広島・資本論を読む会ブログ

読む会だより24年9月用校正版(9/15開催予定)

「読む会」だより(24年9月用)文責IZ

(7月の議論など)

8月は都合により休会とさせていただきました。7月の読む会は21日に行なわれました。
(前月の議論)のところには特に意見は出ませんでした。
(復習2)のところでは、商品の価値が有用性とは別のものだということは分かるが、支出労働時間は自然の豊度の変化等によっても変化するのだから、価値を支出労働時間として説明するのはどうか、という質問が出ました。関連して、自分も当初は個人的な支出労働時間には様々な違いがあるということで価値を労働時間とすることに疑問があったが、今は社会的な必要労働あるいは平均的支出労働ということで理解している、という意見が出ました。チューターは、(復習1)を文章でまとめる前に【復習2】を出してしまったこともあり、混乱させてしまったようで申し訳ない。次回に以前に説明した点をまとめて【復習1商品と交換価値(価値)】として出すので、その時に労働時間の問題については補足させてほしいと述べました。(捨象なり純粋化・抽象化といった、現象を説明するための方法論的な事柄が問題とされているのであれば別論になりますが。)
また、これまで価値は需要と供給で決まるとしか考えてこなかったので、話に驚いたという感想が出されました。
第16章「剰余価値率を表わす種々の定式」の(説明)は、読むだけに終わりました。資本による労働力の搾取の割合を示す剰余価値率(m/v)をその他の比率(m/(v+m)など)で表わすことは、支配階級を養う剰余価値にせよ労働者自身を養う可変資本(必要労働の価値)にせよ労働者によって対象化された価値であることを隠蔽するものだということ、また利潤、利子、地代などの剰余価値の全ての形態は労働者の不払労働の物質化に帰着するという点は注意しておいていただきたいと思います。


──復習1商品と交換価値(価値)──(「たより8月分」の再掲です)

商品は、それがモノとして色々な有用性をもつという性質つまり使用価値であるという性質と、それが他の商品と一定の比率で交換されうるという(価格などで表わされているように)性質つまり交換価値をもつという、二つの属性(性質)を同時に持っています。前者が商品の物質的な属性によるもの(言い換えれば、モノと人間との関係)であるのに対して、後者は商品の社会的な属性(言い換えれば、人間と人間との関係がモノの属性として現れたもの)であるために、その理解にはさまざまな困難が生じます。
マルクスは『資本論』の冒頭のほうで次のように述べています。
・「ある一つの商品、たとえば1クォーターの小麦は、x量の靴墨とか、y量の絹とか、z量の金とか、要するにいろいろに違った割合の他の諸商品と交換される。だから、小麦は、さまざまな交換価値<様々な商品の様々な量で表わされる交換比率>をもっているのであって、ただ一つの交換価値をもっているのではない。しかし、x量の靴墨もy量の絹もz量の金その他も、みな1クォーターの小麦の交換価値なのだから、x量の靴墨やy量の絹やz量の金などは、たがいに置き換えられ得る、またはたがいに等しい大きさの、諸交換価値でなければならない。@
そこで、第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている、ということになる。しかし、第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質の表現様式、『現象形態』でしかありえない、ということになる。」(第1章第1節、全集版P50)

第一の点からいえば、様々な使用価値の違いを“捨象して”──つまりそれらの違いを生み出している種々の有用労働の違いを考慮外におけば──、諸商品に共通で、しかも量的に比較できるものが何かといえば、それは、それらに“対象化されている”(実現されている)無差別なあるいは抽象的な人間労働だというのです。
一見、分かりにくいことのようですが、次のように考えれば当然のことでしょう。全面的な商品交換によって生活を成り立たせている社会(商品社会)にあっては、人々はもっぱら自分自身のためにではなく他人のためにあらゆるものを生産し、他方で自らは他人の生産したものを利用することで生活を成り立たせています。だからこそ、こうした社会関係のもとでは人々の労働はそれがどんな種類のものであるかにかかわらず(その具体的有用的な姿の如何を問わず)、それが社会の必要を満たすものである限りでは、社会的な(つまり諸個人相互にとっての)同等性・同質性を獲得するのであり、これが商品の価値の内容・実体を形成するのです。発展した分業をもつ社会にあっては、商品の「価値の実体」が同質な「抽象的人間労働」(社会的労働の同等性)であることは、単なる想像上のものではなくて、そこでの諸個人の労働がもつ“実在的な”社会的性質なのですから、このこと自体は言葉ほどには難解ではないのです。
マルクスはロビンソンを例にとって、抽象的人間労働について次のように分かりやすく説明しています(個人的な生産と社会的な生産とではいくつかの違いはありますが)。
・「生来質素な彼ではあるが、彼とても色々な欲望を満足させなければならないのであり、したがって道具を作り、家具をこしらえ、ラマを馴らし、漁猟をするなど、いろいろな種類の有用労働をしなければならない。……彼の生産的諸機能はいろいろに違ってはいるが、彼は、それらの諸機能が同じロビンソンのいろいろな活動形態でしかなく、したがって人間労働のいろいろな仕方でしかないということを知っている。必要そのものに迫られて、彼は自分の時間を精確に自分のいろいろな機能のあいだに配分するようになる。彼の全活動の内でどれがより大きい範囲を占めどれがより小さい範囲を占めるかは、目指す有用効果の達成のために克服しなければならない困難の大小によって定まる。経験は彼にそれを教える。……」(同第3節、P102)
商品は、私的に行なわれる様々な有用労働の結果としてそれぞれ質の異なる使用価値をもつばかりではなくて、社会的な分業・協業のもとでのそれらの人間労働としての同等・同質な性格(価値性質、価値実体)を、その使用価値とは区別される他の商品との交換割合(つまり交換価値)として表示しているのです。この同質な内容は、量的には必要労働量として規定されます。

はじめの引用で述べられているように商品の交換関係を考察するならば、「第一に、同じ商品の妥当な諸交換価値は一つの同じものを表わしている」ということ、そして、にもかかわらずそれぞれの商品はそれぞれに違うものなのですから、「第二に、およそ交換価値は、ただ、それとは区別される或る実質<岩波文庫訳では〔内在物〕つまり抽象的人間労働>の表現様式、『現象形態』でしかありえない」ということは、さほど難解な事柄ではないでしょう。
つまり商品は、それぞれに異質な「使用価値」をもつと同時に、他の商品と同質で量的にだけ区別される「交換価値」(交換割合)をもちます。そして交換価値としては、商品はそれらの使用価値とは全く異なる「抽象的人間労働」という社会的同質性(「価値の実体」)を表現しており、またその大きさ(「価値量」)はその生産に必要な労働時間として規定されることになります。これらのことは、商品のもつ価値性格が、生産“物”そのものの性質ではなくて生産物を“商品”(つまり異質な使用価値であるとともに同質な価値をもつもの)とする人間相互の労働の関係=社会関係に“内在する”ものであると分かるならば、言葉ほどには難解ではありません。難解なのは、商品の価値(抽象的人間労働)の『現象形態』である交換価値は、直接に労働時間として表現されるのではなくて、それと交換される他の商品の使用価値の大きさとして(つまり他の商品の身体を借りて)表現されるほかない、という商品相互による価値表現の仕方にあるのです(この点については、復習2などで触れます)。

商品社会の基礎となっているのは、自然発生的で無政府的に行われる人々の生産活動つまり私的労働であって、それ自身は直接には社会的に結合された労働ではありません。しかし同時に、ここでの労働は、その生産物が商品として交換されるということによって媒介的に結合されて、有用労働としても抽象的労働(総労働の一部分)としても社会的なものであるということを、あるいはそれが私的な労働であるとともに社会的な労働であることを“実証”していかねばならないという矛盾に満ちた労働です。言い換えれば、それは直接に社会的に結合した労働として止揚され、解決されなければならないのです。
そしてこのように生産が社会的意識的に組織されるのではなくて、生産を私的な労働生産物の“交換”を基礎として行なう商品社会においては、諸労働を社会的に結合するという役割は人々自身ではなくてその生産物である商品が担うことになるために、人間労働の社会的に同等な性質が物(生産物)の社会的に同等な性質(価値性質)として現われるという“転倒”が起こります。このために、商品の価値とは何であり、またそれがどのような役割を果たしているのかということの理解は困難になるのです。
(第4節でマルクスはこう述べています。「ここ<宗教的世界>では、人間の頭の産物<神や精霊など>が、それ自身の生命を与えられてそれら自身のあいだでも人間とのあいだでも関係を結ぶ独立した姿に見える。同様に、商品世界では人間の手の生産物がそう見える。これを私は呪物崇拝と呼ぶ……」全集版、P98)

「たより3月用」では、これらのことを同じ個所にある別の引用を引いて下記のように説明しました。それなりの意味があると思うので再録しておきます。
「商品が交換価値をもつという“現象”の背後にある人々の社会関係は、商品を生産する労働はすべて社会的な労働であり、抽象的・一般的人間労働としてはすべての労働が同質であるという内容・質をもちます。この社会関係こそが生産物に価値性格をもたらし(すなわち生産物を商品とし)、それが商品の交換価値として現れるのです。しかしだからこそ、この社会関係の理解抜きには価値を本当に把握することはできませんし、しかもこの引用の後で詳しく述べられるように、この商品交換で成り立つ社会にあっては人と生産物との関係がまるで鏡のなかの世界のように反転して見えるのです。労働の社会的性格(抽象的労働としての同質性、平等性)こそが生産物に価値をもたらし、生産物を商品とする内容であり“社会的実体”であることは、言葉ほどには難しいことではないのですが、人々の労働自身ではなくてその生産物が価値をもつという外観がこのことを見えにくくしているのです。具体的労働が生産物の使用価値を生み出すということは自然的な事柄であって誰にでも分かりやすいのですが、その同じ労働がなぜ商品交換のなかでは生産物の価値をもたらすのかということは特殊歴史的な事柄であって、商品交換の社会のなかに閉じこもっていては理解することはできません。社会的な労働が人々によって意識的に組織され、諸個人の労働の同等性が担保される社会であれば生産物が価値をもつ必要がない、ということは第4節で述べられていることから明らかでしょう。」

また、「たより4月用」では、この説明について次のような補足をしました。
「第一点は、引用した第1章での説明<全集版、P51の部分>は社会現象に対する認識ということでは科学的な方法だが、はじめて読む人には価値の全体的なイメージが湧きづらいだろうと考えてこのようにまとめてみました。全体が見えてくれば方法にも興味を持ってもらえるでしょうが、その間はあまり方法にこだわるとむしろ読む興味自体を失ってしまうのではないかという反省があるためです。
第二点は、マルクスをかじった人なら価値とは労働時間のことだと思い浮かべるでしょうが、引用部分のすぐ後で「価値を形成する実体の量」として指摘されている労働時間について触れることを忘れていました。価値とは労働がもつ社会的な性格であり、全ての労働が同質とみなされるという社会関係が商品に価値をもたらすとたより<3月用>で触れました。しかし、この価値性格は実際には労働時間として存在することになります。(『経済学批判』では「労働時間は……量的であるとともに、その内在的尺度をもつ労働の生きた定在である」(岩波文庫版、P25)とあります)。なぜかと言えば、社会的な生産においては、労働が種々の生産部門に質的に分割されるとともに、それぞれの部門に総労働時間が量的に適切に分配されなければ生産が継続しえないという必然性を持つからです。この必然性のために、商品のもつ価値性格は、労働時間という“社会的な実体”を持つことになるとチューターは考えています。(商品社会ではこの必然性は価値法則という姿をとります、言い換えれば商品は社会的必要労働時間<の“結晶”>として価値法則を実現していくものになります。)」

この補足の第一点については、方法を無視するというわけではないということで了承願います。また、第二点の前半部分で触れている、「価値を形成する実体<抽象的人間労働>の量」としての、あるいは「労働の生きた定在」としての「労働時間」という問題については、7月の読む会でも質問が出ましたので、次回9月の「たより」でもう少し補足したいと思います。
第二点の後半部分で「この必然性のために、商品のもつ価値性格は、労働時間という“社会的な実体”を持つことになる」と触れた点は、不適切でした。その後で触れているように、社会の再生産のためには総労働が種々の部門に適切な量で配分されなければならないという必然性は、商品社会にあっては価値法則(価値規定や等価交換等々)として貫かれるとチューターは考えます。しかし商品に価値性格をもたらすものが、そうした総労働の分配の必然性であるといった説明は正しくありませんでした。
今回説明しましたように、商品に、というよりも商品を生み出す労働に、それらは社会を成り立たせる総体としての人間労働の一部分である(つまり抽象的人間労働である)という価値性格を与えるのは、自然発生的な分業によって相互的に生活を成り立たせる人々の社会関係なのでした。


(説明)第6篇労賃第17章労働力の価値または価格の労賃への転化(1回目)

今回から第6篇労賃に入ります。第6篇は17章「労働力の価値または価格の労賃への転化」、18章「時間賃金」、19章「出来高賃金」、20章「労賃の国民的相違」という四つの章から成っています。
この第6篇についてローゼンベルクは、「日常生活の範疇である労働の価格と全く矛盾する剰余価値理論は、この矛盾が解決されない限り、終わったと見なすことはできない。まさにこの理由で、マルクスは、剰余価値生産の研究を終えた後で、その研究の出発点に、すなわち、労働ではなく労働力の販売という命題に立ち帰り、労働力の価値の現象形態、したがってまた労働力の価格を、本編の分析の対象としているのである。そしてこの分析によって明らかにされるべきことは、実際には労働力の価値または価格であるものが、なぜ労働の価値または労働の価格という形態をとるのか、労働者階級と資本家階級との生産関係を全くゆがんだ形で表現する、これらの形態自体の特徴と一層進んだ変形はどのようなものか、ということである」(下線はチューター)、と述べています。チューターもこの点については異論はありません。

(1.古典派経済学は日常生活から無批判的に「労働の価格」あるいは「労働の価値」という表現を借りてきているが、労働者が商品として売るものは「労働」ではなくて「労働力」である)

・「ブルジョア社会の表面では、労働者の賃金は労働の価格として、すなわち一定量の労働に支払われる一定量の貨幣として現れる。そこでは労働の価値が論ぜられ、この価値の貨幣表現が労働の必要価格とか自然価格とか呼ばれる。他方では、労働の市場価格、すなわち労働の必要価格の上下に振動する価格が論ぜられる。
だが、ある商品の価値とは何か? その商品の生産に支出された社会的労働の対象的形態である。では、何によって我々はその商品の価値の大きさを計るか? その商品に含まれている労働の大きさによってである。では、例えば一つの12時間労働日の価値は何によって規定されているだろうか? 12時間から成っている1労働日に含まれている12時間労働によって。これは馬鹿げた同義反復である。……
このような矛盾は別としても、もし貨幣すなわち対象化された労働と生きている労働とが直接に<等価なものとして>交換されるとすれば、それは、まさに資本主義的生産の基礎として初めて自由に発展する価値法則<対象化された労働量にもとづく商品交換、すなわち等価交換>を廃止するか、または、まさに賃労働によって立つ資本主義的生産そのものを廃止することであろう。……
商品市場で直接に貨幣所持者に向かい合うのは、実際、労働ではなくて労働者である。労働者が売るものは、彼の労働力である。彼の労働が現実に始まれば、それはすでに彼のものではなくなっており、したがってもはや彼によって売られることはできない。労働は、価値の実体であり内在的尺度ではあるが、それ自身は<一定の労働時間において生産物に対象化されない限り>価値をもってはいないのである。
「労働の価値」という表現では、価値概念<価値の実体としての社会的に同質な抽象的労働>はまったく消し去られているだけではなく、その反対物<具体的な労働がもつ性格>に転倒されている。@
それ<労働の価値>は一つの想像的な表現であって、例えば<労働生産物ではない>土地の価値というようなものである。とはいえ、このような想像的な表現は<人々の>生産関係そのものから生まれる。それらは、<資本による労働力の搾取すなわち剰余価値の取得という>本質的な諸関係の現象形態を表わす範疇である。現象では事物が転倒されて現われることがよくあるということは、経済学以外では、どの科学でもかなりよく知られていることである。」(全集版、P693~)

・「古典派経済学は、日常生活からこれという批判もなしに、「労働の価格」という範疇を借りてきて、それからあとで、どのようにこの価格が規定されるか? を問題にした。やがて、古典派経済学は、需要供給関係の変動は、労働の価格についても、他の全ての商品の価格についてと同様に、この価格の変動の他には、すなわち市場価格が一定の大きさの上下に振動するということの他には、何も説明するものではないということを認めた。需要と供給とが一致すれば、他の事情が変わらない限り、価格の振動はなくなる。しかし、その時は、需要供給もまた何事かを説明することをやめる。@
労働の価格は、需要と供給とが一致していれば、需要供給関係にはかかわりなく規定される労働の価格である。すなわち、労働の自然価格である。そして、これが本来分析されなければならない対象として見出されたのである。あるいはまた、市場価格のかなり長い変動期間、例えば1年をとってみたとき、その上がり下がりが相殺されて一つの中位の平均量に、一つの不変量になるということが見出された。この不変量は、もちろん、それ自身からの互いに相殺される諸偏差とは別に規定されなければならなかった。このような、労働の偶然的な市場価格を支配し規制する価格、すなわち労働の「必要価格」(重農学派)または「自然価格」(アダム・スミス)は、他の商品の場合と同じに、ただ、貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。@
このようにして、経済学は、労働の偶然的な価格を通じて労働の価値に到達しようと思った。他の諸商品の場合と同じに、この価値も次にはさらに生産費によって規定された。だが、<この>生産費──労働者の生産費、すなわち、労働者そのものを生産または再生産するための費用とは何か?この問題は、経済学にとって、無意識のうちに最初の問題<労働の必要価格または自然価格とは何か>にとって代わった。というのは、経済学は、労働そのものの生産費を問題にしていてはグルグル回りするだけで少しも前進しなかったからである。だから、経済学が労働の価値と呼ぶものは、実は労働力の価値なのであり、この労働力は労働者の一身のなかに存在するものであって、それがその機能である労働とは別物であることは、ちょうど機械とその作業とが別物であるようなものである。@
<古典派の>人々は、労働の市場価格といわゆる労働の価格<すなわち前者と区別される労働力の価格>との相違や、また労働によって生産される商品価値に対する関係などに関わっていたので、分析の進行が労働の市場価値からいわゆる労働の価値に達しただけではなく、この労働の価値そのものをさらに労働力の価値に帰着させるに至ったということを、遂に発見しなかったのである。……」(同、P697)

この(1.)の点は、すでに第4章「貨幣の資本への転化」の第3節「労働力の売買」などで語られていることなので説明は省略します。
(2.)以降は次回に回します。この17章で触れられている労働力の価値の転化形態としての「労賃」もいまだ抽象的なものであるということ(だからより具体的な18章、19章に進まねばならないこと)や、資本の生産過程の全体を見れば「労賃」も前貸資本の一部である可変“資本”がとる一時的な姿であること(労賃という貨幣形態や流通による媒介に目を奪われてはいけないこと)、などにも触れたいと思っています。
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