穂高神社にて ”安曇野食の感謝祭” というのが ひらかれましたので
行きまして イノシシ肉のはいった イノシシ汁や おやき 五平餅 安曇野産ワイン、市内のパン屋さんのパン
小谷村の笹団子 などもいただきました
ちょうど 寒い風の日で ステージで音楽などもあったのに、来た人々も のんびり 楽しめず、それは 残念だったかな
皆さんが 通る境内には このような 像があります
ひとりだけなので ちょっと 寂しそうに見えます
が、ほんとは 偉い 飛鳥時代の 将軍さまなのです。
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穗髙神社は、穂高見命(ほたかみのみこと)をご祭神としますが、
【穂高見命は、海神(わたつみ)族の祖神(おやがみ)であり、その後裔(こうえい)である安曇族は北九州方面に栄え主として海運を司り、早くより大陸方面と交流し文化の高い氏族であったようです。
(↑ 穂高神社ホームページより抜粋)】
その 安曇族の 英雄が 安曇野比羅夫将軍なのですね。
阿曇山背連 と書き表す場合もあり 山背とは 山城のことで、
大阪府南河内郡河南町は 比羅夫の本拠地だということです。
ですので 比羅夫将軍は 穂高におられた期間は 無いのかなと思いました。
(以下引用 wikipedia )
【安曇 比羅夫(あずみ の ひらふ、生年不詳- ?663年(天智2年))は、7世紀中頃の外交官・武将。
氏は安曇氏。
姓は山背連。
名は比良夫とも書く。
舒明天皇在任中に百済に使者として派遣されていたが、641年舒明天皇が亡くなったのに際し、翌642年百済の弔使をともなって帰国し、その接待役を務めている。
またこのとき百済の王子翹岐(ぎょうき)を自分の家に迎えている。
661年高句麗が唐の攻撃を受けると百済の救援するための軍の将軍となり、百済に渡っている。
翌662年日本へ渡来した百済の王子扶余豊璋を王位を継がせようと水軍170隻を率いて王子とともに百済に渡った。
大錦中に任じられた。
663年8月27-28日の白村江の戦いで戦死したとされる。
長野県安曇野市の穂高神社に安曇連比羅夫命(あづみのむらじひらふのみこと)として祀られる。
同神社のお船祭りは毎年9月27日に行われ安曇比羅夫の命日であるとされる。】
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そう、なるほど 穂高神社のお祭りは 平日であっても 毎年9月27日なのですが
穂高南小学校 穂高東中学は お休みになりました
児童生徒が 祭りの お囃子や お舟曳に 参加するからです。
海のない信州の 安曇族の方々が 海上の将軍の阿曇比羅夫をおまつりし
お舟祭りと呼んで、山車は船型であるのは
どこの段階で何故そうなったのか 想像すると、たいへんおもしろいです。