Forth!

移転しました(2014/1/1)

移転のご案内

ご訪問ありがとうございます
このブログは2013年末にて更新を終了し、現在は新ブログで更新しています

移転先:Para Bellum(パラべラム)

また下記サイトも運営しておりますのでぜひ遊びに来て下さい。

サイト:月に叢雲花に風

これからも【Forth!】改め【Para Bellum】を宜しくお願い致します。

2013/12/31 ヒジハラ

展覧会

2013-11-18 | ヒストリ:オール

1週間位前の新聞なんだけど。

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/0a/ba/6fe367acf1fe05794dee6b2fe95d39fb.jpg?random=11887e1bf8fde55e5f47090c305b630a

杉田玄白の漢詩が群馬県の古本屋で見つかったそうです。
桂川甫周の書簡(2通)と一緒に軸装になってたんだって。
ググったらニュース自体は1ヶ月程前に出てたみたい。
新聞には来春公開と書いてあるけれど、来年3月15日から国立科学博物館で『医は仁術』という特別展があるそうで、そこでだそうです。
科学博のサイトに行ってみたけれど、まだ来年の展覧会情報は出ていなかったのだけれど、なんだか私が好きそうなテーマっぽいんだけど…!
東京…!羨ましい!

展覧会といえば、今月末まで大阪商業大学商業史博物館で『花外楼 老舗料亭の一品』が開催されています。
懇意にしていた木戸孝允、井上馨、伊藤博文ら元勲の書も出ているみたいなので、興味のある方は面白いかもよ~
で、同博物館で来月4日から『明治黎明期の言論界―陸羯南・三宅雪嶺と上方の人々』が始まります。
意外と近代扱ってるよね、ここ…
あと意外とすごいなと思うのは川西にある大阪青山歴史文学博物館。侮れない。
高松宮とか近代の皇族の遺品が良く出てるよね。近代以外でも御宸翰とかすごいらしい。

**

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/61/71/8c199e0d823af7f79d7bab266771f52e.jpg?random=319574055c28512c0580baf738338aa4

ワロタ。びっくりしたわー。こんな数字見るの坂の上の雲のドラマ以来じゃね?(笑)
多分ドラマの内容と書いてある内容はほぼ無関係だったと思うんだけど、御覧頂いた皆さんありがとうございます。


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

江戸の町方

2013-08-18 | ヒストリ:オール

■サイト更新 不問語2ページ

1:清盛、Love for the Lost
2:町奉行、who's who、お奉行様!
  
以前書いた、ページは作っていたけれど更新したつもりでしてなかったもの…?
したような気がするんだけど、よく分からんくてorz
取りあえず確認した時にはアップはされてなかった。してて手違いで消してたとかだったらすいません。
そういうのが全部で4ページあったので今回はその内の半分、近代以外を更新します。
 
1は平清盛関係、2は江戸時代の話。
問わず語りのコーナーも段々とページが増えてきて、更新していない所も含めると現在52ページ、130件。
どんなことを書いたかは大体覚えているけれど、どこにどの話がというのまでは流石にきつい。
今回みたいに更新したのかしたつもりだったのかよく分からないってのもある訳で。
そろそろデータベース(大袈裟)がいるんじゃないかと思い始めた^^;
   
「町奉行」と「お奉行様!」は内容がやや似ていて、「who's who」は名前の話から最終的には江戸後期の話になっています。
歴史に興味が無い人にとっても、割と面白いと感じる話だと思う(自分で言う)

題そのままですが、前者では町奉行の話を書いています。
ちなみに単に「町奉行」と書くと江戸の町奉行のことを指します。
京都や大阪なら京都町奉行とか大阪町奉行とか、町の名前を冠するのだけれど。

「お奉行様!」の連載はサイトに載せるという事でブログからは下ろしていますが、町奉行の話は今まで何度か書いてるのでここでは割愛します。
超大雑把に書けば、遠山の金さんは町人の格好でふらふら出歩いて遊んでる暇なんかねえよ!という話です。
興味がある方はサイトの方にお越しください(笑)


***

 
寺社奉行、勘定奉行、町奉行を合わせて三奉行といいます。
筆頭は寺社奉行でこれは大名役、勘定奉行と町奉行は旗本役でした。
肝になるのは後者の2奉行で、特に町奉行は旗本の出世街道の終着地になります。
旗本カーストのてっぺんにいるのが町奉行。
金さん、実は超エリートなのよん。
遠山金四郎の父も外務省高官(有事の長崎奉行だった)を勤めたりと、こちらも大変なエリートだったのだけれど、その父以上に出世した。
  
町奉行は今で言えば国務大臣、東京都知事、裁判所長、警視総監、消防署長、郵便局長、東京駅長を全部兼任していました。
江戸ということから現在の東京のあれこれを兼任するのは分かるけれど、国務大臣?
はい。
町奉行は老中の腹心なんですね。
南町奉行大岡越前も徳川吉宗の腹心でした。時代劇見てもそうでしょ^^
朝から午後2時頃まで幕府の仕事、そこから江戸の町のお仕事が始まる。

江戸時代ですので役職は家柄で決まることが殆どですが、幕政に参加し、市政関係でこれだけの役目を兼任する町奉行はボンクラでは務まりません。
家柄よりも能力が考慮される事が多かったようです。

「町奉行」の中で、江戸の町は三奉行の管轄が錯綜しているという事を書いています。
実は寺社地は寺社奉行が、町人地は町奉行が、武家地は勘定奉行が権限を持っていて、例えば町方が旗本某宅を急襲して捕まえるとか、僧侶を捉えるとか、そういう事は出来ない。
犯人が武家地や寺社地に逃げ込んだ時も勝手に捕まえられません。

そういう時は寺社奉行に犯人逮捕の依頼をしたり(寺社地)、目付に犯人引き渡しを頼んだり(武家地)、そういう事をする。
以前読んだ本に権限が錯綜する問題は評定所預りになるとあったので、この事かな?
うーん、でもこれって緊急時には即応出来なくて現場は大変だったんじゃないかと思いますが…
評定所は幕府の諮問機関・最高裁判所で、構成員は老中、三奉行、大目付と目付。
目付というのは監察官のことです。
大目付は諸大名や朝廷、目付は旗本・御家人の監視に当たる。

何だかついでなので。
あれだけの仕事を抱えているお奉行様、忙しくて流石にひとりでは捌ききれません。
そこで配下がつきます。それが与力。南北各25騎ずつ。
与力は騎乗を許される身分ですので数え方が1人2人ではなく、1騎2騎になります。
与力の下に同心がつく。各120人。
これらの数字は時代によって増減があります。

与力とか同心というとイコールで町奉行配下と思いがちですが、他の役所にもいますので、町奉行の与力同心を表す時は町与力(町方与力)・町同心(町方同心)といいます。
江戸には町奉行所は南北ふたつあり、月番交代で役所を開けていました。
ですので、こんな人数では流石に100万都市と言われた江戸の治安維持は無理な訳で、そこで出てくるのが目明しになります。
 
この辺りは時代劇でおなじみ。
同心が使っているのが目明しで、これは岡っ引きといった方が分かり易いでしょう。
銭形平次や『半七捕物帳』の半七の事です。
見る本によって町奉行所から給金が出ていたり、同心がポケットマネーで雇っていたり、どちらがどうなのかちょっとよく分からないのですが、江戸後期辺りは給金が出てたみたいな感じだなー。
 
岡っ引きの下にはさらに下っ引きがいます。
銭形平次が岡っ引きで、ハチ(八五郎)が下っ引き。
『剣客商売』では弥七が岡っ引きで、傘徳が下っ引き。

下っ引きは完全に岡っ引きのポケットマネーです。
お上から岡っ引きに給金が出ていたにしても、お小遣い程度だったらしく到底生活の足しにはならないため(子分の下っ引きもひとりじゃないし)、奥さんが商売してないと無理なんですね。
時代劇では岡っ引きの奥さんは大抵小料理屋等の商売をしていますが、これはその為。
    
ドラマや小説では正義っぽいけれど実際にはさに非ずで、岡っ引きは地域の顔役や893の親分なんかが多かった。
元々が犯罪者だったり、無頼の徒だったり、要するに蛇の道は蛇というか…
そういう所から同心は情報を吸い上げたり、犯人逮捕を手伝わせたりしてた。
大体想像がつくかと思いますが、岡っ引きの一存でありもしない罪をでっち上げたりもできる訳で、それが嫌なら…ってな感じで金銭の強請り集りが随分あった。
 
ただ岡っ引きの一存で町人をしょっ引くなんて事は出来ない訳で、その為には「御手当の事」と書かれた捜査令状が必要でした。
それを同心から貰って町人を連行、強請り集って満足したら、同心には「どうやら違ってたようです」でカタがつく。
 
そんなものを使っていたらお上の威光に傷がつくという事で、目明し禁止令が出たりもするのですが、禁止したら禁止したで同心たちは仕事が出来なくなるっちゅう悪循環…
結局幕府がなくなるまで使わざるを得ないままでした。

知った時はへえと思ったのですが、しょっ引くのに捜査令状が必要だったり、入牢させるのに町奉行の裁可が必要だったり(※真夜中でも叩き起こして裁可させる)、拷問にかけるのにも老中の許可が必要だったり(その上拷問にかける条件を満たさないとダメ)。
そう言う事、わりと好き勝手にされていたかのような印象があるのだけれど、実はそうではなかったんですね。

拷問にしても、実は幕府が認めた拷問は吊責めの1種類しかありません。
ドラマなんかで見る笞打ち、石積み、海老責めは江戸幕府の法律上では牢問(責問)といいます。
牢問は奉行所の判断、担当者の判断でOKでしたが、時代が下ると上司の許可が必要だったようです。
それに実際には海老責めなんてめったになかったみたい。
 
というか、こうした広義の拷問が積極的に認められていたかというとそうではなく、こうした事をしないと白状させられない吟味役はイマイチなんですな。
説得したり宥めすかしたりして白状させるのが御手柄。
というかそこが吟味役の腕の見せ所なんである。
処刑するにしても、自白させずに命を奪うのは不当だという考えがありました。

こう見るとはっきり言って近代の方が恐ろしいよ…
 


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

坂本龍馬の血判発見

2013-07-27 | ヒストリ:オール

坂本龍馬 誓いの血判 高知で発見 記念館で展示へ (毎日新聞 2013/7/25)
龍馬が血判押した誓約書発見 高知の記念館、展示へ (朝日新聞 2013/7/25)

https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/63/fc/d289e11c51ffa3824fc4cea41241ac3e.jpg?random=

上の写真は7月25日の産経新聞(夕刊)。
ちなみに龍馬の後ろの記事は前島密の書簡20点が見つかったというニュース。

龍馬の事を書いたら翌日に龍馬の記事が出た(笑)
ビッグネームだけに恐らくどの新聞にも記事は載ったのではないかと思われます。詳しい話は上記URLや適当にググってどうぞ。
適当に見た中では毎日新聞のが長文、朝日新聞は写真が多かった。
朝日新聞には武市半平太や岡田以蔵の署名と血判も出ていました。興味がある方は消える前に早めにどうぞ。

***

坂本龍馬が25歳の時、、安政6(1859)年9月20日の署名だそうです。
13.4mの巻物、『高島流砲術入門誓書一巻』(gooニュースより)と箱書きされた木箱に納められており、土佐藩で高島流砲術を教えていた徳弘孝蔵が入門時に書かせた起請文(署名血判)らしい。
署名者数は216人、坂本龍馬の他に龍馬の兄権平や武市半平太や岡田以蔵といった人物の名前もある。
龍馬は196人目ですって。

高島流砲術かー。
久々に聞きました。高島秋帆の西洋流砲術ですな。
高島はアヘン戦争後に砲術の近代化、要するに西洋の軍事技術を取り入れろと幕府に上申しています。
それならいっぺんやってみなという事で徳丸ヶ原(東京の板橋)でその公開演習をした所、それが衝撃的過ぎて地名が変わってしまいました(今の高島平)。
  

(高島秋帆は長崎の人。丸山遊廓跡の近く、ちょっと坂を上った辺りに屋敷跡があった)

時の老中水野忠邦がこの軍事演習を大絶賛。
水野の腹心である江川太郎左衛門(開明派、伊豆韮山のお代官様)なんかも盛んにバックアップするのですが、これまた腹心であった鳥居耀藏が高島を無実の罪に陥れています。
またお前か鳥居…(※町奉行鳥居耀藏は蛮社の獄をでっち上げた人物)
危うい所で水野と鳥居が失脚したので、死ぬ事だけは免れた。

坂本龍馬が剣術修行をしたのは北辰一刀流の玄武館(千葉周作)。
このほかに有名であったのが、神道無念流の練兵館(斎藤弥九郎)、鏡新明智流の士学館(桃井春蔵)。
武市半平太と岡田以蔵は士学館ですな。
練兵館は桂小五郎、高杉晋作、伊藤博文や井上馨といった長州人が多く通っていた印象がある。

この練兵館の斎藤が江川太郎左衛門と剣術の同門で、更に江川の部下でした(代官所手代)。
斎藤の道場を作る費用の一切を江川が出したらしい。
領内の視察をするためにふたりで商人の格好して忍び旅してたり、これぞリアル水戸黄門。
確か高島の演習の時は斎藤も江川について見学してたんだよね。
ペリー来航後(1回目)、江戸湾防備の必要から台場を作ることになりその責任者になったのが江川で、斎藤もその実地調査から一緒に働いている。
築造の時は現場監督なんかもしてたみたい。(ちなみに現お台場)
幕末期、江戸では名の知れた道場の道場主がこういう経歴を持っているのが面白いように思います。
ちょっと変わり種だよね。
 
ちなみに品川台場の調査築造の際、斎藤に頼んで中間だか人足だかに身を窶してついて来ていたのが桂小五郎です。
多分江川、この時は桂の身分を知らなかった。
桂はこの後江川塾に入塾して西洋の兵学などを学ぶのだけれど、それが斎藤との縁からになります。
どんどん繋がっていくっていうのが面白いよねー^^  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

absence

2013-07-24 | ヒストリ:オール

唐突に思い出したのだけど、平泉にある夢館が今年11月下旬に閉館の予定だそうです。
丁度1ヶ月ほど前に見たニュースだったけど、これはちょっとショックだった…

夢館は内容が本当に充実している蝋人形館で、中尊寺に行く前にあそこに行けば前九年の役後三年の役の流れから、どうして中尊寺が作られたのかとか、義経との関連とか、そういうことが分かる。
大雑把に平泉の歴史の流れを掴めるいい施設です。
中尊寺から近いし、大型バスが止まれるような大きな駐車場もあり、お土産物屋もあり、ツアーバスがあそこ寄ってるんだろうね。
結構人多いように思ってたんだけど。

ニュースを見て何でそんなことするのと思ったのだけれど、オーナーが徳島県の宗教法人だった。平泉関係ねえ。
これに一番驚いた。
中尊寺や奥州藤原氏関係の史跡や寺院が世界遺産に登録され、その効果があるかと思いきや、思った程でもなかったらしい。
それだけですか…利益が無いからですか…
いや、経営者としてはそこが一番大事だけど。
運営母体が地元じゃないというのが一番だろうなあ。
施設は売却するという事で話を進めて行くらしいけど、どうなるんだろう。
そっくりそのままどこかが買い取って運営継続ということにならんかな。
そうじゃないとあまりにもったいなさすぎる施設だよorz



話は全く変わりますが、坂本龍馬で面白い記事を見つけまして。

『竜馬がゆく』登場の竜馬剣豪逸話は偽書に騙された架空話説 (SNN)
(※司馬遼太郎批判の話じゃない)
 
以前 偉人との繋がり というエントリを書いた時、「坂本龍馬は『北辰一刀流長刀兵法目録』という長刀の型の目録をもらっているのに、これがいつの間にか剣術の免許皆伝に⇒幕末の剣豪に」という話があったと書きました。
ちなみにソースは坂本龍馬の甥の孫(龍馬研究家)。
実はその時に、「あれ?だったらあの話はどうなるの?^^;」と思ったエピソードがあって、その答えがここにあったっちゅうはなし。

坂本龍馬や桂小五郎、武市半平太らが江戸で剣術修行をしていた時分に行われた諸派入り混じっての剣術大会の話です。
確か『おーい竜馬』にも出とったで。
詳しくは上記のURLを読んでみて下さい。長い話ではないので。

とにかく結論が、

昭和54年刊の『坂本龍馬のすべて』のなかで、土佐藩研究で知られる歴史家の平尾道雄は、この試合の日時には龍馬も木戸も、そして武市さえも江戸にはいなかったことを検証し、武市が送ったとされた手紙は偽書であると結論付けた。
 (上記URL)

話自体が 無かった!(爆笑)
 


いやー私あの話結構好きだったんだよね!(笑)
いいじゃんね、イケメン桂との一騎打ち!でもまさか3人ともが江戸にすらいなかったとは(笑)
    
元は(私が大好きな)森銑三が武市半平太の手紙を史料として取り上げた事にあったようで、でもこれは他には見えていない話だそう。
どうもこれが偽手紙だったらしいのだけれど、このネタを司馬遼太郎が拾い上げて小説に織り込み、龍馬剣豪伝説を彩る有名なエピソードになってしまったと。
森さんが言うならそうなんだろうと思う気持ちはものすごくよく分かる^^;

私にとっては、山内容堂が「我が藩の藩士が優勝した!」と喜ぶけど、龍馬が郷士だと知ってがっかりするちゅう、如何にも土佐らしいとしか言いようがない反応がもの凄く印象に残る話だった。
実際にはなかった話でも、この印象自体は変わらないけど。

てゆうか『竜馬がゆく』は面白過ぎ。
幕末に興味を持ったのは伊藤博文と高杉晋作が切欠だけど、この小説を読んでなかったら幕末にはそんなに興味が湧かなかったと思う。
一番最初に高杉晋作というのは、流石に難しかった。
何冊か小説は読んだけど尊王攘夷とか討幕とか倒幕とか、正義派とか俗論派とか、小学校高学年(しかも比較的馬鹿)には長州のあの複雑怪奇な政治の話は全然わからんかったwww
竜馬は難しい話抜きで気楽に読物として楽しめるので今でも偶に読み返したくなるのだけど、多分弟の所にあるんだ。
手元にない。
そこしうらめし。

Comments (4)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

三吉慎蔵の史料、下関市に委託

2013-05-29 | ヒストリ:オール

山口新聞(2013/5/10) 三吉慎蔵資料、下関へ ひ孫が市に寄託、秋に公開
日経新聞(2013/5/27) 龍馬の書状396点、下関市に寄託 長府藩士のひ孫

日経、「龍馬の書状」の後に「等」を入れた方がいいと思う…^^;
坂本龍馬の書状が396点ではなくて、三吉慎蔵のひ孫さんが下関に寄託した史料の総数が396点です。
調べてみたらニュース自体は少し前に発表されていたようで、読売の方では日付が今月11日でした(こちらは既に削除されている)。
このタイムラグは何なのだろう。

三吉は寺田屋事件の際に坂本龍馬と一緒にいたことでよく知られている長府藩士。
龍馬は奥さんの面倒を三吉に頼んでいて、龍馬の死後、高知の龍馬の実家に彼女を送り届けたのもこの方になります。
 
寄託史料の中には坂本龍馬関連(龍馬書簡4通、寺田屋事件の際の日記抄録)の他、中岡慎太郎の書簡、高杉晋作、西郷隆盛の詩書、木戸孝允、伊藤博文、勝海舟の墨蹟等があるとのこと。
このほか三吉や龍馬の写真原板だったり、三吉の愛刀だったりもあるそうで。
 
高杉晋作、木戸孝允、中岡慎太郎というのは分かるのだけど、伊藤博文、勝海舟というのが何となく意外な感じ。
三吉は結構長生きしているけれど、維新後、栄達は望まなかったようで長府で亡くなっている。
まあそれでも維新の元勲や元老たちとは何らかの交流があったのだろうなー…

寄託先は長府博物館。長府と言えばやっぱりこれなんですが。
 
 功山寺!
  
あと乃木希典。ついでに広瀬武夫の石碑(ついでかよ)。
乃木さんの竹馬の友が作ったのが長門尊攘堂で、これが長府博物館の前身になります。
私が訪れたのは丁度NHK大河が『龍馬伝』だった時で、それに合わせて坂本龍馬に関係する展示がされていました。
掛軸にされている龍馬の絵に賛があって、よく見たらそれが島村速雄(高知出身)のでびっくりしたなあ…
 
三吉の史料は今年の9月に展示されるそうです。
  


  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする