Voljushka 微可動

「ヴォーリュシカ」 目覚め中です。

もう如月半ば

2010-02-12 23:03:07 | 読書
ですね。こんばんは。
ブログすっかりご無沙汰しています。

twitterを一月程前に始めすっかり嵌ってしまい、
タイムラインを眺めている時間が多くなりました。
まるで雑踏にでもいるような気分で、
周りで知らない人たちが話しているのを、
素知らぬ振りをしつつ実は興味津々で聞いたり、
ひとりで呟いている人の言葉に耳を傾けたり、
といった感じです。

内容もさまざまで、日常の出来事から時事問題や
哲学的な話題から各種のシモネタもあり。
この各種が大事で(笑)、まあ嗜好にあったものを
探してフォロー先のフォロー先を彷徨ったりしています。

それから私も本を読む時に気になったところをメモしたり
することあるけど、人様のそんなメモ風呟きを読むのも
興味の尽きない楽しみです。

眺めるだけでなく、呟くというか、囀るというか、
ぼやくというか、そちらの方も楽しんでいます。
特に深夜に半酩酊で、思いつくままに、好きな本や曲や
興味あることについて、投稿するのにすっかりやみつきです。

塚本邦雄「王朝百首」(講談社文芸文庫)は読了。
あとがきによると、百人一首歌人は半数強で、
40名もの新たな王朝歌人が採用されている。
馴染みの無い歌人も多く新鮮で、
またお気に入りが増えてしまった。
丹後・小侍従・宮内卿・俊成卿娘など女流が充実。

後京極摂政良経は当然だけど、その弟良平・兄良通にも
良い歌があって、さすが兄弟だなと思う。
御堂関白の歌もおおらかで味があって、違う一面を見た
気分になった、ただの驕れる者ではなかったのだな。

以前から何度も書いているように、私は塚本邦雄の
縦横無尽の評釈が好きで読んでいるのだけど、
「をわりに」の中に、『訳も解説も蛇足であり、
任意の時、任意の作品を、自由に吟誦して楽しむのが
最上の鑑賞である』と書かれている。
【*】『…』内は引用。以下も同様。

私の鑑賞とは正反対だけど、これは究極の鑑賞法だろう。
一体いつになったら、どう読書したら(ブッキッシュな人間
だから「精進」なんて言葉は使いたくないのでこう書きます)、
こんな境地に達せるのだろうか。心許ない。
でも楽しみでもあるのだ、頭の中に歌の花園を作る事が。

『作者名も注釈もすべて虚妄であらう。
真にすぐれた作品はそれらを拒み、無視して聳え立つ』
『絶唱、秀吟は、おのづから作者の、唯一人の小宇宙の
中に浮び、その背後には彼を生かしめた時間と空間が
透いて見えるはずである』 まさに至言。

現在は「定家百首 良夜爛漫」(河出文庫)を読書中。
薄田泣菫「完本 茶話」(上)(冨山房百科文庫)読み始め。

「茶話」は主に大正年間に書かれた新聞コラム。
ちょっと良い話や奥行きのある話もあるんだけど、
単なる当てこすりや相当意地の悪い話もある。
まあ毎日書かなければならないから、日によっては
悪意がむくむくと沸いてくる日もあるのかも。

大正5年5月8日の夕刊に掲載された「酒」。
法学士Kは酒と女が大好き。散々酔払って近くに
突っ立っていた男に絡んだ…
(オチはここでおおよそ分かったけど、
結末はそれを遥かに超えていた)
頭突きをしたら、その法律の条文の詰まった頭は
案外カラッポで空き缶みたいな音がした…
で脳震盪で死んでしまう。勿論立ってた男は電柱。
更に話は続き、死んだ法学士は貶められる。
この悪意…何かの私怨とか思ってしまった。

【テスト】gooブログに付いているtwitterのまとめ機能を
試しに使ってみます。でも流れていった方が良い気もするので、
場合によってはまとめを中止或いは削除するつもりです。
それから誤字脱字や変な文章多いですが、ご容赦。

では、また。

深き夜のつぶやき

2010-01-10 21:48:47 | 読書
年が明けて
震災の特集が増えてきた
今年はあれからもう15年目
歳時記的なものにならないように
願っています
こんばんは

去年の秋頃から興味を持っていたtwitter、
ガイドページを見てもいまひとつ仕組みが
理解できずに、そのままずっと思案していた。
(下手な考え休むに似たりの典型ですが;)

それが先日の夜遅く、お腹も膨れたところで、
ほぼ発作的に始めてしまった。
午前3時4時にネットショッピングして、
要らぬ本まで買ってしまうのと、
何となく似たようなノリだった。
こちら
←のブックマークにも入れています。

未だに使い方はよく分かっていない、
リストの作り方も知らないし…
まあぼちぼちと自分にあった使い方を探していこう。

ログインするとこう見えるんだ。
フォローしているバラバラな呟きの流れが面白い。
会話もあればひとりつぶやきもあり歌詠みもいるし
ムーミン谷の住民もいる。

チトあちらと重複するけど、
今「時代劇専門チャンネル」で「半七捕物帳」を放映中。
1979年放送のもので、主演は尾上菊五郎。

半七の場合、σ(・_・)は原作に愛着があるので、
なるべく元の雰囲気を崩さずにやってもらいたい。
去年の夏に同じチャンネルでやった里見浩太朗版は酷かった。
里見さんがどうこうじゃなくて、他の捕物帳と全然区別が
出来ないほどで、何で「半七」の名でやるのかと、
脚本や演出に激しく違和感。一回で見るのを止めた。

今回のはそう悪くはなさそうだ。幾分期待。
金曜日のは「矢がすりの女」だった。
頬に矢傷がある矢場の女に、旗本の若様、そしてタイトル、
確かに記憶にはあるのだけど、やや設定が違うような。
それで「半七」の文庫本6冊を取り出して、パラパラしてみた
ものの見つからない、違う題名かとも思ったけど…

同じ綺堂の「三浦老人昔話」シリーズの「矢がすり」だった。
脚本はだいぶ話を膨らませている。
本当の姉弟とは知らず、矢がすりの女と旗本が愛し合い、
家族の反対(というか斬られそうになる)を押し切っての駆け落ち
というメロドラマな展開になっている。

この辺りは原作とは大きく違う。
綺堂の作品はもう少しあっさりとした散文的な展開で、
でも如何にもありそうな話なんだけど。
まあテレビ用には仕方ないか。

私としては一度原作に忠実な、そして映像としても
楽しめる半七ものを見てみたい。
小説の地の時代は明治で、話者の若い新聞記者が
老人になった半七の家へ毎回昔話を聞きに行き、
そのときの世間のちょっとした出来事から連想して、
半七老人が昔の捕物話を、特に手柄顔ではなくて、
失敗談も交えながら、慎みを持ちながら語っていく、
その語り口がたまらなく良いのだが…
このスタイルを踏襲してもらいたいものだ。

「三浦老人昔話」にも面白い話が詰まっている。
三浦老人は江戸時代は大家さんで、半七とも面識があり、
半七に登場する同じ新聞記者が聞き手となる。
この回顧談(懐古でもある)形式というのが、
ノスタルジックでまた好ましい。
「鎧櫃の血」「落城の譜」「権十郎の芝居」「刺青(ほりもの)の話」
などが特に好きだ。
三浦老人シリーズは「鎧櫃の血」(光文社文庫)所収。

では。また。

00年代も

2009-12-24 22:51:36 | 読書

あと少しで終わりですね
21世紀00年代の最初の年にネットを始めたので
パソコンと共に過ぎたこの十年間には
些かの感慨があります
こんばんは

そして大過なく20年代に辿り着けるのか、
何だかおぼつかない心地です(^^;;

いつもの如く本の話を少々。

やたらといろんな文庫が出ている昨今ですが、
マニアックなラインナップのウェッジ文庫に
注目しています。通好みというか渋過ぎる。
何しろ新刊が室生犀星・内田魯庵・馬場胡蝶・
薄田泣菫といった面々の復刻本だったりする。

平山蘆江「蘆江怪談集」も、
「幻の怪談集、75年ぶりに、遂に現わる!」
というコシマキに惹かれ購入。読んでしまった。

冒頭は「お岩伊右衛門」 所謂四谷怪談。
あくどい描写はなく、お岩様のつのる嫉妬心を
あっさりとした筆致で綴る。余韻ある鮮やかな幕切れ。
伊右衛門は極悪人には描かれてはいない。
婿入りすればさぞ大事にされると期待していたものの、
実際にはかえって家事や父娘の世話までさせられて、
以前の方が余程気楽だったとこぼす始末。妙に可笑しい。

「怪談青眉毛」
旗本が、ふと見掛けた商家の器量自慢の若い嫁を、
間男をしそうな嫌な女だなと思い始めたら、
それが頭から離れず、夢にまで現れるはで、
どんどん憎らしくなって…
幽霊の掛軸と百物語が絡む。
あれよあれよというその過程が恐ろしい。

「火焔つつじ」 
語り手は妻妾同居だった二号さん。
つつじが満開の頃になると、庭一面が燃え上がったり、
我が子が血まみれになったりする幻影に度々襲われると言う。
本人も自覚していないらしい本妻の生霊のせいだったのか…
聞き手であり、急な大雨が縁で知り合った第三者の男が、
その炎上を目撃する場面にはゾッとさせられる。傑作

「鈴鹿峠の雨」
話し手が山道を歩くのに合わせて聞こえる話し声、
追い抜いたはずなのに、先回りしたように現われる男女。
そして旅館にまで付き纏われる…
因縁の謎解きより、昼間の深い山中の描写が良い。

「うら二階」
は子供を守ってくれる優しいおばあさん、
憑いてる家の話なのだがちょっと良い。
薄気味悪いようなほっとしたようなという両親と同じ印象。

「大島怪談」
入水した女性の着物を旅館で干しているというのも
妙にのんきなものだが、その後ろ向きの襟の辺りに
何か黒いものが見えたと思ったら…
一度見直しても怪異が消えない場面が秀逸。

人間の妄執が恐ろしい「悪業地蔵」「縛られ塚」、
水死人ののっぺらぼうな顔からたらりと血が流れる
のが哀切だけど、生理的にもキてしまう「二十六夜待」
 
「火焔つつじ」「うら二階」「怪談青眉毛」あたりが、
特に私には楽しめた。

それから学研M文庫の「伝奇ノ匣」シリーズ。
「本朝伝奇文学の法燈を新世紀へと継承する」のは、
その意気や良し!だけど、ほとんど品切れで続刊も望み薄。

σ(^_^;もそのうちと思ってたら品切れの巻が続出、
一年ほど前にamazonマーケットプレイスで1(国枝史郎)~
6(田中貢太郎)を購入。
結構お高かったので一日二回ずつ値段の確認をして、
安いのが出ればさっと買ってしまうといせこい方法で入手。
内五冊は各2000円以内で、一冊だけは少々値が張った。

そのシリーズの一冊の伝奇ノ匣4
「村山槐多 耽美怪奇全集」を読み始める。まだ途中。

冒頭にはお気に入りの槐多の画を、入手した江戸川乱歩が、
熱く語る「二少年図」を所収。
小説・短文と詩が交互の配列。

小説「悪魔の舌」は久しぶりの再読。
悪食の場面はウッと来るし、結構グロだが、
後味はあまり悪くない。

空を飛び、飛行機さえ襲う青面の怪小僧に魂消た
「魔童子伝」。シュール過ぎる。

詩はほとんど馴染みがなかったけどなかなか良い。
「四月短章」「血の小姓」「君に」あたりが気に入る。

『げに君は夜とならざるたそがれの
美しきとどこほり、
げに君は酒とならざる麦の穂の
青き豪奢』「君に」より 『…』内は引用。

このフレーズは昔何かで読んでいいなあと思ってたんだけど、
全体は知らなかった。でも予想通り少年に宛てたものだった。

例年の如く降誕祭前夜は家で楽しんでおります。
毎年シャンパンなのに、今年はシャンパン嫌いの家族に
押し切られ、デイリーワインになってしまった(-_-;)
鶏も昨日食べたので、今夜は牛でした。

クリスマスソングを貼り付けてみました。
「きよしこの夜」のドイツ語版(Stille Nacht, heilige Nacht)

σ(・_・)の好きなコーラスグループの
コメディアン・ハーモニストが歌っているVer.です。

他には「もみの木(Der Tannenbaum)」なども良いですね、
パクられ変な歌詞を付けられ「赤旗の歌」にもなってますが(笑)

酩酊ブログでした、御容赦。
では、また。


手袋をはめる度に

2009-12-20 22:34:23 | 読書
先が少し余って
指が短いのを自覚する昨今です
こんばんは

すっかり真冬ですね。
週末雪が降らなかったのは残念、
あの数年前の、花の頃みたいに、
街の風景が一変した、雪の日を思い出します。

年末恒例の貸出期間延長中なので、
つい先日、中央図書館へ行って来ました。
久しぶりだったけど、本が揃っているし、
やっぱりここの雰囲気が好ましい。
徒歩で行ける地元館も良いけど。 

重い単行本を何冊か借り、
さらに古書や新刊を取り混ぜて購入しつつ、
クタクタになりながら三宮方面へ歩く。

そしてアーケードの無いところへ出た。
見上げれば、雲もなく薄い水色の冬空、
のっぽなビルの上層階だけが夕日に染まり、
輝いていて暖かそうな色なのに、
地上は日暮が迫り寒かった。

上は明るく下は暗い。
何だか谷底か水底にでも居るような心地で、
不意打ちのちょっと美しい眺めだった。
周りの雑踏を一瞬忘れた。

白洲正子「花にもの思う春」読了。

万葉・古今と新古今との比較、歌合の変遷、
枕詞・歌枕の考察などの新古今集の俯瞰と、
八人の歌人(後鳥羽院・良経・俊成・定家・式子内親王・
(源三位)頼政・家隆・西行)の生涯と歌の鑑賞の、
二部構成。

この方の著作は初めてだったけど、
鋭敏かつ繊細な感受性を持った鑑賞者が、
自ら気に成っている事柄を中心に、分かり易い言葉で
語ってくれているような印象。

新古今は『完璧なものの美しさと、
完璧なもののひ弱さを備えている』
【*】『…』内は引用(以下同様)

歌枕は枕詞に成り代わるもので、信仰に近く、
生命力を持つものである。
隠岐での後鳥羽院には、悲壮というよりも、
むしろ『見るべきものは見てしまった落着き』
のおごそかさを感じる。
などの指摘にはなるほどと頷ける。 

官位に執着して除目の度に狂奔する定家。
自分より先に昇進した者の名前を数十人も挙げ、
まるで今の某掲示板みたいな悪口雑言を書き連ねる定家。
に対して何が「紅旗征戎非吾事」(戦争は私の仕事ではない!)
かと歯切れが良い。

西行には多くの不思議があると書き、捉えどころのない
その漂うような心の動きを探ろうとしているが、
歌人一人につき20頁前後では足りなかったようで、
このあと西行については一冊の本を書かれている(未読)

でも次は新潮文庫から出ている、
「私の百人一首」か「両性具有の美」あたりが読みたい。

σ(・_・)の中では古典がまだまだ熱いので、
歌合に関連して、「六百番歌合」(岩波書店)を覗く。 

まず左右一首ずつの歌(題詠)が並び、
左右の方人は相手方の歌に欠点があれば指摘する
(これを「難陳」という)、
そのあと判者(俊成)がいずれかの「勝」か「持」(引き分け)
を宣告して、評釈を加える。

あの『源氏見ざる歌詠みは遺恨の事也』
の名文句も六百番の判詞に現れる。

なかでも難陳が面白いのだ。
「この語が耳障りだ」「題が表現されていない」とか、
「一首中に薄墨と夕霧の語があり矛盾する」
(前者はぼんやりと見えるが、後者は隠れて見えなくなる@解説)
(この重箱の隅をつつくような細かさが好きだ・笑)など。

ちなみに「薄墨と夕霧」の判では、「みな薄墨に」の句が、
皆が服喪しているようで不吉(薄墨は喪服の色)、
晴れの歌合では使うべきでないとして「負」となる。

かと思えば、左右の出来が素晴らしく、
「互いに感心した」という場合もある。
俊成も感動を込め優劣をつけず引き分けとしている。
それはこんな歌↓
「吉野山花のふるさと跡たえてむなしき枝に春風ぞ吹く」良経
「山の端ににほひし花の雲消えて春の日数は有明の月」慈円

「官職要解」「女官通解」(ともに講談社学術文庫)
などもぱらぱらと。
同文庫の「有職故実」も買おうかな
と際限もなく本が増えそうです。困惑(-_-;)

では。また。

やっておしまい!

2009-12-10 22:58:57 | 読書
「ヤッターマン」実写版のDVDを鑑賞
シモネタ満載の大人向けヤッターマン
場面毎にツボと突っ込みどころが満載で
深夜にクスクスとしっぱなしだった者です
こんばんは

「スカポンタン」の罵倒語も懐かしく、
深田恭子のあのコスチュームと、
あの幼げで甘ったるい声とのアンバランスが、
かなりインパクト大でした。

ウケた小ネタといえば、
ボヤッキーの妄想のJK盛り合わせとか、
ハッチ公前広場にみつばちハッチの像があったり、
ヤッターワンやヤッターキングの乗り心地が最悪とか、
書き出せばキリがないほど。
ドロンジョがヤッターマンに対して「この泥棒が」の
台詞にもウケた。

エンディングのあと次回作の予告があった。
この手のものは一回限りでいいのに、
とくにそれなりの出来ならなおさらのこと、
劣化は見たくないと、wikiを見ると、
どうやらお遊びらしい。流石。

太宰治「ろまん燈籠」(新潮文庫)は読み終わった。
昭和15年から19年にかけてかかれたものだが、
全体に意外なほど明るい、それは「アカルサハ、
ホロビノ姿デアロウカ」という例のフレーズよりも、
しっかりと地に足がついた実体があるような明るさだ。
一番気に入ったのはやはり前回書いた表題作だった。

その他の短編について幾らかコメントを。

「服装について」
若い頃、江戸の通人を気取って粋な格好をして、
東京弁を操っていたのに、おでん屋の姉さんに、
「兄さん東北でしょう」と無邪気に言われた失敗談から、
自嘲も交え服装に関する悩みのあれこれが綴られる。

これが面白い。時代は違えど、季節の変わり目には、
着る物の選択には苦労するとかは十分に頷ける。
大雨や水害を招く家内の亡父の遺品の銘仙や、
トラブルを呼ぶ魔のセルなどがの描写が、
恐ろしいよりもどこか微笑みを誘う。

「誰」
「サタン」呼ばわりされたのがショックで、
サタンという言葉の考証やら何やらをやった上、
周囲も巻き込み、「無精者」を経て「馬鹿」で落ち着く。
主人公の借金の申し込みの手紙の、文章をいちいち朱筆で
添削して、保存までしている先輩には笑ってしまった。
最後のオチは蛇足か。

「十二月八日」と対を成す「新郎」、
こちらは作家の夫の視点から、一日一日を大切に
と自分に言い聞かせるような、やや不安定な気分と
ぎこちなさが伺える。私は「十二月八日」の方が好きだ。

「禁酒の心」
戦時下、お酒が自由に手に入らなくなった時代を、
皮肉を込め、諧謔を弄し、滑稽に描写する。
足りないと報道されるから、普段飲まない人達までが、
買いに走るという、酒不足の説明が何だか珍妙だ。
私など軍や小役人がちょろまかすからだと思ってしまうが。

「鉄面皮」
「右大臣実朝」の宣伝のような文章なのだが、
むしろ鉄面皮を着脱可能なお面や仮面のように
形容するのが可笑しい。鋼鉄製で男性的と。
『鉄面皮というのは、男の美徳かもしれない』
【*】『…』内は引用(以下同様)

「佳日」
照れ隠しのため、やや横柄に見られがちな友人の
結婚の世話をする破目になった主人公の奔走振り。
会津武士の末裔らしい新婦の慎ましくて上品な実家の
人々が印象的。案外上手くいきそうだと思わせて終わる。

「散華」
二つの若い死の対比。
第一の若者は、病床で母と静かに世間話をしていて、
ふと口を噤んだまま亡くなってしまう。
『天地の溜息と共に散るのである』
至福とでもいえそうな旅立ち。

第二の若者はアッツ島で玉砕する。
戦死を覚悟した最後の手紙に撃たれるが、
話者(太宰)が一番感動したのは、
『大いなる文学のために、死んで下さい』
という太宰への激励の部分ではなかったのか。

「雪の夜の話」
食糧不足の話は単にまくらで、
仲の良い身重の兄嫁に、胎教のために、
百万の蛍のように乱れ舞う綺麗な雪を、
自分の目にしっかりと焼き付けたうえで、
その瞳を兄嫁に見せて上げたいと願う少女の語りが良い。

人間の行動も含めた、
汚いもの醜いものは見せたくないのだ。
太宰の女性一人称は結構当たりなのが多いように思う。

「東京だより」
『全部をおかみに捧げ切ると、人間は、顔の特徴も
年恰好も綺麗に失ってしまう…』というのは、
今から見ればごくありふれた全体主義批判だが。
もともと個性をあまり尊重しない日本では、当時これは、
批判でも何でもなくて、むしろ奨励すべき事柄だった
のではなかったろうかとも思ってしまう。

そんな工場動員された少女たちの中に、顔も服装も
変わらないのに、美しくそして厳粛で崇高にさえ
感じられる一人の少女が目に付く。

少女たちが行進しながら退社する場面に遭遇し、
主人公はその理由を知る…
太宰の中期の理想像はキリストと実朝だと、
何かで読んだ記憶があるが、それを思わせる結末だ。

この時代にありながら、あからさまな戦争協力を思わせる
箇所はほとんどなく、世相への一抹の懐疑を含み、
そしてなによりも「自分の為すべき仕事は文学だ」といった
太宰の気迫が伝わってくるような、豊穣な小説群だった。

現在「新樹の言葉」(新潮文庫)読書中。

明日はWポイントかつ千円の金曜か。
迷うなあ、どうしよう。
シネ・リーブルの話ですが…

では。また。

むかしいくさありけり

2009-12-08 23:13:45 | 読書
追加経済対策膨らみ
いまさらの公共事業も復活
またあの連立相手のゴリ押しか
好きな諺は何ですかと聞かれたら
狡兎死して走狗烹らると答えたい気分です
こんばんは

この場合、「兎」は来年の参院選ですかね。
まあこんなウンザリゲンナリな話題は
これくらいにして。

最近味読しているのが、
塚本邦雄「王朝百首」(講談社文芸文庫)です。

毎日二・三首ずつ、それも何度も前に戻り
読み返したりするからなかなか進まないが、
その方が長く浸っていられるからかえって心地良い。

百人一首に秀歌はほとんどないという考えから、
人選を少し変え、新たに選んだ塚本版の百首。
序文にあたる「はじめに」からして既に格調が高い。
これらの見得を切る言葉の綺羅が大好きです。

『英帝後鳥羽、天才良經、定家を核として、
滅びに向ふ王朝のその夕映月映の狂ほしいまでに
華やかな光をとりあつめた絶唱の花筐新古今』

古典は『日本語を愛し憎み、これから終生離れ得ぬ私たちの、
今日のため、否明日のために存在するものであり、
心ある人の手で呼び覺まされる時を待ちわびつつ
霞の奥で眠つてゐる』

(結句)『花筐は今覆ひの下で七世紀の後の
子女弟妹に見(まみ)えようと息をひそめてゐる』

ちょっと引用が多くて御容赦。『…』は引用です(以下も)

一首に付き各三頁の紙幅に、
変幻自在で散文詩風な現代語訳と、
歌意と鑑賞の要点、作者の略歴、他の秀歌などが紹介される。
これらの文章が歌に劣らず、詩的で素晴らしいのだ。
大胆な断定にも拍手を送りたくなる。

第一首目の業平の項では、「月やあらぬ」が採られている。
『「月やあらぬ」と空をふり仰ぎ「春や昔の春ならぬ」で
地上を眺め「もとの身にして」とうなだれて思ひに沈む』
このまるで業平と塚本の共作のような文言に
うっとりとしてしまうのです。

そしてまとめとして古今集序文の評価は当たらず、
業平は王朝初期の和歌の名手であり、男性の理想像と
永く愛されるに足る人物であると結ぶ。

一人一首基本だけど、別格の業平・貫之・定家・良経
式子内親王・実朝が二首。
この評価も私の好きな歌人とほぼ重なるのが嬉しい。
贔屓の引き倒しのようなレビューでしたが…

しかし古語とはいえ日本語なのに、詳しい訳がないと、
細かなニュアンスが分からないことが多々あり情けない。
だから古語辞典、「新古今和歌集」(ハンディな文庫版が欲しい)、
矢崎藍「みもこがれつつ 物語百人一首」(秀歌がないといわれても、
やっぱり美しいと思う歌も入っているので)等が必須の参考書です。
それから昔みたいに楽に歌が暗記できなくなったのも(-_-;)

ところで昨日は偶然、太宰治の「十二月八日」
(新潮文庫「ろまん燈籠」所収)を読んだ。
短い小説だったけど色々と複雑な感想を持った。

作家の妻の日記形式による開戦の日のスケッチ。
冒頭では夫とその友人の愚にもつかない会話…
二人は紀元二千七百年(開戦の年からいえば99年後!)の
「七百年」の読み方が、「しちひゃくねん」なのか、
「ななひゃくねん」なのかを話題にしている。
そして遠い未来には発音など変わってしまい、
「ぬぬひゃく」かもしれないとか脱線する…
をユーモラスに描写する。

夫のぎこちない愛国心の発露を客観的に眺めていたのが、
自ら激したのか、敵愾心に満ちた言葉が突如現れる。

野蛮で無神経な米兵が、
『此の神聖な土を、一歩でも踏んだら、
お前たちの足が腐るでしょう』なんて文章も、
今となってはただただ痛々しい。

なにしろ数年後の現実は、
子供は「ギブ・ミー・チョコレート」でよって来るし、
パン(以下二文字削除)だって纏い付くといった、
惨憺たるものだったから。
太宰はその光景を目の当たりにして何と思ったのか?
まあそんなものだろうとあまり驚かなかった
という気もするのだけど。

ラジオのニュースや新聞、御近所の様子や、
街角での人々の反応が綴られる。
そしてつましい夕飯のあと、赤ん坊を連れて銭湯に行く。

子供を慈しみ、人目も気にせず(他の母親たちも
それぞれの子供が可愛くて仕方がない様子だ)、
大事な玉のように入浴させる場面は印象に残る。
「鬼畜米英」の時代でも変わらぬ人の親としての愛情が出ていて、
ホッと、そしてほろりともさせられる。

それから昭和16年当時の感覚でも「敵は幾万」は、
古い古い軍歌だというのも興味深かった。オタ感想ですw 
たぶん「元寇」も「四條畷」も既に骨董品だったんだろうな。

では。また。

暮夜俄かに

2009-12-05 23:24:40 | 読書
息苦しくなったりしませんか?
神経症系なのでどうって事はないと思いながら
最近の比較的若い方の訃報などが気になって
つい周章狼狽してしまう者です
こんばんは

考えてみれば、二十歳前後には既に
何か悪い病気に罹るんじゃないかといった
疾病恐怖みたいなのがあった。
それどころか小学二年生のときには、
はっきりと死が怖かったのも思い出した。

そのわりに、今のところのはすぐ疲れるけど、
病気らしい病気はしていない。
メンタル以外は病んでいない(噫)

ところで地元ネタですが、
六甲アイランドのMOVIX六甲が来年早々に閉館。
実は一度しか行ったことはないのだけど、
なんと初めから終わりまで、広いシアターなのに、
観客が私一人だったという稀有の経験をさせて貰った、
ある意味思い出の映画館なのだ。

見たのは諸星大二郎の「生命の木」(名作中の名作!)
を映画化した「奇談」(映画自体は…)。
広い空間の中でちんまりと座りながら、
死体が突然動いた箇所では「ヒィ」と小さな声を出し、
不死の大群がパライソへ逝っちゃうシーンでは、
原作に敬意を込めて感動したのを覚えている。

あんな大型シネコンでも経営が厳しいんですね。
去年にはシネカノンが無くなったし、寂しい限りです。
ガンバレ、シネ・リーブル! KAVCも。単館系万歳!

太宰治「パンドラの匣」(新潮文庫)所収の
表題作をサクサクと読了。

「健康道場」という風変わりな結核療養所で、
闘病している少年が友人に宛てた手紙形式の小説。

戦争中、少年は体が弱く、旧制高校へ進学することもならず、
自分の体を痛めつけるように、畑仕事に熱中していた。
そんなある日の真昼間に「玉音」を聞き、すぐに「喀血した」
と母に告げて、この療養所に入ることになった。
その日以来、彼は新造の大きな船に乗り、いまだ誰も
経験のしたことのない航海に出たような気分だ、と書く。

院長が場長で、看護婦さんは助手、入院患者は塾生。
助手と塾生はお互いに綽名で呼び合ったりしている。
話者の少年は「ひばり」で、「桜の間」(旅館みたいだ)での
同室者は、「越後獅子」「つくし」「かっぽれ」といった具合。

助手と塾生の挨拶が何とも振るっている。
『ひばり』 ― 『なんだい』
『やっとるか』 ― 『やっとるぞ』
『がんばれよ』 ― 『よし来た』

新しく同室となった「固パン」を巡るエピソードや、
化粧の濃い助手の排斥運動が起こり、その中心となるのが
隣の「白鳥の間」(!)の面々で、彼等が硬骨漢でデリカシー
に欠けるというのもなんだか可笑しい。

こんな感じで当時まだ死病だった結核病院とは
思えない明るさ(と幾分のせつなさ)がある。

看護婦の「竹さん」や「マア坊」への初々しい感情や、
それを友人には事実と違った報告をしてみたりと、
いかにも少年らしくて微笑ましい。
とにかく向日性の小説だ。

「パンドラの匣」所収の「正義と微笑」はちょっと後回し、
「ろまん燈籠」(新潮文庫)を読み始める。

冒頭の表題作がまた良かった。
五人兄妹が家庭内の恒例行事である小説の連作を行う。
物語には書き継いでいく彼らの性格が巧みに反映する、
そして執筆中の他の家族とのやり取りが楽しい。
父を亡くしたこの一家は、五人の他・母・祖父母から
女中さんまでが魅力的なのだ。

小説お披露目の場での団欒も賑やか。
『ロオマンスは酔うて聞くのが通(つう)なものじゃ』と
ウイスキーを飲み過ぎたおじいさん、愉快な方です。
(とうとうおばあさんに叱られた) 
【*】『…』内は引用。

他の読み掛け。
東雅夫(編)「文藝怪談実話」(ちくま文庫)
塚本邦雄「王朝百首」(講談社文芸文庫)
白洲正子「花にもの思う春 - 白洲正子の新古今集」
(平凡社ライブラリー)

最近またσ(・_・)の中では古典が少し熱いのです。

では、また。

【追】↓YouTube埋め込みできました、今更だけど(^^;;

長閑師走朔日二日

2009-12-02 21:38:52 | 読書
また長らくご無沙汰してたら
今年もあと一ヶ月になってしまいました
こんばんは

昨日の新語・流行語大賞が「政権交代」なのは妥当だろう。
選挙のときにはその不毛な選択に呆然となったものだが、
いざ民主になってみると、もともと期待値がすご~く
低かったので、この程度ならまあまあなんて思ってしまう。
騙くらかされてる気がしないでもないが…笑

もちろん不満も多々ある。
連立した盲腸二つ、一方はわりと静かだけど、
他方はわがもの顔でやりたい放題、しかも頭の中は
自民の古い人以上のアナクロさという笑止な状況。
なんとかならんのあれ?

にしても「ぼやき」はどこが流行語なのやら。

話し変わって、
更新してなかった間も本はやたらと買ってしまった。
明らかに読むペースより溜めるペースのほうが速い。
自室の本の山が段々と広がって高くなっていく(汗)

「日本幻想作家事典」(国書刊行会)
などという1000頁以上もある大冊を座右に置き、
悦に入っております。
発売は知っていたから、通販で注文すれば良いものを、
とにかく手に取ってみたくて、大型書店まで行って、
あれこれとページを繰ってたら、すぐにも欲しくなり、
その重たいものを持って帰る破目に。
(書店で確認、注文は通販という手もあったのに)

この事典の前身「日本幻想作家名鑑」(幻想文学出版局)('91年)
も所有しているので、両者の記述の違いや、新しい人物や項目等、
興味のある部分から手当たり次第に拾い読みしています。
明治以前の古典作家が加わり、「怪奇幻想漫画家事典」も併録
されているのもうれしい。

「ヴィヨンの妻」(新潮文庫)
太宰生誕100周年のブームに煽られるように読了。
過剰な自意識が纏わりついた文章という印象は同じだったが、
ずっと前に「晩年」を読んだとき程には、鼻にもつかなかったし、
不快でもなかった。

個々の短編にちょっとコメントを…
同じ頃に書かれた「父」と「母」、「父」は太宰を思わせる家庭を
省みない父親の話だが、「母」の題名は悪趣味だけど見事な変化球、
確かにこの商売(人類最古の職業の一つ)の女性が
このシチュエーションに遭遇したら、
そりゃあやるせないだろうな。

「ヴィヨンの妻」、あの強盗・人殺しのフランソワ・ヴィヨンに、
もし妻がいたとしたら、この小説の話者のような健気さと
捨て鉢な楽天さが奇妙に同居している女性ではなかったのかと、
思わせてしまうような見事な描写。

「トカトントン」、この虚無の槌音(?)も面白いけど、
この短編の要点は最後に付けられているごく短い処方箋だろう。
お前は醜態がまだまだ足りん!

「おさん」、夫に他の女性と心中されてしまう妻の視点から。
客観的に自分を描写できる一方、自身に対する執着からも
逃れられない、何ともな状態。
こんなところに魅力を感じるのかも(細かく言うと七割程の
魅力と、残りはもう勘弁といった塩梅だけど)

「桜桃」、一人称と三人称が混ざり、不安定な雰囲気。
「子供より親が大事」と呟きながら、大皿に盛られた桜桃を、
むしゃむしゃと食べる男が印象的。

三島由紀夫「純白の夜」(角川文庫)
憂国忌の前に思い付いて読み始める、薄いのにやっと読了。
1950年、「婦人公論」に連載。

裕福な銀行員とその美貌の妻、銀行員の学生時代の友人の、
三人によるドラマ。
友人は妻に一目惚れし、妻も彼に惹かれ、
ときに夫婦は共犯となって友人を翻弄する。
不倫はゲームの駆け引きのように進行する。
(小説の中では「スポーツ」という語が用いられる) 

精密な心理描写、気の効いたアフォリズム、
言葉ですべてを表現しようとする20代半ばの
三島の才気が十分に伝わってくる。

物語は悲劇として幕を閉じる。
退屈しそうで退屈しなかった。
戦前の豊かさをどこか引きずるながら、
戦後を上手く乗り切っていく主人公たちが
浸っている時代の雰囲気の描写も興味深かった。

三島は次に「恋の都」「夏子の冒険」などが待機中。
太宰は映画「パンドラの匣」をぜひ見たいから、
これも早く原作を読まないと…

長くなったので上に続きます。
では、後程。

蜻蛉ノ神國ノ一齣

2009-09-06 22:29:46 | 読書
もう九月というのに
週末の夕方にちょっと出掛けたら
あまりの蒸し暑さに閉口
汗だらだらでヘロヘロに
なってしまった者です
こんばんは

前回は酩酊ブログだったので、
ユニ萌え云々などとついいらぬことまで…

「萌え」なんて三次元では全く使わない言葉だけど、
先日あるサイトさんで見かけた、「ふぁし☆すた」と
書けば萌えアニメみたいだの文言には不意を衝かれた。
ウケた。それで嬉しがって使ったミーハーです。

吉田修一「パレード」(幻冬舎文庫)読了。
実は初めて読む作家さん。

都心の2LDKのマンションでルームシェアしている
大学生の良介(21)、ワケあり恋愛中で無職の琴美(23)、
雑貨屋店長の未来(♀)(24)、映画配給会社勤務の直輝(28)。
この四人と、途中から加わるサトル(18)が、
一章ずつ語り手となって物語がリレー形式に進行する。

良介が語り手の第一章。
比較的暇な彼と、全く暇な琴美が、テレビを見ながら、
マイ・ベスト・ドラマや、隣室の不審な人の出入り
(あれは売春クラブに違いないと素人推理中)とかの
他愛もない話をしている。

「ナースのお仕事」「エロダコ」「ポア」等をはじめとして
固有名詞や一時流行った言葉がやたらと出てくるので、
執筆時点を切り取った風俗小説風のものかと思っていると、
すぐに間違いだと気付いた。

出身も境遇も全然違う多くの友人を作って貰いたい
という父親の言葉に、東京の大学へ行く決心をした良介。
そして先輩の彼女との臆病な浮気中の朝食の場では、
突然涙が止まらなくなり、泣いているのは自分の中の
もう一人の自分だという奇妙な感覚にとらわれる。

別れた恋人ともう一度恋愛で苦しみたい(!)と
天啓のような思いが浮かび東京へやって来た琴美。
若手俳優として売り出し中の彼とはめったに会えず、
だらだらと日を送りつつ、呼び出しの電話を
ひたすら待っている。

そんな雑多のエピソードに接しながら、
各人の人物像が少しずつ浮かび上がってくる。
彼らは一様に共同生活での自分は、
自分のほんの一面に過ぎないと考えているのだが、
では本当の自分はというと即答できないもどかしさがある。

ある日酒癖の悪い未来が、オニチョの公園に立っていたウリ専
のサトルを連れてくる。そして彼も一緒に住むことに。

サトルからみると、四人はそれぞれ、「ふぬけの大学生」
「恋愛依存気味の女」 「自称イラストレーターのおこげ」
「健康おたくのジョギング野郎」 で普段なら関わりたくない人物。
それなのに、彼らといて楽しくて仕方がないと独白する。

「それなのに」でなく「それだから」じゃないだろうか。
そんな四人だから、あやしい夜のお仕事に勤務中で、 
「自分の偽史」語りの天才(虚言とはちょっと違うと思うが)
である彼も心地良く混じれるじゃないのかとも思う。

またサトルには、見知らぬ留守宅に上がり込み、
まるで自分の部屋に居るみたいな自然な感じで2.3時間を
過ごすだけという奇癖がある(勿論金品は拝借しない)。
ちょっとだけ理解できて、切ない気分になるエピソードだ。

小説は第五章でショッキングな記述に行き当たる。
解説にもあるように確かにこわい小説だ。
でも私には、こわい以上に、さまざまな解釈を繰り返し、
当て嵌めてみたくなるような、行間の広さがある。

例えば直輝を占った高名な占い師の言葉
『変化を求め、世界と闘っている』
『あなたがこの世界から抜け出しても、そこは一回り大きな、
やはりこの世界でしかありません』も、

読了後には、
この世界とはワールドや宇宙のような大きなものではなく、
ミクロコスモスつまり人間…直輝自身ではなかろうか。
一回り大きな世界というのも、卵の殻を破ったつもりが、
外側にはほんの少しだけ大きな殻が張り付いており、
これを破ってもまた次の殻がと無限に続いているような、
そんな息が詰まるようなイメージを浮かべてしまった。

まさに
『あなたと世界との闘いでは、完全に世界の方が優勢です』
【*】『・・・』は引用。以下も同様。

軽そうに見えて思わぬ質量がある小説。

表題は、今ではすっかり忘れ去られたイタリアの作家が、
日本の読者のために書いた見事な日本語の手紙から一部拝借。
改造社版の世界大衆文学全集第80巻「有効期間十日間」
(昭和6年)の冒頭にその手紙の写真が載せられている。

私の稚拙な字(汗)よりもはるかに上手で、
旧仮名遣いの折り目正しい文章が綴られている。

まだ日本には行ったことがないが、
『私は驚異すべきこの蜻蛉の神國を敬慕してゐる』
新聞漫画雑誌枕草子地図統計絵葉書切符などが、
私の日本学の教授だったとある。

長くなってしまったので、以下は略して最後の署名のみを。
『フアッショ第九年十二月 羅馬において トッディ』
フアッショ9年って西暦何年?と思いつつ、

では。また。

早寝始めました

2009-09-02 23:58:33 | 読書
といっても月曜の夜からで
零時半頃就寝といったものですが
こんばんは

これまでの午前3~4時に比べると随分早くなったかと。
処方されているのにあまり服用していなかった
抗不安薬をきちんと飲むようにもなった。
(具体的・即物的なものではなく、あやふやなふわふわと
した不安が昂進中なんです;)
幾分多めに飲んでしまい、なんとなく眠いのですが、
気分は凪いでおります(苦笑)

ところで先日の衆院選、
私には選択肢のない無意味な選挙だった。

しかしやはり自民の大物はしぶとかったなあ。
もし有能な中堅若手が残って、古狸が落ちていれば、
もっとマシな党になった自民が、
民主がだめだったときの立派な受け皿になって
先進国並みの二大政党制になる可能性があったのに。

名は挙げないが、落選して目出度い人も・笑
小泉チルドレンのおっちゃん風オバハンの落選の弁は
何を言ってるのかさっぱり分からなかった。
悔しいのは分かったが…

いけ好かない議員落選に、
こんな政治ジョークを思い出した。
あのいつだったかイカレタ(?)奴が天下り役人を
続けざまに殺害しようとしたときにも思い浮かべたが。

「スターリン・ジョーク」(河出文庫)のあとがきに載ってるお話、
『ある議員が同僚に言った。
「死体が川をプカプカと流れて行く、パイプを咥えて、
背中にナイフがぐさりと刺さっているんだ」
「で、それから?」
「それだけさ、だけど、気持ちが良いだろう!」』
*『…』内はいくらかはしょった引用です。以下も同様。

当時の聞き手だったら、この死体がドイツの政治家ヴェーナー
のことだとすぐ分かるとか。

編者の平井吉夫によると、
アネクドートの一部には、『「陰湿な性格」「攻撃的傾向」があり、
中立的な聞き手を、「共同憎悪者」「共同侮蔑者」に変えるべく、
語られるものであると』
うんうんとうなずける分析。

最近読んだ本。
三浦しをん「風が強く吹いている」(新潮文庫)

流石は しをん女史の小説、
熱血が苦手なσ(^_^;でもじ~んと来る場面が多かった。
でも決して暑苦しくはなく、押し付けがましくもなかった。

個性豊かな下宿生たちが住むおんぼろアパート「竹青荘」(通称アオタケ)。
足の故障により強豪校には進学しなかった寛政大の清瀬灰二(ハイジ)
の箱根駅伝を走りたいという思いは募るばかり。
そんなとき天才的ランナー蔵原走(かける)が入学して、
ひょんな偶然からアオタケに住むことになった。

全住民十人を巻き込んでの箱根駅伝挑戦。
(まず予選会に合格しないと本レースには出れないのだ)

速さばかりにこだわり、一生懸命走っているタイムの遅い人間を
否定するような発言をする走に、ハイジが放った台詞が良い。

『きみの価値基準はスピードだけなのか。
だったら走る意味はない。
新幹線に乗れ! 飛行機に乗れ! 云々』

走が畏怖するほど人間操縦術に巧みながら、
決して策士風の冷たさは無く、
懐が深いハイジが魅力的…
自分の弱点や痛みを良く知り、神経が細やかで、
他人の心情も良く理解して、良い方へ導いていく。
多少強引なところやはったりもあるのだが。

走ることにしか興味が無く、自他を傷つけてしまう走が、
アオタケの住人たちに触れることで、他者を意識して、
少しずつ自らが変わっていく過程も良い。

圧巻はやはり箱根駅伝のシーン。
アオタケの面々とともに往路復路を伴走しているような
気分になれる。描写が素晴らしいのだ。 
テレビ中継で走者を見ているような臨場感があり、
ランナーの内面にまで入り込んで、その心の動きや
これまでの仲間とのつながりや家族や自分の人生
が走馬灯のように回想される。

ちなみこの秋、映画化されます。 
映画館に行くかは微妙だけど、DVDはぜひ見たい。

「DIVE!!」みたいなアイドル映画だったら、
チト見にに行き難いなあ~

神戸市民つながりの飲み友達によると、
ほぼ全身露出のDIVEは反ってエロくはなかったとか。
σ(^_^;酔ってたから、もし半ズボンだったら?とか
混ぜっ返したような…

華奢な子が着るサッカーや野球(半ズボンじゃないけど)
のユニホーム姿に萌えたりします
ってシモネタ失礼。ご容赦m(__)m

吉田修一「パレード」(幻冬舎文庫)。
これも来年、映画公開で、購入して読書準備中。

では。また。