P1
第一章 有形、無形世界での人間の存在
第一節 人生路程
一 人生路程に対する祈祷文
愛するお父様! 天が屈辱を受けるその恥ずかしさを恐れながら、幼い時から今迄戦ってきた小さな者を守って下さったお父様の恩賜に感謝申し上げます。
この地に何が良いといっても、お父様が運行される本然の心情につながったもの以上に貴い基準がない事を思う時、その立場を無限に恋しがらなければなりません。お父様のその愛に接する人は、世の中の万事を皆放棄しても未練の残らない立場にあるという事を、私達は知るべきです。
今私達は、お父様の愛で暮らす理想世界、本然を訪ねていかなければなりません。第三の生の自由権限をもち得る解放児として出生するその日を、今日この地上世界で準備しなければなりません。
赤ん坊が胎中にいる時健全であってこそ、地上に生まれてからのその一生が健全であり得るのと同様に、地上生活が健全であってこそ、天国の生活が健全であり得る、という事を知らなければなりません。天と地が協助し、万宇宙の動的な運勢に拍子を合わせる事が出来る立場に立つ為には、今日の世の中とは相いれず、悪が主管する世の中である為に、死を覚悟しなければいけないという事実を、私達は知るべきです。私達の後孫達は私達と同じ立場に立てられては絶対いけない、という事を悟らなければなりません。(四九―三〇八)
愛するお父様、今迄春の環境を開拓する為に、絶えず苦労されたお父様がいらっしゃるという事実を思う時、私達はお父様に無限に感謝し、無限に歓迎しながら、自分の生命と愛全体を、そっくり移してさしあげられる自らになれなかった事を嘆息し得る息子、娘に成るべきです。私達が新しい春を迎える為には、私の生命が同化する事が出来る因縁を持って、そこに完全に吸収されなければならないという事を知るべきでございます。
そうしてこそ、初めて春を迎えて花を咲かせる事が出来るという事実を知るべきでございます。「一生で、どのひと時に春を迎えた事があるのか」と聞かれる時、何時だと答えられない、春を迎えられずに逝った可哀想な霊になってはいけません。一つの花が咲いて実を結ぶ為には、夏と秋を経なければならない様に、私達も一つの実を結ぶ為には、その様な過程を経なければならないのでございます。
一つの生命が投入され、実が結ばれる迄には、夏の季節を過ごし、その根と幹と枝の全体から生命の要素を吸収してこそ、完全な生命力を持って第二の生を出発出来るという事実を思うものでございます。同様に、この体は死んだとしても、その心の中に、新しい世界に再び生まれ得る生命の気運が膨れ上がり得るかという問題を、自ら推し量る事の出来る息子、娘に成るべきです。
P1
いくら歳月が過ぎていき、暴風雨が激しく吹き荒れても、内的な生命力は、その環境の侵犯を受けずに絶えず発展の路程を行ってこそ、春を迎えて再び蒔かれ得る、第二の生命の母体である種になれる事を知るのでございます。
同様に、私達の外的な姿はみすぼらしいものですが、無限の生命力を集約出来る母体、あるいは結実体として再び無限の世界に植えられ得る価値ある人がいるならば、いくら外的に悲惨であっても、悲惨な人ではないという事を思うのでございます。その外的な姿が悲惨になれば悲惨に成るほど、内的な価値はより充実するという事が保障されるという事実を、私達が知る様にお許し下さる事を切にお願い申し上げます。(三二―三七)
お父様! お父様に侍り、謙遜に敬礼を捧げたい心のない人は、永遠のあの世でお父様と因縁を結ぶ事は出来ない、という事を知るべきなのでございます。
今、私達が、心の門を開いてお父様の心情を感じさせてくださいまして、今日我々の心から聞こえてくる貴方の音声を聞き、失った自分の体を探す事ができ、お父様が私一人を探す為に、私の背後において艱難と苦労の歴史過程を経てきた事を感じて、自ら頭を下げる事の出来る私達に成る様にお許しください。(四―二八〇)
二 人が願う目的
神様には体がありません。それで、全ての万物を神様の体として、アダムを神様の顔で表したのです。それが創造理想です。
神様は、本来の霊的な焦点であり、アダムは本来の肉的な焦点です。その二つの焦点が九〇度をつくるのです。それが神様の創造目的であり、人が願う目的です。
アダム・エバが堕落しなかったなら、あの世に行ってお父さん、お母さんとして永遠に現れる事が出来るのに、堕落した為にそう出来ないのです。堕落しなかったなら、自分の父母に神様の様に侍れば、誰でも皆天国に行く様に成るのです。(一一九―一〇九)
三 生まれた理由
今日、この世界は丸くなっています。太陽も丸く、地球も丸く、星も丸く、口も丸くなっています。どんなものでも、皆その様になっています。それ故、宇宙は丸く丸く回りながら関係を結ぶのです。そして、丸くなっていても個別的に存在するのではなく、全体に連関性を結んでいます。
では、何故自分が生まれたのでしょうか。この大宇宙と拍子を合わせる為に生まれました。大宇宙と拍子を合わせる為に生まれたという事です。
P2
それで海の波がざぶんざぶんと音を立てれば、自分の心もざぶんざぶんと音を立て、風が気分良く吹けば、自分の心も気分が良く、花が咲いて香りを放てば、自分の心も香りを放てると言うのです。(一〇四―一二二)
愛から生まれ、愛から育って、愛から生きて、愛から死ぬ様に成る時は、生むのも有り難い事であり、生きるのも有り難い事であり、死ぬのも有り難い事です。
皆さんは、母、父がこの上なく愛する場に同参して生まれたと言うのです。同参者であるという事です。
皆さんは、父母の愛から生まれた為に、父母様の愛が差してある旗だと思いなさい。それ故、旗が動くのは愛を表示する為なのです。一生の間、愛の為に生きるのです。それで、母の為にも愛の旗を振ってあげ、父を見ても愛の旗を振ってあげ、兄弟たちの為にも愛の旗を振ってあげるのです。(一〇三―二五八)
四 瞬間(一日)と一生の関係
皆さんの生活全体が栄養素を吸収し得る基盤にならなくては、生命体を完成する事が出来ません。これが、自然の現象世界で繰り広げられるのです。生命の分岐点は、長い期間にあるのではなく、一瞬間にあるのです。
瞬間を無視する人は、貴いものを持つ事が出来ません。偉大な人にもなれず、神様の王座と王冠を受け継ぐ事も出来ません。それ故、瞬間を輝かせる為に、皆さんは言葉一言、行動一つにも注意すべきであり、考える事も注意すべきです。自分の生活で繰り広げられる全ての内容が、世界と関係する現象として残るという信念で解決出来る所でのみ、勝利圏が決定されるのです。
この様に、勝利圏が決定されるのは瞬間です。従って、歴史的な勝利圏、天宙的な勝利圏も瞬間に決定されます。瞬間を輝かせる事の出来る無限の価値を感じて生活する人は、偉大な人に成る事が出来るのです。聖人にも成る事ができ、神様の息子、娘にも成る事が出来るのです。この様に、生死の分岐点は瞬間にかかっています。(三一―二一八)
今日、我々の姿勢が問題です。まず、み旨にかなった国が来る事を願い、そのみ旨が成される事を願うのも必要でしょうが、それより、自体がどの様にすればみ旨と一致していくかという事が重要です。
一時間なら一時間を、どの様にすればみ旨と一つに成るかという事が、み旨の国が成されるのを願う事より重要だという事です。それ故、まずみ旨を継承し得る個人的な環境、家庭的な環境、氏族的な環境、民族的な環境を成してこそ、み旨の国と関係を結ぶ事が出来る為に、神様を中心として、一日の生活圏内で、一時間なら一時間をどの様にみ旨と関係を結ぶかという事が、重要な問題であらざるを得ません。
復帰摂理歴史を見れば、アダム家庭からノア家庭、アブラハム家庭、モーセ家庭とイエス家庭迄、四千年の歴史が下ってきていますが、彼らが失敗する様になった動機は、ある一年を中心としたものではありません。
P3
アダム家庭において、アダム・エバが堕落したのも、一年や十年、あるいは何十年を計画して失敗したのではありません。その失敗は、一瞬にもたらされ、一瞬の失敗が、億千万年続いてきたという事を考える時に、その瞬間がどれほど恐ろしく、どれほど怖いものであるかを知る事が出来ます。
その一瞬の失敗で歴史時代に修行の道を行った数多くの人達が、受難の応報を受けなければならず、そのみ旨についていかない数多くの民族が、滅亡のどん底に落ちなければなりませんでした。それが、とてつもない蕩減の祭物の起源になったと言うのです。この様な事実を考える時、一時間、カチカチという瞬間が恐ろしいのです。それ故、永遠の天国も一瞬を離れてはあり得ないのです。
永遠の出発は、自分が死んで始まるのではありません。永遠の出発は、自分がみ旨を知った瞬間から続くのです。ここに一日のうちの瞬間でも、時間の関係において飛躍があったり、どん底が生じれば、永遠は中断されるのです。
それ故、我々が生涯の路程を中心として、信仰の道を行くのに、今年行けなければ来年に行き、来年に行けなければ再来年に行き、十代に行けなければ二十代に行き、二十代に行けなければ三十代に行き、三十代に行けなければ四十代に行き、四十代に行けなければ五十代に行きと、この様にしてはいけません。一生をこの様に生きていくなら、彼は、一生をみ旨と一つになった一日の生活を持ってみる事ができずに死ぬでしょう。もしその様に生きたなら、その人は天国に行けません。
いくら自分が暮らしているその国が良いといっても、一日の勝利基準をもてなければ天国に行く事ができず、一年の勝利基準をもてなければ永遠の世界に入る事が出来ないのです。それ故、信仰者は永遠を夢見ていく事も重要でしょうが、それより重要な事は、現実においてどの様に悪を清算して善の旗手に成るかという事です。この様な問題が何よりも重要です。
この様な点から見る時、アダムの瞬間的な失敗が億千万年の恨を残してきたのです。アダム家庭で、カイン・アベルが父母の恨を解いて、兄弟の壁を崩して、一つの家庭の起源を作らなければなりませんでした。この様に、復帰摂理の代表として立てられたアベルが死んだのも、瞬間的な事件でした。
百二十年かかって箱舟を造ったノアの苦労の路程でも、神様が「願いを成就する日が来たので、船に乗れ」と言われた命令も、一瞬に下されました。この命令に同調した人は、永遠の神様の祝福を受ける事ができましたが、そう出来なかった人は、永遠の審判圏内に埋葬されたと言うのです。
アブラハムも同様です。神様が「貴方の子孫をふやして、天の星の様に、浜べの砂の様にする。……諸々の国民は貴方の子孫によって祝福を得るであろう」(創世記二二・一七、一八)と祝福されましたが、その祝福の命令もカチカチという一瞬に下されたと言うのです。アブラハムが供え物をした時間も、何十年間供え物をしたのではなく、たった一日でした。祭物を裂いて供え物をする時間は、一時間未満でしたが、ここで歴史的な全ての生死禍福の起源が組まれてくるのです。
P4
今日、信仰者たちが恐れるべき事は、終わりの日に訪ねてくる審判ではなく、一日一日の生活圏内で訪ねてくる時間です。それを、どの様にみ旨と一致させるか、どの様にみ旨と交差路を形成していくかという問題です。(三七―二一九)
五 幼児期と三段階秩序
アダム・エバを神様が造ったのなら、それをどの様に造ったのでしょうか。土でこねて造ったなら、どの様な土で造ったのでしょうか。どこで出発したのでしょうか。どこから始まったのでしょうか。アダム・エバを、成人になった人として造ったとは考えられません。
赤ん坊から造りました。神様が、赤ん坊をはらんだ母が、抱いて育てるのと同様な、その様な過程を経て造ったという論理を立てなくては、この全ての三段階の秩序を通じた存在の形成というものは、説明する道理がありません。それで、アダム・エバに幼児期があったと言うのです。その次に、成人期がありました。これは天理です。その次に完成期がありました。
幼児期とは、どのよう期間だったのでしょうか。無形の神様が、無形の世界から有形の過程を経てくる事が出来る、赤ん坊の存在を抱いて育てたという論理から始めなければなりません。(二二五―一九八)
六 我々の人生の道
我々が暮らしている社会、国家、世界は、自分の意志に符合する環境になっていないので、全ての苦衷が生じており、善悪の分岐点が重なり合っています。百人なら百人、各々自分なりの一日の生活を営む為に環境と闘争しており、その環境を押して進んでいます。それ故、朝に計画した一日の仕事に対して誰も自信を持つ事が出来ないという事を、我々は一日の生活の中でよく体験します。その上に、その環境の範囲が大きければ大きいほど、自身の一日の生活を勝利として結果づける為には、それに比例した決意と推進力をもたなければなりません。そうでなくては、その日が勝利の日になり得ないのです。その様な一日一日が加わってひと月になり、ひと月ひと月が加わって一年になります。
そのひと月も、我々が計画した通りに暮らせる環境になっていません。我々がひと月の勝利をもたらす為には、そのひと月の環境に備わった複雑な全ての事情、全ての与件を打破する事が出来る推進力と決意がなければなりません。それがなくては、ひと月の計画を勝利したものとして終える事が出来ないのです。
一年を押し進める為には、三百六十日を克服する事が出来る闘志力、あるいは推進力を備えなければなりません。そうでなくては、一年を勝利で飾る事は出来ません。この様な一年に十年が加わって、二十年、あるいは三十年が加わった日々を過ごしているのが、我々の人生の道です。(三一―三〇)
P5
今日、この地に暮らしている人間達は、時間性を外れる事が出来ません。人類歴史について見ても同様です。個人、家庭、氏族、民族、国家、世界もその様な時間圏内で動いていっています。
人が生きていく所には、必ず達成すべき目的があります。その目的を中心として、十年、二十年、三十年、七十年、一生の間行くべきなのです。目的が大きければ大きいほど、内的にもっと強く誓わなければなりません。そうでなくては、その目的に到達する事は出来ません。時間という過程を通じて、その目的を凌駕し得る内的な決意を続けない限り、その目的を達成する事は出来ないのです。(三一―一四九)
七 我々が訪ねるべき本郷
皆さんは、霊界の事実を知らないかもしれませんが、先生は神様の特別な恵沢を受けて、未知の世界についてよく知っています。
その世界の根本を掘り返してみると、原則は簡単でした。その世界は、神様の天地原則の世界である為に、生きた人だけが行く所です。その様な内容で形成された世界が、理想天国です。
そこが、我々人間が訪ねるべき本郷です。今日、我々は堕落した人生として、本郷から追放された人間になった為に、本郷の地に向かって帰るべき運命にあるのです。しかしそこへは、その人間自体としては入る事が出来ない為に、神様は、人間が入る事が出来る道を歴史過程に設定せざるを得ません。
それで、その民族の文化背景、風習、あるいは伝統が異成る事によって、数多くの宗教を立てて収拾していきました。その様に収拾する為の訓練場として立てたのが宗教です。ですから宗教は、本郷の地に入る事が出来る資格者を錬磨させる訓練場です。東西四方の文化背景によって、高い所に前進する事が出来る一つの統一された宗教世界を率いてきています。
その様な本郷の所へ導くべき宗教である為に、宗教は何を教えているのでしょうか。「為」に生きなさいという事を教えていると言わざるを得ません。そして、高次的な宗教であるほど、「為」に生きるべきだという原則を強調しなければならず、「温柔謙遜」であれと言うのです。数多くの人を高め、彼らの為にする立場に立てと言うのです。「犠牲奉仕せよ」と教えるのです。何故でしょうか。その国の法度に合う訓練をしなければならないからです。(七八―一一七)
八 人生最高の行くべき道
人生の行くべき道とはどの様なものでしょうか。神様の愛を占領する事が、人生の行くべき道です。神様の愛を占領する事が、人生の行くべき最高の終着点です。この道は、男も女も皆行かなければなりません。全ての人が行くべきなのです。
人生の行くべき道は、無限であられる愛の神様を探す事です。十回でも百回でも、死の峠を経てでも、死んでも絶えず探していくべき、神様の愛を探すのが人生の最高の行くべき道です。
欲望の終わりとはどこでしょうか。神様の愛を占領する所です。神様を占領したといっても、その中にもっと貴い愛を占領出来なければ、神様は自分の神様ではありません。それ故、神様の愛を占領しなければなりません。愛だけ占領すれば、神様はいらっしゃらなくても大丈夫なのです。彼のものが私のものであり、私のものが彼のものに成る時、初めて内外が一つに成るのです。その様な国が、上下の等級のない理想の本国に成るのです。
P6
その様な場に横たわる様になれば、天下にある存在の中で、良く見えないものがなく、天下にいる存在の中で、自身の為に存在しないものはないと感じるのです。その様なものが神様の愛なので、今日人間が行くべき天上世界、すなわち天国は、愛で充満した所なのです。(三九―二一〇)
九 出生の基準と生涯の基準
1 過った出生の基準
今日、世の中の人は、自分自身は高貴な人だと言っている人でも、いくら博士だと言っている人でも、自分の出生が間違ったという事を知りません。神様の怨讐であるサタンの愛と、生命と、血筋を持って生まれたという事を知らないと言うのです。重要な問題です。
堕落によって人間は、サタンの愛により生まれたのです。サタンの愛がその父母に迄つながってきました。母の生命、父の生命にその血が流れていて、その血が今日、自分につながってきたと言うのです。その様な三種類の結実が、正に自分です。
ですから皆さんは、サタンに属したのです。いわば皆さんの血管に乗ってサタンの血が流れているのす。従って、自動的にサタンは自分の理想的な結実を結んだのであり、神様は、その様な男女を本然の純粋な完成人間として救おうとされるのです。
皆さんは、サタンの愛から出発したのです。皆さんは、サタンの血統を持って生まれたのです。それ故、出発が過ってしまいました。
出発が過ったので、再び帰らなければなりません。帰るには帰るのですが、どこに帰るのでしょうか。原点に帰らなければなりません。偽りの父母として始まったので、帰って「真の父母」として再び始めなければなりません。ですから、どれほど深刻ですか。自分が、神様の愛と、神様の生命と、神様の血筋を再び引き継がなければなりません。
それで、出発する時、血統転換式をします。それを、自分の生命よりもっと信じなければならないのです。統一教会の一つの礼式だといって、ただ一般の宗教儀式として考えてはいけないのです。これは、死んだ立場から回生させる注射の薬と同じです。解毒注射です。
我々の先祖が過ったのです。これの為に、歴史を経ながら多くの人々が犠牲になりました。これを知る私達は、再びその道を行く事は出来ません。絶対行けないのです。堕落天地に不倫の愛を残す事によって、歴史を通して受けたその代価が、とてつもなく大きかったのです。個人、家庭、社会、国家、世界に及ぼした影響が、とてつもなく大きかったと言うのです。(二一六―一〇九)
2 生涯の基準
ここで、生涯とは、永遠の生涯を言います。地上界だけを言うのではありません。それは生きている永遠の暮らしです。
「私」という存在は、神様の愛の対象として造られました。絶対的であり、主体的な神様の対象が、正に自分です。神様の愛の相対が私というものです。神様が自分より、もっと貴く考えるものが、真の愛の概念です。神様は、絶対的であり、永遠であられる生命の中心です。そして神様の理想は、もっと永遠なものですが、その理想の中心が、正に真の愛です。その愛の相対が自分です。
P7
愛の属性は、主体と対象が一つにする事です。それは、国家を一つにします。それ故、どんな場でも同参する事ができ、どこにでも付いて行く事が出来ます。全財産を、皆相続する事が出来ます。神様の心情迄も、皆相続するのです。先生が悲惨な過程を経てこれを発見する事によって、その基盤の上に立つ様になりました。これは何とも換えられないし、崇高で高貴なものなのです。驚くべき恩賜です。
それ故、神様と同じ立場に立つのです。永遠の真の愛の場に同参するのです。あの世界は、制限された地球星とは次元が違います。制限された所では自由に動く事が出来ませんが、あの世界は次元が高い世界である為に、何でも出来る所です。時間を飛び越えられるのです。愛を中心として何でも願いさえすば、何時でもどこでも、皆得る事が出来るのです。
我々は元来、永生体として造られました。真の愛を中心とした対象体である自分は、永遠の生命体なのです。だから、霊界に行けば自由なのです。
それで、生涯の基準として、第一が善悪の基準です。皆さんは、それを知るべきです。善悪の基準が第一であり、第二が本然の出発点であり、三番目は永生です。(二一六―一一五)
第二節 人間の位格
一 神様が人間を創造した目的
神様は、人間を何故造ったのでしょうか。第一は、神様自身が父母の立場に立つ為です。その父母は、霊界でも無形です。形がありません。それで、形をもった人間の父母に成る為には、形をもたなければなりません。そうでなければ、中心になり得ないのです。
二番目は何かと言うと、垂直線は一点にとどまります。面積がありません。すなわち、霊界では繁殖をする事が出来ないのです。垂直の次元で、それを横的に展開して三六〇度の球体になってこそ、多くの空間が生じる様になります。
三番目は、愛の相対圏の永遠性を維持する為です。神様の相対に成るのは、アダムとエバだけではないという事です。アダム・エバが相対の位置に立つのと同時に、その子女たちも相対の位置に立つ様に成るのです。ですから、神様の相対の位置を永続的に保存する為、人間を創造したのです。
アダムもエバも神様をお父さんと呼びます。では、その子女達は神様を、おじさんと呼びますか、お爺さんと呼びますか。お父さんと呼びます。
P8
相対というのは、平等なものです。神様の愛を横的に繁殖し、その愛の価値を完成しなければなりません。完成した愛の価値は、一つです。平等なのです。
そこには、三つの理由があります。一番目は、形が必要なのです。形態が必要です。父母としての形が必要です。アダムの父の様な顔で、霊的にその形態を得るという事です。
二番目は、天国の国民の生産地が必要です。ですから、夫婦は生産工場です。生産工場なら、大量生産するのがいいでしょうか、少量生産するのがいいでしょうか。大量生産するのがいいのです。
生産工場が自動化され明確に大量生産する様になれば、天国は一杯に成るのです。ですから、女性は多くの赤ん坊を産む様になっています。(二二二―三三八)
二 人間は、霊界と肉界の媒介体
本来、神様の創造過程を考えてみれば、神様は万物を造って、人間を造ったのです。神様を中心として全てが始まりました。人を造った事によって、神様と人間と万物が平行的な立場で統一を見るのを願われました。これが神様の創造のみ旨です。神様がいて、この被造世界があり、その中に人がいます。この様な中間的立場に立ったのが人間である為に、人間は霊界と肉界を接触させる事が出来る媒介体であるです。(六七―一四三)
三 体と心、そして霊人体
今日、我々が暮らしているこの被造世界には軸があります。その軸にも、二つのものがあります。見える軸と見えない軸、二重構造になっています。
一つの主体を中心として回るのに、その主体自身も回ります。体と心が授け受ければ、回る様に成るのと同じ事です。
全ての存在物は、この様な原則によって存在します。同様に、今日堕落した人間世界からの復帰の道も、軸を直さなければいけません。
人間において、体の中心とは何でしょうか? 心です。心を中心として、体がつながっている為に、体は霊を中心として回るのです。心の命令に体が動きます。心が「東に行け」と言えば、東に行かなければならず、「西に行け」と言えば、西に行かなければなりません。体は勝手に出来ません。(一三六―一四)
人間には、体と心があり、心の上に霊があり、霊の上に神様がいらっしゃいます。それ故人間は、神様と完全に一つになってこそ、完全な人に成るのです。人は、たとえ小さな一つの個体であっても、全体の歴史に代わった存在であり、未来の全ての因縁に代わる存在である為に、天宙的な価値を持っています。
P9
人は、自分の生涯の因縁を訪ねていくのにおいて、自分の心を前に侍っていかなければなりません。これが天倫です。心の命令に服従しない者は、天がたたきます。今迄、天は、歴史路程で人間に良心の通りに生き、物質的な悪の条件に引っ掛かるなと言いました。
では、人間の良心は、天倫に一〇〇パーセント似たのでしょうか。その様になっておらず、数多くの障壁で遮られているのです。天国の関門の前に、曲折の門が横たわる様に成ると言うのです。これがキリスト教で言われる審判の関門です。今日の思潮は、恐怖と不安と混乱の時期を迎えています。中心をつかもうとして持つかむ事の出来ない時代という事です。
今日、我々は、物質を多く持っていてもいけません。何故なら、神様が人を造る時、体と霊人体を造りましたが、霊が中心であるからです。(四―二六八)
四 完全作動と共鳴
共鳴とは、振動する時の周波数が同じ事をいいます。
人間は、永遠に生きる事が出来る我々の内的人と、地上天国に暮らす事が出来る外的人が、愛を中心として共鳴する事が出来なければなりません。共鳴する時は、音波が同じであってこそつづられるのです。そうしながら回ります。回るには、そのまま回るのではなく、核を中心として回るのです。
同様です。霊人体と肉身が神様の愛を中心として調和する様に成る時は、霊的細胞、肉的細胞が完全に作動するのです。
それ故、目が完全作動する時は、目を開く様になれば、天上天下、地上天下が皆見えるのです。完全作動をする為です。マイクもそうではないですか。性能が良ければ、一〇〇パーセント響きわたります。
同様に、愛の力で肉身と霊人体が一致して、爆発し得る境地になれば、天上世界、地上世界が、神様がする事なく、皆共鳴する様に成るのです。(一七一―一〇三)
人間を見ると、心と体が二重構造になっています。男もそうであり、女もそうです。男も女も心の人と体の人から成っています。それで、男女を合わせれば四人だと言う事が出来ます。分けておけば四人ですが、これがどの様に一つに成るでしょうか。
神様は、何故この様に四人に造られたでしょうか。神様の真の愛を中心としては、完全に一つに成るのです。真の愛で完全に一つに成るのです。
皆さんには、霊的人、統一教会で言う霊人体があり、肉身があります。霊人体は我々の目に見えませんが、存在するのです。
では、霊人体と肉身は何時一つに成るのでしょうか。これが問題です。これは、音叉と同じです。音叉の一つを鳴らせば、他の側も振動数が同じ様に共鳴するのと同じ道理で、神様の愛の作用が我々の心に来れば、自動的に体に反応するという事です。
それ故、体と心を一〇〇パーセント共鳴させ得る圏内に追い込む事が出来るのは、神様の知恵でもなく、能力でもなく、力でもなく、ただ愛です。(一三八―二五四)
<TOP> <次ページ>