たちとの間に決して切り離すことのできない親子の絆を結んでくださることを、心から願い求めます。


多くの人々が「父よ」と呼び求めておりますが、父なる神様の事情や御心を知ることなく呼び求めている者もおります。私たちはそのような息子や娘であることを望んでおりません。「息子の中には息子のような者もおり、養子もおり、真の息子もいる」とありますが、私たちは息子のような者も、養子も望んでおりません。父なる神様の心の中で永遠に消えることがなく、その骨と肉が父なる神様と永遠に結ばれた事実を否定できない、父なる神様と永遠に共に住むことのできる直系の血統の真の息子娘、血と肉を継いだ真の息子娘となることを願っております。


3


そのような息子娘となるためには、父なる神様が受けられた苦痛が私たちの苦痛となり、父なる神様の悲しみが私たちの悲しみとなり、父なる神様の悔しさが私たちの悔しさとなり、父なる神様が成し遂げねばならない責任を私たちが背負わねばならない責任として感じられねばならないことを悟ります。そのような私たちとなることを、どうかお許しくださり導いてくださいますよう、心から願い、祈ります。


父なる神様、今ここに立ち、何を語るべきでしょうか? 私たちは父なる神様の息子娘になりたいと願っています。しかし、もしこの時間に父なる神様がその御心を私たちに感じさせてくださらず、私たちと絆を結ぼうとされる事実を感じられないなら、どれほど素晴らしい言葉であっても、父なる神様と私たちとの間には何の縁も結ばれないことを知っています。


ですから、どうか父なる神様の御心に触れ、父なる神様の心を通じ、父なる神様の体に寄り添うことのできる、このひとときをお導きくださるよう、心から願い祈ります。


どうか語る者の心が父なる神様の心に溶け込むことを許してください。そして聞く者の心が父なる神様の御心に反応し、与え、受け取る栄光の時間となりますように。私たち自身のすべてを失い、再び形作られ、本然の姿を取り戻し、父なる神様の御心に従って動くことができるようお導きください。そして、父なる神様の本然の御性を慕う自主的な働きがこの時間に起こるようお許しください。


また、この日、地方に散らばりながらも厳しい迫害の矢を受けつつ、天を仰ぎ訴えている孤独な家族たちを祝福してください。こうした道に追いやられるのも、父なる神様の御心があるからこそであり、この道こそが、行かざるを得ない最後の運命の道であることを知っています。私たちが心に決めた決意と、私たちの行動が勝利の条件となり、父なる神様に捧げられる捧げ物となりますように。どうか、父なる神様の約束の中で生きる息子娘として私たちを形作ってくださるよう、心からお願い申し上げます。そして、この時間、サタンが入り込むことがないようお守りください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


4


<御言葉>
コリント人への第一の手紙9章24節にこうあります。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を得る者はただ一人であることを知らないのか。あなた方もそのようにして賞を得るよう走りなさい。」


この御言葉を中心として、「神様の競技場に立つ人々」という題で、しばし皆様の前でお話ししたいと思います。


歴代の多くの預言者たちがそうであったように、現在生きている人々も、自分でははっきりと理解していなくても、何らかの目標に向かって人生という道を走っていることは確かです。その目標がどれほど漠然としていようと、目標を前にして生活の形態が様々に展開され、また、民族や歴史の形態も様々に展開されてきたのです。


こうしたすべての事柄が、何の縁もなく結果として現れたわけではありません。必ず何らかの縁のもとで現実に適合し、特定の目的に向かって動いてきたという事実を、私たちは知らなければなりません。もしそのような縁や目的を中心として動いていないのであれば、「神」やその存在を立証することさえできないでしょう。


もし神が存在するとするならば、神は堕落した人類に対して縁を結ぼうとされるに違いありません。したがって、私たちが何らかの目的に向かって進む存在である以上、その縁の中で生きているという事実を否定することはできません。


5


人間が堕落したことにより、神と善の縁を結ぶことができず、サタンと悪の縁を結んでしまったということを私たちは知っています。それにもかかわらず、神はそのような悪の縁を持つ私たち人間を捨てるのではなく、再び見つけ出そうとしておられるのです。そのために、神と私たちは人類の歴史という道を共に進みながら、絶えず取り戻すための闘いを続けてきたという厳然たる事実を私たちは理解する必要があります。


歴史の方向性は、その目的を成就する一時に向かって動いています。ですから、皆さんは日々の生活を通じて、自分の良心を基準とし、その目的地に向かって走る一人の競争者であることを知るべきです。この地上に生まれ、去っていった誰もが、神の復帰摂理の競技場に立っていた存在であったということを私たちは理解しなければなりません。


神は堕落した人類を前にして、多様な形で摂理を進めておられます。民族が異なればその民族に応じて、思想が異なればその思想に応じて、また伝統が異なればその伝統に応じて、神は歴史の背後で様々に調整を進めてこられました。そして、神が定められた一つの目的が成就する時、つまり一つの競技が行われ、その競技の幕が下りるその瞬間まで、神は私たち人間と共に、悪を滅ぼすために戦っておられるという事実を、私たちは知らなければなりません。


それでは、誰であれ、このような競争者としての立場に立つ存在であると認めるならば、私たちはどうすべきかという問題に直面することになります。天が労苦して立ててくださった自分自身であることを知り、この競技場に立って走らなければならないと理解するなら、天は私たちにどのような訓練を課し、この競技場で走らせるのでしょうか。そして、私はどのような試練とどのような道を経て、その目的地まで走るべきなのでしょうか。これは、誰もが共通して解決しなければならない重要な問題です。


過去にこの世を去った預言者や先達の中には、この競技のプログラムの一部を担い、ある基準を立てていった人々もいたでしょう。つまり、これらの預言者や先達たちは、最終的な幕が下りるその瞬間までの競技全体、すなわち天の全体的な摂理をすべて経験したわけではなく、その一部一部を担い、それを終わらせ、次へと進めていったという事実を私たちは理解しなければなりません。


6


神はこのような復帰の競技場を設けられました。したがって、この場に立つ私たちは、自分の命を懸け、生涯を通じて走る存在であり、走らなければならない存在であり、走らないわけにはいかない存在であるという事実を知らなければなりません。


今日、この地上を見渡すと、多くの主義思想があります。また、宗教界を見ると、宗派も多く、教派も多いです。民族が異なることによって、その民族に基づいた主義や、その民族のために現れた宗教など、さまざまな形が展開されています。しかし、それらの主義や宗教は、本来、神の摂理プログラムの全体的な内容を備えたものであるべきでした。それにもかかわらず、そうならなかったのです。それらは、ある特定の民族や時代に対応する主義や宗教の形態に過ぎませんでした。


これらは、神の競技場において全体の一部分にすぎず、特定の部分の使命を担った主義や宗教であったということを、私たちは知るべきです。


競技場に行くと、100メートル競走や200メートル競走、さらには5,000メートルや10,000メートル競走があり、最終的にはマラソン競技があります。同じように、皆さんは復帰摂理を進める神の競技場に立つ存在です。そこで、どの競技を引き受け、どのようにして宇宙史の前に立つことができるか、それが問題です。各人の価値や人格に差があったとしても、特定の分野を定め、その競技種目で責任を果たし、天が望む基準を立てることを、神は確かに待ち望んでおられます。皆さんはそのような競技場に立つ者として、命を懸けて走り続けなければなりません。生涯を通じて、どの競技で何を成し遂げ、神の前に立つべきかを私たちは知る必要があります。


神は6千年の間摂理を進めてこられましたが、全体を見渡しても、神の競技のすべての種目がまだ終わっていません。今も競技は続いており、今日も、そして明日も走り続けなければなりません。この競技が終わるとき、神は全世界の人類、さらには過去に生きてきた無数の人々、そして競技が終わるまで生きる多くの人々に対し、それぞれの競技種目に応じた賞を授けられることでしょう。その賞を授ける日がいわゆる「審判の日」です。審判の日とは、実際には賞を授ける日なのです。今日の時代的な表現を用いるなら、それは「終わりの日」と言えるでしょう。


7


それでは、皆さん自身に戻って考えてみると、皆さんは一つの競技種目で賞を受けるにふさわしい勝利の基準を立てたでしょうか。それが問われるのです。これは、皆さん自身が反省しなければならない問題です。走るという行為にもさまざまな状況があります。競技場に入り、正しいコースを走るべきなのに、自分勝手に競技場の外を走る人も多いでしょう。また、競技場に入って正しいコースを走りはするものの、力が足りず途中で倒れる人もいるでしょう。そして、最後まで走り切ったとしても、賞を受けられない人もいるかもしれません。賞を受ける人は限られています。このことを私たちは知らなければなりません。


神は6千年間摂理を進めてこられましたが、いまだ競技者たちに直接賞を授けることができない立場におられます。だからこそ、神が全世界の人類の前に現れ、これまで走り続けてきた多くの競技者たちに、それぞれの競技種目に応じて賞を授けるその一日を、霊界の霊人たちも、地上の私たちも待ち望んでいます。この日が終わりの日なのです。このことを皆さんは知る必要があります。


私たちはこのように走り続けるべき存在です。それでは、どうせ走るべきなら、どのように走るべきでしょうか?競技場に立つ者として必要なのは「準備」です。それも、内的な準備と外的な準備の両方が求められます。


内的には、まず自分がどの目標に向かって走っているのかという信念が必要です。「このような指示のもと、このようなコースを走らなければならない」という認識を持ち、そのコースに障害物がある場合、それを乗り越えるための確固たる信念を持たなければなりません。そして、この信念を中心として、実際に正しい目標に向かって走り続けるための内面的な準備が必要です。


具体的には、心と体を鍛え、最終的な目的地に到達するまで倒れないという意志、また誰にも負けないという意志、さらには最終的な勝者として立つための意志を固めることが求められます。そして、最終的な目的地まで進む中で、自分がどのような障害に直面しても、それを乗り越えて走り続けるという決意が必要です。


8


一方で、外的には、実際の競技者としての態勢を整え、目標に向かって走る意識と準備が必要です。しかし、今日の地上には、多くの人がいるものの、競技者としての意識を持ち、目的地に向かって走る準備をしている人がどれほどいるでしょうか?言葉だけでなく、歴史の動きに巻き込まれ、その中で実際に行動する自分であることを認めるならば、自分自身が競技者としての準備を整えているかどうか、反省する必要があります。


人間はどの分野であっても、何かに属し、目指すべき位置や目標を持たなければ、哀れな存在となります。どの目標に向かい、どのコースを走るべきかという明確な視点がない人は、不幸な人です。そして、私たちの多くがそのような状態にあるのです。


そのため必要なのは、「自分はこの目標のもとで、これだけの覚悟で心と体を鍛え、多くの敵と戦い、勝利しなければならない」と自ら準備する時間を持つことです。そのような準備の時間を持たない人がいるならば、自分自身を振り返る必要があります。


では、私たちはどのような内的準備をすべきでしょうか?それは、個人のための準備ではいけません。例えば、ある国を代表するマラソン選手がいるとしましょう。その選手が走るとき、最終的な勝利を自分の栄光のためだけに目指すのではなく、「自分の背後には、自分を生んでくれた民族があり、世界の前で自国の威信を高めなければならない」という信念を持って走るならば、どのような困難にも耐え抜く余裕が生まれるでしょう。しかし、自分個人の栄光や目標だけを求めて走るならば、困難に直面したとき、容易にあきらめてしまうでしょう。


私たちは個人の栄光のためではなく、自分の背後にある民族、さらには全人類のために走るべきです。そのためには、内的にも外的にも、目的に向かって障害を乗り越え、勝利する準備を整える必要があります。それが競技者としての正しい在り方なのです。


9


私たちが信念を持つ際、それが自己中心的な信念であってはなりません。信念は民族を中心とした信念、さらに世界を中心とした信念、そして最終的には天と地を中心とした信念を持つべきです。「この天地間に存在する被造万物全体の勝敗が自分にかかっている」という信念を持って走るならば、たとえ倒れることがあっても、再び立ち上がって走る余裕が生まれるでしょう。しかし、自己中心的に進むならば、これまで耐えてきた困難を上回る困難に直面したとき、必ず倒れてしまいます。また、自分を中心に望んだ希望を超える困難が押し寄せてきたときには、その希望も打ち砕かれてしまうでしょう。


だからこそ、私たちには心と体を鍛えること、そして天と地に対して使命的な目標のもとで「自分はその目標に向かって走っているのだ」という信念が必要です。そのため、人間は漠然としていながらも神のため、善のために生きるという意識を持っています。


善とは、限られた環境を超越することです。善は制限されたものではありません。制限され、限定された境界線を超えて存在するものが善です。したがって、人間は漠然としながらも、そのような基準のもとで生きているのです。


私たちが目指すべきは、自己中心ではなく、天と地、そして万物のための信念を持つことです。この信念を抱き、倒れても立ち上がり、困難を乗り越え、天と地を超える善の目標を目指して生きることが、真の生き方なのです。


しかし、今日の私たちは漠然としていてはいけません。「自分はどの競技種目で必ず何位以内に入らなければならない」という信念を持たなければなりません。このような信念を抱き、出発点に立って走り出せる人間でなければなりません。過去にこの世を去った聖人たちは、私たち人間に対し、どの事業分野を教えるために存在していたのではありません。どのように事業で成功するかを教えたのでもありません。私たちの人生の進むべき道、心の進むべき道、精神の進むべき道、そして私たちの命が動き進むべき道を指し示し、教えたのです。


10


私たちの思想が動きうる道、私たちの命が動きうる道、それは自分個人のためだけの道ではありません。それは未来永劫にわたり、あるいは歴史全体を通じて、どの時代でも公式的であり、共通の道です。私たちは、そのような道で戦い、勝利できる天の民を切に求めるべきです。


その道が自己中心的なものでないとするならば、その目的が成し遂げられる日、私によって天と地がともに喜び合えることになるのです。民族を代表して立つ競技者が優勝する時、その勝利は民族全体の勝利となります。その競技種目が少ないとしても、その価値の栄光は全体に及ぶのです。


したがって、皆さんにはそのような内面的な信念を持つことができる価値ある基準のもとで、その価値ある目標を成し遂げるために自分自身の価値ある信念を鍛える日が必要です。しかし、今日まで皆さんはそのようなことを感じることも、考えることもありませんでした。


私たちはいずれにせよ走り続けている存在です。その結果、敗者になるか、勝者になるかは分かりませんが、勝者となるためには秘訣があります。それは、内的には「勝つ」という信念と目標への不変の心情を持つこと、そして外的には走りやすくする準備をすることです。競技場に出る人は、できるだけ簡潔で単純な状態であるべきです。心の方向に体がいつでもすぐ動ける準備を整えておかなければなりません。そのためには、心と体を鍛える訓練が必要です。


しかし、競技場は目標に向かって自由に走れる場ではありません。この競技場には数多くの障害物が設置されています。それらの障害物は、私たちの先祖たちが敗北して倒れた瞬間の数々なのです。どれほど自分の能力や決意を誇る偉人であっても、これらの障害物に躓いて倒れてしまいました。私たちの前の道には、先祖たちが障害物に躓き倒れた場面が置かれているのです。だからこそ、できるだけ簡潔に、心が動くときに体もすぐ動けるようにする必要があります。そのために、体を自ら鍛える必要があるのです。


11


鍛錬は快適な場所では行えません。鍛錬というのは、試練が押し寄せる場で行われるものです。このような内的準備を繰り返し行うためには、内的な衝撃があってもそれを突破できる体が必要です。内的な決意が揺るぐことは許されず、さらに体に降りかかる試練の嵐に直面しても、それに負けてはいけません。


だからこそ、天は道を進む人々に「すべてを捨てて私に従いなさい」と求めます。イエスもまた、網を修繕していたペテロを呼ぶ際に「すべてを捨てて私に従いなさい」と言いました。道を探し求めるために山中で修行することにも、それなりの理由があります。そのような理由があるのです。


したがって、私たちは内的な決意のもと、それに対応する外的な準備、つまり清算の条件を備え、どのような困難に直面しても進み続ける覚悟を持つ必要があります。どん底に落ちても心身を支えられる自分自身を持たなければなりません。そうでなければ、走ることも競技場に立つこともできません。


私たちは、この競技場で一つの種目を選び、それに向かって走る競技者です。目標を達成するためには、揺るぎない信念を持ち、鍛錬しなければなりません。そのため、皆さんは信仰者としての態度、走る者としての態度、道を進む者としての態度を持たなければなりません。昼夜問わず、その目標を克服しようと燃え上がる決意の心が必要なのです。


今日ここに集まった人々の中には、「漠然とイエスを信じれば天国に行ける」と考えている人もいるかもしれません。しかし、天国とはどのようなものなのでしょうか?天国は、さまざまな競技種目を通過したグループごとに構成されています。単に「イエスを信じているから天国に行ける」と漠然と考えるべきではありません。もちろん、天が助けてくださる分野もありますが、皆さん自身が備えなければならない分野もあるのだということを理解する必要があります。


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競技者として準備すべきことは、内的準備と外的準備を整えることです。その次に競技者として知っておくべきことは、自分が走るべきコースについて明確に理解することです。どこに何があるのか、またどこにどのような障害があるのかをはっきりと知る必要があります。


さらに、知っておかなければならないのは、このコースは過去にも多くの人々が走ったが、失敗したコースだということです。すべての人が走ったからといって勝利したわけではなく、途中で諦めてしまったコースであることも理解しなければなりません。


道の道はそのようなものです。歴史が始まって以来、道の道を歩んだどのような人であっても、またその道の名誉をかけて神の前に立った人であったとしても、神が「あなたが最終的な勝者だ」として賞を授けたことはありません。今なお、競争は続いているのです。私たちが目指す目標は、神が主宰される全体の競技、すなわち宇宙的な目的とつながっています。そのため、どの競技種目が小さなものであっても、宇宙的に連結されるその時まで走り続けなければなりません。もし100メートル競技で一時的に優勝した者がいても、それだけで彼を最終的な勝者とすることはできないのです。その価値と栄光を最終的な終わりの日まで支え続けなければならないのです。


私たち、走る場に立っている者は、この競技コースのあらゆる節目で多くの人々が倒れた事情を知る必要があります。どの時にどのように倒れ、どのように戦って挫折していったのかを理解しなければなりません。


これまで私たち人間は漠然と目標に向かって走り続けてきました。しかし、今日の時代を生きる私たちは、漠然とした目標のもとで走ることは許されません。走る以上、そのコースについてすべてを明確に把握しなければならないのです。


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私たちが神の摂理のコースを走るためには、復帰のコースを通過しなければならないことを知っています。考えてみてください。天を目指す道を競技者として進む私たちは、どこからスタートすべきでしょうか?それは、アダム家庭からスタートすべきです。人間が出発した起点はアダム家庭から始まっています。そこから走り出し、神と人類が6,000年もの間伴走し、今日この瞬間まで進んできたのです。しかし、その競技はまだ終わっていません。今もなお続いています。


それでは、私たちはどうすべきでしょうか?先祖から続くすべての伝統的な精神を受け継がなければなりません。自分がどこに所属しているのかを知らなければなりません。どの競技に参加しているのか、どの場に属し、どのような使命を果たしているのかを理解する必要があります。そして、自分がどの競技種目に関わっているのかを明確に認識しなければなりません。また、過去にどのような人が記録を残したのか、どのような人が失敗したのかを知る必要があります。


このすべての悪条件や善の条件を把握し、悪条件に引っかかる可能性のあるすべてに備えなければならないのです。


私たちの人生の道には、多くの敵が障害物を置き、進路を妨げています。それは目に見える障害物ではなく、目に見えない障害物です。それらは、歴史上の多くの預言者たちが倒れた難所なのです。このように多くの節目や難所が存在するため、それについての知識が必要です。したがって、私たちは今日、歴史を知らなければなりません。過去を知り、現在を知り、未来を知らなければならないのです。これが競技者が持つべき基本的な知識です。


競技の途中で、主催者側が目標に基づいて計画したコースを変更する可能性もあります。そのため、過去の預言者たちが通ってきた歴史的なコースを知り、そのコースでどのように戦い抜いてきたかを理解する必要があります。また、現在どのような状況で戦っているのか、そしてこれからどのような計画で戦うべきかをすべて知る必要があります。これらすべてを理解して初めて、最終的な勝者になることができるのです。


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しかし、今日の信仰者たちの生活を振り返ると、神がどのように歴史を導いてきたかを理解していない場合が多いのです。神が現在、どのようなプログラムや計画のもとでどのように動いておられるかも知らないのです。そのような状態で競技者といえるでしょうか?皆さんはこれを明確に理解する必要があります。


神は6千年間、歴史を導きながら、この競技の種目を運営する方向性を持っておられます。つまり、その本質と核があるのです。私たちはそれを知らなければなりません。人類の始祖から人類の終末まで、一貫した目標のもと、一貫したプログラムで神は動いておられるのです。


このような観点から、自分がどのような人生の道を走る競技者であるかを感じ、勝利者になりたいと願うならば、歴史性を持つ宗教を探さなければなりません。また、時代性を持つ宗教、さらに未来性を持つ宗教を見つけなければならないのです。そのような宗教であれば、人間が最後まで信じても失望することがないのです。


過去に多くの宗教が存在しましたが、その寿命はせいぜい数世紀にすぎません。その観点で考えると、神は人間が知らないうちに摂理を進めてこられました。人間が堕落したその日から始まり、私たちが去った後の未来に至るまで摂理を進めておられるのです。そのような神の摂理を担う宗教があるとすれば、それはどのような宗教でなければならないのでしょうか?それは、歴史的に貢献する宗教であり、人類の歴史の始まりと関わる宗教でなければなりません。また、善悪の起源を論じる宗教であり、人生のすべての歴史を包括し、未来の最終目的地で勝敗を決定できる宗教でなければならないのです。この点で、今日のキリスト教が問題となるのです。


私たちが神の前で賞を受けるとしても、今日この時代に良い行いをしたからといって賞を受けることはできません。あの霊界には、数多くの競技者たちがいます。神の摂理の道で競技場を走り抜いた多くの人々がそこにいるのです。その中には、競技場で倒れて死んだ人々や、さまざまな事情を抱えた人々もいます。そのような多くの人々をすべて集め、その代表として賞を受ける存在となるならば、その人は過去の先祖たちが成し得なかったことをすべて成し遂げたという勝利の条件を持たなければなりません。そして、現代の人々の前でも勝利の条件を備え、さらに未来の人々も「その通りだ」と認める基準を持つ者だけが、神から表彰を受けることができるのです。そうではありませんか?


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だからこそ、私たちは神を信じます。私たちは人生の道を走っています。そして、最終的な目標の日に向かって進んでいるのです。


では、私たちが信じている神とはどのような方でしょうか?それは、歴史的な神であり、さらに時代的な神、そして未来的な神です。その神が定められた目標もまた、歴史的な目標、時代的な目標、未来的な目標です。


私たちが信じる神がそのような方であり、私たち人間が求める希望の基準も同様であるならば、私たちは神を歴史的な神、時代的な神、未来的な神として理解し、信じなければならないのです。そうして初めて、神が私たちに賞を与えるとき、悲しみながらではなく、喜びの中で与えてくださるのです。その賞を与える神の心情を理解できる最終的な瞬間が来るべきなのです。


多くの宗教は数千年、あるいは数百年の間存続してきましたが、現代の時代的な潮流の前で押し流される傾向を示しています。キリスト教も数千年間存続してきたものの、未来に向けて新たな壁を越えなければならない運命にあります。もし神の核から生まれた競技コースがあるとすれば、そのコースは歴史的なコース、時代的なコース、未来的なコースであるため、それについての知識が必要です。


そのため、この時代に新たな真理が現れるとしても、その真理は時代的なものにとどまってはならないのです。皆さん、特に青年たちはこれを明確に理解しなければなりません。単なる時代性を帯びたものであっては絶対にいけません。たとえどのような主義や思想であっても、一つの時代や一つの瞬間に適合するものであれば、それはやがて消え去ってしまうのです。継続的な歴史の背景を持ち、現代の潮流を越えていける理念、新たな主義が必要なのです。


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なぜなら、私たちは神と共に喜び、神と共に勝利することを願っているからです。神が歴史的な神であり、時代的な神であり、未来的な神である以上、私たちも同じように、歴史的、時代的、未来的な条件を備えた競技者として、それに関する知識を持たなければなりません。そうでなければ、未来のどのような潮流にも押し流されてしまうでしょう。


このため、基本的な知識を持つだけでなく、歴史的な神の心情を知る必要があります。私たち信仰者は、それぞれが状況に絡み合った関係を持っています。状況は相対的な関係性です。歴史的な神の心情、時代的な神の心情、未来的な神の心情を理解し、その心情を中心に運営される神の競技プログラムに関するすべての知識を持ち、さらにその心情に合わせて調和していく必要があります。


最終的に、勝利を収め、最後に満足し、神と対面して永遠に喜びを分かち合う存在となることを神は望んでおられます。そのため、宗教は単に真理だけで成り立っているのではありません。道とは単なる真理ではないのです。主義や思想は真理を中心に進むものですが、宗教には真理に加えて心情が含まれています。これが違いです。主義や思想には心情がありません。しかし宗教には、親子が言葉なく愛し合うように、何かが絡み合ったものがあります。論理的な条件を超えて動く何かが備わっているのです。宗教とはそのようなものです。しかし、主義は違います。主義は組織的な結合であり、心情的な結合ではありません。


今日、目標に向かって走る競技者として、私たちが備えるべきことは、歴史的なコースに関する知識を持ち、時代的な現実を正確に把握することです。そして、未来に関する内容や計画をある程度知ることが必要です。このすべてを備えて初めて、競技者として進むことができるのです。


さらに、天に向かって命を懸けて進む中で、神の歴史的な心情、時代的な心情、未来的な心情を理解する人がいるならば、また、神がこのコースを築き整えてこられるためにどれほど労苦されたかを感じられる人がいるならば、その人はどのような困難に直面しても、それを無事に乗り越えるでしょう。


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次に、目標に向かって進む際には、闘志を失わない心情を持つことが重要です。すべての準備を整え、知識を備え、どのような敵に対しても戦い抜いて勝利するという決意を持たなければなりません。戦いに敗れることは許されないのです。


実践の場では、戦いが求められます。この地上のどのようなものとも戦って勝利し、最後には神が私に挑んでこられても、ひるまずに立ち向かえる勇者でなければなりません。私はそのように考えています。


道の道を進むには、必ず多くの試練が伴います。この競技場を走る中で、自分自身が苦しいのはもちろんのこと、予期しない無数の試練が訪れます。肉眼では見えない多くの悪霊たちが私たちを試みる過程があり、そのコースを通過すると天使たちが試みます。さらにその先には、道を究めた人や導く人々が試みます。もしイエスを信じて進むならば、イエス自身も試みます。最初は私たちを導いてくれても、最終的には試すのです。そして神もまた、最初は私たちを導いてくださいますが、最後に賞を与えるときには試みます。それが摂理の在り方なのです。


なぜそうなのか。それは、人間が神を裏切ったからです。神は人間に賞を与えるために自然環境を整えてくださいましたが、人間が神を裏切ったため、それを取り戻すには必ず試練の過程を通過しなければならなくなりました。試練なしで与えられるはずだったものが、人間の裏切りによって試される条件が加わり、必然的に試練を受けなければならなくなったのです。イエスもまた十字架上で、「わが神、わが神、なぜ私をお見捨てになったのですか」(マタイ26:46)と叫ばれたように、神は一時的に見捨てることもあるのです。


こうした戦いの勇者として、私が走ることは重要ですが、それだけではありません。その中で心の戦いと体の戦いが絡み合って現れるのです。単なる決心だけでは不十分です。走る中で、心の戦いと体の戦いが複雑に絡み合い、自分の内面で表れるのです。6,000年という摂理のコースを通じて、神とサタンが戦い続けた内面的な葛藤が、走る者の心中に現れます。神とサタンの戦いが、私自身に直接ぶつかってくるのです。このようにして、その内的な葛藤と外的な試練が、今日の私に降りかかってくるということです。


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私たちは単に走るだけではなく、内的な戦いと外的な戦いをしなければならず、さらに天の試練にも打ち勝たなければなりません。人生の道で勝利するためには、その戦いに勝利しなければならないのです。これは必ずそうであるといえます。


なぜなら、歴史が6,000年を経ても、このコースでまだゴールした人はいないからです。「私は行く」と言った人々はいましたが、結末のゴールに到達した人は一人もいないのです。


多くの人々は、イエス様がすでに天国にいると信じていますが、実際には楽園におられるのです。イエス様自身が「楽園に行く」とおっしゃいました。楽園とは天国に入るための待合室のような場所です。イエス様が再び来られるのは、この楽園の扉を開き、天国の扉を解放するためなのです。地上で果たすべきことをすべて果たせなかったので、再び走り出し、最終的なゴールに到達しなければならないのです。


したがって、今日私たちが走っている競技は、「信仰」という名を掲げた最終コースなのです。この競技を例えるならば、マラソンのようなものです。競技の中でも最も輝かしく、王座を占めることができる競技が宗教という種目です。


では、このような競技種目に立つ私たちは、どのように走るべきでしょうか?自分の決意だけで走ることはできません。ここにはさまざまな戦いが絡み合っていることを理解しなければなりません。心の戦いと体の戦い、さらには敵との戦いがあるのです。体をこの競技に捧げようとすると、この世が引っ張ろうとします。そうではありませんか?真の信仰生活を送る中で、体を捧げればこの世が引っ張り、心を捧げれば思想や主義が引っ張るのです。


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その目標はどこにあるのでしょうか?それは漠然としているかもしれません。進む道には無数の敵が見えない場所から矢を放ってきます。それだけではありません。信じてきたイエスさえも、さらには神ご自身も、最終的には「お前は誰だ?」と問い、知らないと言われることがあるのです。このようなことが必ず起こるのです。


これが、私たちが走らなければならないコースの現実です。それでもなお、内的にも外的にも試練を乗り越え、最終的なゴールに到達するために走り続けなければなりません。


それでは、私たちが戦いの勇者としてどのような決意をすべきでしょうか?自分が走るこの道の目標が確かであると確信したときには、死を覚悟してでも進むという決意をしなければなりません。それができて初めて、そのコースで勝利することができます。


失敗するなら最高に失敗する覚悟、死ぬならこの世で最も哀れに死ぬ覚悟、苦しむなら誰よりも苦しむ覚悟を持たなければなりません。そして、神が苦しまれた以上の苦しみを耐え抜く覚悟が必要です。


皆さん、今私たちが走っている現実を見てみましょう。特に私たち統一教会の信徒たちは、ある目標を掲げて歩み始め、現在も走り続けています。走る生活とは戦いであり、戦いとは自分の体を引きずりながら進むことです。


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これまで信じてきた信仰観念が私たちを引っ張り、また同時に敵が襲いかかります。その戦いが終わると、最後には神が挑んでこられるのです。「お前は本当に私の息子、娘なのか?自信はあるのか?」と問われるでしょう。「お前は何で勝利を収めたのか?」、「はい、このようなことで勝利しました」と答えられるかどうかです。そして、神が「本当にそうか?」と問うなら、実績を見せなければならないのです。世の教師でさえ、自分の弟子に何かを任せる際には、さまざまな方法で試すものです。


だからこそ、私たちは人生の最終コースを走る競技者であり、戦いの勇者であることを自覚しなければなりません。また、天の精鋭兵士であることを理解し、その精鋭兵士としての覚悟を持つ必要があります。たとえ体が打たれても「打ちたければ打て」、どのような理念や思想が私を攻撃してきても「構わない」、どんな迫害が来ても「受け入れる」、国家や世界、さらには天そのものが私に反対しても「反対するならするがいい」、そして神がさえも反対されるなら「どうぞ反対してください」と言えるほどの覚悟が必要なのです。


もし、このように天地が総動員して反対しても勝利を収める者がいるならば、その者こそが神にとって永遠に誇りうる息子、娘となるでしょう。神が「復帰の摂理を始めてから、こんな人間に出会ったのは初めてだ」と言えるような人が現れるならば、その人にすべてが降伏するのです。それが生死を懸けた戦いであろうと、どのような戦いであろうと、同じです。私自身の体験から言えることは、まさにこのような内容です。


終末の時代において、この最終的な道の道を走る競技者がいるならば、また最終的な勝利を目指して走る競技者がいるならば、その人は覚悟を持たなければなりません。信じている教祖が救主ではないのです。最終的には実力で証明する時が来るのだということを理解しなければなりません。


なぜならば、救いの摂理はまだ終わっていないからです。歴史的な神の競技場ですべての競技が終了し、神が賞を授けるまで、戦いは続くのです。


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2千年前、イエスがこの競技場で勝利し、4,000年の歴史を代行するメシアの使命を果たしました。しかし、キリスト教徒たちはそのメシアの勝利のバトンを受け取り、2,000年の歴史を生きた歴史として神の前に示すべきでしたが、それができていません。イエスが地上に来てから現在に至るまで、キリスト教は形を整えましたが、心情問題やその他の戦いで勝利の基準を立てることができていないのです。イエスが地上を去ったその日から現在に至るまで、「勝利した」といえる一つの基準が出現していないということです。


イエス自身が反対し、神が反対してみても、「お前は合格だ」とイエスと神が手を挙げて祝福できる人物でなければなりません。そのためには、どのような障害物でも乗り越えられる人物である必要があります。その通りではないでしょうか?神は救いの摂理を進める中で、どのような摂理的代表者を立てたいと望まれるでしょうか?それは、サタンの前でも、さらには神の前でも「どうしようもない」と言わせるほどの勝利の息子娘です。そしてその人物をサタン世界や天の世界に誇りたいと神は願われるでしょう。人間の心がそうであるように、神の心も同じなのです。


したがって、今日、道の道を歩む私たち、特に統一教会の信徒たちは、最終的には神の試練に直面することになります。神は「この道を進むな」と言われるでしょう。それでも、「私は進みます。走りながら死にます」と言える人物が現れる必要があります。そのような人物がいなければ、聖書を超える言葉は出現しません。イエスが来られたときの言葉を超える言葉は現れません。それは絶対にありません。イエスの後、神が語りたかった言葉が出てくることはないということです。


私たちがこのコースを走る際には、イエス以上の十字架も受け入れる覚悟が必要です。さらに、神が6,000年の摂理の道で経験された苦難や悲しみの痛みも受け入れるべきです。そして、今日この地上にいるすべての27億の人類が総動員され、一斉に矢を放つような場面にも立ち向かう覚悟が必要です。神の摂理も人間を中心に行われ、サタンの反対も人間を中心に起こるのです。したがって、全世界の人類が動員されるような場面でも、「地獄も最高まで行き、天国も最高まで行く」という信念を持たなければなりません。


心で肯定してみて、反対してみて、さらに試してみて、「間違いない」と確信したなら、迷わず走るべきです。そして、走る際には、誰にも止められてはなりません。どんな障害が訪れても、それを打ち破り進む覚悟が必要です。そうして初めて、6,000年間積み重なってきた恨みの山を無事に越えることができるのです。


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統一教会の信徒の皆さん、もしここに先生がいるならば、その先生に向かって「一緒にやりましょう!」と言えるほどの気概を持つ勇者を天は待ち望んでいます。それがあってこそ、天の意志が成し遂げられるのです。


もし、そのような知識を備え、そのような決意を持ち、戦いへの覚悟を持って進む息子娘がいるならば、天がその人を無視することはできません。天はどうするでしょうか?その人物が、「父よ、こうではありませんか?あなたの心情はこうではありませんか?あなたの歴史的な希望、時代的な希望、未来的な希望はこうではありませんか?そして、現段階でこれではいけません。これを無視し、こうするべきではありませんか?」と言いながら、未来への希望の条件を持って進むならば、イエスでさえ反対できず、どんな者が反対しても、神は「その通りだ、お前の言うことが正しい」と認めざるを得ないのです。


そのような覚悟と信念を持つ競技者が現れることを、天は切に望んでいるのです。


過去にこの世を去った多くの聖人や、私たちが信じている救主は、その時代の世界だけでなく、未来の世界を切り拓くために立てられた存在です。したがって、もし誰かがイエスの前に立ち、イエスが語ろうとした未来の内容を持って現れ、「イエス様、このことを早く進めるべきではありませんか?これを優先すべきではありませんか?」と訴えれば、イエスは感謝するでしょう。


また、誰かが摂理を中心に、この時代の次に続く未来の摂理的内容を持って、「神よ!これを早く進めるべきではありませんか?これをすべきではありませんか?」と言いながら現在の内容を越えて未来の希望を掲げて進むならば、神はその人を叱るどころか、むしろ称賛するでしょう。


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私たちはこのような戦いの覚悟を持って進む必要があります。そして、天がその人を認める日が来るとき、その人はどのような賞を受けるでしょうか?現代の競技では、勝利者に主催者が賞を授けますが、それは一時的なものにすぎません。一度その競技が終われば、次の競技では別の人が勝利して賞を受けるものです。しかし、神の競技場で最終ゴールに到達する者は、二度と現れない、唯一無二の存在です。その競技が終われば、永遠に終わり、それ以上の競技は存在しません。


この最終的な競技で賞を受ける喜びは、今日限りのものではなく、永遠に続く喜びです。それ以上の栄光が展開されることはあっても、それ以下に落ちることはありません。神は勝利した者にどのような栄光を与えるでしょうか?神の息子、娘という栄光を授け、神が創造された天と地のすべての権威をその人たちに託すでしょう。そして、天のどのような王宮があっても、その人たちをそこで暮らす王族として迎えるでしょう。永遠に続く報賞を与えるのです。


そのようにして勝利した息子娘が現れるならば、神は6,000年間準備してきた天国全体を動員し、その人たちを歓迎する宴を開かれるでしょう。その宴は一日限りで終わるものではなく、永遠に続く宴となります。そして、その世界こそが天国、すなわちパラダイス(Paradise)です。


したがって、皆さんはこのような理念のもとで走る競技者の一人となるべきです。最終的なゴールに向かって、揺るぎない信念と覚悟で走り続けなければならないのです。


今日、多くの宗教があります。儒教、仏教、イスラム教など、多様な宗派が存在します。競技場の中にも、さまざまな道があります。しかし、神は場所を指定されます。「この競技場で、この競技種目を行いなさい」と条件が定められているのです。特定の教派や宗派、あるいは誰かの命令の下で動く人間であることは、悲しいことです。それは人間が堕落したために起きた結果なのです。


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皆さんは必然的に神の競技場に参加しなければなりません。そして、どの種目であっても走る必要があります。しかし、民族ごとに競技が異なるわけではありません。神が求める競技は、民族別の競技ではなく、世界的な競技なのです。これは、オリンピックに似ています。この競技場では、各民族の代表が選ばれて集まり、走るのです。今日の神の復帰摂理も同じです。神は、世界的なマラソン大会で勝利する者を探すために摂理を進めておられます。そして、数ある競技の中でも最も重要で、王座を占めるような立場にあるのが宗教なのです。


したがって、すべての宗教が良いわけではありません。正しい系統が確立された宗教だけが良い宗教なのです。そして、そのためには十分な知識を備えなければなりません。もしその知識がなければ、どれだけ準備を整えたとしても、勝利する人を生み出すことはできません。つまり、教えることができないのです。盲目的に走るだけでは勝利を得られません。


皆さんは、心と体の準備、そして知識を備え、最終的な戦いの場で、天と地がすべて動員されて反対しても怯まず、それを突破する信念を持って進む人になるべきです。そのような人だけが、人生の最終コースで勝利するグループに参加することができることを忘れないでください。




<祈り>


私たちの先祖たちは走り続けてきました。しかし、アダムは神の競技種目の一部を担いながら、自己を重んじた結果、倒れました。ノアを神に仕えるような敬虔な心で接すべきだったハムが、軽率な態度をとったために、ノアも走る途中で倒れてしまいました。アブラハムもまた、神に仕える道で、小さなことから大きなことまで、すべてを神のものとして最も大切にし、それらの相対的な価値を尊重すべきだったのに、それができなかったために挫折しました。


このような歴史を通して、私たちもまた、神の意志を正しく理解し、最終的な競技の勝者となるための準備を整えて進むべきです。


25


私たちがモーセの道を振り返ってみると、イスラエル民族も倒れ、モーセもまた倒れました。神が怒られる前に怒るべきではなかったモーセであり、神が失望される前に失望すべきではなかったイスラエル民族でしたが、神が怒られる前にモーセが先に怒り、岩を二度打ち、神を信じないという立場に立つイスラエル民族となった結果、皆荒野で倒れました。


イエス様の時代を見れば、三人の弟子さえもイエスを裏切った出来事はどうだったでしょうか。命を懸けて進むべき道でしたが、それを拒み、死への恐れに囚われて消え去っていった三人の弟子たちの惨めな姿が、人類の恨みの塔となったことを知っています。


今日、私たちは復帰の原理を通じて、歴代の預言者たちが歩んだ道がそのまま私たちが歩むべき道であることを学びました。アダム家庭から始まり、節々でぶつかった歴史的なすべてが、天に向かって「父よ、私の願いではなく、あなたの御心のままにしてください」と祈られたイエス様の時代に至って、初めて命を懸けた勝利者の姿を備えられたことを知っています。私たちもまた、そのような姿を備えなければ、この競技場で競技者として戦うことができないことを理解しました。


お父様、復帰の内容がどのようなものであるかを知り、復帰を目指す私たちの覚悟がどのようなものでなければならないかを知りました。また、戦いがどれほど激しいものであるかも知りました。どうか、この競技場で敗者とならないよう私たちをお守りください。天と地の前で誓った私たちが、どのような死が訪れようとも、どのような困難や苦痛が襲いかかろうとも、たとえ全人類の反対が嵐のように押し寄せようとも、また天地が変わろうとも、立てた中心は揺るがないという確固たる信念を持ち、そのすべての困難を取り除き、暗い雲を切り開いて、光り輝く天地で天の喜びの恵みを望むことができる、勝利した栄光の息子娘とならせてくださいと切に願い求めます。


今日ここに出席している私たちを、父なる神よ、憐れんでください。同じ競技場に立っていますが、走っている者もいれば、まだ走り出していない者もいます。どうかそれぞれが自らを省みて、この運命的なコースを避けることなく進むよう導いてください。訪れる困難や試練を甘んじて受け、それを私たちのものとして消化し、お父様の前に誇りと栄光の条件を立て、それを一つの捧げ物の条件とすることができる堂々とした姿を私たちに備えてくださるよう、父なる神よ、切にお願い申し上げます。


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6千年間、賞を与えたいと願ってこられた父の御心の中に隠されていた遺産、それは父の心情の遺産であることを知りました。これを基に「私は新郎であり、あなたたちは新婦である」と言われ、「私はあなたたちの真の父であり、あなたたちは私の真の息子娘である」と言われました。そして、真の家庭、真の国家、真の世界を論じられたのが父であることを知りました。しかし、今日の私たちには家庭もなく、民族もなく、国家もありません。何一つ忠実に備えているもののない哀れな私たちが、それらすべてを回復しようとされる親の前に、天の家庭の前に、天の国の前に、何を恐れることがあり、何をためらう理由があるのでしょうか?覚悟を持ち、一途な情熱を傾け、走り、また走ってサタンの陣営を占領し、天の勝利の旗を掲げ、「父よ、恨みを晴らしてください」と言える者とならなければなりません。


そのためには、どのような苦難が訪れようとも耐え抜き、戦いに勝利する者とならなければならないことを知りました。どうか人生の道を走る競技者として、脱落者とならないよう私たちをお守りください。父が望み、立ててくださったその気概を失う者とならないようにしてください。そして、お父様の心を傷つける者とならないようにしてください。


今日も、明日も、生涯をかけて堂々と力強く走り続けることのできる天の息子娘となれるよう許してください。このコースで脱落する息子娘とならないようにしてください。私たちが神の競技場で最終的な勝利者となり、父の栄光を全ての世界の前に誇ることのできる貴い息子娘となるよう許してくださいと切にお願い申し上げます。


すべての御言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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御言葉選集7(4)

2025年01月01日 18時51分06秒 | 学習

文鮮明先生 御言葉選集 7 - 4. 終わりの日に残る父の真の息子と娘 (1959年7月26日)
1959年7月26日(日)、旧本部教会
ローマ人への手紙 8:12-27


<祈祷>
お父様、今日この時間、ここに集まった私たちに、多くの御言葉は必要ではありません。そのような中で、骨の髄から静かに湧き上がる慕う心情でお父様が「愛する息子よ、娘よ」と語ってくださる御言葉だけが、私たちの凡ゆる目的のすべてを満たすことができることを知っています。
お父様、私たちが天に向き合うとき、その心情が深く胸に染みわたり、身の置き場を知らない者とならない様にしてください。


崇敬の念が満ち溢れ、あらゆる意識を超越してお父様の胸に抱かれることを望む私たちであることをご存知ですから、この時間、私たちにそのような恩恵をお与えくださいますよう、心から願い求めております。


私たちが御言葉を通じてお父様を知る者ではなく、心情を通じてお父様を知る者となることを切に願い求めます。御言葉によって救いを得ようとする者ではなく、心情を通じてお父様の前で救われ、命の歌を歌える私たちとなれるよう導いてください。


そうして、まずお父様がどれほど苦労され、どれほどの痛みを経験されたのかを、お父様の姿を見つめながら知る私たちとなり、頭を垂れて慰め申し上げられるようにしてください。お父様、切に願い心から求めております。


私たちが何かを持っているとするならば、それが私たち自身のものとなるようにしてください。また、誇れるものがあるとするならば、それが私たちの誇りの条件となることを許してください。


人生の目標があるならば、心情をもってその目標を追求できるようにしてください。生活の内容を整える必要があるならば、ただ一つの心情だけが私たちの生活の内容となるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


多くの人々がお父様の前に集まりました。この者たちが誰のために留まり、何のために動き、どのような場所を目指して進んでいるのかを自ら見出せるようにしてください。
「お前は私のものだ」と言える主を持たない哀れな者たちです。
「お前は永遠に私の心情と共にいる者だ」と認められる者がいるとするならば、それ以上に幸せな人はいないことを私たちは知っています。


お父様、永遠なる命と永遠なる理念、そして永遠なる愛の心情をもって私たちを探し求めてくださるお父様が、私たちの心の中に共におられることを知っています。
お父様のものが私のものであり、私のものがお父様のものであるように、二つではなく一つの理念を中心として歌い、喜び合える子女の姿をお父様が切に望んでおられることを知りました。


私たちもお父様をお迎えし、お父様の前にあらゆる栄光の要素をお返しし、その後で歓喜しながら全世界に誇ることのできる時が訪れることを心待ちにしております。


お父様はこのすべてをご存じです。どうか心と心をつなぎ合わせ、過去の天上のすべてと地上のすべてを動かし、心情の世界にすべてを調和させてください。
そうして、栄光の感動をもたらす衝撃と喜びの境地の中で、私たちが覚悟し決意できるこのひとときを与えて下さいますよう、心より願い求めます。


今、御言葉を伝えようとしています。ただ御言葉の内容だけを伝えるのではなく、お父様の心情を伝えることができるようにしてください。
お父様の内情を感じ取り、自らを見つめ直すことのできる時間として、御言葉が現れるように導いてください。


伝える者の心と受け取る者の心の間に隔たりを生じさせるのがサタンの働きであることを私たちは知っています。
どうか一つの心に調和し、一つの心情に調和して、お父様をお迎えできるこの時間としてください。
このすべての言葉を主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。




<御言葉>
本日は皆さんの前で「終わりの日に残るお父様の真の息子娘」という題でお話しいたします。
これまでの人類の中で、どれほど権勢があり、どれほど人格が高潔であり、どれほど栄光に満ちたものを備えた人がいたとしても、自分自身を立てて「私は神の真の息子であり、真の娘だ」と誇りをもって宣言した人は一人もいませんでした。
真の息子娘となるには、真の父母を持ち、真の家族の縁を通じ、真の兄弟と結ばれた何らかの内容を持たなければなりません。それなくしては、息子としての環境、息子としての位置、あるいは娘としての環境、娘としての位置に立つことはできないのです。


神が存在し、人類に対してある摂理を進めておられるとするならば、その神が摂理を進めながら望む最高の目的とは何でしょうか。それは他でもありません。「あなたは私の真の息子であり、真の娘だ」と言える人を探し、立てることです。そして、その真の息子娘と永遠の心情を通じ、存在世界のすべての縁を通じる立場において、「父」と「息子娘」という一言を交わせる日を持つことが、神の最高の目的なのです。


神がそのような日を待ち望んでおられることを、私たちは知らなければなりません。


創造主であり、全宇宙の根本であり、すべての存在世界の主体となる一つの中心があるとするならば、その中心が望む理想世界は、この地上の存在世界ではないでしょう。
神が望まれる世界は、天上にある何かの理念の世界でもなく、外的な世界でもありません。その世界とは、心情の縁を中心に動き出し、静的な流れの中で全体を投じて「息子」「娘」と呼ばれることのできる世界なのです。
そのため、神がいかに素晴らしい方であり、創造主であり、絶対者であったとしても、神ご自身もそのような内容を持った人間を待ち望んでおられることを、私たちは否定することができません。


歴史は「真」を志向しています。真の人間、真の国家、真の世界を目指しています。
私たち自身も、真なる存在になりたいという意識を持ってそれを望んでいます。


では、真の縁の中で基準となる縁とは何でしょうか。それは、神と人間の間に結ばれる親子の縁です。この縁から生まれる心情は、どのような存在の権威によっても屈することのない、永遠で不変で唯一のものです。また、この心情の権威は絶対的なものです。そのため、この権威を持って現れるとき、すべての存在はその存在の前に頭を垂れざるを得ません。この心情の権威をもって動くとき、万物はそれに従って動かざるを得ないのです。これが宇宙の鉄則です。もしそうでなければ、私たちが望む真の目的を成し遂げることはできず、一つの絶対的な縁を結ぶことはできない、という結論に至ります。


そういう理由から、どれほど偉大で崇高な神であったとしても、その神が「私の愛する真の息子よ、娘よ」と呼べる一日を持てなかったことが、神にとって最も大きな悲しみなのです。それ以上に悲しむべきことはありません。また、天の縁を通じて創造された人間であるならば、そのような一人の人間、そのような一人の息子娘を地上から立てられなかったことが、最大の悲しみです。これこそが人類の悲しみの中の悲しみなのです。


もし神が「私の息子、娘」と呼べる真の息子娘がいて、彼らを呼びながら6千年間続けてこられた苦労を忘れ、これまでのすべての紆余曲折を忘れることができる瞬間がこの地上に訪れるならば、その時から天の恨みを晴らす聖業が始まるでしょう。人類はその時に初めて、神による幸福の歌を歌うことができるのです。このような時が訪れることを、私たちは予期しなければなりません。


もし人類と天倫に「終わりの日」があるとするならば、その日とはどのような日であるべきでしょうか。その日は、神が人間に対して「お前は永遠に否定しようとしても否定できない私の真の息子、娘だ。私の息子よ、娘よ、ようやく私の恨みをすべて晴らすことができた。」と言い、心から安心し、心から楽しむことができる日であるべきです。そのような息子娘がこの地上に現れるその日、その時が来て初めて、神の新しい理念の世界が始まるのです。


しかし、今に至るまでそのような息子娘は現れず、真の息子娘との縁を決定づけることのできる一時を迎えることができませんでした。「真の息子」「真の娘」として立てられる存在が現れていないのです。このような存在が現れない限り、神の願いと人類の希望は完結されないということを、私たちは知っておかなければなりません。


今日、私たちは堕落した子孫であることを知っています。どれほど立派な人であっても、どんな伝統を誇り、歴史的な面で自分の貢献を自慢したとしても、それはすべて堕落した子孫としての自慢にすぎません。また、自分が持っている地位や姿が立派で、この世で天を貫くような権威を持っているとしても、それもまた堕落した子孫の権威にすぎないのです。人間がこのような逆境と、天が許すことのできない環境に置かれているため、人間社会は天と相反し、対立する罪悪の世界になっています。罪深い人間、罪深い世界であることは、誰もがよく知っていることです。


神の真の息子娘の姿は「至善至高」(最も善で最も高い)の姿であるのに対し、地上に生きている私たちの姿は極めて悪く、極めて粗末な姿です。この隔たりをどうやって打破するのか?これを打破するための働きが、神の救済の歴史です。神はこの隔たりを埋め、繋げるために、6千年という長い年月を通して苦労を続けてこられました。人間が知ろうと知らずに関わらず、歴史の背後で血の滲むような戦いを続けてこられたのが、神の働きであることを私たちは知るべきです。


このような歴史的な神の苦労に対して、何をもって報いるべきかを考え、天を仰ぎ見て恥じ入る心を持ち、自らを悔いる人がほとんどいません。


今日、「宗教」という名の下に、あるいは宗教的な内容を備えた指導者を立てて、人類に対して告知し、勧告していることは何でしょうか。それは、人生の道程を通して、神が摂理してこられた歴史的な内容を知りつつ、自分の感性を通して天の心情と縁を結びなさい、と私たちに教示しているのです。その役割を果たすのが宗教です。


しかし、多くの宗教人は、心情から伸びてくる縁を軽視したり忘れたりし、今日目の前に現れている事実にのみ執着しがちでした。宗教の重大な使命は、堕落の縁から脱し、心情の世界に立脚して、神がこれまで人類を導いてこられた中で経験された悲しみと苦しみの歴史を共にし、その歴史的な苦難と戦う心情を持つことにありました。ところが、宗教はこれまでそのような立場から人類の歴史を補い、人類の心情を結びつける働きを十分に果たしてきたとは言えません。


それゆえに、神が真の息子娘を探し求める心が切実であればあるほど、時代と世紀を超えて深く染み入る思いを持ちながら、真の息子娘を恋い慕い、人類に対してこれまで労苦を続けてこられたことを、私たちは理解しなければなりません。


天はこの唯一の目的を達成するために、個人を立て、家庭を立て、民族と国家を立て、世界的な主導理念を掲げて摂理を進めてこられました。天はこの一つの目的を成就するために、これほどまでに苦労されてきたのです。しかし、その目的を担い、成し遂げる責任を負うべき天が選んだイスラエル民族は、どこかへ行ってしまいました。宮廷から引き出された60万人のイスラエル民は跡形もなく消え去ってしまいました。また、120年間苦労して築き上げたノアの家庭も同様であり、アベルの祭壇も跡形なく消えてしまったことを、私たちは知っています。


このように歴史を知り、神の摂理的な意図を知れば知るほど、神の悲しみは言葉に尽くせないほど大きいという事実を理解できます。神の理念は、個人から始まり、真の息子娘を中心とする家庭へ、さらに民族、国家、世界、そして宇宙へと進むものでした。それが神の心情に染み入る理念であったにもかかわらず、この地上には「私は永遠の父の心情を通じることができる真の息子です」と言える存在がいませんでした。また、「私は父の心情と共に心を慰め、その苦悩を晴らすことができる永遠の娘です」と言える存在もいませんでした。そのような息子娘を中心に神をお迎えして生きる家庭もなく、そのような民族も国家も、世界もありませんでした。


神が目指す目的とは何でしょうか?それは、真を貫くことのできる子女から始まり、家庭、民族、国家、世界、そして宇宙までを縁で結びつけ、一つにすることです。この使命を果たすことこそが、今日私たちが知っている復帰の使命です。この使命の道を歩むことが救いの歴史であり、摂理の意図であり、天倫の目的であることを、私たちは理解しなければなりません。


私たちはこの時代を「終わりの日」と呼んでいます。では、終わりの日とはどのような時でしょうか?それは、真の息子娘が現れ、全世界を天理に基づいて治めることができる時です。その息子娘が現れて、歴史的な怨恨を清算し、悲しみと苦しみの歴史を終結させ、喜びと幸福を歌うことのできる日。このような運命を分ける時、この分岐点となる日が「終わりの日」なのです。


では、終わりの日に誰が来ると言われていますか?聖書ははっきりと述べています。「主が来られる」と。では、その主とは誰でしょうか?それは再臨のイエスです。再臨のイエスとはどのような方でしょうか?それは、万物の歴史を動員し、神が労苦の末に見いだされる方です。神が「あなたは永遠無窮にわたって私の心の中に、私の存在の中に、私が創造した世界の中に生きることのできる息子だ」と言える存在です。その方こそが、再び来られる主なのです。




イエス様は教えてくださいました。「私は花婿であり、あなた方は花嫁である」と。それは、息子となるべき主の現れと、娘となるべき花嫁の姿が地上に現れることを意味しています。そして、息子と娘が出会い、探し求めてこられた神とその息子娘が出会うのです。その瞬間、真の息子娘の立場は限定されたものでも、限界のあるものでもありません。その日は、息子娘と結ばれた世界全体が一斉に動員され、天を賛美する縁が結ばれる日となるのです。


神は人類と共に真理を求め、人類と共に悲しみ、人類と共に戦い続けてこられました。その神の前で、人類が頭を垂れて祈るべきことは何でしょうか?「天が立てようとする真の息子が現れるようにしてください」と祈ることです。


では、その真の息子とはどのような方でしょうか?その方は真の息子であると同時に、真の花婿としての資格を持ち、真の花嫁を見いだし、真の人類の親となるべき方です。


そのため、歴史を通じて人間を導き、真の息子娘と結びつけるために摂理を進めてこられるのが、神の救済摂理の歴史なのです。


今日読んだ御言葉の中に、「あなたがたは養子の霊を受けたので、アバ、父よと呼び求める」とあり、「聖霊の初穂を受けた私たちも、養子となることを待ち望んでいる」と書かれています。したがって、この地上に生きている人間がどれほど信仰深いと言われても、誰であれ、天の前では養子に過ぎません。では、天の息子がいるとすれば、その息子はどのような形で現れるのでしょうか?息子ではない者がいて、養子がいて、真の息子がいます。世間でもそうではありませんか?自分の息子でない他人の息子がいて、息子がいない場合に代わりとなる養子がいて、真の息子がいます。天地の道理も同じです。


今日、この地上は善悪が交差し、衝突する混乱の中で、真理が真理ではないように見え、偽りが真理のように見える状況が入り乱れています。これが現実です。天は真の息子を探し、真の娘を探す理念と心情を持って人間に向き合い、歴史の道を歩んでこられました。それにもかかわらず、この地上で真の息子娘とは誰のことか、誰も知りません。人間はわからないのです。しかし、天は人間世界の息子でない者たちを養子の形でまとめ、彼らを再び直系の子女として結びつけることを目指しています。これが天の救済摂理の歴史です。


息子としての縁は血統的に結ばれていなければなりません。自分の血統が直接つながっているか、あるいは自分の父や祖先の血統がつながっているか、いずれにしても血統的な条件がある立場でのみ、息子娘という名を立てることができます。世の理(ことわり)がそうであるように、天の理もまた同じです。


人類の始祖であるアダムとエバが創造されたその日から、神の心情が彼らの骨髄に流れ込み、一つの帰結点を築き、その理念のすべてがアダムとエバに和合していたならば、私たちは神の直系血統の縁を持つ子女となっていたはずです。しかし、堕落によって望まない他の血統と結びついてしまいました。そのため、今日どれほど優れた人間であったとしても、血統が異なるため、養子にすぎません。いくら摂理の意図のために心を尽くしても、他人の子を連れてきて繋いだとしても、養子の血統を引き継ぐことしかできないのです。これがイエスが福音を立て、新約時代の救済摂理として進めてきた内容です。


では、神がその養子を立てて「私の真の息子娘」と言えるでしょうか?それはできません。世の中の出来事でも同じです。どれほど苦痛や無念を抱える人が心情から言葉を発したとしても、その心情を通じる立場にいない人は「そうだろう」程度にしか理解できません。ある人は「そうかもしれない」と言い、またある人は「そんなことどうでもいい」と言うかもしれません。しかし、その体験を通じて心情を共有できる縁のある人であれば、話す人の心情に悲しみが染み込むとき、その言葉を聞いても自分の心情に悲しみが染み込むのを感じるでしょう。それこそが同じ立場にあると言える状態です。そうではありませんか?


今日、人類が望むものとは何でしょうか?それは、神の前で「養子」という名を取り除き、直系の真の息子娘となることです。これこそが人類が望み、歴史が目指してきた最高の目的であり、摂理の意図を掲げて進めてこられた神の中心的な目的です。このようになって初めて救いの目的が達成され、救済摂理が完了したと言えるのです。


偉大なる神、愛の本体であり、愛の中心であるその神が、私たち人間を養子の立場で愛してくださるとしても、私たちはそのような愛を望みません。骨髄に染み込む心情が通じる愛の実体としての息子娘が求められるのです。


今日、この地上でいくら徳のある生活をし、いくら神を「父」と呼んだとしても、その「父」の意味はさまざまです。息子でない立場で「父」と呼ぶ人もいれば、養子の立場で「父」と呼ぶ人もいるでしょう。しかし、最終的に残り、天が求める最高の目的とは何でしょうか?それは、養子の名でもなく、養子の位置を越えた直系の真の息子娘となることを切望することです。


聖書には、イエスが養子の縁を復帰してくださると書かれていますが、その理念の世界に満足するだけでは、救いは完全なものとは言えません。これまでイエスを信じて生きた多くの信徒たちは、あの世に行ったものの、彼らは楽園、つまり天国に入る前の待合室に留まっているというのです。だからこそ、イエスが再び来ると約束された目的は、私たちを養子ではなく、直系の縁で結びつけるためなのです。


神は、教訓や命令によって動かされるのではなく、その姿を見て動き、縁を結ぶことができ、心情をもって深く結ばれることのできる息子娘を切望しておられます。


そのため、歴史の中で偉人や賢人とされる者であっても、神に向かって「父よ」と呼ぶことができず、神がその人に対して「お前は私の息子だ」と言える内容を持たなければ、それらの人々は未完成品です。このことをしっかりと理解しなければなりません。


キリスト教が持つ唯一無二の特徴はまさにここにあります。イエスは神に向かって「私の父」と呼び、「私はその独り子である」と宣言しました。イエスは、宇宙の根本、天倫の根本を貫き、心情の世界を支配する一つの基準を立て、実体を持った存在でした。この内容を見れば、私たちはイエスが全人類のメシアであることを知ることができます。


メシア、救主とは何でしょうか?それは、死の領域に留まっている人間を救い出す模範となる人物のことです。したがって、キリスト教が持つ愛の最大の特徴はただ一つです。それは、「神は私の父である」と言える縁が結ばれることです。神がどれほど高く、善の主体であり、絶対者であるとしても、その神が「私の父」であると言えるようになれば、神のものは私のものとなり、私は神のものとなります。これこそが、人類が望む希望の最高基準でしょう。


もし神が最高の愛の基準を掲げて人間に接しながらも、その愛の目的地となる位置に人間を導くことができなければ、神は偽りの存在となってしまいます。もしそうであれば、神は人間の理想や全体の理想を成し遂げるためではなく、自分自身の欲望や欲求を満たすために摂理を進めてきたことになり、その結論に至ってしまうのです。そのため、神は真の息子娘を探し求めておられるのです。


聖書66巻を通して見ると、この内容に関連するパウロの言葉があります。それは、血統的に罪と無縁の立場に立つことができない人間が、亡くなられたイエスを信じることによって養子の相続権を得られるということです。しかし、これがイエスが来られた究極の目的ではありませんでした。


神がイエスを遣わされた目的は、人間が神の真の息子であるイエスと縁を結び、その人々をイエスに接ぎ木することでした。聖書にも「私はぶどうの木であり、あなたがたはその枝である」とあります。つまり、サタンの世界に属する人間を養子の縁を経て直系の息子となる手続きを進めることが神の計画でした。しかし、人間が信じなかったため、イエスはこの地上で直系の子となる手続きを教えることができず、養子となるための内容だけを説明して帰らざるを得ませんでした。


では、なぜ私たちは来たるべき主を待ち望むのでしょうか?なぜ全人類がイエスの再臨の日を待ち望むのでしょうか?それは、いかに優れた人間であっても養子の立場を超えられない私たちに対して、直系の子となる心情的な縁を確立し、その手続きを教える使命を持って主が来られるからです。それゆえ、全人類がその日を待ち望むのは当然のことです。私たちは、そのような使命をもって来られたイエスを知らなければなりません。


再臨の日を待ち望み、花嫁という対象的な名の下でその目的を探し求める私たちにとって、再臨の日とはどのような日でしょうか?それは、神が6千年もの間にわたり費やされた労苦をすべて振り払い、6千年の悲しみをすべて忘れ、苦しみをすべて忘れることができる日です。見いだされた息子の姿を見たとき、悲しみも苦しみも無念さも跡形もなく消え、「ああ、我が息子よ」と言える歓喜の日です。その日は天が待ち望んだ日であり、地上の人類が長い歴史を通して待ち望んできた日なのです。


つまり、養子の恨みを脱し、直系の子女として「私の父の天国が私の天国であり、父が治める世界を私も治めることができる世界だ」と言える権威を持って現れるとき、神が祝福された堕落前のアダムとエバのように、真の楽園の主人として、また万物の霊長として現れることができるのです。


万物を治めるとしても、心情を通じる何らかの内容がなければ、万物も支配されることを望みません。真の息子娘と呼ばれるためには、歴史的な怨恨を清算できる立場に立つ必要があります。そのため、聖書にはこう書かれています。「被造物もまた、神の子供たちが現れるのを待ち望んでいる」と。真の息子娘として認められないまま現れる者であれば、万物もそのような者を受け入れたくないということです。


したがって、天の恨みを解消するための歴史的な道を、私たちは今日歩んでいかなければなりません。


このような摂理の道を経て、「終わりの日」と一口に言われているこの時代に、私たちはどうすべきでしょうか?これが大きな問題です。


皆さん、自分自身を振り返ってみてください。あなたはどのような立場にいますか?本当に天の心情と縁を結び、父が動けば共に動き、父が止まれば共に止まり、父が悲しめば共に悲しみ、父が喜べば共に喜ぶことができますか?身体(体)は異なっていても、内面的には心情の世界で通じ合える立場にありますか?天との縁が結ばれていますか?


どれほど外的な環境が華やかであろうとも、心情に反していれば、それは消え去るべきものであり、焼き尽くされるしかありません。世間でも同じことが言えます。愛する息子娘が持っている物がどれほど貴重であっても、その息子娘が亡くなれば、それは価値を失い、焼却されるしかないのです。


心情の縁を通じて真の息子娘となることこそが、天倫が求める最高の目的であり、人倫が目指す最高の目的であるとするならば、今、自分がどの段階にいるのかを冷静に振り返って批判する必要があります。私たちは、どうしても真の息子娘になるべき解怨の歴史を中心に進む運命にあります。この運命から逃れられない天と地の運行の中に私たちは置かれていることを否定できません。


では、この過程を経て進む中で、どのように解明し、進んでいくべきでしょうか?その方法は一つしかありません。それは、神の心情を中心として戻っていくことです。そのため、自分自身の心情がどうであるかを冷静に、第三者の立場から批判してみる必要があります。その時期に来ています。


天倫が目指す方向がそのようであり、父が望まれる日がそのようなものであるとするなら、今日、あなた自身はどのような境地にありますか?心情が通じる真の息子娘の境地にあるならば、祈りは必要ありません。ただ「父よ」と呼ぶだけで、血と肉が震えるような衝撃を感じ、父の心情が自分の心に染み込んでくるような直系の息子娘となっているはずです。そうなっていれば、考えるだけでも憎らしい堕落の恨みを解くことができ、罪悪の世界における堕落した行動はできないでしょう。


歴史とともに悲しまれてきた神の心情を知り、神を苦しめた憎むべき罪悪の縁を断とうと努力した自分自身を思い返すだけで、身震いするほどの気持ちになります。あなたはそのような感情を感じたことがありますか?自分を批判してみてください。神の前で「息子」という名を持つにふさわしい立場に、どれだけ近づいているでしょうか?もし心情的な縁があるかどうかすらわからないならば、その人は息子ではありません。


しかし、たとえ直系ではなく養子であっても、父となる存在の苦しみの内容を完全には理解できなくても、その言葉を聞いてある程度理解することができるはずです。心情的に完全に共感することはできなくても、その言葉を聞いて「その通りです」と肯定できる立場にはいるべきです。あなたはそのような位置に進んでいますか?


イエスはこの地上に人類の真の父として、そして神の真の息子として来られましたが、十字架にかけられて亡くなられました。彼は、神が4千年間地上の人間を導きながら抱かれた一つの決意をもって来られたのです。彼の四肢や身体のすべては、4千年の歴史の道程において神が人間を通して立てようとされた真の息子を切望し、探し求めてこられた部分部分の実体を代わりに具現化した存在だったのです。


そのため、彼の目は4千年の間に神が見つめられた目の代わりであり、彼の耳は4千年の間に神が聞かれた耳の代わりであり、彼の口は4千年の間に神が語られた口の代わりだったのです。彼の感情も身体も同じく、神の歴史的な代替物として現れた存在でした。イエスは歴史的な実体であり、歴史的な結実体だったのです。


それゆえにイエスも、「私は律法を完全にするために来た」と語られました。その目的は一貫しており、神の心情と摂理を完成させるためだったのです。


イエスはユダヤの国とユダヤの民を見つめ、またユダヤ教の教団を見つめながら、4千年間神の愛の領域の中にあった国であり、民族であり、教団であったにもかかわらず、「今や神が抱いて愛することのできない国、民族、教団になってしまった」と嘆かれました。彼らは4千年の間、神の摂理の歴史を歩んできたにもかかわらず、その4千年の歴史の主人として来られたイエスを認識できませんでした。


これはどういうことでしょうか?その当時の人々はそれを理解していませんでした。4千年の歴史の終わりの時代に生きていたイスラエルの民は、4千年前、堕落直前のアダムとエバが神の愛の領域の中に抱かれていたように、自分たちもその一部であり、分子であることを感じ取るべきだったのです。


もし神の摂理が復帰の摂理であるなら、復帰とは失われたものを取り戻すことです。神が探し求めておられるのは何でしょうか?それは失われた息子娘です。失われたアダムを探し、失われたエバを探しておられるのです。


今日ここに集っている私たち、終わりの日に直面している私たちには、6千年もの間、死ぬことなくサタンと戦い抜いて勝利を収めた祖先が必要です。つまり、堕落の縁を断ち切り、勝利の権威を持って父の前に誇りをもって立つことのできる祖先が必要なのです。本来、善なる祖先となるべきアダムが堕落し、死んだアダムとなってしまったため、神は堕落していない実体を探し求めるために、アダムから始まり6千年もの間苦労され、その実体を希望しながら探し続けてこられたのです。


今日、キリスト教で語られるイエスについての教えには多くの内容がありますが、実際にはそうではない場合もあります。私たちはそのような固定観念を打ち破り、強い覚悟をもって歩み出さなければなりません。真実と偽りがあり、さらに真実のようなものと偽りのようなものも存在します。私たちは真実を見極める必要があります。


今日、私たちがイエスを正しく知り、迎え入れることができなかったと言うのはなぜでしょうか?それは、エデンの園でアダムとエバが堕落し、神のもとで成長できなくなった後、サタンと対決しながら戦い続けた4千年の歴史の末に、ようやくユダヤの国に現れたイエスをイスラエル民族が知らなかったからです。当時のイスラエル民族がイエスの前に降伏していれば、モーセがイスラエル民族を率いたときの失敗も、ノアの家庭が失敗したことも、アブラハムが献祭を間違えたことも、アベルが殺されたことも、すべて勝利へと帰結することができました。イエスとはそのような存在でした。歴史の中で実体として現れた、生きた摂理の実体です。アダムは死にましたが、アダムを立てようとされた父の心情は死なず、それが生きた実体としてイエスの中に現れたのです。


終わりの日には、多くの人が自分を中心に「私は宇宙の中心だ」といったような宗教観を持って登場します。しかし、4千年、さらには6千年を経て進められてきた神の摂理の目的は何でしょうか?それは失われたものを取り戻すことです。アダムが失敗したために代わりに送られたイエスとはどのような方でしょうか?それは第二のアダムです。聖書にもイエスを「後のアダム」と記されています。イエスを神そのものとする教えもありますが、それは正確ではありません。


真の息子、すなわち神が「これが私の息子だ」と言える第三のアダムが必要です。この第三のアダムの使命が終わり、真の息子としての立場に立つまでは、どれほど「花嫁」や「養子」と称されようとも、完全ではありません。イエスも「息子」としての栄光を持ってこの地上に来られましたが、息子としてのすべてを果たすことはできませんでした。すべてを果たすには、天の手続きを完了する必要があり、そのためには「息子」だけでは不十分で、「花嫁」を持たなければなりません。


エデンの園で失われたのは何ですか?アダムとエバです。彼らは人類の真の祖先となるべき存在でした。しかし、その真の祖先を失ったため、真の祖先を復帰する必要があります。


イエスは父の位置に相当する存在です。人類の真の父に相当する方です。そして聖霊は母の位置に相当します。人類の真の母に相当する方です。このように、霊的に真の父と真の母を立て、それを実体としてこの地上に顕現させることが再臨の目的です。


人類の前に真の息子娘が現れる時が「終わりの日」です。その時とはどのような時でしょうか?それは、真の祖先を失ったことで堕落した子孫となり、真の父母と血統的な縁を結べなかった私たちが、反対の道を通じてエデンの園で失われた息子娘を探し出す時です。この逆さまの歴史、復帰の歴史を通じて、神との縁を結び、その人々を養子から直系へと昇進させるのが神の摂理の歴史です。もしこの話を聞いて「間違っている」と思うなら、霊界に行って直接尋ねてください。「ある時、誰々がこのように言っていましたが、その言葉は正しいですか、それとも間違っていますか?」と。きっと間違いないと言われるでしょう。


幻想的で空想的な信仰の時代は過ぎ去りました。観念的な神を信じ、その理念のもとで生きる時代も過ぎ去りました。これからは、骨と肉が心情に一致する基準を持って、神を「父」と呼び、その父が6千年にわたって歩まれた心情を今日の自分の心情に結びつけることが求められます。そして、その心情的基準を通じた立場から、神との父子の関係を誇ることができる位置に立たなければなりません。


天を探し求める人類、または目的の世界を目指す人類は、この道を歩まなければなりません。そのために、東洋では三綱五倫を立て、「天に心を尽くし、忠臣となれ、貞節な婦人となれ」と教えてきたのです。このように、東洋では内面的な思想を中心に進んできました。一方、西洋は外面的なアプローチをしてきました。時間が経てば、その違いが明らかになるでしょう。


養子たちが栄える時代はこれまでの20世紀の文明です。そして、これから真の息子娘が栄える時代は理想世界です。神が存在するならば、それが道理でしょう。昔は他人の子供たちがよく生きる時代でした。現在は、イエスの理念を中心として民主主義陣営を基盤にした養子たちがよく生きる時代です。そして、この時代を超えて、真の息子娘がよく生きる時代がクリスチャンたちが待ち望む再臨時代であり、理想時代です。


では、そのような立場に立つ真の息子娘となり、神が探し求める一時、一瞬に「真の息子娘」の名分を持って現れるには、どうすればよいのでしょうか?「私は何十年も信仰してきました」と胸を張るような小人物ではいけません。また、「私はある教会の牧師であり、ある教会の指導者です。私のおかげで多くの人々がイエスの名前を知り、彼に従いました」などと自慢する人々も不十分です。


その理由は何でしょうか?それは、神が6千年間という長い歴史を摂理してこられた間、一日たりとも、たった一時間たりとも真の喜びの日を持たれたことがなかったからです。真の息子娘を探し求める父が、まだその息子娘を見つけられていないのに、どのようにして喜びがあると言えるでしょうか?


歴史を通じて、人類は喜びの時間を持ち、享楽を楽しんだ人々も多かったかもしれません。また、ある支配者たちは自分の権力を中心に神に代わって栄光を享受したかもしれません。しかし、4千年、6千年の歴史を苦労しながら、真の息子娘を切望し探し求めてこられた神には、そのような時間は一度もありませんでした。栄光を享受し、喜びを味わうべき神は、いまだにそのような時間を持たれていないのです。


神は悲しみの主人公であり、苦しみの主人公です。私たちが迎えるべき父は、喜びと栄光を味わいたいという願いを持ちながらも、その願いを実現できず、喜びも栄光も享受したことのない神です。その代わりに何を持っておられるのでしょうか?それは、堕落の恨みとともに、悲しみと苦しみの内容を抱え込まれた、悲しみの神であり、苦しみの神であるということです。


そうではありませんか?


今日、私たちは天国を幸福の楽園だと思っていますが、決してそうではありません。実際に行ってみてください。どれほど喜びの要素があるかと隅々まで探しても、そうはなっていません。神が世を治める権威を持ち、栄光を享受し、幸福を歌うべきであるにもかかわらず、神には喜びや栄光、善の結実、理想的な要素がすべて失われ、悲しみと苦しみだけが残されています。これがどれほど無念なことでしょうか。この無念さに満ちた神の前で、「父よ」と叫びながら骨身に染み入る悲しみを感じ、身をもって苦しみを共有する人こそ、天に近い息子娘であると言えます。


**イエスはこの地上に万王の王として来られました。**天から指導者としての権限を認められ、地上に現れました。しかし、生まれたその日から、彼には一時間の喜びさえありませんでした。彼は地上の人類のため、全ての民を救う救い主として現れましたが、その身には栄光が訪れることはありませんでした。栄光が訪れる前に、彼は苦しみの世界を通らなければならず、悲しみの道を歩まなければなりませんでした。


なぜそうだったのでしょうか?
それは、イエスが4千年の歴史を蕩減しなければならない立場にあったからです。万王の王となるためには、まず悲しみの王子として合格し、次に苦しみの王子として合格しなければなりません。そうでなければ、天の悲しみを通り抜けてきた無数の霊人たちを慰めることができないからです。


イエスの道は、ただ栄光の道ではなく、苦難を通じて全てを清算し、真の救いをもたらすための道だったのです。


そのため、イエスの30余年の生涯、特に3年間の公生涯の道は、悲しみの道でした。イエスは涙を流しながらも、4千年の歴史の中で先祖たちが流した涙の谷間を彷徨いました。4千年の歴史の中で血の滲むような死の峠を越え、天に向かって叫び続けてきた人々の跡を引き継ぎ、その苦労を背負われました。そして最終的に彼の道は、十字架の道でありました。私たちはイエスを愛の王子、幸福の王子、栄光の王子だと考えていますが、実際には彼は苦しみの王子であり、悲しみの王子だったのです。


終わりの日の裁きの時が来るでしょう。その裁きの日、天はどのような内容をもって現れるでしょうか?「私はこのような栄光と幸福を持っているが、なぜお前たちはそれを持たないのか」と問いかけることはありません。裁きの内容は、6千年にわたる悲しみの人類の歴史と悲しみの神の歴史、苦しみの人類の歴史と苦しみの神の歴史をお前たちは知っているのかということです。その歴史の中で、神が手を差し伸べられた跡があることを認識しているかどうかが問われるのです。


そのような神の前に立ち、息子としての栄光を求める者、娘としての希望を求める者に対して、神は尋ねられるでしょう。「お前はこの歴史と共にどれほど悲しみ、どれほど苦しんできたのか」と。その時、「ありません」と答える者は、息子としての栄光を得ることができません。


神が6千年もの間戦い、耐え忍んでこられた歴史を知り、その心情と苦労に共鳴する者だけが、神の息子娘として認められるのです。それは、栄光のための資格ではなく、悲しみと苦しみを共にする資格だからです。




見てください。イエスの手と足には釘の跡が残っています。イエスの頭には茨の冠が被せられ、イエスの胸には槍の傷跡が残っています。イエスは死なれましたが、悲しみの王子として、苦しみの王子として合格し、神の恨みを清算するために死の峠を越えなければならなかったのです。しかし、今日の多くのキリスト教信者はそのことを知りません。イエスは心情において合格者であり、心情の指導者としての権威を持って現れたのです。


救い主とは何でしょうか?身体の救い主ではありません。イエスは骨の髄まで染み入るように愛おしく、会いたくてたまらず、永遠に共に生きたいと願われる心情の救い主です。心情に染み入る内容を持ち、その心情を掴んで神の悲しみを押し出し、歴史的な神の苦しみをこの人間世界から取り除くことができる心の基準、一途な心情をもってイエスは救い主となったのです。


このような内容をもう一度よく考えてみましょう。終わりの日は確実にやって来ます。その時、天はどのような基準で裁きを行うのでしょうか?はっきりと知ってください。それは揺るぎない事実です。信仰している人も、これから信じようとする人も、しっかりと理解する必要があります。


終わりの日に、神は喜びの内容で微笑みながら現れることはないでしょう。主も同じです。復活されたイエスを見て、マグダラのマリアが「主よ!」と叫んで抱きつこうとした時、「触れるな」と言われたのはなぜでしょうか?それは、悲しみを抱えるイエスの心情、苦しみを経験したイエスの心情、天倫の苦難と悲しみの道を通じて初めて、イエスを抱きしめることができるということを示しているのです。


私たちは、この事実を深く理解しなければなりません。イエスを知ることは、彼の苦しみと悲しみを知り、その心情を共有することなのです。


皆さんが自分自身で深い悲しみの涙を流し、苦しみの境地に入り、「父よ」と呼ぶことができるようになった時、父の姿を一度見上げてみてください。父の目は、6千年もの間、涙が止むことのなかった目です。父の耳は、6千年もの間、すべての敵の嘲笑と非難、侮蔑を絶え間なく受け続けた耳です。父の口は、6千年もの間、語りたいことも語れず、飢えた人類と共に飢えに苦しんだ口です。父の手は、血の涙と血の汗が染み込んだ手であることを私たちは知らなければなりません。父の足もまた、何百回、何千万回と死のゴルゴタの険しい山を越えてきた足です。父の身体には、傷つき、無念のうちに打たれた跡が残っています。


では、この父がなぜそのような苦しみを受けたのでしょうか?それは、哀れな人類のためでした。このことを思うとき、私たちは限りない感謝と恥じ入る気持ちを持たなければなりません。「私のような罪人は、何千万回死んでも父の悲しみを防ぐことができず、何千万回死んでも父の涙を拭うことはできません」という思いに深く染み入って、初めて「父よ」と呼ぶべきです。


皆さんはそのように父を呼んだことがありますか?もしないのであれば、悔い改め、悔い改めるべきです。父の苦しみを知り、その悲しみを共にする心を持たなければ、真の父子関係には至れません。


私たちは裁きの日を恐れの一日と信じ、その日を避けようとしています。しかし、イエスは「全世界の誰よりも私を愛しなさい。十字架を背負って私についてきなさい」と宣言しました。これが絶対的な第一の鉄則であり、聖書の中でも最も重要な内容であり、福音の核心中の核心です。歴史の悲しみを自分の悲しみとし、歴史の苦しみを自分の苦しみとして、歴史と共に生きたと言える存在でなければ、歴史と共に戦い抜いてきたイエスと、歴史と共に摂理を進めてこられた神の裁きの場に立つことはできません。


今日、多くの信者たちは、裁きの日に主が現れ、すべてを準備して栄光の世界で空中の婚宴を開き、自分をその宴に招いてくれると信じています。しかし、それは幼稚な空想です。もしそうならなかったら、彼らはどうするでしょうか?そのような人々は神を恨み、イエスが再び来ても反対することでしょう。


**私たちは父の前に置かれた歴史的な罪状の前で、傷つき、弄ばれた血統を受け継いだ子孫です。**したがって、何度弄ばれようとも、歴史と共に悲しみを背負ってこられた神の労苦と神の悲しみの前に、無限の感謝と畏敬の念を持たなければなりません。しかし、神の救済摂理という父の意志があるからこそ、「できるならば、もし可能ならば、どうか憐れんでください」と願うしかありません。


天国とは何でしょうか?
もしこのような心情を持たずして天国に行けるのであれば、誰でも天国に行けるでしょう。しかし、天国はそのような場所ではありません。神の心情に共鳴し、歴史の悲しみと苦しみを自分のものとする人だけが、天国に入る資格を持つのです。それは単なる安易な信仰や期待では達成されません。神の心情を知り、体験することが求められるのです。


裁きの場に立たなければならない今日の私たちは、まず神が無限の悲しみの中におられることを宣言しなければなりません。そして、神がこのような歴史の道を通ってこられたということを宣言する必要があります。


神の悲しみとイエスの悲しみとは何か?
それは、真実であり正しい立場におられながらも、偽りや偽装によって踏みにじられることです。これ以上の悲しみはありません。
イエスの苦しみとは何でしょうか?それは、愛する息子娘を探し求める道を遮られ、愛する花嫁を探し求める道を遮られ、踏みにじられることでした。これ以上の苦しみはありません。


息子娘を探し求める道、息子娘と出会う道は、ゴルゴタの丘を越えなければならない道でした。そのため、イエスの時代のゴルゴタが残されていると同時に、終わりの日には世界的なゴルゴタの道が残されているのです。


今日の信者たちは、天の栄光を担って再臨される主の栄光を見つめることを再臨の理想としています。しかし、復活されたイエスにただ会うだけを期待してはなりません。復活されたイエスが現れる前に、私たち自身が生きながら世界的なゴルゴタの峠を越えることを知らなければならないのです。


世界的なゴルゴタを越えるとはどういうことでしょうか?
それは、自分の心、血、肉、そして命そのものを懸けて、死ぬか生きるかの分岐点に立ちながら「父よ、私の願いではなく、父のご意志が成されますように」と祈ることです。この覚悟がなければ、終わりの日に耐え抜くことはできません。


聖書には、終わりの日に7年の大患難があると記されています。その試練の中で最後まで耐える者が救われるのです。それは単なる信仰の表明ではなく、試練と苦難を通して神の心情を深く理解し、共に歩む者に与えられる救いです。


主の花嫁として歓喜の主の園に参加できる者は、6千年の歴史の道程で苦しみに立ち向かい、勝利した勝利の王子であり、また人類を代表して悲しみの心情を担った悲しみの王子でなければならないことを理解しなければなりません。このような人物こそ、主が花嫁として迎えようとされているのです。


なぜ幸福の要素が否定されるのか?
神はまだ一度も喜びを経験されたことのない方です。神は、ご自身が創造された被造物においても、真の主人として振る舞うことができませんでした。さらに、アダムとエバという、一つの家庭を中心に祝福を与え、喜びを味わおうとされたその存在さえ、サタンに奪われてしまったのです。このため、天と地に嘆きが広がりました。


神の直接的な主管下にあるべきすべてのものがサタンの主管下に入り、息子娘はもちろん、万物までもが踏みにじられる状況をご覧になった神の悲しみを超える悲しみがどこにあるでしょうか?それでも神は、「悲しい」と言うことすらできる相手がいなかったため、その悲しみを胸に秘めながら、歴史と共に、再び悲しみを重ねてこられたのです。


皆さんはこの神の心情について考えたことがありますか?
神は、誰にも言えない悲しみを抱え、孤独に耐えながら、歴史を通じてその悲しみを繰り返し経験されてきたのです。このような神の心情を理解し、共有しようとする心構えを持つことが、真の信仰の基本であり、主の花嫁としてふさわしい道なのです。


統一信徒の皆さん、あなた方は確かに哀れな立場にあるかもしれません。
しかし、もしあなた方が、2千年間、あるいは6千年間、イエスや神が耳で聞かれたような声を聞くことができるなら、そのことに感謝すべきです。また、目の前の民族を見つめて涙を流し、世界の人類を見て「これはどうしたらよいのか」と胸を叩きながら涙を流せる立場にあるなら、そのことをありがたく思うべきです。


もし、食べるものがない、あるいは食べていても喉が詰まり、言いたいことを抑えざるを得ない立場にあるなら、その口は祝福された口です。また、手があり、戦う力があってもサタンと血みどろの戦いをできない無念さを感じているならば、それにも感謝すべきです。サタンの勢力が迫り来る中で、勇敢に足を踏み出す力があっても、その力を抑え、一日を待ちわびる悲しみの心情を抱えているならば、そのことにも感謝すべきです。


神は遠くにおられる方ではありません。
神は、遠いと感じる時ほど近くにおられ、近いと感じる時ほど遠くにおられます。歴史の道のりにおいても、神の前に近いと誇っていた人々からは遠く離れ、遠いと恐れ多く思う人々には近く寄り添ってこられました。


この神の逆説的なご臨在を知ることが大切です。
神は、自分を低くし、神の心情を深く理解しようとする者にこそ、近くにおられるのです。このような心構えで歩む信徒たちこそ、真の信仰者として成長していけるのです。


苦しみが増すからといって嘆かず、迫害に直面するからといって嘆かないでください。その代わりに、こう祈ることができるようになりましょう。


「父の心情に宿る悲しみを私に与えてください。父の心情に深く刻まれた絡み合う苦しみを私が背負わせてください。もしサタンの訴えやサタンによる踏みにじりがあるならば、その訴えをこの私一人に受けさせてください。そして、歴史的な悲しみを全て蕩減し、苦しみを全て清算できるようにしてください。」


このように父を呼び、涙に満ちた心情と涙に濡れた手で必死に祈る息子娘がいるならば、その者を父はしっかりと抱きしめてくださるでしょう。それは間違いありません。


私たちは栄光を求めているのではありません。
たとえ栄光があるとしても、それは父のものです。私たちのものは、苦しみと悲しみだけです。しかし、その苦しみと悲しみを命の要素として消化できる心を持つべきです。そして、神が「おお、我が息子よ、我が娘よ」と抱き寄せてくださったとしても、その目を見上げるのも恐れ多いと感じる心を持つならば、裁きの日、悲しみの歴史と苦しみの歴史を前にしたその宣言の日に、たとえ膝をつき、顔を上げることができなくても、天の手は必ずあなたの上に留まるでしょう。


真の信仰者は、喜びを求めるのではなく、神の悲しみと苦しみを自らのものとして受け入れる覚悟を持つ者です。その覚悟こそが、裁きの日に救いを受ける基準となるのです。


私たちは、悲しみの中で天国を切望し、苦しみの生活の中で天国を切望し、悲しい歴史の中で悲しむ主を迎えて慰め、苦しみの歴史の中で苦しむ主を迎えて慰める心を持たなければなりません。このように、悲しみを体験し、苦しみを受け入れる中でも、さらなる悲しみが加わったとしても、その場に神を迎え、神を慰めることのできる者がいるならば、どれほど栄光を捧げて慰めた者であっても、その者には及びません。これこそが私たちの目指すべき基準であり、統一信徒が進むべき道です。


統一信徒の歩むべき道
追い詰められ、蔑まれ、孤独で、果てしない悲しみの中にあっても、悲しむ神を迎え、その苦しみを抑え、その悲しみを抑えながらも、父を慰め、父の苦しみを再び背負おうとする者こそ、終わりの日の裁きの場に残る者です。


ここで必要とされるのは、多くの人数ではありません。数の多さではなく、神の悲しみと苦しみを感じ、断食しながらでも「父よ、私だけがこの状況にいるのではなく、世界中の人々が同じような苦しみの中にいます。私よりもさらに哀れな立場にいる人がどれほど多いことでしょうか」と言い、さらに人類の悲しみを自分の責任として引き受けようとする者が必要なのです。


イエスが歩まれた道はまさにそのような道でした。
イエスは、自分の苦しみだけでなく、世界中の人々の苦しみを自分のものとし、それを背負いながら神を慰めるためにその道を歩まれました。この道こそが、私たちが進むべき道です。栄光や喜びを求めるのではなく、悲しみの中で神と共に立ち、慰める心を持つことこそが、私たちの真の使命なのです。


皆さん、天は真の息子娘を探し求めてこられました。
もし、あなたが父の手を握りながら「その手は、かつて私が歩んだ道を思い起こさせる手だ」と感じ、父の姿を見て「かつての私の姿と似ている」と思い、さらに父の心情と焦燥感に触れ「それはかつて私が感じた心情と焦燥感に似ている」と思う立場で「父よ」と呼ぶことができるなら、その一言は歴史上のすべての不幸を取り除き、幸福の決定的な条件となることを、今日の私たち、クリスチャン、そして世界中の信徒たちは知るべきです。


今、ここにいる皆さんへ
ここに参加された皆さんが、どのような事情やどのような心情を持っていらっしゃるかは分かりません。しかし、今心に感じている何かがあるならば、それは偽りではありません。
もし、「そうだ、それが正しい。それが私の進むべき道だ」と感じ、それに基づいて一生を覚悟し、それを決意し、それと共に戦い、それと共に倒れる者がいるならば、その者こそ、来るべき裁きの日に神が抱きしめてくださる真の息子娘となるでしょう。それは間違いありません。


真の息子娘の条件
真の息子娘となるためには、父の心情を深く理解し、その苦しみを自分のものとして受け入れる覚悟が必要です。そして、その心情に基づいて生き、戦い、時に倒れることがあっても、その心を失わない者が、神の愛の対象となり得るのです。


この決意を持つ者が、最終的に裁きの日に神の心に触れ、天が求める息子娘として迎えられるのです。あなたが今感じている思いを大切にし、それを行動に移すことこそ、あなた自身を真の信仰者へと成長させる道となるのです。


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御言葉選集7(3)

2024年12月29日 17時35分10秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 3. 人間は真実を探し求める探検家 (1959年7月19日)


1959年7月19日(日)、旧本部教会にて。


ヨハネの福音書 10:1-18




1


<祈り>


許された御言葉を私たちが拝読いたしました。この地上に生きている数多くの人々は、死の場にありながらも、自分自身を誇り、宇宙の前で自慢することに忙しい現実を私たちは目にしております。


このような世の中で、果たして自分を誇ることができるでしょうか? 自分の価値を高く評価することができるでしょうか? 心情をたどり、黙々と考えを巡らせてみると、偽りの立場に置かれている自分自身であることを否定できなくなります。


父なる神様!今日、私たちの心は何を求め、何を目指して高めようとしているのでしょうか? いまこそ、自分の心が自分のものではなく、自分の体が自分のものではないことを知らなければならない時です。そして、自分自身を立てて誇ることのできない悲惨な境遇に置かれていることを認識しなければならない時が来ました。


私の心と体の価値に対する最終的な決定を私自身が下すことはできず、現れた現象の過程を経て目的地まで自分を導くことができない悲惨な存在であることを、この時間に感じられるようお導きください。


私たちに生命があるとするならば、それは私たち自身によるものではなく、もし何らかの理念が私たちの心を善の方向へ導いてくれるのだとしても、それもまた私たち自身のものではなく、何か他のものによるものであるという事実を感じられるこの時間とならせてください。


2


父なる神様、今日の私たちは、自分自身を立てて弁明することに急いでいた過去の姿を軽蔑できる心を見つけなければなりません。自分自身を表に出して高めようとしていた傲慢な心を無視し、踏みつけることができ、自我を征服できる勝利者こそが、天と地、世界、人類、社会、家庭、そして私自身が求めている姿であることを、この時間に理解させてください。


イエス様は「すべてを捨てて私について来なさい」とおっしゃいました。「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」と言われ、「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高められる」と教えられました。


この御言葉の内容を知るとき、堕落した先祖を持ち、堕落の歴史的因縁から逃れることができない今日の私たち一人ひとりが、捨てて捨ててまた捨てなければならない運命にあることが分かります。


それゆえ、今日の私たちの人生の道は悲惨なものであり、生活環境は複雑であり、私たちは善と悪を区別することができない混沌の中に生きています。このような地において、生命の道を切り開くために、天は努力されてきました。そして、人類の前に真実の人の姿、真実の理念、そして天地の真実の姿を紹介するために、多くの預言者たちがこの地に遣わされてきたことを知っています。


その中でも、万人のメシアとしてこの地に現れ、十字架の上で一片の藁のように命を捨てながらも、万人のために祝福を祈ることができたイエス・キリストの尊厳あるその姿と、そこから流れ出るその心情、そして深く刻まれたその理念を慕わなければならない時が来ました。


3


この時代において、自分を軽蔑しなければならないにもかかわらず、自分を高め、万物万象を軽んじ、自分を立てて天を侮辱したことをどうかお赦しください。父なる神様、心から懇願し、願い求めます。


私たちが真実の心、真実の善を目指して動こうとするならば、私たちは天と地に対して負債を負っている者であり、人類の歴史の道程において、言い表せないほどの深い傷を負った罪悪の種族であることを悟らせてください。いま私たちに必要なのは、父なる神様を探し求める心と、本来の自我を追い求める忠誠心、それだけです。それを私たちが持てるよう、どうかお許しください。


イエス様が歩まれた生涯の道が、悲惨な涙の道であったことを私たちは否定できません。また、過ぎ去った歴史の一ページ一ページが、血に染まった激しい戦いで織りなされていたことも、私たちは理解しています。そのために、私たちは自分を立てて歴史的な何かを解明することもできず、時代的に誇れる何かを持つこともできない、宇宙史的な脱落者の立場にあることをどうか悟らせてください。


だからこそ、真実の指導者、真実の命、そして真実の心情を持った指導者が必要であり、天が人間の前に送られたその方こそが救い主でありメシアであると、私たちは信じています。


しかしながら、私たちがそのメシアである方の前に進むためには、それにふさわしい節操と忠誠心、そして心情を持っているのか、この時間に自らを省みて探らせてください。


4


天はメシアを迎えるにあたり、人間が最高の情熱、最高の忠誠、そして最高の誠心を尽くすことを切に願っておられることを私たちは知っています。また、サタンと結びつかない最高の知性と燃える心情を求めておられることも理解しています。たとえ私たちがそのような位置に立つことができなくとも、その位置を慕い求める心を持ち、ひざまずいて贖罪の恵みを求める謙虚な幼子のような息子娘となれるようお導きください。父なる神様、心から懇願し、願い求めます。


父なる神様、許された御言葉を私たちはどのように受け取ればよいのでしょうか? 父なる神様、どうか私たちと共にいてください。私たちはこれまで多くの御言葉を聞き、多くの歩みを進め、さまざまな状況の中で動いてきましたが、いまだにあなたの前に捧げられるものを何一つ持たず、ただ空の手であなたの御前に立つ者たちです。父なる神様、どうか私たちを追い出さず、憐れみの目で見てください。私たちの心と体をすべて空にし、あなたのみが主観でき、あなたの恵みだけで満たされるこの時間となるよう、心からお願い申し上げます。


どうか、御言葉を伝える者の心と、それを受け取る者の心が一つとなり、その心情が一つに溶け合い、あなたの心情に通じ、直接あなたの恵みを受け取ることのできる時間となるようお導きください。このすべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。




<御言葉>
この時代は、皆さんもよく知っている通り、文明の時代であり、また、どのような思想、観念、あるいは主義であれ、何かに帰依しなければならない最終の時代です。このような時代を迎えていることを皆さんもよく理解していることでしょう。


では、この現実の中で生きている私たち自身はどうでしょうか? 自慢できる何かを明確に持っているわけでもなく、また、何かを立てて万人に勧めることのできる明確なものを持っているわけでもありません。今がそうであるなら、過去もそうであったでしょうし、今がそうであるなら、未来もそうなるのではないかと心配しなければならない皆さんであることを認識してください。


5


人間は堕落という名詞を残して以来、数え切れないほどの波乱に満ちた道を歩んできました。時代ごとに変化する複雑な歴史の過程を避けることができないまま、今日まで人間は導かれてきました。しかし、この歴史の過程を通じて、人々が解決しようとし、探し求めてきた「自分の体と心」、そして「自分が持つ理念や心情」において、「これこそが私が探し求めていたものだ」と確信できる唯一の基点を、いまだに見つけることができずに生き続けているのが現実です。私たちの多くの祖先も同じように生きてきました。そして、今日この地に生きる多くの人々も真実を探し求めていますが、その「真実」とは何かを明確に解明できずにさまよっています。


そのような唯一の基点を解決するために、私たちの祖先たちは血と涙にまみれた道を恐れず、死の峠を恐れず、追放され、追い詰められる哀れな立場にも怯まず、もがきながら歩んできました。しかし、彼らが目指した目的地、心の中で探し求めていた安息の地は、いまだに人類が住むこの地上に、また地上を治める天の摂理のもとにも現れていないという事実を否定することはできません。


したがって、今日皆さんにお伝えしようとするテーマは、「人間は真実を探し求める探検家」です。この内容についてお話しします。


私たちに心情があるとすれば、過去においても、現在においても、未来においても、その心情が切実に願うのは、「真実の主体となる存在」が解明されることです。これを宗教という言葉を借りて言うなら、「神がいらっしゃる」ということです。この確信があれば、私たちはその神を迎え入れ、自分の体、自分の生活、自分の生命、そして自分の心情に関連するすべてを解明することができるようになります。これが人間、特に宗教家たちが望む最高の目標であると言えます。


したがって、たとえ命を落とすことになっても、「真実」を考えずにはいられません。また、永遠の命を探し求める際にも、「真実」に帰依しなければならないという事実は否定しようがありません。このため、過去の歴史を生きた人々もこの目的に向かって動き、現在の時代を生きる人々もこの目的に向かって動いています。そして未来の人々も、この目的を達成するために動くことは間違いありません。


6


もし神が存在するとすれば、神は人間が真実の主人公と向き合い、その主人公と共に喜びの歌を歌い、共に楽しみながら生き、共に調和しながら心情の中で生きることを望まれるでしょう。そのような日が訪れれば、同じ心、同じ心情、同じ生命の動きを共有する存在や実体に対して「私は望まない」と否定的な立場に立つ人は一人もいないでしょう。


古今東西を問わず、民族、主義、思想の違いを超えて、もし誰かが「真」に帰依し、その「真」と共に生き、その「真」と共に行動し、その「真」と共に死の峠を乗り越えることができる自分を持っているとするならば、その人こそ人類史が求めてきた「真」の実体であり、時代が望む「真」の証拠的実体であり、未来が望む「真」の根本的実体であると考えざるを得ません。


その「真なる実体」を求めて、人類は長い間さまよい続けてきました。


今日、地上には約27億の人類が生きています。しかし、その「真の実体」を見つけ、それと共に生きた人、それと共に戦った人、それと共に楽しんだ人がいるのかと問われれば、いるようでいないという曖昧な答えしか出てきません。どのような哲学的論理を探してみても、どのような宗教の経典を調べてみても、明確な答えを得ることは難しいのです。自分の体、心、心情、そしてあらゆる理念を総動員しても、自分を新たに立ち上がらせることのできる「真」を見つけ、それと一体化したと自認できる境地には到達できません。


では、これらはすべて空論なのか、それとも妄想なのか? この問題をどのように解決すればよいのか? これこそが、今日の人類が解明しなければならない最終的な課題なのです。解明されるべき「真」と、解明されるべき「私自身」との関係は、「彼が私であり、私が彼である」と言える立場でなければなりません。私たちが求める「真」が天であるならば、その天は私と一体化し、私は天と一体化する必要があります。そして、もしイエスが「真」であるならば、イエスと私、私とイエスが一体化することができなければなりません。


7


そこには、私たちの感情的なすべて、認識的なすべてまでもが一緒に動くことが求められます。「真の感触」とでもいうべきもの、あるいは触感とでもいうべきものが、私たちの個体から創造された存在世界、すなわち万物だけでなく、全世界の人間にまで感じられ、一緒に動き、一緒に感触することで、宇宙全体と共に歌うことができる存在、そうした存在こそが天国で生きることのできる人間の姿ではないでしょうか。また、それこそが天が求めている真の息子娘の姿ではないでしょうかと考えざるを得ません。


堕落の恨みを持つ人類、堕落した血統の因縁から抜け出せない私たち、堕落した先祖の後継者である私自身、私たち、そして人類全体を認める立場から見ると、堕落とは何でしょうか。それは「堕ちた」ことです。心の中で望む理念の要素と対立する境地にとどまっていること、それが堕落です。


嫌なことを避け、良いことを望み、悲しいことを避け、喜びを求め、困難を避けて幸福を望む人間が、堕落したがために悲しみや苦しみ、困難を避けることができなくなりました。歴史の中で絡み合い、絡み合い、複雑に絡まり、今日の私にまでその束縛が及んでいます。


このような恨めしい立場にある私たち自身に、もし「真実の心に従って動くもう一人の私」が存在するとするならば、その姿を呼び覚まし、自分自身を冷静に批判するべき時が来たことを知らなければなりません。


そのため、歴史を通じて登場した多くの預言者や偉大な先人たちは、歴史そのものとその実体について、そして未来の歴史について訴え続けてきました。そしてこう勧めてきたのです。「心を広く持ちなさい。心の正しい目的である善を目指しなさい。本性の心に応じることのできる体を持ち、そのような行動をしなさい」と。


8


またイエスは、「天国はあなたの心の中にある」と言いました。そして、「その心を通じて天の心情に触れなさい。その心情を通じることのできる人格を備えなさい。そうすれば天国の中心を代行する新郎がやって来るだろう」と語りました。しかし、今日の私たちはここに問題があることを認識しなければなりません。


この問題に直面したとき、明確な良心の基準を持ち、自分の体を主観できる一人の勇者がいなかったこと、天の法則と天の情に応じて、自分自身はもちろん、人間のすべての心情を主観できる勇者がいなかったことを、私たちは知っています。


だからこそイエスは、「天国はあなたの心の中にある」と言いました。そして天国に行くためには、「まず私イエスを愛しなさい」と言いました。その次に、「あなたの十字架を背負って私について来なさい」と言いました。その後、「持っているものをすべて捨てなさい」とも言いました。また、「生きようとする者は死に、死のうとする者は生きる」「持とうとする者は失い、失おうとする者は得る」「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高くされる」と語りました。


このように逆説的な内容を語られた救い主は、どのような目的でこれらの言葉を述べられたのでしょうか。この問いこそが重要な問題なのです。


皆さんは心と体を持っています。しかし、自分の心が本来の心としての位置におらず、体が本来の体としての位置に立っておらず、心情が本来の心情としての位置に立っていないことは、嘆かわしいことです。


9


私たちの祖先たちは、この地上で良心の基準を立て、この体、つまり肉体を征服せよと教えました。しかし、人類の歴史が6千年もの長い歳月を経ても、いまだに誰一人として心を中心に体を完全に征服したという勝利の基準を立てた者はいません。この恨めしい状況を誰が責任を取るのでしょうか? 天の深い心情を通じて、心が体を支配して前進できる確固たる中心を持てない状況をどうするべきでしょうか? 天の心情を持つ神がいるとするならば、どのようにして人間の心を征服し、永遠に神の心情の前に置くことができるのか? これが解決すべき重要な問題であることは間違いありません。


イエスは「私は新郎であり、あなた方は花嫁である」と言いました。花嫁となるための心情の基準は、古い慣習に染まった地上の良心の基準ではありません。また、時代の変遷によって変わる良心の基準でもありません。それは、地上の人倫道徳と調和し、それを証明するような良心の基準でもありません。そして、地上の人々が理解しているような花嫁の姿を意味するものでもありません。


新郎と呼ばれるこの一人の英雄の前に花嫁として立つことのできる人は、どのような姿をしているのでしょうか? 新郎の心情を慕い、それを深く体験した者こそが、永遠の良心の基準を立てることができ、永遠の体の基準を立てるための方向性を備えることができるのです。そうでなければ、イエスは人類の真の新郎の位置に立つことができないのではないかと、私たちは考えざるを得ません。


歴史の流れの中で、人類文化は発展してきました。その発展した文化が20世紀のこの文化世界を築き上げました。しかし、この文化は私たちの体と心の問題、心情の問題を解決する内容をまったく持ち合わせていません。


内的にも外的にも複雑な環境や複雑な組織形態が現れましたが、それらが私たちの心に完全に応じ、心情を通じて、一つのものに全体が応え、全体がそこに調和し、天と地が永遠に喜びを享受できる心の基準にはなり得ませんでした。また、天と地が完全に溶け合う心情の基準ともなり得なかったことを、私たちはよく知っています。


10


今日のこの時代は、心が志向する方向や心情が求めている方向とは全く異なる方向に流れています。このような状況に置かれた私たち一人ひとりは、外面的には終点に達し、内面的には言葉にできないほどの空虚さを抱えています。では、自分を立てるための中心はどこにあるのでしょうか? この中心を探して、今日の人類はもがき苦しまずにはいられないのです。


人間は、心と理念が通じ合う心情を必要としています。そのため、心を支配できる心情、外面的な生活を支配できる肉体、そして実際の生活を調整できる基準を立てない限り、人類はどの時代でも苦悩する状況を免れることはできないでしょう。


もし神が存在するならば、神が目指す世界とはどのような世界でしょうか? それは現在のような文化の世界でもなく、文明の世界でもありません。文明を正しい方向へ導くことができる心の基準、心情の基準を立てることこそ、天が望む中心的な目的であり、私たちの祖先が後世の人々のために立てようとした基準の世界であることを理解しなければなりません。


そのことを知っておられたイエスは、環境が複雑であるほど、その環境に飛び込んで整理しようとはせず、そのような環境を避けていかれました。しかし、その逃れる道においても、すべてが喜びに満ちたものではありませんでした。イエスが夜中に深い森の中や山奥に分け入り、苦難の生活を送られたことを私たちは知っています。


イエス様がこの地上に来られたのは、目に見える世界の何かを探し求めて戦うためではなく、目に見えない世界の善きものを目に見える世界に移すために戦われた勇者であったことを、その時代の人々は知りませんでした。


11


イエス様が祈られた場所は、世の中の誰も探し求めなかった場所でした。また、イエス様は万人が考えもしない瞬間に祈り、訴えられました。イエス様が歩まれた道は、全人類が共通して解決しなければならない道であり、天とサタン、善と悪が接触し、ぶつかり合う境界地帯を探し求めて進まれる道であったことを、私たちは知らなければなりません。


ゲッセマネの園で血のような汗を流しながら祈られたその場所は、安らかな場所ではありませんでした。それは、神とサタンが接触する境界地帯であり、そこで祈られる瞬間は、人間にとって苦しみ、悲しみ、困難、そして死があるとしても、その苦しみ、悲しみ、困難、死の境界線を超えるために、その境地を探し求めて入っていく瞬間だったのです。このことを私たちは知らなければなりません。


そのような境地を探し求めて進まれるイエス様には、一つの揺るぎない心情がありました。それによって、天上や地上のいかなるものがイエス様を揺さぶろうとしても、「私の心に通じているこの心情だけは侵されない」という基準が確立されていたのです。


イエス様がサタンと摂理的な条件を中心として戦われる過程で、サタンを打ち破ることができたのは、イエス様が特別であったからではありません。それは、イエス様が天上に向けた深く切実な心情を持っていたからです。天上で繰り広げられるサタンとの戦いにおいても、その切実な心情の前にサタンは手を挙げて降伏せざるを得なかったのです。このようなイエス様だったからこそ、全人類が憧れる心情の主人公、新郎の資格を持つ方となったのです。


私たちは、イエス様が地上の何かを探し求めるために来られたのではないということを知っています。この地上は堕落した世界です。いずれにせよ一つの峠を越えなければならない世界であり、いつかは解決されなければならない世界です。したがって、解決されるべき時代や世界そのものが問題なのではなく、それを解決できるその世界、その内容が問題なのです。解決済みの心情ではなく、解決し得る心情が重要なのです。このことを理解し、その道を切り開くために来られた方がイエス様です。


12


解決されるべき理念の世界の中で、人間を代表して孤独な探検の勇者として現れたのがイエス様であったことを、私たちは知るべきです。


イエス様が、聖書で語り尽くせなかったこと、その深い心情の中に根を下ろし、ご自身を万人の救い主と呼ぶことができる、天と地を巻き込み、サタンとの戦いの道程で解決できる何かを持っていなければ、サタンの世界で勝利の中心を築くことも、また天がサタンの世界において勝利の目的を成すこともできなかったでしょう。


そのため、イエス様は新しい世界を求めて進まれた冒険者であり、探検者であったことを私たちは知るべきです。すべてを捨て去り、世のいかなる事情や理念よりも強い、神の愛と人間の愛の世界を探し求め、その冒険の場に身を投じた方、それがイエス様だったのです。


世には、誰も探し求めたことのない名勝地を目指して冒険に出る人々が数多くいますが、それは誰にでもできることです。しかし、イエス様が冒険の目標として掲げられた最高の基準は何だったのでしょうか? それは「心情の問題」です。心情の問題なのです。


キリスト教が今日の世界的な動きに貢献している理由は、死の峠を越えた殉教の歴史的背景を持っているからです。今日まで「真」が存在するならば、命を懸けて切実な心情でそれを掴み、前進する人々が残っているという事実があるからです。そのため、天はこれらの人々を導き、心情的な目的の世界を築こうとしているのです。こうした背景があったからこそ、神はイエスをこの地に遣わされたのです。しかし、その当時の人々が、ゴルゴダの丘で苦しみのうちに亡くなられたイエスが世界を導く立場にあるとは、夢にも思わなかったでしょう。夢にも考えることができませんでした。


13


私たちは、探し求めなければならない人間です。私たちには、今日も明日も、一生を捧げ、どのような困難や冒険の罠が待ち受けていても、自らの身を投じてでも歩むべき道が残されています。


神とサタンの戦いが歴史を通じて連続していることを、皆さんは原理を通して学んで知っているでしょう。この戦いを解決し、「神よ!」と呼びかける本然の息子はどこにいるのでしょうか? 心情の中で切実に「私の父よ!」と呼びかけるその息子に対して、神が「私の息子よ!」と言えるその世界を、人間はまだ見たこともなければ、探し求めたこともありません。


イエス様はこの地に現れて「私は独り子である」と語られ、聖書にはイエス様について「独り子の栄光」と記されています。また、イエス様は神を「私の父」と呼び、「あなたがたは私を新郎として迎えなさい」と言われました。そして「あなたがたは私の花嫁」「私の兄弟」とも語られました。これほどありがたいことはありません。


天上から人間世界を摂理されている神がいるとすれば、そして「真」の歴史だけを導かれる神がいるとすれば、その神の目的は何でしょうか?


それは聖書ではありません。この聖書は、最終的に救いの摂理が完成されれば、堕落した世界とともに消えていくものです。


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聖書を信じること自体が問題ではありません。それを超えて、神への燃えるような心情が湧き上がり、6千年もの間苦労されてきた父なる神を知り、今この時代において苦労されている神を知り、そしてこれからも苦労されるであろう神を知り、その神を呼び求める一人の息子がいるなら、それが何よりも尊いことを理解すべきです。そのような一人の娘がいるなら、それが何よりも尊いことを知るべきです。神がすべての人類を見渡し、すべてを喜ぶことはできなくとも、喜びうる一つの象徴があるとすれば、それはイエス以外にはないでしょう。そうではありませんか?


私たちは「真」を探しています。「真」を探し求める私、「真」を探し求める私たち、「真」を探し求める家庭、「真」を探し求める社会、そして世界です。では、この宇宙が究極的に求めている「真」の主体は誰でしょうか? それは神です。では、神が立てようとされる「真」の内容とは何でしょうか? それは、人間が持つことのできなかった「真の親」、人間が持つことのできなかった「真の夫婦」、人間が持つことのできなかった「真の子供」、人間が持つことのできなかった「真の兄弟」、そして「真の民族」、「真の国家」、「真の世界」、「真の天と地」、そして「真の宇宙」こそが、神が求めておられる「真」の内容です。そうではないでしょうか?


神が地上において摂理を進められる中で、何を望んでおられるのでしょうか? それは、真の万物となることであり、全世界の人類が真の民となることです。その先には、その民が真の忠臣となることを、また真の夫婦と真の親となることを神は望まれるでしょう。


真の万物、真の民、真の忠臣、真の孝子孝女、真の夫婦、真の親が現れた後に初めて、神は地上に実体として現れたいと望まれるのです。


もし「真」の実体が神であるとするならば、神は必ず「真」を求めている人間といつかは関係を結びたいと望まれるでしょう。そしてすべての存在が頭を下げ、「その通りです。永遠に私の主人になってください」と言えることを願われているのです。体でも心でも、そして心情でも願うその実体に出会う日こそ、「善」を求め、「真」を求めてさまよってきた人類の歴史が終結する日であり、「真」を探し求め、「真」を立てるために摂理を進めてこられた神の願いが成就する日なのです。


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天はそのような日、そのような場所、そのような時を探し求めて進んでいます。そして、罪に満ちたこの地上、罪に満ちたこの世界に生きている私、罪に満ちた地上に住む家庭、社会、国家、これらすべてもまた、そのような一日、一つの場所を探し求めて歩んでいます。


もしイエス様が、神の願いと人類の願いを解決する使命を持って来られたのだとするならば、イエス様の心の奥深くにある宇宙的な「善」の理念を明らかにしてほしいと願う弟子が一人もいなかったことは、非常に悔しいことです。「わたしが地上のことを話しても信じないなら、まして天のことを話してどうして信じられるだろうか」(ヨハネ3:12)と嘆かれたイエス様でした。


「真」の言葉を携えてきた「真」の実体として、「真」の行動をすべきだったイエス様。しかし、その時代において「真」の実体として認められず、「真」の言葉を語り尽くすことも、「真」の行動を成し遂げることもできずに去られました。そのため、今日私たちに必要なのは、聖書に記されているイエス様だけではありません。


「真の個人とはこうである」「真の家庭とはこうである」「真の社会、真の国家、神と出会う世界とはこうである」と明確に説明し、私たちをその方向に導いてくれる実体が必要なのです。人類が切に求めてきた「真」を解き明かすことこそが、救い主としての使命でした。


しかし、その使命の内容を誰にも語ることなく、十字架の道を越えていかれたイエス様を知る人がいたでしょうか? 誰一人いませんでした。そのため、天国に行った人はいないのです。イエスを信じた人々は皆、楽園にとどまっています。楽園とは天国への待合室です。


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このような観点から考えると、「真」を求めて歩んできた道は6千年もの間続いてきましたが、いまだ解決されていません。6千年を費やしても終わらなかったのならば、今日私たちが感じ、悟った心情を持って、明日から再び始める生活の道程においても、終わらないかもしれません。終わる可能性がないならば、悔しい思いを抱きつつ、父なる神の御心を胸に抱き、天に向かって訴える心を持つべきです。


そのような思いを持つことさえできないのに、どうして天の民になることができるでしょうか? どうして天の忠臣や烈女になれるでしょうか? どうして天の孝子や孝女になれるでしょうか?


私たちは、神の摂理を復帰摂理と呼んでいます。では、復帰摂理とは何でしょうか? それは、失われたものを回復する運動です。失われたものを再び探し求める行動です。壊れてしまった人間を、御言葉を通して再創造する働きなのです。


私たちは再創造されなければならない人間です。体を通じる御言葉も、心を通じる御言葉も、心情と共に永遠に喜びを分かち合える御言葉も、すべて失ってしまった堕落した人間だからです。そのため、私たちは御言葉、すなわち真理を探し求めなければなりません。真理とは御言葉であり、真理は組織を導く原則であり、天倫の根本でもあります。これまで世界はこの真理を探し求めてきました。


しかし、いまだに真の御言葉は現れていません。真の御言葉がないので、真の生命の実体も存在しません。真の生命の実体がないため、真の愛の実体も存在しません。そして、真の愛の実体がないので、真の宇宙、真の天と地も現れていないのです。だからこそ、神は私たちを叱り、裁かれます。「この者たちは使い物にならない」とおっしゃるのです。


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神はこの世を征服しておられます。まずは個人を征服するために尽力され、次に家庭を征服し、民族を征服し、国家を征服し、さらには世界を征服するために、今も戦っておられます。見てください。ノアは自分自身を征服し、家庭を征服するために、120年間戦い続けました。簡単なことではなかったはずです。そうでしょう?


ノアは、神から「120年後にこの地上を裁く」と命じられたその日から、120年間毎日戦い続けました。一年や数年の話ではありません。神は大いなる志を抱く者に対して、一度だけ約束されます。一度です。そして、その命令を受けた者は、それに対して変わらぬ忠誠の心情を持ち続け、家庭の迫害、社会の迫害、さらには個人の肉体を通じて湧き上がる欲望、すなわち食欲や睡眠欲などを征服できる勝利者でなければなりません。そうでなければ、神はその者を認めません。


神は歴史の道程を通じて、個人を征服し、家庭を征服し、社会、国家、そして世界を征服してこられました。征服とは何でしょうか? それは、「打ち砕く」ことです。だからこそ、歴史が戦争の歴史であることは避けられないのです。


今日のこの時代は、6千年の歴史の終末期です。この時、神はすべてを天の前に立たせ、天に帰依させ、全体を征服できる権限を持つ勝利者を求めておられるのです。


過去にこの地を歩んだ私たちの祖先たちは、自らを征服するための冒険に挑み、どのような困難な道であれ、どのような開拓者の道であれ、躊躇せずに進んできました。


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しかし、今日、27億の人類が生きるこの20世紀の地上は、かつての祖先たちが生きた環境とは異なります。当時は、個人を対象とした摂理の時代、家庭を対象とした摂理の時代、民族を対象とした摂理の時代、国家を対象とした摂理の時代でした。しかし、今は世界を超え、宇宙を対象とした摂理の時代です。したがって、今日私たちがどのような冒険をするにしても、6千年の歴史を背負い、「私以上に冒険する者はいない」と言える覚悟を持たなければなりません。それが求められている時代なのです。


このような時代にあって、自分を抱えて泣いている者は天の家庭を築くことができません。家庭を抱えて泣く者は天の社会を築くことができず、社会を抱えて泣く者は天の国家を築くことができません。国家を抱えて泣く者は天の世界を築くことができず、世界を抱えて泣く者は天の宇宙を築くことができません。そのため、私は個人であっても、世界を引き寄せることができる心情を持たなければなりません。


歴史的な認定の場を明らかにする勝利的な実体を備えようと宣言し、それを信念として実行することは、まさに冒険です。冒険なのです。皆さんがもう少し神秘的な境地に入ると、その世界は冒険に満ちています。個人を超え、さらに広い次元へ進むためには、必ず冒険をしなければなりません。命を賭け、「生きるか死ぬか」という一線を越えた戦いをしなければならないのです。


見てください。ノアは家庭の基準を立てるために、自らの体を打ち続けました。体を征服するために、120年もの間、打ち続けたのです。彼は非難と嘲笑、そしてあらゆる理不尽な状況に直面しました。それは簡単なことではなかったでしょう。


そのようなとき、ノアは自分に言い聞かせました。「耐えよう。天が約束し、私を導いているのだ。天が立てた心情の基準に対して、私は変わることなどできない」と。そして彼は自らの体を打ち、すべての困難を征服していきました。


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もしノアの家庭が、世俗的なあらゆる条件を振り払い、民族の救いを目指して進んでいれば、その時、神の御心は成し遂げられたでしょう。ノアの家庭が家庭的な困難を振り払い、ノアの心情の基準を持って民族を目指して進んでいれば、その民族を通して神の御心が実現していたことでしょう。


しかし、ノアの家庭は家庭的な目的を達成できず、崩れてしまいました。それでも、神の御心を成し遂げるための摂理は進み続けました。個人が崩れたからといって、その個人を永遠に抱え込むわけにはいかないのです。家庭が崩れたからといって、摂理が止まるわけではありません。個人は崩れても、天の摂理は動き続けるのです。


このようにして、個人が崩れた後も、家庭の時代が来るため、神は家庭を立てる摂理を進めざるを得ませんでした。そして、その家庭が崩れても、摂理の時代は遅れることなく進み続けました。摂理は社会を復帰するために動き、さらには環境を広げ、民族的な範囲へと拡大していきました。


ノア個人とその家庭を失った神は、400年後に再びアブラハムを立てて摂理を進めました。アブラハムを立てることで、ノアが直面した以上の環境条件を整えなければなりませんでした。そのため、割礼を通して異邦人までも摂理に取り込む働きをされたのです。


しかし、アブラハムをも失った神は、さらに400年後にモーセを立てて摂理を進めました。民族的な時代が到来し、イスラエル民族をエジプトに追いやり、鍛えられるように導きました。鍛えられること、すなわち「打たれること」は、ひとつにまとまるための作戦だったのです。一つにするための計画だったのです。


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神はイスラエル民族に向けて言われました。「あなたたちが住んでいる地は敵の地であり、あなたたちが仕えるファラオの宮殿は敵の宮殿であり、エジプト人は永遠の敵だ」と。そして、イスラエル民族が生きるべき場所は、「その通りです」と全員が賛同できる一つの場所でなければなりませんでした。神はその場所へイスラエル民族を導き、その時期が民族的な摂理を進めるべき時代であったため、モーセを民族を代表する冒険の先駆者として立てられました。


この冒険の先駆者であるモーセは、未知のカナンの地を目指す探検者の中で最高の探検者であり、最高の偵察者でした。探検者の中でも最も勇敢な冒険の英雄として現れたのがモーセだったのです。


そのように現れたモーセは、ファラオの宮廷の妨害を振り切り、イスラエル民族を率いてカナンの地を目指しました。しかし、その道は平坦な道ではありませんでした。それは未知の旅路でした。


それでもモーセは、「どんな困難が立ちはだかろうとも、『立ちはだかるなら立ちはだかれ。神が先祖の時代から約束された地、カナンを見つけるためのこの心情が変わることはない』」という鉄のような心情を持っていました。


彼はファラオの地で生活していながらも、カナンの地での幸せを歌うことのできる心情を持っていました。そして、その約束が成就する日まで、百折不撓の心情を抱きながら前進の道を切り開いていきました。


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こうしてモーセは、60万の民を率いてカナンに向けて出発しましたが、40年間の荒野の旅路の中でその民のすべてを失ってしまいました。もしイスラエル民族がモーセと同じように冒険をする心を持っていたなら、滅びることはなかったでしょう。約束の地を求める切実な心情が、日常の感情や認識を超えて強かったならば、彼らは荒野で倒れることはなかったでしょう。しかし、彼らは「お腹が空いた」「私たちは死んでしまう」と嘆き叫びました。そのため、彼らはカナンの地を見ることなく、荒野で命を落としました。


歴史上のどの偉人や先駆者も、世の楽しみや満足を追い求めたのではありません。彼らはより高い理念、約束された一つの場所を目指し、すべての困難を克服して進んでいく探検者のような気質を持った人々でした。


モーセもまた同じでした。イスラエル民族を率いて前進している中で、紅海の障壁やアマレク人の攻撃が待ち受けていました。40年間の放浪生活の中で、ファラオの束縛から解放された壮年の者たちは、すべて途中で倒れてしまいました。


モーセがカナンの地を探るために、12部族の代表として12人を派遣した際、その中の10人は戻ってきて「私たちは彼らには到底敵わない」と報告しました。しかし、ヨシュアとカレブだけは違いました。ヨシュアとカレブはその時代に特別に優秀な人々ではありませんでした。むしろ、今の皆さんの方が賢いでしょう。彼らは頑固で、死ぬか生きるかも分からない冒険者としての気質が旺盛な人々だったのです。


ヨシュアとカレブはこう言いました。「私たちをここまで導いてくださった神は生きておられる。ファラオの魔術を打ち破った神は生きておられる。私たちの行く手を遮った紅海を分けて渡らせてくださった神は生きておられる。荒野で飢えと苦しみに襲われたとき、うずらとマナを降らせて養い守ってくださった神は生きておられる」と。そして、反旗を翻した民の前に堂々と立ちはだかり、対峙しました。この行動こそが、復帰の道を探し求めていたイスラエル民族に前進の道を切り開くきっかけを与えたのです。


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しかし、それだけではありません。これまでの歴史の道程もまた、このような試練の連続でした。そして、民族の時代を経たイスラエルには、国家の時代が訪れました。カナンの地に入った時、すでに国家的な時代が到来しており、国家を懸けて戦わなければなりませんでした。その時、神の心情はどれほど複雑であったことでしょうか。国家の形を整えなければならず、家庭の形も整えなければならず、個人の形も整えなければなりませんでした。しかし、国家の形が整えられても、実質的な内容においては、神が望む完全な勝利の基盤とはなりませんでした。このような複雑な背景を抱えて歴史を進めてこられた神の心情を、私たちは理解しなければなりません。


神はもがき続けてこられました。個人を探し求めても失い、家庭を探し求めても失い、祝福されたユダ国家も、イスラエル民族もすべて失われました。


これを受け継ぎ、世界的な敗北の王子のように現れたイエスは、世界的な復帰の恨みを背負う代表者でした。そのため、彼が現れた場所はイスラエルの地であり、彼が活動した範囲はガリラヤ湖のほとりやエルサレムの周辺に限られていましたが、彼の言動は神の御心、歴史、そして世界を代弁するものでした。


そのような道を苦しみの中で歩まれたイエスの死後、2000年の歴史が経過しました。そして今日、地上において勝利的な中心を築き、イスラエル国家を回復しなければなりません。この神の御心に基づく世界的な基準を達成するために進められてきたのが、イエス以後の2000年の歴史、すなわち聖霊の2000年の歴史であることを理解すべきです。


今日のこの時代は「終末」です。「終末」とは、神が望まれる個人を完成しなければならない時代であり、家庭を完成しなければならない時代、民族を完成しなければならない時代、国家を完成しなければならない時代、世界を完成しなければならない時代、さらには宇宙を完成しなければならない時代です。このような壮大な事業を進めてこられた神の心情を、今日の人類は知らずにいます。


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神が6千年もの間、苦難の道を歩まれ、歴史の終末時代に至るまで人類を一つの理念の中に導き、その全体を支配できる形式を整えられました。しかし、実質的な内容において、人類は神が介入できない立場にあります。この状況をどうするべきでしょうか?


私がこの時代に向けて叫びたいのは次のことです。歴史を通じて神が探しておられる個人はどこにいるのでしょうか? 神が探し求めておられるノアの家庭に代わる家庭はどこにあるのでしょうか? 神が抱きしめ、愛された民、エジプトで苦しみを受けたその民に代わる民はどこにいるのでしょうか? 地上に「万王の王」として来られた独り子の懐に抱かれ、愛されるはずだったその民はどこに行ったのでしょうか? 生きているうちに、手を取り合い、心を交わし、心情を分かち合いながら歌うことのできるその一つの基準が失われてしまったこと、これ以上に悲しいことはないでしょう。


神は探し続けられます。「真」の神であり、「真」の内容を持つ神であるならば、その神は何を探されるでしょうか? 神は「真の実体」「真の家庭」「真の社会」「真の国家」「真の世界」を探されるでしょう。そして、「真の主権」を通じて、天と地が一つの心情で動くことのできるその世界を探されるでしょう。そうではないでしょうか?


神が摂理を展開されている以上、いずれにせよ個人から始まり、家庭、民族、世界全体、すなわちこれまで人類が築いてきた民族的血統や国家的伝統、主義思想を断ち切り、一つの理念、一つの心情の世界を成し遂げられるのです。この視点から改めて考えると、神が探し求める世界とはどのような世界でしょうか? それは、「真の世界」、そして「真の親」がいる世界です。


人間は堕落によって「堕落した血統の親」を持つようになりましたが、神が永遠に愛することのできる本然の「真の親」を持つことはできませんでした。


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そのため、どれだけ自分を誇り、声高に語ったとしても、私たちは堕落した親の種族であり、「偽り」という烙印を押された種族に過ぎません。そこには誇るべきものは何もありません。


それでは、神が「真の親」であると祝福され、創造物がその親を称賛するような本然の親はどこに行ったのでしょうか? その親は歴史の過程で消えたのではなく、歴史の始まりの時点で失われてしまったのです。この恨みを誰が解いてくれるのでしょうか? この問いに答えることは容易ではありません。


本然の親とはどのような存在でしょうか? 永遠に存在される神と共に生き、「父よ」と呼びかけると、「そうだ、我が子よ」と応えることのできる存在です。しかし、神を父として迎え、子として共に生きることのできるその「真の親」が失われてしまいました。したがって、人類は「真の親」を探さなければなりません。


私たちが生きるこの地は、私たちが理想としてきた地ではありません。そして、私たちが生きるこの環境には、神の理念と結びつくものは何も存在しないのです。


統一教会においても重要なのは名前ではなく、私たち自身が「統一の心情」を持つ者になることです。


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看板や名称が問題ではなく、その中身が問題であり、さらに中身だけでなく、実際の行動と事実そのものが重要です。もし皆さんに「真」を求める良心の動きがあるなら、その「真」に訴えかけるスローガンをこうした観点で掲げるべきです。そして、その視点から神が何を望んでおられるのかを深く考える必要があります。


神が望むのは、「真の親」「真の夫婦」「真の子供」「真の忠臣」「真の民」「真の万物」「真の主権」「真の宇宙」です。


これらすべてが、神の御心に従い、神が動けば動き、神が静止すれば静止する、そのような日が訪れることでしょう。そして、そのすべてが一度に清算され、調和する日こそ、堕落世界の終焉の日です。


皆さんは再臨の日を待ち望んでいると思いますが、それを天変地異や大きな劇的変化が起こり、自分たちが空中に引き上げられるといったものだと思っていますか? そんな妄想や非現実的な考えは捨てるべきです。私自身もかつてはそのように考えていたことがありましたが、それは誤解でした。そのような考えを持つ人々とは議論し、真実を伝えなければなりません。


再臨とは、絡み合った複雑な歴史の因縁を解き、悲しみの歴史を清算し、個人から家庭、社会、民族、国家、そして世界が一つに通じる時代です。これまで縦の関係で結ばれてきたものを、横の関係で結び直す時代です。つまり、本然の個人が本然の家庭を築き、本然の社会、本然の国家、本然の世界を形成できる時代なのです。本然の世界で生きる「私」、その「私」を探し求めることこそ、人類が「真」を求め続けてきた究極の目標なのです。


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その「私」とは、目を開けば神と出会い、真の親と出会い、真の子供、真の民、真の忠臣と出会うことができる存在です。その「私」の前には、真の天と地、すなわち「新しい天と新しい地(新天新地)」が広がるでしょう。このような神の計画を、一つの特定の日を契機として、一斉に完遂しようとしているのが、神の摂理の核心であることを理解しなければなりません。


今日の主義や思想の外形は一見立派に見えますが、実際には中身がありません。人類は6千年という長い歳月をかけて「真」を探し求めてきました。しかし、真の個人として戦った人々は過ぎ去り、真の家庭、真の民族、真の国家、真の主義もすべて過ぎ去ってしまいました。すべてが過ぎ去った今、私たちはそれらを再び受け入れる運命にあります。


では、私たちがそれらを再び受け入れるべき今の時代とはどのような時代でしょうか?


それは、個人と家庭が通じ、家庭と社会が通じ、社会と国家が通じ、国家と世界が通じ、そして天と地が通じる時代です。ただ名前だけの神ではなく、神に向かって「父よ!」と呼ぶことができる境地、それこそが「善」が目指す最高の目的地です。皆さんの中で、すでにその境地に到達したと自信を持って言える人はいますか? もしそうでないならば、この現実は非常に深刻です。6千年の終末の時代が到来しているにもかかわらず、私たち自身の状況は6千年もの隔たりがあることを認識すべきです。外形的には摂理に関与しているように見えても、実際には中身が空虚であり、6千年を巡りながらも中身がない状態なのです。


時が進むにつれて、皆さんの胸はますます窮屈になるでしょう。「この虚しさでは生きられない」と感じる時が来るはずです。たとえ多くのお金や物を持っていても、どこか満たされない虚しさが残るのです。それに加え、個人の中での闘いも激化します。心は6千年前の本然の状態に向かおうとし、体は6千年が経過した現代の欲望に縛られているためです。


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聖書ではこう述べられています。「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい、そうすれば見つかる。門を叩きなさい、そうすれば開かれる」と。このように述べられている背景には、この闘いを解決する鍵があるのです。


今日という新しい環境が生まれる時代において、心の奥深くから感じるこの闘いを解決するために、何の主義や主張がなくても、それを乗り越え前進する信念を持たなければなりません。そうしなければ、新しい飛躍の時代に立つことはできません。


それは、個人を革新し、家庭を革新し、社会を革新し、国家を革新し、世界を革新する信念が求められる時代です。どれほど激しい矢が飛び交い、死の十字架が襲いかかっても、それを堂々と乗り越えて前進できる力の源は何でしょうか?


それは、神と私たちが「父と子」の関係で深く結ばれている切実な心情を持つことです。このような心情で神に向かって「父よ!」と叫ぶならば、その前には神もサタンも頭を垂れるのです。もしイエスにこのような心情がなかったならば、彼はメシアとしての資格を持つことはできませんでした。


そのため、皆さんが「神の花嫁」となるためには、このような心情を持つ必要があります。そして、この境地に入るためには、冒険を恐れず進まなければなりません。


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今は忙しい時です。冒険をする時です。イエス様は「死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ」「高くなろうとする者は低くされ、低くなろうとする者は高くされる」と言われました。この言葉は終末にすべて成し遂げられるでしょう。


今、皆さんが家庭的な次元で幸福感を感じ、それに満足しているとしましょう。その家庭や国家、その制度はすべて崩れてしまいます。そうではありませんか? 日本統治時代に皆さんも経験したことでしょう。


今日の復帰摂理時代に生きる全世界の人類は、「真」を探し求める探検者になるべきです。探検者にならなければなりません。


心を込めて祈り、あらゆる面で戒律を立て、天に向かって叫ぶ祈りが早く成就されなければなりません。今日、祈りを捧げる人々の中には、同じ祈りを何十年も繰り返している人がいますが、それでは成就しません。本当の愛の心情を持ち、約束を交わせる場において祈るべきです。一度祈って、30年、40年待てるような切実な心を持たなければなりません。30年、40年が過ぎても忘れない切実な心を持ち、祈り、待ってみてください。成就します。多くの祈りは必要ありません。


今日の時代においては、他人ができないことをするために探し求めなければなりません。やれば成し遂げられるのです。今日の皆さんがそれを探し求めるには、科学書のようにすべての内容が整っているわけではありません。この分野には専門家がいません。これに関して聖書にはヨハネの黙示録に示されています。ヨハネは霊的な世界において、他人が切り開けなかった世界を切り開き、他人が感じられなかった冒険的な境地で新しい世界を見ました。しかし、そこに至る旅路の詳細な内容はありません。旅路の記録がないのです。これが問題です。


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皆さんはもう一度心を引き締めて、真理を目指さなければなりません。生命が動き、生命を通じる心情を持ち、御心を抱き涙を流す者がいるならば、これまで信じてきたものを否定しなければなりません。これまで信じてきたものでは不十分です。これまで楽しんできた生命を否定し、これまで感じてきた心情を否定し、これまで望んできた理念を否定する、さらに大きな何かが必要であることを知らなければなりません。


その「何か」は確かに存在します。しかし、それを探すには、日常的な態度ではいけません。どれほど偉そうに自慢する紳士であっても、その立場を捨てて、最も低い立場に行き、そこで勝利しなければなりません。これが天が探し求めてきた道でした。


イエス様も天のすべての主権と地上のすべての主権を見つけるために、生命と復活の権限を持って地上に現れました。しかし、悪の世の中でそれを実践するためには、逆の道を歩まなければなりませんでした。イエス様は死にゆく生命を見るとき、その死んだ実体を心配するのではなく、その魂を見て心配しました。彼は民族を見るとき、その民族の悲惨さを憐れむのではなく、その魂を憐れみました。反対なのです、反対なのです。


あなたも神の息子、娘になりたいと思いますか? 天国に行きたいと思いますか? それなら行ってみなさい。「イエスを信じて天国に行こう」と言う言葉だけを頼りに歩む人は天国に行けません。天国はただでは行けません。


私たちがイエスを信じる理由は何ですか? それは天国を作るためです。イエスは私たちに何と言いましたか?「あなたの体が神殿だ」と言いました。では、あなたは神殿になっていますか? イエスは個人の神殿だけでなく、環境の神殿、万物の神殿まで願われました。私たちの体に神が臨在し、私たちの家庭、社会、さらには万物に至るまで神が臨在されることを願っているのです。


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イエスが地上に来られたとき、どうだったでしょうか? 天の御座に座るべき方が、罪人の友となりました。罪人の友だったのです。聖書にそう書かれていますね?「食べることを楽しみ、飲むことを楽しみ、何かを欲している」など、いろいろと言われました。しかしイエスはこう言いました。「私は義人を救いに来たのではなく、罪人を救いに来たのだ。」どれほど切実であったことでしょう。


今日のキリスト教がすべきことは、苦しみをどう受け入れ、乗り越えるかということです。天の心情を引き寄せ、「父よ! イエスが十字架の苦しみを乗り越え、死の苦しみを超えて哀れな万人のために祝福を祈ることができたように、私たちもそのような心を持てるようにしてください」と祈れる心を持つことが重要です。イエスは地上に来られ、心情の開拓者となられました。今日、心情に深く入り込み、死の恐怖を克服して進む人こそが必要です。


今日、教会が分裂する原因は何でしょうか? 牧師は牧師の威厳を保とうとし、信徒は自分たちの威厳を立てて権力を行使しようとすることに問題があります。イエスが残された教えは「奉仕の教え」です。人間にとって最も近く、そして最も難しい冒険の道、それが奉仕の道なのです。山を征服する人は世の冒険家かもしれませんが、心霊の世界の冒険家ではありません。人の心に深く苦しみが刻まれたとき、その苦しみを克服できる冒険家こそが神が求める人ではないでしょうか?


天の王子として地上に罪人の姿で現れる以上の冒険がどこにあるでしょうか。それは宇宙全体が引き止める道でしたが、イエスはその道を歩みました。その道は誰もが歩むことを避けたいと思う道でしたが、イエスはその道を選ばれました。


では、真の真理が存在するならば、私たちはそれを探し求めなければなりません。一つの心と一つの心情を中心として結ばれるべきこの体が、これまで歴史に縛られていたのであれば、その縛りを断ち切り、心と共にその真理へと引き寄せられる言葉を探し求めなければなりません。


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時間の限界を超越した無限の世界から湧き上がる切実な心情を持ち、地上のあらゆる苦労や苦痛、そして死の恐怖さえも克服して進んでいける人になるべきです。個人の道で勝利を収めるためには、どのような苦痛や欲望も拒絶し、堂々と進む覚悟が必要です。個人の道で勝利した人は、家庭、民族、国家、世界においても同じように勝利することができるでしょう。そのような人は、世界的な問題においても勝利者となるのです。


神がイエスを立てて祝福されたのは、彼がそのような道を歩まれたからです。彼の道は開拓の道でした。開拓とは困難な道から始めることです。良くて楽しいところから始めるのではなく、困難で辛いところから始めるのです。それは逆さまの道を進むようなものです。


真を探し求める私たちに対して、神は歴史の道程を通じて個人、家庭、社会、国家、そして世界を探し求めてこられました。


これを再び取り戻すために、私たちはこの終末の時代、末端の立場に立ち、神の独り子であり、天の皇太子であるイエスが罪人の友となられたように、神の心情を抱いて罪人たちを支え、共に戦う勇士となるべきです。そのような場において、自らの威信や体面をすべて捨て去り、神の前に堂々と立つことができる人でなければなりません。そのような人こそ、失われた自分自身を見つけると同時に、失われた個人を見つけ出すイエスの代行者となるのです。また、そのような心情を抱いて家庭を支え、戦う者であればイエスの代行者となり、さらに社会、民族、国家、世界のために戦う者であればイエスの代行者となるのです。


どれほど高い地位に就いているとしても、「それは低い地位にいる人々を私と同じ立場に引き上げるためのものだ」と考え、その高い地位を譲り、自ら下りて、彼らを敬うことができる心を持たなければなりません。そのような冒険的な気質を持ってこそ、天と地が変革するこの時代に、どんな条件でも掴み取ることができるのです。


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あなた方を見れば、目は高く掲げ、天と地のすべてを手に入れようとしているように見えます。しかし、失われた「自分自身」を見つけようとはしていません。もし、神が望む希望の家庭、希望の民族、希望の国家にふさわしい内容と目的を備えているならば、神も認めてくださるでしょう。しかし、目的や理念だけが大きくても、実際の内容がなければ認められないのです。あなた方がアブラハム、ノア、モーセ、イエス、そして神に「そうだ、正しい」と言わせる基準を見つけていく必要があります。


今日、あなた方が日々の生活の中で価値を見出そうとするだけでは十分ではありません。まず自分自身を捨てなければなりません。自らを打ち倒す「屠殺人」になる覚悟が必要です。そうでなければ、神の前に立つことはできません。


なぜなら、神は6千年もの間、この地を摂理してこられましたが、ご自身の威信を立てようとしたことは一度もないからです。神は愛する真の息子、娘を見つけるために歩まれており、その子女に出会うまでは威信を示すこともされないという覚悟を持っておられるのです。イエスもまた、長い間苦労されましたが、探し求める花嫁を見つける前には罪人に対しても頭を垂れました。十字架にかかられるとき、右側の強盗に「今日、あなたは私と共に楽園に行く」と言われたのは、その一例です。


今こそ、私たちは最後の冒険に挑むべき時です。歴史的な冒険に挑まなければなりません。


「真」を求めてきたすべての探検者の前で勝利者として認められるためには、歴史的な悲しみや苦しみも受け入れ、時代的な悲しみや苦しみも受け入れなければなりません。そして、神、真の親、真の夫婦、真の子女、真の兄弟、真の民、真の国、真の天地の前に堂々と立つことができる者にならなければなりません。このような深い心情が崩れない者だけが、その国の民として生き残り、その国の忠臣、烈女、あるいは孝子、孝女の位置を得ることができるのです。このことを理解しなければなりません。


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それでは、冒険中の冒険とは何でしょうか? それは、切実な心情を持ち、天に代わって哀れな人々のために涙を流すことです。安穏を望む心があったとしても、複雑で困難な使命を受け入れ、それを全うする覚悟を持つことです。たとえ全体が反対したとしても、天が目指す基準に向かって死を恐れず進む切実な心情を持たなければなりません。


世の中のあらゆることは冒険を通じて開拓されてきましたが、神の心情の世界で冒険を行った人はまだいません。ですから、神が「このように生きよ」と言われたなら、そのように生きてみてください。イエスが「このようにせよ」と言われたなら、一度そのようにやってみてください。その言葉が偽りなのか真実なのかを知るためには、自ら突き進む必要があります。


自分の心情を懸けた冒険ほど大きな冒険はありません。この冒険を通じて天と結ばれること、これ以上に新しく喜ばしいことはありません。そのことを理解し、心情の世界における探検者となってください。




<祈り>


イエスは30年間、いつもガリラヤの湖畔を歩きながら、哀れな漁師たちを見て心の中でどれほど同情されたことでしょうか。哀れな村を見て、どれほど同情されたことでしょうか。また、ユダヤ教会やその多くの教団を見て、どれほど心配されたことでしょうか。


エルサレム神殿から追い出された後、この村からあの村へとさまよい、最後には海辺まで行き、心情的な真の弟子を探し求めてさまよわれた哀れなイエスの姿を知りました。


34


世の冒険の中で最大の冒険とは何かと思えば、それは自分の前にある目的物や対象物を探すことではなく、自分自身を征服すること、自分を完全に支配すること、自分を屈服させることだと知りました。それ以上の大きな冒険はありませんでした。


イエス様は、心情の世界に入って自分を屈服させる日には、全宇宙がやってくることを知っておられました。だからこそ、迫害される道も感謝して進み、十字架につけられる場所でも恐れることなく歩まれました。嘲笑されても感謝し、民を慰め、血の汗を流す体は痛み、心は憤りで満たされても、摂理を進められる父の心情が民に向けられているのを見つめ、父を高め、自分を否定する心情に満たされました。4千年の因縁と心情を無視し、その基盤を踏み外すことを恐れながらも、民のために祝福を祈られたイエス様の深い心情を理解させてください。


人々は外の世界を征服するためには、多くの冒険や探査を恐れずに進み続けていますが、自分の内面の心情を懸けて自分を征服する冒険には挑もうとしていません。この冒険の峠は、地上のどの険しい山々よりも、大海原よりも、猛獣の住む場所よりも険しく、大きく、恐ろしい領域であることを私たちに教えてください。


多くの道を行く人々は、自分が残っている時に失敗しました。イエス様は自分を失い、自分を超えて勝利した歴史的な主人となり、復活の栄光を得られたことを知っています。


失うべきこの世界、失うべき自分、失うべき恨みの歴史の道を歩む中で、自分の体と心に打ち勝つ力を与えてください。6千年にわたる天の心情を抱き、それに基づいて戦うことができるよう助けてください。そして、天に代わり万物に堂々と祝福を祈る勝利者となることが、人類の歴史的な希望であり、時代的な希望であり、未来的な要求であることを理解させてください。


35


このような姿になるのは、神やイエスではなく、まさに自分自身であることを悟らせてください。そして、自分自身が神やイエス、そしてこの地上と存在する全世界の真の中心であることを知るようにしてください。この「真」を探すことも自分から始まるべきであることを教えてください。


イエス様は地上で約30年間の生涯を生き、自分を失い、再び生き返って復活の喜びを味わいました。同じように、私たちも自分を失い、再び見つけることで喜びを得られるようにしてください。死後に復活の喜びを体感しなければ、訪れる祝福の園とは縁がないことを私たちは知っています。ですから、地上と共に生きている自分を捨て、天と共に新たに生きることができるように導いてください。


今日、私たちは革命を起こさなければなりません。新しい世界を見つけ出さなければなりません。冒険が必要であり、探求心に満ちた気質が必要です。父なる神よ! 自分のことを考える者はこの列に参加することができず、これまでの環境的条件にしがみつく者はその環境を開拓することができず、これまでの主義や思想に縛られる者は、この世界の理念に参加し、神が喜ばれる世界的指導者の役割を果たすことができないことを私たちは知っています。


私たちは個人から家庭を経て、全宇宙に至るまで理念の心情を通じる心を持つ者となり、どのような分野に送られても感謝し、どのような犠牲になろうとも感謝し、どんな冒険でも覚悟を持って進む天の冒険の王子となることができるようお導きください。


すべてを責任を持って背負い、天が信頼し任せることのできる息子娘となれるよう、心からお願い申し上げます。このすべての祈りを愛する主の御名を通してお捧げいたします。

アーメン。

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御言葉選集7(2)

2024年12月15日 17時12分59秒 | 学習

そのような心情に共鳴し、そのような心情に動かされて「お父様」と呼び、「息子」として愛することができる立場が、この世界に現れなければなりません。イエス様はそのような心情域の御言葉を持って来られましたが、心情世界の生活内容を明かすことができませんでした。出来なかったのです。

神様に対してお父様と呼べる心情の帰一点を訪ねていくには、私の体が父の体にならなければなりません。私の血は父の血でなければなりません。そのような立場に立つと、あなたは当に神殿になります。
 
皆さんが神殿になれば、その心の体は自分のものではありません。お父様のものです。あなたの起源は自分ではありません。お父様から始まったので、お父様で終わらなければならないのです。ですから、あなた自身はあなたではなくお父様です。

皆さんの血がお父様の血に代わる心情の域に入ると、天が悲しむとき、皆さんも知らないうちに涙を流します。ここに初めて来た皆さん、そんな領域がどこにあるのかということですがあります。心情の世界は、すべての存在の価値を数千万倍超える世界です。私たちがこの世界と関係を築く時は、認識を超越することになります。

皆さんがそのような域に入るには、まず血統的に同じでなければなりません。自分の血が父の血と同じだと感じなければなりません。お父様の実の息子娘になった状態、その後は、意志を一緒にしなければなりません。意味、その意味は何ですか? 堕落した世界を復帰することです。

自体を清算した本来の実体、善い実体が父の懐に抱かれて暮らせる世界を成し遂げるのです。ですから、私たちの体は父の血を受け継がれなければならず、私たちの心は父の国を成し遂げようという意志を抱かなければなりません。また生活では父の心情を感じなければならないということです。そうでなければ、父の息子として立つことができないということです。そうでしょ?

父が悲しむと子も悲しみ、父が苦しむと子も苦しくなければならず、親が難しい生活をすると子も難しい生活をしなければならないのです。そうでしょ? 真の孝子と言う事は親の意を受け入れて動かなければならないということです。このように父の血を通じた縁を持たなければならないし、意を通した縁を持たなければならないし、そこに生活を明るい心情を備えてこそ、天に対してお父様と言えることを皆さんが知らなければなりません。天はこのような内容を人間に接するためにこれまで苦労しておられたのです。

天は、このような縁を成し遂げるために、人間が思わないうちに多くの労力をされたことを皆さんが忘れてはなりません。養子の立場にある私たちを心情が通じる親子娘の域まで引き上げるために、天は無限に苦労しておられるということです。

私たちに悔しさがあっても神の悔しさとは比較できず、私たちに悲しみがあっても神の悲しみとは比較できず、私たちに憤りがあるとしても神の憤り、悔しさとは比較できません。また、私たちがどんな傷を負ったとしても、神様が着た傷とは比較できません。

神様は、私たち以上の歴史的な悔しさを感じて来られ、私たち以上の悲しい心情を持って、歴史と共に悲しみ出てきました。私たちはこれらの神であることを知る必要があります。

イエスは神をお父様と知っていましたが、そのお父様をどんなお父様として知っていましたか。とげの麺類を使っている時、神様が自分より数千万倍苦しんでいるとげのある棺桶管を使っておられたことを感じました。心臓に穴が開けられたとしても、イエス様は神様が自分以上の苦痛な場で子供のために苦労するお父様であると思ったので、それを当然と受け入れました。

だから彼は恨み言1つを残すことができませんでした。このように苦しんで行っても人類の前に恨を残さないと決心しました。敵に向かって言うことができない心情と恨みを持つた場でも、天の我慢を考えるればできなかったということです。悲しい人類を救うためのイエスだったので,自分の死と苦しみに勝たなければなりませんでした。

そのようなイエスでなければ救い主になれないということです。自分の命を失った人間だったので、例え命を失っても、すべての欲望を諦めても天を恨みのない立場に入れる様にしなければなりません。イエス様はそのような立場に入ったので、神様の心情に代わる命の救い主になることができたことを私たちは知らなければなりません。

このように恨みの心を持たなかったイエス様、憎むという心を持たないイエス様、歴史的な悪魔よって支配されなかったイエスであったので、悪魔は現れる事ができませんでした。悪魔はどんな存在ですか? 人類に歴史的な限度を提示して諦めさせる様にする存在です。ところが悪魔がイエス様に現れる事ができなかったのは、この堕落した世界の恨み、天の主の恨みまでも彼にはかかる条件がなかったからです。この条件を持って神様に抗議していた悪魔も揃って降伏したのです。

イエス様が敵を愛するように言われた御言葉は本心からの御言葉でした。自分が死んで消えるよりも、人類が永遠の死に陥るのを心配して涙する人が懇願するなら、悪魔はその本体が破壊されるのです。そのような人は悪魔が主管しません。ただ神のみが主管されるということです。信仰と要望を出す悪魔はいくらでも参加できますが、心情を通すことができる一片丹心の精誠の心情を持てば悪魔は爪ほども占領できないということです。悪魔のすべての縁を越えた世界が天国なので、天国は悪魔と縁のない世界であることを知る必要があります。

イエス様が呼んだお父様を今日、私たちは彼の功労に載り頼って、「お父様」「主よ」と呼んでいます。恐ろしいことです。今日も罪悪圏内で卑怯で恥ずかしい生活の一片を握って涙する私たちです。今日の社会とこの世界を眺めることになると、流れてくるこの世界は、歴史的なこの功績一つを抱いて後悔し、恐怖に包まれています。こんな世界の中で私の感情を占領しているのは何ですか? 恐怖です。私の生活をさらっているのは何ですか? 言うまでもなく破綻した偽の義です。さらに天は新しい世界を立てたいと真の義を立てたいのですが、それらを立てる人が誰もいませんでした。しかし、天は今日も変わらずそのような人を探して迷っている天の心情を私たちは知らなければなりません。

三千万民族は神様を知りませんが、神様はこの民族の働きのようになされたことを知らなければなりません。義の心情を抱いて忠臣の義理を立てるために刑長の露に消えた、天が覚えることができるどんな忠信があった心情の基台は、彼の足跡と彼の心情またはその民族の上に行き来されたことを知らなければなりません。

今日の私達は彼の功績の上に成り立った民族です。この民族は、功績の上でも更にその上に載って世話になっています。哀れな人を救おうとする天であり、堕落した子どもを握って泣く親の心情を持った天だから、この世界でよく生きる民族よりも生きていない民族を眺めるとき、さらに哀れに思われます。

私たちの民族は、他の民族の前に誇るものは何もありません。持っているものがありませんでした。全部奪われてしまい、全部失われました。ここでまた私達が何か持つ為の心情を私はほしいと思います。 「血の沸騰する青年男女が行く道を知らずさまよう心にイエスが天に対して父と呼んだ燃える心情を起こしてください」と。彼らがそうすれば、この民族を他のどの民族が支配することはできないでしょう。

哀れに見えるお父様の心情、哀れに感じるお父様のその心情の前に「お父様!私はこのことをしました。」と言えるそのような青年男女、そのような団体、そのような民族があれば、彼らは世界を支配します。ユダヤ民族の中でイエス様が来られた時代にも同様でした。ローマの支配の下で、信仰的な思想が混乱し、民族の土台が破綻し、そこにあるすべてが揺れました。天はそのように悲しみが死んだ時にイエス様を送られたのです。

恨みと恥ずかしい事実として、どうして民主と共産二大陣営が対決する一線で、供え物となる韓国が登場したのかということです。悲しい事実です。私たちには友達がいません。民主と共産陣営が共に私たちの民族を供えて対峙しています。祝福された国を建設しなければならないこの民族が悲しみの民族として危険と冒険の生活をしているのです。ここで私たちが確かに知る必要があるのは、この環境を成し遂げて民族を裏付けて出てきた天輪がある。その天と関係を成立させることができるには何が出てくるのかを考えればこの民族は生きます。


外的に何も持たなかったイエスが、世界を支配する事情の世界と希望の世界を紹介し、今日、世界をイエス主義圏内に引き込んでいるのです。何かが現れたとしても、心と心情の世界を求めてさまよう人間たちが、それを咎もうとしても峻めず、接しないとしても接せるべき、最高の絶対的な基準となるでしょう。
今日、この韓民族は信仰的な混乱期にあります。人格を誇ることができない環境に置かれており、生活の中では恐怖を感じており、すべての世界が一掃され、私たちの民族をわざわざ押し出しているこの時、私たちは何を掴んで安息できますか?


イエス様は神様の御子としてこの地に来られましたが、絶望的な30年余りの生涯と、悲しみと苦難に満たされた3年間の公生涯の道を歩まれました。はだかなんとかも、それを取り除いて、なおさらあるほどの凛々しい気迫と、燃え上がる心情を楽しんでいただきました。そのおかげで、当時のイスラエル民族を全員そのような勇者が、今日の時代にも必要とされています。イエス様は、その民族がイエスを困難に陥れるたびに、彼らと戦うのではなく、適度にゲッセマネの園の上で気をつけて祈ってもらった方でした。


イエス様も、その国家と民族からの迫害に耐えられたとき、ひとり静かな場所を見つけ、天を仰ぎながら父に向かって、ついでに、その試練を乗り越えられました。他にはありません。心情が必要です。食べることを忘れ、着ることを忘れ、人間のなすべての条件を無視して、『父よ、私はあなたの息子、あなたの娘です』と言えなければなりません。そのような息子娘がいるなら、イスラム民族が踏みにじられます、すべてが犠牲となったとしても、心情の世界においてはどの民族よりも天に近い民族となるのです。


そうなると神様が悪い扱いをすることができるでしょうか? どんな親でも、心情を持って接する子、過去と現在と未来を結ぶ心情を持って動く子の前では、親は手を出せないのです。 人間もそうですから、神様は言うまでもないということです。 神様の属性を持たない人間がどこにいるのでしょうか? 神様がそうだから人間もそうなのです。


哀れな境遇にあるこの民族が生きる道を探し、神の心情を探し求めるのです。 そのような場でも「お父様、ありがとうございます」と言えるようにならなければなりません。自由な境遇で天を恨む民族と、困難な境遇でも天に対して「ありがとうございます」と涙を流す民族とは、天地の違いでしょう。


今、神様と私たちは父子関係であり、今日、私たちがどんなに苦労し、どんなに辛くても、どんな迫害を受け、どんな困難な環境が私を妨げても、6千年の間、そのようなことを経験してきた父の聖像には比べ物になりません。 ですから、皆さんが御旨のために仕事をして傷を負ったとしても、それを見て泣く者になるのではなく、私よりもっと大きな傷を負っている父を慰めなければなりません。 自分の傷を忘れて、傷ついた私を訪ねてきて涙を流される父です。それは、黄空であり、滅茶苦茶なことです。


今、私たちは何かをしなければなりません。 この民族の民族精神が希薄になってきています。 この民族は天倫の前に何を出すのか? 今日、この世界、この時代に提示する内容が何もありません。この民族は、天倫の前に何を提示するのでしょうか。 今日、この世界、この時代に提示する内容を持っていません。 今日まで触れていないのは何でしょうか。 神様の心情のためです。 では、この心情の世界を深く感じる者はどのような者でしょうか。 困難な場面に参加する者です。困難な席で我慢しながら父を呼ぶ者です。歴史的な悲しみを背負って来られた父を身近に接することができる条件を持たなければならないということを知らなければなりません。


だからこそ、このような困難な環境に置かれているのです。考えてみれば、私たちの民族は哀れむ必要はありません。 天がおらなければ哀れなのですが、天がおられるとすれば哀れなことはありません。 6千年の歴史の歩みの中で最も哀れなこの民族ですが、その心は天のことを考えたならば、どの民族よりも父に骨に染みるような刺激を与えたことでしょう。


この民族に豊かな縁を築くことができる動きがあるとすれば、これによって新しい世界は展開されるでしょう。 天が私たちの前にそのような道を鉄石のように約束してくださっており、イエス様もその内容を私たちに諭すことが最高の目的だとすれば、私たちの民族を無視してどこへ、どこへ行くのでしょうか。 私たちはこのような信念を持って出発しなければなりません。


神はアメリカだけの神でもなく、イギリスだけの神でもなく、民主主義陣営だけの神でもありません。 宇宙の神であり、私たちの神であり、私の神です。


天は、歴史的な父の心情世界に参加して、その価値を歌える信徒、そのような神父が恋しいということです。 そんな者は億万金を与えても買えないものです。 地を与えても買えないし、天を与えても変えられないのです。 イエス様も、そのような命は宇宙よりも大きいと言われました。


皆さん、ありがとうございます、ありがたいことに、天は金持ちの縁の御言葉を私たちに提示してくださったのですが、私はどの程度まで父に孝行したか、どの程度孝行者になったかということです。 個人的には孝行者として、国や民族的には忠臣の気概を持って天に接しなければなりません。 そうでしょう? 東洋の三綱五倫のようなものはすべて理にかなっているということです。 それを教えるためなのです。天に対する忠孝も同じことです。同じです。親に孝行できない者は、天の前に孝子にはなれません。 国に対する忠臣の切開を持てない者は、到底天の前に忠臣にはなれないのです。 天の前でも、この世界も同じです。心情の世界も内容が違うだけで、同じです。


統一教会の皆さん! 私たちは教派が問題ではありません。 私たちの看板が問題ではありません。 この神殿や家が問題ではありません。 人が問題です。 ただの人が問題ではなく、心情を持った人が問題です。世界に27億の人間がいるとしても、皆さんの心情を引き寄せる人は一人しかいないのです。 そうでしょう? 神様も同じです。今も天上のすべてを動かし、大宇宙と被造物世界全体を動かしておられる神様が望まれるその第一は何でしょうか? 多くの人よりも、自分の心情をすべて捧げて、すべてを忘れて眠りにつくことができるような一人を望まれています。 そうではないでしょうか? 多くの人よりも、そのような一人、そのような一人を夢見ておられたのです。


それで4千年ぶりに送られた方がイエス様でした。 今、6千年の歴史を経過して、そのイエス様に代わる方を送るのが再臨理想です。


探していた父を懐かしんで父と呼べる息子と娘はどこへ行ったのか? そのような息子と娘を探す日が願いの日であり、解怨の日です。 その日を宗教の名詞を借りて言えば、子羊の晩餐の日といいます。


では、真のクリスチャンはどのような人でしょうか。 楽しくて踊る人ではありません。 神様を気にかけて祈る人でしょう。 自分を気にかけて祈る人ではなく、神様を気にかけて祈る人です。自分が花嫁になれないことを心配する者ではなく、新郎であるイエス様が喜べないことを心配する者です。 私を天国に送ってください」と祈るよりも、「父よ、あなたの恨みを晴らしてください」と祈る者です。天国で私の価値を認めてほしいということではなく、「私が今死んでも、父の価値が地上で認められますように」と祈る者です。


今日、信じている信仰観を覆さなければなりません。根本的にひっくり返さなければなりません。 私が信じて天国に行くというのは、天国に行って何をするつもりですか? 天国に行ってまた盗みをするつもりですか? それは天の本質を失って喜ぶことです。 与えようとすることが本質になっています。愛の本質がそのようなものであることを堕落した属性も感じることができます。 受けるために喘ぐ群衆には死の穴が待っており、与えるために奮闘する群衆には生命の復活権が待っているのです。 30年余りの生涯の間、与えるために奮闘して行かれた方がイエス様でした。 3年間の共生の間、与えるために奮闘し、最後には自分の体まで与えて行かれたイエス様でした。 与えるために、失うために喘いでいた王子がメシヤであったことを知らなければなりません。


彼の後を追う私たち、今日の生活において、父の恨みを解怨するためにどれほど犠牲になったかを反省しなければなりません。 そのような人がいるとすれば、彼は天国や地獄の観念がない人でしょう。 地獄に行ったらどうしよう、天国に行ったらどうしよう」と言うことでしょう。 そのような人を天が復活させるとき、サタンも「正しいです」と言うしかないでしょう。 ここで歴史的な生命の基準が立てられることを知らなければなりません。


今日、統一聖徒である皆さんが悲しみに打ちひしがれているお父様を慰めるためにはどうすればよいかというと、聖書の御言葉も必要です。師匠も必要ですが、私は皆さんがどのような師匠を見つめて出て行くことを望みません。 その師匠を仲裁者として、父の心情と結びつけることができる皆さんになることを願っています。民族のために祈るなら、心情的に訴える皆さんになり、天の心情を紹介するために奮闘し、祭物となることができる皆さんになれば、天は皆さんを見捨てないでしょう。 天は私たちを見捨てないでしょう。


皆さんが天を考える時、天は万物の主人公ですが、その主人公の行事を一度でもしたことがありますか? 愛の主体として、人間に対して「私はあなたを愛している」と言ったことがありますか? できませんでした。すべてを持つことができる自由な立場でも、人間に対して「お前は私のものだ」と言い、好き勝手に取ってみたことがない神様です。 また、神様はこの地上に人類がたくさん住んでいますが、あるいは4千年の間準備したイスラエル民族がいましたが、彼らを一度も御自分の息子・娘、あるいはサタンを打ち負かすことができる勇者として立ててみたことがありません。


今日、民主主義陣営にイエス様を信じているキリスト教信者がたくさんいますが、天は彼らをサタンに対する総進撃命令をすることができる総司令官として立てられず、イエス様を立てて天使の世界を命令させ、地上との関係を結ぼうとされましたが、そうできなかったのです。 地上の人間に花嫁の理念を与え、花嫁を探し求めましたが、花嫁だとサタンの前に自慢できる一人に出会えなかった神様です。 そのような神様の前に、私たちはとても残念です。


世間では、統一教会のどなたかは異端者の怪物と言われていますが、「どうか異端者を解明して、あなた方が祝福されますように」という気持ちだけです。言い訳も解明も望みません。 それをめぐって争う時ではありません。 私が生きるのに忙しい時であり、私が父の前に認められる段階までどう行くかが急務の時です。


皆さん、私たちは同じように哀れな者たちです。死んでも一緒に死のうと父を呼びながら誓った時もありました。 涙を流しながら父を呼んだ時もありました。私たちはこの民族を代表してこのような立場に立たなければならず、哀れな時もあったでしょうが、父が残された道ですから行かなければなりません。 この歴史的な悲しみを感じることができれば、感謝し、感謝することです。 先祖の血の涙の痕跡を感じることができ、その悲しい谷間を埋め合わせることに参加することは、哀れなことです。 この身体が引き裂かれようが、惨めであろうが、どこへ行って倒れようが、哀れなことがない私たちです。 このような心情の道を再び探さなければならない終末のキリスト教信者であることを知らなければなりません。


異端と言われても構いませんし、どんな濡れ衣を着せられても構いません。 それが天国理念を解明する私にとって何の障害にもなりません。私は今日、皆さんに心情を分かち合い、心情に同化してひざまずき、心情で語り、心情で泣くことができるそのような集まりがあれば、天は必ず歴史と共にその集まりの群れを導いてくださるということを申し上げたいと思います。









イエス様に対するマグダラのマリアの信仰









一介の売春婦に過ぎないマグダラのマリアが膝をついて3百デナリオンもの香油をイエス様の足に注ぎ、彼女の髪の毛で足を洗うのを見て、ユダヤ人ユダが叱責した時、イエス様はマリアを擁護されました。サリーを通してのマリアではありませんでした。死ななければならないイエス様の心情を心配し、嘆き悲しみ、憤慨された神様の心情の一端がマリアに現れたので、イエス様は福音の御言葉が宣べ伝えられる所々にその名前が残ることを例示されたのです。


マグダラのマリアが墓から復活したイエス様を見て抱きしめようとしたが、復活したこと自体を汚損することを心配して阻止したイエス様です。自分を迎えて喜ぶより、父を迎えて喜ぶ、自分に対して喜ぶ前に父を迎えて喜ぶ、人類が再び再生できる希望があることを見据えて喜んだ後、自分に対して喜んで迎えてほしいという心情を持っていたため、彼女を止めたということです。 そのような悔しい心情を抱いて行き来した初々しいイエス様が、今日私たちが信じているイエス様であることが悲しいことです。悲しいことです。


今日、私たちは世界中のクリスチャンにこれを伝えなければなりません。 歴史が高めてくれたイエスの名詞を呼んで自分の信仰を自慢する人ではなく、歴史に踏まれ、歴史に押されながらもイエスを自慢できる、カルバリー山頂でイエスを探し求めた女性のような人が必要だということです。 イエスを知らずに自分の行く道を探して引き返した十二人の弟子よりも、むしろマグダラのマリアのような人が必要だということです。


皆さん、イエス様を信じながら神様を泣かせた事実がありますか? イエス様を泣かせた時がありましたか? 来なさい、私が行った道をあなたが来るためにどれほど苦労したのか」「来なさい、淋しい私を訪ねて来るためにどれほど苦労したのか、あなたは何者なのか」と抱きしめながら嘆き悲しんでおられる父を抱きしめ、何者なのか、と泣かれたイエス様の手を握ったことがありますか? ないなら、大声を出さないでください。 大声を出さないでくださいということです。


むしろ嘲笑され、排斥された人々が天国世界の王子になるのです。天国世界の王女になるのです。 すべてを失っても、父の御心と父の心情を懐かしむべきです。 それを描いて生活を解明し、教会を解明し、社会を解明する皆さんになるなら、いくら皆さんが地獄に行くと言っても、神様は皆さんを地獄に送らないということです。 そのような人は、天が引き寄せます。


今日の御言葉のタイトルは「父と私」と言いましたが、あえて父という名詞を呼ぶことさえも畏れ多いことです。私たちは父と言うことさえも、「父よ、私のようなものがどうして父と言うことができるのか」という心を持たなければならないのです。他の言葉は必要ありません。 心と体が同調して切ない心情で「お父様」と言うようになった時、そこで宇宙の所有権が決定されて入るということです。 天はそのような統一信徒を待っておられます。


皆さん、若い師匠の後を追うのもいいですが、すべて過ぎ去ります。 私が死ぬ限り、消える限りがあっても、皆さんに残したいのは、民族を超え、人類を超え、世界を超え、天の心情を抱いて慟哭できる姿になることです。 私はその姿を楽しみにしながら死にたいと思います。 このような姿から、天宙と地獄圏まで管轄する権限が与えられるということを皆さんは知らなければなりません。


それでは、私たちは今、父上を自慢しなければなりません。 どのような父上か、歴史的な苦労をされた父上、この父上を紹介することができなければなりません。 父上を自慢することができなければなりません。 この時代を握って戦われた父上を紹介することができなければなりません。 私たちを待ち望み、戦わなければならなかった父上を紹介しなければならないということです。 しかし、これを知らせるのに、心情を土台にしなければ、妄想と妄執になります。


私たちは父を高めなければなりません。 心情を通して歴史的な父を、心情を通して時代的な父を、心情を通して未来的な父を、心情を通して未来的な父を高めなければなりません。 そして、「父よ! 父の御意志はこうではないですか? 父の御意志が私の御意志なのです」と祈るのです。血のつながりを忘れない親と同じように、私たちを訪ねてきた父、その父は私の父です」と言えるようにしなければなりません。


天は6千年の間、私と一緒に暮らすことを待ち望んでおられました。 しかし、その前に敵であるサタンが「このサタンよ、お前はこの天と地の間に足を踏み入れるところがない」と号令できる心情の主人公、「サタンよ、悪の勢力よ! 我が父の姿を見よ」と号令する時、サタンが頭を下げて「正しいです。永遠に永遠に貴方の言うことが正しいのです」と認められ、天の愛の心情を通じることができる主人公、天はそのような花嫁が恋しいということです。 そうではないでしょうか?


イエス様の肉体は殺されましたが、心情は殺されませんでした。 イエス様の肉体はサタンの侵略を受けましたが、心情の世界は侵略されませんでした。 ですから、天は花嫁という名詞を与えられ、心情の世界の忠誠心を備えた花嫁を探しています。 ですから、皆さんはそのような花嫁の心で父を呼ぶことができ、主を呼ぶことができなければなりません。


そして歴代の預言者たちがこのような御旨を立てるために苦労し、直系の息子・娘として立てるために、豊かな縁を結ぶために、天地が苦労されたことに感謝しなければなりません。 さらに、先祖の前で、数多くの霊人たちの前で、サタンの前で申し訳ないという挨拶をし、この地を守れる主人公にならなければなりません。 そうして初めて、神の息子・娘になることができます。神様は、そのような息子・娘から「お父さん」という言葉を聞きたがっておられます。皆さんもそうではないでしょうか? 神様が本当に愛する息子・娘がいるとしたら、そのような息子・娘に対して肉の父が「誰でもいいから、お前は私の息子・娘だ」と言ったら、神様は嫌うということです。 どの国の人という言葉も聞きたくないということです。 彼らは私の息子・娘であり、私の国の民だ。 韓国の民だ、アメリカの民だ、という言葉も聞きたくないということです。 そのようなことは、天の国の理念を抱いておられる神様の前では可笑しい言葉だということです。 天はそのような場で私たちを探しておられます。


それでは、今まで私と共に、家庭と共に、社会と共に、国家と共に、世界と共に生きてこられなかったその父が、今、逆さまに世界から今日の私まで訪ねてくるのに、どれほど苦労されたでしょうか。 訪ねてきて、私を連れて行かなければならないのです。 訪ねてくるのも大変ですが、連れて行くのも大変なのです。主は歴史的な終末まで追い込んで連れて行くために来られるのです。


皆さんはそれをよく知って、私はこの国の私ではなく、私の家庭はこの国の家庭ではなく、この社会と国、被造物世界は堕落した世界のものではないことを標榜されたイエス様の心情を通して立つことができる新郎新婦、神様に対して自慢できる息子・娘になることをお願いします。



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御言葉選集7(1,2)

2024年11月30日 16時42分14秒 | 学習


イエス様の死は「生きながらの別れ」であったと私は思います。それは生き別れです。ですから、私たちの先祖、信仰の先祖たちは何一つ誇るべきものを持っていないのです。イエスを殺したことは選民としての本分ではありません。イエス様が歩むべき道はそのような道ではありませんでした。それは生き別れの道ではなかったのです。


この地上には、イエスの生涯を奪った死の恨みが残っています。だからこそ、神はイエスの死を通して、今なお人間を心情的な理念を通じて導いてこられているのです。ユダヤ民族が世界で勝利することができたのは、一時の心情的な結びつきがあったからです。このようなユダヤ民族が、天的な目標を見据えて進む人々を動かし、心情的な統一を成し遂げていたならば、そこから地上に一つの宇宙観的な内容を備え、人間の心情に深い感動を与えるような主義が生まれたでしょう。そして、ユダヤ民族を通じて一つの世界が必ず成し遂げられたであろうと私は考えます。


しかし、イエスを中心として成し遂げられるはずだったその故郷の国はどこに行ったのでしょうか?どこに行ったのですか?その民族が住むべきカナンの地はどこに行ったのですか?その故郷はどこに行ったのですか?アブラハムが祝福を受け、神の前に祭祀を行ったその地、その神殿はどこに行ったのですか?神が直接統治することができたアダム、選ばれたノアとその家族はどこに行ったのでしょうか?私たちが住むべき、天の安息所となるべき故郷の世界はありません、ないのです。だからこそ聖書では、私たちは孤児のようであり、未亡人のようであると記されています。


金サッカのような人は、放浪者として三千里の山河をさまよいながらも立派でした。立派だったのです。だからこそ、皆さんも人生の旅路においてその姿がどれほど哀れであったとしても、宇宙を歌える感情を持ち、天と共に、万物と共に、その流れる心情が天情と調和する人格者にならなければならないのです。もし私がそのような人に出会っていたならば、たとえ物乞いの缶を持って歩くことになったとしても、精一杯その人をお迎えしたでしょう。


私たち人間は、悲しみの歴史を繰り返し、自らを縛り、傷つけ、自己崩壊を繰り返してきました。それはノアの時代にも、アブラハム、モーセ、そしてイエスの時代にも同じでした。それでは、今日の歴史の終末時代において、人間の運命を解決し、人間が自らの使命を果たし、生命の道を切り開いていかなければならないというこの時に、神は人類をどのような方向に追いやろうとしておられるのでしょうか?イエスの時代には、故郷の国を取り戻すために人類を追いやりましたが、これからは神が望まれる故郷の世界を築くために人類を追いやっておられることを私たちは知るべきです。


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探し求めるべき故郷の世界、その世界を建て、治めるために万王の王が来られると言われています。その方こそ、私たちが待ち望む主です。人生の旅路で倒れることがあっても、故郷の国を探し求めるために引き寄せられ、命を失う者がいるなら、その国が建てられるとき、その者は忠臣であり功臣として名を残し、天によって称えられることは間違いありません。だからこそ、かつてパウロもすべての社会的な権威を捨て、一人で悲惨な死の道を歩むことができたのです。彼はその一時が来ることを確信していたからこそ、それができたのです。イエス様もその一時が来ることを確信していたからこそ、その道を進むことができました。そして神もまた、その一時が来ることを確信しておられるからこそ、今日までこのような摂理を続けておられるのです。この道を歩むべき人生だと知る皆さんは、自信を持ってこの道を進むべきです。自信がありますか?自信がありますか?


私たちが目指すべき場所は、ノアが探し求めた故郷の家庭であり、アブラハムが探し求めた故郷の地であり、モーセが探し求めた故郷の民族であり、イエス様が探し求めた故郷の国です。神とイエス様が成し遂げようとしているのも故郷の世界であるのに、皆さんはその世界と感情的に共鳴し、縁を結んでいますか?そうでなければ、皆さんには人類歴史の脱落者としての烙印を押される日が来るでしょう。


私たちは故郷の世界が恋しいのです。ノアの方舟も恋しいのです。今日、世界の二大陣営は岩礁にぶつかる瞬間に差し掛かっており、生死を分ける決断を迫られる厳しい局面に直面しています。善悪の出発が一つの起点を通じて始まったことを私たちは原理を通じて学んでいます。善悪が神を基に始まったのであれば、その解決もまた神を基にしなければならないというのが鉄則です。失われたものを探し求めるには、失われた場所に行って探さなければならないのと同じです。


本然の園は理想の園です。それは、互いに与え合い、通じ合う世界であり、兄弟の感情が万宇宙のどこにでも通じることのできる世界でした。今日のように、民族的な感情や国家の主権的な違いを持ち出して議論するような理想や主義の世界ではありません。民族の差別や国家の主権といったあらゆる違いを超えて議論できる世界であり、経済的な状況や文化といった条件の違いを基に議論するのではなく、心情を基に議論する世界でした。


例えば、ある家庭に兄と弟がいて、その兄が大統領で弟が労働者であったとしましょう。その時、兄が弟に向かって「お前は労働者だから家に戻って労働でもしていろ」と言うことはできないはずです。本当の兄であるならば、弟が自分と同じ立場でないことを悔しく思い、彼を高めてあげたいという心情が湧き上がるはずです。それが真の兄の心情でしょう。


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神はそのような家庭的な理念、本然の家を恋しく思っておられるため、全人類もまたそのような故郷の家を恋しく思っているのだということを知らなければなりません。


これが私たちが必ず到達しなければならない運命的な歴史の解明点であり、人間的な解明点であり、摂理的な解明点であるならば、その視点と基準が自分とどれほど異なっているのかを問い直すべきです。その違いが大きければ大きいほど、私たちは大いに嘆き悲しまなければなりません。そのため、こう祈るべきです。


「神様、哀れな私をお許しください。私は何も知りませんでした。歴史の流れを知りませんでした。歴史が目指す摂理の方向と目的を知りませんでした。人生の歩みがどれほど混乱しているかを知りませんでした。歴代の預言者や先祖たちの苦しみや歴史的な内的心情を知りませんでした。そして、私たちが信じるイエス様が歩まれた道も知りませんでした。神様が進まれた道も知りませんでした。知らなかった罪をどうかお許しください!」と。そして、「知っていても赦されるべきではないのに、知らなかった私はなおさらお許しください!」と訴えるべきです。


人間は無条件でそうすべきです、無条件で。それゆえ宗教では「高慢は敵だ」と教えています。「高慢になるな。自分を出すな。自分自身が敵なのだ」と言っています。それは、私たちが彼らに負い目のある存在だからです。このような心情で静かに目を上げて自分を見つめ直すと、恐ろしい現実を感じることでしょう。そのような歴史的な心情を持ち、天と共に何かを感じ取るとき、恐怖が込み上げてきます。歴史的な悲哀、悲運の幕が張られているのを見ると、身体が震えるほどの衝撃を受けるのです。


そのような山場を乗り越えてこられた父なる神。そのような山場に直面して命を落としながらも、その国、その世界を恋い慕い、その世界の自由を求め、幸福を求め、平和を求めて戦い続けてきた預言者や先祖たちがいます。それが私の考えです。今日の私、今日の私たち、今日の統一教会が反対を受けることは当然だと思います。


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それでもなお、この道を切り開かなければならないという確固たる信念のもとで、「迫害なら来るがいい」と言える度胸を持たなければなりません。イエス様もイスカリオテのユダの一団の前に毅然とした姿で現れ、その堂々たる態度に彼らは頭を垂れました。イエス様は「来るなら来てみろ」という姿勢を見せられたのです。どれほど困難なことがあっても、心情を通じてすべてを超えることができます。そうではありませんか?


たとえ悪党が親子の愛を妨げようとしても、それを妨げることはできません。愛は何らかの意識的な啓示によって感じるものではなく、自動的で自然な感情として感じるものです。そのような感情が感じられる場があるならば、そこには悪魔がどれほど侵入しようとしても侵入できません。もし邪魔をすれば、悪魔自身が大変なことになるのです。悪魔が消え去るのです。人生の旅路でそのような感情を感じる人が天国に行くということです。


私たちは故郷を求めてもがき続ける人生の旅路を歩んでいます。イエス様はこうおっしゃいました。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通してでなければ、父のもとに行くことはできない」(ヨハネ14:6)。しかし、ここにもう一つ付け加えられるべき言葉があります。それは『わたしは愛である』という言葉です。この言葉をイエス様はおっしゃらなかったのです。


ですから、ここに「神よ、私は愛であり、真理であり、道であり、命である。私を通さなければ神に出会うことはできない」と言える確信を持つ人、天の心情を通じることのできる人が現れるならば、その人を指して「お前はこの地で天を裏切った者だ」と裁きの座に引き出すことはできないでしょう。神はそのような息子娘が地上に多く現れることを待ち望んでおられます。それが、私たちがイエス様を高く見る理由でもあるのです。


私たち統一教会の信徒たちは、人生の旅路の中で荒れ狂う波に翻弄されながらも、天を探し求めてここまでたどり着きました。私たちには、自分の身体を委ねる場所、自分の心を委ねる場所、自分の心情を委ねる場所が必要です。本然のエデンの園においてアダムが万物の主人公であったならば、万物は彼に対してどう思ったでしょうか?すべての万物はアダムに向かって『どうか私たちの主人になってください』と言う存在であるべきだったのです。


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神はどのようなお方なのでしょうか?なぜ私たち人間が『神様、神様!』と呼ぶのでしょうか?それは、神がすべてのものから『私たちの主人になってください』と求められる立場にいらっしゃるからです。そうでなければ、理想的な主観を得ることができるでしょうか?


今日の人類は『私のすべてをあなたに捧げますので、神様、どうか私たちの主人になってください』と言える存在でなければなりません。そのように言える歴史、そのように言える摂理、そのように言える人格を確立した者であるべきです。そして、もし皆さんがそのような方と地上で出会ったならば、『私の身体を、私の心を、私の心情をどうかあなたが導いてください。私の主人になってください』と訴えるべきです。その時、万物もまたその方を待ち望んでいた主人として迎えたいと思う心が芽生えるでしょう。皆さんはそのような存在にならなければなりません。


今日の私たち統一教会の信徒たちが、真理を通してそのような身体となり、そのような心となり、そのような心情となれば、たとえ世間がどれほど反対しようとも、この真理が世界を支配する日が来るのです。そして、その日が来れば、この真理は世界を支配するだけでなく、それを超える影響力を持つことでしょう。


今、皆さんが「ここにいたい」「ここに住みたい」「ここに行きたい」と思う場所があるならば、それが本然の居場所であるはずです。その場所にいる家族や仲間たちは兄弟姉妹です。会わなければ会いたくなり、傷を負っていればその傷を抱きしめて涙を流すことのできる心が湧き上がらなければなりません。皆さんはそうなるべきです。仲間の誰かが傷ついたなら、その胸を抱えて涙を流すことのできる人間でなければなりません。


私たちの故郷の家とはどのような場所でしょうか?それは、お父様が私を抱きしめて涙を流してくれる場所です。主も共に涙を流してくださる場所です。心情の縁を一片も欠けることなく、同伴者として、友人として、あるいは新郎として接してくださる天の存在、それがありがたく、畏れ多いお言葉です。


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不甲斐ない自分を抱きしめて涙を流してくださる主、そのようにしてくださる父、それを思うとただ畏れ多いばかりです。その愛によって、人生の旅路で受けたすべての傷を忘れることができるでしょう。このように考えると、どうしようもなく圧倒的な父の愛を賛美する感情が先立ちます。それがなければ、天国に行くことはできません。そうではありませんか?


皆さん、学期の初めに初めて故郷を離れた学生たちは、学期の終わりになると故郷が恋しくなるでしょう。その心が純粋で本然の心情であるならば、どれほどの苦労をしても故郷に帰り、母や兄弟姉妹の手を握りながら涙を流し、自分のこれまでの苦労話を夜通し語り合える、そんな場所や村、山河を懐かしむはずです。


復帰の恨みを解消できていない私たちが人生の旅路を歩む中で、「ああ、主よ!お父様!」と叫ぶ瞬間に、天地万物が喜びの中で「その通りです!ハレルヤ!」と歓声を上げるような瞬間があったでしょうか。皆さんにはそのような瞬間が必要です。それがなければ、天は悲しみと哀れみの立場に置かれざるを得ないということを、皆さんは知るべきです。


皆さん、幸せな人とは、抱きしめて涙を流してくれる人がたくさんいる人です。子どもが素晴らしいというのは何故でしょうか?それは、親が困難に直面し、涙を流すときに一緒に泣いてくれるからです。そうではありませんか?また、親が喜ぶときに一緒に喜んでくれるからです。そのため、悲しみも喜びも共に分かち合える人がいる人は幸せなのです。


皆さん、友人を誇りに思ってはいけません。自分のために死ぬときに涙を流し、悲しみを共にするのは難しいことです。それができるのは親です。そして天もそのような存在です。


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私たちが進むべき道の理念を担う指導者や教団的な責任者がいるならば、その人は羊たちのために涙を流し、号泣し、哀れみの心を持つことができなければなりません。羊たちが自分のすべての事情をその指導者の前で打ち明け、その指導者によって喜びや悲しみ、怒りや楽しさの感情が豊かになるとき、その人々は真の牧者に出会った幸せな人々であると言えるのです。そのような天がいるからこそ、私たちは天を慕うのです。


ですから、今日の私たちは人生の旅路の中で疲れ果てた身体であっても、勝利の内容を持って現れるとき、歴史上のすべての聖人、賢人、そして天が歓喜して迎えてくれる日が来るということを知り、その日を栄光のうちに迎えるべきです。そして、その日を感謝し、その日に自分のすべての過ちを忘れることができ、待ち望んだ願いをすべて成就することを願いながら進むべきです。そのように進む人こそが、今日、道の道を歩む人々であることを皆さんはしっかりと認識すべきです。




<祈り>
お父様、招かれた道が容易いものだと思い進み始めましたが、それが困難な道であることを知りました。喜びの道だと思っていましたが、進むにつれて涙の峠がいくつもあることを知りました。


お父様、私たちに悲しみがあるならば、あなたを抱きしめて悲しみを分かち合いたいのです。人間を抱きしめて悲しみを分かち合うならば、失望することが多いことを知りました。そして、人を信じて進むと傷つくことを知りました。


変わることのない方は父なる神様であられました。お父様を抱きしめて泣いた時間がどれほど幸福な時間だったのでしょうか。そのためにイエス様もお父様を抱きしめて涙を流すための道を求められたのでしょう。


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今日ここに集まった統一の家族は、教派や形式が問題ではありません。お父様を抱きしめて涙を流すことのできる人々であり、人生の旅路が悲しく孤独であるからこそ、人類の前にイエスを立てて先にこの道を切り開かせた父の心情を理解し、父のために涙を流すことのできる真の息子、娘になりたいと願っています。


私たちが悲しいと嘆く前に、お父様が苛酷な鞭を受け、激しい迫害を受け、すべての不条理を耐え忍んでおられることを知るならば、どうして私たちが父の前で自分を弁明できるでしょうか?父の前では自分中心で悲しむ条件はないということを知ったのです。ですから、今日ここにいるあなたの息子娘たちをどうか憐れんでください。


故郷を目指す旅路がどれほど哀れで、悲運で、不幸なものであるかを知りました。お父様、私たちが自分を抱きしめて泣く前に、お父様が先に泣かれたことを知りました。私たちが打たれる前に、お父様が先に打たれたことを知りました。私たちが苦しむ前に、お父様が先に苦しまれたことを知りました。私たちが痛む前に、お父様が先に痛まれたことを知りました。そして、私たちが倒れる前に、お父様が先に倒れられたことを知りました。


これを知り、お父様に向かって言葉もなく進み続けるしかない自分自身を発見しながら、天の前で頭を垂れて「お父様」と呼ぶことのできる息子娘たちを、天はどれほど待ち望まれたことでしょうか。今日のこの言葉を通して、私たちの心にそのような感情が湧き上がることを許してください。そして、この国に対して、世界に対して、天に対して、そのような感情が湧き上がることを許してください。


そのような感情が湧き上がってこそ、個人から全世界的な理念圏に至るまで、自信を持った信仰を持っていると言えるのです。また、自らの理念を立てるための最高の心情を持つ天の立場に立つことができると知っています。そのような環境の道を切り開いていけるように、私たちの心を奮い立たせてくださいと、切にお願い申し上げます。


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今日のこの御言葉を通じて、これまでの人生の旅路で悲しみに暮れていた自分を省み、真の幸せに浸って生きることができるようにしてください。そして、自分の一身が天と結ばれている縁を高く評価し、謙虚に頭を垂れながら父の栄光を高めることのできる子女となることを許してくださいと、切にお願い申し上げます。


すべてをお委ねいたしますので、この者たちの命とその全生活、また彼らが持つすべての理念に至るまで、父の心情に背くことがないように、導き、統治してくださいと切に願い、主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。





先生の「言葉選集」7巻 - 2. 父と私(1959年7月12日)
1959年7月12日(日)、前本部
ヨハネの福音書 14:1-19


<祈祷>
お父様! 30年以上の生涯、イスラエルの選ばれた民であることを誇りに思うユダヤの民を相手にしなければなかったイエスの心は、その民に平和と自由を実現させようという心情が消え去っていたことを、私たちはかすかにでも思い出にはいられません。


4千年の間、一人息子のために努力された父は、イスラエルの民とともにの苦悩の歴史を歩まれてきました。そして流れられた血と汗の跡は、イスラエル民族の歴史に深く刻まれています。



そのように苦労な苦労をなさり、血と汗が流れなかったのに、その当時のイスラエルの民が天と関係を結ぶことができなかったという事実は、無限に近づいて、心を痛いことこの上ありません。


今日の私たちは、過去の歴史の中で地上に来られたイエス様の存在を知り、信じています。しかし、その当時、イスラエルの民に追われ、迫害されていた悲惨なイエス様、ある村から追い出せば別の村へ、この町から追い出せばまた別の町になってしまったイエス様とその心情を知り、信じる者は誰もおりません。表されたイエス様の姿を正しく知る者は、歴史上においても見出すことができないのでございます。


メシアを待って待っていたイスラエルの民は、メシアを迎えるというを迎え、数千年間耐え忍び、戦い続けてきました。そして、メシアがいつ来てもかかと切に待っていました。その希望のしるしが現れたとき、彼らは自分の事情や置かれた環境に執着するあまり、天の心情を理解することができず、深い眠りに落ちてしまったことを、私たちは思わずにはいられません。


このような悲しみを嘆くべき歴史があったことを振り返りながら、今日、私たちには、父なる神の心に深く刻み込まれた覚悟を晴らす責任があるとするならば、来られたイエス様を認めるなかったイスラエルの罪過を、私達が知って背負い、我慢して出来るよう協助してください。


イエス様は、悲しみに満ちた30年以上の生涯を送られました。 特に、その中でご自身の全てを尊重された3年間の公生涯がありましたが、その期間において、誰がイエス様また、誰がイエス様の置かれた苦しい状況を真に知っておきましたでしょうか。 残念ながら、誰一人としておりませんでした。


師が死の道を歩むことを案じ、切なる心情で天にすがりつつ祈りを求めるべきであった弟子たちが、実に『イエス様とは一体誰なのか』と問い返すような状況になりました。そのような状況の中で、3年間の御業が無駄に終わったと感じられたはい様の心情は、争いの悲しみと悲しみに満ちていたことでございます。 もし対立があるとすれば、これ以上の悲しみが他にもあるのでお願いします。 また、心が裂けるような痛みがあると「もしそうだとしたら、これ以上の痛みがどこにあったでしょうか。


奇跡を行われたイエス様を崇拝し、仰ぎ見て敬うことのできるクリスチャンはお控えください。しかし、迫害され、踏みつけられ、押しのけられたイエス様のその足跡に寄り添い、その道をたどりながら生きようとするクリスチャンはほとんどありません。


お父様、哀れみ深いイエス様の心情を抱き、その心に寄り添って立ち上がることのできる息子娘達がこの全世界の中から多く現れよう私達は血の涙を流しながら願わずにはいられません。


生きていて、歴史の中で全てを操り導いておられるお父様、私たちに静かに進むべき道を示してくださることを心より感謝申し上げます。


お父様、どうか私たちが過去のイエス様をただ懐かしむ者に留まることなく、この時代に生きるイエス様を証し、その使命を担いながら歩む者となることができますように。御心に誓うために努力し、決意しながらも真実にその道を追い求めていけるよう、私たちに力をお与えください。

今、私たちが、かつて父なる神様のもとへ向かわなければならなかったイエス様の深い心情を理解し、その心情の前に謙虚にひれ伏すことができるようお考えください。喜び、切に望まれたことが仮にあるなら、それを実現できる者となれるよう私たちに寛容を与えてください。


2千年前、全人類の生命問題を解決するために深く苦しみましたイエス様の心情に接し、その心情と一つになれる息子や娘となれるよう、お父様、心からの願い切に求めます。


死の世界の中で孤独な心情を抱え、もがきに立ち会いながら集まったあなたの息子娘達、今座っているその場で深く悔しい思いをしてもできるようお許しください。生命の力を与えてください、過去のすべての誤りを否定し、天と新しい縁を結ぶことができるこの時にお与えくださいますよう、お父様へ心からの願いを求めます。


お父様、人間に直接語りかけたいと願われるその御心は、今後切実で深いものでお願いします。 、私たちの心の扉を開き、身体のすべての感覚を新たに、お父様の世界にあるすべての真実を体験させてください。そして、あなたの深い心情を慕い求めることができるようにしてくださいください。


どうか、私たちが善なる御旨に浸りながら心から父なる神様を呼び求め、御言葉によって新たに在り、再創造されるという恵みと喜びの時間をお与えください。切に願います。


お父様! この一時が無駄にならないよう、どうかお導きください。喜怒哀楽を感じる時には共にその心情を感じられるように、またお父様の前で敬虔になる時も同じようにその思いを共有できるようにしてください。


集まった人々は多くとも、この者たちが一つとなり、一つの祭壇、一つの生ける供え物となることができますよう、心から切に願います。


この日も、全人類を代表して尊敬される数多くの祭壇に祝福をお与えください。 そして、困難な状況の中で、心から切実にあなたの隠れた息子娘がいれば、それは深い心に寄り添い、相談相手になってください


さらに、彼らと恵みの縁を結んでください、彼らが命の解決点まで先に進むことができるようにお導びきください。


残された時間も主管して下さいます様にお願いいたします。すべてをお父様に委ねますので、この時間が悪魔に奪われる時間とならないようお守りください。


主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン


<御言葉>
今日、皆さんと考えようとする御言葉のタイトルは「父と私」です。これをもっと大きく言えば「父と私たち」「神と人間」になります。 「父と私」このようなタイトルを持ってしばらくお話しします。


世の中に悲しいことがある時には、子どもが愛する親を失った以上に悲しいことはないでしょう。また、親が愛する子を失った以上、悲しいことはないでしょう。


キリスト教では、人間は堕落したと言っています。それは、現社会を見たり、追及して解明してみるとき、視認しなくてはならない事実です。これは、あらゆる罪の原因となって今日のような結果の社会を築いたと推測することができます。ある曲折が原因となって持って今日の結果的な社会になり、その結果的な歴史路程の上に私が立っていて、その結果的な私自体で悩んでいるという事実を私たちは否定できないでしょう。


悲しみの中で一番大きな悲しみは何でしょうか? 失ってはいけない親を失うことになってしまう悲しみ、失われた親を探す悲しみ、これ以上大きな悲しみがないと思います。親や子どものいない悲しみ、それ以上大きな悲しみは無いと考えることができます。


人類は堕落しましたが、ここには人間と天が介在しています。またそこには、いかなる理念とも一致しない私が介在しているという事はありえません。人間が堕落したことを認めるならばと、堕落と言う事は相対的な関係を確立しなければ不可能であるという事実を否定できないでしょう。わたしが良いと感じなければ良いからです。こういうのが一つから全体まで関係を結んでいるのです。


私たちにとって、いかなる事情によってかもたらされた出来事は多いかもしれませんが、心情に絡まっている問題はただ一つのことです。それは人類が両親を失ったことです。両親を失い、神様が子供を失うことで壊れた縁を再び見つけなければなりません。失われた縁を再び結び、失われた喜びを再び探しだし、失われた幸福を再び見つけなければならないことが、まず最初に私たちが解決しなければならない重要な問題でしょう。


それでは、罪悪歴史であることを知っている私たち、罪の世界に住んでいることを認める私たち、自分の心と体の戦いで悩んでいる私たち、このすべては何で解決されるのか? 解決できずにいます。いかなる理念や観念的な信仰でも解決することはできません。その心情の世界は前後がなく、上下がなく、始まりで終わりであり、終わりで始まりと言えるところです。


人間の悲しみは何ですか?堕落によってエデンで真の主人を失ったのは悲しみです。その縁を失ったのが悲しみです。


私たちを創造した創造者はどんな人ですか? 私たちの心の主人であることはもちろん、私たちの理念や私たちの感情世界の主体格、主人格に立つことができる方であり、さらには私たちの心情の主人であり主体となる方です。私たちには、これらの神が絶対に必要です。私たちの意識や認定によって観念的に必要ではなく、絶対に必要です。そんな主人を失ったのが悲しみです。


絹の主人だけでなく一歩進んで神様はどんな格位におられるのかと言うと、人間の父親としておられます。天地を造られた神様が人間を創造して、主人としてのみおられるのではなく、父親としておられます。「私はあなたがたの父親です」これが父親の生活の中心であり、理念の中心であり、神様が人間を創造された目的であったことを私たちは知らなければなりません。


キリスト教徒は神を父と呼んでいます。父の前に息子娘の姿で立たなければならない人間が堕落し、貧しいお世話になっています。人間を息子娘と呼ぼうとするその父はどんな境遇であり、息子として立つべき人間の姿はどのような形をしているのか。父と呼べる息子と呼べる環境と境遇になっていません。息子が父を呼んでも「来るか、息子。」できず、父が息子を呼んでも「はい、父」と答えることができない曲折の巻内に落ちているこれが堕落です。


この寒い名詞を蹴るために下ってきたのが歴史路程であるのです。神様がいらっしゃるなら、その恥ずかしい名詞を踏んで、これを取り除くために戦って出てくるのが彼の仕事でしょう。


このように考えると、父と呼ぶのは簡単ですが、実体的な父として存在するのは難しく、認識的にはその父親を敬うことができますが、実体的に私のためにおられる父を祀るのは難しいのです。


これは魚人軟膏利尿? 堕落した軟膏です。堕落したため、このような立場に落ちたということです。こういう環境で苦しんでいる私たちですが、このような場でそれでも死なずに生きると戦っている私であることを認めるようになったとき、私とその父親との間隔がどうしても不透明でわからないと感じられます。


私たちは、この世界を造ることができるどんなリーダーがこの地上に現れるのかを楽しみにしなければなりません。この通りを埋め、平らな道を敷くことができる世界的なリーダーが現れるのを楽しみにしておかなければなりません。そのリーダーは私の肉的リーダーだけではなく、私の心情のリーダーだけではなく、私の心身のリーダーであるべきです。彼は時代によって変わる指導者ではなく、革命的な内容だけを内包した指導者ではなく、永遠絶対的な指導者でなければなりません。


皆さんがそのような指導者を考えることもできませんでした。占いの前に自分がどのような立場に立ったのか評価してみなければなりません。


堕落した人間にも感謝の気持ちがあります。このような縁を再び結ぶことができる一人が出てきたならば、これは神様の歴史的な恨を解くことができる方でしょう。


人類を滅ぼそうとするのが天の意ではなく、彼らに生きる道を求めてくれる様に責任を負って貰い、天が摂理の意を立ててくる。この気持ちが出なければならないということです。歴史を数えてみると、これは否定できない事実です。


堕落の世界で苦しむ私たちは、罪ある事自体を悔い改め、これに憤慨しなければならず、堕落当時の事を悔い改めなければなりません。それでは、私たちが目指すべきものは何ですか? 失われた本来の親です。失われた本来の主人、失われた本然の父親を探さなければならないという心情を感じられた人には復帰の道が開かれるでしょう。


そんな者達が、そんな群れが、そんな動きがこの地上にいる子供を求めて迷う神様はそのような群れを通って働かれ、被造万物との縁を結ぶためにご苦労される神様はそのような者達を掴んで投入されることを知らなければなりません。


数千年の歴史の道を経て来る中で、「誰がそうだ」とする事実を万民から聞くことができなかった時には、万民を恨むべきであり、歴史の道の中で聖賢たちがようそのまた、意志を持って立ち上がった聖人の言葉の中にそのような内容を見つけることができなかったとしても、神が存在しなくても否定してもよいと言う事です。


人間を救うために摂理される神様は、私たちの人間の中に住み、私たちの人間が神様の中にあることを楽しみにしておられるということです。それでイエス様は弟子に対して「わたしは神様の一人子であり、あなたたちは私の兄弟」と言われました。また「私が行うのは私の思い通りに行うのではなく、父の思い通りに行うことだ。私が望む国は私の国ではなく、父の国です。私が探している人は私の人ではなく、父の人です。私が住みたい場所は私の家ではなく、父の家です。私が誇ることができる国は私の国ではなく、父の国だ」。それから「天は父です。地は母である」と言われ、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは花嫁」と言われました。


人間を救うために摂理を行う神は、私たち人間の中にあり、私たち人間が神の中にあることを切に言っておられるのです。 「あなたは神の独り子であり、あなた達は私の兄弟である」と言われました。また、「私が行うのは」私自身の意志で行うのではなく、父の意志によるものだ。 私が望む国は私の国ではなく、父の国だ。 「私が住みたい場所は私の家庭ではなく、父の家庭である。私が大事とする国は私の国ではなく、父の国だ」と言われました。


さらに、「天は父であり、地は母である」とし、人類に対して「私は新郎であり、あなたたちは新婦である」と語られました。


このような尊い命題が天倫の中に残っていれば、天が存在することを肯定することはできず、また、そのような内容を備えていた何かがなければその道を見つけることはできません。宗教が築かれ、人間をその方向へ導いているのです。


このような視点から、親子の縁、夫婦の縁、兄弟の縁を紹介する内容を持つ宗教が、最終的な宗教となるでしょう。これを否定することはできません。このことを謹んで感謝すべきです。


歴史上、いくら多くの聖賢たちが現れて去ったとしても、彼らは天を捉えて慎重に大切にしたいものとして紹介しただけで、天を現実に知覚できる内容を示唆することはできなかった。だがイエス様はユダヤ民族があざ笑う所で見えない神を「父」と呼ばれました。 また、迫害を感謝して受入れて、その迫害に打ち勝ちながら天を憂い、心を配られました。


これは、イエスがこれまで誰も経験したことのない、また誰も知らなかった内容を持って、さらに誰も知らなかった天宙観と人生観を諦める場に敢然と立ったということを意味します。


イエスはそれを大事な内容としてだけではなく、心情的な内容として受け入れました。遣わされて人の中にからそのような人物が現れたとしても、その人をメシアとして認めなければなりません。 天倫の歴史はそのようにして進んでいくものです。


イエスは天が遣わされた方です。 彼は罪悪の下で行動されたのではなく、歴史上の罪悪と堕落によって生じたすべての悲しみを解消するまで、父の心情が残る場所からその心情の終わった場所に続くまで、すべてを考えて解決する根本的本体として地上に来られました。


「私は新郎である」と言われ、「あなたたちは新婦である」と語られました。私達はイエスが神を「父」と呼んだその域にまで進んでいかなければならないのです。


全世界のキリスト教者たちは主を新郎と呼び、自分たちはその前に堂々と現れることができる新婦だと自認しているようです。それは幼い事情で実現するものではなく、ただひたすらな心情を持つことでのみ可能なのです。


そして、その心情は自分自身の心情だけではなく、神が6千年間かけて摂理を進めてこられたその歴史的な心情を受け継ぎ、この現実を超え、未来に至ることができる心情的な話です。


このような心情を持つ新婦となり、天のために動き、主体としての価値を認めながら、「ああ、新郎である主よ!」と言うとき、そこに天が応えて協力してくれるのです。


私たちは残された御言葉を大切にしています。語られた御言葉を大切にしてそのみ言葉を守っています。


約束され、待ち望まれていたメシアを尊く思うことはできた御言葉ですが、実体として現れたその方を尊く思うことができなかったことが歴史的な恨です。


御言葉を聞いて、実際にその人を見ると普通の人と変わらないように見えたのでそうなったのです。


このような歴史的な曲折をもう一度考えながら、私たち自身の嘆かわしい立場を反省し、親子と言う「縁」を憂いなければ、私たちにとって希望や天国、理想世界は無いというのです。


罪の血統を受けた私たち、罪悪歴史の屈辱から抜け出せない私たち、罪悪圏内に属して生活しながらその環境を越えられない私たち、この様な私たちであるのに父と私の関係をどのように解明するのか?


これは私たちが努力してもできない内容です。なので心情をもって信じなさいと言いました。これがキリストが伝えた福音です。何か条件をもって信じようとしたのではなく、心情を通して信じようと言われました。


聖書66巻のすべての御言葉に近いことより、66巻の中でより大事な父の心情を理解することが重要です。また生かされた父の心情、父を乗り越えたことでこうなった現状を再び証言されるその心情、堕落した人類に苦しみ、堕落しなかった立場に見ようとされるその心情を知っておくべきです。これこそが重要です。


皆さんが神を「父」と呼び、もし自分がその子供になりたいと願うのであれば、この隔たりを乗り越えなければなりません。


なぜなら、天は私たち人間に聖書の御言葉だけを命がけで読めとは言われませんでした。


イエスは3年間の公生涯を通して多くの御言葉を残しましたが、その御言葉だけしがみついて生きてとは言われませんでした。父の心情を理解すべきであると願われたのです。


心情の世界には違いがないため、至高で聖なる神に対しても「父」と呼ぶことができるのです。親子の縁に深く浸る心情で「父よ!」と叫び、しがみつくとき、その父なる神が「あなたの手は他人のものだ。あなたの体は他人の体だ。あなたの心は他人の心だ」と言われることはないのです。


心情的に一体となる立場になれば、私たちは父なる神の延長体であり、神の分身なのです。


さて、イエスが神を「父」と呼んだ内容と、私達の「父」と呼ぶその内容の一致点がどのように大事なのかが問題です。


さらに、その内容が同じであるか異なるかが問題ではなく、心情の一致点を踏まえることが重要な課題なのです。


そうであれば、イエスが「その日には、私が父の中におり、あなたがたが私の中におり、私があなたがあなたの中にいる事をあなたがたは知るであろう」 (ヨハネ14:20)と語られた御言葉は非常に重要です。


心情の世界は時間を超えています。空間を超えています。ここに革命という名詞はありません。ですから、2千年前に行ったイエス様を今日のイエス様に祀ることができ、今日の私と関係を結ぶことができるということです。この縁を何で結ぶことができるのか? 御言葉だけではありません。イエス様が私のために十字架にて亡くなったという観念的な認識を持ってはいけません。心情だけが可能だということです。

人類を滅ぼすのが天の意志ではなく、彼らに生きる道を考える責任を負い、天が摂理の意志を立てて進んでいるとすると、天が望み、人類が望む父子の縁を回復できる主人公が必ず現れなければならないということです。


それは、現代の社会を見渡したり、その原因を真剣に考えてみたとき、否定できない事実として認めざるを得ません。 そして最も罪深い根本が原因となり、今日のような社会が結果として生まれたと推測することができます。 いくつかの複雑な経緯が絡み合い、今日の結果的な社会があるのです。 そして、私はその結果として歴史の流れの中に立っており、その結果としての自分自身の存在に気づいて苦悩しているという事実もまた否定することができないでしょう。


このような視点から考えると、地上の人々のために来られたイエス様は、無限の悲しみを抱いた方でした。彼の涙は人間の悲しみの代わりに流した涙であり、彼の嘆きは天の嘆きを代わりに受け止めたもので彼が3年間の公生涯で経験された苦難は、人間のための苦難であり、同時に天のための苦難であったことを、誰も知りませんでした。彼の死は人類全体を代わっての死であり、天の心に刻まれた血の跡を守るためのものであったことも誰も知らなかったのです。


イエスが最後に天に向かって祈られたとき、「アバ、父よ、もしできることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、私の願いではなく、父の御心のままにしてください」(マタイ26:39)と祈られた事は、すべての事情を超越した祈りでした。 人間の俗世のすべてを超えた位置から行われた尊厳ある祈りでした。私の悲しみは父の悲しみである」と考えられたのです。


そのため、イエスはご自身の死を無念だとは考えず、父なる神がさらに多くの苦労をされ、さらに深い痛みを感じ、さらに大きな無念さを抱えて受け止められるという全体的な感情を感じた、そして天がそのような声を受けながらも、人間を支え、すべての民を救うという意志を持っていることを知っておられたので、その道を堂々と乗り越えることができたのだと、私は覚らなくてはならないと思います。十字架での死を前にして、全人類を救おうとする意志を中心に据えたイエスの心情と神の心情が通じ合い、その意志を実現するためにイエス様は命を捧げられたのです。


私が「信じている」と言うのは簡単ですが、その信念の内容に深く入り込み、心情がある境地に通じることができるかどうかが問題です。神が心情を通じ合える人を求められなければ、真実の愛というものも存在しないはずです。


「父よ」と言われたイエスの声、哀れな子どもたちに向かって叫ばれたイエスの御言葉、そのすべての言葉は神の心情から湧き上がり発せられたものでした。イエスの御言葉を読むとき、それが目の前に主がいるかのように、「主よ!」と彼を抱きしめたいという心情を感じたことがありますか? さらに進んで、「父よ、私はあなたのものです。私の体もあなたのもの、心もあなたのもの、私の深く心に残る心情もあなたのものです。あなたのものはないものは何一つ「ありません」と言うような心情を持って聖書を見たことがありますか?


その御言葉を読むとき、それが目の前に主がいるかのように、「主よ!」と彼を抱きしめたいという心情を感じたことがありますか? さらに進んで、「父よ、私はあなたのものです。体もあなたのものであり、心もあなたのものであり、私の深く心に残る心情もあなたのものです」と言うような心情を持つことができなかったのであれば、自分が子としての立場に立っていないという事です。


イエス様は、眠ることを忘れ、夜通し祈られるときも、父が共におられることを知り、感謝の心を持って祈られたのです。30年以上の生涯を過ごされる中で、その生活の中で迫害が押し寄せ、困難な現場が目の前に置かれる状況に立たされることも、それを乗り越えることのできる心情を持って生きられたということです。悪魔はイエス様に侵入することができなかったのです。


心の世界には二つに分かれて存在することはできません。事情の世界では多くの存在が動くことができますが、心情の世界には二つが存在することは許されません。4千年間の心情を受け継ぎ支える場には、父と子の縁以外には何一つ差し出すことができません。


そこにどのような他の論も立つことはできません。 だからイエス様の発言は父の御言葉であり、イエス様の願いは父の願いとして現れることができたということを、私たちは知らなければなりません。


今日、皆さんが教会に行き、信仰生活をしていることを宣伝してません。数十年間の信仰生活を幼い頃から信仰的に行って喜んでいる人よりも、御言葉は知らなくて心情が通じ、天と地の前で感謝することができる人の方が、あの世に行くとそれなりに高い場所にいるということを、私は感じ、見てきました。


罪深い世界も、罪深い自分の体も、何もかも全て捨てなければなりません。正しいものは何でしょうか?  それは、天に対して「父よ!」と呼ぶことができる心情です。その心情を持ってこそ、花婿である主に出会うことができるのです。これは、天宇(天宙)を歩きながらも残すことのできる天宙観です。今日、何々主義や何々観というものはすべて必要ありません。イエス様はそのそうした心情を持っておられたからこそ、神が臨在されることができたのです。私たちにもそれが必要なのです。


イエス様は持っている物は殆どありませんでした。服とは、体にかけて使う単蜂だけでした。持っていたものがあったとしたら杖位だったでしょう。しかし持っていたものがあったとしても結局は何が最も貴重だったでしょうか。それは全宇宙を与えても変えられない神様への信仰でした。それは父と呼ぶことができる変わらぬな信仰でした。それがイエス様の全体的な価値であることを知る必要があります。


イエス様は「信仰と希望と愛、この三つはいつまでも残るが、その中で最も大切なものは愛である」と忘れています。一人の人を探すために歴史の苦難を乗り越え、壁に遮られ理不尽な傷を負った人間を愛し続けられた父の切なる心情。 四方八方から迫り来る迫害や敵の矢が自分を狙うという環境が重くなるのは当然、それを乗り越えることを切に願われる父の愛の心情を感じたのです。 


「誰が私たちをキリストの愛から引き離すことができようか。苦難か、困難か、迫害か、飢えか、裸か、危険か、剣か」ローマ人への手紙 8章35節 。この御言葉は正しいです。イエス様の御言葉とその生涯のすべてを軽んじることはできません。しかしイエス様を復活させることができたのです。 


歴史の因縁も、そのような転換点で新たに社会を変革してきたという悲しみ、天倫の因縁も同様です。罪悪に染まった悲劇的な歴史を乗り越えることができるのは、心情のみです。

それゆえに、今日の歴史はイエスの理念に収束しつつあります。このことを否定することはできないでしょう。そしてその人は神に対して「父よ」と呼ぶ心情を持つ者でしょう。 さらに、イエスに対して「新郎で兄弟である」と呼ぶ正義の人でしょう。 「私の友である」と言い、「兄弟である」と語られたのです。


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歴史的な終末に関して人類の前に与えられることがありますが、それは27億のすべての人類が神に向かって「父」と呼ぶことができ、父の歴史的な人間の心情的な反省だけでなく、その主観を感じて自らを反省することができるのです。

人間の心情はすべて天のものです。イエス様は福音の御言葉を持って現れ、「あなた方は誰よりも私を愛しなさい」と言われました。このような矛盾した御言葉がどこにあるでしょうか? しかし、それは感謝すべき御言葉です。悔しい復帰の道を歩まなければ人間の前で、神を「父」と呼び、さらに私たちを「新婦」と呼ばれたのにです。

イエス様は生まれながらにこのような心情を抱いて語られ、このような心情を持って数十年生きて悪魔と対決されたのです。 

人類の安住の地は、事情が近い世界ではありません。心情世界です。国境をも超えて心に染み入る感覚が「そうだ、その通りだ」と感じられる心情の世界です。そのような心情世界の感覚を持って歴史的な事情を超えることができないのであれば、神の統一理念は実現しません。そういった御言葉もすべて空論に過ぎません。 

親の心情を持てば、こういうことを越えてまた越えて、捨ててしまってまた捨てても喜ぶことができるに違いありません。 歴史の終末にはそれを受け継がれるでしょう。

イエス様は「天国はあなたの心の中にある」と言われました。この御言葉は何を意味しているのでしょうか? 無限の天国が私の心の中にあるということ、それは天国が私の心情で繋がっているということです。

では、神が父であり、私たちはその子供であり、その身体と私の身体は一体です。 父の血と肉、そして私の血と肉は一つなのです、一つ。なぜ親が子供を愛するのか。それは自分の身体の延長だからです。自分自身を愛するのと同じことなのです。

心の面において、神とイエスは一体でした。神の動脈が動くとき、イエスの動脈も動き、神の脈拍が鼓動するとき、イエスの脈拍も鼓動し、決断するときも共に決断しました。ですから、親が子に対して「私はあなたを愛している」、また、子が親に対して「私は親を愛し、慕っています」と説明する人がいるでしょうか? 血が通じているので、自動的にそのように動くのです。その世界は、もっとも論理的な条件も超越した世界なのです。 

パウロはローマ8章で、私たちは堕落した人間なので、罪人と呼ばれていました。大声で叫ばないでください。堕落した人間は罪人と呼ばれました、罪人です。罪人は血統が異なります。


ですから、神様は養子の血統を清算し、父の心情から継がれた血統をそっくり受け継ぎ、その心情を受け継いだ息子、愛しようとしなくても自然に愛することができるそのような息子を楽しみにしておられるというのです。

私が父親を愛していると言わなくても、父親が私を愛することができ、私が私を父親のために戦うと言わなくても、父親のために戦うことができる心情が湧かなければならないのです。しかし、そんな心情が湧かないのが堕落した人類の心です。

イエス様はそのような点で異なっていました。 「お父様!」と言えば、悲しみに浸った父も「傍にいる」と言われたのです。 「お父様!」というその一言に、お父様は数億千万人の祈りの世界を超えた心情を感じたということです。 

「お父様」が「傍にいる」と言われる事、これは悲しい働きを超越した神様の創造目的を中心とした自然な縁です。何がどうしようとしてもどうすることもできず、どんなものでも否定され、どんな条件でもこれを阻止される場所です。そんな心情の領域に入ってみましたか?

あなたがそのような心情域に入ると、細胞まで動くようになります。あの若者が気にならないと言うかどうかはわかりませんが、誰が何をしてもいいのです。愛の心情、愛の風合いは全存在世界の本質であり、全体を総合した味わいを持っているのです。だから天が恋しいということです。

そんな心情域に皆さんが入って祈るならばご飯が問題ではありません。自分がご飯を食べたのか寝ているのか、そういう認識を超越することになります。人間が肉体を使って認識するよりも、数千万倍の内的な感情を内包しているのが愛の世界です。そうではありませんか? イエス様が迫害されて疲れた足を引きずり、オリーブ山に入って天に対して静かに祈られたその時間は、他の人が知らない幸せな時間でした。 お父様と呼ぶその瞬間は、自分と神のすべてが心情域の世界に同化されて入る瞬間でした。十字架の死も忘れることができる心情的な内容を備えたので、敵を祝福することができたということです。



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御言葉選集7(1)

2024年11月30日 16時40分21秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 7 - 1. 故郷を探し求める人生の道
1959年7月5日(日)、旧本部教会


ルカの福音書 15:11-32


1


<祈祷 (Ⅰ)>
死の影の中でもがいていた私たちが、父なる神を慕う心でこの日に再び集いました。どうか私たちの心が父なる神の心に留まることができますようにお許しください。そして、私たちの心と体が父なる神のものとして動けるようにしてください。


父なる神は、無限の労苦をいとわず、時代ごと、世紀ごとにわたり、私たちの祖先たちと共に歩んでくださいました。どれほどのご苦労をされ、祖先たちの道を切り開いてくださったことでしょうか。それにもかかわらず、私たちの祖先たちは天の労苦の功績をないがしろにし、父なる神の心に心配を抱かせる恥ずべき姿をしていたことを、どうかお許しください。


祖先たちが犯した罪が永遠の恨みとして残っていることを私たちは知っています。そして、その悲しむべき堕落の行いによって、6千年もの間、数多くの人類を苦難の中に陥れたことも知っています。私たちは、父なる神の御心を裏切り、嘆き悲しませた歴史的な祖先たちの堕落した心を、再び受け継いでしまうのではないかと恐れています。私たちは、堕落から生じた恨みの峠を越え、祖先たちが残した恨みを踏み越えて進まなければならない時に生きています。どうか今、私たちの心が父なる神の御心に捕らえられることをお許しください。そして、私たちの体が父なる神の体に代わることのできる、栄光のひとときをお与えくださるよう、心から切に願い求めます。


誰が父なる神の御心に一つになり、涙を流して訴えることができましょうか?誰が父なる神の事情を代わりに背負い、戦うことができましょうか?この地上には多くの人々が住み、多様な人類の姿が見られます。しかし、父なる神が胸に抱える事情と御心について相談し合う相手となれる場所も地域も人もなく、そのために嘆きと悲しみの歴史を繰り返してこられた父なる神のことを知る者はほとんどいません。私たちは、このような哀れで無念な父なる神の内なる御心を知っているゆえに、今日、心を開き、事情を打ち明け、すべてを父なる神のものとして接ぎ木する時間を持たせてくださいますようお願い申し上げます。


父なる神よ、私たちのすべてを赦すことのないこの時間を与えてくださり、ただ父なる神と一つに接ぎ木された場所で喜びを享受できる姿となることを、この時間、誠心誠意をもって父なる神の前に訴え求めざるを得ません。


2


この日、愚かで至らない私たちが天を慕い、ひざまずきました。私たちの哀れな事情を知っておられる我が父なる神よ、悲惨な環境の中で共に戦い、支えてくださった父なる神よ、今日、私たちは心を一つにして父なる神の御前にひれ伏しました。どうか私たちを受け入れてください。私たちは父なる神のものとならなければならず、父なる神の御前で導かれなければならないことを知り、心を尽くし、想いを尽くして父なる神をお迎えするために、長年の苦労の道も厭わず歩んでまいりました。そして、困難で苦しい峠道も耐えて越えてきました。


このような道を耐え忍んできたのは、父なる神との縁の歴史を残すためでした。今日ここに集った私たちは、父なる神が探し求める者を無視せず、敵をも排除せず、求める者を友の立場に立たせるために御苦労されたことを知っています。父なる神よ、今日私たちは心を尽くして求めたいと願います。誠意を尽くして探し求めたいと願います。すべてを捧げて父なる神との絆を結びたいと願います。どうか私たちを憐れんでください。求める心を満たし、探し求める願いを叶え、叩く扉の事情を聞き届けてくださいますよう切に願います。


今、足りない私たちが父なる神の御前で待ち望むことがあるとすれば、それは父なる神の御心と共に喜びを分かち合うひとときを持つことです。それこそが私たちの唯一の願いであり、私たちのすべての財産であり、私たちの全生命であることを知っています。父なる神よ、この時間、集まったあなたの息子娘たちを憐れみ、どうかお守りください。


父なる神よ、私たちが進むべき生命の道をお示しくださり、導いてください。今日まで困難の中で私たちを耐えさせてくださり、迫害の中でも耐える力を与えてくださり、倒れそうになる場面でも恨みを残さないように歴史を通じて私たちを支えてくださった父なる神であることを知っています。今日、再び自分の誠意と心情を父なる神に捧げるために集まったあなたの息子娘たちがたくさんおります。どうか彼らの心に直接働きかけてください。そして、彼らの心情の上に再び父なる神が御臨在し、彼らの生命に天の生命が接ぎ木されることをお許しください。


今、心に深く刻まれた恨みを抱きながら、敵に立ち向かって戦わなければならない最後の使命を果たす時が来ました。父なる神よ、どうかあなたの力を現してください。生命の権威を持って私たちの前に現れてください。


3


私たちが死を覚悟して父なる神の恨みを解き放とうとするならば、愛の原則を備えて進むことができるようお許しください。そして、生命の主の御前に立ち、敵に立ち向かい戦う勇士となることができるようにしてください。そのようにして、復帰されたエデンの園において、この地上の多くの生命が私たちを見て生きる希望を見出せる生命の基準を備えた子女となれるようお許しくださることを、心から切に願い求めます。


今日まで信じてきた自分自身の信仰を悔い改める心、自らの行動を振り返り悔い改める心、自分が抱いていた希望を反省し後悔する心、自分自身の内なる心情を笑い飛ばすことができる心をお与えください。そして、自分自身のすべてを否定し、父なる神のものとしてすべてを結びつけ、父なる神を呼び求める栄光の場へと私たちを導いてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、三千里半島を憐れんでください。この地は歴史を通じて多くの民族の前で蹂躙された地であり、敵たちに踏みにじられた地でありました。この地の三千万の民族が血に染まった歴史の恨みを抱いていることを私たちは知っています。父なる神よ、この民族の心情の上にあなたの心情が重なり、この民族の事情の上にあなたの事情が重なり、この民族が望む希望があなたの希望と結びつくように導いてください。私たちが苦しい過去を恨むところに留まらず、目の前に迫る天の時を迎えるために心配し、訴えることができる息子娘となれるようお許しください。愛する父なる神よ、心から切に願い求めます。


父なる神よ、天的な歴史が残されており、多くの民族に代わってこの民族を探しに来られた父なる神の足跡が、嘆きと悲しみによって引き返される日が訪れないようにしてください。この地が悲しみの恨みを残さず、この民族がそのような悲しみを抱えないようお許しください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


眠りについている27億の人類は、父なる神がそれぞれの心に灯をともして幸福をもたらす時を準備しておられることを知りません。この人類を目覚めさせなければならない使命が私たちにあり、人類の複雑な事情を解決し、新しい理想天国を建設しなければならない使命、福祉を築く使命が私たちにあることを知っています。今日のこの至らない、不完全で不足した私たちがひざまずき、恐れ多く申し訳ない心を抱いています。この時間、訴える心情を通じて、天上から驚くべき恩恵をお与えください。父なる神が現れてくださり、そうでない心情をすべて取り除いてくださり、私たちのすべてが父なる神のものとして結びつけられ、父なる神が私たちを『あなたの後継者だ』と認めてくださる時間となりますよう、心から切に願います。


4


父なる神よ、ソウルに残っている家族たちと地方から集まった家族たちが、あなたの御前に新しい祭壇を築こうとして集まりました。どうか、あなたの幼い息子娘たちを憐れんでください。語りかけ、慰めたい言葉は多くあれど、語ることができない事情をお知りください。悲しい時も天の御心のために、孤独な時もただこのひとつの目的のために、迫害される時もこのひとつの目的のために、落胆する時もこのひとつの目的のために、追われ、追い詰められる切ない心情を父なる神の御前に訴えるしかない事情を抱えた息子娘たちがここに集っています。


今日、心を開いて父なる神と語り合い、すべての事情を父なる神の御前に打ち明け、解決することができるようにしてください。困難だった事情をすべて父なる神の御前において、父なる神が喜ばれる姿となり、『たとえ自分が死んでもこの道のために純粋な生ける供え物となります』と再び誓えるこの時間となるようにしてください。父なる神よ、心から切に願い求めます。


言葉だけで天の御心が成し遂げられるのではなく、誠意だけでも成し遂げられないことを知っています。御心に深く触れ、天のために歌うことのできるその心を懐かしく思います。すべてを忘れ、天のために夢中で走り回るその姿を懐かしく思います。そのような懐かしい心情を抱き、父なる神の栄光を歌えるひとときと場所があるならば、恐れ多い心情で頭を垂れたいと思います。どうか、私たちのこの切なる願いと切なる心情をご存じくださり、この時間、私たちのもとを訪れてくださるよう、父なる神よ、心から切に願い求めます。


どのような道であれ、実際に通ったことのない者はその道を知ることができず、体験していない者の言葉には命がないことを知っています。この民族が悲惨な境遇に追いやられていることも、父なる神の哀れみ深い御心を知らせるためであることを私たちは知っています。孤独な場におられ、悲しみの中にいらざるを得ない父なる神の御事情を知っており、私たちを迫害の場に置かざるを得ない父なる神の無念さと嘆きの御心を知っています。


今日、私たちの心が父なる神のものとなるよう、どうか私たちの心に訪れてください。私たちの心情に父なる神をお迎えし、共に涙を流すことのできる存在となりたいと願い、この場に来ました。過去を悔いるのは父なる神を知ったからであり、過去の出来事が無念に感じられるのも父なる神を知ったからです。そして、私たちが悲しむのも天を知ったからに他なりません。父なる神はどのような状況であっても私たちを受け入れなければならず、私たちは復帰の恨みを残した歴史を恨むべき立場にあります。このような自分自身を悟り、今日も明日も懸命に走り続け、天だけを頼りに進むことができるよう導いてください。父なる神よ、このような私たちの事情を誰よりもよく知っておられることを信じています。この日、すべてを忘れ、自らの心を束ねて父なる神の御前に捧げる、生ける捧げ物となることができるようにしてください。


5


この日、地方に散らばり、ひれ伏して訴えるあなたの息子娘たちの心に、新しい生命の贈り物をお与えください。そして、彼らを荒れ果てた地のような場所へ送り、生命の灯をともすことができるようお許しください。光と栄光の灯として現れる礼拝のひとときとして受け入れてくださることを、父なる神よ、心から切に願い求めます。


事情はそれぞれ異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情を持つことができるようにしてください。心情が異なっていても、父なる神の働きによって同じ心情に結びつけてください。父なる神よ、このひとときを導いてくださり、父なる神のもの以外のすべてを取り除いてください。そして、三位一体が喜ぶひとときとして整え、あなたにお捧げすることができるようお許しください。すべての言葉を主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈祷 (Ⅱ)>


父なる神よ、私たちが祈りを捧げる前に、私たちの心情をご存じであることを信じています。このひとときが、父なる神が直接臨在される時間であることを知っています。天が私たちのすべてを注視している時間であることを、私たちが感じることができるようお許しください。


労苦に満ちた歴史の道を歩まれた父なる神よ、どうか今日、私たちの目の前に現れてくださり、新しい御言葉で私たちを飾り整えてください。新たな心情で私たちに向き合ってくださいますようお願い申し上げます。不忠なすべてを一掃し、幼子のような心で私たちのすべてをこのひととき、父なる神の御前にお捧げしたいと願います。世の中に染まった一切の意識や主義、観念を父なる神の御前に差し出し、幼子のような心、柔和で謙遜な心を持つことができるようお導きください。父なる神の御手によって再び形作られることを受け入れる謙虚な心を整え、御前にお捧げしますので、どうかお受け取りください。三位一体の神がこの場を導いてくださいますように。


悪魔的な要素を持ち、天に逆らう要素として残るものを、どうか一切お許しにならないでください。勝利の盾を備え、悪魔が侵略する場とならないようにしてください。


6


天の軍勢と天使たちに囲まれる中、喜びの心情でこのひとときを礼拝するこの場が、すべての生命を勝利へと導く祝福の祭壇となるようにしてください。心からお願い申し上げます。


すべてをお任せいたします。私たちの持つすべての主義と心情を父なる神の御前にさらけ出せるようにしてください。そして、私たちのすべてが父なる神のものに変えられるひとときとなりますように、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈祷 (Ⅲ)>


この時間、頭を垂れるあなたの息子娘たちを憐れんでください。この場で誰が指導者となり、誰が天の御言葉を代行できるでしょうか?この者たちは、父なる神以外の誰も現れることを望んでいません。どうか、父なる神ご自身が直接現れてください。心情を通じて天を体験させてくださり、感じずにはいられない父なる神の御事情を理解することができるようお許しください。また、父なる神の御前で悔い改めずにはいられない心情を持つことができるよう、どうかお働きください。


人間同士が集まる場では、解決しようとしてむしろ絡み合ってしまうことが多いですが、天を中心に集まる場では、心のしこりが解けることを知っています。罪深い子孫のせいで絡み合ったすべてが、根本から解かれる蕩減の歴史、悔い改めの歴史、感動の歴史によって、私たち自身を振り返り、過去を悔い、新しい日を憧れる深い心情を引き起こしてください。そして、その心をしっかりとつかみ、もう一度自らを悔い改める再創造の歴史が起こることを、この時間どうかお許しください。心から願い求めます。


これから御言葉をお伝えしようとしています。この時間、集まったすべての者たちの上に、父なる神の愛と守りの御手を広げてください。語る者の心も聞く者の心も、心情の帰一する一点で動くことを求めます。今日、私たちは身体だけの幸福を望んでいるのではなく、ただ心だけに執着して生きることも望んでいません。ただ、心情をかけて永遠に生きることのできる楽園を望んでいます。日常生活の中でも、心情的な縁のひとつの条件が各自の心の深くから沸き上がり、心情の奥深くに根差す縁が結ばれることをお許しください。父なる神よ、切に願い求めます。


7


父なる神よ、これまであなたの愛する息子娘たちにお与えくださった御言葉は多くあります。この御言葉を中心として心を一つにし、責任と使命を果たすことこそが私たちが進むべき道です。どうか父なる神よ、私たちと共にいてくださり、その歩みの道が遮られることのないよう守り導いてください。この御言葉を通して、父なる神の内なる心情にふさわしい結実を得ることができるようお助けください。さもなくば、与えられた御言葉によって天の御前に後悔を残す息子娘となるのではないかと恐れる者となることを許してください。父なる神よ、切に願い求めます。


この日は聖なる日です。すべての人々の上に祝福の恩恵をお与えください。御心を代わりに担い、心情を抱いて天の御前に訴え、隠れた祭壇を築き祈る息子娘たちが多くいることを知っています。どうか彼らにも祝福をお与えください。また、天の孤独な心情を抱き苦しむ者、蕩減的な解怨の日を待ち望む霊界の多くの霊人たちも、私たちと関わりがあります。父なる神よ、彼らのためにも私たちを通じて良い結果をもたらしてください。


三位一体の神が私たちを取り囲み、見守り、待ち望むその心情の基準に私たちが不足しているならば、その責任を満たさないまま父なる神を呼ぶことのないように導いてください。私たちの責任が満たされた場で「父なる神よ」と喜びを持って呼ぶことのできる者として、この時間私たちを立ててください。そのような恩恵を持たないならば、幼子のように柔和で謙遜な心を持ち、父なる神の憐れみと慈悲の心情を引き寄せる息子娘となれるよう、この時間導いてください。心からお願い申し上げます。


この日、地方に散らばる家族たちにも祝福をお与えください。多くの命が天の時を憂い、訴えています。どうか彼らの前にも生命の恩恵を許してくださいと、切に願い求めるこの時、すべての祈りを主の御名によってお捧げします。アーメン。






<御言葉>


皆さんと一緒に考えてみたい御言葉の題目は、「故郷を探し求める人生の道」です。「故郷を探し求める人生の道」という題目でお話しいたします。今日の御言葉は、そのような内容になります。


8


現在、この世界の人類は平和を切望しています。それだけでなく、自由を享受する個人となり、自由な社会、自由な国家、自由な世界で生きることを、誰もが望んでいます。


私の心に平和がなく、私の心に自由がなければ、真の幸福は存在し得ません。真実の人生の道を歩みたいと願う人がいるならば、その人は真の平和の中で真の自由を謳歌し、真の幸福を享受したいと望むことでしょう。


では、皆さん自身と真の人生の道を歩もうとするこのような理念的な条件を比較してみると、どのような立場にいるでしょうか?これが対立しているのか、それとも一致しているのかをはっきりさせるべき時が、終わりの日ではないかと考えます。


今日、優れた人もそうでない人も皆口をそろえて、この世界は平和な世界ではないと言っています。自由を叫んでいますが、心の底から自由を感じて生きられる環境ではないことを認めています。そのため、私たち人間は理念的に望む幸福な自我にはなっていないという事実を否定することはできません。


このような自分、このような私たち、このような社会、このような世界、そしてこのように歩んできた歴史の道、このように歩んでいる現実について、私たちはあまりにもよく知っています。


9


これを認めるならば、私たち自身は、自分が喜びを見出せる故郷の世界で生きているわけではなく、自分が幸福を謳歌できる故郷の園で生活しているわけでもありません。また、自分が考える通りに動き、主導できる本来の世界で生きているわけではないということに、誰も反論できないでしょう。


それでもなお幸福を願い、平和と自由を望まなければならない私たちの心の動きが、自分自身を急き立て、環境を急き立てているという事実を、皆さんは日常生活の中でよく感じていることでしょう。


このように内面的にも外面的にも、私たち人類が望む故郷の世界はまだ実現しておらず、人類がその世界で生きることもできていないため、今日の私たち人類は故郷を求めて彷徨い、苦しんでいるのです。このような状況にある人類であることを、私たちは明確に知らなければなりません。そのため、優れた人であっても故郷を求めて苦しみ、そうでない人もまた同じように苦しんでいるのです。


人間の姿をしているすべての存在は、誰であれ故郷への道を求めてさまよう歴史的な思想の潮流から抜け出すことができていないという事実を、この時間、皆さんは感じるべきです。


そこで今回は『故郷を探し求める人生の道』という題目でお話を進めたいと思います。


10


これまでこの地上には、聖賢や賢哲たちが現れ、人々に人生の進むべき道を教えてきました。「このように進みなさい」あるいは「このような主義の中で生きなさい」と方向性を示してくれたのです。その中には、哲学が目指す方向性もあれば、ある権力者が掲げた理念による道もあり、また社会的な倫理観を通じて示される道もあります。さらに外的な世界を引き込んで、そこに永遠の理念を結びつけようとする宗教的な方向性も存在します。大きく見ればそのような道があり、小さく見れば「個人を中心に進むべき道」「家庭ではこうすべき道」「対人関係における在り方」といった方向性もあります。


しかし、これらすべては、全体的で天宙的な理念が目指す幸福の時を準備するために動く位置にあるべきです。そのような位置に立つことができなければ、それらすべては天倫を明らかにし、天の御心を完全に立てるその日には、必ず天倫に違反する立場となるのです。


では、宗教が進む道、倫理を中心とした道、あるいは哲学が目指す真理の道において、どのようにして幸福の世界を紹介し、平和と自由を見つけるべきでしょうか?


人間の心情は、誰もが同じです。数千年前に抱かれていた心情も、億千万年後に現れる心情も変わりません。心情の世界には進化がありません。


同じ基盤で動く心情を引き出し、幸福の園を築くことができる世界、幸福を感じられる社会的基準、幸福感を味わえる宗教的意識、そのようなものがこの地上に存在しないのでしょうか?もし存在しないと断定するならば、神はどこにいらっしゃるのでしょうか?そのような場合、その神は人類と共に存在することができないという結論に至るでしょう。


11


しかし、人類を抱えながら摂理を進め、倫理と道徳を立てて善を目指すように導く天倫があるならば、天は必ず私たちと関係し、結びついたすべてを明らかにしてくださるだけでなく、さらに男性も女性も誰であれ、これを心情的に肯定できる日が来るはずです。そのような場において調和し共鳴しながら、この幸福が私たちの幸福であり、この平和が私たちの平和であり、この自由が私たちの自由であると、声高に語れる時が訪れるべきなのです。それがなければ、神も、どれほど偉大な思想家であっても、私たちとは何の関係もないという事実を知らなければなりません。


私たちが人間を分析する際、内面と外面の両方から分析することができます。同様に、社会の実情を見極める際にも、表に現れる社会の組織と、表に出ていない計画された組織があるということです。このように、すべてのものが内と外の両面から展開されているのです。


人間も同様です。人は外的な事情を持ちながら生きると同時に、内的な事情も抱えて生きています。そのため、お互いに内外の事情が通じ合い、同じ立場で心と心が通じ合い、幸福を歌える環境が必要です。そして、その環境を求めて彷徨うことが、私たちの人生の道のりであると言わざるを得ません。


これまでの歴史の過程で、多くの聖賢や賢哲たちが現れては去っていきましたが、自分の人生の道を歌いながら勝利的なスローガンを掲げ、「万民よ、このように進め」と訴えた人は一人もいませんでした。また、「私を頼りにし、私の心情と共に、私の愛と共に、このように生きなさい」と言った人もいなかったのです。


イエス様も愛について語られましたが、愛を中心とした幸福観、愛を中心とした平和観、愛を中心とした自由理念については解き明かすことができませんでした。「私についてきなさい、私を信じなさい、私を見つめて進みなさい」とおっしゃいましたが、ご自身の心情を明かし、「私の心情と共に天の情を中心として歌いながら生きよう」とはおっしゃいませんでした。


12


そのため、時代を超えて多くの先覚者たちが歴史上に現れましたが、心情を中心に幸福を享受できる内容を紹介することはできませんでした。また、天の心情と通じる自由と平和の世界観を中心として、世界を和合させる喜びの内容を提示することもできなかったのです。


それでは、人類が切望する場所とはどこでしょうか?先ほど申し上げた通りです。それは「故郷の世界」、すなわち一度そこに行けば永遠に戻りたいと思わない世界、何度見ても飽きることのない世界、一度感じた感触が永遠に消えない世界、笑いがあれば永遠に笑い続けられる世界。その世界で主人を見つけたなら、その主人を決して手放したくないと思える世界です。そのような場所が存在しなければなりません。


そのような場所こそ、心情を持つ人間一人一人が住むべき場所であり、そのような故郷が人類歴史の終末期において紹介されるべき場所です。それがなければ、今日のこの世界はどれだけ収拾しようとしても収拾がつかないということです。すべてを説明できるような理念や主義を、論理的観点から打ち立てる必要がある時代が近づいているという事実を、皆さんは理解しなければなりません。そのため、私たちは永遠に生きられる故郷の世界、故郷の地、故郷の兄弟、故郷の家族、故郷の親戚、そして故郷の園を懐かしく思うのです。


では、今日、皆さんの中で『私はそのような故郷を見つけた』と断言できる人がいるでしょうか?いません。だからこそ、私たちは必然的にその故郷を探し求めなければならない運命にある存在なのです。


イエス様もこの地に救い主として来られ、『私についてきなさい』とその道を示されましたが、『私と共に暮らそう』と言える故郷の園を築き、それを実現してから去られたわけではありません。神もまた、人類を導いてこられましたが、今日のこの場で『私と共に暮らそう』とおっしゃるのではなく、『私たちが切望する故郷の園に行き、共に住もう』と言われ、そのような摂理を進めておられるのです。


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神がそのようにされたように、また神の子であるイエス様がそのようにされたように、この地上に生きる今日の私たち一人ひとりも、同じ運命に置かれているのです。


故郷を望みながらもがき歩んでいる皆さん、その日を迎え、喜びを感じたことがあるでしょうか?その日を迎えて『私は幸せだ』と歌った人がいるでしょうか?そのような人は今まで一人もいませんでした。神はそのような日を楽しむことができたでしょうか?神もまたそうではありません。では、その日を迎えさせてくれるような主義があるでしょうか?それもありません。天もそのような日を楽しむことができなかったのです。それが天地の現実なのです。


ゆえに、天地の運命を逃れることができない良心を持つ人間は、共通の目標と理念の下で方向を見つけていく過程の心情を体験することになっています。そのため、皆さんも進めば進むほど幸福への想いは切実になりますが、幸福そのものは皆さんから遠く離れ、さらに遠ざかっていくことを知らなければなりません。皆さんが自由や平和、幸福を心から切望し、それを目指して懸命に進んできたとしても、実際にはそれは掴もうとしても掴めない遠いところで、ぼんやりとしたものとして皆さんの心の世界に映っているだけなのです。


ここで私たちは、どうしても進まなければならない過程の現実を乗り越え、幸福の故郷を歌える存在となる必要があります。そしてその後に、万物と共に調和し、共に歌い、共に幸福を分かち合えるその日を迎えなければなりません。それが歴史の目的であり、どのような宗教があってもその宗教の目的です。また、創造主が存在するならば、その創造主も同じ目標の下で人間を導いているのです。そのような摂理の範囲から外れることのできない人間である以上、どのような個人であっても同じ方向に進まざるを得ないのです。


優れた人もそうでない人も、皆が同じ人生の道を歩んでいるこの状況の中で、皆さん、自分が優れていると誇らないでください。その環境が良いと自慢しないでください。その持っている力が強大であると誇らないでください。それらを持ってしても人生の道を解決することはできませんし、故郷の世界を解決することもできません。なぜなら、今日の人類が目指している方向性は、人間によって作られたものであるため、それでは解決されることがないからです。このことを知る必要があります。


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天がこのような立場で摂理を進めてこられたとしても、道理や真理の面で私たちに方向を示してはきましたが、心情を中心として私たちの進むべき方向を教えてはくれませんでした。心情の面で、実生活の中で実感できる幸福、日々の生活の中で肌で感じられる平和と自由を示してはくれなかったのです。そのため、神の摂理は人間にとってこれらを遥かな希望の一点として見上げさせるものとなっていたのです。


このような運命から逃れることができない私たちの立場において、優れた人もそうでない人も、悲しい時も嬉しい時も、一日の生活の中で自由があるかもしれません。あるいは一年の生活の中で感情の自由があるかもしれません。そして、生涯において生活の感情的な自由があるかもしれません。しかし、自分を中心として流れている歴史的な心情、生活、理念、価値観においては、皆同じです。天はそのように見ているでしょうし、そのように見なければならないのです。


だからこそ、この人を見ても哀れに思い、あの人を見ても哀れに感じるのです。この哀れな人類を前にし、その哀れな自分自身の姿を教えることができる人が必要な時代が来ました。「自分自身の哀れさを嘆け、自分の哀れな姿を見て涙を流せ。天と地を抱えて泣け。自分が歩む道の終着点はどうなるのか?移り変わる環境の結果がどのような内容を持ち、目的地に到達するのか?」このような問題を解き明かし、「自分自身のことを憂いなさい」と言える指導者が現れるべき時が来たのです。


これまでの歴史時代において、革命的な新しい文化を創造していく過程で、時代を越え、世紀を越えて、新しい理念、新しい目標、新しい幸福、新しい自由、「新しい」とされるさまざまなものを持ち込んできた多くの人々は、時代の壁を越え、哀れな自我を解き明かすために努力してきました。しかし、彼らはその時代に影響を与えた使命者であり、特定の時期や時代に必要とされた使命者に過ぎませんでした。


今日の時代は、新しい世界的な主義の時代です。ですから、今こそ世界の人類を取りまとめ、世界人類の模範となるべき存在が必要です。そして、「あなたたちは行くべき場所を知らず、立ち止まっていることを悲しみなさい」と訴える存在が現れる必要があるのです。


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イエス様は2000年前にこの地に来られ、ご自身が神の子であると語られました。しかし、その時、選ばれた民として誇っていたユダヤ人たちは、4000年という長い歴史の中で数多くの預言者の恩恵を受けてきたにもかかわらず、待ち望んでいたメシアが現れたことに気づくことができませんでした。そして、イエス様を十字架に送った後になって初めて、彼がメシアであったことに気づき、悲嘆に暮れる立場に追いやられたのです。


それでは、イエス様を救い主と呼びますが、彼は当時の人類の前でどのような救い主であるべきだったのでしょうか?「あなたたちの悲しみを私が引き受けよう」と自信を持って言える救い主であるべきでした。そのためにイエス様はこうおっしゃいました。「すべて疲れた人、重荷を負った人は、私のところに来なさい。私はあなたがたを休ませてあげよう。」(マタイ11:28)これは感謝に値する、素晴らしい御言葉です。その一言は、人類にとって偉大な先覚者の言葉でした。


悲しい心情を抱え、焦燥感を持ちながら自分自身を解き明かそうと努力している若者たちが、この一言を聞いたならば、手を高く挙げてその前に進み出るでしょう。そして、「2000年前に来られて御言葉を残してくださったイエス様、ありがとうございます。イエス様を通して御言葉を授けてくださった神様、ありがとうございます」と感謝するでしょう。また、この精神と思想の流れから生まれた御言葉に対しても感謝を抱くことでしょう。


今、私たちには、この世界を担い、この民族を担い、そして心情の問題を引き受け、その重荷を解き放つことのできる一人の主人が必要なのです。このような背景があるために、イエス様は再び来ると約束して去られたのです。


イエス様がこの地に来られて成し遂げられなかったことは何でしょうか?それは、人類のすべての十字架の重荷を引き受けるために来られたにもかかわらず、人類の心情的な重荷を引き受けることはできなかったということです。そのため、今日、全世界の人類は心情的な重荷をイエス様のもとに再び委ねることを願いながら、『主よ、どうか早くおいでください』とイエス様を待ち望んでいるのです。


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だからこそ、歴史的に悲惨な環境に置かれている自分自身、私たちが生きているこの世界、そして流れゆく歴史に対し、「あなたたちの悲しみを知りなさい、あなたたちの哀れな姿を知りなさい、あなたたちの切なさを知りなさい。そして、こうしなさい」と語りかける何かが必要な時が来たということを知るべきです。


私たちは未知の人生の道を歩んでいるため、どこへ向かっているのか、どうなるのか分からないという恐怖が内在する世界の中で生きています。では、私たちが進む道の目的地はどこでしょうか?その道がどのようなものなのか、説明することができないまま、私たちは人生の道のりを歩んでいます。無鉄砲に引きずられるように進んでいるのです。しかし、その道中で岩にぶつかるのか、それとも崖から落ちるのかを知りながら進むべきです。皆さんがそのような状況に直面したら、どのような気持ちになるでしょうか?心がかき乱されるでしょう。


皆さんの中には、40年、あるいは70年、80年の人生を歩んできた人がいるかもしれません。「私は幸福を見つけ、幸福だ」と自慢する人がいるかもしれません。しかし、このような人生の道を突破した人は一人もいないでしょう。だからこそ、私たちは皆、哀れな存在なのです。


それゆえ、私たちは自分のこの哀れな状況をつなげ、世界と通じることのできる哀れな状況を抱えた方を探さなければなりません。また、自分に何か孤独があるなら、その孤独が世界と結びつき、何とも言えない息苦しさやもどかしさが心の中に深く刻まれているなら、その切ない心情が世界と通じる場を探し出さなければなりません。そして、それらすべてを解き明かし、私の不幸、私の哀れさ、私の孤独、私の恨みを引き受けてくださる方を見つけなければなりません。さらに進んで、私が待ち望んでいる理想の世界を紹介してくださる方、幸福と平和と自由の世界で永遠に感じたかった心情を満たしてくださる方、その心情が永遠性と結びつき、存在するすべてのものと共に堂々と幸福を生み出すきっかけを与える主体となる方に出会えたなら、その人は人生において成功者と言えるでしょう。


悲しい世の中でそのような一時を感じ、体験させてくれる方こそ、イエス様であり、神でなければなりません。私はそれを信じ、知っています。そして、今日の皆さんも、自分が「知っている」と思って歩んでいるその足跡を見直し、避けて通れない時期を乗り越える秘訣を教えてくれる方を見つけなければなりません。


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そのためには、自分が置かれている状況を通過し、自分の抱えている希望の基準を超えて事情を理解し、心情を整理できるだけでなく、その内容的な問題を解決してくださる神であって初めて、安心して信頼することができるのです。


また、そのような心情の理念を備えて歩むことで、苦しい人生の旅路で悲しみに直面しても、その心情の世界から生まれる感情を抑えることができるのです。どれだけ打ちのめされても、さらに強くなり、天を裏切ることのない何かがあるならば、それは心情の絆から生まれる何かであり、それがある限り、地獄の最深部に追いやられても征服されることはないでしょう。そのような場所が必ず存在しなければならないのです。神が人間に対して摂理を進められる方向は、そのただ一つの場所、すなわち本然の園を目指しているのです。


このように、歴史を支配する神の摂理は、数多くの曲折を経てその基準を定めてきました。そして、それに従うべき人間もまた、多くの苦難を経て初めてその基準の前に立つことができるのです。それは、存在するすべてのものが目指すべき一点として、存在世界の中で位置づけられているということを私たちは知るべきです。この道を歩まなければならない私たちは、哀れな存在です。


「故郷」と聞いて、皆さんは何を思い浮かべますか?故郷には必ず愛する親がいて、愛する村があり、愛する家があり、愛する兄弟姉妹がいます。私たちが故郷を離れて遠く異国に行くとき、その故郷の範囲は広がり、祖国、つまり国そのものが故郷となります。また、宇宙や天宙という観点から見るならば、この世界全体が私たちの故郷になります。このように、視野が広がれば広がるほど、故郷の範囲も比例して大きくなっていくということを、皆さんはさまざまな生活の中で感じていることでしょう。


それでは、私たちが望む「本郷」とはどのような場所でしょうか?皆さんが「ここが私の故郷だ」と言うような場所ではありません。本郷、心の本郷とは、心が喜びを見出し、心情の安息所となる場所、心情世界の巣となる場所です。このことを知るべきです。


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私たちは神が人間を探し求める過程を「救いの摂理」と呼んでいます。天が私を見つけ出し、人類を見つけ出すというのなら、私は神にこう言うでしょう。「状況的な条件ではなく、心情的な条件によって私を見つけ出してください」と。それはなぜでしょうか?状況というものは千差万別であるのに対し、心情には唯一の条件しかないからです。このことが、真の信仰観を求める人々の姿勢ではないかと思っています。


イエス様はおっしゃいました。「天国はどこにあるのか?あなたの心の中にある」と。では、自分の本当の本郷はどこにあるのか?それは生活の中ではなく、心の中にあります。天国は心と縁を結ぶことのできる歴史的な背景があるため、私たちは心を通してその本郷を懐かしむのです。心に感じる感情と共に、断ち切ろうとしても断ち切れない縁が絡み合っているため、その本郷が懐かしくなるのです。だからこそ、私たちの人生の旅路において、本然の心と縁を結ぶことのできる本郷の生活を送らなければなりませんし、本郷の園を感じなければならないのです。


では、そのような場所、今日私たちが住んでいるところではない、歴史が望んできた真の幸福の園とはどのような場所でしょうか?また、真の平和と真の自由を紹介できるその本郷には、誰がいるのでしょうか?考えてみてください。その本郷には誰がいるのでしょうか?そこには、偉大で尊厳に満ちた神がおられるでしょう。また、私たちが待ち望んできた主がおられるでしょう。そして、聖霊がそこにおられるでしょう。また、歴代の摂理史の中で現れて去っていった多くの功臣たちもそこにいるはずです。そうではありませんか?さらに、世界中の誰とも比べることのできない忠臣たち、そして孝子や孝女、節婦たちがそこにいるでしょう。しかし、皆さんが心の縁を広げ、理念的な感覚を持たないならば、その世界と縁を結ぶことはできないのです。


だからこそ、堕落した人生の道を歩む哀れな人間たちに対して、多くの聖賢たちは三綱五倫などの倫理を教え、モーセは十戒を示しました。また、多くの道を歩む者たちも、その一端を切り開くために努力してきたことは間違いありません。しかし、人類が故郷への道を進む上で、心の畑(心田)を開発する使命を持たない指導者、そのような宗教、そのような倫理、そのような理念は、この宇宙から退場させられるでしょう。退場しないと言っても、神が退けるでしょう。


皆さんは故郷を懐かしみ、その故郷を探し求めています。私たち人間が具体的な存在として、遥か彼方の故郷を目指して進んでいるとするならば、皆さんはその旅路のどこかの地点にいるでしょう。地獄の最底辺から天国の最果てまで、その道のりとは何か?それは故郷を探し求める道のりです。この道が故郷を探し求める旅路であることを知るべきです。


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もし皆さんの中に、70歳、80歳になり老いを感じている人がいるならば、自分自身を振り返って、「私は故郷の園からどれほどの距離にいるのか?」ということが心配の中の心配であり、憂慮の中の憂慮であるはずです。それでは故郷とはどのような場所でしょうか?それは、その場所を訪れた人を喜びの腕を広げて迎え入れてくれる場所です。その場所が懐かしいのです。


故郷を探し求める旅路では、不当な事情や痛ましい出来事、あるいは耐えがたい立場に立つこともあるでしょう。しかし、故郷を求めて進む者である以上、そのような事情は必然的にあると理解している人ならば、その道を引き返すことはないでしょう。そして、先祖たちが築いてきた歴史的な功績を無視することもできないでしょう。また、私たちの人生の道を切り開くために努力している指導者たちの功労も無視することはできないでしょう。


私たちは進むべきです。年を重ね、体力が衰える前に進むべきです。私たちは人生の旅路を切り開かなければならない存在です。ここで問われるべきは、「変わらない毅然とした姿勢を持ち、心情と心の中心を備えているか」ということです。この問いこそが、今日の皆さん自身が立ち向かい、答えなければならない中心ではないでしょうか。イエス様もこれを指摘して、『天国はあなたの心の中にある』とおっしゃいました。


本郷、それは懐かしい両親がいて、懐かしい兄弟がいて、懐かしい山河がある場所です。私たちが本郷を懐かしく思い、そこを目指して進むならば、喜ばない存在物は一つもない場所です。その場所を目指して歩む自分自身を振り返ると、「今日の私の生活は何と哀れなのだろう」「今日の私の人生の道は何と惨めなのだろう」と感じることでしょう。しかし、本郷を目指して進む道中である以上、無念さがあり、悔しさがあり、涙を流しながら生死を分ける決断をしなければならない瞬間があるとしても、本郷を想うその心を忘れて倒れてはいけません。これが私たちの人生の道であることを忘れてはならないのです。


すべての聖賢たちは、本郷を目指す道中で心と理念の世界をさまよいました。彼らはその世界を見つけるために、まず人間的な事情をすべて捨て、人間社会で情によって結ばれていたすべての環境さえも断ち切り、もがき続けました。私たちの先祖たちを挙げるまでもなく、天を代わって歩んだ預言者や聖賢たち、さらにはこの問題を解決し本郷を探し当てることを目標として来られたメシアであるイエス様も、この道を歩むために苦しみ抜きました。


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イエス様は、反対されて押しのけられていたわけではありません。反対や迫害が恐ろしくて静かな山河を訪れ祈りに逃げたのでもありません。ローマの圧政が怖くて、十字架の道が恐ろしくて、自らが歩むべき人生の道を引き返そうとされたのではありませんでした。イエス様は、必ず行かなければならない人生の旅路において、どのような状況においても進み続け、どれほど哀れな立場に置かれても進まなければならないと覚悟された方でした。


イエス様は、このように本郷の心情を感じ、本郷の事情を理解された方でした。そして、本郷が歓迎する主人公としての役割を果たさなければならないメシアだったのです。ですから、イエス様は本郷が懐かしくなればなるほど、その心の世界で本郷の世界が近づいていると感じれば感じるほど、悲惨な心情を耐え忍んで歩み続けられたのです。もし敵や悪魔がいるとするならば、この道を進む過程で最終的な決戦があることを私たちは知らなければなりません。


だからこそ、故郷への道を目指さなければならない世界的な新しい理念世界に直面している民主陣営の前には、望まない敵の槍や剣が立ちはだかることでしょう。しかし、それがどれほど妨げとなったとしても、民主陣営は天と地の運命の方向に従い、勇敢に進まなければなりません。


したがって、今や民主陣営は世界的な決断を下さなければなりません。一つの国家も決断を下さなければならず、民族や社会の機関だけでなく、一個人もまた決断を下すべきです。そして、故郷への道を進むにあたり、自信を持てる姿を備えなければなりません。天もそのような人を求め、またそのような家庭、社会、国家、そして世界を求めてきたことは間違いありません。


私たちが待ち望む再臨の日が来るとしましょう。理想が実現するその日が来るとしましょう。その日はどのような日でしょうか?傷つき、追いやられ、疲れ果てた足を引きずりながら、天の情を求めて故郷への道をもがきながら歩むその姿を見て、天はどのように対応するでしょうか?


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皆さん、考えたことがありますか?私はこんなことを考えました。「哀れなお父様が笑顔になれるその一瞬を見たい。私が慕い、しがみつきたかったその心情を理解し、私を抱きしめて共に涙を流してくれるお父様に会いたい」と。その時、その心はどのようなものになるでしょうか?


人生の道を歩む中で、他の誰よりも悲惨な環境で傷を受け、不当な扱いを受け、無念さを感じながら、それでも自分のためではなく、父のために、故郷を求めてその道を歩み続ける人がいるならば、天はその人を抱きしめて共に慟哭するでしょう。


私たちは故郷を求めて彷徨っています。進まなければならない運命の道のり、避けて通ることのできない過程にとどまっている存在です。どれだけ自分が賢く、優れていると豪語する人がいたとしても、『万民よ!全宇宙よ!私の言葉に従え』と堂々と言える人がいないことを私たちは知っています。


では、今日、この人生の旅路で故郷を目指す足をどこに向けるべきでしょうか?そこは、真実の愛の父母がいて、真実の愛の情を分かち合える巣のある場所です。その場所が、私たちが留まるべき場所であり、私たちが安息を得るべき場所です。また、その場所が、幸福と希望に満ちた平和の世界であり、自由の園となるでしょう。皆さんがその場所を慕う心が強くなればなるほど、この地に対する怒りや憤りの心が大きくなるでしょう。そして、『地上において清らかに生きよう』という決意が強まるはずです。過去の歴史的な偉人たちは、皆そのように生きた人々でした。


今日でも、世間では失った親を探すために千里の道を遠いとは思わずに駆けつけ、愛する人に会うために万里の道を厭わずに探し求める人がいます。そのような人々に比べて、もし皆さんが故郷の園を探す思いに欠けているならば、反省しなければなりません。皆さんの人生の中で、ある時、ある一瞬、ある一期間でも、故郷の道を探して彷徨ったことがありますか?もしそのような思いに無責任であるならば、そうではいけません。


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その道に責任を持ち、その道に責任ある生活の一部を刻むことができてこそ、故郷の歴史を再創造し、故郷の摂理の意図を立てていく天倫の前に、面目を立てることができるのではないでしょうか?そのように歩んだ先祖たちは歴史的な人物となり、そのように歩んだ道主たちは宗教を形成することができたのです。ですから、今日の私たちも故郷の父母を慕い、故郷の山河を懐かしみ、故郷の家庭を恋い慕い、故郷の世界を懐かしく思わなければなりません。そのような時が訪れたのです。


今日の共産主義者たちは唯物史観を中心として世界的な故郷を夢見ていますが、それでは解決できないということです。


皆さん、外的な事情が通じる世界ではなく、内的な心情が通じる世界で出会った人は、その人が黒人であれ白人であれ黄色人種であれ、永遠に手放したくないと思うものです。そのような世界の人に出会い、そのような場所の人を見つけたなら、食べることや着ることを超越して、その感情の中で生きることができるでしょう。


どのような理想主義があるとしても、その主義を通じて、またどのような思想があるとしても、その思想を通じて、どの程度まで感情に深く影響を与え、人を動かす力を持つかによって、その主義や思想が評価され、判断されるのです。


キリスト教の偉大な点は、イエス様を信じた後に心情をさらけ出し、涙を流して通じ合える感情が湧き上がるところにあります。この感情が歴史の過程においてキリスト教の形態を変革してきたのです。キリスト教が変革の段階に入るためには、心情を通じる人が必要であり、また、その人が変わらない心情の中で動くことのできる感情、すなわちキリスト教主義が必要だったのです。


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どのような思想家でも、ある思想に感化され、自分の生活感情を支配し、瞬間を超え、時間を超え、永遠を基準として動くことができる感情を見つけたならば、彼は幸福な人と言えるでしょう。それは天地の歴史観において合格者であり、天倫を動かす天情観においても合格者であると言えます。


ですから、世界的な理想世界を求めて歩む人がいるとすれば、その人は地上の心の世界に安住することはできないのです。歴史を越えて進む旅路において、その人は安らかな生活を送ることができません。偉人たちの人生を見てみてください。すべて同じです。


このように考えると、霊界におられるイエス様もまた哀れな方です。霊界におられながらも地上を抱えて『お父様、地上の人間たちをお許しください』と祈られる哀れな方です。なぜイエス様が神に栄光をお返しする存在ではなく、祈り続ける存在であるのか。それは、地上で歩むべき人生の道をすべて歩み切ることができず、再び来られる運命に置かれているからです。だからこそ、天国ではなく楽園にとどまっておられるのです。


イエス様は神の御心を中心としてご自身だけの心情の中でその喜びを感じることはできましたが、人類と共にその喜びを分かち合うことができなかったことが、イエス様の深い恨みなのです。


では、再臨のその日は何が異なるのでしょうか?それは、神の御心を中心として、人類が自らの心情と共に天に対して喜びを感じる時間を持つことができる点が異なるのです。このことを求めて歩んでおられるのがイエス様の事情であることを、皆さんは知るべきです。


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では、今日の皆さんは、自分の心の世界の中でそのような面を探し求めたことがありますか?『私はたくさん学び、知識が豊富だ。この程度であれば、どこへ行っても困ることはなく、教師として尊敬され、威厳を示すことができる』と自負する人がいるかもしれませんが、大きな声で誇らないでください。


また、『私は学がなく、無知でみじめな存在だ』と言う人がいるかもしれませんが、人生の旅路においては皆同じです。優れていようと、そうでなかろうと、差はありません。


なぜでしょうか?人間が心情を基盤にして動くという点では、皆同じだからです。大統領が子どもを愛する心と、一介の労働者が子どもを愛する心は何ら変わりありません。むしろ、立場の低い人々の方が子どもや配偶者を愛する心が強いことを知るべきです。彼らは自分に対して不足していると感じる心がより強いのです。自分が親としての務めを果たせていないから申し訳ない、夫としての責任を果たせていないから申し訳ない、という心を持っています。しかし、自信満々の人々は、『私はやるべきことをすべてやっている』と言います。


心情的に見たとき、どちらがより高い心情と言えるでしょうか?むしろ立場の低い人々の方が、より高い心情に立つ可能性があるのです。ですから、人生の旅路において誇るべきではありません。


そうした点で、皆さんはその縁と共に、本来の心情と共に、何かを感じ取り、『ありがとうございます』と感謝しなければなりません。イエス様もそのように歩むようおっしゃいました。また、いつも祈りなさいともおっしゃいました。なぜ、常に祈りなさいとおっしゃったのでしょうか?それは、道を外れてしまうかもしれないからです。昼も夜も確信を持って正しい道を歩める人には祈りは必要ありません。祈りは必要ないのです。


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イエス様がゲッセマネの園で祈り、オリーブ山を訪れて孤独な心情を天に訴えたのは、何のためだったのでしょうか?それは、イエス様がこの地に来られた目的である心情を中心に、人類と共に喜びを分かち合うことができたならば、ゲッセマネの園を訪れ、天に訴える必要はなかったでしょう。しかし、それが実現しなかったのです。どうしてそのようなことが起こったのでしょうか?


故郷を求めて歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持っている人がいますか?もし確信を持ち、心情に浸りながら進むことができる人がいるなら、その人は前に出てみてください。それこそが審判であり、もし神がいらっしゃるならば、審判の日にそのような人を召喚するのではないかと思います。


人生の道を歩む中で、自分に確信を持ち、心情に浸って進んでいった人は、歴史がその人を支持します。イエス様もまた、自分に確信を持ち、神の御心に浸りながら生き、最終的には十字架を背負っていかれました。民族的にも、その民族の運命と進むべき方向を理解し、自分がその責任を果たすために命を賭けて進んだ人々は、忠臣や烈士と呼ばれました。歴史の流れがそのような人々の動きによって進んでいることを否定することはできないのと同様に、天情を求めて進む道もまた同じです。


このような故郷を懐かしく思う心を、誰が止めることができるでしょうか?心から湧き上がるその懐かしさを、誰が抑えることができるでしょうか?どれほど知識を持ち、多くのものを備え、自信に満ち溢れている人であっても、心から心へと新しい何かを目指すこの心を拒むことはできません。


そのような感情を持たない人には、理想的な感情を内包することはできません。そのような感情を切に待ち望み、その感情に浸りながら語る人だけが、今日のどのような主義や思想であっても導くことができるのであり、そうでない人はそうすることはできません。


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では、人類の前に立つ指導者とはどのような人でしょうか?その人は人生の旅路において、自分自身に確信を持つべきです。その確信は、人間の前でだけではなく、神の前で、そして被造物のすべての前でも、自らを立て、神の心情に浸りながら進むことのできる人でしょう。


そのような心情に浸る人がいるならば、誰もがその人のもとに行き、寄りかかって安らぎたいと願うでしょう。そのような内容を備えた人格者がいるならば、誰もがその人を崇拝したいと思うでしょう。それは、本然の心情の発露として、そのような道を進むことが運命であると感知し、その道が必ず進むべき旅路であることを知っているためです。心は常にその方向を目指し、動かずにはいられません。そのため、皆さん、落胆しないでください。そして、誇ることもしないでください。


同じ人生の道を歩む中で、悲惨な姿を見せている哀れな事情を理解し、私たちの同胞がその道で倒れるのを見て涙を流す人は、天に近い人です。兄弟たちが人生の旅路で挫折するのを見て、『お前はいつ来るのか』と心を痛める人がいるならば、その人は心情の指導者でしょう。今日の信徒たちはそのような指導者を、羊たちはそのような牧者を求めています。


そのため、イエス様は人間を見て涙を流されました。『私のもとに来なさい』と涙を流しながらおっしゃいました。また、エルサレムを見て嘆かれました。「エルサレムよ、エルサレムよ、預言者たちを殺し、お前に遣わされた者たちを石で打つ者よ。雌鶏がひよこを翼の下に集めるように、私はお前たちの子らを集めようとしたが、お前たちはそれを望まなかった」(ルカ13:34)と、ご自身の悲しい心情を訴えられました。


今日、この民族を抱きしめたいと願う青年男女はいますか?この民族が進むべき道を切り開き、ある目的地に近づけようとする使命感を抱き、それに対する責任を感じている人はいますか?そのような人がいるならば、その人は、この民族が苦しんでいる現実を見つめ、イエス様が天に向かって訴えながら流された涙が、この民族を支え、今日まで歴史的な縁をつなげてきたという事実を知るべきです。そして、その人もまた、イエス様のように、この民族のために天に向かって訴えなければならないでしょう。


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今日、歴史的な潮流もまた、未来の民族の展望も同様です。人類が天理的な時代を待ち望んでいることを否定できないのであれば、その過程で私たち自身もまたもがき苦しむ存在であることを知るべきです。したがって、自分が歩む人生の旅路において、自分自身に確信を持つ必要があります。それがなければなりません。


その確信を持ち、希望の故郷を懐かしむ心情に深く浸りながら走り続ける人がいるならば、その人はこう言うでしょう。「山よ、遮れ。海よ、立ちはだかれ。敵よ、現れよ。私の進む道を誰が阻むことができるのか?」と。迫害の風が吹いても、それは一時的なものです。試練の矢が飛んできても、それも一時的なものです。死の恐怖が襲ってきても、それも一時的なものと理解し、その一時を乗り越えるために走る人、さらなる大きな一時を見つけるために自分の小さな人生の一時を忘れて駆け抜けることができる人、それこそが人生の旅路における成功者です。その通りではありませんか?


先ほど述べたように、皆さんが歩むその姿を見て、神が涙を流されることが必要です。そして、イエス様が十字架にかけられて亡くなられた時、なぜ神が顔を背けられたのかを知るべきです。それは喜んで顔を背けられたのではありません。死の道を進みながらも故郷の御心を思い、故郷の父母を気遣い、孝行を果たせないことを恐れるイエスの心情、それに対する天の深い痛みが、骨の髄にまで染み渡る瞬間だったからこそ、神は顔を背けられたのです。そうではありませんか?


そのようなイエス、その心情の究極点が天地を貫く基準に立ったため、死の境界を乗り越えて復活されたのです。皆さんも、そのような心情が動かなければ、死の世界を振り払い、勝利の歓喜を歌うことはできず、勝利の王者となることはできないということを知るべきです。


今日、そのような方をお迎えしようと考えるならば、私たちはもがき続けなければなりません。そのような感情、そのような心情に結びつき、それに浸ることのできる一貫した生活内容を持っていないならば、私たちはもがき続けるべきなのです。歴史の旅路を歩んできた多くの先祖たちももがきました。歴史を導いてきた神もまたもがき続けてこられました。それなのに、私たちがどうして動かずにいられるでしょうか。


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その道を切り開くために、イエス様はこうおっしゃいました。「求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。叩きなさい。そうすれば開かれます。」(マタイ7:7)もし安楽な場所で、すべてが整う天の摂理であるならば、このような言葉は不要ではないでしょうか。


苦しい人生の道を歩んでいく中で、自分では正しい目標に向かって進んでいると思っていても、実際には逆の方向へ進んでいたということです。これが天の悲しみなのです。親が望む方向はこのようなものなのに、子が放蕩者となり、反対方向へ進んで苦しむ姿を目の当たりにする親の心情を知らなければなりません。そのような子どもの姿を見つめる親がいるならば、その親は慟哭することでしょう。


今日、歴史の流れの中で、人間を中心に進んでいく方向、人間たちが進むべき方向は、天が目指している方向ではなく、その反対の方向です。そのため、天はこのような人間たちを引き戻すために、彼らの進む道を阻むことを何度もしてこられました。見てください。神はノアを立てて家庭的な基準を確立し、家庭の正しい理念を探そうとされました。そして、神は人類を滅ぼす覚悟であっても、誤ったすべてのものを阻止し、天が目指す方向にノアの家庭を導こうとされました。しかし、ハムの失敗によってその家庭を完全に取り戻すことはできませんでした。


アブラハムはどうだったでしょうか?故郷を探し求めるために選ばれたノアも哀れな存在でしたが、祖国の地、カルデアのウルを離れ、祝福の地であるカナンを目指して彷徨ったアブラハムもまた哀れでした。そうではありませんか?アブラハムだけではなく、ヤコブもモーセも同じです。しかし、本然の民族を回復するためにモーセをエジプトから荒涼たる荒野へと追いやった神の心情はどうだったでしょうか?


モーセの生活以上に、より深い痛み、より大きな無念、そして嘆きに満ちてイスラエル民族をエジプトから追い出した神の心情を誰も知りませんでした。一体誰がそのような神の心情を理解していたでしょうか?さらに、民族を導いていたモーセが神の心情に浸り変わらずに進んでいたならば、岩を二度打つことはなかったでしょう。しかし、モーセが天の心情を通じることができなかったために、彼自身が民族の道を阻む要因となったという無念の事実を私たちは知っています。


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本然の家庭を見つけるために神が追い出されたノアも、祝福の地を確立するために追い出されたアブラハムも同様です。


では、故郷の地を恋しがったヤコブはどうだったでしょうか?エジプトで死が近づいたとき、彼は自分の骨を故郷の地に埋めてほしいと遺言しました。それほどまでに故郷の地が恋しかったのです。死んだ後も、敵の地にその体が腐り流れ出ることすらも許したくなかったのです。このような選民としての誇り、選民としての感情を深く感じていたのがヤコブだったということを知るべきです。


再びモーセに目を向けてください。本然の民族を探し求めるためにモーセを追い出された神は、彼を通してどれほどその民族を導き共に生きたかったことでしょう。しかし、モーセはその願いを成し遂げることができませんでした。


全人類に故郷の家庭を取り戻し、山河を取り戻し、その地に民族を築き、国家を建て、世界を回復させようとする神の御心が、選ばれた人々によって果たされず、失敗したとしても、その御心はより大きな範囲で条件的な縁を結びながら進んでいくということです。その結果、本然の民族を探し求めようとする神の御心は延長されても、天はこれを収拾し、本然の国家を建てるためにメシアを送られました。しかし、そのメシアはどうなったのでしょうか?


イエス様は、民族を中心として神が主導される国家の形態を整え、天の主権をこの地上に確立したいとどれほど切実に願われたことでしょう。しかし、民族の責任者として来られたイエス様をイスラエル民族はどのように扱ったでしょうか?彼を中心に一つの本然の国家を建設し、悪魔に向かって行進する天軍となり、神の精兵となるべきであったイスラエル民族はどうだったのでしょうか?

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御言葉選集6(11)

2024年11月23日 15時00分15秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 11. 慕わしいエデン(1959年6月28日)
1959年6月28日(日)、元本部教会。
創世記 2:1-25

1
<祈り(Ⅰ)>
本然の姿を見ることができる本然の人が天地間に存在しないということが、父なる神の嘆きであったことを、私たちがこの時間に感じられるよう許してください。父の本性を受けた人間たちであるにもかかわらず、父なる神が彼らと共に喜びを分かち合う一日を自ら持つことができなかった父の悲しみを、この時間に私たちが考えられるよう許してください。さらにその悲しみを私たち自身が直接体感することができる時間となるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


偉大な理念を抱き、喜びの園を夢見ておられた父なる神の御前に、悲しみの嘆きを与えてしまった人類の祖先の過ちをお赦しください。そして、その希望を再び取り戻すために、苦労と困難の歴史の路程を歩ませることになった、これまでの私たちの先祖たちの誤りを、再びお赦しくださるよう心からお願い申し上げます。


あなたが千秋の恨みを払いのけ、勝利をもってその理念を成し遂げられることを私たちは知っており、また信じております。その働きのために、私たちは自分のすべてを捧げ、忠誠を尽くしたいと願っております。どうか、父なる神よ、その心と思いを導いてくださり、勝利の基準を成すことのできる息子娘の姿となるようお導きくださることを、切に願い、求めます。


私たちが一週間の間に過ごす中で、父なる神の御旨と御心、そして御理念に対して切なる思いを抱くことができなかった生活がありましたら、どうかお赦しください。父の御心と通じたいと切に願っておりましたが、それが一致し得ない基準にある私たちを、どうかお赦しいただけるよう、父なる神に心からお願い申し上げます。


歴史の路程を歩まれながら先祖たちのために嘆き悲しまれた父なる神の御心を知る私たちが、この終わりの日を迎えるこの時において、先祖たちの過ちや人類全体の過ちを私たちが責任を持ち、父なる神のその御心を慰めることのできる最後の真実な息子娘となることをお許しください、愛する父なる神よ、心からお願い申し上げます。不忠実で不完全な者たちではありますが、この朝、父の御前に礼拝を捧げるためひざまずき、伏して祈りを捧げますので、どうか顧みてください。


2


もし私たちの心に、父なる神の御前に正しくない主義や主張、観念、あるいは認識を抱き、お父様を計り知るような心があるなら、そのすべての心を取り除いてくださり、それらを許さないでください。父の御心とともに喜び、父の御心とともに体感することのできる感化の心と憐れみの御心を、この礼拝の一時間、私たち全員の心と体に表してくださるよう切に願い求めます。そして、天におられる無数の聖徒と天軍天使が私たちとともに喜び、その歓喜の栄光を父なる神の御前にお返しするこの時間としてください。


本然の園で悲しみを体感された父なる神が、私たちを通して解怨され、私たちを通して慰めを受けられるこの礼拝の時間となることを願います。足りないながらも私たちの誠の心を父の御前に束ねて捧げたいと思いますので、初めから終わりまで悪魔が入り込むことのない時間となるよう導いてください。勝利の盾をもって、父なる神よ、私たちを導いてくださり、燃える炎のような目で私たちを顧みてください。


私たちの心性から正しくないすべての根性を取り除いてくださり、その場に本然の心情を呼び覚ましてくださり、父なる神とともに活動することのできる喜びの礼拝の時間となるよう導いてくださることを、切にお願い申し上げます。すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<祈り(Ⅱ)>


シオンの園を失った人間たちが再びシオンの地を取り戻さなければならないという苦難の歴史が残されていることを、私たちは骨身にしみて感じております。本然の心情を持つ真実な人々が生きる地となっておらず、本然の心情の痕跡を地上に築くこともできません。どうか、彼らを支えながら本然の世界を夢見て戦っておられる父なる神の悲しい御心を、この時間に慰めることのできる息子娘となれるよう許してください。


父なる神よ!私たちは、父の悲しい歴史の路程を思い起こすとき、恐れを禁じ得ません。また、苦労される父の御姿を目の当たりにするとき、恐縮の念を抑えることができません。この私たちが自らの身と心を捧げ物として差し出し、父の労苦を少しでも和らげ、終わらせることのできる息子娘としてお立てください。どうかお願い申し上げます。


3


あなたは喜びを感じ、喜びの場で解放の歌を歌う勝利の日が早く来ることを待ち望んでおられましたが、その解放の目的を成し遂げるのは、あなた自身ではなく、死の権勢に苦しむ不孝な私たち人間でなければならないという事実を、私たちは理解しております。


このように重要な立場に置かれていながらも、自らの価値を知らず、死の路程で苦しんでいる人類をどうかお赦しください。そして今、私たちに本然の心情を回復するための新たな旗印を掲げ、父なる神の栄光の御心を賛美する切なる心を起こさせてください。本然の性相と本然の形状を備え、真の息子娘の姿を備えて、父の解放を歌うことができるようにしてください。


これが私たちの永遠の願いであることを、父なる神はご存じであられると信じております。お父様、勝利の日が来ることを知っている私たちが、悲惨な境遇で呻いているこの民族に代わり、頭を垂れてあなたの御前に祈ります。どうか勝利の基準の場に私たちを導き、あなたが託されたい大きな御旨の前に、捧げ物となることのできる私たちとなるよう、導いてくださることを切に願い求めます。


今、私たちは父なる神の御前に集いました。この時間に私たちの心を開かせてくださり、私たちの体のすべての事情を解き放たせ、真実な心情から湧き出る切なる思いを持って、お父様を慰めることができるよう許してください。そして、お父様に向き合い、謙虚に頭を垂れる心情の動きがこの時間に表れるようにしてください。私たちが過去を悔い改め、現実を振り返り、父の聖なる恩恵を慕う切なる心を起こさせてくださり、その心を父なる神ご自身が導いてくださるようお願いいたします。今、新たな感覚と新たな触感を起こし、新しい方向を取らなければならない自分であることを悟る一時間となることを許してください。お父様、心からお願い申し上げます。


お父様、私たちの不足している誠を束ね、この一時間に生ける祭壇を整えることを許してください。私たち一人ひとりが勝利の捧げ物とならなければならないということを私たちは知っています。どうか、父の御前に正しくないすべてのものを取り除いてください。そして、お父様、御力の御手を広げて新しい再創造の権能をもって働いてください。父以外のすべてを取り除くことのできる本然の再創造の性相を備えてくださり、形状を整えてくださることを、父なる神に心からお願い申し上げます。


4


今、父なる神よ、眠っている三千万の民を目覚めさせてください。そして、苦難の中をさまよっている27億の人類を、父の御手の中にお納めくださり、彼らを一つの場所に導いてください。父の本郷の園、お父様が理想とされる善の園へと彼らをお連れくださるようお願い申し上げます。どのような迫害や困難を乗り越えてでも、この人類を早くお父様が望まれる園へと導いてくださることを切にお願い申し上げます。


そのためには、父なる神よ、人間が実践しなければならない責任があることを私たちは知っています。どうか、お父様、愛する息子娘たちに命じてください。残された罪の地と、残された民を探さなければならない責任があるのならば、彼らを奮い立たせ、命令してください。勝利の園を建設する天の精兵として、働き手として、お父様が望まれる場所へと命じて送り出せる時間を、この一時間に定めてくださるよう、切にお願い申し上げます。


父なる神よ、この日も孤独なあなたの息子娘たちが集まり、訴えるその場所ごとに、あなた自らが栄光と愛の御手を差し伸べられたことを、彼らが感じられるようにしてください。そして、心を尽くし、一つの祭壇に一つの心情を集め、一つの形として捧げることのできる時間としてください。多くの民族を代表して集まっている多くの教団にも祝福を与えてください。勝利の日が成し遂げられ、父の喜びが回復された喜びの地となることを、心から願い求めます。今、私たちのすべてをお委ねいたします。


今、父の御旨に反するいかなるものがあれば、それが悪魔が入り込む条件となるのではないかと心配せざるを得ません。お父様、悪魔が入り込むすべての条件を取り除いてください。御力の恩寵によって、このすべてを抱きしめ、父自らが命じ、そして抱きしめてくださることを、切に願い求めます。


最初の時間から最後の時間まで、すべてを父の御ものだけで導いてくださることを心からお願い申し上げ、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。


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<祈り(Ⅲ)>


父なる神よ、真実な心を持つ人がいるならば、本然のその世界を恋しく思わない人はいないでしょう。また、真実な体を持って生きる人がいるならば、本然のその世界の生活を懐かしく思わない人はいないことを、私たちは知っています。


堕落する前に、直接父なる神に向き合うことができた本然のアダムとエバの姿、天が生まれ、地が生まれ、万物が生まれた後に、最初に人間として創造されたアダムとエバの姿、その姿がどれほど父なる神を喜ばせたことでしょうか。父なる神に向き合う栄光の場にあった私たちの先祖たちのその姿が、どれほど尊いものであったことでしょうか。


今、私たちが心を込めて本然の世界を慕い求めることのできるこの時間をお許しください。父の御心に直接響く善の心情をひどく恋しく思い、父の御手をつかむことのできる本郷の善の姿をひどく懐かしく思います。本然のその先祖を恋しく思うことのできる私たちとなることをお許しくださるよう、心から願い、求めます。


心情の世界には歴史的な距離もなく、時間や空間の限界もないということを、私たちは地上で生きながら知っています。それなのに、無限の愛の心情によって生まれた本然の祖先のその姿、本然の私自身の姿を、死の権勢の中で眠り、方向を失い、さまよっている私たちが恋しく思えるように許してください。そのような私自身の姿を恋しく思い、止めどなく涙を流し、私を創造された父なる神を求めてさまよう姿を許し、焦燥感に駆られるような姿であっても、その世界の雰囲気、その世界の環境、その世界の万物、その世界の万象と調和できる美そのものが、今この瞬間、私たちの体と心に体感されることをお許しくださるよう、心から願い求めます。


地上に生きるすべての人々は、それぞれが自分が優れていると言い張りながらも、お父様が望まれた本然のその姿を備えていないままで、自分を表そうと必死になり、自分を高めようと苦闘しています。そのような人類を前にした父なる神の悲しみは、天に届き、地に届き、一つの主を失った万物さえも嘆きの中にとどまっていると、言葉は伝えています。そして私たちもまた、その事実を知っています。父なる神よ、今日、私たち自身がこの嘆きの中から抜け出し、お父様を解怨させるべきであるということを知らずに生きる者とならないようにしてください。


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父なる神よ、私たちはあなたを呼び求めるとき、堕落の歴史の路程で苦労されていたお父様を呼び求めることは喜んで行ってきました。しかし、堕落の悲しみを感じることなく、善の園で喜ぶことのできる本然の父なる神を思い描くことはできませんでした。そして、そのお父様を探し求めてさまようこともありませんでした。真の救い主を信じることにおいても、私たち人間は十字架にかけられたイエスを真の救い主と信じましたが、十字架の苦難を受けることなく、苦痛や迫害を受けることなく、栄光の主として顕現するイエスを中心として信じることはできませんでした。この私たちの過ちをお赦しください。


父なる神よ、今日、私たちに本然のその存在とともに、本然のその理念、本然のその善を中心として生きる調和の世界を恋しく思う心があふれ出ることを許してください。本然の心情をもってお父様を呼び求めることのできる喜びの場を許してください。私の父なる神よ、心から願い求めます。


罪が地を染めたその日から、6000年の歴史が巡り巡ってきましたが、悲しみが止む日もなく、今に至るまで歴史の嘆きが重なり続けているという事実が、私たちの祖先の過ちによるものであることを私たちは知っています。歴史的な悲しみを脱し、悲しみから解放されなければならないこの哀れな私たちの身の上を、父なる神よ、どうか知っていただき、私たちを慰めてください。


お父様、力のない手を支えなければならないあなたの事情が残されており、弱い者たちを急き立て、強い勝利の軍隊と勝利の将兵を作らなければならないあなたの悲しい事情が残されていることを私たちは知っています。どうか今日、私たちを戒めてください。善の御言葉で、真実な心情で私たちを諭し、それでも聞き入れないなら、むちを取ってでも私たちを打ち、お父様が使うことのできる働き手として、また使い走りとしてでも役立てる姿へと私たちを立たせてくださるよう、心から願い求めます。


エジプトでさまよっていた60万のイスラエルの民を導きたいと願ったモーセの心情を、私たちが理解できるようにしてください。モーセが切なる心情をもって民に接していたという事実を、私たちが知ることを許してください。今日、世界に散らばる「第二イスラエル」の祝福を受け継がなければならない世界のキリスト教徒たちが、まだ残されているカナンの福地を目指していることを知らせなければならない責任が私たちにあることを理解しています。この使命を果たさなければならない責任が今日の私たちにあると知っております。父なる神よ、残された恨み、残された憤り、残された痛みが私たちの身と心に深く刻まれることを許してください。


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たとえ、この体と心が百回死に、千回倒れることがあったとしても、父なる神の敵に報いるという天の節操を持つあなたの息子娘となることを許してくださるよう、心から願い求めます。


お父様、召命を受けて進み出てみると、十字架の路程がまだ残されていることを知りました。この困難な道を自ら進もうとする孤独なあなたの息子娘たちです。どうか、彼らの心の友となってくださることを願い求めます。


父なる神が永遠に永遠に私たちの中心であられるとき、私たちの体と心もお父様を見習い、不変の中心存在としてお父様に代わることができるという事実を知っています。どうか今、私たちの体と心を、父のものとして再び取り戻してくださるよう願い求めます。


私たちにはすでに覚悟した決意があります。この決意とともに戦い、この決意とともに生き、この決意とともに倒れることのできる、あなたの息子娘となることを許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


今日、この時間、孤独な家族たちに向かって御言葉を伝えようとしていますが、何を話せばよいでしょうか。どうか、父の御指示を心に感じたそのままに伝えることができるよう導いてください。そして、それを受け入れることのできる天の捧げ物となるよう許してください。父なる神よ、心から願い求めます。


8


今、私たちの体と心を父なる神のものとして認めてくださり、お父様が取り戻され、お父様がご覧になる際に反するいかなる罪悪の憂いが残っているならば、それをお父様が三位一体の栄光をもって取り除いてくださり、悪魔が入り込む時間とならないように導いてくださることを、切にお願い申し上げます。


私たちが子どもの心に立ち戻り、知っていたすべての主義や主張を取り除くことができるようにしてください。そして、私たちが感じ、体感してきたすべてを取り除いてください。子どもの心情に戻り、慕う心、敬愛の心情に浸り、父の御言葉に導かれることのできるこの一時間となるように導いてくださることを切にお願い申し上げます。このすべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


この時間、皆さんにお伝えしたい御言葉の題目は「恋しいエデン」です。「恋しいエデン」という題目でお話を進めたいと思います。


堕落のなかった本然の園、すなわちエデンの園を思い浮かべるとき、誰もが連想するものは何でしょうか。それは、神です。神が連想されるとともに、神が6日間の創造を終え、祝福されたアダムとエバが思い起こされます。また、神を中心として、罪のない本然の私たちの祖先がいたということが思い出される一方で、罪悪の侵害を受けなかった万物も連想されます。


万物が存在するのは人間のためであり、人間が存在するのは神のためである、ということを考えてみると、人間は天を中心とする存在にはなれず、万物も人間を中心として調和するものにはなれなかったというこの事実は、エデンを思い浮かべる私たち人間にとって、非常に大きな悲しみであり、嘆きであり、また恨みとして、今日の私たちの心と体を捕らえています。この事実は、誰も否定できないでしょう。


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本然の世界、本然の園で生きていた私たちの祖先と、その祖先を抱え、善だけを中心に動いておられた神について深く考えるとき、私たちは、その神と現在の私たちがあまりにも遠い距離に置かれていることを認めざるを得ません。そして、その神と共に、どのような最高の善ともつながろうとする切なる心情があればあるほど、自分自身がその最高の善、すなわち神から遠く隔たっているという苦悩を感じざるを得ないのです。


このような苦悩を解決しようとする真実な人がいるならば、その人は神を中心として生きていたアダムとエバ、そして彼らと共に調和していた万物、善だけを中心にし、善だけを賛美することのできた本然の世界を壊してしまった堕落の痕跡に対して、深い怒りと強烈な敵意を抱かざるを得ないでしょう。


善を目指し、真実な本然の世界を夢見る一方で、それが自分とつながり、時間を超えて永遠に天的な心情と結びつかなければならないという使命があるために、私たちの心は知らず知らずのうちに、その天的な心情と結びつく道を求めて動いていることは間違いありません。しかし、その動く心をつなぎとめることのできる外的な環境がないことが嘆きであり、そのための内的な事情を備えていないことが私たち人間の嘆きであるのです。


このように見ると、自分自身が堕落したアダムとエバを責めないわけにはいかず、また、現在のこの現実の環境を嘆かざるを得ない状況で生きていることを否定できないでしょう。このような環境にただ流されて、自分の心と体が幸福を感じることができるでしょうか。それは到底不可能です。私たちは、そのような不可能な環境を打ち破り、乗り越えなければならない何か、何かは分からなくとも避けては通れない運命的な難関の道を進まなければならないのです。


私たちはこれまで、方向もよくわからないまま、何かを探し求めてさまよってきたという事実を、もう一度思い起こさなければなりません。今、時が来ました。そして、私が真実な良心を磨き、良心の主体である天と永遠の縁を結び、永遠の幸福の基準を築こうとする切なる思いが湧き上がれば湧き上がるほど、今日のこの地に対して怒りの心を持たずにはいられなくなり、私たちが生きているこの世界に対しても敵意を抱かざるを得なくなるでしょう。そして、この敵意を抑えることのできない現実があるため、これ以上の苦しみはなく、この問題を解決する以上の大きな課題はないということを、私たちは再び感じなければなりません。


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もし天が存在するならば、このような苦しみの中にある私たちを愛してくださるでしょう。そして、このように哀れな状況に置かれている私たち人間を探し出してくださるでしょう。このようにして縁を大切にして探してくださる関係があってこそ、私たちは天が存在することを認めることができるのです。


このような哀れな立場に置かれている人間を前にして、神は人間が堕落したその日から今日に至るまで、悲しい心を抑えながら堕落した人類の足跡をたどり続け、労苦を重ねてこられたのです。この事実を、私たちは再び深く感じなければならないのです。


今日の私たちは、自分自身を誇る前に、堕落した種族であることを認めなければなりません。自分の何かを示そうとする前に、堕落の性質に染まった罪悪の歴史を明らかにし、罪悪の本性を告白しなければなりません。しかし、このような立場にあるにもかかわらず、その責任を避けようと、あちらへ逃れ、こちらへ逃れる人が多く見受けられます。このような状況を見ると、天は必ず歴史的に積み重ねられてきた罪を清算しなければならず、血統的に繋がってきた罪悪の恨みを解消しなければならないのです。


この罪悪の恨みを解くことが天の願いであり、私たちの願いでもあります。そのすべてを明らかにする日がなければ、解怨の日も解放の日も訪れることはありません。解怨と解放の一日がなければ、神が摂理される御旨が成し遂げられる日も訪れることはありません。そして、その成就の日がなければ、人間に対して摂理を進めてこられた神の栄光の日もなく、摂理を支えながら従ってきた人間もまた、栄光の日を迎えることはできないのです。このことを私たちは知らなければなりません。


ですから、今、私たちは心で、体で、あるいは霊性をもって、自然のすべての神聖さを感じ取れるようにならなければなりません。また、人間の本性が天の心情の触感を感じ取れるようにならなければなりません。本質、本性、本質的な気質を通して、体に染み入り感じ取れる天心や天情を感じ取れるようにならなければならないのです。もしそのような人がいるならば、その人はこの地上で誰よりも幸せな人であると言えるでしょう。


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堕落前の人類の祖先は、神の心情と通じる心を持ち、神が創造されたすべての万物を整え、万物を天の御前に栄光の条件として、喜びの象徴的な対象として、美の対象として、刺激を与える外的な対象として立てるべきでした。そして、その万物から受ける刺激を通じて内的な刺激を引き起こし、天性の心情に応えて栄光の実体であることを誇らなければなりませんでした。しかし、それができなかったことが何よりも大きな悲しみとなったことを知らなければなりません。


では、天の心情と共に生きることのできるエデン、善と調和できるそのエデン、天の理念と共に生活できるそのエデン、見て、聞いて、感じるすべてが善の象徴であり、善を刺激しないものが何一つないそのエデンにおいて、皆さん自身が天の心情と調和し、自らが善の場に立ち、父なる神を「父」と呼ぶことのできる栄光のひとときを持つことができるなら、それは皆さんにとって最大の幸福となるでしょう。


また、天がそのような人間と縁を結ぶことができるなら、それ以上の縁を望むことはないでしょう。このことを私たちは知るべきです。


神の創造過程を振り返ってみると、神は真実なご自身の姿を代わるものとして具現する本然のアダムとエバ、真実な善の父母であり、私たち人類の祖先であるアダムとエバを創るために、五日間をかけてすべての万物を創造されました。この主人公たちを創造された後、神がどのような心情で彼らを見つめられたのでしょうか。皆さん、このことをもう一度思い起こしながら、父なる神を心で呼び求めることのできる時間となることを願います。


私たちは日々、私たちの目に刺激を与える森羅万象を目にしています。しかし、皆さんはその日々を、同じ心情や同じ感情で森羅万象に向き合っているかもしれません。しかし、もし人間が堕落していなかったならば、それは善を中心とした本然の自然であったでしょう。そして、そうであったならば、私たちの祖先はこの自然を見て何を感じたのか、また私たちを創造された神はどのように感じられたのかを、もう一度深く考えなければならないのです。


12


野に生えているたった一つの小さな草にさえ、神の御手が及んでいないものはないということを、私たちは考えなければなりません。生い茂る一本の木を見るときにも、そこには神の無限の内的な心情が通っているという事実を、もう一度思い起こすべきです。


それはただ草木だけに限らず、野を駆け回るどのような動物や昆虫、また鳥類に至るまで、これらが無意識に作られたものではなく、徹底的に神の内的な心情を通して創造され、神の実体の御手を経て作られたものであるということを、私たちは再び感じなければなりません。


もし神がご自身の創造された万物を愛しているとするならば、私たちは何を考えなければならないでしょうか。神が万物を創られたとき、「すべて良かった」と言われましたが、その中でも最も愛されたものは何だったのでしょうか。もしそれが草であるならば、草の中でも神が最も愛された草は何だったのかを考えるべきです。そのようなことを時間を惜しまずに深く考えることができる場に留まることができるなら、私たちは人間を創造される前に万物を通じて現れた神の恩寵に触れることができるのです。


そして、たった一つの草を手に取っても喜びを感じ、その草が一日の希望の対象であることを知り、喜びの心情を持つべきです。その草が神の御手を経て作られたものであることを体感するべきです。そのような人がいるならば、その人は堕落した人間でありながらも、天地を創造された当初の神の創造の心情の世界に立つ神の友の立場に入ることができるでしょう。そうではありませんか?


皆さんは、もし神が草をお好きであれば、草の中でもどの草を最も好まれるのだろうか、花であれば、花の中でもどの花を愛されるのだろうか、木であれば、木々の中でもどの木を特に愛されるのだろうか、と思いを巡らせるべきです。鳥はもちろん、飛ぶ昆虫から始まり、下等動物から高等動物に至るまで、すべてが神の心情を通して創造された存在ですが、その中でも特にどれを神が最も愛されるのだろうか、と考えるべきなのです。


13


天の心情を慕い、天の理念を待ち望み、天の復帰の園を願う真実な心を持つ人々の中には、神を高め、栄光の場で喜びを得ようと努力する人は多いかもしれません。しかし、小さな草木や昆虫から、すべての被造物に及ぶまでに広がる神の内的な心情の縁を思い起こして喜べる人は少ないのです。もし誰かが、自分の全ての精力を注ぎ込んで一匹の昆虫を創造したとしたら、その人が注ぎ込んだ以上の精力をもってその昆虫を愛そうとし、心と思いを込めてその昆虫を愛してくれる人が現れるなら、その昆虫を創造した者にとって、これ以上の満足はないでしょう。


では、2千年前のイエス様は、神の御前に民を取り戻して捧げる前に、何を探し求めて苦闘されたのでしょうか。イエス様の心情は何を探し求めてさまよっておられたのでしょうか。私はこう思います。イエス様は民を抱き、彼らが天の嘆きの中に留まっていることに心を痛めておられました。そして、彼らのために夜を徹して涙を流し祈られた方であったことは間違いありません。


もしイエス様が、人類の祖先の堕落によって本然の心情的な縁を侵された万物が嘆きの中にあることを見て涙を流し、夜を徹して悲しまれる方でなかったならば、彼は全宇宙を統治し、全宇宙を救う救い主とはなり得なかったと断言したいと思います。


人間から万物の要素を取り除いてしまえば、その命を維持することはできません。だからこそ、自分自身が尊い存在である限り、その本質を構成する要素を供給してくれる万物に対して、人間は喜びの媒介者であるべきです。このような心情を持って進む人であれば、どこへ行っても自然の正道を備えることができ、どのような環境にあっても正道の場、万物と通じる場に立ち、神の御前に栄光をお返しすることができるのだということを、皆さんは知るべきです。


自然を見つめられたイエス様は、多くの草の中で神が特にこの草を非常に愛されるだろう、花々の中でもこの一つの花を最も愛されるだろう、また、ある木や山河を見て、神はこれらを特に愛されるだろう、とお考えになったに違いありません。今日、皆さんはそのようなイエス様の愛の心情を、もう一度思い起こしていただきたいと思います。


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それでは皆さんは、これまでの人生の路程において、どれほど責任ある感情を持って、神が心を込めて創造されたこの万物に接してきたでしょうか。また、この山河に対してどのように向き合ってきたでしょうか。一握りの土を手に取り、その土を形作られた神の心情がどのようなものであったかを考えたことがあるでしょうか。もしそのようなことを考えたことがないのであれば、皆さんは創造の理想を掲げられた神の心情を無視する罪人になってしまうでしょう。


今日、私たちは、この万物世界、被造物の世界の原理や法則、公理や公式を解明しようとする分野が科学であることを知っています。また、自然の中に深く秘められた情緒的な領域を表現するのが文学です。自然に現れている、あるいは隠されている美を何らかの形で具現し表現するのが芸術です。そして、自然の根本的な理を解明しようとする分野が哲学です。そしてこれらの領域の上に位置するものが宗教です。


では、真の宗教と宗教家が解明すべきこととは何でしょうか。それは、自然の中に深く流れている静かな内面的な内容を明らかにすることです。この責任を担うべきなのが宗教であると考えられます。


人類の文化は自然を離れては考えることができません。自然を離れた人類文化は語ることすらできないのです。人間がどれほどその威勢を誇り、権力を享受したとしても、自然を無視するならば、そのすべてが成り立たないということです。


このように、私たちの生活を価値あるものとしてくれるのが自然であり、私たちの人生において必須のものが自然なのです。ですから、自然の万象に流れている心情を感じ取ることができない人は、真実な幸福を享受することができず、天と縁を結び、栄光の場に進むこともできないのです。このことを、皆さんは理解しなければなりません。


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今後、皆さんは一本の草を見るときでさえ、神の視点で見ることができなければなりません。花を見るときにも、神の心情を代弁する立場、神の心情と通じる立場で見ることができなければなりません。昆虫や鳥、あるいはどのような動物を見るときにも、神の心情とつながる内的な感情を体得することが求められるのです。


そのような人がいるならば、たとえその人が公式や定義、すなわち科学的な論理でそれを解明することができなくても、文学的にその情緒を表現することができなくても、また芸術的にその美を表現することができなくても、さらには感情的にその愛を体感する力がなくても、その人は偉大な科学者であり、偉大な文学者であり、偉大な芸術家であり、偉大な哲学者であり、偉大な宗教家であることに間違いありません。


今日、世界的な人物とされる人々や偉大な学者とされる人々が数多く存在し、それぞれの立場で宇宙を探求しています。しかし、これまでの論理を超え、最終的な問い、すなわちこの宇宙とつながりを持つ何らかの存在についての究極的な答えを持っていない限り、その人を本当の意味で世界的な人物とは呼べません。


これまでの科学的な論理や公式、法則を用いて宇宙を観察し、感じる段階を超え、それらを超越した心情的な感応を体験できない人には、それ以上の発展はありません。これは文学や芸術、哲学、そして宗教にも同様に当てはまります。


真に世界的な偉大な学者がいるとすれば、その学者の心情の奥底には自然の心情と調和できる感性が備わっているはずです。その感性が、自分の研究分野を超えて頻繁に接触する感覚をもたらし、それによって思いがけない示唆や幻想、あるいは夢の中での啓示のような現象が現れるのです。そしてこれらの現象は、自らの専門分野に深く没頭した状態でのみ起こるものです。


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情に豊かな人ほど大きな事業を成し遂げたというのは、歴史を振り返っても否定できません。また、そのような感情と調和し、一本の草を見ても「神様!」と呼び求めることのできる宗教家がいるならば、その人こそまさに偉大な宗教家であると言えるでしょう。


今日の仏教では仏像を安置し、その前で福を祈るという行為が行われていますが、主体と対象の外面的な違いが天地ほどに大きいとしても、心情の世界においては差がないということです。その場で感じられる感情や通じるすべてのものを、天と同じように信じ、受け入れるならば、天はその心を見捨てず、それを成し遂げてくださいます。ここから「願いの成就」という言葉が生まれるのです。


このように考えるとき、私たちがこれまで生きてきた過去の生活や、今現在生きている現実の生活は、あまりにも無感覚的であり、あまりにも無情緒的であり、あまりにも堕落した宇宙観を持っていることが分かります。この事実を嘆き悲しむべきです。もし、これを嘆き悲しむことのできる人がいるならば、その人は新しい時代の人物として召命を受け、新しい時代の使命を担うことでしょう。このことは間違いのない事実であると断言できます。


私たちは、今日の自分の周囲の環境を見て顔をしかめ、嘆くのではなく、また社会の矛盾を見て落胆するのではなく、たった一本の草を見つめ、その喜びの中に自らの悲しみを忘れることのできる人間であるべきです。もしそのような人がいるならば、その人は新しい時代に残される人物です。理想的で心情的な世界を目指す人であるならば、その人は必ずや神と何らかの縁を結ぼうとする人であるに違いありません。


統一教会の皆さん、一本の草が育つのを見て、どうしようもないような心情を感じてみてください。そこには無限の生命があり、神がいらっしゃいます。一つの山頂を見つめるとき、昨日感じた感情と今日感じる感情が異なることに気づくでしょう。春夏秋冬、四季の移ろいによって自分の心情に湧き起こる感情の違いを歌にできるなら、それはなんと高尚なことでしょうか。それこそが、自然とともに調和して生きる人の姿です。堕落していない本来の人間とは、そのような人であったに違いないと私は思います。


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流れる水辺を見つめ、広い平野を流れる小川を眺め、そびえ立つ山脈を仰ぎ、昇る太陽の朝の光を浴び、東の空から差し込む月光に触れ、こうした万象を前に、どの瞬間でも心で歌い、心から楽しむことができる人がいるならば、その人こそ、神が万物を創造されたときに夢見られ、理想とされた存在です。その万物を託そうとされた、神が立てようとされた真の本然の姿です。


景色の美しい名所を訪れることを喜ぶ人間もまた同じです。神はそのような人間を求めておられるのです。


本然のエデンの園で、神がアダムとエバとともに自然を歌い、自然への感情を表現するひとときを持たれたかといえば、それは叶いませんでした。神はきっとこう言いたかったはずです。「わが子よ、あの山を見てごらん。あの山は私がこうして創ったのだ。あの草木を見てごらん。これもまた私がこうして創ったのだ。すべてはお前たちの幸福のために創ったのだ」と。しかし、神はその言葉を実際に口にすることはできませんでした。なぜなら、アダムがまだ成熟していなかったからです。それでも神がアダムを見つめながら、そのように語りかけたかった切なる内的な心情があったことを、私たちは知るべきです。アダムが情緒的に未熟な段階にあったため、神が語りかけることができなかったその事情を、私たちは理解しなければなりません。


もし神がそのような言葉をかけられる立場にアダムがあったなら、神は彼の手を取ってこう言われたでしょう。「アダムよ、私が見たいと思っているあの園の花を一緒に見てみよう。私が眺めたいと思う山河を一緒に眺めてみよう」と。私たちの祖先がそのような生活を送っていたならば、今日の人類はこの苦難と死の支配の中でさまようことはなかったでしょう。


ですから、今日、皆さんは恋しく思わなければなりません。本然のエデンを恋しく思わなければなりません。神の無限の愛が満ちている世界、ひとたび始まればそのまま永遠に愛の感情と調和できる世界、ひとたび歌えば永遠にその歌に酔いしれることができる世界、ひとたび跳ねれば神とともに永遠に跳ね続けたいと思う心が湧き上がる世界、ひとたび動き、ひとたび責任を果たせば、それが永遠の価値の責任となると信じ、努力できる世界。このような世界を恋しく思い、涙を流すことができる人にならなければなりません。


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そのような心情を持つ人間を見つけられなかったことが、神の悲しみです。地を相手に摂理を進めておられる神は、必ずそのような人を探し立てずにはいられないのです。


私たちが歌う歌に山河や自然が含まれているのは、それらを通じて私たちの感情を高めようとしているからです。すべてそうです。もし本然の世界でアダムとエバが、神が行きたいと思う心情と同じ心情で共に行くことができていたならば、それはどれほど素晴らしいことであったでしょうか。どれほど素晴らしかったでしょうか。


今、皆さんはそのような心情を持たなければなりません。そのような豊かな心を持つ人、そのような心情を体得した人こそが、新しい時代、新しい理想天国の時代の民として参加できるのです。


では、皆さん、復帰の恨みを晴らし、歴史の悲しみを乗り越えて栄光ある神の御手を掴もうとするならば、神はどのような人を掴みたいと思われるでしょうか。神は、「この万物を私の代わりに楽しんでくれ。この万物を私の代わりに感じてくれ。この万物を私の代わりに愛してくれ」と言うことのできる、そのような人を掴みたいと望まれるのです。


皆さん!これまでの人生で、神秘的な雰囲気や恩恵の満ちた場面において、自然の中の一本の花を心から恋しく思ったことがありますか?また、祖先の誰かに会うような切なる心で花に向き合ったことがありますか?あるいは、山河を見つめたとき、心に込み上げてくる感動から、思わず天に賛美を捧げたことがありますか?もしそのような経験がないならば、私ははっきりと言いますが、皆さんには万物の主になる資格がありません。どれほど素晴らしいとされるエデンの園であっても、万物とそれを見つめる人間が心情を通じて天を動かすことができない場所であれば、それは憧れるべき場所ではないのです。


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私たちはこれまで、祈りの中で人間のためだけに祈ってきました。しかし、私はそうではありません。人間のために祈るだけでなく、天のためにも祈るべきだと考えています。イエスのためにも祈らなければならないのです。イエス様がこの地上に来られ、私たちのために夜を徹して祈られたその恩に応えなければなりません。そして、今日まで労苦を重ねてこられた神のためにも祈り、さらに進んで、全人類のために祈るべきです。


そのような感情を持ち、そのような生活を送る人が、神に最も近い人と言えるでしょう。私はそのような体験を通じて、そのことを実感しました。


皆さんも、道を歩いていて疲れたときや、休むときに、そのような感情を抱くことがあれば、天は必ず共にいてくださるでしょう。そうなれば、一本の古びたケヤキの木の根を握りしめながら、そこから天の心情を歌うことができるでしょうし、大きな陰を作る岩に寄り添いながら、その場所を安息の憩いの場として天の情緒を歌うこともできるはずです。


今日、統一教会の私たちは、神がご自身で創造された善なる万物の中にも、最も愛されるものがあることを知っています。同じように、花であればその中で特に愛される花、木であればその中で最も愛される木があるはずです。このような感情を持つことができないなら、その人は心情世界では不合格者と言えるでしょう。花の中でどの花を、木の中でどの木を、草の中でどの草を最も愛するかを知り、それを表現できるべきなのです。そうしてこそ、自然を恋しく思う心が生まれるのです。


自分の命が躍動すると同時に、その命を抱き、自然を引き寄せる心情の縁を持つ人は、理想を持った人であり、決して軽々しく生きることのできない人です。


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今日、私たちが目にするこの自然はどのような自然でしょうか。また、私たちが踏みしめているこの地はどのような地でしょうか。それは悲しいことに、堕落した地であり、喜ぶべきところを悲しまなければならない地となってしまったのです。このことを、皆さんは感じなければなりません。万物を見るときに、心の中で「美しい」と感じる一方で、その万物が悲しみの中にあること、嘆きの中にあることを感じ取らなければなりません。美しい名勝地を見て「良い場所だ」と思うことがあっても、無限の悲しみを感じて神とつながることのできる人間であるべきなのが、今日の堕落した人間の立場なのです。


今、私たちは一本の草を手にして喜びを感じるのではなく、その草を見て悲しみ、涙を流せる自分になるべきです。また、一本の木を抱いて涙を流せる自分になるべきです。山河や万象を見ても深いため息をつけるような姿勢を持つべきです。それはエデンを恋しく思う心を持っているからだということを知らなければなりません。そのような心情に浸っておられる方が神であり、その心情の縁を未だに脱することのできない存在が人間であるということを理解しなければなりません。


そのような心情を持つ人であれば、自然を見てもエデンを恋しく思うことができるでしょう。「恋しいエデン」とは、自然そのものを恋しく思うことであり、また、その中で万物を統治することのできる本然の人間をも恋しく思うことであるのです。


イエス様は敵に対して祝福を祈られました。両手両足に釘を打ち、頭に茨の冠を被せる者たちに対しても祝福を祈られました。また、槍で脇腹を刺す無謀な敵に対しても祝福を祈られました。なぜそのようなことができたのでしょうか。それは、神が最大の精力を注ぎ、切なる事情を経て労苦の末に創られた存在が人間であるという事実を、イエス様が深く理解しておられたからです。わかりますか?


天の事情を背負って来られたイエス様は、ご自身が敵から反対される立場にあったとしても、天の本然の心情を辿ってみるとき、神が全精力を注いで創られた縁ある存在である人間に対して、祝福を祈らずにはいられなかったのです。


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イエス様はこの地上で30余年の生涯を送る中で、瞑想や思索を通じて神と完全な関係を結んでおられました。そのため、イエス様は本然の真の人間、本然の真の人間であられました。それは、万物が恋しく思うことのできる存在であり、神もまた恋しく思うことのできる存在だったのです。


今日、人間も自らが作るものに対して、今日仕上がらなければ明日また取り組み、完全に仕上げようとします。同じように、神もまた同じです。神は人間を創造された後、その姿を見てどれほど喜ばれたことでしょうか。その心情の世界に入り込み、それを体感した人がいるならば、踊りたくなるでしょうし、その喜びに何十年も踊り続けたいと思うことでしょう。


今日、多くの信仰者たちが語るように、単純な法則によって生まれた人間であれば、そんな人間は必要ありません。人間は法則で測ることのできない無限の柔軟性を持つ絶対的な原則によって創造された存在であり、その価値は計り知れないのです。そのような人間を見て、神はご自身のすべての属性を感じ取ることができ、全宇宙の感情が流れているのを感じることができました。このことに接するとき、神は無限の喜びを抱かれたのです。


神が見つめ、喜ばれたアダムとエバ、神が恋しく思われたアダムとエバ、さらに万物が主人となることを切に望み待ち望んでいたアダムとエバ、こうして神が恋しく思い、万物が恋しく思ったアダムとエバはどうなったでしょうか。堕落の結果、その「恋しさ」は呪いと恨みに変わり、幸福と希望は嘆きと絶望に変わり、命は死に変わり、愛は慟哭へと変わってしまいました。この事実は、何とも言い難い悲劇です。


このような悲しむべき祖先を抱えているという事実に対して、何とも言い難い嘆きを感じるべき立場にありながら、私たちの中には、この悲しむべき事実がどこから始まり、今日の私たちとどのように関係を持っているのかを知らない人が多いのです。この嘆きを振り払い、この悲しみの心情を洗い流し、人間本然の心情を見つけて歓喜し、その歓喜の声を高らかに上げる群れは、この地上に存在しないのでしょうか。天はそのような人々を探し求めています。そのような立場に立つ者がいないのか、天は求めています。


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このような心情の問題において、天が恋しく思い、万物が恋しく思う価値ある人間が、今このような堕落した状態になったのであれば、それは裁きを受けなければならないのです。私はそう考えます。そしてこう祈らなければなりません。「父なる神よ、もし私が裁きを逃れたいと願うならば、あなたを恋しく思う心情において合格する者になりたいです。エデンでアダムとエバを創造され、喜ばれたその心情、行ってみたい、会ってみたいと思われたその心情、その心情に合格することによって、裁きを逃れ、喜びの歌を歌う勝利者となりたいです」と。天はそのようになることを望んでいます。


天倫を恋しく思うことができる自分になると同時に、人間を恋しく思える自分にならなければなりません。神がご自身の心情を体感させるために一人の男性と一人の女性を創造されたということが、どれほどありがたい恩恵であるかを、皆さんは深く考えなければなりません。


地上に男性と女性が存在するならば、彼らは神の全体的な性格と性相を代わって立てられた存在です。したがって、一人の女性を愛することができる男性でなければならず、一人の男性を愛することができる女性でなければなりません。神の心情を通じて、アダムが望んだ心情の基準、エバが望んだ心情の基準を持ち、自由を享受し、天を抱擁することのできる夫婦が地上にいるならば、神はその夫婦に全宇宙を委ね、安息したいと願われるのです。しかし、今日の人間はそのような神の御心を知りません。


人間はこのような心情の法度を踏みにじったため、今日、心情の世界において無限の「恋しさ」に苦しむようになったのです。芸術や学問、あるいは地上のどのような愛の対象を通じても、この恋しさを埋めようとしますが、埋める道がなく、苦悩するしかないのが堕落した人類の現実です。これが歴史的な悲哀であり、悲劇なのです。


もしこのような恋しさが皆さんの心に込み上げてくるならば、本然の園を恋しく思った万物とともに、その本然の園を恋しく思うことができ、本然の心情を通じて神の心を引き寄せていた本然の人間の姿を備え、天を恋しく思うことができる人になるべきです。そのような人になるならば、神は両手を広げて「そうだ、わが息子よ、わが娘よ」と言いながら抱きしめずにはいられないということを、皆さんは知るべきです。


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もし皆さんが、自分の価値を高めて天の御前に進みたいと願うならば、主の御言葉を聞き、恋しく思っていた本然の園に住むことのできる本然の人間の価値を体得し、天を恋しく思う心情に応えられるようになり、天を恋しく思う心を持つべきです。そのような人が現れるならば、天はどれほど喜ばれるでしょうか。


「恋しさ」というものは、愛を抜きにして成り立つことはありません。その愛は、人間的な愛ではなく、永遠の安息と永遠の命の源である神の愛でなければなりません。だからこそ、キリスト教は他の宗教と異なり、愛の宗教としてその使命を全うしようとしているのです。宗教の目的は、心情世界の法度を活用して、生活における感情や宇宙万象のすべての理を司る権限を持つような人格者を育成することにあるのです。


神は、人間がまるで木や石のような存在であるにもかかわらず、6000年間、人類を恋しく思う心情の基準を保ちながら摂理を進めてこられました。歴史はさまざまな形で展開してきましたが、神は「アルファでありオメガ」であられる立場から、一貫してその恋しさを失われることはありませんでした。それに対して、人間が神のそのような心情と異なる心情を持つのであれば、その人間は敗北者であり、歴史の路程から脱落する者となるでしょう。


天が「わたしはアルファでありオメガであり、初めであり終わりであり、始まりであり終わりである」とおっしゃったのは、私たちにとってどれほどありがたいお言葉でしょうか。それだけでなく、さらに神は堕落した人間に対しても、恋しさと共に悲しみの感情を重ねて持ち続け、私たちを恋しく思い続けておられるのです。このことを私たちは知るべきです。


取るに足らないこの一つの体を抱え、本然の心情に傷を負わせた堕落した人間を抱きながら、それでも神はその恋しさを捨てられませんでした。このように、堕落した人間に対する悲しみを胸に抱き、悲しみの感情の中で恋しさを持ち続けておられる神を感じる人がいるならば、その人は間違いなく天国に行けるでしょう。


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私はこのように祈ったことがあります。「お父様!私が自分の手を握りしめ、その手を恋しく思い、涙を流すことのできる人間になれたらいいのですが」と。神はそのようなことを望んでおられると思います。神が本当に愛をもって握ることのできる手であるならば、自分自身がその手を握りしめ、涙を流すことのできる人間になるべきなのです。


堕落せず、神を恋しく思った本然のアダムの手を握りしめ、涙を流せる人間であるべきです。さらに進んで、アダムを抱き、エバを抱き、涙を流すことのできる人間になるべきです。そのような人間になれば、堕落の歴史を踏み越え、乗り越えることができるでしょう。


私たちは、本然の人間を恋しく思い、その価値を誇るべき歴史的な責任があります。そして、その誇るべき価値を神の御前に高く掲げる責任があります。そのため、知らず知らずのうちに自分の価値を高めようとし、知らず知らずのうちに自分自身を恋しさの対象として立てようとするのは、人間の自然な感情です。それは、人間がもともとそのような理念を持って生まれたからです。


しかし、自分の価値を立てようとする中で少しでも誤れば、堕落した世界の価値を受け入れることになりかねません。また、自分自身を恋しさの対象として立てようとする中で誤れば、堕落の基盤となってしまう危険があるのです。


そのため、堕落した人類は全体が否定され、否定されなければならないのです。すべてを捨て去るべきだということです。なぜなら、アダムとエバがすべてを持つことができなかった位置で堕落したからです。アダムとエバはその理念を持っておらず、心情的な問題に関して何も持っていなかったのです。自ら万物を支配できる堂々たる権威を持つ立場に立つことができなかった、それが堕落ということです。アダムは万物を支配できる立場に立ったことがありましたか? いいえ、立っていませんでした。


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このように、本然の人間を恋しく思い、彼を求めて進むべき歴史的な条件に縛られているため、人間はすべてを捨て、涙から出発しなければならない存在であることを私たちは理解しなければなりません。そのため、涙を引き起こす宗教がどこにあるのかを探してみると、キリスト教で「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われているのを聞くことができます。イエス様がこの地上に現れ、「悔い改めなさい、天国は近づいた」と言われたのは、まさに「嘆きなさい」という言葉でした。自分自身を見て嘆き、家族を見て嘆き、愛するすべての人々、民族、国、そして自分が生きているこの地を見て嘆きなさいということです。ここには、恋しさの縁を新たに結ぶための神の御旨が込められているという事実を私たちは理解しなければなりません。


私たちは、万物を恋しく思うことができ、人を恋しく思うことができる存在でなければなりません。皆さん、人を心から恋しく思ったことがありますか?純粋な天の心情とつながり、無限に与えても忘れてしまい、それを喜べるような心情を体感したことがありますか?そのような心情を引き起こすために、天は「宗教」という名を掲げ、「救主」という名を掲げ、「新郎新婦」という標語を掲げて摂理を進めてこられたのです。私たちは、その方のためにすべてを捧げる覚悟を持たなければなりません。


神は、心情と恋しさが結びついた心で捧げられる万物を受け取る日を切望しておられます。心情と恋しさに満たされて捧げられる家庭を受け取りたいと願っておられるのです。そして、その恋しさに満たされ、この国、この民族、この世界が神に捧げられることを望んでおられるのです。


皆さんは今、天に向かって恋しさに満ちた心で「たった一銭にすぎないこのお金ですが、どうかお受け取りください」と言えるようにならなければなりません。そのようなとき、その一銭は宇宙を代表する価値を持つのです。どれほど貧しい家庭であっても、「不足していますが、この家庭をお受け取りください」と言えるとき、その家庭は天国の継承を受けることができるでしょう。荒野をさまよっていたイスラエルの民のように哀れな民であったとしても、その民が天に向かって恋しさの心情で「この民をお受け取りください」と祈るならば、天はその民に地上天国を主導する権限を与えようとされるのです。


国家も同様であり、世界も同様です。今日、この地上で人類に提示されるべきどのような理想主義や理念であっても、それが天を恋しく思わせ、心情的に天を慕わせるものでなければ、人間の根本的な問題を解決することはできず、天倫の根本的な問題を解決することもできません。


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心情的な問題を探し求め、天を恋しく思い、本然の園を恋しく思うひとときを持つことができなかったことが堕落であり、そのような関係を自らの存在を賭けて築き上げることが復帰の使命なのです。


そのような使命を果たそうという心情に満ち、父なる神の心を慰めることのできる一つの姿として、その心情的で恋しく思う理想の園の理念の中で動きながら、万物を探し求め、人間を探し求めて働かれる天に向かって「お父様」と呼ぶことのできる人がいるならば、その人を天が知らないはずがありません。そのような心情を持ち、本然の園を探し求めた人がいるならば、その人を神が知らないはずがなく、人類全体が知らないはずもなく、被造物すべてが知らないはずもないのです。そのような人こそ、本然の真の人間であることを私たちは知るべきです。


だからこそ、「恋しいエデン」、そこに生い茂る万物、そこに住む人間、そしてそこに訪れられる神が、個別に事情を通じるのではなく、一人の人を中心として、上には天、下には万物が調和し、応えることのできる一つの喜びの住まいを築かなければなりません。その場所にいる人は、神が愛することのできる人であり、人類が仕えることのできる人であり、万物が尊敬することのできる真の主人であるに違いないということを、私たちは知るべきです。


このことが成し遂げられなければ、復帰摂理、すなわち神が掲げられた全体の御旨が完結し、勝利の栄光を見ることはできません。また、私たちも堕落の悲しみを解消し、願いを成就することはできません。それが成し遂げられなければ、勝利の一日を備えた世界をこの地上に建設することはできないという事実を、私たちは明確に理解しなければなりません。


<祈り>
行けども行けども果てのない復帰の道程であり、悲しみが残されたまま巡り続けなければならない私たち人間であることを、私たちは知っています。しかし、苦労された父なる神の心情世界を通じてみるとき、巡り続けた悲しみの歴史が今日の私たちと関係を結び、今日の戦いの関係が未来の縁を構築する基盤となり得るのです。そして、無限の希望、無限の幸福、無限の恋しさの園を築き上げるという心情の縁を、私たちは理解しなければなりません。


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お父様、アダムを伴い、あちらこちらを巡りながら誇らしげに自慢したかったその山河は、いったいどこにあるのでしょうか? アダムと共に誇りたかった咲き誇る花はどこにあり、成長する樹木はどこにあり、青々とした草原はどこにあり、流れる小川はどこにあるのでしょうか?

そのような心情を通じる境地において、父と同行できたはずのアダムは堕落して父のそばを離れてしまいました。しかし、今、私たち自身が恋しく思っていたお父様をそばにお迎えし、万象と共に、全人類と共に、全宇宙と共に楽しむことのできる喜びの姿へと導いてください。父なる神よ、心から願い、切に求めます。

残された十字架の恨みも、恋しさを通じなければ縁を結ぶことができず、残された栄光の場も、恋しさに満ち、理想の園を慕う心がなければ縁を結ぶことができないことを私たちは知りました。この恋しさの心情を持って、本然の人間として本然の園で万物に向き合うことのできる子女、堕落の縁を結ばず、父の祝福を受ける勝利の子女となれるよう導いてください。そして、真の人類の祖先となれるようにしてください。切にお願い申し上げます。

お父様、この日のすべてを委ねます。捧げた言葉を通して、この人々の心情の中に新たな喜びを体感する心情が芽生えるように許してください。

すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン。



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御言葉選集6(10-2)

2024年11月15日 15時31分54秒 | 学習
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歴史を解決し、時代と未来を解決し、天倫を完成させることができるのは、現在の既成の世界の形態ではありません。それに反対される新しい形態であり、私たちの良心を超えて心情を貫く内容を持つものです。人倫や道徳を超越し、天倫を貫くことができる内容を持つ新しい形態でなければならないのです。


既成の観点や既成の論法を守ろうとするのではなく、既成の論法を新しい論法と融合させ、調和させることのできる論理的な内容を備えた主義でなければなりません。もし良心を持つ何千万人がいたとしても、その人々に対してそのような言葉を伝え、そのような理念を紹介するならば、彼らの良心の方向を180度変えることができ、良心革命を引き起こすことができるのです。


良心革命を引き起こすだけでなく、その良心が向きを変えた後には、その良心を貫き、天の心情が私たちの心と永遠に切り離されることのない情的な縁を結ぶことのできる一つの主義、一つの理念が現れるならば、それが最後の時代の到来を意味します。


そのような主義や理念は、人々の内面に深く浸透し、既存の価値観や倫理を超越して、全く新しい方向性を提示します。それは、天倫と直結し、全人類を統合するための鍵となるでしょう。そのような理念が現れることが、終末の時代における新しい希望の出発点となるのです。


イエスは、無知な人間にこれを教えるために、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と宣言されました。この「新郎と新婦」という関係は、今日の世間で言う男女の情的な理念を超越した、もっと深い心情を通じる関係を意味しています。


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良心の方向と情的な動きが天を目指して動くその場から、歴史は新しい門をくぐり抜け、新しい世界へと進むのです。そのような次元まで解放されなければ、天の働きは完結しないということを私たちは理解しなければなりません。


人類の歴史の過程で、情的な問題は革命的に解決されたことはありませんでした。しかし、イエスは2000年前に「母や子、誰であれ私よりも愛する者はふさわしくない」と主張されました。これは驚くべき言葉です。


では、「より愛せよ」と言われたその内容とは何だったのでしょうか? その内容は、イエスが十字架にかけられたために完全には明らかにされませんでした。そのため、私たちがその内容を見つけようとする時が「私たちの希望の時」であり、「再臨の時」であると理解しなければなりません。


イエスは言葉を残されましたが、その言葉の心情を貫く内容や主義思想はまだ現れていません。その内容が現れる日、それが再臨の時であり、その時には世界は真の平和の世界となるでしょう。その時こそ、イエスが語られた言葉が完全に具現化され、人類の希望が成就される時です。それを待ち望むことが、私たちの使命であり、新しい時代を迎える準備なのです。


私たちの心の中心は良心です。しかし、神は良心を持つ人間であっても、その良心を完全に主観することはできません。あなたがどれほど良心を持つ善良な人であっても、神が「こちらへ行け」「あちらへ行け」と自由に指示することはできないのです。しかし、神と情的な縁を結んだのであれば、神はどのようにも主観することができるのです。


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人間の堕落とは、良心を失ったことではありません。神との情的な関係を結べなかったことが堕落の原因です。したがって、良心を超えて神と情的な縁を結ばなければなりません。そのとき初めて、天の恨みが解消され、復帰摂理が終結するのです。このような基準が人類の前に現れることで、神を代弁する人類となることができるでしょう。そして、そのような主義と思想、そのような宗教的理念を実践することで、神はこの地上のすべての万物の領域に自由自在に働くことができるようになるのです。


そのため、この時代において、分派的な宗教は排除されなければなりません。統一教会以前にも「宗教」という名のもとに無数の教派がありましたが、私たちはそのような教派の仮面を取り払い、形骸化した教会をなくすべきです。神は家庭的な教会、個人的な教会を望んでおられます。


さらに、神は万物の領域までも善の聖殿、至聖所として自由に働くことができるようになることを望んでおられます。神はそのような「エデンの園」を待ち望んでおられるのです。それは、人類が神と直接的な情的関係を結び、すべての創造物が神の摂理に基づいて調和する完全な状態を実現することを意味します。この理想を成し遂げることが、神の究極の願いであり、人類の使命です。


そもそも、人間が持つ心情と神の心情が結びつく縁を失ったことが堕落の原因であり、その縁を再び結ぼうとするのが天の復帰摂理であり、人類の希望の基準です。そのため、その摂理と希望の代表として来られたイエスは、「私は新郎であり、あなた方は新婦である」とおっしゃいました。


では、その境地を超えていくためにはどうすればよいのでしょうか? あなた方には、新郎新婦以上の感情、衝撃、そして天を中心として深く感情移入し、憧れ、慕う心情が必要です。それがなければ、あなたはその境地を超えることはできません。


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こうして天が解放された人類に対して再び提示しようとしているものは何でしょうか? これまでの歴史は「人間の愛」という二文字で埋められてきました。しかし、天の復帰摂理は、この「人間の愛」を打ち破り、「神の愛」という二文字で埋め直そうとしているのです。


神の愛を体験したことのある人がいますか? もし、あなたが神秘的な境地に入り、神の愛を体験したことがあるなら、その愛の感情が存在するすべての感情を総合したものであることを感じたことでしょう。人間の愛の感情は、存在世界全体の意識を総合したものではありませんが、神の愛を感じる瞬間には、存在世界全体の感情を感じることができます。これが、神の愛の持つ価値です。


神の愛は、単なる個人的な感情を超越し、宇宙全体、存在するすべてを包含する普遍的な心情をもたらします。その愛を体験することは、天との完全なる一致を意味し、復帰摂理の完成を象徴します。それが人類の最終的な目的であり、神が人間に求める究極の境地なのです。


神の愛の境地とは、個体が全体を、全体が個体を通じることができる境地です。霊界はこのような愛を基盤とする超自然的な認識の世界であり、時間と空間の支配を受けません。たとえば、太陽の光を中心に万物がその光を慕い、方向を向けるように、人間の本性が求める神の情的な基盤を備えて現れる者がいれば、全人類がその前に頭を垂れるでしょう。そのような時が必ず訪れるはずです。


その条件を提示するために来られたのがイエスでした。しかし、イエスが十字架で命を落とされたために、その情的な縁の基準を地上に残すことができませんでした。これが神の嘆きであり、6千年間の神の恨みであり、イエスの2千年間の恨みなのです。この恨みを解消し成就させる一日を待ち望んで進んできたのが、6千年の摂理の歴史であることを理解しなければなりません。


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そのような時代の流れの中で、神が解放の歴史を統合しようとされる御旨があるならば、堕落した私たちはこう祈るべきです。「神よ!あなたの愛はどこにありますか?あなたが愛される教派、あなたが好まれる僕、あなたが愛される息子娘はどこにいますか?」と。もしそのような人が存在するならば、その人はこの時代に迫害を受ける存在でしょう。


天はアルファでありオメガです。その形が小さいか大きいかの違いはあっても、初めと終わりが同じ形で現れるでしょう。この原則に基づいて、神の御旨が成し遂げられ、天と地が一つになる時が訪れるのです。その時が来るまで、私たちは神の愛を体現する存在を見つけ、その愛に応える努力を続ける必要があります。


神がエデンの園でアダムとエバを失われたときに感じられた悲しみを理解できる、真の人間の姿が現れなければなりません。そのような人こそ、神の代理者です。歴史を通じて、全人類に対し、またイスラエルの選民に対し、悲しまれた神の心情を掴み、それを代わりに涙して慰めることができる人、そんな感情を感じられる心情の所有者にならなければなりません。


死の領域の中でどこに向かうべきかも分からずさまよっている人類を見て、その時代を代表して神のような心情を感じ、居ても立ってもいられず、神に切に祈り続ける者、真の羊の群れが踏みにじられるのを見て、自分の名誉や立場を気にせず、その苦しみを抱える者たちは、どの時代にも歓迎されませんでした。


神の歴史がそのようなものである以上、解放と統合が進む終末の時代においても、神の心情と通じたいと切に願う心情がいくら強くても、一度に心情が通じることはありません。人間が心情を失うまでにどのような過程を経たのでしょうか?


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それは、まず神の言葉を失い、神の言葉を守らなかったことから始まりました。その結果、神が与えられた肉体を失い、肉体を失った後に神の愛も失われました。そのため、復帰の過程を経なければならないのです。


復帰の過程は、まず神の言葉を取り戻し、その言葉を実践し、神が与えられた肉体を神の愛と一致させることを目指します。この過程を通じて、神との心情的な縁が回復され、人類は再び神のもとで真の幸福を見出すことができます。そのような人間が現れることで、神の歴史の目的が成就されるのです。


今日の私たちには、体と心、本性と本心、そして良心の奥深くに潜む心情にまで達し、永遠に永遠に動き続けるようにする言葉が必要です。良心を土台として、その良心の中に隠れている心情を呼び覚まし、天の愛を慕うことができる、このような内的能力を備えた言葉が必要だということです。その言葉を聞けば、これまでのどんな主義、どんな思想、どんな観念的な認識でも一度に崩れ去り、新たな心情が湧き上がり、天の仕事をしたいと思えるような、そうした言葉が出てこなければなりません。今日、宗教があり、キリスト教が存在しますが、キリスト教が果たすべき役割もそれです。そしてイエスが再び来られても、それが果たすべき役割です。


私たちが永遠の神の言葉に永遠に結びつくようにする言葉が必要だということです。したがって、私たちはその言葉と調和した実体とならなければなりません。悪魔の世界と縁を結ぶのではなく、永遠の神の世界と縁を結ばなければ、その生活や心情問題において神が喜ばれる一つの人格を持つことができません。そうしてこそ、神が愛されるのではないでしょうか。良くないものを神が愛されると思いますか?


イエスが「新郎新婦」と語られたその言葉は、外面的な言葉であり、一通の手紙のようなものです。これまでの宗教は良心宗教でしたが、心情宗教ではありませんでした。心情的な目標を掲げてはいたものの、心情的な内容を備えてはいなかったのです。したがって、その言葉は良心的な形態であり、約束の手紙のようなものでした。ですから、その手紙の内容を通じて心情の言葉を見つけなければなりません。


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私たちが求めるべきなのは、その言葉によって永遠に心酔し、心情を抱くことができる言葉です。その言葉を慕い、その言葉と共に楽しみ、その言葉と共に愛し、その言葉と共に生きることができる内容を持つ言葉を探さなければなりません。その次に私たちは、父の言葉の実体となるべきです。万物宇宙を代表し、天が否定できない存在、イエスが「新婦」として認めざるを得ない実体を作らなければなりません。それによって初めて天的な人となることができます。


もし、あなたが信じている聖書の言葉について、「よく分からない」「イエスが誰か分からない」「言葉としては知っているが、心情的には分からない」「観念的にイエスを知っていても、体感的には知らない」と言うようではいけません。それでは、イエスとの間に何の関係も築くことができません。


今日、この時を「探すべき時」と言います。「求めるべき時」「扉を叩くべき時」とも言います。多くの人が高いレンガ造りの建物や広い門を行き来しながら数十年にわたり探してきましたが、それを見つけることはできませんでした。ですから、反対の方向から探さなければなりません。天は私たちを背後から押し出し、前方で向き合う形で現れるのです。そのため、天は善良な人々を引き寄せ、悪しき世の中へ送り出します。迫害を受ける人々の中に、天の新しい歴史が内在していたことを知るべきです。


しかし、それが必ずしも「統一教会の人々」だとは限りません。初めて来た人々は「ええ、統一教会なんて…」と言うかもしれませんが、それは各自で考えてください。


これからの世界の終末時代には、共産主義にも民主主義にも反対するような、新しい理念を持つ主義や思想が現れなければなりません。必ず現れる必要があります。そして共産主義と民主主義が協力して、「その主義を排除しよう」と動き出すでしょう。また、長老派、メソジスト、聖潔派などの40以上の教派や宗派がすべて統合して、「その一つの団体を排除しよう、その一つの動きを排除しよう」とするでしょう。


40


このような主義や思想が歴史の終末時代に現れることで、新しい歴史が始まるのです。その主義や思想こそが、これまでの価値観や体系を打ち破り、次の新しい時代を切り開く鍵となります。この動きが始まるとき、天の意図が現れることでしょう。


そのような一つの主義や思想が現れると、そこに行きたくなり、そこにいたくなり、そこに住みたいという感情があなたの心に湧き上がるでしょう。そのように見たいという感情、動きたい、生きたいという感情が湧き上がり、さらに語ること、生活することにおいてそのような感情が誘発されるならば、それが現れるその場所が人類歴史の最終点であり、最終的な主義となるでしょう。それは心情の内容を紹介することのできる最終的で歴史的なものでしょう。


絡み合っていたすべてを解放し、それを再び規合して一つの心情と一つの理念、一つの生命体に結びつけた一つの人格者、その理念に基づく一つの世界観、その心情を歌うことのできる、そして万物宇宙を和動させることのできる一つの主義や思想が現れなければなりません。


そうして初めて、解放してこられた神の全体の御旨がようやく解かれるのです。そのとき天が安息でき、天が安息することで万民が安息し、歴史も安定点を掴んで新しい時代へと出発することができるということを、皆さんははっきりと知るべきです。




<祈祷>


天の歴史の路程は、解くための路程であることを知りました。私たちの体と私たちの心には、食欲、情欲、貪欲があることを知り、また睡眠欲もあることを知っています。そのようなものを持つ人間を中心にして、天が歴史の路程で摂理されるためにどれほど多く苦しんでこられたかを考えると、許されない罪人であることを知るに至り、どうかお赦しくださいませ。


41


天が解きほぐそうとされる歴史の路程において、見えない多くの悪魔たちが逆に絡め取るための歴史を進めていることを私たちは知りました。「解く歴史」と言われましたが、反対の世界では絡め取って新たな場所へ行かせまいとする歴史の一面もあることを、今日のこの言葉を聞いた者たちが理解できるようにしてくださいませ。


絡め取る悲しみの歴史と解く喜びの歴史が交差する環境に置かれている私たち、体は絡め取られることを望み、心は解き放たれることを望む嘆きの領域にいる私たち。この心を引き上げ、体を打って、体が心に服従する喜びのひとときを迎えなければならない悲しい歴史の終点を見つめている私たち。このような境地にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


また、このような天運の圏内にある自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。このような復帰摂理の解怨の過程に足を踏み入れている自分たちであることを忘れないようにしてくださいませ。


愛のお父様! 本当に長い間、労苦してこられました。一つの思想を中心に人々を束ねるためにどれほどご苦労されましたでしょうか。また、一つの理念を予告し、民族を動かすためにどれほどご尽力されましたでしょうか。さらに、それを外面的に築きながら、内面的には歴史の背後でこれを生命的な善の基準と結びつけるために宗教を立て、その宗教を動かす過程でどれほど多くの犠牲者を出されましたか。内外で犠牲を払いながらご尽力された父の前に、今日、このように開放的な世界を目の当たりにする私たちの心は、聞き、知り、悟り、見るにつけ、恐れ多く、申し訳なく思います。


お父様! 本然の実体の一存在が、このように恨みの歴史を切り拓いてこられたという事実を知る私たちは、罪深い者たちであり、父の労苦に対して借りのある者たちであり、お父様に赦されたいと願って出てきた者たちですが、何とも申し訳なく、恥ずかしい気持ちでいっぱいです。そのような環境を知らずに、かえって天に背くことを繰り返してきました。天が解き放とうとされる中で、私たちは何百万回も縛り付ける行いを続け、今日も明日もその運命に陥っています。どうか私たちをお赦しください。


42


今日ここに集まったあなたの息子娘たち、この者たちの心が何に結びつくことを望んでおられますか? この者たちの体が何に縛られることを望んでおられますか?今日、お父様が知らない人々の中には、理念に縛られたいと願う者たちもいます。また、主義や思想、あるいは人倫や道徳に自らの良心と体が縛られることを望む者たちもいます。しかし、本性を通じて考えると、彼らは永遠に父の前に立つことのできない悲しい環境に置かれていることが解ります。


このような道を前に進む人類の中には、自分でも気づかぬうちに忍び寄る焦燥感、不安、悲しみの心情を体感する者が多くいますが、それを阻む者はいません。お父様、歴史と共に、時と共に、主義と共に喜ぶことができず、生の原則を知らず、生の方向を知らず、生の道程を知らず、生の目的を知らずに彷徨う人類を、一体誰が責任を持ってくださるのでしょうか?


お父様、真の青年男女をお呼びくださり、三千万の民衆の前に立たせてくださいませ。私たちは追い立てられ、打たれる中で、その縁が尊いものであることを知りました。お父様が異なる道へと私たちを追いやられた摂理の御手には、歴史の血と涙の痕跡があることを知りました。したがって、私たちは歴史的な悲しみの場を通過しなければならず、歴史的な迫害の過程、歴史的な死の峠を越えなければならないことを知っています。


イエスが、「十字架を背負って私に従わない者は私にふさわしくない」と語られたその言葉を成し遂げねばならず、「私のために命を捨てる者は生きるであろう、生きようとする者は死ぬであろう」と語られたその言葉が実現する時が来たことを知っています。


お父様! 今日私たちは、他の誰も歩まない道を歩んでいます。打たれ、打たれる中で立ちはだかる数々の壁を押し倒し、父の前に伏して祈っています。悲しみの心情を抱え、悲しみの事情を受け止める天情との縁を持ったのであれば、その縁を通じて互いを尊重し、互いを思いやる心が育まれ、この世にはない一つの天的な縁となるようにしてください。そして私たちは、その縁が地上において初めて現れる縁でなければならないことを知っています。どうかそのように導いてくださいませ。


43


私たちは、私たち同士で解きほぐさなければなりません。もし絡まりがあるならば、それを解くことが歴史の路程の原則であるがゆえに、イエスは敵に対して恨みの心情を表すべき場で、敵に対してそれを解こうとされたことで、敵の世界を解く解怨の園を築く資格者となられたことを私たちは知っています。


天もこのことを喜ばれ、イエスを復活の座に立たせられたことを知っています。民族が私たちを排斥し、敵の立場に立つことがあったとしても、その民族を敵視するような私たちであってはなりません。世界が私たちを反対するとしても、それを敵視するのではなく、彼らの前に開かれた天の心情を残すために、敵の心情を乗り越えることのできる天的な心情の所有者とならせてください。そして、天的な生命の指導者となり、生命の主権者となるようにしてください。お父様、切に願い、求めます。


今日ここに集ったあなたの息子娘の体と心に、歴史的な悲しみを感じる代わりに、歴史の解怨の基準を見出すことのできる心情を持つようにしてください。この者たちが、栄光の恩恵、栄光の生命、栄光の理念、栄光の愛を歌うことができ、宇宙全体の価値を歌うことができ、理念の世界で天を代表して自分自身の個性を尊重することができるようにしてください。


そのような私たちの栄光の価値、絶対的な価値を万物万象の前に、悪魔の前に示し、誇ることのできるあなたの息子娘としてください。これを切にお願いし、すべての言葉を主の御名においてお祈りいたします。アーメン。



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御言葉選集6(10-1)

2024年11月15日 15時26分37秒 | 学習
文鮮明先生御言選集6 - 10. 解放、さらに解放すべき神様の御旨 (1959年6月14日)
1959年6月14日(日)、旧本部教会にて
マタイによる福音書 10:34-39、18:15-20




<祈祷(Ⅰ)>
本然の園を築き、本然の真の子女を抱き、本然の心情を通して楽しむべき御父様の理念が、この地上に現れなかったという事実を私たちは知っております。私たち人間は、死に捕らわれたその日から今日に至るまで、本然の心情をもって天を賛美することがなかったことをどうかお許しくださいませ。


本然の一個体としてお父様を呼ぶことができる栄光の位置に立つことができなかった哀れな私たちをお許しくださいませ。そして、本然の心情を備え、「私のお父様」と切なる心情を込めて呼び求めることができなかったことを、どうか憐れみをもってお許しいただけますよう、切に願い申し上げます。


本然の園を失った人間は、死の世界に落ち、暗闇と戦い、敵の手中に捕らえられ、嘆きと絶望の中にありましたが、本然の心の痕跡が残る良心を通して本然の故郷を慕っております。歴史的な戦いを経ながらも、一瞬一瞬に感じられる天の感触を通して天の生命の一筋を求めてきた私たちを助けてくださったお父様、感謝申し上げます。


極めて幼く未熟な私たちが、この一つの路程に苦しみ疲れていることをお父様ご存知であるがゆえに、この時間、再び憐れみの御手を差し伸べてくださいませ。再創造の力をお与えくださり、本然の心情を回復できるようお導きくださいませ。本然の姿としてお父様に近づくことができるように支えていただけますよう、私のお父様、切に願い申し上げます。


私たちは、この地上のすべてを断ち切ってでも、天が望まれる本然の世界に向かって進まなければなりません。どうか今、私たちに本郷を慕う切なる心を深く刻んでお与えください。そして、たとえ私たちの身体が疲れ果て、足が疲弊したとしても、本郷を目指して走り続けることができる位置へと、お父様、私たちを追い立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


1


私たちの身体と心が一つとなり、天の心情を慕うことを許してください。そしてお父様が最後に私たち人間と共に喜びを分かち合える幸福の園を、私たちが築くことができるようにお導きください。この時代において、何億万もの人々が阻もうとすることがあったとしても、愛の心を持ってそれを乗り越えて進むことができる私たちであるように、どうかお許しくださいませ、お父様、切に願い申し上げます。


堕落した私たちではありますが、どうしても復帰の路程を歩んで本然の自分自身を取り戻さなければならず、本然の故郷を探し、本然のお父様をお迎えし、本然の世界を築かなければならないことを、私たちは知っております。


今日、この邪悪で堕落した私たちは、父の愛の心情を知りませんでした。本然の故郷を知りませんでした。本然の人格と本然の存在そのものを知りませんでした。お父様!どうかもう一度、御言葉を通して、人格を通して、愛の心情を通して、本然の存在そのものとなるために必要なすべての要素を備え、お父様をお迎えして生きるのに不足のない者として、私たち自身を栄光の姿として立ててくださいますよう、切に願い申し上げます。


これらを阻止するために、多くの敵である悪魔たちは歴史の路程において、先祖から今日の私たちに至るまで、時と機会を問わず侵略してきたことを私たちは知っています。今やこれを拒絶し、これを制止する責任が私たちにあることを理解し、その責任を果たそうとしています。どうか、私たちが父の心情で武装し、父の御言葉で武装し、敵の前に堂々と立つことのできる天の真の息子娘となれるようお導きくださいませ。


今や私たちは、本郷を探し求めなければなりません。私たちの家庭、私たちの社会、この国土に住む三千万の民、地球上に広がる多くの人類、霊界にいる多くの霊人たちもまた、失われた本郷を探し求めてさまよっていることを知っています。お父様、どうか私たちが、父の心情と通じる本郷を築く責任者となれるようにしてください。私たちが敵の世界から真の息子娘を見出し、彼らを集め、本然の園を建設することのできる天の働き手、天の精鋭兵士となれるようにしてくださいますよう、お父様、切に願い申し上げます。


2


お父様、一週間の間に傷ついた心をそのまま抱えたまま、こうして父の御前に参りました。どうか憐れんでくださいますようお願い申し上げます。不義なるすべてのものを取り除いてくださり、父の心情と通じる要素だけが、父の本性に調和する本質的な要素だけが現れるようにしてください。それによって、お父様が喜ばれる最大の栄光を現し、捜し求めお捧げすべき本然の存在そのものを見出し、お父様が楽しめる時間とさせてくださいますよう、切に願い申し上げます。


足りない私たちが父の御前に集まり、礼拝を捧げるこの時間をどうか聖別してください。何億もの悪魔が入り込む時間とならないようにしてください。天にいる数え切れない聖徒、天軍天使がお父様を囲み、お父様を親しくお迎えし、心情と心情が通じ合う縁が結ばれる時間としてください。どうかこの時間を許してくださいませ。


この時間以降のすべての時間も、お父様が親しく主管し、運行してくださいますよう、心より願い申し上げます。このすべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。




<祈祷(Ⅱ)>


この地を摂理されるお父様!蕩減復帰しなければならない悲しい歴史上の罪を、どうかお許しください。数多くの人類があなたを賛美しましたが、あなたの御旨を成し遂げることができないまま、悲しい歴史が流れ、6000年が経過しました。それがすべて誰のせいなのかを考えると、恐縮の念に堪えません。この私たちの心情をご覧になり、どうか親しく訪れてくださいますよう、切に願い申し上げます。


今、絡み合った心と体を抱えて、父の御前に跪いております。私たちの主人はあなたでなければなりません。私たちのすべての事情を理解し、通じてくださるのもあなたでなければならないと知っています。愛のお父様、どうかこの時間、あなたが親しく主管してくださり、導いてくださいますよう、切にお願い申し上げます。


3


人間たちがお父様を求めて歴史の路程で彷徨ったとしても、いまだお父様をお迎えして生きている者たちは地上に存在しません。この地のどの一隅が父のものであり、どの家庭が父のものと言えるのか、一つとしてこの地上に見出して立てることができていない父のその悲しい心情を、かすかにでも察することができます。


あなたに悲しみがあるとすれば、それはこの地の主であるあなたが主としての位置に立てず、この地を責任をもって治めるべきあなたがその責任を全うできない立場にあることを、私たちは知っています。


地上の人々を責任をもって導くべき立場にありながら、それを果たせない摂理を進めてこられたお父様。私たちの心情を通して直接主管し、直接命じるべき立場にあるのに、それができないお父様。私たちの生活を通して私たち全体を主管すべき父であるにもかかわらず、私たちの内面の生活や事情を完全には主管できないお父様。私たちを見て、善の結実だと賛美すべき父であるにもかかわらず、そのような一日、一時、一人を見出すことができなかったお父様。このような悲しい立場にある父の心情を、私たちはこれまで知りませんでした。


今、たとえ私たちがこの地上のすべてを失うことがあったとしても、どうか父の悲しい心情を深く理解することができる息子娘となることをお許しください。父の事情や困難を親子としての立場から感じることができるようにしてください。お父様が涙を流されるとき、共に涙を流し、困難に直面されるとき、共にその困難を担うことができるあなたの息子娘となることをお許しください。切にお願い申し上げます。


そのような人を立てるために、そのような人を見つけるために、父は長い間ご苦労されましたが、人類を代表できる主人公に出会うことができず、天を代弁する天の法度を体現する主人公にも出会うことができなかったことを、私たちは知っています。


4


そのような中で、父は長い歴史の過程を経てイスラエル民族を形成され、お父様を代弁し、父の心情を握り動かすことのできる実体メシアを地上に送られました。しかし、イスラエル民族がメシアを迎えることができず、メシアと共に歩むことができなかったため、世界はさまよう客となったという事実も、私たちは知っています。


今日、終末の時代において再び来られる主の再臨の日を待ち望む私たちです。天を代弁し、天が探しておられるその一人とは、天が悲しまれる時に共に悲しむ者であり、天の事情を握り天と共に戦う者であり、天の喜びを代弁して天と共に歌う者であるということを、私たちは知っています。この地に数多くの人類が生きているにもかかわらず、歴史と共に、時代と共に、未来を代弁するその一つの存在を見出すことができなかったことを、どうか今この時、お許しくださいませ。


その唯一の存在を迎える希望の日を待ち望み、今日まで膝を屈め、父の御前で祈りを捧げてきました。どうか切なる愛の心情を持って来られる尊い実体を、お父様、許された園において、許された時に、この天地間で迎えることができる喜びの日が速やかに訪れるようにしてください。切に願い申し上げます。


お父様!私たちの心が不足していることを知りました。私たちの体が俗世に属していることを知りました。そして私たちの欲望が悪魔と共に動いていることを知りました。


このような内的な要素を持つ私たちですが、天に代わって許されたその時、その時代、その一瞬に来られる唯一の主人公を待ち望むことすらできない惨めな姿です。どうか憐れみ深いあなたの前で、自分自身の惨めさを嘆くことができるようにしてください。そして惨めな家庭、惨めな社会、惨めな人類、そして惨めな天地を前にして嘆き悲しむことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


5


悲しい心情を抱き、天と地の前で贖罪しなければならない時が来ました。お父様!どうか私たちの心の扉を開いてください。私たちの心情は、父の心情に向き合うこともできず、向き合う術を知らない状態です。このような私たちの体と心を、父の御姿と父の心情に調和する実体として再び形作っていただけますよう、切に願い申し上げます。


このまま私たちを放置すれば、私たちは死の世界で悪魔の餌にしかなり得ません。6000年もの間、摂理してこられたお父様!どうかこの終末において私たちを見捨てないでください。私たちを通して勝利の標を立て、勝利の園を建設し、敵の前で誇りとされたいという父の御旨が残されていることを私たちは知っています。どのような苦労の場であっても共にし、栄光の姿となれるようお導きください。たとえどんな困難に直面し、砕けることがあったとしても、父の御旨に対する一途な心情を天に、地上に残すことができる天の忠臣となれるよう、どうか導いてくださいますよう切に願い申し上げます。


お父様!この日、私たちがここに集まりました。どうか憐れみをお与えください。今、私たちが父の心情を悟ることができるようにしてください。そして、父の御旨の前にふさわしくないものがあるならば、それらすべてを取り除いてくださいませ。父の心情が私たちの心情となり、父の実体の動きに私たちの体が動かざるを得ず、私たちが父の御前で悔い改めざるを得ず、自分の事情を打ち明けざるを得ないように、どうか直接的な力強い御手を差し伸べてくださいますよう、心より願い申し上げます。


天が容認することのできない、これまで持ち続けてきたすべての世俗的な観念や自己主張を取り除いてください。そしてそれらすべてを父のものとして調和させることのできる本質的な感性の基準を高め、良心の基準を高めてくださいませ。私たちの心情を結びつけて父の心情と通じさせ、天的な事情と通じることのできるこの一時をお許しください。


お父様! 私たち人間がどれだけ善良であったとしても、父の御前で顔を上げ、「お父様」と呼ぶことのできない罪深い存在であることを悟らせてください。また、自らを弁明する内的条件をどれだけ整えていたとしても、天の御前で弁明の条件を提示することのできない堕落の子孫であることを、深く理解することができるようにしてくださいませ。切にお願い申し上げます。


6


天におられる数多の聖徒たちを送り、私たちの周りを聖別してくださいませ。私たちの心情を砕き、父の力強い御手によって再び形作ってください。それによって、私たちが再創造の御言葉とともに再創造の性品を受け入れ、死の実体であった私たちが命の実体へと変わり、栄光と歓喜の中でお父様を呼ぶことのできる喜びの時間を迎えられるようにしてください。お父様、切にお願い申し上げます。


お父様、今日という日は聖なる日です。すべての人々があなたを高らかに賛美すべき日であるにもかかわらず、この民族はあなたを知らず、人類の大半があなたに反対する立場にあります。そのような人類を抱え、悲しまれる父の心情の曲折を私たちが知るべき時が来ました。孤独な父の心情を理解することができず、孤独な父の姿を代弁することができなかった歴史的な罪を感じ、この時間、父の御前でひたすら涙を流すことのできる息子娘となるようにしてください。


その心情の痛みを感じ、たとえ私たちの身が消え去ることがあっても、父の心情を歌い、その心情を慰めることができる息子娘となるようお導きください。切にお願い申し上げます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちは、皆哀れな者たちです。彼らには地上に友もおらず、弁護してくれる者もおらず、共に働く者もおりません。孤独な峠、孤独な道、孤独な茨の道を歩みながら、打たれ、打たれ、また打たれながら、この道を探し求めてきました。このような形であっても進まなければならないと感じ、倒れ、命を落とすことがあってもこの道を守るべきだという御旨を知ったからこそ、今日父の御前に集まりました。どうか憐れみをお与えくださいませ。


命の枯渇を感じ、お父様に代わる天的な理念を待ち望んでいる息子娘たち。彼らの命を担うことができるのは父だけです。彼らの事情を慰めることができるのも父だけです。どうか彼らの心情、事情、環境を主管してください。彼らの上にお父様が運行される聖なる時間を与えてください。聖なる心で礼拝を捧げるこの時間を守ってください。切にお願い申し上げます。


7


終末の時代、この緊迫した時期に差し掛かった私たちは、今、私たちが留まっている場所、その位置がどのようなものであるかを第三者の目で批判すべき時に来ています。私はどこに留まり、どの方向に向かい、どの目的地を目指して歩んでいるのか、自らを振り返り、批判できるようにしてください。もし天の望みと私たちの望みに違いがあるならば、それを埋めるために努力しなければならないことを、私たちは知っています。どうかそのための力を与えてください。切に願い申し上げます。


お父様、今この時、私たちの心と体を通わせ、一つとなれるようにしてください。お父様が動かれるなら私たちも動き、お父様が留まられるなら私たちも留まることができるようにしてください。お父様、どうか摂理の基点を築いてくださり、私たちが天の心情を代弁する一つの姿を備え、天の栄光を歌い上げ、天上の数多の聖徒たちをも動かすことができるようにしてください。切にお願い申し上げます。


お父様、この日、多くの祭壇を祝福してください。彼らが御前で心を開き、胸を広げ、自らの過去のすべてをさらけ出して、お父様によって新しい血縁的な兄弟の縁を結ぶことができるようにしてください。父の摂理が成し遂げられる復帰の日が、速やかにこの地上に現れるようにしてください。心より願い申し上げます。


お父様、この時も、地方に散らばり膝を屈めて御前で訴えている孤独な家族がいることを知っています。どうか彼らにも同じ恵みをもって歴史してください。心が張り裂けるような事情を抱えて御前で訴えるその場その場において、お父様が親しく愛の御手を差し伸べ、命の動きを起こしてください。切に願い申し上げます。


この時、復活の栄光を歌うことのできる支配の領域へと導いてください。愛の心情で私たちを抱きしめてください。子どものような心情でお父様を慕い、渇望する心情に満たされ、体と心が一つとなってお父様に捧げられる私たちとなれるよう、どうか祝福してください。これらすべてを主の御名によってお祈り申し上げます。アーメン。


8


<祈祷(Ⅲ)>


お父様、私のお父様! 私たちの心が父のものであると感じられるようにしてください。私たちの体がお父様によって作られた、欠けも汚れもない本然のアダムとエバのような姿であると心で感じられるこの時間をお与えください。


心と体が一つに調和し、栄光の結実体としてお父様に捧げられるべき自分たちであるという責任感を、この時間、自ら感じながら、「私のお父様」と呼ぶことができるよう、天の恵みをこの時間お与えください。
切にお願い申し上げます。


人間にとって最も大きな悲しみは、父の愛と縁を結ぶことができなかったことであり、父の心情に通じる本然の良心を失ったことであり、その心情と良心が調和し、体と心が一つとなる位置に立つことができないことであると、私たちはよく理解しております。


堕落のゆえに、父の心情に通じる感覚が私たちから離れ、父の心情を体感して万物を愛することができる心を失いました。どうかお父様、その心情を回復できるようお導きください。私たちの体と心を一つにし、私たちのものを父のものとしてください。私たちのすべてを父の御前に差し出し、誇らしい姿で愛の翼を広げ、万物を抱くことのできる広い寛容の心を持てるよう、どうかこの時、私たちに歴史してください。切にお願い申し上げます。


私のお父様! このような心情に通じる御言葉が、今この時、切実に必要であることを知っています。私たちが失ったのは御言葉であり、その次に実体であり、そして心情であると理解しております。お父様、どうか御言葉を通じて、私たちが失った本然の心情を蘇らせてください。本然の御言葉に頭を垂れる心、本然の御言葉に耳を傾ける体となり、父の栄光の御胸に抱かれる恵みを、この時間お与えくださいますよう切に願い申し上げます。


9


事を始められたのはあなたであり、それを成し遂げられるのもまたあなたであることを知っています。善によって始まったのならば、善によって終わりを結ばなければならないでしょう。お父様、あなたは「私はアルファでありオメガである。最初であり最後である。始まりであり終わりである」とおっしゃいました。しかし、最初に本然の心情を失った人間は、終わりにおいても天の心情に通じることができません。今や終末の時代には、本然の心情を掴み、その心情を繋げなければなりませんが、堕落による恨みの淵で喘いでいる私たちを、どうかお許しください。切にお願い申し上げます。


この時、私たちの心が私たちのものでなく、あなたのものであることを悟らせてください。また、私たちの体が私たちのものでなく、あなたのものであることを知ることができますように。そして私たちの心情、感情、これらすべてが私たちに属するのではなく、あなたに属して動いているという事実を、実体的に、また確証を持って体感できるようにしてください。


お父様、これから御言葉を伝えようとしております。伝える者の心と聞く者の心が隔たりなく結ばれるようにしてください。もし自分勝手な考えを立て、計ろうとするならば、天の恵みを妨げる恐れがあることを私たちは知っています。どうか応じることも、調和することも、すべてあなたのために成り立つようにしてください。この時、私たちが子どものような心情に戻り、聞こえるままに、感じるままに受け入れ、すべてを父の御手の中で始め、そして終わらせることができるようお許しください。切にお願い申し上げます。


お父様! あなたが許された御言葉を通して、イエス様がその当時語られた心情に通じ、彼の事情に通じ、また彼の理念と希望の実体となることができますようにしてください。そして、イエス様を迎え、彼の事情と心情に調和し、お父様をお迎えできる喜びの条件を見出し立てることができるこの時間となるよう、切にお願い申し上げます。許されたこの一時間を、父の栄光の恵みで満たしてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


私たちは自分自身を見つめるとき、自分一人では存在していないことを感じざるを得ません。私たち自身が、何らかの事情や縁によって結ばれている社会や家庭があることを否定することはできません。また、良心を中心に考えるとき、大きく崇高な善を目指す何らかの縁の中でお互いが絡み合っているという事実を否定することはできません。


10


したがって、私たちが自分自身を完全に説明し、完全に安定した位置に立つことを望むならば、これまでの環境的なあらゆる縁を整理し、新たな価値と絶対的な関係を結ぶ必要があります。また、心の理念の世界と絶対的な縁を結ぶことができなければなりません。このことを、私たちが今日この地上で生きている間に決定づけ、それを天のものとして、または人類のものとして、完全に自分自身のものとして掲げることができなければなりません。それが人間の最大の希望であり、最大の使命であると言えるでしょう。


もし神に嘆きがあるとすれば、それは神自身がそのような位置に立たれていないのではなく、神が直接創造された人間が天的な価値と調和できず、万物の存在価値と調和する存在となることができなかったことです。安定した位置で絶対的な縁を歌い上げる存在となれなかったことこそが、神の嘆きであり、人類歴史の嘆きであり、今日の私たちの心の世界に嘆きの条件として残されているという事実を否定することはできません。


私たちの心は、自分でも知らず知らずのうちに、このような絶対的な縁とその幸福を歌い上げたいと望み、自由と平和の理念を歌いながら生きたいと願っています。それが心と体の全体の願いであるにもかかわらず、心でそのような世界を成した人もおらず、体でそのような環境の中で生きた人もいません。この事実は歴史が証明しており、皆さんの生活が証明しており、皆さんの人生そのものが証明しているのです。


このように自分自身を振り返り、第三者の立場から冷静に批判してみるとき、私たちは決して幸福な者ではありません。もし私たちが不幸であるならば、それは天に代わって不幸な者であり、人類に代わって不幸な者であり、社会に代わって不幸な者であることを認めざるを得ません。


このような自分自身、そして私たちを解決し、補う方法がないとするならば、私たちは絶対的な価値を歌うことができる安定した位置に留まることはできません。そして、このような人間は、宗教的な表現を借りれば、堕落した世の中、汚れた罪の領域に生きる者と言えるでしょう。


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もし天が存在するならば、天はこのような人間を自由の実体として解放し、解放の園へ、そして理念の世界へ導こうとされるでしょう。万物を代弁し、自らの価値を尊重し、宇宙の実存世界と共に動くことができる調和の主体となると同時に、天上の創造主が私たちの動きに調和して現れることができる、そのような絶対的な姿となることが、人類が望む最終的な希望と言えるでしょう。


もし天の摂理の御旨があるとすれば、そのような存在を探し出し立てることが、摂理の最高目的であるはずです。また、もし歴史の流れがあるとすれば、その流れの目的は、このような一人一人が互いに通じ合うことができる世界を建設することにあるでしょう。


今日の自分を見つめるとき、自分が何らかの縁の世界に関与していることに気づかざるを得ません。今日の自分が存在するのは、自分自身から始まったのではなく、過去の縁を通じて存在しており、時代的な縁を通じて存在しているのです。また、未来の縁も持たなければならない運命にあることを私たちは知っています。


それでは、過去の縁の曲折、時代的な縁の曲折、未来の縁の曲折、さらに天上と自分が結ばれているこの縁の曲折をどのように解明するべきでしょうか?もし哲学者がいるならば、この問題を解明するために苦心しなければならないでしょう。もし宗教家がいるならば、この問題を解明するために尽力しなければならないでしょう。また、良心と情的な人格を備えた人がいるならば、この理念を歌い、この主義と思想を掲げて主張することによって、過去の歴史、現代、そして未来において新しい希望と新しい理念を抱き、その価値を代弁して現れる資格を持つと言えるでしょう。


しかし、人類の歴史が始まって以来、万物の霊長である人類のどの生涯においても、このような価値的な実体として万宇宙と共に歌い、万宇宙の幸福を讃美し、それを人間の前に提示した人はいません。


12


それでは、天の目的、天の希望、あるいは創造の理念が、そのような一つの存在を探し出して立てることを基準としているとすれば、なぜ天はそのような理念の条件、私たちが心情で求め、縁を結びたいと願う体験的な感情を人間世界に表すことができなかったのでしょうか。また、なぜ歴史上の偉人たちは、そのような事情を私たちに紹介できなかったのでしょうか?それは、人類の歴史が私たちが望む本質と本性が調和した善の世界を促進する足場にはならなかったからであると理解すべきです。


今日、私たちが生きているこの社会も、善の理念の実体を立て、その価値を讃え、その価値を育むことができる条件を備え、またその価値のある場所に私たちが留まることができる社会ではないということを、私たちは知るべきです。しかし、この歴史や社会は、私たちの理念の世界と一致する立場ではなく、むしろ相反し、対立する立場であるということも理解しています。


したがって、この相反し、対立している状況を解消するための何らかの行動や主義、または一つの主張が出現しなければなりません。現状のままでは、すべての人間が本心で、本然の心情で求める理念の世界に到達することはできません。そのためには、ある一つの主義や理念がその方向を示しながら現れる必要があります。しかし、その理念は、相反し、対立するすべての状況を覆すことのできる歴史的な条件と時代的な環境の条件を備えなければならないのです。


しかし、歴史の中には、大衆が関心を持たない一つの分野を切り開き、その時代において大衆の支持を受けることなく、独自の道を歩んできたものがあります。それが何かといえば、「宗教」というものです。宗教です。歴史の流れに逆らい、その歴史的な路程において相反し、対立する道を歩みながらも、歴史の背後で全体的な善の理念を引き出してきた歴史的、社会的、条件的な基盤、それが宗教というものなのです。


天は歴史と共に、私たち人間と直接的な関係を結びながら進んでこられましたが、その歴史の路程において、縁を結ぶための基盤や条件的な環境を整えてこなかったとするならば、その天は今日の歴史的な私たちと何の関係もないものとなります。この基盤を成し遂げていなかったとするならば、天は今日の私たちの良心とも関係がないということになります。


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そのため、歴史的な縁を経て進み、環境的な基盤を築き上げてきた宗教は、その時代の社会と相反する立場であらゆる主張を行ってきました。それ自体も現実と調和することができず、時代の流れに反する立場から主張を行ってきたのです。しかし、この宗教がいつまでも社会と調和しないままである限り、歴史的な終末や摂理的な終末において現れるはずの幸福の園、すなわち、天が動き、人類が動き、万物が動く幸福で自由な平和の園は建設されることはなく、そのような理念も成立することはありません。なぜなら、天が崩れると私たちの良心の絶対的な善の基準も崩れてしまうからです。


したがって、その絶対的な善も、歴史的な縁の過程を経て初めて歴史的な人間と関係を結ぶことができるため、天はそのような摂理を進めてこられたのです。


6千年という長い年月を経る中で、天は何をしてこられたのでしょうか? 歴史上の人類に対して、天は新しい善の理念を打ち立て、それを基盤として宗教の形態を整え、絡み合った歴史上のすべての条件、歴史上のすべての縁を開放するために、善の理念を提唱してこられたのです。


天は、個人の歴史性と絡み合っているものや、民族が築いた伝統に固執しているものを開放する運動を進めてこられました。言い換えれば、「解く」歴史を進めてこられたのです。


歴史の始まりは善ではなく、悪でした。悪が先に出発したのです。今日の共産主義者たちは弁証法の論理を用い、その核心である「正反合」の論理によって歴史を解明しようとしています。しかし、それは正しくありません。「反正合」の論理を適用すべきなのです。つまり、ある正が存在し、それに矛盾する反が現れ、その対立と闘争の過程を経て新しいものを生み出すという論理は誤りです。むしろ、間違ったものが現れたので、それに対応する真の形態が出てきて、それと調和しながら新しい何かを生み出すという論理を適用すべきなのです。


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歴史の始まりは善ではなく悪でした。そのため、悪に対抗する新しい何かが現れ、その悪を統合して新しいものへと昇華させていく過程が歴史の発展過程であると言えます。


いずれにしても、天の目的が成し遂げられるときには、最大の善がその位置を占め、最大の解決点が現れるでしょう。その日は歴史の終末であり、宗教の終末であり、その時代の人類が抱いていた希望の終末であり、天的摂理の終末と言えるでしょう。


だからこそ、天は個人を掴み、個人を解放するために働いてこられました。また、異なる民族、異なる環境に住む人々、間違った習慣や古い伝統に浸っている人々を解放するために、多くの苦労をされてきました。このようにして、歴史的な私たちの先祖から今日の私たちに至るまでを導いておられる天が存在することに、私たちは感謝しなければなりません。


人類の歴史は縛られた歴史であるため、天はこれまで縛られた人類の歴史を解く摂理を進めてこられました。絡み合い、縛られている歴史、それが神の善の理念と調和する縁の歴史とはならず、むしろそれに相反する堕落の内容を中心として縁が結ばれているため、天はこれを解放する歴史を進めておられるのです。


誤った歴史を解放するという目的があるため、天は個人を掴んで個人を解放し、家庭に対しては家庭を解放し、民族に対しては民族、国家に対しては国家、世界に対しては世界を解放できるその一日を探し求めて来られるのが神の摂理です。これを私たちは心に留めておかなければなりません。


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それゆえ、今日皆さんにお伝えしたい題目は、「解き放ち、さらに解き放たねばならない神の御旨」です。神は、縛られ、塞がれたすべての縁の歴史を否定する立場に立ちながら、歴史的な終末の時代を見据え、この世界が神の摂理によって解放されるその日まで闘いを続けて摂理を進めておられることを、私たちは理解しなければなりません。


「解き放ち、さらに解き放つ神の御旨」、この神の御旨が歴史を解放することだとするならば、歴史を振り返ると、過去のすべての主権形態は解放運動によって徐々に崩壊してきたことがわかります。そして現代においては、民主主義の形態に至るまで解放運動が展開されています。言い換えれば、神は中世には農奴を解放し、その後封建社会を解放し、君主国家を崩壊させ、今日の民主主義という形態を築いてこられたのです。


その中で、神は全体が国家を代弁し、全体が世界を代弁し、全体が理念を代弁するという方向を目指して解放運動を進めておられます。同時に、個体が全体を代弁し、全体が個体を代弁できる基準を目指し、全体が個体を無視することなく、個体が全体にしっかりと向き合うことができる、そのような基準を目指して解放運動を進めておられるのです。


しかし、その方向性は歴史的な方向と一致するのではなく、むしろ相反する方向へと流れています。そのため、歴史的な終末時代である今日、二大潮流が対立しています。一方は共産主義であり、もう一方は民主主義です。共産主義と民主主義が対峙しているのです。


歴史的な実証から見ると、民主陣営は神の摂理の御旨を支持する基盤の上で動く陣営です。では共産陣営とは何か?それは外的な、すなわち物理的な基盤の上で動いており、心の基盤を持つ人間世界では受け入れがたく、私たちとは反対の立場にある陣営であることを否定できません。こうして双方が世界的な解放運動を掲げて展開しています。世界的な基準において、双方が解放運動を掲げているのです。やがてこの二つの陣営がぶつかるとき、何が正しいのか、何が誤っているのか、正(正)か否(否)か、または反(反)かが判断されるでしょう。


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人の価値を論じるとき、外見が良いからといってその人を立派な人と評価することはできません。その人の価値を評価するときには何を基準とするか?それは、その人が持つ思想と良心の基準です。


また、その人の思想と良心の基準に、心情の問題がどの程度まで関わっているかによって、その人の人格を論じることができます。個人の人格もそうですが、主義や思想も同様です。もし単に外面的な形だけで理念を立てたとしても、人間はそれに満足することはありません。人間は外面的なことだけで満足する存在では絶対にないのです。私たちが幸福を感じるときも、内面的な幸福の基準を確立してから初めて外面的な幸福を感じることができるのです。これが人間の本質です。


したがって、物質を基盤とし、今日の現実社会を土台にした主義や思想は、最高の善を目指して動く人間に対し、そのすべてを伝え切ることも、結びつけることもできないのです。


それゆえ、今こそ神を認め、神の働きに従って良心を動かし、この良心を基盤として主義や思想を提唱すべき時です。平和と幸福、愛を掲げ、無条件で奉仕し、無条件で犠牲となる本質的な要素を持つこのような主義や思想を持たなければ、また良心を通じて善を自動的に感じ取り、自動的に体感しなければ、人間世界で幸福の条件や幸福の理念、幸福の主義を確立することはできないということを、私たちはよく理解しています。


歴史は流れ、民族主義思想は過ぎ去り、今は世界主義思想が全体を代表できる時代です。この世界は、ある機関や代表者が支配する世界であってはならず、民主主義の形態、平等な立場で、すべての人々が「この世界は私のものだ」「主権も私のものだ」「理念も私のものだ」と言える世界でなければなりません。天は、このような境地に到達するように歴史を解放し、導いてこられています。このように摂理が進められているのです。


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神の摂理を振り返ってみると、天は時代の流れに反する立場で、内面的な面から摂理を進めてこられました。それぞれ異なる民族を対象としながらも、全体を動かすことができる善の方向を確立し、民族を団結させてきたのです。また、民族と民族を結びつけるために、新しい中間的な宗教の形態を整え、これを通じて民族を統合してきました。


今日、もしこの天的な摂理の御旨を代表し、天の摂理の前に立つことができる宗教があるとすれば、それは長い人類歴史の伝統的な基準とともに、歴史的なすべての基準、時代的な環境、そして将来の希望的な理念に応えられる内容を備えていなければなりません。


この観点から各宗教を見てみると、キリスト教が他のどの宗教よりも指導的な位置にあると言えます。長い伝統を持ちながら、神の摂理の御旨を代弁してきたこのキリスト教の歴史は、人類歴史の動きの中で変革や革命の過程を経ながらも、途切れることなく続き、今日の時代にも対応でき、未来の希望の基盤ともなり得る内容を備えてきたのです。


このことを考えるとき、私たちは神の愛がどのようなものかを理解することができます。なぜなら、神は歴史が発展し進歩するにつれて、人間が掲げる主義や思想、あるいは民族的な伝統をも変革する必要があったため、摂理の御旨に従うすべての宗教者たちに対して、世俗と縁を結ばないようにされてきたからです。一見、彼らは孤独で惨めな立場に置かれているように見えますが、歴史を知り、変革を進めてこられた神の立場から見れば、それこそがむしろ愛であり、守り導く手段だったのです。


旧約時代においては、神は律法を通して人々を天に導かれました。そして、新約時代においては、人格を基盤とした信仰を通して人々を天に導いてこられました。イエスの到来によって旧約時代が終わったように、再臨主が来られると新約時代も終わりを迎えます。つまり、宗教も最終的には開放的な歴史観を包含できる形へと変わっていくのです。


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今日、世界的な宗教、例えばキリスト教をはじめ、仏教、儒教、イスラム教がありますが、これらをどのように新しい段階へと進ませるのかが、今後の神の摂理計画において重要な課題となるでしょう。


が解放の歴史、解放の摂理を提示しているとするならば、教祖を中心とした時代、教祖を崇拝する時代は過ぎ去らなければなりません。封建社会において君主を崇める体制を打破するために闘争の歴史が展開されたのと同様に、終末の時代には、信者が崇拝する教祖と平等な価値を議論できる宗教が必要です。天はすべての宗派を超えられる人格者を探し求めるでしょう。それがなければ、歴史的な終末時代において解放摂理の御旨を完了することはできません。


現在、キリスト教徒は、他宗教を異端として扱っています。過去にもそうでした。しかし、過去のその形態をそのまま維持したままでは、新しい時代を迎えてそれを解放しようとすると、非常に大きな努力を要します。


過去のすべてをそのまま融合させることはできませんが、最終的にはそれらを一つに清算し解放しなければなりません。そして、歴史も理念の時代、主義や思想も理念の時代、私たちの心も理念の時代、そして天も理念の時代に入ることができる、そのような解放の歴史を提示できる主人公こそが神に属する者となります。また、そのような主人公が動かす宗教こそが、世界の人類が敬愛し崇拝することのできる宗教となるでしょう。


それゆえ、今日のキリスト教信者たちは、もし天の摂理がこのような解放運動を進めていることを理解しているなら、自分たちの信仰観念を解放することが何よりも急務の課題です。同時に、社会全般の条件が天に認められる縁の条件になっていない以上、そのすべての条件を解放する責任があります。そうではありませんか?これまで宗教と政治は分離してきましたが、これからは宗教と政治が結びつく時代が訪れるでしょう。


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カトリックの中心であるバチカン王国も、近い将来、政治的な形態を持つようになり、理念や思想を掲げる体制と対立する時が来るでしょう。見守っていてください。


このようにして進められる解放、その解放の方向は、一方は右に、一方は左に、すなわち左右の方向に歴史が分かれてきました。しかし、これが無限に分裂し破壊されていくわけではありません。一つの目標に向かって、「あなたも必要であり、私も必要である」という立場へと導かれるべきなのです。つまり、左右に分かれた目的は破壊のためではなく、完全に一つに統合するためであったことを、私たちは理解しなければなりません。


今日の思想でも同様であり、宗教の理念においても同じことが言えます。理念の分裂は最終的には統合のための過程であり、その方向性が天の摂理によって進められているのです。今日、世界宗教と自称するキリスト教、そして自分たちにはそのような価値観があると自負するクリスチャンたちが、自らの心と教派をどの程度まで解放し、柔軟性を持つことができるかが問題です。やがて天が時代の終末の最前線に立ち、すべての宗教や教派、信者たちに対して提唱する時が訪れるでしょう。そのような時代は必ずやってきます。


今日のキリスト教を見てみると、キリスト教もまた過去のカトリックの儀式を中心に行われていたように、ある種の形式や観念に縛られています。しかし、そのような儀式や形式に縛られていては、天の御前に立つことはできません。形式や儀式を超越し、それらを主観できる人格者は天の御前に立つことができますが、形式や儀式に囚われた者は天の御前に立つことはできないのです。


そのため、ルターは、すべての形式や観念を打破し、聖書に基づく信仰を通じて神の御前に立ち返ろうと主張したのです。これは、形式主義からの脱却を目指した改革であり、神との直接的な関係を重視する信仰を再確立しようとした動きでした。


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それゆえ、御言葉に依存して生きている人々、御言葉に支配されている人々、御言葉に縛られ、御言葉によって動く人々は、神の息子娘にはなれません。御言葉を支配し、御言葉を語ることのできる人、それがイエスであり、その代わりに立つことのできる人こそが天の息子娘となる資格を持つのです。天はそのような人を求めておられます。


ここで、今日私たちが、新教や旧教を問わず、待ち望むべきものは何でしょうか?それは、聖書の御言葉だけではなく、御言葉の中心である実体です。つまり、イエスというお一人が必要なのです。そのお一人を待ち望むべきです。御言葉は過ぎ去っても構いませんが、過ぎ去るべきでないものは御言葉の主体です。


それゆえ、今日のキリスト教の最終目標とは何でしょうか? それは聖書の完成ではありません。また、御言葉の完成でもありません。御言葉を通過し、御言葉を超越してそれを左右することのできる一つの実体が必要です。その実体こそが再臨主であり、キリスト教の希望の標本となる存在です。そしてその実体は、単にキリスト教だけでなく、仏教や儒教、すべての宗派にとっての希望の標本でもあります。


その一つの実体を待ち望む視点は宗派ごとに異なっていたとしても、彼らが証しし、紹介した内容は一つでした。それは、どの宗派であれ、必ず再び現れるべきその一つの実体に対する人格基準を明確に示していることからも理解できます。


今日のキリスト教の歴史、つまり6000年の歴史を振り返ると、旧約時代の律法主義の時代があり、新約時代の信仰の時代がありました。そしてこれからは、新しい御旨を成す「成約時代」が来なければなりません。歴史はこのように縦的な流れで進んできました。もはや特定の制度や主権が全体を動かす時代は過ぎ去り、個人が主権や組織を左右できる時代に変わらなければならないのです。


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キリスト教も同じです。今日の韓国のキリスト教を見てみると、教職者のための信徒、教職者を支えるための団体のように見えます。しかし、本来のキリスト教はそうではありませんでした。それは信徒たちのための、羊の群れのための牧者であり指導者であるべきでした。


したがって、牧師の時代は過ぎ去ります。そのまま放置してはいけないのです。天はそのように摂理を進めておられます。つまり、牧師の時代を解き放ち、清算されるのです。そして牧師の時代が過ぎ去ると、長老の時代がやってきます。「何々長老」という時代が生まれました。その後、執事の時代に移行します。「何々執事」という時代が生まれました。


では、執事の時代が過ぎ去るとどのような時代に移行するのでしょうか? それは「平信徒の時代」です。全ての信徒が主体となり、組織や主権が個々人によって動かされる時代へと進んでいくのです。これが天の摂理が向かう方向です。


すべての人間にとって、歴史的な終末も平等に訪れるものであり、摂理的な終末も平等に訪れるものです。その時代を代表する教団も、平等な基準で動いていきます。イエスも「私のため」、牧師も「私のため」、信徒も「私のため」という基準のもとで、絶対的な価値を重視し、全体的な価値に対比できる存在を探し求めるのが、天の摂理の歴史なのです。


韓国の教会界はどうなるのでしょうか? そうなります。見守ってください。これから韓国の教会、そして世界の教会に向けて叫ばなければならないのは何でしょうか?それは、教権者たちの権威は下がり、平等な形態を備えるべきであるということです。そして、世界の宗教は統合されなければなりません。こうして「世界連合」や「キリスト教連合」といった動きが生まれるのです。


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いま、私たち平信徒が責任を果たすべき時が来ました。そうではありませんか?歴史を振り返ってみても、そうではありませんか?旧約時代は神が直接摂理された時代であり、新約時代はアダムとエバに代わってイエスと聖霊が摂理された時代でした。そして今日、この終末の時代は、私たちが摂理を果たさなければならない時代です。


神の摂理を私たちの手で成し遂げなければなりません。しかし、ある教権者の支配の下に生きる命は必要ありません。私たちは、自分の価値を世界的な価値と平等に対比し、共に楽しむことができる命の価値を持つべきです。それが、今日の終末の時代における使命なのです。


それゆえ、私たち青年男女は、今日の現実の教会、教派主義に対して、まず反旗を掲げるべきです。そして平信徒の団結を呼びかけなければなりません。平信徒は団結し、不正なすべての教職者を追放する運動を展開する必要があります。


時代の潮流は、これを要求しているということを理解しなければなりません。昔は、一部の主権者や帝王、君主が神の代わりのように振る舞っていました。しかし、彼らが神そのものだというのでしょうか?彼らだけが神の役割を担うべきだというのでしょうか?違います。そうではありません。


すべての人が神の血統を受け継いだ息子娘である以上、誰もが天の息子娘なのです。


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それゆえ、民主主義という形態が生まれました。天は、あなたにも、私にも、天の息子娘となる権利を授け、解放の歴史を進めてこられました。すべてを解放し、開かれた時代を築いてこられたのです。


こうして今日に至るまで、解放を進めてきたこの歴史をどのように収束させるかが問題となっています。歴史も摂理も宗教も解放され、平等の形態を持ちながら動いており、世界の潮流もこのように動いています。この動きの中で、この世界をどのように調整し収束させるべきなのでしょうか?これが今日、政治家の悩みであり、歴史家の悩みであり、宗教家の悩みでもあるのです。では、どう収束させるべきでしょうか?


神は罪の歴史から人間を解放するために、6千年もの間苦労されてきました。多くの預言者や先祖たちを犠牲にし、さらには愛する独り子であるイエスまでも犠牲にしながら、忍耐強くその摂理を進めてこられました。しかし、こうして解放されてきたこの世界を、再び秩序ある新しい形態に変える天的な使命が残されていることを、今日のクリスチャンたちは知りません。そして、今日の人類も、どの宗教も、どの宗派もそれを理解していません。


社会と宗教がこのように動いている中で、終末においてどうなるのでしょうか? 私たちが改めなければならないものは、改めなければなりません。この課題に取り組むことが、今の時代における私たちの使命なのです。


イエスは言われました。「私が世に平和をもたらすために来たと思うな。平和ではなく剣をもたらすために来たのだ」(マタイ10:34)。これは驚くべき宣言でした。イスラエルの民は、メシアを平和の王であり、すべての人の罪を贖う救い主と考えていました。しかし、イエスはこのような驚くべき宣言をなさったのです。民族的にも、社会的にも、国家的にも、また家庭的・個人的にも、存在するすべてに影響を与える重大な宣言でした。


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さらに、イエスは続けて言われました。「私が来たのは、人をその父と、娘をその母と、嫁をその姑と不和にするためだ。そして人の敵はその家族の者となる」(マタイ10:35-36)。このような言葉があり得るでしょうか?


さらに進んで、こうも言われました。「父や母を私以上に愛する者は、私にふさわしくない。息子や娘を私以上に愛する者も、私にふさわしくない。また、自分の十字架を背負って私について来ない者も、私にふさわしくない」(マタイ10:37-38)。そして、「自分の命を得ようとする者はそれを失い、私のために自分の命を失う者はそれを得る」(マタイ10:39)と。


これらの言葉は、時代の観点から見ると矛盾の中の矛盾とも言えるものでした。この言葉は、当時の価値観や常識に正面から挑むものであり、イエスがもたらそうとした摂理の方向性を示しています。これは、地上の平和や調和を超えた、神との完全な一致と新しい秩序を目指した言葉だったのです。


イエス以後、2千年の歴史が経過しましたが、もしイエスの時代を摂理の総合の時代、摂理の統合の時代と理解するならば、その時代に提唱された御言葉は、終末の時代において解放されなければなりません。また、聖書66巻の解かれなかったすべての御言葉も、終末の時代に解放されなければなりません。絡み合ったこの世界が解放され、絡み合ったいかなる主権も、いかなる社会も、いかなる家庭も、いかなる個人も、終末の時代にはすべて解放される必要があります。それでは、この中で自分自身はどうなるのかを考えてみるべきです。


イエスは、「誰よりも私を愛しなさい」と言われました。これは、革命的な言葉の中でも最も革命的な言葉でした。この言葉には、自分の両親への思いも含まれておらず、愛する息子や娘への思いも、愛する夫婦への思いも含まれていませんでした。


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天は、この世界が堕落した世界であることを認めておられます。では、この歴史はどこから始まったのでしょうか?それは、アダムとエバが悪魔を中心に血縁関係を結んだところから始まりました。天使長との不義の愛を基盤として、歴史が始まったのです。このような基盤を通じて繁殖された私たち、悪を中心に悪の種を繁殖してきた国家や民族を、天は決して容認することはできません。ここに天の苦悩があるのです。


この現実を前にして、私たちは自分がどのようにして天の御旨に応えるべきかを深く考えなければなりません。それが、今日私たちが直面している課題です。


私たちは、ノアの洪水の裁きで、ノアの家族8人だけを残して世界全体が滅ぼされたことを知っています。なぜ神は、120年間の歳月をかけて箱舟を建造したノアの家族8人だけを残し、当時の全人類と繁殖していたすべてを水で裁かれたのでしょうか?それは、悪魔の血統を受けたその時代の人類と万物を裁き、神の心情と繋がることができる、神を中心として心と体を調和させ、血縁的な縁を結ぶことができる血族と万物が必要だったからです。悪魔と縁を結んだ血族ではなく、神の愛と縁を結ぶことができる血族が必要だったのです。このため、神はノアの家族8人を残し、当時の全世界の人類を滅ぼされたのです。


イエスが万民の救い主として来られたとき、どのような救い主として来られたのでしょうか? それは、特定の主義や思想を掲げるための救い主ではありません。また、社会の環境を開拓して幸福な環境を作るために来られた救い主でもありません。


では、どのような救い主だったのでしょうか? それは、万民の命を神の命へと移し変えることのできる救い主でした。神の理念を人々に与えることができる救い主でした。そして、神の命と神の理念を備えさせ、神の愛を享受できる立場へと万民を導くことのできる救い主でした。


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イエスはこのような内容を持って来られましたが、その生涯、その心情、その愛の心情を人間の中で理解できた者は一人もいませんでした。イエスの使命と目的は、地上で天の命、天の理念、天の愛を実現することであり、それを通じて全人類を神のもとに導くことだったのです。しかし、人々はそれを理解できず、イエスの心情を受け入れることができませんでした。


このような背景の中で、イエスは嘆かれました。「もし私が地上のことを話しても信じないならば、天のことを話せばどうして信じることができようか」(ヨハネ3:12)。また、「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところもない」(マタイ8:20)とも言われました。この言葉は、何を基盤として語られたのでしょうか?それは、当時のいかなる主義や思想、制度、または家庭的な基盤や人情的な基盤を基にしたものではありませんでした。


イエスは、新しい理念を基盤とする制度を思い描き、その新しい制度の中で命の実体が喜びを享受できる時を夢見ていました。さらに、その実体たちが神と共に永遠の愛を歌うことのできる時を切に願う心情から語られた言葉だったのです。


このように見るとき、イエスには本当に「枕するところ」がありませんでした。イエスは極めて孤独な存在であり、哀れな存在でした。なぜなら、彼は世の中と正反対の、180度逆方向の内面的な心情と世界観を持って来られたからです。


彼が立っていた場所も、敵の土地であり、彼が生きていた生活環境も敵の環境でした。彼が従っていた主権も敵の主権であり、彼が愛を探し求めた場所も敵の世界でした。したがって、イエスがどこに動いても平和はあり得ませんでした。彼が出会うすべてが敵であり、彼が向き合うものすべてが敵でした。


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それゆえ、イエスの生涯は闘争の連続であり、彼が歩んだ道は苦難の道そのものでした。このような中で、彼の心情と摂理の目的は決して理解されることなく、受け入れられることもありませんでした。それが、彼の孤独と苦しみの根源でした。


そのような状況の中で、天の生命的な基盤を築き、神に代わって解放運動を進める責任を担ったのがイエスでした。また、天の永遠の理念的な基盤を築き、その理念を中心に革命を起こす使命を持ったのがイエスでした。今日、私たちが知っている「十字架で血を流し、死によって万民を救った弱きイエス」ではありませんでした。イエスは、億千万の人々の心と良心を貫き、イエスが右に行けば彼らも右に、イエスが左に行けば彼らも左に向かうような運動を起こそうとされました。彼の関心はそこにあったのです。


天は解放運動を進めるとおっしゃいました。時代も解放され、歴史も解放され、この世界のすべての主義や思想も解放され、宗教も解放されます。これらすべてを解放した上で、何をもってこれを統合するのでしょうか?それは、人間社会には存在しなかった「一つの心情」によって統合されるのです。


そのため、今日の人類が堕落の縁によって生まれた人種であるため、間違った関係の世界を打破する歴史が展開されています。この歴史は、解放と同時に、天の愛と心情を中心として人類を一つに結びつける新しい基準を築く運動であり、イエスが示そうとした方向性を完成させるための歩みなのです。


そのため、終末の時代には、イエスが過去に宣言されたように、「私の親、私の子が、つまり父子の関係が敵となるべきだ」となるのです。また、「あなたの夫婦、あなたの家庭そのものが敵である」と言われました。今日、家族を単位とした社会の形態を見てみてください。父子関係の義理が崩れていっています。そうではありませんか?親が子を殺し、子が親を殺し、夫婦の義理も崩れ、家庭内の義理も壊れています。


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人々が提唱していた倫理や道徳も崩れ去り、宗教の教理さえも破壊されています。このようにして、何が正しいのか、何が間違っているのか分からない時代に突入しました。すべてが揺れ動き、混乱しています。


このような中で、希望を見出せず嘆き、悲しむ立場にある時、「お父様、どうかこのような時代を迎えさせてください」と祈る人々が、三千万の民族の中から現れなければなりません。「どうかそのような時代を実現させてください」と祈る、天の息子娘たちが現れる必要があります。


今日、私たちは、イエスが宣言された言葉が、外的な形ではありますが、自動的に実現している様子を目の当たりにしています。では、なぜイエスはこのような言葉を語られたのでしょうか?それは、結局のところ、過ぎ去らなければならない歴史であり、清算されなければならない情的な基盤であったからです。


そのため、イエスは「私は神の息子である」とおっしゃり、天の心情を抱いて来られた神の息子であると宣言されました。そして、天の心情に代わって、信徒たちを兄弟姉妹と呼ばれました。すべてを明確に語られたのです。この宣言の中に、天が地上で成し遂げようとする新しい秩序と心情が含まれているのです。


では、終末のこの時代に、全世界の人類は何を感じるべきでしょうか? 神は解放運動を進められ、歴史も、宗教も、私たちの家庭基盤も解放されました。それでは、これらを統合する一つの基準とは何でしょうか?それを見つけ出す必要があります。


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神は人間に対して、万物を主管するよう祝福を与えられました。神が創造されたすべてのものは、人間の主管権の下で動くようにと約束されたのです。そのため、今日の世界は、人間が主管できる世界の形態へと向かっています。これは外面的に実現されつつあることです。


私たちは「神の御旨を復帰する」と言いますが、復帰は神からではなく、個人から始めなければなりません。その次に家庭の復帰へと進み、兄弟を復帰し、さらに親を復帰していく必要があります。


復帰の順序は、個人が神との関係を回復し、それを基盤にして家庭、兄弟、親と広がる形で進められます。この順序を通じて、神の御旨が地上に実現されるのです。全人類がこの方向性を認識し、自分自身から始めて家庭、社会、世界へと神の主管のもとに復帰していくことが求められています。


今や私たちは、イエスに代わることができ、イエスが提唱された御言葉を通じて、私たちの情的な心情を貫くことのできる存在を切望すべき時代に来ています。この存在が問題の核心です。どれだけ多くの人が集まっていようとも、神が最も愛する存在が複数いることはありません。情的な世界は一人の存在が主観するものであり、二人が主観することはできないのです。


今日のキリスト教や社会の歴史を総合的に見たとき、歴史的に代表できる民族、時代的に代表できる民族、宗教的に代表できる民族が必要です。その中で、主義や思想を代表する一人の存在が必要です。この一人が問題なのです。天はこれを広げて統合しようとしており、そのためには一つの中心を立てなければなりません。


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4千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られたのがイエスであったように、6千年の歴史を広げ、それを再び統合するために来られる方が再臨主です。そして、その再臨主はどのような主義や思想を持って来られるのでしょうか?それは、「心情主義思想」です。


歴史を振り返ると、思想主義の時代以前には真理主義の時代がありました。哲学的な基盤や知識的な基準を持って社会を導いてきた時代です。そして、それを経て今日の思想主義の時代に至っています。しかし、今日においても哲学的な基盤に基づいて動いているものの、それも思想圏内で互いに批判を受けています。


最終的には、再臨主が心情を中心とした思想を提示し、すべての歴史、思想、そして心情を統合する基盤を築かれるでしょう。この新しい基準が、人類を導き、神の御旨を地上に成し遂げる鍵となるのです。


思想主義の時代が過ぎ去った後、人類が最終的に求める時代は「情的主義の時代」です。それは単なる人間的な感情(人情)ではなく、天の心情を通じることのできる「情的主義の時代」です。この時代について私たちは深く考える必要があります。どれほど優れたものがあったとしても、必ずこのような時代が訪れなければ歴史は解決されることはありません。


このような世界的な終末時代が訪れるとするならば、宗教理念を持つ世界的な宗教の中で、キリスト教がこれを最も深く洞察してきました。では、キリスト教の情的な基盤とは何でしょうか?それは、イエスが「私は新郎であり、あなた方は新婦である」と語られた新郎新婦の横的関係、そして「神は父であり、私は子である」と語られた父子関係に基づく理念です。また、「すべての人類は兄弟である」と宣言し、全世界の人類を兄弟として結びつけた理念です。


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これらは単なる観念主義ではなく、良心を超越した情的主義です。この時代は天の心情を通じる「天宙主義の時代」となるのです。


「天宙主義の時代」では、神と人間、そして人間同士が天の心情を通じて真に結びつき、横的な新郎新婦の関係、縦的な父子関係、そして全人類の兄弟関係が実現されます。この新しい時代は、人類の最終的な希望であり、歴史を完成させる鍵となるのです。


天は、一つの完全なものを見出すため、完全な「一つ」が現れるために、偽りのものを打ち壊されます。腐敗していくように見えながらも新たな革命の旗が掲げられるように、世界が分裂しているかのように見えながらも内面的には統合に向かっています。このような原則があることを私たちは理解しなければなりません。


このような世界は必ず訪れます。その世界は全体として来ると同時に、個体としても訪れます。問題は全体ではなく、個体にあります。そのため、個体を尊重する観念、自分自身に対する観念が重要です。では、あなたは今どこにいますか?天はあなたに対して、「どのような主義、どのような宗教、どのような歴史的な潮流、どのような位置にいるのか?」と問いかけるでしょう。


この問いに対して、あなたが「お父様!」と答えられるためには、かつてイスラエルの選民に向かってイエスが主張されたように、「私は平和をもたらすためではなく、分裂をもたらすために来た」と言える存在でなければなりません。また、「人間を愛するよりも天を愛せよ」と堂々と述べることができる、責任感を持った毅然とした姿の人物でなければなりません。


32


そのような責任を完遂することができる人物、天の御旨に応えることのできる人物になることが求められます。それは、全体の変革や統合の中で、自分自身が個体としての使命を果たし、天と直結する存在となることを意味します。あなたの位置を問い直し、天の問いかけに真に応える準備ができた人が、その役割を果たすことができるのです。


だからこそ、すべてを解放しなければなりません。歴史を解放し、宗教を解放し、心情の世界を解放しなければなりません。そして、これまでの主義や思想、理念に代わる新しい理念、これまでの生活環境で得ていた命の力に代わる新しい命の力を持たなければなりません。その命の力と理念と共に喜びを享受できる新しい心情を持つ必要があります。


イエスは、当時の悪魔の世界に来られたために、その時代に歓迎される存在ではありませんでした。イエスには、その時代に友人や協力者はいませんでした。孤独に迫害を受け、最後には一人で十字架を背負われました。天を代表して来られた方でしたが、悪魔の世界という敵の地に来られたため、その世界にとってイエスは敵そのものでした。敵を歓迎することなどあり得ません。それを歓迎するなら、それは偽りです。


今日、民主社会においても、その社会に反対する代表者が現れると注目を集めます。同様に、共産社会でもその社会に反対する主義を掲げる者が現れると、関心が集まります。キリスト教社会でも、その思想に反対する主義を持つ者が現れると注目されます。さらに、心情世界において新しい主義を掲げる者が現れると、すべての人間が関心を持たざるを得ません。このような時代が訪れていることを、私たちは認識しなければなりません。


この時代には、新しい命、新しい理念、新しい心情を持ち、人々の注意を引きつける中心が現れる必要があります。その中心がすべての対立を超え、解放を成し遂げ、統合する新しい時代の基盤を築くのです。この歴史的転換点において、私たちもまたその変化にどう向き合うべきかを深く考えなければなりません。


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御言葉選集6(9)

2024年11月03日 17時38分42秒 | 学習
文鮮明先生 御言葉選集 6 - 9
新しい自分と、その自分が生きることのできる天国
1959年6月7日(日)、旧本部教会


ヨハネによる福音書 3:1-15




1
<祈り(Ⅰ)>


困難な人生の道を歩む私たちが、心に沈んでいることを知らないであり、考えが残っていることも知らないであることを信じます。神様になる、そしてこの地と全ての人々に向かって歌う心を大切にしていなかったことを知っています。


父なる神さま! あなたが私たちに与えてくださった賜物が圧倒的に素晴らしいものであり、偉大である私たちが感じていますが、その賜物を受けながらもあなたに栄光をお返しすることができなかった私たちを、お父様、どうかお許しください。


父なる神様、あなたは悲しみに満ちた世の中にあって、その悲しみを覚悟する道を先に私たちに示してくださったのに、その予告された御心に十分に受け止めることができなかった私たちを、どうぞお許しください。


私たちは、残された人生を父なる神様の喜びと栄光のために捧げ、すべてを神様の心に忠実になって生きていきたいと願っております。悪魔の権勢があまりにも強く、私たちの周囲を取り囲んでおります。 これらの束縛から抜け出すことが非常に難しいことを、父なる神様もご存じであると信じます。この時、私たちのもとに顕現してお導き下さい。


これまで、解放された場であなたの栄光を讃え、あなたの先に喜びを捧げることができなかった私たちを、どうかお許しください。力と希望をお与えください。 私たちの勝利の姿で復活の栄光を賛美することができるよう、再創造の御業を起こしてくださいますよう、父なる神様、心から切にお願いいたします。


2


死の権勢が私たちを押し流しているため、私たち生命の覚悟を持ち、生死をかけた闘いを経てこれを押し進めていくための、自発的な力と自動的な能力が必要です父なる神様、今この時、その力を切にあなたの息子や娘がここにおります。に、一日一日の生活を切り拓いていく天の鋭精たちとならせてくださいますよう、愛する父なる神様、心から願い求めます。


これまでの歩みが前進したとしても、父なる神様、どうかお許しください。 もし未来にあなたの御心があれば、その御心と理想、そして希望を見据え、今日も明日も開拓者としての責任を果たせるようお考えくださいますよう、愛する父なる神様、切にお願いします。


父なる神様、今は自主的に聖別し、自主を省いてあなたの前にあってはいけない時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心情を通じ、自らサタンの勢力を取り除き、自らの勝利の姿であなたに栄光を讃えることができる者が必要とされます。


父なる神様、この道を歩むために、あなたの心情を察する御言葉も聞き、あなたの恵みを証する行為も見てきました。祭壇を向こう、天の精鋭とならなかったことで、あなたの嘆きを言うのではないかと恐れております。


お父様に対して忠誠を尽くしたと自負する者があり、お父様に対して自ら正しいと主張する者が果たしているでしょうか。私たちはただ不足しているものばかりであり、不忠な部分ばかりがある者たちでございます。善を志向されるお父様の御心を知り、善の意志を立てようとされる方をお探しであることを承知しつつも、思い通りに行動できない不忠の身でございましたことをお許しくださいませ。このような事情が交錯するお父様の御心を知ることにより、私たちのすべてを差し出し、お父様がお受けになることができるものとして再度整頓させてください。お父様の御心をひたすら抱きしめ、お父様にすがり、お父様の行かれる所に私たちも共についていくことができ、お父様が動かれるままに私たちも共に動き、お父様が行動されるままに私たちも行動できるようにしてくださいと、お父様、心から切望し願っております。


3


ただひたすらあなたの情に抱きつき、あなたにしっかりと捕らえられて、あなたが行ける場所にはどこでも私がいられるように、あなたが動けるたびに私たちも一緒に、あなたが行動されるたびに私たちも一緒に行動できるようにしてください。父なる神様、心から切に願います。


父なる神様、今は自主的に聖別し、あなたの御前に立っつべき時です。父なる神様、終わりの日には、自らあなたの心を理解できる者、自ら悪魔の勢力を抑える事ができる者、そして自ら勝利の姿を備え、あなたに栄光をお返しすることができる者が必要とされます。そのような姿を成し、そのような存在を立てるために、あなたは私たちをお呼びくださいましたが、今日の私たちはあなたですの御前に顔に向けられない姿であることを、お許しください。


父なる神様、この道を歩むにあたって、あなたの心情を理解するための御言葉も聞き、あなたの恵みを証明することも目にしてまいりました。天の御前に忠実な祭壇を築くことができず、天の精鋭になれないため、あなたが怒られるのではにもどうか恐れております。


父なる神様、あなたに対して忠誠を尽くして言う者や、自主的に正しいと胸を張り張って言う者が、私たちの中にいると信じています。私たちには至らない点ばかりで、善を追求されるあなたの心情を理解し、善の御心を中心として見る者をお探しであることを知りながらも、その御心通りに行動できない私たちを、どうぞお許し下さい。


このような状況の中で交じり合ってあなたの心情を考えて、私たちを差し出して、あなたが見つめられるように再び整えられることができますように。捉えられ、あなたが行ける場所へどこへでも私たちも共に行き、あなたが動くたびに私たちも共に動けるようにしてください。神様、心から願い求めます。


4


どうか、この三千万の民族を再創造してください。この人々の生命を再び、父なる神様の希望の園へと導いてください。この民族を導くために適当たち私とならせてください。この御心を申し上げますために、まず私たちを神様の御前にお招きいただきましたので、この皆様に天の心を伝える責任を果たせるようにお許しください。 そして、天の御言葉を伝えることのできること息子娘とならせてくださいますよう、父なる神様、心から願い求めております。


父なる神様、今日ここに集まったあなたの息子娘達、それぞれの心情は違うかも知れませんが、その心の中心は同じであると信じています。あなたの心情を供えたいと願っていますから、この思いを元にお導きください。父なる神様、どうか動かれて、私たちに復活の栄光をお示しください。そして、私たちを解放の恵みの領域に移してくださいますよう、愛するお父様、切に願っております。


この時、あなたと私たちの間に隙がないかと、数え切れない悪魔が見つめていることを私知っています。私たちの体、あなたの事情と私たちの事情、あなたの願いと私たちの願いを合わせて、お父様が優しく私たちに取り組んでこのひとときとなりますよう、心から願いを求めます。


どうか私たちが押し寄せる悪魔のあらゆる力を避け、父なる神様の御前に勝利の栄誉を捧げることを約束するこの時とならせてください。そして、最終的な決断を下して頂きます様に、愛するお父様、心から願っております。


父なる神様、この時間をお決めしましたので、どうかあなたの御心のままに導いてください。そして、私たちの前に親しく御言葉を伝えて頂き、その御言葉をお授けください。


5


これからのすべての時間を聖なる三位一体の神が優しく主宰してくださいり、数千万の聖徒が共に守って悪魔が一切入っていないことのできない時とならせてください。た体、聖別された心情とともに、生ける供え物として父なる神様の御前に寵愛され、「神のものである」と認められるこのひとときとならせてくださるこの礼拝の時間となりますよう、心から願っております。


出席できなかった兄弟姉妹がいた同様に、どうか父なる神様、同じ恵みによって彼らをお守りください、祝福が恵みによって守られるよう、心からお願い申し上げます。すべての祈りを主の御名によってお捧げいたします。アーメン


どうか今、私たちの心がどこに残っているのかを見つめられるようお許しください。 体は一つの場所に集まっておりますが、心は様々な方向に動いていることを承知しております。の塊が自由に動ける父なる神様の御手に従っていたアダムのように、私たちの心もまた、父なる神様が主管されます様に願います。


今、私たちの体は一つの祭壇の形を成していますが、その心の本来の姿と本質が、父なる神様の心情を近く至聖所としているように、このひととき、尊き父を恋い慕い、畏敬の思いを持てる様にお許しください。


穏やかな父なる神様の御姿に接して、自分でも知らぬ間に切なる思いが心に染み渡るような感覚がなければいけないと感じています。深いところで私たちと語り合うことを喜び、静かに現れて私たちの使命を傷つけようとされる父なる神様の御働きを、私たちは心から望まずにはいられません。


6


私たちは、静かにおられる父なる神様をお迎えし、父なる神様と密かな事情を通せることができる姿になれなかったとき、悲しくて孤独な方は父なる神様であり、困難な立場にいらっしゃったのはお父様であった事をしっております。


そのような立場に優しい父なる神様を私の優しい父としてお迎えし、一体となる関係を結び、永遠の命と永遠の愛を中心として一時的に分かれることのない縁で結ばれていると思われてもいいと思うそれでも、もし私たちの心にこのような思いが湧き出ない時には、どうして私たちはあなたの息子と娘と呼ばれることができますか?もしそのような私たちであるならば、許されようとしている天国の理想も私たちには関係がなく、歴史を通して労をとっていた父なる神様の慰めの基盤も私たちには無縁であることを、この時に悟らせてください。


慈悲深い父なる神様、愛の父なる神様、哀れな者達をそのまま放置すれば、死の影の中で永遠に抜け出せない姿になってしまいます。 、何を持っているというので、父なる神様の前で自分を弁明できるでしょうか?何もありません。あると言うのは至らなさばかりであり、感じているのは畏敬の心のみであり、お父様の御前にお許しを願うばかりで御座います


摂理の時は終わりを急がせており、死の波が私たちの周囲を押し寄せて、私たち一人一人を容赦なく飲み込んでいます。覚悟の父なる神様が、私たちのために憂θされるその心情がこの地に残されており、労苦の跡が残っていることを知っています。神様の心が言い表せないほど焦っておられることを理解します。どうか、お父様、この時、私たちを見つめて、導いてくださいますよう、心から切願っております。


私たちが孤独な心情を抱えているなら、この時すべてを把握して頂き、その心情を包んで変えて頂ける様にして下さい。悲しみと苦しさを抱えているなら、お父様の喜びを持って命の心情に変えて頂き、困難な状況をから再び力を求めなければならない事をお許しください。お父様、心から切に願い求めます。


7


お父様、ここに集まった者の心情を共に一致させて頂ける様にお許しください。そして、お父様の天的な理想を目指し、その摂理の理想を仰ぎ求めてここに集まりましたので、お父様、どうか私たちを覚えて下さり、訪ねてくださいますよう、心からお願い致します。


誰がお父様の御前で自信を持つことができるでしょうか? お父様が「自信を持ちなさい」と語って下さったので私たちもまた自信を持ちたいと願いました。 「これが正しい」と言われたので、私たちもそれが正しいと感じたいと願いました。


父なる神様、三千万のこの民族をご覧下さい。どこへ進むべきかも知らず、苦しみ中、生と死の岐路で叫び声を上げています。悪魔の手がこの人々の命に向かっています。その勢力はますます増しており、お父様、私たちはこれを悲しむことしかできておりません。この人々の道を切り開き、彼らを縛る死の縄を断ち切り、勝利の基盤を高めなければいけないことを私たちは知っています。お父様、もし私たちに力が足りないのであれば、その力をお与えください。また、決断と勇気の心が足りないのであれば、その決断と勇気をかつてヨシュアとカレブに「強くて、勇敢であれ」とお告げになったように、今この時、同じ励ましの言葉をお許しください、私たちを励ましてくださいますよう、お父様、心からお願い致します。


どうか私たちがこの三千万の民族をお父様の祭壇の前に考え、お父様の命と結びつけることができるようにお許しください。それが断たれないように、すべてを犠牲にしてでも戦い抜いて、お父様の息子娘となれるよう導いてくださいますよう、お父様、心から切実に願っております。


今日もまた、遠く地方に広がっているあなたの息子娘達、悲しい心情を抱きながらお父様の前で思い出していることと思います。私たちを励まし、慰めてくださいますよう、心から切にお願い申し上げます。


8


悲しい状況に置かれても、人にその思いを理解する環境がなく、孤独な立場にあってもその心情を分かち合う家族を持たないあなたの息子娘たちを、どうかどうか考えてください。心情に結ばれた世界では、時間や空間の距離を超えて動くことができることを知っています。どうかお一人様に恵みの御手を差し伸べて、皆様の心を感動させて、またお父様の心情にしっかりと取り組んでくださいますよう、お父様、心から切にお願い申しあげます。


今、許されたこの時間に御言葉を持って下さるお父様、共にいてください。良い言葉も祝福の言葉も必要ありません。悟ることであり、苦痛の血統から抜け出さずにおり、裁きの座に立つことを恐れる心を持つことである事を悟らせて下さい。心よりお願い申し上げます。


どうか、伝える人の心も、受け取る人の心も二つにならず、一つの心情が繋がり合って、お父様の静かな心情に通じるように導いてください。神様の前にひざまずいて、自分でも知らぬうちに礼拝したような心情で溶け込む一時となるように導いてくださいますよう、お父様、心から切にお願いします。


今までに無い時間となるようお導きください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン






<御言葉>
「皆さんに伝えたいテーマは『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』です。この『新しい自分と、その自分が生きることのできる天国』というテーマについて、少しお話したいと思います。


9


地上には多くの人が住んでいますが、その心に天国を持っていると認められる人は誰もいないでしょう。また、人間が憧れ、探し求めてきた理想世界とは何かと言えば、それがすぐそこにあった天国です。


「今日のこの世界には、良い生活を送り、恵まれた場所にいたいと望む人は多いですが、『よく生きた』とか『祝福を受けた』と言う人は非常に少ないのが現状です。今の状況を考えると、地上で生きている私たちの生活が天国生活ではなく、その逆の生活であるこの境界線に立つ私は、天国に向かって進むべき立場にあります。そのような場所を目指して生きていかなければ自分の立場である私たちである自分自身のことも否定できません。ただし、私の心はより良い理想を求め、私たちの身体もよいものを求めます。


「しかし、今日に続くまで、歴史上これが最高に素晴らしいものであり、ここが人間の本心に近い場所だと自信を持って示せるような場所や、それなりの生活様式や生活を営む社会組織は、まだ人類の歴史の中に現れていません。


私たちの心が理想の世界を超えているにもかかわらず、望まない生活環境から逃れられず、今日も困難と共に生きています。そしておそらく明日も同じでしょう。私たちの人生の歩みの中でも、理想の世界を憧れながらも、その環境の中で嘆きや不満を抱いて生きている状況にあることを、誰も否定することはできないでしょう。


このような困難な環境に置かれた自分自身を勇気づけ、乗り越えて、さらにまた乗り越えていくことで、私たちが望む希望の園、理想の園、幸福の世界をいつかは実現し、いつか私たちが本当に願うものを中心にして生きられるのでしょうか? これこそが、今日の私たちが全面的に深く考えなくてはならない問題の中の問題であり、人類が再び、解決しなくても良い、最も難しい課題であることを私たちは理解すべきです。


10


だから、私たちはこのような問題をただ見ているだけで省略することはできません。 また、これは実現が難しい問題だとしても、私たちはそれを断ち切って生きることができない運命にあることを、自分の人生を通してよく理解しています。


私たちはこの地上に生まれました。しかし、この地上に一つの人生を持って生まれてきたのが先生たのか悪かったのか、私たちは深く考えたことがありません。人々の中には、現実の中でこうして生きていることが真実の人生なのか、今日はないのかを考えずに生きている人が多い。 「いく、一応死を迎えなければいけない立場にあることを理解しています。私たちには、死という峠を越えなければ運命に置かれていることをよく知っています。


そもそもは、自分の死が真実の死であるのか、自分が真実の場所で死ぬのか、現状ない場所で死ぬのかみたいな問題が、皆さん自身と直接関係しており、皆さんの人生真剣に取り組んでいます」ことを忘れてはなりません。私たちが一度始めたことには必ず終わりを迎えなければいけない、ありがたい関係の中に置かれていることを意識する必要があります。


自分が親の血肉を受けてこの地上に生まれたことを誇りに思う人も多いかもしれないが、真の親の心情を持っている者であれば、生まれた子どもを見て嘆いているおそらくその子が生まれた瞬間、幸福の巣にいるようであっても、その人生が幸せであると断言できない以上、産んだ親自身も喜びの心情を味わう前に、悲しみの心情を味わうのが一番なのです。


その子の誕生が幸福の楽園から来たものでないと認めない、その子が生きる生活もまた同様であり、そしてまた死の峠も同じようなものでしょう。このような状況の中『あなたは真の人生を切望したことがあるのか? あなたは真の人生の価値を讃えながら最後に嬉しい死を勝利のうちに乗り越えていける自信があるのか?」と問われたとき、誰も『いいえ』と答えるでしょう。


11


そのため、このような個々の人間、すべての人間が堕落の範囲内にあり、嘆くべき運命にあることを否定できません。覚悟して、私たちは正常な心の世界にいるのではなく、異常な世界、異常な環境に置かれています。そのため、人生全体、とりあえずその日から死ぬその時まで、誰もが『幸福』という言葉を本当に求めることができないのです。


人間が求める幸福や理想、希望といったものは、実際には今日の私たちと関係を持っていないことを冷静に考えないといけません。自分が自ら楽しんでるだけで、喜ばせる存在にまだいないからです。


私が自分の内に希望の実体を持っていれば、その希望を実現したことで喜びを感じることができるでしょう。また、もし私が理想の実体になっていたら、あらゆるものに『私についてこい』と堂々と、自信を持って立つ立場に立つことができたはずです。ですが私はそのような立場に立つことができていないのです。


本来であれば真の理想を持つべき人間が、そのことを見据えず、幸福な環境で生きるべき人間が幸福の理想楽園を無理してしまいました。 本来、人間は自由と平和を歌い、さらに創造主の前で、自分の心に染み込むような全ての幸福の要素を持って栄光を讃える存在であるべきであるにもかかわらず、そのような存在になることができませんでした。


これ以上に哀れで悲しいことはないと、まず理解しなければなりません。


12


そのために、イエス様は4千年の歴史のすべての重荷を背負い、4千年の歴史の中で生きた先人たちのすべての責任を担い、また4千年の歴史の中で人々が思ってきたすべての理想と希望を背負い、幸福な天国の理想を持って来られたのでした。これは中心の中の中心であり、私たちの生活全体の中心であり、希望や理想、さらには生死における中心にまでなれたはずです。そしてイエス様はこの地上に『幸福』という名詞を残しました。


天は、この嘆きの領域に残っている人間たち、不幸な死の領域に残っている人間たちを、新たな希望を持ち、新たな天国の理想の中で幸福を感じられる存在に回復させる」そのために、そして自分の意志をもう一度立て直すために、4千年という長い年月をかけて摂理を行ってきたのです。


では、この摂理を成就させるためには、まずどのような作戦を立てて進めばよいのでよろしくお願いします。 それは、一人の人を立て、その人を聖別し、特別な立場に立つという方法を現在、地上にいる人間はそのままでは天とつながることができないため、天は長い歴史の中で人間とつながりを持つために、選ばれた民を選んであげられたのですそして、その選民の中からさらに選ばれた者を立てられたという摂理の歴史の歩みを、私たちはよく理解しているのです。


ノアを選んだこともそのためであり、アブラハムを選んだこともそのためであり、モーセを選んだこともまた同じ理由でした。


神はイエス様お一人を立て、4千年の歴史を終結させ、このイエス様歴史上のすべての真剣を晴らし、解消しようとしました。それが神の御心だったのです。しかし歴史的な摂理に従って選ばれたイスラエルの民も、イエス様に反意を持つ状況に置かれました。イスラエルの民だけでなく、その時代に生きていたすべての人類もまた、イエス様に従えないという立場にあったのです。 これまでのどの被造物も同じ状況にあったのです。


13


天が存在しないのであれば別ですが、仮に天が存在するのであれば、実体である人間が望む理想の中心や幸福な環境を実現するためには、必ず行う原則的な基準を定める、その基準から始めることが摂理の絶対的な法則であると言えるでしょう。


公式を通さなければ問題を解けないのと同様に、歴史的な懸案を乗り越え、人類の心に紹介できる一つの原則的な基準が立てられなければ、天のどのような幸福があってもいい」同様に、天のような理想や命があっても、それは人間と関係を結ぶことができません。そのため、天の心情を代わりに伝え、天の幸福を代わりに実現し、天国全体を代わりに担えるようにするために、神はイスラエルの民にそのような心情を忘れて理想的、理想的な継承が可能な摂理を進められたのです。 、そのイスラエルが天と実体的に不安く幸福の園、善の園を築くために、神は4000年の摂理の歴史を経てイエス様を送られたということを、私たちは理解しています。


では、イエス様とはどのようなお方でお願いします。4000年の歴史の歩みでは、誰も神の喜びを紹介することができませんでしたが、イエス様の到来によって神の初めての喜びが紹介され、神が許された幸福の園が築かれる可能性があったのです。私たちは、イエス様がそのように歴史的な新しい存在であったことを理解しなければなりません。イエス様の姿こそ、先祖たちが待っているだ一つの実体であり、先祖たちは戦いながら求めようとした希望の存在であったことを、当時のイスラエルの民は理解しませんでした。


また、イエス様ご自身は、先祖たちの希望を再び蘇らせて存在してあり、さらに神の心に深く刻まれていた地上の希望を代わりに考えて存在しました。そして、神が本気で思ってやまなかった天国の理想を人間世界に実現するために送られた神の代理人としての存在であり、人間にとっては幸福の園を築くための私たちの代理人でもあったのです。そのために、イエス様は地上に来られたもの、新しい世界の主人公とはならぬ、新しい世界の民を持つこともできず、新しい世界の生活を開く切り捨てることもできず、新しい世界の社会や新しい世界の国家を築かず去られたということを、私たちは理解する必要があります。


現在、私たちが生きているこの地は堕落した世界です。堕落したこの地上のすべては、神が頂上でおられた実体にはなりえないため、神が喜ばれる形として現れることができません」のです。、私たちが暮らしている今日の生活や環境、国というものは、神の心情に直接見られることができない環境であり、社会であり、国であり、世界であるため、神はこの世界「『裁き』という名前を考えて見られるということを理解しなければなりません。


14


では、神が今待っているのは何でしょうか? それは新しいものを待っているということを理解しなければなりません。イエス様がユダヤ教の前に現れて、選ばれた民として誇示していたパリサイ人たちの前に現れたとき、イエス様は彼らに向かって『あなたたちが主張し、誇示しているものだけでは十分ではない』と言いました。実体として、新しい理念と新しい宇宙観を携えて来られたため、『誰も私を通らなければならない』ということを示すために、またその立場を宣言するために出ていき戦われたのが、イエス様の3年間の公生涯であったということを、私たちはわかりませんでした。


そのようなイエス様の前に集まった多くの群衆や、イエス様についてという弟子たちに対して、イエス様は新しい群衆となり、新しい弟子となることを願われました。はイエス様と出会いながらも、彼は新しい心情、新しい理念、新しい命、新しい幸福を紹介し、それらを築くために来られたと信じて従った人は随分いたのです。地上に来られながらも、自らが新しい理念、新しい主義、新しい生活様式、新しい世界の形を十分供えていました。


このような心情を抱きながら拝見されましたイエス様の前に、ニコデモが現れました。彼はユダヤの指導者であり、選ばれた民を率いる立場にある教師でした。イエス様は彼に『もう一度生まれなければいけない』ことを強調しました。 同様に、今日の私たちもまた、再び生まれなければ運命に置かれているのです。


6千年の歴史にもしも終末があると考えるなら、その時に歴史のすべてを清算しなければ天は見てられます。 天は、この罪に満ちた世界をある時点で裁き、清算そのため、私たちは今日、終末の日を恐れながら信じる道を心得ています。すべて清算し、新しいものを掲げる必要があります。


歴史の歩みを振り返ると、過去に多くの主義や主張が歴史の進歩とともに歩みやってきました。そして、終末の瞬間ある今日、私民主主義と共産主義がどちらも優劣を競い合っている状況にあります。


15


今日、天は私たち人間に対して、新たな第二の自分となることを捉えております。そのため、皆さんの良心は、今の自分ではなく、さらに新しい自分を求めてさまよっているのです。良心に従って生きている私たちは、この事実を否定できません。私たちの良心は『このままではいけない、このような生活を続けてはいけない…』と感じ、このような社会や世界の現状ではいけないと感じています。


そのため、私たちは良心の働きによって、自分の心や理想に沿って、心の中に平和をもたらし、心の中で幸福を感じられる新しい自分の姿を、知らなければなりません。


イエス様は、4千年続く命の帰還摂理の歴史を終結させるために来られましたが、何を持って来てくれたのでお願いしますか?それは新しい命を持って来られた。だけでなく、新しい理想も持って来られたのです。 そして、新しい理想を持って来たと同時に新しい命を持ってこられました。


今日、皆さんは、自分の心情を通して天から与えられる運命の流れがある時々、その流れと一体となり、共に動ける生命の躍動を感じることができるでしょうか? 存在、理想的なものすべてを動かせる中心的なの心情を感じられているでしょうか? 万象を抱き、その心情で包み込むような愛の心情を体験できているでしょうか? 私たちは、残念ながらそのような状態には達していません。


神が存在するなら、その神はどのようなお方なのでしょうか? 生命力を持つどのような存在も、今日この瞬間も動き続け、さらに今日も、永遠の未来に向けても動き続ける方です。また、生命を持つ存在であれば誰でも、神と共に永遠にいたい、神を中心に生活を共にし、生死さえも共にしたいそのような理想の範囲から外れることができない世界において、本体として存在されるのが神なのです。創造された万物と深く関わりながら、全宇宙を主管されるお方であるのです。


16


今日、私たちは新しい心情を待っています。そして、新しい理念を探しています。その新しい理念はどこで上映するのでお願いしますか?それは、人と人の間で成り立つものではなく、私と神歴史の終末には必ず裁きがあるだろうが、その裁きとは何でしょうか? それは、神と人間が存在していたすべての間接的な条件を清算する「してしまうことです。この間接的な条件が清算されると、そこから人類と神が直接見つめられる新しい歴史が展開されるのです。


こんなことがなければ、神が存在しても意味がありません。もし神がこのような目的を中心に摂理を進めておられないのなら、今日のキリスト教において『裁き』という言葉」 「しかし、『裁き』という言葉があるから見て、この目的を中心に摂理を進められるお神が確かに存在していると考えられます。


私たちは堕落によってすべてを学びました。生命の本体となる主人公を学び、理想の主人公を理解し、愛の主人公を通り抜けた存在なのです。そのため、私たちの心は真の喜びを覚悟生命私たちの心は、より高い宇宙的な理想を待っています。そして私たちの状況は、さらに高次の愛を求めています。


堕落後、人間が探し求めてきた生命力、人間が追い求めてきた理想、堕落した人間の情を中心に絡み合ったその愛というものは、堕落の歴史から出発したものであり、神の理想があった楽園から始まったものではありません。


今こそ、6千年の歴史のすべてを未練なく押し流せる生命力が必要な時が来ています。私たちには、歴史に代わることができる生命力、6千年の間に積み重ねた力や生命の価値を誇ったそのすべてを、ためらわずに押し流さなければなりません。


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6千年の歴史とはどのような歴史でしょうか? それは、生命力を持った人間に回復するための歴史です。 思い切って、今日の私たち、6,000年間サタンが守り、サタンが支配してきた領域で動いていたすべてを押し流すことができる生命力を持たなければなりません。


新しい自分として現れるためには、6000年の歴史の過程で今日まで形を成してきたあらゆる主義や思想があっても、それを押し流せるような新しい理念を持たなければなりません。でなければ、私たちは新しい時代の先駆者として立ち上がることができませんし、私自身が新しい自分として生まれ変わることもできないのです。 6000年の歴史を拒むだけの生命力を持ち、これまでのあらゆる主義「や人間が追い求めてきた理念を押し流せる新たな理念を持たなければ、新しい自分になることはできないのです。


今日ではありません。今日の人間社会において、私たちの家庭が最も情で深く深く考えて歴史は進んでいきました。天もまたこれを求めてきました。でも、家庭が理想を実現するための完全な基盤になれない為に、最終的にはそのすべてが崩壊する運命にあります。


今日の人類は、20世紀の文明を超え、世界を自由に動ける立場にあるように見えますが、実際には、彼らが持つ生命力はこの世界を動かすには非常に穏やか、十分なそして、彼らが感じている状況的な心情も同様に弱まっています。 物質的には世界規模の形が整えられつつあるように見えても、内面的な生命力においては非常に脆弱であるのが20世紀の文明の時代の人々である。


理念に抱いた深い心情を持つ人がいない時代、さらには真実の人間の愛の心情を見つけることができない時代になりました。


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そのため、家庭を見回しても、夫婦や親子の間において、天の前で誇れる心情のつながりを見つけることができない時代になりました。 夫婦の関係も、兄弟姉妹の関係も、友人の関係も、義理や倫理の法則はもちろん、情の基準までもが崩壊する


さて、今この世界の終末においては、この混乱した世界を収拾できる生命力が必要であり、理念的な価値が必要な時が来たのです。そのような時が訪れました。 生命力を持った愛が全体を見据え、一つの目的のためにが団結できるような形の求められる時が来たのです。


天はすべての人々に向けて御言葉で予告しました。 終末には愛が冷めることを、すべての人が天を断み、背を向けるを、そしてその時には皆が労働苦と苦痛の道で倒れるもし永遠の生命の力があれば、どんな苦しみも問題ではなくなるでしょうが、終末には苦痛に疲れ果て、天に背き、愛の心情が分裂することになると言われていました。 そうです、それが終末の時なのです。


では、天は何を持って再び来られるのでしょうか? 天は、世界を去る天ではなく、新しい理念を持ってこられます。天は生命の力を携え、約束の理念をもって、愛の源として現れるのです。


これは、堕落した歴史の道を織り成し、私たちにはこれまで感じてきたどんな生命の実感よりも、さらに強く、永遠に享受できる生命が必要だということです。その生命が感じられる場所こそが、永遠の安息の場であり、そこは一時も離れたくない場所なのです。


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変貌山で変わらなかったエリヤとモーセ、そしてイエスの姿を見ていた三人の弟子たち、その変貌山にずっと留まりたいと憧れました。皆さんも、こここそが『自分の永遠の幸福』と祝福を享受できる場所だ』と感じ、始まりも終わりも見えないような境地で生きる心情を持ち、そのような経験をしたことがあるでしょうか?


全ての天地万物が頭を垂れることのできる生命の威力を持って現れるとき、その人は万物の霊長となるのです。


その方が思い、見つめた理念の世界は、すべての被造物が安らぎ、憩うことができる理念であり、万物だけでなく、神もそこに来て留まりたいと言う様な理念と心情が必要なのです。それでなければなりません。


また、静かな心情が湧き上がれば、すべての万象がその心情とともに調和し、神もその心情とともに楽しむことができなければなりません。そのような静かな境地があるのです。とはいえ、今日の人類歴史の終末において実現されなければ、神の摂理は破壊の摂理として終わってしまう可能性があるのです。


神がこの地上で行ってこられたすべての摂理が、全て無に戻ってしまうのです。


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神はそのような摂理を行うことができないため、これまでずっと苦労してこられたのです。 だからこそ、今日の人類の前に新しい生命の園、新しい理念の園、新しい愛の園が必ずやってくる。そのことを否定できないのです。


では、今日この終末を迎えるために私自身はどうすべきでしょうか? この問題を解決するためには、私たちのために、また全人類のために来られたメシアをしっかりと掴んで、乗り越えなければいけないということです。私たち人間はこれまでの歴史的な因縁を経てきました。


だから、私たちが6千年の歴史を押し出せる生命の威力を持とうとすれば、6千年の歴史を見つめてきた天的な内容と一致しなければならないのです。2千年前に来て去られたイエス様も、歴史的な天の心情を通して4千年の歴史を押し進められました。


4千年の歴史のすべてを清算した土台の上に新しい楽園を建設しようとされたのはイエス様だったのです。


だから、今日、私たちはそのイエス様の心情を掴んで歴史を清算するために、その心情を掴んで未来を考えなければいけないのです。


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だから、今日、皆さんは自分自身がイエス様のその心情を掴み、当時イエス様が新しい理念でどのような事が現れることを待っていたのかを考えるべきです。


イエスはニコデモに対して、『あなたは生まれ変わらなければ天国に入ることはできない』と言われました。これまで生きてきた私は、結局歴史的に否定されるべき存在です。ただ自分がうまくいった人間以上にその範囲から抜け出すことはできないのです。大事な生涯であっても、否定されるべき生活であり、否定されるべき死んだ人生であったということです。


それで、正常なように見えても正常な人生ではありません。非正常的な生涯を送り、非正常な生活をし、非正常的に死んだので、行くのは地獄だそうです。では、天国とはどのような所ですか? それは、正常に生まれて正常に生活し、正常に死んで行く所が天国です。


イエス様が地獄と天国を分け、地獄の門を閉じて天国の門を開く、天国を建設するために来られたと言えば、イエス様は否定されるような理念を持って来るされたのではないということです。 否定されるような生命を持って来たのではありません。否定されるような愛を持って来られたのではありません。皆さんはそれを知らなければなりません。


では、イエス様が地上に来られたとき、誰を探しに来られたのでしょうか? 4千年もの間、神が苦難の末に選民として立てたイスラエルの民、その民を探す為に来られ、そしてその中で選ばれた人を立てる為に来られました。


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だから、選民の宗教であるユダヤ教において、イエス様は絶対的な存在でした。イスラエルの民とユダヤ教にとって絶対に必要な絶対存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様が十字架にかけられてしまったと言う認識であるということを、皆さんは知っておいてください。しかし、その社会で絶対必要な存在、肝心なのに消されてしまったのです。


イスラエル民族とユダヤ教のために、絶対にあるべき存在がイエス様であり、絶対にあるべきイエス様に全てがかかっていたと言う事です。


イエス様はなぜこの地に来られ、誰のために来られたのでしょうか? 天に感謝すべき存在として現れましたが、この地に来られたのは、神の歴史心情と通じ合える心情を持ち、歴史の道を歩むことができる人間を作るためであったということです。イエス様は摂理には従いましたが、イスラエル民族は神の心情を受け入れることはできなかったのです。


そのような理由で、イエス様はただ歴史的な心情を掴んで現れ、摂理の立場で動ける天の心情を持って現れました。 彼の心情は4千年の歴史を総合した実体の心情を持って現れたということです。ユダヤ教徒たちはそれを理解できませんでした。


神を求めていくことは、神の心情を通して現れる生命を掴むことであり、神の心情を通して現れる理念を探すことです。 心情を経ない生命はありず、心情を通さない理念はありず、心情を通さない愛はありません。


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イエス様はこの地に来られたとき、心情に関しては4千年の歴史の主人として来られました。その心情は天的な心情を代わりに担ったものであり、彼の心情全体を現わした生命力を持っていたのです。天的な心情を代わりに担ったのは、歴史的な生命の実体であり、歴史的な希望と理念です。


イエス様一人をイスラエルの民よりも、イスラエルの国よりも、ユダヤ教団よりももっと大切にしなければならなかったのです。それなのに捕えて殺してしまいました。イエス様一人を掴むことで、民族的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで摂理的な心情を掴むことができ、イエス様一人を持つことで、彼の理念と天宙全体を掴むことができたということを、その時のユダヤ教徒たちは知りませんでした。


今日、私たちはこのようなイエス様を信じています。今、私たちが信じなければいけないのは、死んだイエス様ではありません。「新しい理念と新しい生命を持ち、新しい愛の心情を備えた」実体としてのイエス様です。しかし、そのイエス様はどこに行ったのでしょうか? 亡くなられたのです。


そもそも、その方いつまた来られるのでしょうか? 地上で一時を過ごされたイエス様は、この地に来られたとき、新しい形態の理念を立てなければならなかったのです。新しい生命と心情で絡み合った新しい歴史と民族を築く責任があったとしても、それを放棄せざるを得なかったのです。


再び来るという言葉は、無限に悲しい意味を持つです。しかし、今日のキリスト教徒たちは、この言葉を栄光の言葉だと解しています。栄光の言葉として知る前に、イエス様について予想される、その後に希望として見なければいけない言葉であることを、今日のキリスト教徒たちは知らないのです。を敬うべきです。その方は新しい私を探しに来ているのです。それを彼らは知らないのです。


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今日、私たちはイエス様が来られて去ってから2千年の歴史が経過した、6千年の歴史の終末時代に生きています。では、私たちはどうすべきでしょうか? アブラハムの子孫は、アブラハムの忠誠を見習わなければなりません。モーセに従って出てきたイスラエルの60万人の大衆は、モーセの忠誠を見習わなければなりません。


イエス様が来られて去られてからの2千年のキリスト教徒は、イエス様の忠誠を見習わなければなりません。これがアルファでありオメガなのです。6千年を摂理してこられた神の切なる心を受け入れ、それを解決するために戦う聖徒にならなければなりません。


もし優れた孝子や孝女がいるなら、彼らはどのような人物ですか? 生活面で親が楽しんでいるのを見て楽しんでいる人が孝子や孝女ではないでしょう。楽しみが試されるまでの波乱万丈な過去の進行をその心で感じながら楽しめる人こそが、真の孝子、孝女であると言えます。


それが私たち人間の世界における前提であり、天の理を前にした未来の摂理の意味においても同様です。


では、イエス様はどのような方だったのでしょうか? 4千年の歴史と交換できる新しい復活の実体であったということです。 彼は歴史の中で今まで見たことのない新しい天と地に新しく来られた方であったということです。


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イエス様がサドカイ派の信者やイスラエルの民のために来られたことをもし祭司や律法学者たちが知っていたら、ユダヤ教の信者たちは彼の行うことに反対せず、 『どうぞ行ってください』と言ったでしょう。しかしこれを最後まで阻止されて、30余年の生涯を生きたイエス・キリストは、この地に来て、哀れな思いで生き、哀れな思いで去って行かれたのです。これは人類の罪であって、神の罪でもなく、イエス様の罪でもないことを私たちは知らなければなりません。


たくさんの先人、先祖たちが4千年の間待ち望まれた約束されたメシアの実体が、まさか馬小屋に寝かされていたとは、どういうことでしょうか? 皆さん、考えてみてください。どういうことですか? 今日、多くの人々がクリスマスを楽しいと祝っていますが、それは胸が痛むことです。泣いても、泣いても、泣き止むことができないほど悲しい事です。


メシアの到来を心から待ち望んで、その真心が天に届くような人が当時存在していたなら、来られたメシアをそのようには迎えなかったでしょう。彼を迎えるために「準備をした人」がいなければならなかったのに、そういう人は存在しなかったのです。


私たちはこの終末を迎えたに関して、2千年前の先祖たち、今から6千年前から4千年前にかけて行った相当数の先祖たちに対して、来られたメシアを軽んじて歴史的な罪を行った先祖だったと言う事を覚えておかなければなりません。


さらに言えば、2千年前のユダヤ教徒とパリサイ人たちにとって忘れてはいけないということです。もしイエス様が怒りを感じていたら、それはイスラエルの民に対して怒りだったはずです。ユダヤ教徒たちに対しても怒りがあったかもしれませんが、選ばれた民である彼らを捨て去ってしまうと、天の足場が断たれてしまうからです。


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イエス様は、天が4千年苦労してきた天的なその心情を考えたとき、自分が彼らを恨んで捨てていけば、イスラエルの民に対して4千年ずっと積み重ねられ続けた天の摂理が全て無に帰してしまう事でした。


これを知っていたイエス様は、自分の死に関しては民族的な壁があったが、歴史縁が切れてしまうことが恐れたため、彼らの祝福を祈らずにはいられなかったのです。それは喜んで祝福を受け入れたのではなく、ユダヤ教徒を愛して祝福を迎えたのでも、イスラエルの民を愛して祝福を抱いたのでもありません。そうではなく、全人類のために祝福を受け入れたイエスであることを知るべきです。


終末に決着している今日の私たちは、怒りを抱いて帰天されたイエス様に代わり、彼の死に対する怒りを抱くことができなければ、神の心情を知ることができないということです。


今まで人間たちはイエス様が死ぬために来られたと言われていますが、今日では死の為では無く天のために来られたイエス様であり、民のために来られたイエス様であったのに、そのイエス様を十字架に掛けたので、その日は天地が暗くならずにはいられなかったのです。これを今日私は知らなければなりません。


イエス様は人間の歴史の過程で新しい存在としてこの地に生まれましたが、生活は悲しいものでした。


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それでは、イエス様は誰のために生きられたのでお願いですか? イエス様は自身のために生きたのではありません。しかし、そのように追いやられたのは、イエス様が自分を持っていなかったからではありません。イエス様は生命と理念の力を持っており、熱烈な愛の力を持っておられながら、それらすべてを完全に表現できずに生きた方であったことを理解しなければなりませんん。


哀れな民のために生きて去られました。復活されたイエス様は、生きた実体を持って死んだ私たちを生かすために、今まで苦労してこられたのです。このイエス様以降の30年余りの生涯は誰のための生涯だったのでしょうか? イエス様自身のために生きた生涯ではなく、神と堕落した人類のための生涯だったのです。


さらに言えば、イエス様を送られた神は、今まで誰のために苦労してこられたのでしょうか? 神も今まで自分のために生きたことはありません。堕落して死んだこの民のために苦労してこられたのです。


それでは、終末とはどのような時でしょうか? イエス様がご自身のために生きることができなかったので、そのイエス様のために我々が、自ら立ち上がり、生きることができる時を人類が迎えなければなりません。これまで神様がご自身のために動くことができなかったので、その神様がご自身のために動くことができる時を立てて差し上げなければなりません。そのような時が終末です。


今日この時まで、神様は堕落した血統を受けた人間、死んだ人間たちを生かすために、ご自身のために生きることができませんでした。イエス様も2千年の歴史を経てこられましたが、ご自身のために生きることはできませんでした。神様は死んだ人間たちを抱えて再び生かすために、新しい日を回復する摂理を6千年間続けてこられました。


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それでは今日、私たちはどのような覚悟をしなければならないでしょうか?新しく誕生されたイエス・キリストを見習わなければなりません。さて皆さんは、自分の心に染み込んでくる命の力、命の感触を感じたことがありますか?これだけが全人類が求めるべき唯一の理念だと感じたことがありますか?これだけが最終的に人間を復活させることができる、あるいは新しい歴史を創設することができるものだと感じたことがありますか?もしそうであるなら、皆さんは自分だけのために生きる生活態度を捨て、イエス様が歩まれた道を再び歩まなければならないのです。


復活されたイエス様は地上を見つめ、この地に神の憂いが染み込み、神が成し遂げなければならない苦労の歴史が残っている限り、『神よ!そのすべてを私に任せて、どうか安息してください』と祈りたいというのが、まさにイエス様の心情でした。しかし、神は安息することができませんでした。イエス様が悲しまれた時、神もまた悲しまれ、イエス様が十字架にかけられて亡くなった時、神も死の痛みを感じずにはいられませんでした。


このようにして去られたイエス様を私たちが信じている限り、あなたがたが復活し、終末の審判を超えて復活された主を再び迎える栄光の場所に進むことができるとしても、あなたがたの心は栄光の世界を憧れてはなりません。


イエス様はこの地上に万王の王として来られ、天国の主権を回復し、神の前で栄光の御子として神を慰め、万民を安息させるべきお方でしたが、そのような言葉やそのような心情を持って喜びを感じたことは一度もありませんでした。イエス様はただ私たち人間のために生きて行かれました。


私たちがイエス様の心情の友になるためには、天がまだこの地を抱え、イエス様がまだこの地を抱え、聖霊がまだこの地を抱えているのだから、『天よ、三位一体よ、今度は私がこの地を抱えます』と言える心情が必要です。


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それでは、イエス様がこの地に来られてどうだったのでしょうか?生まれたときも馬小屋で生まれ、生活される間も追われて蔑まれながら生き、亡くなるときも十字架にかけられて亡くなりました。ですから、その『十字架の道』を通過されたその心情を感じることが、今日の統一信徒たちの前に置かれた課題なのです。


栄光があるなら、私が栄光を歌う前に主が父の前で歌い、父が万民の前で歌わなければなりません。その後に初めて私が栄光を歌うべきだというのです。父が万民の前で栄光を歌えるようにするためには、まずこの地が天国とならなければなりません。そのために、私たちがまず神を安息させてあげなければならず、イエス様を安息させてあげなければならないのです。神に創造主としての威信が立てられるようにして差し上げ、イエス様にも救主としての威信が立てられるようにして差し上げるべきです。ここでいう威信とは、一部の民族や限られた民の前に立てることを目的とするものではありません。天と地、天上と地上のすべての存在、そして霊界にいる数多くの霊たち、地獄にいる霊たちまでも、さらにはサタンまでもが『あなたは天の御子です』と言わなければならないのです。


今日のあなたがたは、悲しい歴史の道程がまだ終わっていないこと、審判の時がまだ来ていないことを知っています。それにもかかわらず、あなたがたが天の生命を感じ、天の理念を抱き、天の心情の衝撃を受けたならば、その生命、その感じ、その理念は誰のためのものなのでしょうか?もちろん、あなたがたに天の希望を引き継ぐためのものです。これが天の目的です。


天の憂いとイエス様の憂いがこの民族の前にある以上、私たちにはこの民族の前に残されたすべての憂いを引き受け、イエス様を解放し、神を安息させる心が必要です。そして、そのような心を中心に、あなたがたがどのような闘いの実績を持ち、イエス様の友となる基準を立てなければならないのです。それによって初めてあなたがたは実体を持って復活の段階に進むことができるということです。イエス様がそのように生きて亡くなり、復活されたように、今日の地上でもそのように生きて復活した立場を超えなければなりません。そのため、私たちは新しい自分を見つけるためにイエス様の行かれた道を追わなければならないのです。


神の歴史は新しい個人だけを探すことではありません。新しい家庭を探さなければならず、新しい民族を探し、新しい世界を探し、さらに天国を探さなければならないのです。イエス様が新しい存在としてご自身の人格的価値、天的な人格の基準をこの地に立てていくことができなかったために、地上に来られて去られる際に、新郎新婦という言葉を残されたのです。天の意図は、天的な個体を立て、家庭を探し、その家庭を基準に民族を探し、その民族を基準に国家を探し、その国家を基準に世界を探し、さらに天地を復帰して天国を建設しようというものです。


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それでは、新しい私、復活した私になるための過程を経るにはどうすればよいのでしょうか?神が私たちを見て『私はあなたのために弁明することができ、あなたの命を責任を持ち、あなたの理念を責任を持ち、あなたの愛と心情を責任を持とう』と言える基準を立てる必要があります。


どのようなものが侵入しても、神が責任を持つという基準があれば、打たれてもまた生き返ることができるのです。イエス様にはそれがあったので、この地上の多くのサタンが攻撃しても復活することができました。命の権威、理念の権威、愛の権威が神の心中と通じていたため、その心情を持って代わりに動かれたイエス様の実体は復活することができたのです。


同様に、私たちもこのような心情を持っているならば、私の命の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の理念の威力を誰が侵すことができるでしょうか?私の情的な威力を誰が侵すことができるでしょうか?天とともにいるならば、サタンに何万回打たれても、何万回殺されても再び生き返る権威があるのです。そのような権威を持って審判の前に立たなければならないのです。そうして初めて、新しい基準を持った新しい私として天から認められ、天国の民として認められ、天国の家庭となることができるのだということを皆さんは知るべきです。


そのため、キリスト教では『死のうとする者は生き、生きようとする者は死ぬ』と言っています。今日、私たちが新しい自分になるためには、歴史的なすべてが死んだものと同じだから、終末には自分自身が死ななければなりません。そのため、審判の日が来る前にサタンの世界で死んで、まず神の心情と神の理念と神の愛の力で死の権威を踏み越え、復活の栄光を感じることができて初めて新しい私になることができるのです。


さらにそのような心情を抱き、この地上にどのような暴風が吹いても、堂々と天の命と天の理念と天の心情を抱き、それを溶かし出すことのできる存在にならなければなりません。それによって初めて待ち望んだ第2の私、新しい私、新しい時代の主人公としての資格を備えた姿、新しい時代にふさわしい姿になることができるのです。


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今この地には、天の悲しみが何であるかを理解することのできる人がいませんし、神の愛の心情を通じることができる血統もありません。神の理念を備えようとする民族もいません。神の命が繋がり、何億世代にも渡って神とともに続けて残ることのできる血統がないのです。そうでしょう?


今日まで、歴史的なすべてをサタンが占有してきたために、人間は養子です、養子。血統が異なります。それゆえ、養子の立場から新たな姿を備え、直系の子供となるためには、直系の形態を備えなければならず、つまり天的な命の威力、命の感触、命の理念、命を持った愛の衝撃を受けなければならないのです。そうでなければ、新しい自分として天国の民となることはできず、新しい天国の子供を持つことのできる親にもなれないのです。これを成し遂げることが神の願いです。これが私たちの願いであり、人類の願いであり、イエス様の願いであり、神の願いですが、これまでそれを知りませんでした。


そういった観点から、皆さんもう一度考えてみてください。皆さんには、新しい命を求める心がなければならないのです。もし新しい理念と新しい愛を求めて彷徨わないなら、皆さんは新しい時代に残ることのできる者にはなれないことを心に留めておかなければなりません。






<祈り>


来る人も行く人も数え切れないほど多くいましたが、お父様を代わりに来た者、お父様を代わりに去った者は非常に少なかったことを知りました。この地を中心に愛する人々は多くいましたが、お父様を抱えて愛する者はいなかったことを知りました。


数多くの人々が心で思い憧れたのは希望の園、理念の園でしたが、お父様を抱えてこれを希望の全てだと歌う者はいませんでした。お父様、今日ここに集まったあなたの息子娘たちが、今感じた何かがあるならば、お父様に対する感情を感じさせてください。


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お父様が理念の全てであり、お父様が命の全てであり、お父様が愛の全てであることを知らせてください。そしてお父様のすべての意図を代わることができない私たちであるために、今日お父様はその威信を立てることができる環境で私たちに対することができないことが悲しみであることを知らせてください。


今、私たちがお父様の威信を立てることができる者になれるように許し、イエスの威信を立てることができる者になれるように許してくださったので、地上に悲しみがあるならばそれを私のものとして引き受ける姿にならなければなりません。地上に苦痛があるならば、それは私が引き受けなければならないものであることを知らせてください。地上の私たちは真にお父様の心を通り、イエス様の心を通らなければなりません。お父様の悲しみと困難は私が引き受ける覚悟を持たせてください。そしてすべてを押しのけ、お父様の命の恩恵を感じざるを得ない歴史的な転換期にいることを知っておりますので、今私たちが新しい心の基盤を持つことを許してください。


今、私たちが新しい理念と新しい心情を持ち、お父様と関係を結ぶ基準を持てなければ、歴史の審判とともに清算される運命を免れることができないことを、この時間に悟らせてくださることを切に願い求めます。


イエスもこのために生きてきたことを知りました。そして、30余年の生涯を自分のためではなく、民族と堕落した人間たちのために生きてこられたことを知っています。


今やイエス様ご自身のために生きることができる天国の時代が来ることを知っており、その国の民として、その時代に選ばれた者として立つためには、地上でイエス様が経験された十字架の苦難の道をすべて乗り越え、勝利した実体として復活の栄光を許されなければならない最後の課題が私たちに残されていることを知っています。


33


ここに集まったあなたの息子娘たちも、この内容を知ったならば、その実体とその意志に自分を一致させ、その意志の目的を成し遂げるために実体的な供物を準備しなければならないでしょう。父よ、共にいてください。お父様が認めることのできる勝利の祭壇を作り、本来の聖殿を備える息子娘たちとなることを切に願い求めます。


お父様、この時間以降のすべてをお任せし、ご主管してください。この日に行われる全体の予定にも共にいてくださることを切に願い、この民族と家族たちにも一貫した保護の手を離さないでくださることをお願いし、主の御名によって祈ります。アーメン。


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コメント

御言葉選集6(7,8)

2024年10月19日 16時55分21秒 | 学習

そして、復活の瞬間を迎えて「お父様!私のお父様!」と呼ぶことができるだけでなく、父の前で自分の体が溶け込むようでなければなりません。さらに、パウロが三重の天に入って体験したように、自分が体の中にいるのか体の外にいるのかを区別できない境地に至ってこそ、天の基準が生活へと移行していくのだと、私はそう考えており、そのように理解しています。


そのような境地を探し求める天であると理解するとき、その天が存在する場所はどこであり、その天はどのような天なのか? その場所は私たちの国、永遠の私の国であるだけでなく、私が生きる場所です。そして、その神は私の父です。そのようなお父様を、そのような国、そのような生活の場を知らずにさまよっている人々が、この事実を知るべきです。そして、神に歓喜の歌を捧げ、悪魔に対しては怒りをもって打ち倒すことを誓い、立ち上がることができるとき、それがまさに審判の日なのです。


ですから、皆さんが悪魔を打ち破り、「主よ、勝利の基準が立ちましたので、治めてください」と言える姿で現れなければ、イエス様は皆さんを抱きしめてくださることはできないということです。


イエス様がなぜマグダラのマリアを歓迎することができなかったのでしょうか。それは、悪魔との戦いに勝利しなければならない道がまだ残っていたのに、彼女がその道を通らなかったからです。勝利の道を通らなかったマグダラのマリアは、復活したイエス様の前に立つことができなかったのです。


悪魔との戦いに勝利した場に立ち、天に向かって「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができるならば、全宇宙を所有することができるのです。自分の体に対する意識を忘れ、そのお父様を信じることができるほどの境地に至らなければなりません。そのような境地でお父様を思い、お父様を信じるとき、自分の感情が消えていくのです。


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今や、自分のお父様を敵視してきた悪魔に対して憤りを抱き、彼に対して審判の一撃を加えた後、勝利の姿で現れて「お父様!」と叫び、お父様を抱きしめることができる人になるべきです。そのような場で喜びと悲しみに満たされて泣いた信仰者であってこそ、天国生活の理念の時代に入ることができると私は断言したいのです。


私たちはそのような世界で仕える生活をしなければなりません。希望の天国は迎えましたが、仕えながら実践して生活することのできる天国はまだ迎えていません。つまり、生活の中で主体となる神をまだ理解していないのです。


天は予告されました。「私はあなたたちの中にあり、あなたたちは私の中にあることをあなたたちは知るであろう」(ヨハネ14:20)と。この言葉は否定的なものではありません。観念的には神の存在を知っており、信仰の主体としての神を知っていましたが、自分の良心の主体であり、自分の体の主体であり、自分の生活の主体であり、生活の中で見つかる主体として神が実在するという事実を知らなかったのです。


なぜそうなったのか? 信仰の限界を越えられず、愛の心情と接することができなかったからです。したがって、人類を復帰する使命を負った終末の信者たちはこの事実を知り、どのような犠牲や困難、どのような迫害があっても、天性の悲しみと天主の恨みを解消するという心情に満たされて、天の旗を掲げて進む者となるべきです。


そのような者がどのような民族の前に現れても、その民族には善なる心が導く時代が来ることは間違いありません。今日の世界は知的なものや真理を追求する世界です。真理を動かす原動力は「体」でした。体を動かす原動力は「心」でした。心を動かす実体は何なのかははっきりとはわかりませんが、それは霊的なものでした。だからこそ、真理だけではすべてのことが解決されるわけではありません。だからこそ、未来には私たちの心の方向性を一つの場所に向け、心情の動きを一つの場所に向け、霊的な感情までも一つの場所に向けることができる世界が来るに違いありません。


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そのような理念の世界が来ると信じ、そのような世界を探し求めようとする今日の私たちは、観念的なものに囚われて生きてはいけません。実際の生活の中で、天に向かって歌うことのできる勝利の勇者になるべきです。そのような人がこの地に現れるべきです。


もしそのような信仰を持ちたいと考える人がいるならば、その人は夢の中でもそれを考えるべきです。また、可能性があり、天が存在するのであれば、実際にそれを実現してみたいという切実な心を持つべきです。そのような切実な心を持つだけでなく、時間を超えて、生活の中で6千年前の人間がエデンで歌った歌を今日の歌として歌うことができ、その時の感情を今日の感情として感じることができ、堕落以降抱えてきた悲しみの感情を、今日の喜びの感情に変えることができなければなりません。このような存在が、仕える主体であり、歴史的な恨みを解消する主体なのです。


そのような存在が現れることで、皆さんはその存在と関係を結び、勝利する者となり、天地の悲しみを解消できる存在となるでしょう。そのような関係の中で、皆さんは悲しみと苦しみの心情を抱く神が、永遠に私の父であり、私の国、私の家の主であることを実感するでしょう。そしてまた、皆さんは新郎である方のすべての悲しみを解消してあげることのできる真の息子娘となるのです。


今日、私たちがこの道を探し求めて進んできた結果、お父様が悲しむ父であることを知りました。その悲しむ父の息子娘とはどのような存在であるべきかを理解しました。天国を回復するために、悲しみの中で戦い続ける天の怒りを知りました。天の無念さを知りました。


したがって、皆さんは敵に対して怒りと無念さ、敵意を抱かなければなりません。そうして、どの民族よりも歴史的な勝利の標語を掲げ、すべてを責任をもって果たし、確信をもって勝利するという基準が、皆さんの心から、体から、生活の中でしっかりと根付くことで、勝利の歴史が始まるのです。そうしてこそ、皆さんが実体を持って復活の権限に入ることができるのです。つまり、実体を伴って天国復帰の楽園に入り、神に向かって「お父様」と呼びかけることができ、神が皆さんに向かって「息子娘」と呼ぶことができる境地に至るのです。


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このような境地で心情の世界を探し求める皆さんは、自分のために信じてはいけません。天国に行こうという観念や、自分が何かをしようという観念を捨てましょう。


イエス様は自分が天国に行こうと考えたことはありませんでした。イエス様は宇宙のために信じ、民族のために信じ、さらには神のために信じるという信仰の理念を持っていました。それは単なる言葉ではなく、事実そうだったのです。


自分が行うことは自分のためではなく、人類のために行うのだ、世界のために行うのだ、お父様に代わって行うのだという信念、それがどれほど素晴らしいことでしょうか。


私が愛するのは自分のための愛ではなく、民族をかけて愛し、人類をかけて愛し、神をかけて愛し、天地をかけて尽くすということです。したがって、私たちの仕える心も、人類をかけて仕え、天をかけて仕えるべきです。そして、仕えると同時に感謝の心を持ち、信じながらも実践しようという心を持たなければなりません。


心で愛し、体で仕え、心で仕えると同時に生活の中で感謝できるようにし、自分を超えて信じ、自分を超えて愛し、自分を超えて仕えるという観念を持って皆さんが信仰の道を歩んでいくならば、そこには決して悪魔が侵入することはできません。悪魔の誘惑の手がどれほど強くても、そのような信者には決して触れることができないのです。


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では、天の願いとは何でしょうか? 失われた天国の回復です。失われた親の回復です。失われた子供たちの回復です。


今、私たちは自分の国、自分の民、自分の親を見つけなければなりません。そして、真の親の真の子供となり、6千年のすべての恨みを忘れ去り、悪魔を打ち破り、勝利の条件、愛の条件を誇ることができるようになるべきです。それによって、悲しい歴史を乗り越えてきた神の前に、真の息子娘となることができるのだということを、皆さんははっきりと理解しなければなりません。




<祈祷>
お父様、極端な言葉を述べた後、父の前で心苦しい思いを感じざるを得ません。


距離が遠く、限界が大きいその世界の動きが、狭く荒く、欠けている私たちとどのような縁を結ぶことができるのでしょうか?


その縁を結ぶためには、多くの信仰の先祖たちが犠牲を払わなければならず、命の道を切り開くために多くの教役者たちが血の涙を流さなければならなかったことを、お父様、私たちは知っています。


40


今日この日を通じて、悲しみを感じる自分の姿を見つけ、父の栄光の恵みを慕うことができ、実践の場でも倒れることなく永遠に勝利する覚悟を持つ者だけが、お父様を「お父様」と呼ぶことができ、父は彼を「私の息子、私の娘」と呼ぶことができるその日があることを知っています。


お父様、信仰の道を歩むことがこれほど難しいことを知りました。人類の祖先から引き継がれた罪によって、人類が悲しみの道を歩まなければならないことを知りました。これまで悪魔の思考を抱きながら生きてきた人類は、迷える姿だったことも知りました。私たちは、自分たちの命をすべて捧げてでも、死の峠を越え、これを解放しなければならない復帰の基盤が目の前に来ていることを知っています。


これから私たちは天の父の息子娘となり、あなたを真の父として呼び、仕えることができなければなりません。人類に対する父の愛の心情が私たちの心に染み渡り、どのような逆境や悲しみ、どのような不便も乗り越えられるよう、お父様、導いてください。切に願い求めます。


今日ここに集まったあなたの息子娘たちの中で、自分たちが命を持っているという事実に感謝を感じられない者がいますか? 彼らが言葉の中に感動し、何かを感じるならば、命の炎を燃え上がらせ、復活の歴史を起こしてください。


天の理念を追求するこの時間をお許しください。そして、歴史的な今日の環境を切り開きながら、父の心情と縁を結べるこのひとときになることを切に願います。


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伝える言葉が、私たちの心の標準と私たちの生活の標準となるようにしてください。彼らの心を導き、彼らの生活観において刺激的な一つの基準となり、常に不正を整理することができる生きた言葉となり、心とその骨と肉を動かすことができるように、歴史を動かしてください。切に願い、求めます。


この時間も孤独な環境の中で、父の前で涙を流しながら訴える家族を慰めてください。父の前に礼拝する多くの人々にも祝福の手を差し伸べてくださるよう、切に願い、主の御名によってお祈りいたします。アーメン。








文鮮明先生御言葉選集 6 - 8. 恨多き父をお迎えする者
1959年5月24日(日)、前本部教会
マタイによる福音書 23:1-39


<祈り(Ⅰ)>

天のお父様、あなたが居心地の良い場所は、無限の忍耐の世界であり、限りなく苦労される場であることを私たちは知っております。


先祖代々のすべての罪の状況に見られるお父様のご心情とご意志を知る私たち、創造本然の存在を取り戻すために、幾多の苦労の道と忍耐の道をしっかりでこわれたお父様前で、恐縮の念で垂れずにはおられません。


長い年月を一日一日、私たちの先祖とともに耐え忍び、先祖とともに戦いながら人間たちを守るために死ぬでこわれた父なる神様を、今この時、私たちの心を広げる、体を低くして心にお迎えし、体で耐えることができるようにしてくださいと、父なる神様、心から願います。


地上に住む多くの人々の中で、困難な道を避けて通る人は多いですが、あなたの事情をよく考え、あなたの心情を心と体に抱きしめるために、かなり困難な道を選んで進んでください行く人はごくわずかであることを知っています。


お父様のために忠誠を尽くし、お父様のために犠牲となり、お父様の祭壇を飾り、お父様が忍耐する心情を地上に示す人間が非常に少ないことを知るとき、お父様が少し哀れな方であるか人間を愛しながらも嘆き、人間に対して心を砕き、全力を尽くして協力するお父様であることを知ることができます。

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私のお父様! 今、そのようなお父様の事情が地上に生きる人類の前に早く伝わる日が訪れますように。全人類の胸の奥深くに、そのようなお父様の事情がしみじみ伝わることを」心より切に願っております。


父なる神様、この一日、この聖なる日に、あなたに向かって優先して、頭を垂れて祝福を頂くことを心から待ち望んでいる方が多くおりますが、祝福は天のものであり、労苦と苦難、忍そして耐道は人間が担わなければいけないものであることを知らない者たちにならないよう、導いてください


天のものは天に返し、人間のものは人間が責任を持って、そんなあなたの息子や娘がとても少ないことを、私たちは知っています。な者たちと同じように、今この時、お父様なる神様に直面する際に恐ろしい姿を見せないように、どうか導いてください。


私たちに喜びがあるなら、それをすべてお父様のものとしてお返しし、また幸福と感謝の心があるなら、それもお父様のものとして認められるならお許しください。満たされたお父様の辛い道のりを私たち自身が考えることのできる、お父様の息子や娘たちとなれるようにお許しください、そして心からの願いを求めます。


一週間の間、恐ろしい世の荒波にもまれ、お父様の心と一致できない場所で戦い、疲れ果てたあなたの息子娘達ここにおります。疲れたその体はお父様の胸に覚悟できる恵みを待っていておいで。受け取られた責任のための励ましの時となり、心を揺さぶる恵みの時として導いてください

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お父様、この日に私たちの心を考え、罪に苦しむ私たちのすべての考え方を統べてください。私たちが頭を下げたこの場で、お父様の慈しみの手は離さないでください。そして、心を尽くしてお父様の憂θを見出したいと願う私たちの心を念頭に置いて、お父様が直接私たちに向き合って協力してこの時間となることを、切に願いを求めます


この日も、世界中に広がるばる孤独な家族達膝をつき、戦いの道の中で疲れ果てた体でお父様に向かって懇願していることを私たちは知っています。その御手を差し伸べ、試練に晒される場所においても最後まで残る者たちとなれるようにしてください。


どうかこの哀れな民族を祝福し、多くの教団も祝福してください。 お父様が与えてくださった使命のためにすべてを尊び、あらゆる犠牲を払い、最後の日に大いなる使命のために生き、使命の「民族と組織となれるよう、どうか切に願い求めます。


すべてをお任せしますので、最初から最後まで主管してください。また、悪魔に隙をつかれない様にして下さい。


千千万の聖徒が行動する中で、お父様の喜びと栄光がこの現れることを許可して頂く様にお導き下さる様に、切にお願い申し上げます。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。

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「祈り(Ⅱ)」


この時、私たちの体と心がどのようなような場所に残っているのかをよく見て、私たちの心お父様の心のあるところに、私たちの体もお父様の聖体のあるところにあることを了承しております。


お父様と共に生きるその一日が待ち遠しいです。お父様を思い、お父様に向かって歩く私たちが、お父様と共に生きる栄光の日を迎え、お父様の前で感謝と喜びの賛美を尊重することで、創られたすべてものを喜ばせる子どもたちになりますようにお導きください。


お父様! あなたの悲しい心が地上に宿っていることを人々は知らず、天の悲しい涙の跡が人類の歴史に残る中でそこにいるを知らないのです。限りない天のための情報が私たちのものです」心と体に漂っていることを知らなければ、天の前に顔を出すこともできず、天の信任を受けることも堕落した人間の子孫であることを認めざるを得ません


お父様、地上にはあなたの涙を受け止める人がいなくて、あなたの別れを抱いて慰める者もなく、あなたが歩むその道を守る者もいません。 、それは天の悲しみが深く刻まれた地であり、悲しみがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地であり、恨みがあるので、それは天の悲しみが深く心に残った地なのです。


それゆえに、この地に住む人々は、悲しみの供物となることを遠慮することができない運命に置かれている、悲しい場所を超えることを恐れています。



絶望の中で最後の声として天に向かって『お父様! 私たちを助けてください。』と叫ぶ時が来ております、『お父様、愛の心を持って人類を訪ねてください。』こんな時に、お父様の心を抱きしめて悲しんでいる者は誰であり、お父様の心を抱きしめて泣いている者は誰ですか? その様な者がいるなら、彼はお父様の真の息子・娘であると言えるでしょう。


私たちの心に力を与えてくれたおお父様、切実で痛い程におお父様の心情を感じることができる心の動機が欲しいのです。その心情の源に触れたいと思いますので、触れることができる恵みを頂けます様に、そうすれば、その心情に触れるなら、その場では自分の不足に勝てず、人間の罪を受け入れて悔い改めずにはいられないということを知らせてください。


お父様、未熟で不足している私たちを支えてよろしく、心配してくださる協力おお父様の前に、申し訳ない気持ちを抱きつつ、お父様の悲痛な心情と悲しい心情を慰めることで、栄光の中に現れることができる基盤を整える聖徒たちにならなければなりません。 どうか、お父様の力と能力によって不足している私たちを導いてください。


人間を創造し祝福して協力する力が、お父様にあることを知っています。私たちをお父様の懐に楽しんで見てください、お父様の手の中におさめてください。そうそうことで、お父様の栄光の前に供え物として足りないのではなく、お父様のもので受け入れられるあなたの子供たちになるよう導いてください。願っております。


私たち自身が生命を維持する信念の道を持っている中で、数え切れないほどの悪魔たちに力に引きずられることが多かったですが、内面、お父様を思う気持ちはあります。集まったあなたの子供たちをお守りください


彼らは、地上で勝利する最後の一日、最後の一時間まで、お父様のために覚悟を決めた者たちです。突進できる天の聖徒たちとなることをお許しください。お父様、切に願っております。


この日、数え切れない悪魔たちが私たちの周りを取り囲んでいるのも、天の主に全力を尽くそうと私たちの心の前では、その存在を隠してくださいますように。の業を起こし、私の心と体が復活の働きに参加できる場所に立つことができるように、私のお父様、切に願っております


この日、この場が私たちだけの参加となることがありませんようにお許しください。 哀れな何千万もの人類を祝福してください。 方向を見つめ、行くべき道を知らない限りの教団を祝福してくださいし、命の危機に耐えて死んでいる多くのあなたの子どもたちを祝福してくだい。


「終わりの日」に、哀れな人類の前に命の実体を示し、彼らをお父様のもとに繋いでください。


今、お父様の優しい栄光を示し、熱いことのできる心情を持った子供たちが、お父様によって祝福される日が早く訪れるようにお寛容ください、お父様、心から願い求めます。



試練や苦難に耐えても、私たちはお父様のために生け犠牲になる覚悟ができていますので、その心再びサタンに奪われるような子供たちにはなりませんように。体はすでにお父様に別れられていますので、死んでも生きていても、お父様のものであり、尊重されることができるようお許しください。


すべてをお父様に先に進みますので、私たちのものが動くこの時間ではなく、あなたのものであり続けるこの一時間を支配して協力してください


孤独な家族を直接導いてください。主の名前によってお祈り申し上げます。アーメン。






<祈祷(Ⅲ)>


この時間、私が伝えるべきことは何もありませんので、お父様が表したい言葉を示してください。


私たちの心と体が、この一時間だけでも半分概念に囚われないようにしてください。 お父様が動けば私たちも動き、お父様が定まれば私たちも定まり、お父様が和れば私たちも和することができる、私たちにはどうしようもないような心の土台を、お父様、この一時をお許しください。そうして、お父様が動機となり、私たち結果になりますようにしてください


この日を祝福してください。孤独な家族が地方に広がり、お父様の前で祈る時間ですので、同じ恵みの手で守ってください。


お父様、考えられた聖書の言葉は、何も言わない立場に立ったイエス・キリストの冷静な心情から出た最後の後悔の言葉であることを私たちは知っています。 、私たちにもこのような言葉が覚えておいてください、心の扉を開き、身を屈めて、帽子を下げて受け止めることができるようにしてください。


ここに集まった皆さんを導いてください。愛の懐に抱きつき、新しい言葉で励ましてください。このひととき、あなたの心に包まれる時間となることを心から願っています。


伝える人の心と受け取る人の心に隔たりがないようにしてください。また、聖別された供え物となれる様にとを心からお願いします。


三位神が全てを担って導いてくださること、暗黒力が襲わないように導いてくださることを心からお願い申し上げます。すべての言葉を主の名前において祈ります。アーメン。

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<御言葉>

今日の内容は、イエス様がそのまま決められた道を進まなければいけないことを考え、イスラエルに対する希望と期待が非常に多かった為に、決して先に意志を示さずに進まなければならない、悲しい心情から生まれた最後の御言葉でした。


今日はこの御言葉を中心に「恨多きお父様を迎える者」というタイトルでお話します。


今日、私たちは幸福な生活を切望しています。 さらに、自由の世界を心から憧れています。は相反する立場があることを、日常生活を通じてよく理解しています。


一日を生きている間にも、相対的に考えを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを忘れないために心を描く場所に行きたいと思っても行けないのまた、心から望む行動に集中したいと思っても、思い通りに移せないことを私たちは生活の中で感じていますし、また感じてきました。


今日、私たちは幸福な生活を気に入っています。 さらに、自由の天国を心から憧れています。 しかし、心の中で憧れ、憧れ、期待していることと、今日私たちは生きている現実とは対立している立場にあることを、日常生活中によく知っています。

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一日を生きている最中も、対立しているものを整理し支配できる何かを心の中に持たなければいけないのに、それを持っていないために、心を描く場所に行ったくても行けまた、心から望むことが行動に移ることを重ねても、自由に移すことができないことを私たちは生活の中で感じています。


そのような中で、自分を支配できる理念も持たず、自分の環境を整理できるような悩みも持っていない自分を感じています。また、生活の中で大きな希望や願いを抱きながら歌って生きていますが、向こう、心の中には悲しみがあることを私たちは常に感じています。


このような悲しい人々が集まり、一つの国家を形成し、世界を作り上げてきました。それを人類歴史はよく知っています。


人間だけが悲しい歴史の中にいるわけではありません。人間が悲しい道を歩いているので、人間に掛かっているすべてもこの悲しい環境に含まれています。


さらに、人間を支配する創造主がいて、天の法則を運営し、一つの理念世界を再び探し求める神様もまた、悲しい歴史を経てきた人々のために、この地に立つとき、喜びを持つことができないということを理解すべきです。

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このように、私たち自身に悲しいことが多いほど、私たちの社会で起こった悲しい事実が多い方が多いほど、またこの世界全体を通して悲しい出来事が多い方が多いほど、私にとってこの悲しいことが人類全員の間でとりあえず、人間個人の中で終わるのではなく、この地を超えて歴史を導く天の領域にまで考えることを考えざるを得ません。


堕落以降6千年の間、人間を守って導いている神がいることを否定できないのであれば、6千年の悲しい生活を守るために導いているその天の悲しい出来事と、今日の皆さんの心の中に浸透している悲しい出来事とを比べれば、対照も比較もできないほどの違いがあるであろうと言う事です。


真の人間がいて、人間の世界のすべての不快な要素を取り除き、天が苦しんでいるを解決し、地上に平和の国を建設できるような偏見主義や思想を持って現れたら、彼は自分自身の苦しい逆境を乗り越え、人類の苦しい瞬間やその切実な心情をすべて経なければなりません。 さらに、天のすべての苦しい心情、天の切実な心情を解決できる何かを持って現れなければなりません


人間の世界には、悪魔の侵入を受けない平和の世界、幸福の世界、自由の楽園は建設されないということです


皆さんの胸を掘り下げて、自問自問してみてください。私は誰で、誰のために、どのような目的を持ってさまよっているのかと反問したとき、その問いにどのような答えが出ますか」確実な自信や価値を持った答えが得られない場合、その問いが深刻であればあるほど、皆さんの心にぶつかりながら嘆きの心情も比例して高く評価します。

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今日、私たち歴史の悲しみと天の理の曲折を整理して清算しなければそんな立場にいるのに、皆さんはどのような覚悟で、どのような形で、どのような態度でそのような問いに答えることができるでしょうか? もし天が人類の歴史を懸けて、覚悟に満ちた心情を解消できないまま人間に向き合って 実際、事実はそうです そのような天の覚悟の心情を解消しますする者は誰になるのでお願いしますか?この悲しい曲折の原因が天にあるのではなく、人間にあることを私は考えなければなりません。


人間がこのような憂いの曲折を解決すべき立場にあることを認識せず、その曲折を我慢できない、覚悟の歴史は回って時代を越え、世紀を経ても、天の摂理から離れた歴史として続いていきます。

天がいるなら、もしこのような歴史を阻止し、天の覚悟と人類の知恵を清算してくれる一人の人を探していることでしょう。天はその一人を立てるために、これまで戦っその一人を迎えるために、今日まで歴史を支配してきたのは確かです。今、私たちはこのことを振り返って、また思い出した時が来たのです。を約束し、その一人を立てるために無限の戦いを続け、その一人を生かすために無限の苦しみの歴史を重ねています。


しかし、歴史の中でその一人を迎えた者はおらず、その一人を支えた者も気づかれず、天は今も真剣なお心の情を抱いています。これを私たちはまた考え直さなけれはなりません。


神様はこのように思いを重ねている方です。神様は人間の前に自主的に考えを考えることができることができず、人間の前に自主的に考えを伝えられず、じっくりと充実した方です。この満たされた天の憂いは、天から生まれたものではなく、人類から生まれたものです。摂理を行い、未来を切り開くために今も憂いの心情を考えて努力されています。

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したがって、天の憂いを解消できる一つの姿を立てようとすることが神様の意志であり、その一つの存在を生かめることが神様の意志であることを知っているので、歴史的なもの終末に終わっている今日、皆さんは私大切、私たち子供、この民族が天の悲しみを解消できるその日を築くための恵みを許可していただくことを切望に心を持たなければなりませんまた、悲しみの多い神様であるため、私たちの人間は悲しみに満ちた神様を迎え入れ、その覚悟を解消して上げる歴史的な負担を積んでいることを忘れてはなりません。


天は今も人類を救うために、人類の悲しみを解消するために、人類のすべての悲しみの曲折を乗り越えるために、千辛万苦の努力をしていることを皆さんは感じなければなりそれを感じる人がいるなら、その人は先に進んで足を止めて、生活を整理し、過去の生涯を清算し、苦しい心情を抱えながら生きることになるだろう。もしこれを感じないなら、心に満ちた裁きの日を迎える覚悟をしなけれなりません。


私たちは今日、この瞬間も憂いを感じている天を迎え、苦しい天の心情を受け止め、話し合いの多いこの世界を清算しなくても神聖な使命を担った子供たちであることを心に留める私たちは堕落した人間の子孫であるため、多くのお父様の心情を解消するために、人生をかけて戦わなければならない責任と義務があります。


それで、天は人間が堕落した後、4千年の歴史を経て警告し、選民を選んで立て、彼らに『あなたたちの指導者、あなたたちの主人、あなたの平和の王子、自由の王子、幸福の王子になる人を送る。』と約束しました。こうして天は幸福の主人公であり、平和の主人公であり、自由の主人公であり、天の憂鬱を解消し、天の恵みを紹介できる一つの存在として、長い歴史を経て約束されていたその一人を送られました。


そして、長い歴史を経て約束されていたその一人が現れましたが、選ばれたイスラエルの民がその一人を迎え入れず、歓迎し、彼の意志に従って生きていなかった、あくまで彼の意志に従って団結し、天の意志を立てて心の悲しみを解消するために戦わなかった為に、悲しみの歴史は今まで延長され続けているのです。

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では、平和の王子、幸福の王子、自由の王子として来られたその方は誰かというと、堕落以来4千年の歴史の苦しい心情を担って来られたイエス・キリストでした。歴史を責任を持って考えるべきイエス様、4千年の天の摂理を責任を持って考えるべきイエス様は、歴史的な視野と天国的な視野を持って来られました。


イエス様はその悲しみを解消するために、どのような過程を経なければならなかったのでしょうか? 悲しみの過程を経て、苦痛の過程を経なければなりませんでした。だから、この地に来られたイエス様は、4千年の歴史の中でよりも悲しみの体験された方であり、苦痛の悲しみを体験された方であることを皆さんは忘れています。


今日、キリスト教の信者たちはイエス様を信じています。 彼を万王の王、天の独り子、自分たちの苦しみ主として信じています、平和の王子、自分たちに幸福を紹介してくれる方であると。


そんな良い面のあるイエス様であることを知る前に、まず知っておくべきことは、彼が悲しみの王子、苦しみの王子、全人類の悲しみを思い出した悲しみの王子であるということです。


そのように、苦しい持っているイエス・キリストの心情、その心情は誰のためだったのでしょうか? 当時の人類のためであり、人類を抱きしめている神様のためです。

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しかし、その苦しい心情を受け継ぎ、苦しい立場から天との戦いを解消するために悪と戦って勝とうとした者はいなかった。 、彼を送られた心の痛みはさらに勝利を収めたことを私は考えなければなりません。


だから、私たちは全体を責任を持つことができる一人の主人公と出会う運命にあるのです。だから、死にかけていたイエス、復活して昇天されたイエスが、この苦しい心情の曲折を清算するために、悲しみに満ちたこの地に来なければならないのです。


私たちは神を愛しております。だから、神様は6千年間にわたって人類を愛し続けて下さいました。だから私達が今此処にいます。


悲しみがある場合、愛の心情感情感じる悲しみ以上の悲しみはなく、苦痛がある場合、愛の心情感情深い悲しみ以上の悲しみはありません。


それなら、天は愛と言われているのに、愛である神は喜んでいるのでしょうか?愛の神として知られているのに、その愛の神には喜びや幸福、平和だけがあると思われていまいりましたが、実際には今日にはありません。

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愛の心情を持っているからこそ、人間を救おうとする気持ちが大きいほど、その心情に浸透することが大きいことを感じる者は、この地上には無い。その愛の心情に満たされる」居る天的な苦痛を知っている者はいないのです。


人類は神が愛であること、愛の本体であることを知っていますが、神が人類のために美味しい血を流している


ここで、終末に近づいている私たち信者が知っておくべきことは何でしょうか?愛の神を知っている以上、その神の心情に浸透する天的な埋葬を、その神の心に浸透する天的な苦痛を覚悟しなくてはならない。


幼い愛天的な喜びがこの地上に許可されるとしても、その喜びは今日私たちが信じているように喜びを求めている信者たちには考えられません。与えられる一つの幸福であり、歴史の前に約束された一つの希望だからです。

そのため、神の愛と呼ぶなら、今日の愛の神を求める心を持つは、神の愛の心情に浸透する悲しみを抱く者であり、愛の心情に浸透する悲しみを抱く者だとそのような者だけが、天の愛育ちを紹介される幸福を受け継ぐことができるということをはっきりと理解する必要はありません。

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では、神の覚悟とは何でしょうか? 神を信じる人がいないわけではありません。 神を知っている人々がいないわけでもありません。に浸透する悲しみを理解する人がいないことであり、愛の心情に浸透する悲しみを理解する人がいないことです。


人類の割り当てを整理し、天的な課題を解消しなければ終末が来るかもしれない、その時私たちはどのような主人公にならなければならないのでしょうか?抱き合い、苦しみの心情を楽しんで『人類を愛してください』と言う人ならなければなりません。そのような心を持つから出発しなければなりません。自分を抱いて『私を愛しなさい』そのような深い心情を大切に、自分でも考えないうちに行動に移すことができる人がいるなら、その人は人間の世界に天的な悲しみを証明する者であり、天的な苦痛を経験した者と見ることができます。


だから、天の憂いを解消するために来られたイエス様は、幸福を持って現れず、自由を持って現れませんでした。 彼は神の前に最高に善い位置にいながらも、足元中の議論のようにたの出現です。


全宇宙が歓喜することができる天の王子であるにもかかわらず、地上では踏みにじられる王子であり、迫害される王子であり、消え去る王子として生きていたイエスの国境以上の悲しみはない


天の威厳と自分の立場、そして与えられた使命を果たすことができず、逆境にぶつかって黙って消えていっていたイエス様以上に悲しい者はいないでしょう。イエス様は4千年の間、が苦労して選ぶイスラエル民族の前で排斥されました。摂理の意志を受け入れるために長い間愛してきました

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ちょっとではありません。愛する民族に追われ、愛する弟子達の前でも追われたのです。民族のために来たのに、教団が裏切り、民族や人権、あるいは選ばれた者たちのために来たのに、彼らからも裏切られたのです。


このような立場で、イエスが憂慮を抱いて従来表現的に呪おうとして、言葉ではできないほどの懸念をかけることができたでしょう。その間、彼らの悲しみの悩みを抱え、自分を忘れて心配しなければならなかったのです。


イエスが天国建設の王子だと思っていたのに、今日はありません。それは後のことです。イエス様は、世のすべての妥協を乗り越えるために、多くの先を知っている善を望み、意志を求められてきた歴史の道の切実な心情、深い悲しみの心情を体験して、歴史を代表する迷宮の王子でした。内面的には悲しみの心を、外見的には苦痛の重荷を負い、それをサタンの前に解決しなくても、そうして天の前に勝利の足場を築かなければいけない、悲しみと苦しみの王子であったのです。


そして、そのようなイエスがこの地に来て、人間のために悲しみと苦しみの中で生きることを見ている神の心情は、イエスの悲しみより辛かったに違いありません。


神はエデンの園にアダムとエバを創り、彼らが成長することを大切にさせていただきました。 しかし、許可された自由の園で、許可された理念の世界で、天とともに平和「幸福に生きるべきアダムとエバが堕落したために、そういうものを踏まえて、エデンの園から追放されたその事実は、神のために計り知れないほどの深く興味深いだったのです。

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神様と永遠に共に生活しなければならないアダムとエバが、天の懐を離れて悪魔に踏みにじられ、その悪魔に移っていくのを見なければならなかった天の深い心情、その長く深い心情を忘れられない天でありました。


この4千年の悲しみに満ちた人類の歴史を覆うために、その悲しみの歴史を清算し、幸福な復帰の世界を構築するためにイエス様が来られましたが、こうして来られたイエス様を受け入れるべき民族はどこにいたので問う? 受け入れるべき洗礼者ヨハネはどこにいたので問う?


イスラエル民族を選んだのは、イエス様に限界の苦難の道を歩めるためではありませんでした。このイエス様を迎えるべき民族であり、支えるべき組織であり、仕えるべき洗礼者ヨハネだたのです。皆イエス様を見捨てて去ってしまいました。 彼らが皆去っていくのを見て、イエス様は何を感じたのでしょう?


地のために来た道だったが、地を捨てて歩いていけず、民族のために来た道だった、民族を捨てて歩いていけず、団体のために来た道だったが、捨てて行けなかった、それがイエス様の運命でした。


だから、イエス様は何度もオリーブ山へと足を運びました。 その程度に天に向かって言ったイエス様は、どんな祈りを尊重したのでお願いしますか?よりも、一応ご自身をお遣わしになった天が悲しむことを心配されていたのです。

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神は、イエス様を待っては民族と共に平和に生き、民族を導いて理想国家を築くためで結局、その道が閉ざされたため、イエス様は天の前に切なる祈りを守る立場に追いやられしかし、それはご自身の覚悟を忘れるためではなく、ご自身を遣わした神様より大きな悲しみを慰めるためだったのです。


イエス様が道を歩いていく中で、「私のお父様、もしできることなら、この杯を私から取ってください。でも私の思いはそのままではなく、御心のままに行ってください」 (マタイ26:39)と祈られた際の心情。その心があったからこそ、天の悲しむ心情とイエス様の使命の悲しみが、イエス様一人心に一つとなることができたのです。その瞬間が、玄関上での死の瞬間に実現したということを、私たちは知っておくべきです。


4千年前、アダムが堕落して以来、神の胸には痛みが刻まれてきました。そのため、イエス様は地に対して「裁き」という名前を思いながら、痛みを解放する道を開拓し続けてきました。


イエス様の死によって第一イスラエルは崩壊しましたが、復活したイエス様を中心に再び立て直す道が、第二イスラエルの選択民の道です。


過去の第一イスラエルは選択民としての権利を誇りましたが、今日の世界に広がる第二イスラエルであるクリスチャンは、第二イスラエルの精神を奮い立たせ、約束の地である天国を建設するために総力挙げて立てなければならなくなりました。

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神様はこのように、世界に通用している第二イスラエルを集めて、天の選ばれた民の権利を立ててこられ、裁きの歴史を越えて進んでいける権利を持つイスラエルを注目してられました。


さて、このような悲しい歴史を抱いて進んできた神の悲しみは、いつ解放されるのでしょうか? かつて選民としての権利を誇っていた第一イスラエルはサタンの前に追いやられ虐げられましたが、天の選ばれた民である第二イスラエルは悪魔を追い払わなければなりません。 そうすることで、今日の私信者によって歴史に刻まれた痛みは癒され、イエス様の死後2千年の間多くの苦難と痛みを通り抜けてきたイエス様と聖霊の前に、希望の一線が立てられるのです。


私たちは今、歴史の終わりに立ち、嘆きの歴史を乗り越え、痛みに満ちた人類と世界を超えて、悲しみに満ちたお父様の胸に触れ、その心の奥底にある悲しみと苦しみを共に感じ取り、歴史的なすべての悲しみと深く刻まれた怨念を胸に抱き、その理由となった無数の悪魔に対して最後の一撃の覚悟を持つ、天の息子娘とならなければならない時が来たのだということを、私たちは覚悟しておかなければならないと言う事です。


今日、このような世の中を乗り越えたのが悪魔であり、当面を導いたのも悪魔であり、この現状をしばらく見ていた悪魔です。心に抱き、また体で背負い、天の選ばれた民としての権利を持って行動し、歴史的な恨みの原因である悪魔との関係を清算しなければなりません。一つの民族、一つの主権がこの地上に現れることを天はできるでおられることを理解しなければなりません。


そのような者となるには、どうすれば良いのでよろしくお願いします。 私たち統一信徒は復帰原理を読んで知るように、私たち自身が神の心情に深く共感する信仰生活を行わなければなりません。名前だけのお父様ではなく、現実のお父様として共感しなければならないのです。 そのような立場から、エデンの園でアダムとエバが堕落する姿を見て深く悲しんで神に向かってて、無限の悲しみの心情を持って涙を流す者とならなければなりません。

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さらに、神がカインがアベルを殺したときの無限の悲しみの心情に共感しなければなりません。 その後1600年を経てノア、さらに400年後のアブラハム、その後400年後のモーセ、そしてさらに1600年後のイエスの時代まで、各時代において天の使命を担った多くの先祖たちの悲しみと怨念に満ちて戦い続けてきた歴史を見つめられる神の悲しい心情を実


また、4千年を経て6千年の歴史の間ずっとその摂理に行き続けてきた代表人物たちが抱えていた悲しみの心に共感しなければなりません。遠くて悲しまなければなりません


そのような心の覚悟を持ち、過去の悲しみと悲しみをもたらした怨念に同情し、歴史悲しみと心の悲しみを晴らして差し上げようという溢れ出す心情を持つ者優しく、イエスが求め、天が求める終わりの日の希望として立つことはできるず、花嫁の立場をとることもできないのです。


そこで、今日の終末の信徒の中で真実な信仰生活住民がいるとすると、その人は自分でもわからないほどの深い悲しみの心情に消えない瞬間に何度も諦めるだろうが、そのような瞬間を乗り越えなければなりません。


歴史的な怨念、将来的な怨念、その覚悟の原因を清算しなければ時が終末です。未来とともに涙を流せるようにならないのです。

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そして、自分の幸福を忘れ、人類の葛藤と問題を乗り越えて進むことが避けられない立場に立ったとき、天の喜びはそのような人々に対して目に見えるのです。


私は神が愛であることを信じています。また、多くの教えも神が愛であることを伝えています。たでお願いですか? 天の心情を抱き、悲しみに満ちた歴史を見つめ、悲しみを思い心の心を思いやったことはあるでしょうか?神が愛の心で人類を招かれるその思いには、私たちに喜びを伝えたいという心よりも、私たちを探しているよう求めているのと対話がより多く含まれていることをよく考えてきたでしょうか?このような神の心を理解する必要があります


『お父様! 天を気にすると、言葉にできないほどの悲しみがこみあげます。 お父様を見つめ、そのご意志を思うとき、限りなく悲しむべき人類を見つめるとき、言葉に尽くせないほどの覚悟が感じられます』という心、これがイエスが天に対して抱いた忠誠の心でした。このように、喜びをお父様のもとに帰すよう望む心、イエスが広めようとした福音の内容であったことを、私たちは知っているべきです。


私たちは天の祝福を得るために、これまで一生懸命に頑張りました。 「この道を切り開くためには、ただ楽しいだけで着せられるものではありません。


キリスト教の歴史は、悲しみの歴史であり、歴史の歴史です。キリスト教という宗教は、アメリカの宗教であり、知覚の宗教なのです。これはキリスト教に限定されず、道を目指すどの宗教も、このような形で歩かなければなりません。


また、歴史的な認識とともに人類の認識を抱き、心に溢れる瞬間を体感したことがありますかか?それを知覚していないなら、死んでも知覚しなければならない、死んでからでも。

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偶然、この地上にいる信徒たちは、地上で地獄の危機を乗り越え、地上で地獄の試練を踏み越えていく必要があります。


民族を救う者とは誰で頼むのですか?それは、民族の苦しみを骨の髄まで感じ、民族の対話を深く理解する者です。では、世界を救う者とは誰で頼むのですか? 現在の先進国はアメリカですが、皆さんは彼らに期待を寄せてはなりません。 彼らは色々世界的な役割を果たすことはできても、世界を主管することはできません。世界を主管することはできないのです。


一つの国に正義を優先者がいるとするならば、その者はその国の悲しみと覚悟を共に背負い、洞察し続ける存在であるべきです。 この世界をまとめられるのはどのような人たちでしょうか? それは、世界の懸案を抱きしめて泣き、世界の視野を向いて議論する人々です。


私たち韓民族は哀れな民族です。長い歴史を乗り越えられたもの、他の民族に誇示や民族的な自信を持つことができませんでした。民族が21世紀の新しい文化の時代に、天が望む心を抱き、人類の悲しみと共に奮闘し、人類の意思をともに背負う民族となり、さらに神の世界と思慮を奮って立って民族となるならば、この民族は世界を考え、天の愛を受ける民族になるでしょう。


イエスが万王の王として決定されたのはどのような場所でのことだったでしょうか? それは、豪華で華麗な宮殿の玉座に座り、幸福な立場で人々の前で誇り高く歌う場でイエス様は、対話的な道において、歴史的な森と人類の葛藤、歴史的な議論と人類の認識を問われ、すべての人々の前で天の喜びを広げようとする情熱に彼はそのような心情に満ちていました。 だから、彼はすべての人々を救う救世主となり、信念の歴史の道において、天の主人公として輝く存在になったのです。は天が正義できた覚悟の歴史の中で、誇りとなる存在となり、未来の信念の歴史においても王としての地位を当然なことを知っておくべきです。

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ここに、悲しい歴史霊の道を先にできた多くの人たちも、イエスを救世主として迎えなければなりません。同様の理由であります。


今日、イエスの希望を実現する者として現れ、花嫁となろう者は、自分中心の信念に満足してはなりません。な問題を抱えて、イエス様に別れて『もし喜びがあるなら、それは天のものであり、迷惑と問題があるなら、それは私のものだ』と言う心情を持った者にはならないの「です。このような者であればこそ、天を支配し、地獄さえも支配することができるのです。


だから、今まで私が持ってきた信念、これから「信じて天国に行く」という信念観念を断ち切ってください。「自分が信じて天国に行く」というその考えを捨ててください。王子であるという考えすらずに生きました。 もし自分を天国の王子だと思っていたら、どうやって死ぬことがあるでお願いしますか?そのようなことは考えてないのです。のすべての悲しみと悲しみを背負い、「お父様よ、どうか御心のままに」と切りに受け入れたのです。


では、現代の人々はどのような心を持っているのでしょうか? 自分たちの悲しみに泣き、自分たちの対話に苦しむだけの民族には絶望しかありません。を抱きしめ、共に悲しみ、苦しむ民族がいるなら、その民族には希望があるのです。道がこの民族の前に行かなければいけないのです。これを考えて進んできたのが統一教会なのです。


この統一戦士の心情、統一戦士の精神を抱く者は、「自分が救われるために信じる」という思いを持つべきではありません。を開き、怨霊に満ちた地獄のたちまで救うために信じるのだという心情が必要なのです。イエス様が今日あったからこそ、歴史的なメシアとなったのです。

28

教会に通うクリスチャンの後ろ姿を見つめる時、皆さんも考えてみてください。 あなたの歩みは何のためにあるのでお願いしますか?自分の命の問題を解決するために動いているのでお願いしますか?もし、天の子供にはなれません。民にはなれても、しもべにはなれても子女となる事はできません。


天の子供になりたいのであれば、そしてその思いを持っているのであれば、天の悲しみを失っている人類に向かって、神と人類を悲しみから解放するための解放運動の先駆者となる必要があるそして、天の戦いに負けない勇者として、敵に立ち向かうための精神的な取り組み、理念の歩みをしなければなりません。 それは自分中心の理念ではなく、全宇宙を考えることができる理念で前進しなければなりません


今、天は復帰の摂理の門を開き、終末における聖徒たちに向けて、個人、家庭、民族、国家の代表者を探しています。歴史を見渡しても、天が求めるそのような個人や家庭、国家、そして世界を見つけることはできません。自己中心のままでは不可能なのです。意識をもって生存行動し、天の法則に沿って生存意識をもって歩むことができるようになるべきです


限られた範囲の中で得た意識を生存の価値と見なして、それなりにして生きている人は自分です。 歴史はその人を反省するでしょう。私たちの意識を超えたところに世界の意識があり、そのさらに上には天の意識があります。皆さんは心を広げ、世界の意識を越えて、その意識の中にある困難と困難を乗り越え、喜びの姿で「天よ、どうか私たちを顧みてください」と言えるような復活の姿を持つべきです。


イエスもまたそのような道を歩いたのだ。同様に、今日のこの歴史的な幕を脱ごうとする世界の前に、大宇宙の光を放ち、新しい自己意識を持って前に立つ者こそが、終末の再臨と復活の時代において、天が求める栄光の国民、栄光の子供として立つことができるということを皆さんは理解する価値がある。


その立場に立つ者だけが、歴史的な壁を乗り越え、天の葛藤を解き放ち、この時代において天の喜びを携えて進むことができるのです。

29

今一度、神の立場に立って戻って考えてみると、愛する子供たちを迫害にさらされなければならないと言う、神にとっての辛さがありました。子女が叫び訴えた後も2千年の歴史の中でも多くの聖徒たちが殉教し続け、そのような悲しみを抱き続けた神の目的はどこにあったのでしょうか? それは、私たちの困難のためだったのです。


天がこれまで私たちのために尽力されたのも、天が悲しみの道をずっとこれたのも、私たちとこの世界のためでした。


皆さんが今日地上にいる人々を見つめ、天が歴史の歩みの中で感じられた心情を体験し、天の前で「困難と苦難をすべて乗り越えて進んでまいります。万宇宙よ、私を見て喜んでください。私を見て栄光をお受けください」と言えるようになるためには、皆さん自身が悲しみの王子、天の王子となる必要があります。全人類と生死を共にする信念を持ち、現実において死の峠を越えて、覚悟の峠を越えて、今日のあらゆる困難を打破し、天からの喜びを感じる必要があります。


そのようにして、「お父様、私を見て喜んでください。万民よ、私を見て喜んでください。万宇宙よ、私を見て喜んでください」と言えるようになる事が願いであったと言う事です。


私たちがこのような存在となり、会いたかった神様をお父様として迎え、共に生きたいと願った神様をお父様として共に生活できる時、天の悲しみと歴史の交差点、天の試練と歴史の覚悟が私徹底的に解決されるのだと考えなければなりません。

30

このような存在になってこそ、統一王国の子供として代表者となることを、皆さんは理解すべきです。



<祈祷>
お父様! 長い長い歴史は、今も私たちを巻き込み、私たちの心に影響を与え続けています。この悲しみの中で日々を過ごす私たちは、お父様の深い悲しみを解消し、天に刻まれた嘆きを解消しならないという、計り知れない使命があることを知りました。


そのような使命を担った私たち、天と地の心情を抱き、悲しみを分かち合い、正義を感じ、幾度も命を尊重することがあったとしても、お父様を慰める息子娘で有るべき事をしりました。


イエス様がこの地上に来られた時、多くの教団や信者たちがメシアの到来を待っていましたが、彼らはメシアが自分たちの希望を超える存在として現れて信じていました。来られたメシアは、喜びを実現する存在ではなく、人類のすべての橋を架けた悲しみのメシアであり、歴史のすべての知覚を体現したメシアでした。メシアがそのような姿で現れたと考えた者は、誰一人としていなかったことを私たちは知っています。


歴史は示された通りに行われるということを私たちは知っています。感情、歴史を通して流れ続けてきた悲しみの感情、それら縦の歴史で生まれた悲しみを、私たち一人ひとりが横の歴史として展開し、それを整理して、横的な喜びをお父様に返す責任が終末の聖徒たちにあることを私たちは知っています。

31

お父様! 私たちは世界のために忠誠を尽くしたいと願います。 すべての人類のために天の幸福を目指したいと思っています。必要と考えを全て受け入れられる者だけが、天からの喜びを継承する者として登場できることを知っています。滅びることを理解できるようにして下さい。


お父様! 喜びを求めてさまよい戦う者は、勝利の成果を得られないことを私知っています。誓い出た者こそが、歴史の讃え物を高め、歴史を導いたことを、そしてそのような人こそが滅びゆく民族や滅びゆく世界を導かなければならないことを、理解出来る様にして下さい。


終末の犯罪を見ても、人類を見ても悲しみがあり、天地を見ても恐れに包まれるこの時、私たちは誰を信じて生きますか? お父様を仰ぎ、お父様の悲しみを解くために戦い、命を大切にしない最終審判の時がございます。敢えてない陰に心が包まれている人がいるなら、その陰を打ち砕いてください。ことを知るようお許しください


わからない宇宙の声に悩まされ、嘆きと死の道をさまようあなたの子供たちがいますか? 彼らの命が今危機に瀕していることを自覚できるようお許しください。


このように、生死の危機を覚悟の上で、悲しみと嘆きと覚悟が生まれたのは人間の故です。私達は天を求めてこそ、初めて天に向き合うことができると理解できるようお許し下さい。

32

今日お聞かせいただいた御言葉が、あなたの子供たちの心から忘れ去られることを遠慮せずご容赦ください。ただ悲しみの歴史を乗り越え、喜びの心で勝利の姿を成し、「お父様、どうか悲しまないでください。あなたが待ち望んでいた栄光の子供たちがここに来ましたので、どうか抱きしめてください」と言って堂々とした姿になれるようにお許しください。

お父様、どうか私たちの努力と犠牲のために、この地上に喜びの子供の姿が現れる様にしてください。先に現れる道を切り開き、基礎を築く者となれるようにお許しください。

お父様、心からの願いとともに、すべてを主の御名においてお祈りいたします。アーメン


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御言葉選集6(7)

2024年10月14日 18時43分54秒 | 学習
文鮮明先生御言葉選集 6 - 7.  天国を探し求めようとする悲しい父と息子娘たち (1959年5月17日)
1959年5月17日(日)、全本部教会。
ヨハネによる福音書 14:1-24

1
<祈り(Ⅰ)>

死の波が押し寄せる災害の中にいるたち人間は、この地上に覚悟の日を勝ち取るために、長い年月を乗り越えて苦労し、不当な扱いを受けながらも戦いの歴史を摂理してこられた父の御前に顔を上げることができず

今、エジプトの奴隷生活のような6000年の歴史から私たちを解放してください。栄光の一時と一日を約束してくださったことに感謝いたします。血と涙の道を歩み、進むべき道とその方向性を示された時が一度や二度ではなかったことを、私たちは歴史的によく知っています。

愛深き父なる神様!愛の父なる神様!私たちは、この地をあなたの慈悲深い御手で支えて頂くことが難しいと知っております。不忠実で不完全な私たちですが、あなたの認識を慕い、あなたの愛を恋しく思い、父なる神様の御前にお伺いしました。

悲しみと悲しみが残るこの地に生きる私たちを自覚してください。また、天のために嘆くか悪い状況を、私たちは嘆かざるを得ません。のような、6000年の試練の歴史における嘆きの領域を、父なる神様、取り

私たちは人間を信じて従ってきました。 しかし、その道は苦役の道であり、歩む足取りが悲しみを呼ぶものであることを知っておりますが、堕落という罪を犯した人間であることが、絶望の淵で苦しむ人間は、天の約束を知ったその日から、この死の淵から逃れようと諦めることができましたが、今日に至るまでサタンの支配下から逃げ抜けていないそして、その中で特に私たち自身がその一部であることを認識しています

2

今生きていくために、ずっと生きられる父を呼ばなければいけない時が来ました。だから、賢明な自分を憂い、足りない自分を嘆き、迷惑な自分を打ちながら、今日もその国を建てるためにあえぐという切実な心情を我慢してください、明日、愛する父よ、切に願います

今始まった歩みであり、戦いの盾を取りましたので、その日その日戦いに天の力をお与えください。そして、勝利の一日を予告してください。でなければ、苦難のその道を進んでいることはできず、荒野である荒野の道を開拓することもできません。

お父様! イスラエルの60万人の民がファラオの宮廷を抜け出した時には、喜びの歓声が天に満たされましたが、その後ファラオの戦車が追ってきた時には、嘆き、天を恨んだ先祖たちの足取りをよく知っています。今日、私たちの父の前に立つ時、喜びの心がありますか? その心情に反して、天を恨んで心が大きくなるのではないかと恐れています。その一日を誇りに思い、すべての人々が喜んで天を讃えることのできる終末の日を希望としなければなりません。


どのような困難やどのような悲しみが襲ってこようとも、敵が罪の深淵を掘って待っていようとも、粘り強く戦い、天の精兵に相当な気概を覚悟してください、愛する父よ、切に願いを求めます


進む道には山の峠もあり、石ころだらけの道もあり、荒れ地もあり、敵が私たちを狙う時もあるでしょう。また戦いの道を切り開き、約束のカナンの地を解放するその日まで、心に責任を感じて突進できる天の勇士となるよう許してください、父よ、切に願い求めます


今日、父の前に集まったあなたの息子娘たちを覚えてください。父よ、この日にここに集まったあなたの息子娘たちが、父の前で新しい約束をできるようにしてください。新しい決意と覚悟を決めてください。


天にいる何千万の聖徒たちよ! この一時間聖別してください。私たちはこの時間、父が動ける、父が主導される、父が行われることに足りないような切実な心情だけが満ちて、父の心情とそこにいることができるよう、心より切に願います。


今、すべてを父の前に進みますので、主導してください。 三一体の神が動ける、すべての悪の要素を分けてください。の中に捉えられるこの一時間としてくださいと、心より切に願います。


この日も地方に囲まれ、孤独に御心のために戦い、心配している多くの息子たちが娘ですので、彼らと共にいてください。父よ、彼らに許された賜物を与えてください。命の賜物をこの目立つの聴衆にも許してくださいことを心よりお願いし、願い求めます。


父よ、この日は聖なる日ですので、集まる場所ごとにあなたの愛の烽火(のろし)を慎重にさせてください。栄光の賜物をお与えください、すべての民が蘇ることのできる賜物の炎を下してください。


すべてを通りますので、御心のままにお考えください。主の御名によってお祈りします。







<祈り(Ⅱ)>


限りない悲しみが天に満ちていることを、この地上に住む人類はまだ知らないでいます。限りなく苦しいのが天の歴史であるという事実を、私たちは天を信じていながらも知りませんでした。


お父様、私たちに耐え難い御言葉をお与えになり、今まで人々が探し求めても見つけることのできなかった希望の時を私たちに予告してくださり、お父様、感謝いたします。未熟な私たちが、天と地の前で身も心も低くし、お父様に向かって叫ぶには、恥ずかしさを感じずにはいられません。


お父様が「来なさい」とおっしゃる道を歩み始めた私たち、その道が喜びの道だと思っていましたが、進んでいくうちに、限りなく涙を流しながら歩まなければならない道であることがわかりました。そして、他人には知られない中で、天と地を代わって恨みの心情を抱かざるを得ない、悲しく孤独で心配の多い道であることがわかりました。その道は、生きようとする者には進めない道であり、死の覚悟を持った者だけが進むことのできる道であることを感じずにはいられません。


お父様、ここに集まったあなたの孤独な息子娘たちを憐れんでください。この者たちの心に天的な理念が動いていますか?その理念が自己を中心とした理念ではなく、歴史的な理念であることを悟らせてください。理念によって動かされる心情がありますか?その心情が自分の一生にとどまるものではないことを悟らせてください。


5


与えられた賜物と感じ取った恵みをこの者たちが体感したならば、もはや自分自身を中心として、自分ひとりで天国を築いて生きるのではないことを悟らせてください。この業を始められたのはあなたですから、自分のすべてをお父様のものとして捧げることを知る私たちになれるように許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


お父様が「来なさい」とおっしゃるその道に私たちが踏み出すとき、私たちはすべてをすでに神様の前に捧げました。私たちが持っているすべてのもの、私たちの心情までもお父様のものとして捧げました。


すべてを捧げても喜びを感じられるような姿を、神様は待ち望んでおられるのに、失うことを見て悲しむ私たちをどうかお許しください。すべてを委ねても限りなく喜べる心を持たせてください。このような心を持つ者は、お父様のすべてを受け継ぐ者となり、このようにして天への切なる心情を抱いて進む者は、天と地で勝利することを知っています。


お父様、私たちの生活環境からすべてを奪い去るのは、神様が楽しむためではなく、神様のすべてを私たちに託すための摂理の御心であることを理解しました。そのような複雑な御心をもって、私たちを探し、呼び、招かなければならない父の心情を知りました。まだ自分を中心とした意識や感覚が残っているのであれば、今それをすべてお父様の前に差し出させてください。そして、天地に存在するすべてのものを見て、神様に限りない感謝の心を持てるよう、私たちの心と体にその心情を満たしてくださいますよう、心から願い求めます。


神様が悲しんでおられるのを見て、自分も悲しむことができることを感謝できるようにしてください。神様がご苦労されているのを見て、私たちも共に苦しむことができる自分であることを感謝できるよう、助けてください。


6


天の戦いの道のりを見て、私たちもそのような場所にいることを感謝できる人間となれるようにしてください。そして、このひとりひとりを父の御胸に抱き、立たせてくださいますよう、私のお父様、心から願い求めます。


お父様、この日に私たちは集まりました。どうか憐れんでください。一つからすべてがお父様のものとして結びつく時間となることを切に願います。孤独な足取りをたどってここに来ましたので、この一週間の間に受けたすべての傷をお父様、引き受けてくださり、癒し、慰め、励ましてくださり、あなたの恵みの手を差し伸べてくださるよう、心から願い求めます。


お父様、この日は聖なる日であり、この地と縁を結ぼうとする天の時間であることを知っています。天の無数の聖徒たちと、善を求めて努力しているこの地上の多くの人々をどうかお支えください。さらに、お父様の前にひざまずき集まるすべての場所で、善の業が協力し、そこにあなたの力の業を加えて、死が渦巻くこの地に勝利のしるしを立て、お父様の栄光を讃えることのできる一日としてくださいと、心から願い求めます。


命の源であるお父様、この時間に現れて栄光の賜物をお与えくださり、直接の業で導いてくださるよう、心から願い求め、すべてを主の御名によってお祈りいたします。アーメン。






<祈り(Ⅲ)>
 待ち望んでいた希望の一日を迎えるために摂理を進めてこられたお父様、不信する人々を見捨てることができず、無数の孤独な人々を抱きしめるためにイスラエルという祝福を授け、歴史を導いてこられた中で、約束されていた一人の存在をお送りくださったその日は、父の栄光が天に満ち、全人類の歓喜の心によって天にも地にも喜びが満ちるべき日でした。しかし、4千年の悲しみがイエス様お一人にのしかかったという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


7


馬小屋で生まれ、30余年の生涯を生きたその日々は、あまりにも悲惨で、あまりにも孤独で、頼る場所がありませんでした。この地上で信じられる者がいなかったイエス様、自らの心の奥底をさらけ出し、その切なる心情を伝えられぬまま、恨みの主人公として去っていかれたイエス様であったことを、今日私たちは知っています。


天からの勧告の御言葉が残っていましたが、それを受け入れるべき人々が信じなかったために、その御言葉をすべて伝えることができず、心に抱えたまま去っていかれた2千年前のイエス様の悲しみを知らないすべての人々を、どうかお赦しください。それでもなお、天に従う弟子たちを集めて、勧告し、お願いされた御言葉と祈りを私たちは聞きました。この地上の縁と天の縁が交わるその瞬間に、天の喜びが現れ、さらに地上に新しい国が建設されるべきであったのに、その瞬間に喜びは消え、嘆きと悲しみが始まり、恨みの十字架の道が生まれたという歴史的な痛ましい事実を、私たちは知っています。


私たちの先祖たちは天の前に借りを作り、私たちもまた天の前に宇宙的な借りを作っておりますが、それを清算することを知らず、自分の安逸を求めて苦しむ者たちとなっていることをどうかお許しください、お父様、心から願い求めます。


孤独な者たちがお父様の前に集まりましたので、もし勧告すべき御言葉があるならば、どうかお与えください。これまで多くの御言葉を伝えてまいりました。伝えてみると、父の悲しみが現れていることに気づき、知らせてみると、私たちが父の心配を抱えながらも一致していなかったことを知りました。人間に対する父の悲しみがそのように道々に現れ、世紀を超え、時代ごとに現れてきたことを知りました。


お父様、痛ましい心情を感じ取り、地を憂い、天を憂う心を持つ息子娘たちがこの地上にどれほどいるでしょうか? それが極めて少ないことを知っています。哀れな全人類を救うために、数々の苦労をいとわず、孤独な私たちを励まして時を重ねてこられたお父様、私たちの前に新しい約束を立ててください。この者たちに新しい約束と新しい時代の使命を託そうとする天の御心があるのであれば、お父様、どうかお働きください。


8


この韓民族を哀れんでください。朝鮮半島を憐れんでください。この民族は哀れな民族であり、頼るべき場所がない民族です。誇るべき伝統も、誇るべき何物もなく、天の前に誇れるような民族性も持たない民族です。この民族の命を担うべき者が誰もおりませんので、哀れなこの民族を憐れんでください。この民族は孤独な民族ですので、どうか彼らの生きる道を開いてください。そして彼らの進むべき道を憂い、彼らが立っている位置を顧みて、慈しんでください。


お父様、この地に希望を託せるものが何もない民族ですので、天の心情を通じてこの民族の生きる道を切り開くことができるようにしてください、お父様、心から願い求めます。


天に対して、地に対して、この民族の悲惨さを訴える者が多くなるようにしてください。進むべき道が塞がれたからといって倒れる者が出ないようにし、進むべき道が塞がれたその事実を持って、お父様の前に訴え、嘆き悲しむ人々が多くなるようにしてくださいと、心から願い求めます。


お父様、迫害される統一教会の道を見つけて進んできたあなたの息子娘たちを憐れんでください。この道を進むことを望んではいなかったのですが、この道に入って他の人が知らないことを知り、他の人とは違う責任を負うようになり、もう後戻りできない立場にいることを知りました。お父様、これまで孤独な道を導いてくださったあなたの心情と、御心を成し遂げてこられたあなたの心情を知りましたので、孤独な私たちの後に続く者たちをどうか導いてください。


哀れな場所で天に向かって切なる心情で訴える者がいるなら、その後に続く者も同じ立場にあることを知りましたので、お父様、どうか彼らを憐れみ、支えてください。


9


彼らは人間の仕事によって動いてきたのではなく、人間の事情に絡まって動いてきたのでもありません。天上の愛を通して出発する歩みであり、人間によってその歩みを失わないようにしてください。そしてその過程で絶望することなく進むことができるように、お父様、心から願い求めます。


歴史の道を振り返ってみると、新しい時代と新しい歴史を創り上げてきた人々は、その時代に追いやられた者たちであり、追い込まれ追い込まれた末に残された者たちであることがわかります。お父様、この動きをどうか憐れんでください。


天の御心を抱き、あなたのために忠誠の心を持つ息子娘たちが、どれほどの苦しみが襲ってきても、もしそれがお父様の望む御心であるならば、このことのために何度でも命を捧げることがあっても、結果を残し倒れることができるようにし、最後まで戦い抜くことを許してくださいますよう、お父様、心から願い求めます。


今日は4月10日(旧暦)です。お父様、この民族を祝福してください。お父様、人類に愛の手を差し伸べられたのなら、その手を引っ込めないでください。真理の使徒たちをこの天地に送り、愛の使徒たちを全地に送り込んでください。誠実を立て、あなたをお迎えできる誠実な使徒たちを送り出してください。


探し、待ち望み、願い求め、戦ってこられたお父様の愛を受けて、最後の審判の場で悪魔を恥じ入らせることができる者たちになれるようにしてください。お父様、心から願い求めます。この時間に何を申し上げることができましょうか? お父様、どうかすべてをお任せし、導いてください。


10


伝える者の心と受け取る者の心が二つにならず、一つになるように導いてください。このひとときには、お父様の御心と御心情、そして事情に自然と結びつき、父の願いを叶えるための誓いと覚悟ができるように許してくださることを心からお願い申し上げます。どうかすべてをお任せし、導いてください。主の御名によってお祈りいたします。アーメン。




<御言葉>


皆さんに少しお話ししたい題は、「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」です。「天国を求めて実現しようとする悲しみの父と息子娘たち」という題で、少しお話しさせていただきます。


人類の始祖が楽園を失った悲しみを感じ取ったその日から、今日に至るまで、すべての人には心の悲しみがあり、体の悲しみがあり、生活の悲しみがあります。そして、その悲しみが全世界に、さらには天までも広がっているという事実を、私たちは知っています。


一つの目的を追求すべき私たち人間が、二つの目的に直面する立場に置かれたことで、本来は唯一の主人である神様に向かうべき人間が、神以外に悪魔にも向き合う立場に立たされることになりました。ですから、堕落した私たち人間は、二つの目的の世界に直面する立場にあるということを、日々の生活を通じて感じざるを得ず、それは誰も否定できない現実です。


人間を創造された神の御心から見ると、人間は一つの主人を中心に、一つの目的と一つの理念を持って生きるべき存在でした。しかし、堕落したその日から、人間は二人の主人に向き合い、二つの目的の理念を追い求める存在となってしまったのです。


11


そのために、善と悪の問題は、私たち一人一人の環境に限らず、全世界にまでつながっていることを私たちは知っています。さらに、それは地上だけでなく、天にまで及ぶ因縁となっているという事実も私たちは知っています。


今、私たちは目的の世界に向かって進まざるを得ない運命にあり、何であれ私の良心がある方向性を指し示して私を急き立てていることを、拒むことはできません。したがって、今日の私たち人間は、現実の社会の矛盾に直面したとき、世界の複雑な状況を超えた新しい理念の世界を心の中で追い求めずにはいられません。


では、私にそうした心情を感じさせ、私自身も気づかないうちに、ある感覚を通じて心をその一つの方向に導いている動機はどこから始まったのでしょうか。それは、一つの目的と理念を持つ唯一の主人から始まったのです。そのため、その方は、一つの理念を持ち、一つの目的に向かって進んでいける人間と一つの世界を再創造するために、私たちの生活環境を導いているのだと知る必要があります。


今日の人類は、新しい文化世界を創造しようとしています。それだけでなく、その文化世界を創りながら、その文化を通じて心の世界の理念を目指しています。このことを拒むことのできない立場にいる自分を知るならば、皆さんは安穏とした日々を過ごすことはできないでしょう。


なぜなら、私たちの祖先が楽園を失ったその日から、その悲しみの感情は私たちにまで繋がっているからです。この重大な事実は、歴史的に証明された事実です。私たちの心情を通して、生活の中で感じ取るその事実を、何によっても拒むことはできません。このようなことを深刻に考え、御心を抱く人がいるならば、その人はこの悲しみと苦しみの因縁を解くために、天地に向かって両腕を広げ、訴え、もがく立場を免れることはできないでしょう。


12


したがって、皆さんは、今日の私たちがそのような姿になるために、どのような目的と理念を持ち、どのような中心を目指して生活する開拓者の立場にいるのか、もう一度振り返って考えなければならない時が来たということを知る必要があります。天はこのような時代を作り、このような御心を成し遂げるために、歴史の道を歩みながら、良心を基盤にして善を追求し、善の理念を探し求める摂理を私たちの先祖たちに働きかけてこられたことを理解しなければなりません。


ですから、皆さんの心が善を目指すように何らかの衝撃を感じる瞬間があるとすれば、それは崇高な瞬間です。崇高な瞬間です。それは、歴代の私たちの先祖たちが、皆さんを立てて、人類が願う善の目的の方向へと進むように急き立てる瞬間です。さらに言えば、それは天が皆さんを立ててくださろうとする瞬間であることに違いありません。


そのため、真の理念、真の中心を目指す良心の動きを持つ人がいるならば、その人はそれをどのように整理して自分の心の中心、体の中心、生活の中心、理念の中心、あるいは目的の中心に据えるために苦しんできたのか、反省しなければなりません。


このような観点から、人間が自分自身を批判し、自分を中心に結びついている世界を批判し、さらにはこれらすべてが目に見えない無形の創造主と結びついていることを憂う心情を抱いて苦しんできたとすれば、私たち人間の心に抱かれた恨みの峠は、すでに歴史のある時点で崩れ去っていたはずです。天がこの問題を解決しない限り、天としての責任を全うしたことにはなりません。


そのため、天はこのようなことをある時、ある一人、ある集団、ある国家に予告し、摂理を進め、またそのような歴史の痕跡を残さざるを得ないのです。


13


私たちがその痕跡を探し求めるとき、その恨みの歴史を清算することは、論理的な手段や理論的な形式によっては達成できません。そのため、心の世界を探り、善の理念を追求し、さらに霊的な世界、すなわち超自然的な次元の感情を引き出す方法を見つけ、人間と結びつかざるを得ないために、宗教というものが現れることになったのです。


宗教を通じて私たちが感じるべきことは、一つの目的、一つの理念、一つの中心が歴史の始まりから終末の時代まで変わることがあってはならないということです。一貫した思想で流れていかなければなりません。なぜでしょうか?


皆さんは、善悪の基準、つまり善なる民族、善なる人、善なる事を何を基準にして判断しますか? 始まりと終わりが同じであるものは天であり、善であるから、それを基準にして判断するのです。真の善、真の天であるならば、昔も今もその目的、その理念、その方向が変わることはありません。そのため、宗教が一つの理念を立て、歴史の変遷があっても、その理念は変わることなく着実に進み続けているのです。


人間の悲しみは堕落によって生じました。さらに言えば、天の悲しみも人間の堕落によって生じたのであり、この悲しみを解消するための一日を予告するような何らかの御心がなければならず、それを実践するための方法が必要であり、それを解決できる人がいることは間違いありません。


この役割を担い、この責任を果たすために送られた方が、宗教的に言うと「道」の責任を負った者なのです。


14


世界的な「道」の使命、救世主の使命を持って来ることを、キリスト教ではイエスの降臨と呼ぶのです。


そのような中心的な存在が、天の悲しみと地の悲しみを解消するためにこの地に現れるならば、絶対に栄光に満ちた姿で現れることはできないのです。なぜなら、神の実体が現れるには、歴史の過程を無視することはできず、時代の状況を軽視することもできないからです。


天が悲しみの過程を経てきた歴史があるため、イエスが天の理念を代行できる理念の主体であり、目的の主体であり、命の主体としてこの地に現れるためには、そのような過程を経る必要があったのです。


実存するということは、因縁の過程を経なければならないということです。そうして初めて実存の基盤を持つことができるのです。だからこそ、イエスも歴史的に結びついたその悲しい心情を感じ取らなければならなかったのです。人間を代表してその心情を感じると同時に、天を代表して神の悲しみの心情さえも感じ取らなければならなかったのです。


倫理的な視点と宗教的な視点は異なります。人間が見ると、自分を否定し、全体のために民衆の苦しみを背負おうとする人を「善人」として称賛しますが、宗教的に見るとそれだけでは不十分です。人間の悲しみを代わると同時に、天の悲しみをも代わる立場に立たなければならないのです。


15


これは、堕落によってもつれた恨みの問題を抱えた人間が必ず持たなければならない天の要求であり、全人類の要求であることを理解しなければなりません。


このような恨みを解消し、堕落によってもつれた問題を解決するために来られたのがイエスであるとすれば、彼は4千年の人類の歴史の中で誰一人として感じ取ることのできなかった神の悲しみの心情を感じ取る道を歩まなければなりませんでした。したがって、イエスは4千年の歴史の中で現れたどの主義よりも、神の心の奥深くに染み込んでいる悲しみの感情を感じ取らなければならなかったのです。もし地上の人間の中で天の悲しみの心情を感じ取った者がいたとすれば、その人は涙なくして地を見つめることができないでしょう。天と地にまで悲しみが染み渡り、嘆き悲しみ、泣き叫ぶ境地に至ることでしょう。イエスはこのような心情を感じておられました。


それは誰のためだったのでしょうか? まずは天のためであり、天が人間のためにイエスをこの地に送ったのですから、その次は人間のためだったと言えます。だからこそ、天の悲しみを抱いて人間を慰め、共に涙を流さなければならなかったイエス、人間の悲しい状況を抱えて天に向かって訴え、泣かなければならなかったイエスであったのです。


もし天が存在し、このような世界の状況を見つめておられることを知ったならば、私たちはさらに大きな恐怖を感じるでしょう。心の世界において、自分でもわからない恐怖の刺激は、時が経てば経つほど、そして時代が切迫してくるほど、ますます強くなるでしょう。


ですから、その世界、その方向をそのまま受け入れて進んではならないのです。その道を進めば、命の危険を感じ、生死の危機に直面することは間違いありません。その道は本来の心を持った人間が進むべき道ではないと再認識し、引き返せる環境を探してみるゆとりを持たなければならないのです。皆さんはそのような心を持つべきです。これまで以上に、地上においても天の前においても忠誠を尽くし、苦難を受けた以上の苦難を耐え、あらゆる情熱を注いできた以上の情熱を注がなければなりません。


16


どのような善の主体、どのような善の目的、理念の世界が心に深く刻まれていて、皆さんがそれを感じずにはいられず、もがかずにはいられないような状態でなければなりません。そのような状態になれば、皆さんは何らかの目的の世界を目指して進む動機を持っていることは間違いないでしょう。


これまで自分が持っている合理的な論理を通じて築かれた主観や認識、あるいは自分なりに築いた観念に基づいて、人生を任せて生きていることに安堵を感じている人がいるとしたら、その学んだ知識が自らを縛る結果をもたらすことになるのは間違いありません。


皆さんの心の奥底を掘り下げて考えるとき、このような感情の流れを否定できない一つの真理であり、実在であることを知っているならば、その姿は宇宙的なものであり、宇宙的な証拠であり、歴史的な証拠であり、理念の証拠であり、一つの主体に対する対象的な存在であることは確実な事実です。


もし天が存在するならば、私たちは主体である天が対象である私たちの個々を100%信頼してくれるその一日を探さなければなりません。その目的に対して100%の信念を持って、その一つの場所を目指さなければならないのです。また、100%の信念を持って突き進む方向性を備えなければなりません。これが、現代の人類が解決しなければならない最も重大な問題です。


このような悲しみの環境を乗り越えなければならない人間であるがゆえに、神はこれを解決するための何らかの条件を立ててこられたことは間違いありません。それでは、神は歴史の中でどのように摂理を進めてこられたのでしょうか。人類の祖先が堕落したのは、神を信じることができなかったからだという事実を、皆さんはよく知っています。信じることができなかったからこそ堕落したのです。さらに言えば、神を愛することができなかったからです。そして、神を迎えることができなかったために堕落したのです。これが、キリスト教で言われている信仰の三大要素、すなわち「信仰」「希望」「愛」を象徴しているのです。


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私たちの最終的な希望は何でしょうか?それは神をお迎えすることです。人間が必ず取り戻さなければならないのは、天との縁を回復することです。恨みを晴らすための歴史的な条件、摂理的な条件、未来的な条件があるとすれば、それらの条件はどのようにして私たちにやって来るのでしょうか?過去の私たちの先祖たちが信じることができず、愛することができず、お迎えすることができなかったために、信仰の運動や愛の運動が提唱されてきたという事実を私たちは知っています。このようなことを通して、私たちに近づいてきているのです。


イエス様が来られる前までは、信仰の基盤を築くために苦しみ、イエス様がこの地上に来られてからは、人類を愛するために戦われましたが、その御心をすべて成し遂げることなく、新郎新婦の理念だけを残して去って行かれました。ですから、この人類を抱きしめ、愛することができる愛の主人公が来なければならないのです。


では、その主人公を迎えたその日からはどうすべきでしょうか?日常生活の中でその方をお迎えしながら生きるのです。それが地上天国です。そのように無限にお迎えしながら生きる世界、そのような天国の世界で生きることこそが、信仰者たちの希望であり、理想の基準です。歴史の摂理の道筋もその方向に向かって進んでいます。


そのため、天が悲しみに沈む人間を探し出すためには、逆説的な要素と逆理的な条件を通じて、順理的で法に適った条件を築かなければならないのです。ここに天の困難があります。人間の悲しみも大きいですが、天の深い悲しみはそれ以上に大きいのです。しかし、人間はそのような天の悲しみを知りません。無知な人間に対して法を定め、順理的な過程を経て近づいてこなければならない天の悲しみを知る人はいません。


それゆえ、イエス以降の歴史は、信義の歴史です。人類の歴史は、信仰の一つの基準を形成し、その基準を高め、善の成果を積み上げてきたことを私たちは知っています。イエス様は愛の中心としてこの地に来られましたが、来られた目的を完全に果たすことなく去られたため、これからは信義の時代から侍義の時代へと移行しなければならないのです。


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そのために、天は悲しい環境に置かれている私という一人の存在を救うために、再び訪れてくださるのです。


歴史的に見ると、天が人間を探し求めてこられたのは、信仰という条件を通じてだったということです。天は人間にこの信仰の条件を立てさせる一方で、人間に何を求めたのでしょうか?それは実践を求めたのです。天と人が結ばれ、悲しみの感情を取り除くための一つの足場を築くためには、信仰を中心に実践的な行動が必要でした。そうしてこそ、歴史的な縁を結ぶことができるのです。


なぜなら、私という存在は、私個人のために生きるのではなく、私を否定して天の進む方向に従わなければならない運命にあるからです。天は私たち個人を超えて、世界と宇宙のための方向性を持ち、その方向に進んでいるので、善の方向性は私を中心にしていないのです。善の基準は私を中心にしていません。それは国家が対象であり、天が対象となっているのです。したがって、天は信仰と実践を強調しながら、人類に対して摂理を進めてきました。


今日に至るまで、信仰と実践を強調してきた歴史は6千年に及びます。この6千年の歴史を振り返ると、言葉では言い表せないほどの悲しみの歴史でした。しかし、今日の皆さんが人類の悲しみ以上に、人類を抱えて進んでいる天の悲しみの方がさらに大きいという事実を知らなければ、天との縁を結ぶことはできません。これまでそれを知る者は誰もいませんでした。


私たちは、人間が天を追い出し、預言者や先祖を殺してきた歴史的な先例を持っているということを理解しなければなりません。


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天は、人間が無限に信じ、実践しながら自分を見つけてくれることを望んでおられましたが、人間には神に向き合う心がなく、信仰をもって実践し、行動するための足場も整っていなかったのです。


また、信仰の基盤があるとしても、人間が天の悲しみを理解し、それに共感する心をもって実践しなければ、天の信仰と人間の信仰が交わり、人間のすべての悲しみを解消することはできません。しかし、私たち人間はそのような境地に立つことができなかったのです。


今日、皆さんが新しい理念に向かい、新しい御心を目指して進んでいく中で、自らの信仰に自信を持っていますか?おそらく自信はないでしょう。その自信と共に歴史的な縁を断ち切るだけの命の力を持っていないのであれば、歴史的な縁のある環境を開拓するための実践の道が残っているのです。たとえ信じることを実践できる資格があったとしても、天の悲しみを感じ取り、神の信仰に囚われ、神の実践に囚われようとする感情が先立たないのであれば、皆さんは神が見出し、実現しようとしている天国とは何の関係もないのです。何の関係もないのです。


人間同士の信頼関係も、悲しみの面と喜びの面が相対的な関係を結んでこそ、それが長く維持され、その信頼を基盤に約束された事柄を長く実行することができます。天との信仰の道や実践の道においても、それは変わりません。天の喜びの面と悲しみの面を感じながら、信じて実行できることが必要です。したがって、喜びの自分になるためには、まず悲しみの自分を見つけなければなりません。


そのため、信仰の主人公として来られたイエスは、全ての人々を代表して信仰の中心となる心情を持ち、真の信仰者の姿を備えて天の前に立とうとしました。そして、天はイエスが全ての人々を代表して神と信仰の縁を結び、そのイエスが人々とも縁を結ぶことを望んでおられましたが、その願いがすべて叶うことはありませんでした。つまり、イエスと天は縁を結びましたが、イエスと人間の間には、天が望まれていた縁を結ぶことができないまま、今に至っているのです。これまでの信仰者たちは信仰を立てて実践してきたと言っていますが、信仰と実践が自分の中で完結したと言える日を迎えられていないのです。


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天国とは、真の信仰は「こういうものだ」と解釈でき、真の実践は「こういうものだ」と解釈できる場所です。したがって、今日の人間たちがそのような真の信仰と実践を成し遂げる道で、天が受ける苦難や悲しみの感情を感じ取り、その感情の限界を分析し共感できないならば、その人はまだ天国の理念の世界では両手を挙げて歓迎される立場にはないことを理解しなければなりません。


そのため、イエスが歩んだ足跡は非常に貴重なものでした。イエスは、自分の一言が成り立てば天が成り立ち、その言葉を実行すれば天の御心が実行されることを知っていました。この基準に基づいて生きられたイエスには、人間を心配する心が大きく、天を心配する心が大きく、天地の悲しみを感じ取る感情が大きかったのです。


聖書の中には、イエスが喜びに満ちて踊りながら語ったという箇所はありません。なぜでしょうか?それは、神が今まで喜びの園で子である人間に語ることができなかったからです。イエスは心に喜びがあったとしても、天地を超えられるような喜びの感情で自由に話すことができなかったのです。


イエスの言葉は、喜びの感情を持って紹介されるべきものでしたが、実際に語られたその言葉は、悲しみの感情を通して語られたものであることを知っておかなければなりません。したがって、皆さんはそのような感情に触れ、言葉の尊厳性を理解できるようにならなければなりません。


もしイエスと私が歴史を超えて関係を結べず、現実の生活の理念の中で縁を結ぶことができない言葉であれば、それは天の言葉ではありません。


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皆さん!もし皆さんが真理の道を求め、信仰の歩みを蘇らせようとする切実な心があるならば、イエス様が悲しみの感情で語られた信仰の観念の最終的な限界線がどこにあるのかを知り、その限界を越えなければなりません。イエス様は神の悲しみを解消し、人類の悲しみを解消しなければならない中間的な責任者であったため、その心は計り知れないほどの悲しみで満ちていました。イエス様は人類の悲しみを百なら百、千なら千と感じ取り、さらに神の無数の悲しみをも感じておられました。ですから、すべてがイエス様の悲しみの感情を通して現れた言葉に対する人間の信仰の基準が確立されて初めて、神と人間の間に途絶えていた縁が再び結ばれるのです。そのような基準を立てることこそが、信仰者の本質だと言えます。


したがって、キリスト教は笑いの宗教ではありませんでした。涙の宗教でした。だからこそ、私たちがイエス様について何か一つを知れば胸が詰まり、二つを知れば思わず号泣し、さらに知れば知るほど自分自身が犠牲となるべき立場にあることを感じずにはいられなくなるのです。そのような感情からの信仰、そのような感情からの実践を行えば、死んだ人間をも生かすことができるのです。


どれだけ天の前に素晴らしい功績を立てたとしても、その功績は自分によって成されたものではありません。それは天によって成されたのです。


では、摂理の始まりはどこから始まったのでしょうか?それは、人間の心が天の悲しみと通じたその瞬間から、新しい摂理の歴史が開かれ、築かれてきたことを私たちは知るべきです。


神は人間に対して信仰と実践の道を歩むように促し、6千年という長い歴史の道を歩んでこられました。神は全人類に対して、そのような存在になることを心から願っておられました。神ご自身を全人類の前に100%示すことのできる実体を望んでおられたのです。


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天は、限りなく信じて行動しても、その事実を忘れてしまえるような存在を探しておられます。天の基準とはそのようなものです。「信じなさい」という言葉が必要なく、「行動しなさい」という言葉が必要ない存在を探しているのです。イエス様を通して与えられた言葉を立てることができ、実践の模範を示し、天の感動を起こせる存在を求めてこられました。しかし、そうして天が人間を探し求める限界を超えて実践した人は一人もいませんでした。


今日、キリスト教には多くの信者がいますが、そのような心情の限界を超えて実践の道を誇れる天の子はどこにいるでしょうか?天の子はどこにいるのでしょうか?問題はここにあります。今日の皆さんは、信仰の模範を夢の中でも望み、それを立てることができなければなりません。そして、どんな事実に対しても、時代性や歴史性を超えて、永遠から永遠まで自由自在に自分のものと感じ、楽しむことができ、自分のものとして応じることができなければなりません。神が人間に対して信仰の基盤となる道を確立されたという内容が必要なのです。


世の中で信義の法則を忘れることができる一つの存在、実践の価値を忘れ、実行の価値以上に大切にできる境地で天の御心に染まるとき、天はようやく「我が子よ」と呼ぶことができるのです。だからこそ、真の息子娘を見つけられないことが天の悲しみであり、この地上の人類の悲しみでもあります。この人類を息子娘として迎えられないことが天の悲しみなのです。


今日、絶対者を「神」と呼ぶ言葉は持っていても、神を「こうだ」と紹介するときに真に感情が通じるものがありません。皆さんも感情を抜きにした言葉は存在し得ないことを知っています。では、言葉が通じ、感情で触れ合える神はどこにいるのでしょうか? 皆さんが信仰の道を進む中で、切実な心情を持ってこの問題に向き合い、信仰という言葉や実践という言葉を越えて、お父様に囚われ、自分でも知らないうちに自分の細胞や心が連動してお父様を呼ぶことができなければなりません。天は必ず、そのような叫びが生理的な状態で持続できる一つの存在を探しておられるのです。


今日の人類が泣かなければならないことがあるとすれば、それは人類全体が責任を果たせなかったことに対して悲しみ、涙を流すことです。6千年の間、天を悲しませてきた反逆者であり裏切り者である私たちの先祖たちに対して、悲しみを抱かなければなりません。さらに進んで、今日の自分自身を振り返り、悲しまなければなりません。


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今日の信仰的な観点から、私たち自身がどのような限界の中でさまよっているのかを考えもしないまま動いているならば、そのような私たちに対して天は「良い」と言うでしょうか、それとも「悲しい」と言うでしょうか?その心情は、4千年を経て6千年の歴史にわたる悲しみで満ちていることでしょう。そして、皆さんは天が皆さんを見て嘆く立場にあることを認めなければなりません。


人間が堕落したことにより、信仰を失い、愛を失い、神を迎える生活を失ったその心情に流れているものは何だったのでしょうか?それは悲しい感情でした。何とも言えない悲しい感情でした。ですから、皆さんも信仰生活において、自分でも気づかないうちに悲しみの感情が芽生え、意識的な基準を設けていなくても、生活の中や周囲の環境で悲しみが訪れる時間があるならば、それは天が訪れる時間であると知ってください。そのような時に、その悲しみの実体を抱きしめ、涙で縁を結ぶ者がいるならば、その人は蘇ることができる人です。


本来、そのような縁を結ぶべき人間ですが、堕落した人間は天に対して立体的に向き合うことができないため、平面的な主人公としてこの地にイエス様を送られました。堕落した人間には、実体の主であるイエス様が必要だったのです。それでイエス様はこの地上に来られたのです。


4千年の悲しい歴史の中で追いやられ、追い詰められてきたイスラエル民族が、天の悲しみの感情を抱えたイエス様をしっかりと抱きしめ、共に涙を流すことができていたなら、その民族は今日、世界の前で名を知られる民族となっていたでしょう。そうであれば、民族を失い、主権を失い、国土を失い、さまよい続ける民族にはならなかったでしょう。そのような民族にはならなかったでしょう。そうではありませんか?


統一教会は本来、険しい道を進むためのものではありませんでした。私が皆さんが統一教会に入ることを望むとき、歓迎する気持ちよりも心配する気持ちの方が先に立ちます。そのような心で見つめるようになるのです。歓迎するよりも、ためらいの心を持って見つめるようになるのです。


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このような天の思いと天の事情、つまり私たち人間に対して探し求めておられる天の切実な心情を感じる人ほど、自分を立てることができず、自分を否定せざるを得なくなるでしょう。


もし自分の意識や自分の主観で批判できないような境地に、自分でも知らず知らずのうちに引き寄せられるような存在であるなら、そのような境地で悲しみを感じながらも、主体的な立場で天を安心させ、慰めることができる部分を引き受けて繋げる場所でしか、この道を進むことはできないのです。そのようにして初めて、この道を進むことができるのです。


楽な道を進みたいと思う人は、この道に来ないでください。私が歩んでみたところ、その歩みは友がいない孤独な歩みであり、同志がいない歩みであり、事情を分かち合うことができない歩みであり、頼ることができない歩みであり、信頼できるものがない歩みであるとわかりました。歩んでみて、そんな困難を抱えていたイエス様の心情を少しばかり理解できるようになりました。


今日、私がイエス様を紹介するとすれば、まず悲しみの側面を持つイエス様を紹介したいと思います。食事の時間も忘れ、眠る時間も忘れ、悲しみの胸を抱えてあちらこちらの村を追われながら彷徨っていたイエス様。その時代に誰がその心情を理解し、友となった人がいたでしょうか?天は哀れな天でした。天を代わろうとした預言者たちも哀れな犠牲となり、イエス様までもが亡くなったことで、御心を抱いておられた天は、哀れな天でありました。


その天とは誰なのでしょうか?よくよく考えると、それは父でした。神と私たち人間の関係を知ると、それは父と子の関係だったのです。私たち人類は、父の哀しみを知らない存在になってしまいました。しかし、神がご自身で知らない人間にその哀しみの心情を伝える責任はありません。それは人間にあるのです。だからこそ、この使命を果たすために預言者が来たのであり、イエス様が来られたのです。


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天は今までずっと待ち望み、求めてこられました。イエスが進んだ悲しみの信仰の道、イエスが戦った悲しみの信仰の戦い、その戦いを、今日、子としての名分を持とうとする者は代わって戦い、勝利しなければならないのです。


人類はまだ地上で喜びの日を迎えたことがなく、栄光の日を迎えたこともありません。そのような事情に向き合い、悲しみの感情に触れて天を呼ぶとき、人は知らず知らずのうちに天の存在を感じることができるでしょう。


私が知る限り、イエス様は誰にも知られずに多くの涙を流された方です。この事実を皆さんは知るべきです。聖書にはいくつかの場面しか描かれていませんが、イエス様は人知れずたくさんの涙を流された方です。山や川を見て責任を感じ、広がる民族を見て責任を感じ、無限の天に対しても責任を感じておられました。責任を負わされながら、それを実行できない分野があるのを見て、さらに深い悲しみの心情を抱かれました。また、天を慰めるべき立場で慰めることができなかった悲しみ、人類を救わなければならない救世主の責任を全うできなかったことから来る悲しみなど、彼は真に「悲しみの王子」でした。


私たちが信じているイエス様は、どんな万王の王子、栄光の王子、勝利の王子というよりも、悲しみの王子です。御心のための悲しみの王子であることを、私たちは感じ取るべきです。


こう言うと、キリスト教の異端者だと烙印を押されるかもしれませんが、よくよく考えるとそうなのです。「イエス様は、全人類の前に、歴史の前に、初めて現れた天の悲しみの心情に通じる王子だったのだ!」と感動に胸が打たれる瞬間を持たなければ、皆さんはその方と縁を結ぶことはできないのです。そしてそれだけではありません。イエス様は苦しみの王子でもありました。


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天を裏切り、天に対して呪うことの先頭に立った者たちは誰だったでしょうか?それは、信じて従うべきとされたユダヤ教徒であり、イスラエルの民でした。天がイエスを捕らえて殺させるために、4千年もの間、イスラエル民族を準備されたはずがありません。


これを見れば、イエス様は完全に勝利して去られた方ではありません。完全な勝利を収めることはできませんでした。皆さんもそう思いませんか?


イエス様が十字架にかけられて亡くなられたことが完全な勝利であったならば、その苦難の日はこの上なく喜ばしい日であったはずです。十字架で亡くなられた瞬間が最終的な勝利の瞬間であり、全ての人々と全ての万物を動員して喜べる瞬間であったはずですが、実際にはそうではなかったことがわかります。だからこそ、マグダラのマリアが歓喜の心で迎えようとしたとき、イエス様は「来るな」と制されました。イエス様は、愛する弟子たちと共に喜びに満たされ、天の前に栄光を捧げることができませんでした。それができなかったのです。ですから、イエス様は悲しみを抱えたまま亡くなられ、その死は嘆きに満ちていました。そして、その悲しみを抱いて成し遂げられた復活であったことを、私たちは知るべきです。


私たちは、天の悲しみの心情を感じ取りながら、自分の居場所もわからず、自分の生活の手段も忘れて、家々の門前で冷たい視線を受け、この村からあの村へと彷徨い、追われながらさまようそのやつれたイエス様の同志となるべきなのです。


イエス様は民族の前に追いやられ、宗教団体の前に追いやられ、親戚の前に追いやられ、愛する弟子たちにさえ追いやられました。このように、悲しみの中の悲しみを感じたイエス様でしたが、天の心情を抱き、世界の人類に自分のすべてを捧げようという心を持ち、また人類を信じようとする心を持っておられました。


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イエス様は、悲しい感情で通じ合える人類との縁が過去も現在も未来も続けられなかったため、自分の心の中に抱いていた切なる願い、切なる思い、切なる事情を人類の前にすべて伝えきることができませんでした。このことを皆さんは知るべきです。


今日、終末にいる信者たちは、御言葉を持っているだけで、自分が天の王子の前に立つ約束の花嫁だと名乗り出てはいけません。それはそうなっていないのです。実際にはそうなっていないのです。


ですから、皆さんは今、「お父様! 私たちは御言葉を恐れ、私たちの行いが足りないのです」という畏れ多い気持ちに満たされ、お父様を呼ぶ時には涙が先に出てしまい、お父様を想う時には胸が詰まり、切なる心情がこみ上げてこなければなりません。たとえ自分が何万回犠牲になろうとも、歴史を導くために苦労してこられた父の前に自分を立てることで何かを期待することはできないと知るべきです。その心が天に向かい続けても足りなく、向かい続けても畏れ多く、向かい続けても申し訳ない気持ちに満たされ、悲しみの涙を流す者であってこそ、イエス様の弟子となり、イエス様の花嫁になることができるのです。


私たちがその境地に入って初めて、イエス様が「狐には穴があり、空の鳥には巣があるが、人の子には枕するところがない」(マタイ8:20)または「カペナウムよ、お前が天まで上げられると思うか? 地獄にまで落とされるのだ」(マタイ11:23)と語られた言葉を理解できるのです。


そのような心情で御言葉に触れるとき、その御言葉はイエス様の言葉としてではなく、自分自身の言葉として骨身に染み渡るようでなければなりません。そして皆さんは新たな理念、新たな覚悟、新たな決意を持ち、新たな目的の時代を目指さなければならず、そのような衝撃を伴った姿で周囲の環境を開拓できる信義の子供となるべきです。


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そうして初めて、本質の世界を通してイエス様の前に花嫁として立つことができる一つの対象となり、信仰者と呼べる存在になるのだということを、皆さんははっきりと理解する必要があります。


私たちを探し出してくださったイエス様は、信仰の重要性を強調する一方で、神は愛であると語られました。愛の神、慈悲の神、正義の神など、神の様々な側面をお話しされましたが、神のすべての側面を代表する結論として、神は愛であるという定義を示し、私たちを導いてくださいました。つまり、真の愛を探し求めている神であることを教えてくださったのです。


「何よりも私をもっと愛しなさい」という言葉はどういう意味でしょうか? それは、私があなたを信じ、あなたを愛するという意味です。また、天も私たちに対してそのように接しているのです。天は私たちを愛するがゆえに、時間を惜しみませんでした。


今日、教会に責任者がいるとすれば、迷っている羊たちを見て、自分の骨身に染みて彼らの命を守り、涙を流して号泣できる心がなければ、天の法に反する牧師になるでしょう。天の法に引っかかるのです。そのような心を持たない牧師がいるならば、その人は死んだ牧師です。


神がなさることは、言葉よりもまず心情が先に立つのが特徴です。心情に染みて自分でも知らずに溢れ出る言葉の前では、悪魔は屈服するのです。悪はそのようなところから屈服していくのです。そうでなければ、どんなに良い言葉を語っても、悪は屈服しません。心に染みた心情が現れ、人間の命が生死の境に立っていることを憤り、それを自分の苦しみとして感じ、自分の状況を顧みずに身を投げ出して、彼らを救いたいという切実な心情が先に立つとき、そこから救いが実現するのです。


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イエス様は十字架を背負って亡くなられるとき、「愛しなさい」という言葉を残して去られました。十字架の上でも、天を離れて敵のもとへ向かう人々を恨むことも、呪うこともしませんでした。


自分自身の痛みよりも、彼らへの哀れみの心が先に立っていたからこそ、敵のもとへ向かう彼らを阻むことができ、手を挙げて敵のために祈ることができたのです。そのような祈りの前でのみ、悪魔は屈服するのです。


したがって、天のために生きようとし、天の前に進もうとする人であれば、自分が食べているものが他人よりも良いものであるときには、罪の意識を感じなければなりません。着ているもの、住んでいるもの、見ているものすべてについて罪の意識を持って歩んでいる人がいるならば、その人は飢えることもなく、追われることもなく、追い詰められることもありません。もし悪魔の世界では追い詰められることがあったとしても、天の心情を求めている者たちの前では、追い詰められることはないのです。


だからこそ、天は私たち人間に対して「私を愛しなさい」と言われました。その愛は、今日の皆さんが感じるような感情の愛や、限界のある愛ではありません。6千年の悲しみを解消できる愛でなければならないのです。それはエデンの園でアダムを追放しなければならなかったその哀れな心情、さらに地獄に行く命までも哀れに思って号泣できる心情を持った愛だということを、皆さんは知るべきです。


神の愛は、本来なら罰を受けるべき罪人であっても、悪魔と天の前に置かれた条件の法則があるため、その法則の条件を実行させるために彼を叩いた後、悲しみ、捨てた後、また引き寄せてこられるのです。


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イスラエルの歴史を見ると、反逆したイスラエルの民は、神の前で誰よりも裏切り者でした。しかし、天は彼らを捨てては拾い、再び捨てては拾ってこられました。個人を取り上げては捨て、また取り上げ、その中で生まれた家庭を取り上げては捨て、さらに一つの家庭を立てて天の前に何百、何千、何万の家庭を取り上げては捨て、取り上げては捨てながら、イスラエルの民を立て、今日の第二のイスラエルとされる世界のキリスト教を展開してこられたのです。つまり、第二のイスラエルといえる世界のキリスト教を築いてこられたのです。


ここにいるすべての信者は、悪魔に対してさえも執着心を持つ神の心情と、悪魔さえも許す法を思い、摂理を進めて戦ってこられた神の心情を理解しなければなりません。そのような神であることを私たちは知るべきです。


今、そのような心情を持つ神であることを知り、今日、皆さんは天を裏切った罪と、自分が至らず引きずってきた過去の生活を振り返り、愛する心だけでなく、無条件で仕えたい心、無条件で尽くしたい心が湧き上がらなければなりません。そのような瞬間から、皆さんは天が愛する者になります。親を忘れ、親を覚えることすらできないほど心を動かされるその一つの境地こそ、天の立場です。


堕落した人類の親でさえ、子の過ちを忘れようとするのに、ましてや天の心情を代行しなければならない私たちは、なおさらそうすべきではないでしょうか?


今、皆さんがそのような心情に触れ、そのような父であることを感じ取って、そのお父様を無限に尊敬し、無限に仕えなければなりません。そうして、自分自身をすべて捧げ、誰かが自分のすべてを奪い去っても「私は感謝します」と言える心情に満たされるべきです。まさにそのような瞬間が、神の愛の世界と結びつく出発点であることを、皆さんはしっかりと理解しなければなりません。


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そのため、イエス様は愛を強調し、愛の主体としての使命を全うしようとされました。ですから、彼のすべての生活は奉仕の生活、与えるための生活でした。与えることができず、もがいていたイエス様でした。彼は自分の命を与えようとし、自分の言葉を与えようとし、自分の栄光を与えようとし、自分の座さえも与えようとしていました。しかし、自分のすべてを与えても受け取ってもらえなかったため、ついには自分の体、自分の血と肉さえも人類のために捧げて去られました。


これが、愛を掲げて実践されたイエス様の生活でした。私たちもそのような愛を追求して進む者であるならば、長く信仰を持ってきた人を見れば自然と頭が下がり、天のために苦労した人を見れば自然と仕えたい気持ちになるべきです。皆さんの信仰生活にこのような心情がなければ、天の愛の縁は切れてしまうでしょう。


人間がこれまで持っていた愛は永遠の愛ではないため、人々は「愛」という言葉を掲げ、その永遠の愛を見つけるために死を覚悟して苦しみ続けています。人間的な愛が天的な愛の理念に触れて、愛の感触を感じる瞬間は、大宇宙の所有権を決定できる価値の甘美を感じるのです。天の愛に触れるその瞬間、すべてを失っても未練はありません。そのような世界は幻想ではありません。何らかの作り話の空想の世界ではなく、実際に存在する現実の世界です。


そのような感情が、今日の人類の心情の中、大宇宙の中にあります。私たちが理解できない天の心情の世界が、人類に向かって回っている感情があるのです。これを否定してはいけません。イエス様は、愛の真髄を紹介するために来られました。これを紹介し、神の愛を立てるためには、人類を代わって何千年もの間苦労されてきた天を仕え、敬う心に満たされなければならなかったのです。


これまでの信仰の世界もそうでした。第一に信仰の世界であり、第二に愛の世界でした。愛の世界は、新郎と新婦の世界を意味します。これからの時代はどのような時代かというと、「仕える時代」です。しかし、信仰の過程を経て愛の過程を経なければ、「仕える時代」に入ることはできません。これを今日のキリスト教徒ははっきりと理解すべきです。


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これまで「信仰だけで救いを得られる」と主張する人は多くいましたが、「愛で救いを得る」と主張する人はいませんでした。使徒パウロは「信仰と希望と愛、この三つはいつもある。しかし、その中で最も重要なのは愛である」と言いました。信仰だけでは行くべき場所がありません。ですから、今日の統一の戦士たちは、信仰の論理を掲げて「信仰で救いを得る」と主張するのではなく、「愛で救いを得る」という標語を掲げて進むべきなのです。


愛とは、自分個人を愛するのではなく、民族を越えて世界と天を愛する心情です。自分に熱意があり、力があり、生きている限り、心から尽くし、叫びたいという気持ちであり、世界を越えて天と縁を結びたいという思いです。


そのような愛を実践するために、今日も困難があり、明日も困難がやって来ても、与えてまた与え、仕えてまた仕えることを続けたのが、イエス様の30年以上の生涯でした。イエス様はパリサイ人たちに「白く塗った墓のような者たちよ」と叱責し、呪われたことがありますが、それは限りなく尽くしたい、限りなく支えたいと思っていたのに、彼らがその心を理解しなかったために、そうおっしゃったのです。


今日、私たちは「ために生きる」人を見つけることができていません。本当に「ために生きる」人を見つけることができていません。この民族は「ために生きる」民族になれていません。「ために生きる」という理念を持っていないのです。過去のこの民族のために尽くす理念を持てず、現在のこの民族のために尽くす理念を持てず、未来のこの民族のために尽くす理念も持っていないため、尽くそうとする天の摂理の御心とは矛盾しているということを私たちは知るべきです。


皆さん自身も同じです。自発的に、過去と現在と未来のために尽くせる心が現れなければなりません。「自分が成功して名を上げよう」といった、自分を中心にするのは堕落の道です。堕落の道はそのようなものです。どのような権力者の立場に立ったとしても、その人は高められるべき者ではなく、3千万人のために尽くさなければならない者です。


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この民族全員が、一口のご飯を食べるときにも3千万人の血と肉を食べる心情であり、1着の服を着るときにもそのような心情を感じることができれば、この民族は滅びません。絶対に滅びません。今日、キリスト教が強調すべきことはそれです。そのような個人、そのような牧師、そのようなキリスト教が現れてこそ、民族が生きるのです。


私たちは今、このような悲しみと困難の嘆きに満ちた現実を見て、目を覚まさなければなりません。


天が掲げた愛の標語を実践するための重要な要素とは何だったのでしょうか? 肉が裂かれ血が流れても、相手のために幸せを祈りたいという気持ちが宇宙全体に満ち溢れ、神さえも引き寄せることができる心を持った存在が現れれば、その人は世界を動かす主人公になるでしょう。心情の主人公になるでしょう。そのような人物が現れれば、心情の世界の理念を掲げて進んできた天さえも、その人を手放すことができないと決心せざるを得ないのです。


だからこそ、天は皆さんの信仰の道において重要な要素である「愛」という言葉を掲げたのです。罪悪に満ちた世の中でも、愛を求めるには心情が必要です。そのような心情に満たされ、相手のために尽くすことができる何かがなければ、愛のイエス様も皆さんとは関係がないのです。


では、天の嘆きを解消するために掲げられた目標は何だったのでしょうか? 失われた天国の回復でした。失われた真の息子娘、永遠に抱きしめて愛することができる息子娘を見つけることでした。日常生活において神を失わず、永遠に共に暮らすことができる息子娘、堕落前のアダムとエバのような本来の人間に戻ることだということを、皆さんは知るべきです。


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堕落した人間が信仰の道をすべて通り、審判を越えて天国に入るために父の子として現れようとするならば、まず本来のアダムとエバの姿を持った状態で、信じなさいという言葉が必要なく、悲しみの境地を超えて愛しなさいという言葉や、仕えなさいという言葉をかけられなくても、感情的にも身体的にも、行動的にも、そして生活全体や理想全体が自動的にその方向へと動くことができなければなりません。


どのような法律的な規定や命令によって動くのではなく、私たちの心情が法を先立ち、私たちの良心の働きがどんな論理や最高の規則を超越する場所であってこそ、天的な縁が完成した世界になります。天の心情に満たされ、動きたくなくても動かざるを得ず、行いたくなくても行わざるを得ず、愛したくなくても愛さざるを得ず、尽くしたくなくても尽くさざるを得ない、そんな崇高な姿であるべきです。キリスト教徒にとってこれが最高の信仰の基準になるでしょう。今日、これが現実に現れなければならないのです。


皆さんがそのような人と出会うその瞬間、マグダラのマリアが復活したイエス様を抱きしめようとしたときに、イエス様がそれを止めた心情を感じ取ることができるでしょう。今、皆さんは「さあ、死の道よ、来るがいい」との覚悟で困難を乗り越え、実践の道を歩みながら愛の心情を抱いて進まなければなりません。苦しみや追い詰められた中でも、その困難を乗り越えて復活の恵みに感謝し、天の前に栄光を捧げられる瞬間、愛の心情を抱いて仕えることができる栄光の境地に入ってこそ、そこから天国生活が始まるのです。


今日、皆さんにとって「天国」という言葉は観念的な言葉として残っています。その観念的な言葉が、いつ私にとって生活的な言葉に転換されるのか、これが問題です。もし天が存在するなら、この転換点を成し遂げるための一つの場所を見つけてくださるでしょう。そのときを「終末」と呼ぶのです。


この観点から、天は私たちを探し求めてこられました。では、今日、皆さん自身を振り返ってみてください。皆さんは天を信じていると言い、天を愛していると言いながら、それを基盤にして信仰の源である神を自分に従わせようとしてきたのではありませんか? 偉大な実践者である神を、自分が実践しなければならないことを代行する小さな存在にしようとしてきたのではありませんか? 宇宙的な愛の主人公を自分の愛の心情の中に見つけようとして、尽くす主人公である神に対して、自分を支える友になってほしいと願ってきた過去を悔やみ、悲しい心情に満たされなければなりません。


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