「自分自身を信じよ 1/2」本編の続きです。
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さて、この「自己信頼」という主題について、最高の真理がまだ述べられていない。
そしてそれはおそらく、言葉では語りえないものだ。
私たちが口に出すことはすべて、直感が告げることを、遠く離れたところから思い出しているのにすぎないからだ。
その真理について今私が言えるのは、せいぜい次のようなことだ。
よいことがすぐそばに来ていて、あなたが生き生きとしているとき、それは既に知られた、手あかのついた方法でそうなったのではない。
誰の足跡も追いかけていないし、顔色もうかがっておらず、言葉も聞いていない。
そのやり方も、考えも、よいことも、すべて見たこともない新しいもののはずだ。
頼りにできるお手本もなければ、経験もない。
君の行く道の後ろには人がいても、前にはいない。
かつてはみなその真理に仕えていながら、今はそれを捨ててしまっている。
不安も希望その真理には及ばない。
希望にさえその真理に比べればどこか卑しいところがある。
その真理を悟るとき、感謝とか、あるいは、正しい意味で喜びと呼べるようなものは湧いてこない。
感情を超越した魂は、万物がみなひとつであること、それらの間には永遠不変の因果関係があることを見てとり、「真理」と「正義」が何ものにも依存することなく、それそのものとして存在することを悟る。
そして、すべてが順調に進んでいることを知って安堵する。
大西洋や太平洋といった広大な自然の空間も、数百年、数千年という長い時の経過も、もはや意味をもたない。
私が思い、感ずるこうしたことは、これまでも私の人生と境遇のあらゆる局面において、その根底に横たわっていたし、今現在の自分にも、そして生と呼ばれるもの、死と呼ばれるもの、いずれの根底にも横たわっている。
今生きていること、それだけに意味があり、過去にどう生きたかなど何の意味もない。
力は活動を止めた瞬間にたちまち消え去る。
そして、過去の自分から新たなる自分へと移り進む瞬間、深い裂け目を飛び越える瞬間、目的に向かって突き進む瞬間に現れる。
魂はかくあるのではなく、かくなるのだ―このたったひとつの真実を世の中は嫌う。
それは、この真実が、過去の価値を永遠におとしめ、すべての富豪を貧乏人に、すべての名誉を恥辱に変え、聖人をごろつきと混同させ、イエスとユダとをひとまとめに脇へと追いやるからだ。
ではなぜ、私たちは、自己信頼について、とりとめのないおしゃべりを続けているのか?
魂が存在する限り、力も―何かに頼る力ではなく、自ら行動する力も存在する。
頼ることについて話すのは、的外れな、つたないやりかただ。
むしろ、頼る主体―自己について語ろう。
それは実際に存在し、活動するからだ。
私よりも素直に自分に従う人は、一本の指も動かすことなく私を従わせる。
私は、魂の持つ引力によって、その人の周りをぐるぐる回らずにはいられない。
高い徳について語るとき、私たちはそれを言葉のあやだと思っている。
分かっていないのだ―美徳こそ「至高のもの」であること、そして、しなやかに原理原則に従う人や集団は、自然の法則の力によって、そうでない都市や、国や、王や、富豪や、詩人たちを圧倒し支配することを。
あらゆるものはひとつの聖なる「根源」へと回帰する。
このことは、他のあらゆる命題と同様、この自己信頼という命題においてもすぐに導き出される究極の事実である。
他に依存せず、それそのものとして存在することは「万物の根源」の属性であり、この属性をどれだけ備えているかによって、あらゆるものの価値を見定めることができる。
実在するあらゆるものは、美徳をどれだけ備えているかによって、どれだけ本物かが決まる。
商業、農業、狩猟、捕鯨、戦争、雄弁、貫録については「いくらかは」といったところで、美徳はあるにはあるが、不純物を含んでいる例として私の興味を引く。
同じ原理が自然界における保全と成長においても働いている。
自然界においては、力こそが権力の大きさを計る尺度である。
自然は、自立できないものを、その王国から容赦なく追放する。
惑星が誕生して成熟し、宙に浮かんで軌道を描くこと、木が強い風にたわみながらも立ち直ること、動物や植物の生命を支える資源が存在すること―これらの事実は、自らを信頼し自立する魂が存在することを示している。
こうしてすべてのものが根源へと集約する。
うろうろ歩き回るのはやめ、根源とともに家にとどまっていよう。
この厳かな事実をさらりと宣言して、あなたの中にずかずかと踏み込んでこようとする人や書物や制度といったくだらない連中を呆然とさせよう。
侵入者には靴を脱げと命じよ。
あなたの中には神がいるのだから。
難しいことを考えず、素直に彼らを裁けばいいのだ。
そして自らの法に従いさえすれば、私たちが本来持つ豊かさに比べれば、自然や運命がいかに貧しいかが分かるだろう。
だがまだ今は、私たちは烏合の衆だ。
人間という存在を畏れ敬うこともなければ、自分の魂に「家にとどまり、内なる大海原と心通わせよ」と命じることもなく、外に出かけては、他人の水がめから水を恵んでもらおうとする。
そうではなく、人はひとりで歩まねばならない。
私は、どんな説教よりも、礼拝が始まる前の教会の静けさが好きだ。
聖域に身を置いた人びとは、どこかよそよそしく、穏やかで、清らかな表情をしている。
ならばいつもそうしていようではないか。
友人や妻や父や子どもたちと同じ暖炉を囲んでいるからといって、あるいは同じ血が流れているからといって、彼らの悪いところまで自分のものにする必要がどこにあるだろうか?
あらゆる人の体内に私の血が流れ、私の体内にはあらゆる人の血が流れている。
だからといって、彼らの怒りっぽさや愚かさまで受け入れて、わが身を恥じるようなまねはしたくない。
しかし、世間からの孤立は、機械的なものではなく、霊的なもの、すなわち自分を高めるものでなければならない。
時として全世界が共謀して、些末なことをさも重要そうに言い募り、あなたを悩ましているかのように思うこともあるだろう。
友人や顧客、子ども、病気、恐怖、欠乏、慈善活動が、いちどきにあなたの家のドアをノックして、「出て来なさい」と言う。
そんなときは、悠然と構えていればよい。
彼らのごたごたの中に飛び込んではいけない。
あなたがちらっとでも好奇心を見せれば、人を悩ますことのできる力を彼らに与えることになる。
こちらが動きさえしなければ、相手は近づいて来られない。
「愛するものを私たちは今手にしているが、欲をかけば、その愛するものを自ら奪い去ることになる」
自己信頼という精神の高みに今すぐ上ることはできないとしても、せめて誘惑には抵抗しよう。
ただちに戦闘態勢に入って、私たちサクソン人の胸のうちに、スカンジナビアの神々トールとオーディン、つまり勇気と気概を呼び起こすのだ。
現代のような平穏な日々にあってそれをなすには、思ったままを口にすればよい。
心にもなく歓待したり、心にもなく愛情をかけたりすることをやめるのだ。
欺き欺かれながら付き合っている人たちの期待に応えて生きるのをやめるのだ。
彼らにこう告げるがよい。
「父よ、母よ、妻よ、兄弟よ、そして友よ。これまで私は、あなた方とともに、外見ばかりを気にして生きてきました。これからは、自分に正直に生きます。ですから、承知しておいてください。これからは、永遠なる法以外のいかなる法にも従いません。
おそばにはいますが、それ以上のことは約束できません。両親を養い、家族を支え、ひとりの妻を愛して裏切らないよう努めます。でもこれからは、これまでとは違う新しい方法によって、これらの義務を果たします。従来の慣習には必ずしも従いません。私は私自身でなければいけないのです。もはや、あなた方のためであっても、自分を偽ることはできません。
あるがままの私を愛してくださるなら、私たちはもっと幸せになれるでしょう。それはできないとおっしゃるのなら、それでも私は、ありのままで愛される自分になるよう努めます。
自分の好き嫌いを隠すつもりはありません。心の奥深くにあるものこそ神聖だと信じていますから、陽光のもとでも月光のもとでも、心が喜ぶもの、心が命ずるものを、ためらうことなく行っていくつもりです。
もしあなたが気高くあるなら、私はあなたを愛するでしょう。もしそうでないとしても、うわべをとりつくろうようなことをして、あなたや自分を傷つけるようなことはしません。
もしあなたがご自分の真実に従って生き、その真実が私と違うものだったなら、どうかあなたの仲間を大切にしてください。私は私の仲間を探します。自分勝手な気持ちでそうするのではありません。謙虚で誠実な気持ちがそうさせるのです。これまでどれだけ長く偽りの中に住んでいたとしても、これからは真実の中に生きます。それが、あなたのためでもあり、わたしのためでもあり、すべての人のためでもあるのです。
こんなことを言うのはあなたの耳に冷たく響くでしょうか? でもすぐにあなたも、あなたや私の内なる声が告げるものを愛するようになるでしょう。そして真実に従って生きていれば、やがて私たちは自由の身となれるでしょう」
―こんなことを言えば、親しい人たちを苦しめることになるかもしれない。
だがそれでも、ただ彼らを傷つけたくないという理由だけで、私の自由と力を売り渡すようなことはできない。
それに、きっとみな、理性がひらめく瞬間、不滅の真理に目を向ける瞬間がある。
そのときになれば、彼らも私の言ったことを理解し、私と同じことをするだろう。
あなたが一般的な社会規範に従わないようになると、世間はあなたが、あたかもすべての基準を拒否し、社会倫理までも顧みていないかのように考える。
そして、厚顔無恥な快楽主義者は、哲学の名を借りて、自分の罪を飾り立てるものだ―とも考える。
しかしそれでも私は、自分の意識が告げるところに従うつもりだ。
世の中には懺悔のための部屋が二つあり、どちらかに入って懺悔しなければならない。
自らの義務を果たすために、自らの手で許しを与えてもいいし、世間の手を借りてもいい。
世間の手を借りるのであれば、あなたの父、母、いとこ、近所の人、町の住民、猫、そして犬との関係を良好に築いているかどうか、それともそれらの誰かに非難されてもしかたないかどうか―そのことを考えてみなければいけない。
一方、世間の手を借りず、自分で自分に許しを与えることもできる。
私には、自分で定めた厳格な要求事項と、明確な境界線とがある。
この基準に照らせば、世間で義務と呼ばれている多くのものは、私にとって義務ではない。
自分で定めた義務を果たしさえすれば、世間一般の決まりごとなど無用の存在となる。
そんな生き方は安直だと言う者がいるなら、一度その基準に従わせてみればいい。
実際、自らの基準に従って生きるには、どこかしら神のようなところがなくてはならない。
人間にとって当たり前の動機を捨て、自分に命令するのは自分だけと腹をくくるのだから。
志は高く、意志は固く、目は確かでなければならない。
それでこそ初めて、自分が自分の教義となり、社会となり、法則となることができ、自分が決めた目標が、他人にとっての道徳律と同じように、自分にとって鉄のように強固なものとなる。
分類上「社会」と呼ばれているものの現状をじっくり見てみれば、このような、自分を基準とする倫理が求められていることが誰の目にも明らかなはずだ。
人びとは、肉体的にも精神的にも元気を失ってしまったかのように、おびえ、落胆し、泣き言ばかり言っている。
真実を恐れ、運命を恐れ、死を恐れ、お互いを恐れている。
今の時代は偉大で完璧な人間を誰ひとりとして生み出していない。
人の生き方や社会のあり方をがらりと変えてくれる人間の出現を待ち望んでいるが、現実にはほとんどの人間が破産状態で、自分の必要も満たせないくせに身の程知らずの野心を持って、四六時中人に頼って物乞いばかりしている。
家の切り盛りも、芸術も、仕事も、結婚も、すべてが物乞いと同じで、自分で決められず、社会に決めさせている。
私たちは見かけ倒しの兵士で、そこにとどまってこそ真の強 が生まれる はずの、運命いう過酷な戦場から逃げている。
今の若い人は、最初の企てが失敗に終わると、すっかりしょげこんでしまう。
若い商人がひとたび事業に失敗すれば、周囲は「もうおしまいだ」と言う。
大学で学んだ秀才が、卒業して1年以内に、ボストンやニューヨークあたりで就職できなければ、当の本人も、友人たちも、打ちひしがれる権利、残りの人生を愚痴を言いながら過ごす権利を手にしたかのように思いこむ。
それにひきかえ、ニューハンプシャーやバーモントなどの田舎町から出て来た、たくましい若者は、とっかえひっかえあらゆる職業に挑戦する。
馬や牛を追い、畑を耕し、商品を売り歩き、学校を経営し、教会で説教し、新聞を編集し、議員になり、土地を買う。
こうして年を重ねる中で、たとえ失敗しても、地上に落ちた猫のようにすっくと立ち上がる。
こうした若者は、都会で育ったもやしっ子の百倍もの価値がある。
彼は時代と肩を並べて歩き、「高等教育」を受けていないことをいささかも恥に思わない。
人生を先延ばしにせず、すでに生きているからだ。
彼にはひとつどころか、百万、千万のチャンスがある。
誰か賢者を呼んできて、人間が持つ可能性の扉を開く役をしてもらったらどうだろう。
人はしなだれかかる柳ではなく、自分で立つことができるし、立たなければいけないこと、自分を信頼することによって新しい力が出てくること、人は神の言葉を体現したものであり、世界の人びとを癒すために生まれてきたこと、人から同情されるのは恥だと思うべきこと、法も書物も偶像崇拝も慣習も窓の外に投げ捨て、自らの考えで行動し始めた瞬間、世間はその人を哀れむのをやめ、感謝し敬うようになることを教えさせよう。
そして、それを説くことができた賢者は、人間の生に輝かしさを取り戻した者として、その名前を歴史に刻むことになるだろう。
言わずもがなのことかもしれないが、自己信頼が広まれば、人間のすべてのなりわい、すべての関係において革命が起きる。
宗教も、教育も、働き方も、生活様式も、交友関係も、財産も、ものの見方も―あらゆるものが激変するだろう。
1.祈りと宗派について
人は何という祈りをしていることだろうか!
聖なる勤めと呼ばれているものは、さして勇ましいものでも立派なものでもない。
人びとの祈りは、自分の外に向けられ、自分のものでない美徳の力で、自分のものでない何かがもたらされるのを求めている。
そして、自然と超自然、奇跡とそれを仲介する者があやなす終わりなき迷宮の中で、自分を見失ってしまう。
善なるものを望むのではなく、何がしかのご利益を望んで祈る祈りは不純である。
本来の祈りとは、人が生きるということについて、高い視点からじっくりと考えることだ。
至高のものを見つめ歓喜する魂のつぶやきであり、自らの御業をよしとのたまう神の声である。
祈りを個人的な望みをかなえる手段として用いるのは、卑しいこと泥のごとき行為である。
それは、自然と意識とを別のものとしてとらえており、統一的なものとしてとらえていない。
神と一体化すれば、人は物を乞う必要がなくなる。
そして、すべての行為の中に祈りを見出す。
ひざまずいて畑の雑草を抜く農民の祈りや、膝をついて船をこぐ船頭の祈りこそ、目的こそ世俗的だが、青空のもと、いたる所で聞かれる本物の祈りである。
イギリスの劇作家フレッチャーの戯曲『ボンデュカ』に登場するカラタクは、「神の御心を尋ねてみてはどうか」と忠告されて、こう答える。
「神の秘められた御心は、われらの行動の中にこそある。われらの勇猛さこそ、われらの最高の神である」
もうひとつの間違った祈りは、後悔である。
不平不満を持つのは、自己信頼が足りず、意志が弱いということだ。
不幸を悔いれば不幸に苦しむ人を助けることができるというのなら、悔やめばいい。
さもなければ、自分の仕事に専念するのだ。
そのときすでに不幸の癒しが始まっている。
同情するのも同じように卑しい。
愚かしくすすり泣く者のもとへ行き、そばに座ってもらい泣く。
そうではなく、たとえ相手が強い衝撃を受けることになろうとも、真実を告げ、活力を注ぎ込み、理性を取り戻すようにしてやるべきなのだ。
幸運の扉を開く鍵は、手のひらの中にある喜びである。
神も人も、喜んで迎えるのは、自立している人だ。
自立した人間には、あらゆる扉が大きく開かれ、あらゆる言語が歓迎の言葉を述べ、あらゆる名誉が授けられ、あらゆる目が羨望のまなざしで追いかける。
私たちの愛は進んで彼のところに向かい、彼を包み込む。なぜなら、彼が愛を必要とはしていないからだ。
私たちは躍起になって、まるで詫びるかのように、彼の機嫌をとり、褒めたたえる。
なぜなら、彼がわが道を進み、私たちの非難をものともしていないからだ。
神はその愛を彼に向ける。
なぜなら、人が彼に憎悪を向けているからだ。
ペルシャの宗教家ゾロアスターはこう言っている。
「自分を曲げない者のもとには、われ先にと神々が駆けつける」
人の祈りが意志の病であるように、キリスト教の教義は知性の病である。
人びとは、あの愚かなイスラエルの民とともにこう言う。
「神が私たちに語りかけないようにしてください。さもないと、私たちは死んでしまいます。あなたが私たちとともにいるあなたが、私たちに語ってください。そうすれば従います」
どこへ行っても私は、人びとの心の中の神には会わせてもらえない。
人びとは自分の神殿の扉を閉ざし、自分の友だちの、あるいは友だちの友だちの神の話しか口にしないからだ。
新たなる考えは、新たなる分類を必要とする。
そしてそれが類いまれな力と働きを持つ思想ならば―例えばロックのような、ラボアジェのような、ハットンのような、ベンサムのような、フーリエのような思想ならば、自らの分類を他の人間に押しつけ、そしてご覧じろ!―新しい思想体系を築くことさえできる。
そして、その思想の深さに比例して、また、その思想が手に触れ、門人たちに説明できるものの数に比例して、師の満悦度も高くなる。
それがことさら顕著に見られるのは、キリスト教の教義や宗派である。
教義や宗派も分類のひとつであり、義務についての基本的な考えや、人と神との関係に影響を与える強大な思想を分類したものである。
たとえば、カルバン主義や、クエーカー教徒、スウェーデンボルグの思想などがそれに当たる。
門人たちは、あらゆるものを、師が定めた新しい言葉で呼び、植物学を学んだばかりの少女が、新しい目で地球と季節とを眺めるのと同じような喜びを感じる。
いっときの間、門人たちは、師の精神を学ぶことによって、自分の知性も高まったように思う。
しかし、精神の未熟な者は、師の分類を神のようにあがめ、その分類がすぐに使いものにならなくなる手段ではなく、目的だと取り違えてしまう。
そのため彼らの目には、その思想体系の境界線が、はるかかなたの地平線上で、宇宙の境界線へと溶けこんでしまう。
そして、天に浮かぶ星々も、師が築いたアーチからぶら下がっているように見える。
彼らにしてみれば、よそ者たるあなたたちにはそれらの星を見る権利がないし、そもそもなぜ見えるのか不審に思い、こう口にする。
「何らかの手段で私たちから光を盗んだのに違いない」
いまだに分かっていないのだ。
光はどの宗派にも属してはいないが、その力は強く、どんな小屋にも―彼らの小屋にさえ差し込んでくるのだということを。
しばらくは勝手にさえずるがままにさせ、光は自分たちのものだと思わせておこう。
もし彼らが誠実で、きちんと生きていくならば、今はこぎれいで新しい彼らの小屋もやがて狭苦しく窮屈なものとなり、ひび割れ、傾き、朽ち果てて、消えていくことだろう。
そして、不滅なる光―若く楽しげで、色とりどりの光が、縦横無尽に飛び交い、天地創造の第一日目のように、宇宙を満たすことだろう。
2.旅行について
教養あるアメリカ人がいまだに「旅行」という迷信にとりつかれているのは、自己修養が足りないからだ。
彼らは、イタリアやイギリスやエジプトといった国々を崇拝している。
だが、イギリスやイタリアやギリシャが尊敬されるようになったのは、それらの国の人びとが、まるで地軸のように、自分たちのいるところに腰を据えていたからだ。
しっかりした気持ちがあれば、自分の果たすべき務めは、自分の居場所にいることだと分かる。
魂は旅人などではない。
賢い者は家にとどまる。
ときには、必要に迫られ義務が生じて、家を出たり、外国に足を運んだりすることもあるが、そんなときでも彼の魂は家にいる。
顔つきを見れば、彼は知恵と美徳の伝道者であり、侵入者や家来のようにではなく、君主のように都市や人びとを訪ねているのだということが分かる。
芸術や学問を追求したり、良いことをするために世界を巡ることを、やみくもに非難するつもりはない。
自分の家を第一に思っているかぎり、あるいは、海外へ行く目的が自分の知識より優れたものを見つけようというものではないかぎり。
楽しみのためや、自分の持っていない何かを得るために旅行する者は、自分から逃げている。
そんな人間は古いものに囲まれて、若いうちから年老いてしまう。
エジプトの古代都市テーベや、シリアの古代都市パルミラで、旅人の心も古びて朽ちていく。
都市という廃墟に、自分という廃墟を持ち込んだだけのことなのだ。
旅は愚か者の楽園である。
旅に出て最初に気づくのは、いずこも同じということだ。
家にいると、ナポリやローマに行けば、美しいものに酔いしれて、悲しみを忘れられると夢想する。
荷造りをし、友人に別れを告げて、船出する。
そして、憧れのナポリで目を覚ませば、逃げてきたはずの厳しい現実や悲しい自分が、めげることなく、いつもと変わらぬ姿で寄り添っているのだ。
バチカンを訪ね、宮殿を巡る。
景色と暗示とに酔いしれているふりをしてはいるが、実は酔いしれてなどいない。
どこへ行っても自分の影がついてくるのだから。
3.模倣について
しかし、こうした旅行ブームは、もっと深刻な病があらゆる知的活動をむしばんでいることを示すひとつの症状に過ぎない。
知性が放浪者のようにさ迷い歩き、それを今の教育システムが助長している。
肉体はどこへ出ることもできず、家にとどまっているが、精神は旅に出る。
たとえば私たちは模倣をするが、模倣こそ精神の旅行でなければ、何だろう?
家を建てれば、異国趣味が取り入れられ、棚は外国の装飾品で飾られる。
同じように、私たちの意見も、趣味も、技能も、「過去のもの」「遠くのもの」に寄りかかり、追いかける。
しかし、芸術は人の魂が創り出すものだ。
これまで芸術はそうして栄えてきた。
芸術家は自分の心の中に手本を求めた。
何をなすべきか、どうすべきかは自らが考え出した。
ならばなぜ、今になって、ドリス様式やゴシック様式をまねしなければいけないのか?
美しいものや便利なもの、高邁な思想や味のある表現は、他ならぬ私たちの身近にもある。
もしアメリカの建築家が、希望と愛情をこめて、自らがまさになすべきことを検討し、アメリカの気候や土壌、日照時間、国民が求めているもの、政治的慣習や体制を考慮するならば、それらの条件にぴったりと合い、アメリカ国民の趣味や感覚をも満足させる家を創り出すことができるだろう。
自分にこだわれ。人まねなどしてはいけない。
一生をかけて自分を磨き、力をつけていけば、天から授かった才能がいつか輝くときがある。
しかし、他人の能力を借りてしまえば、あなたが手にするのはその場しのぎのもので、半分も自分のものにならない。
その人が最高に力を発揮できるものは何か―それを教えられるのは世界を創造した神だけだ。
実際にやってみるまでは、誰もそれを知らないし、知ることもできない。
シェークスピアを教え育てることのできる教師がどこにいるだろうか?
フランクリンを、ワシントンを、ベーコンを、ニュートンを教え導くことのできる教師がどこにいるだろうか?
偉大なる人物はみな唯一無二の存在だ。
スキピオのスキピオたるゆえんは、まさに人から借りられなかったところにこそある。
どんなにシェークスピアを研究しても、シェークスピアになることはできない。
自分がなすべきことをしよう。
いくら期待しても、期待しすぎることはないし、何をやっても、やりすぎることはない。
ギリシャの彫刻家フェイディアスの見事な鑿(のみ)や、ピラミッドを建てたエジプト人の鏝(こて)、モーセやダンテのペンが伝えたのと同じくらい壮麗で、しかもそれらとはまったく異なる言葉が、あなたには与えられている。
豊かで、雄弁で、無数に分かれた舌を持つ魂が、同じことを繰り返し言うはずはない。
しかしもし、これら過去の偉人たちの言うことが耳に聞こえるのなら、あなたは同じ調子で彼らに言い返すことができるだろう。
耳と舌は同じ性質を持つ体の器官だからだ。
自分の人生という自然で高潔な領域にとどまり、自分の心に従いたまえ。
そうすれば再び「楽園」を創ることができるはずだ。
4.社会のあり方について
現代の宗教や教育や芸術が外にばかり目を向けているのと同じように、社会の精神も外を向いている。
誰もが社会は進歩していると得意げに言うが、進歩している人間はひとりとしていない。
社会は進歩などしない。
ある面が進歩すれば、別の面が同じくらい後退する。
社会は絶え間なく変化している。
野蛮になったり、文明化されたり、キリスト教化されたり、豊かになったり、科学的になったり。
しかし、変化であって進歩ではない。
何かを得れば、何かを失うからだ。
新しい技術を手にしたと思うと、古い本能は失われる。
一方には、ポケットに時計と鉛筆と為替手形とを入れ、身なりがよく、読み、書き、考えるアメリカ人がいて、もう一方には、財産といえばこん棒1本、槍1竿、むしろ1枚、そして雑魚寝用の間仕切りもない小屋の20分の1という、裸で暮らすニュージーランド人がいる。
何と対照的な両者だろうか!
しかし、両者の健康を比べてみれば、白人は本来持っていた力強さを失っていることが分かる。
旅人の話が事実なら、未開人を大きな斧で打ち据えても、柔らかな松脂を打ち据えたかのように、1日か2日で傷口はふさがり、治ってしまう。
白人なら、同じ一撃で墓場へと送りこまれるだろう。
文明人は馬車を発明した代わりに、足を使うことを忘れた。
杖に頼ることを覚え、足の筋力をすっかり失った。
精巧なスイスの時計を持っているが、太陽の動きによって時刻を知る技術をなくした。
グリニッジ天文台発行の暦を持っていて、必要な時に必要な情報が入ると思っているから、夜空に浮かぶ星をひとつとして知らない。
夏至も冬至も気にかけず、春分や秋分の知識もほとんどない。
天空に明るく輝くカレンダーがあるのに、それを読みとる文字盤を心の中に持っていない。
手帳のせいで記憶力が減退し、本を読みすぎて知力が低下し、保険会社のせいで事故が増えている。
こうなると疑問に思えてくる。
機械はむしろ足手まといになっているのではないか?
洗練されたことによって行動力が失われているのではないか?
制度や形式の中に安住するキリスト教によって、素朴な美徳が持ついきいきとした活力が損なわれているのではないか?
ストア派の哲学者は、ひとり残らずその名のとおりストイックだった が、キリスト教世界のどこに真のキリスト教徒がいるだろうか?
高さや体積の基準と同じように、道徳の基準にもそれほど大きな変化はない。
今の方が昔より偉大な人物がいるかといえば、そんなことはない。
昔の偉人も今の偉人も驚くほど似通っている。
現代の科学や芸術、宗教や哲学をもってしても、『プルターク英雄伝』で描かれた2千3、4百年前の英雄たちより偉大な人物を育てることはできていない。
人類は時とともに進歩するわけではないのだ。
ギリシャのフォキオン、ソクラテス、アナクサゴラス、ディオゲネスはいずれも偉大な人物だったが、流派を残さなかった。
同じ流れに属する者がいても、先人の名前では呼ばれず、あくまでその人自身であり、自分で新たに一派を築くことになる。
時代時代の芸術や発明はその時どきを彩る衣装にすぎず、人びとに力を与えることはない。
機械を改良しても、欠点が長所を帳消しにしてしまう。
探検家のハドソンとベーリングは、自分たちの漁船だけを使って、あれだけのことを成し遂げた。
科学と技術の粋をつくした装備の力を借りて北極を探検したパリ―とフランクリンも、彼らには脱帽せざるを得ない。
ガリレオは、小さな双眼鏡ひとつで、後世の誰も及ばぬ素晴らしい天体現象を次々と発見した。
コロンブスは甲板もない粗末な船で「新大陸」を発見した。
不思議な話ではないか。
わずか数百年前に鳴り物入りで導入された手法や機械が、いつのまにか使われなくなったり、姿を消していくのだから。
偉大な天才も、もとをただせばただの人間だ。
戦術の進歩は科学の成果のひとつに数えられているが、ナポレオンは昔ながらの野営戦術でヨーロッパを制圧した。
装備に頼らず、むき出しの勇猛さだけに頼ったのだ。
フランスの歴史家ラス・カーズによれば、ナポレオンは「武器や弾薬庫、兵站係、砲車を廃止し、ローマ軍の慣習に習って、割り当てられた小麦を兵士自ら受け取り、自ら臼を引いて粉にし、自らパンを焼くようにしなければ」完璧な軍隊を作ることはできないと考えていた。
社会というのは一種の波だ。
波は前へ前へと進むが、波を構成する水自体は進まない。
同じ水の分子が、波の谷底から峰へと上るわけではない。
波がひとかたまりになって前に進むように見えるのは見せかけにすぎない。
今日国を構成している人物たちも明日には死に、その死とともに彼らの経験も失われるのだ。
「財産」に頼ったり、財産の保全を政府に頼るのは、自己信頼が足りないということだ。
人びとは自分自身から目をそらし、長いこと他のものばかり見ていたので、宗教や学問、政治などの制度が自分の財産を守ってくれると思うようになった。
だから、これらの制度が攻撃されると、自分の財産が攻撃を受けたように感じて、非難の声を上げるのだ。
人びとはお互いを、どういう人物かではなく、何を持っているかで評価する。
しかし、教養を身につけた人は、自分がどういう人間かこそが重要だと気づいて、自分の財産を恥じるようになる。
とりわけ、手にしているものが、相続、贈与、不正な手段など、思いがけず手に入ったものの場合は、それを嫌悪し、自分のものではないと感じる。
自分に属してもいないし、自分が生み出したものでもなく、革命も泥棒も持っていかないからそこにあるだけだと。
それに対して、人がどんな人間になるかは常に必然である。
人格は生きた財産であり、支配者や、暴徒や、革命や、火事や、嵐や、破産の手招きにびくびくする必要がなく、命ある限り、古い皮を脱ぎ捨てて新しくなっていく。
イスラム教の創始者マホメットのいとこで4代目カリフを務めたアリはこう言っている。
「汝の人生に割り当てられたもの―運命は汝を追いかけている。だから、運命を追いかけるのはやめ、心安らかにしていよ」
自分以外のものに頼っていると、むやみに数を頼むようになる。
政党は頻繁に集会を開いて群れ集まる。
大勢の人が集まった会場で、「エッセクス州代表団!」「ニューハンプシャー州の民主党員団!」「メイン州のホイッグ党員団!」などと、威勢のいい声でアナウンスがあるたびに、若い愛国者は、新しく何千もの目と腕とが加わったことで、自分が以前よりも強くなったような気になる。
同じようにして、改革論者たちも集会を開き、投票し、何ごとも数を頼んで決める。
しかし、諸君! 神はそれとはまったくあべこべの方法であなたたちの中に入り、宿りたもうのだ。
外部からの助けを借りず、独りで立つときのみ、人は強くなり、勝利することができる。
自分の旗のもとに新参者が集まるごとに、人は弱くなる。
ひとりの人間はひとつの町よりも優れた存在ではないのか?
人を頼るのはやめよ。
そうすれば、絶え間ない変転の中で、ただひとつ揺るぐことなく立つ支柱として、あなたは周りにいるすべての人の支えとなるはずだ。
生まれつき力は持っているのに、その力を失ってしまったのは、自分以外の何かに助けを求めたからだ―そのことに気づいて、ためらうことなく自分の考えに従うことを決めさえすれば、人はただちに身を起こし、すっくと立って、自らの手と足とで奇跡を行う。
あたかも、両足で立つ人の方が、逆立ちしている人よりも力が出せるように。
同じように「幸運」と名のつくあらゆるものにも頼ってはいけない。
たいていの人は、運命の神を相手に賭けをして、運命の車輪が回るたびに、すべてを得たり、すべてを失ったりしている。
そうではなく、賭けで得たものなど自分のためにはならないと退けて、神の代理人たる「原因」と「結果」の原理を相手にするのだ。
自分の意志で動いて獲得するなら、「偶然」の車輪は鎖で封じられ、以後はその回転を恐れることなく、座っていられるだろう。
政治的な勝利、家賃の上昇、病気からの快復、留守にしていた友人の帰還、そうした喜ばしいできごとが、あなたを元気づけ、幸せな日々がまた戻ってくる、などと思う。
そんなことを信じてはならない。
あなたに平和をもたらすのはあなたしかいない。
平和を手にするためには、自己信頼という原理原則によって勝利する以外ないのだ。
以上です。
「あなたに平和をもたらすのはあなたしかいない。平和を手にするためには、自己信頼という原理原則によって勝利する以外ないのだ。」
私が元気を取り戻したのは自分を信じることができるようになったからです。
以前自信をなくしていた時がありましたが、自分を金継ぎのように修復することができました。
それは、正しい考え方ができるようになったからです。
私が尊敬しているアメリカの哲学者エマソンの「自己信頼」を読み返してわかりました。
自分を信じる力、答えは自分の心の中にあります。
エマソンの「自己信頼」をお読みください。
これを読んであなたが元気になってくれたら何よりです。
文字数が多いので本編は記事を2つに分けています。
本編
先日、ある有名な画家が書いた詩を読んだが、まったく新しく、自由なものだった。
何について書かれていても、こうした詩はいつも人の魂に教訓を与えてくれる。
詩を読んで心にしみいる情感は、その詩にこめられたどんな思想よりも大切だ。
自分自身の考えを信じ、自分にとって真理だと思うことは、 誰にとっても 真理だと信じる ── それが、天才というものだ。
ひそかに確信していることを話すがよい。
そうすれば、多くの人がその見解をもつようになる。
深く心に秘めたものは、いずれは外面にあらわれ、最初に浮かんだ考えは、最後の審判のラッパの音とともにわたしたちのところに返ってくる から だ。
心の声は誰にでも聞こえるものだが、 モーゼ やプラトン、ミル トン の最も賞賛すべき点 は、彼らが書物や伝統にとらわれ ず、他人の考えではなく自分の考えを語ったことである。
人は、詩人や賢人の世界の輝きよりも、自分の心の内側できらめく かすか な 光 を 見出し、それを見守るようにしなければならない。
わたしたちは自分の考えを、それは個人のものにすぎないからと、こともなげに捨て去ってしまう。
そして、どの天才的作品にも自分がしりぞけた考えが含まれていることに気づくのだ。その考えは一種の近づきがたい威厳をもって、自分にもどってくる。
これは、すばらしい芸術作品がわたしたちに示してくれる最大の教訓である。
このような作品は、皆がそうではないと反対の声を上げているときこそ、明るく、きっぱりした態度で、心に自然にわきおこる考えに従うべきだと教えてくれる。
そうしなければ翌日には、あなたがずっと考え、感じていたそのことを、他人がずばり見事に言いあらわし、あなたはやむなく自分の意見を他人から聞かされて、情けない思いをすることになる。
誰でも教育を受けていると、次のことを確信する時期がやってくる。
人をうらやむのはひどく愚かな行為であり、まねをするのは自殺にひとしく、善かれ悪しかれ、自分自身をそのまま受け入れなければならないこと。
また、広い世界には良いものが満ちているが、自分に与えられた畑を耕す苦労がなければ、体を養うトウモロコシ一粒さえも手に入らないことを。
わたしたちの中に宿る力は、外にあるものとは違う。
自分にできることは自分にしかわからず、その自分にさえ、自分でやってみるまでは何ができるのかわからない。
ある人の顔、ある性格、ひとつの事実に強烈な印象を受け、その他のものに何も感じないのには、それなりの理由がある。
こうして記憶に刻みこまれるのは、それがぴったりとはまる場所がすでに自分の心の中にあるからだ。
光の差す場所に目を向けているのは、その光の存在を証明するためである。
わたしたちは自分を半分しか表現しておらず、神から与えられた自分自身の考えを気恥ずかしく思っている。
だがその考えをきちんと伝えれば、それは調和と良い結果をもたらすだろう。臆病者に神の業を明らかにすることはできない。
自分の仕事に打ちこみ、全力を尽くせば、ほっとしてほがらかな気分になるが、そうでなければ、自分の言葉や行動から心の安らぎは得られない。
それは何も生みださない出産のようなものだ。
いい加減な仕事をしているあいだに、自分の才能を埋もれさせ、詩神から見放され、新しいものをつくりだすこともなく、希望も生まれないだろう。
自分自身を信じよ。その力強い響きに、すべての人の心はふるえるにちがいない。
神の意思によって与えられた場、同じ時代に生きる人々とのつきあい、いろいろな出来事のつながりを受け入れよ。
偉人たちはいつもそうしてきた。
彼らは子どものように時代の精神に身をまかせ、自分の心のうちに絶対に信頼できるものをもち、それが自分の手を通して働き、自分の存在すべてを導いていることを示してきた。
わたしたちも今、すべてを超えるこの運命を、最も気高い心で受け入れなければならない。
片隅で守られている未成年者や病人ではなく、革命が起こる前に逃げ出す臆病者でもなく、人を導く者、救う者、恵みを与える者として、全能の神の力に従い、「混沌」と「暗闇」に立ち向かって前進しなければならない。
この自己信頼については、子どもや赤ん坊、さらには動物の表情や行動を通して、自然がじつにすばらしい神託を伝えてくれる。
子どもや動物は、相反する心に引き裂かれることはない。
自分の感情を疑い、本当はそうしたくないのに損得勘定で動く──そんなことがないのだ。彼らの心は健やかで、その目はまだひるんでいない。
彼らの顔をのぞきこむと、こちらがうろたえるほどだ。
幼子は誰にも従わない。誰もが幼子の言いなりになるのだ。
たいてい、ひとりの赤ん坊に四、五人の大人が片言で話しかけ、あやそうとしている。
これと同じように、神は少年期、青春期、成人期の人々にも年相応の冴えた魅力を与え、輝くような存在にして、自立してやっていくなら、その主張が無視されないようにした。
若者があなたやわたしに意見を述べられないからといって、彼には力がないなどと考えてはならない。
耳を傾けよ! 隣の部屋から、はっきりと力強く話している声が聞こえてくる。
彼にも、同年代の仲間に対する話し方はわかっているようだ。恥ずかしがり屋でも大胆な者でも、若者はやがて、ちゃっかりと年長者をご用済みにしてしまうだろう
食事にありつけるかどうかを心配したこともない少年は、他人に気に入られるために何かをしたり言ったりするのを、まるで君主のように見くだす。
こうした無頓着さは、人間にそなわった健全な態度だ。
客間で少年が大人の品定めをしているのは、庶民が劇場の安い席で気楽に舞台を見ているのと変わらない。
気ままに、責任を感じることもなく、片隅から人々や出来事を眺め、良い、悪い、おもしろい、ばかげている、雄弁だ、わずらわしいなどと、いかにも少年らしくあっさりと極めつけていく。
そんなことを言えばどうなるかとか、損をしないかとか悩むこともなく、何ものにもとらわれずに純粋な判断を下すのだ。
大人が彼の機嫌をとらなければならず、彼のほうが大人の機嫌をとることはない。
しかし大人は、自意識によって牢獄に放りこまれたようなものだ。
その行ないや言葉が賞賛を浴びることにでもなれば、たちまち囚われの身となり、共感や反感を抱く何百人もの人々の目にさらされて、今度は自分がどう思われるかを気にしなければならなくなる。
ああ、もう一度、自由の身になりたい!
だが、過去を帳消しにする奥の手などあるわけがない。
世間への約束はいっさいしないで、一度意見を公にした後でも、周囲に影響されず、偏見もなく、賄賂にも恐怖にも動じない純粋な心で、これまでと同じように意見を述べられる人は、必ずや恐るべき人物にちがいない。
彼は目の前で起こっているすべての問題に対して自分の考えを語る。
それは個人的な考えではなく、耳を傾けるべき意見とみなされ、人々の耳を矢のように貫き、恐れさせるだろう。
何ものにもとらわれない心の声は、ひとりでいるときには聞こえてくる。
だが世間に出ていくとかすかになり、やがて聞こえなくなる。
どの社会でも、一人ひとりが人としての勇気をもつことを、皆で邪魔しようとする。
社会は株式会社のようなものだ。それぞれの株主に十分にパンを確保するため、社員たちはそろって、パンを食べる人の自由や教養など気にしないことにするのだ。
何よりも求められる美徳は皆に合わせることであり、自己信頼は嫌われる。
社会は真実や創造力ではなく、名前や習慣を好んでいる。
人間らしくありたいと思うなら、黙って従っていてはならない。
不滅の栄光を手に入れたいのなら、良いことだとされていても、本当にそれが良いことであるのかをよく考えてみなければならない。
結局は、自分の心の高潔さほど神聖なものはない。
自分を解放するがよい。そうすれば、人々はあなたに共感するだろう。
わたしがもっと若かったころ、教会の古い教義を引き合いに出していつもわたしを悩ませていた立派な助言者に、ついこう言ってしまったことがある。
「わたしが自分の心の声だけに従って生きていくのなら、その聖なる伝統はいったいわたしとどんな関係があるのでしょうか?」
すると、彼は言った。
「しかしそんな衝動は、天からではなく、地獄から来ているのかもしれないぞ」。
そこでこう答えた。
「そうとは思えませんが、もしわたしが悪魔の子であるなら、悪魔に従って生きていくつもりです」。
わたしの本質がもたらす法則以外に、わたしにとって神聖な法則はない。
善と悪というものは、今そう呼ばれているだけで、ころころと簡単に変わってしまう。
唯一の正しいものは、わたしの本質に適っているものであり、唯一の不正なものは、わたしの本質に反するものである。
どんな反対に遭っても、自分以外のすべては名ばかりで、はかない存在であるかのようにふるまうべきだ。
わたしたちがバッジや名前、大きな団体や死んだも同然の組織に、じつにあっさりと屈してしまうことを考えると恥ずかしくなる。
わたしも、きちんとした身なりで上品に話す人に、むやみに心を動かされてしまう。
だがわたしは、正しい道を力強く歩み、どんなことがあってもありのままの真実を話すべきなのだ。
慈善事業という名目があれば、悪意とうぬぼれによる行為も大目に見てもらえるとでもいうのか。
もし偏見に凝り固まった頑固者がいきり立ち、「奴隷制廃止」という慈悲深い主張をかかげて、バルバドス(西インド諸島東部の島。十七世紀初めにイギリスの植民地となり、一八三四年まで奴隷制が続いた)からの最新ニュースを伝えにやってきたら、こう言ってやってもいいのではないか。
「家に帰って、あなたの幼いお子さんを愛してあげなさい。あなたのために薪を用意してくれる人を大切にしなさい。親切で謙虚な人になることです。そんな美徳を身につけてください。はるか遠くの黒人にとんでもない思いやりを示すことで、あなたの冷たく無慈悲な野心をごまかしてはなりません。遠くの者への愛は、身近な人には悪意になるのです」
こんなあいさつはひどく不作法なものだろうが、うわべだけの愛よりも真実のほうがすばらしい。
善良であることにも少しは切れ味がなければならない──そうでなければ何にもならない。
愛の教えによってしくしく泣いたりぶつぶつ愚痴を言ったりすることになるのなら、それをなくすために憎しみの教えも説かねばならない。
自分の才能を発揮すべきときには、わたしは父も母も妻も兄弟も寄せつけないようにする。
わたしは戸口の上に「気まぐれ」と書きたい。結局それは、気まぐれよりもいくぶんましなものだと思うが、それを説明するために一日かけるわけにはいかない。
わたしは仲間を求めたり、仲間を避けたりするが、その理由を聞かないでほしい。
それから、今日もある善人が言ったように、貧しい人全員の暮らし向きを良くしてやることがわたしの義務だ、などと口にしてほしくない。
彼らはこのわたしの貧民だとでもいうのか。
思慮のない慈善家たちよ、言っておくが、わたしは自分にあまり縁のない人々に一ドルでも、十セントでも、一セントでも与えるのは惜しい。
一方、互いに惹かれあい、心が固く結びついている人たちがいる。
このような人のためなら、必要とあれば牢獄にでも入るつもりだ。
だが、一般向けのさまざまな慈善事業、愚か者の大学教育、今や多くの人が熱心に取り組んでいる、くだらない目的のための礼拝堂建設、飲んだくれのための施し、無数にある救済団体に対してはどうだろうか。
恥ずかしながら白状すると、わたしもときには根負けして寄付をしてしまうのだが、それは浅はかな寄付であり、そのうちに勇気を出してやめようと思っている
世間の目から見れば、徳は当たり前というよりむしろ珍しいことになっている。
人がいて、たまには徳のある行為をするわけだ。
人は勇気や思いやりを示すために良いことをするが、これは、毎日行進に参加しないことの罪滅ぼしに、罰金を支払うのと変わらない。
彼らは、日々の暮らしでの謝罪や言いわけとして良い行ないをする。
それは体や精神を病んでいる人が高い食費を払うようなものだ。
彼らの徳は罪のつぐないである。
けれども、わたしは罪滅ぼしをしたいのではなく、生きたいのだ。
わたしにとって人生は生きるためのものであり、見せ物にするためのものではない。
華々しいが不安定な生活になるより、慎ましくても偽りのない、平穏な生活のほうがずっといい。
健康的で楽しく、食餌療法も面倒な治療もいらない生活を送りたい。
あなたには人間らしい生き方をしてほしい。人間らしさを忘れて、ただの行動だけに訴えることはごめんだ。
他人からすばらしいと思われる行動をしてもしなくても、わたしにはどうでもいいことだ。
自分がもともともっている権利をもらうために、わざわざ代金を支払うことはないだろう。
わたしのもって生まれた才能はわずかで平凡なものかもしれないが、わたしは現実に存在しているのだから、このことを自分で納得したり仲間を安心させたりするために、他の証拠を見せる必要などまったくない。
わたしがすべきことは自分に関わることだけで、他人が考えていることではない。
現実の生活でも知的生活でもこの原則を通すのはむずかしいが、これが偉大さと平凡さをはっきりと区別するものだろう。
だが困ったことに、わたしの義務が何であるかをわたしよりよく知っていると考える人が常にいるため、余計にこれを守ることはむずかしくなる。
世間で人々の意見に従って生きていくのは楽だし、ひとりでいるときに、自分の考えに従って生きていくのも楽だ。
しかし偉大な人とは、大勢の中にいながら、じつに穏やかにひとりのときの独立心を保っている人である。
あなたにとって意味がなくなったしきたりを守ることに反対するのは、そのためにあなたの力を無駄にしてしまうからだ。
それによって時間を失い、あなたの人格の印象がぼやけてしまう。
生命を失った教会を維持したり、沈滞した聖書協会に寄付したり、大きな政党の一員として政府へ賛成票や反対票を投じたり、卑しい召し使いのように食卓にごちそうを並べたりすること──このようなことに振り回されていては、本当はあなたがどんな人なのかもわからなくなる。
そして言うまでもなく、それだけの精力がみずからの生活から失われてしまうのだ。
しかしあなたが自分の仕事をすれば、自分のことをわかってもらえる。
自分自身の仕事をするがよい。そうすれば強くなれる。
やみくもに世間に従うことは目隠し鬼をしているようなものだ。
その人の宗派がわかれば、どんな主張をするのか予想できる。
ある牧師が、説教の場で教会の慣行のひとつが役立つことについて話したい、と予告したとしよう。
彼が心のうちから自然にあふれでる新しい言葉などまず語れないことは、説教を聞かなくてもわかっているではないか。
その慣行の根拠をはっきりさせるなどと大きなことを言っても、実際にそうするつもりはないのだ。
人間としてではなく教区牧師として、許された一面だけしか見ないと心に誓っていることが、わたしにわからないとでもいうのか。
彼はおかかえ弁護士のようなもので、この法廷のような雰囲気はまったく中身のない見せかけなのだ。
とはいえ、たいていの人はいろいろなハンカチを巻きつけて目隠しし、どこかの団体に所属して、その意見に従っている。
こうして世間に従うことで、いくらか不誠実になって少々嘘をつくどころではなく、すべての点で不実になってしまう。
彼らの真実はすべて本当の真実ではない。彼らの言う二は本物の二ではないし、彼らの言う四は本物の四ではない。
そのために、彼らの言葉はすべてわたしたちをがっかりさせ、その誤った考えを正そうにも、どこから始めればいいのかわからない。
そのあいだにも、人々は自分が属している団体の囚人服をすばやく着せられてしまう。
同じような顔と姿になり、徐々にこのうえなく優しげで愚鈍な表情を浮かべるようになる。
なかでも、たいていの人が経験する屈辱的な表情が「ほめるときの間抜け面」だ。
堅苦しい席でおもしろくもない話に相槌を打つときに浮かべる、
あのつくり笑いである。筋肉が自然に動くのではなく、卑しい意志によって無理やり動かされ、たまらなく不愉快な気持ちになって顔がこわばるのだ。
世間に従わなければ、人々の反感を買ってひどい目に遭わされるだろう。
そのため、他人の渋い顔から本心を読みとらねばならなくなる。
従順でない人は通りや友人の客間で、居合わせた人々から白い目で見られる。
本人は軽蔑の念や反抗心からそのような態度をとっているわけだが、まわりの人々も同じような気持ちから彼を嫌っているのなら、あきらめるしかない。
だが世間の人々がほめたりけなしたりするのに、深い理由など何もなく、風の吹くまま、新聞が書きたてるままに変わるのだ。
ただ、大衆の不満は議会や大学の不満より恐るべきものだ。
堅実で世慣れた人なら、たとえ激しくても、教養人の怒りに耐えるのはたやすい。
教養人はみずからが非常に傷つきやすく小心なので、その怒りも礼儀をわきまえた慎重なものだ。
けれども彼らの気弱な怒りに大衆の憤りが加わり、無学な人や貧しい人の心がめざめ、社会の根底にひそむ無知で荒々しい力が噴きだして不満の渦が巻きおこると、どうなるだろうか。
よほど広い心をもち、強く信じるものがなければ、些細なこととして超然と受けとめることはできない。
わたしたちを怖がらせて自己信頼から遠ざけるもうひとつの恐怖は、いつも一貫していなければならないと思うことである。
ある人のやり方を予測するための手がかりは過去の行動や言葉しかなく、本人も他人をがっかりさせたくないので、過去の言動を大事にする。
しかし、どうして後ろを振り返ってばかりいなければならないのか。
なぜ記憶の死骸をひきずりまわして、あちこちの公共の場で述べたことと矛盾しないようにしなければならないのか。
かりに矛盾したことを言ったとしても、それがどうだというのか。
自分の記憶だけに頼らず、主に記憶によって行なう行為でも、ほとんど記憶に頼らず、新しい見方ができるようになった今の自分の目で過去の出来事を判断し、いつも新たな一日を生きること。
それが賢明なやり方だと思われる。
神が人間と関わりをもつとは思えないかもしれないが、敬虔な感情がこみあげてきたときには、ひたすらその衝動に浸るがよい。
あなたの神が形あるものや美しい色の付いたものであっても、それでよいだろう。
ヨセフがふしだらな女の手に上着を残して逃げていったように、理論などあとに残して逃れることだ。
愚かな一貫性は心の狭い人にとりつくお化けで、小心な政治家や哲学者、神学者があがめるものだ。
首尾一貫していることなど、偉大な魂には何の関係もない。
それくらいなら、壁に映った自分の影に関心をもつほうがましというものだ。
今考えていることを力をこめて語り、明日になれば、たとえ今日語ったすべてと矛盾していても、明日考えることをふたたび真剣に語るがよい。
「 でも、そんなことをすれば、絶対に誤解されますよ」 ─そんな声が聞こえてくる。
だが、誤解されることがそんなに悪いことだろうか。
ピタゴラスは誤解されたし、ソクラテスも、イエスも、ルターも、コペルニクスも、ガリレオ・ガリレイも、ニュートンも、かつて存在した純粋で賢明な魂の持主はすべて誤解された。
偉大であることは誤解 されることである。
わたしは思うのだが、自分の本質に逆らうことができる人はいないだろう。
アンデスやヒマラヤの起伏が地球全体の曲線からみれば問題にならないように、人がさまざまな意志を発揮しようとしても、すべてが自分自身の存在の法則にたぐりこまれてしまう。
他人が彼をどう評価しようが試そうが、結局は同じことだ。
人格はアクロスティック(各行始め[中、終り]の文字をつづると、ある語になる遊戯詩。折句)やアレクサンダー格(弱強格六脚から成る十二音節の詩形)の詩節のようなものだ。
前から読んでも、後ろから読んでも、斜めに読んでも同じつづり字になる(これらの詩形はこの文章が意味するものではなく、回文=パリンドローム体がこれに近いと思われる)。
わたしは神に許されて、この森で快適な生活を送っているが、先のことを予想せず、過去の回想もせずに、自分の正直な思いを日々記録しよう。
そうすれば、わたしにそのつもりはなく、それと気づかなくても、均整のとれた考えになることは間違いない。
わたしの本からは松の香りがただよい、虫の羽音が響いてくるだろう。
わが家の窓の上に巣をつくるツバメは、くちばしにくわえてきた糸や藁を、わたしの文章にも編みこんでくれるはずだ。
人はあるがままに見られるものだ。意志よりも人格によってその人のことがわかる。
だが人々は、目に見える行動だけに美点や汚点があらわれていると考え、一瞬一瞬に吐く息の中にさえ、それらが息づいていることに気づかない。
どんなにさまざまな行動をとっても、それぞれが正直に自然に行なわれるなら、何か共通点がある。
同じ意志から出た行動は、似ていないように見えても調和がとれているからだ。
少し離れ、わずかに視点を高くして眺めるなら、違いは見えなくなる。
ひとつの共通点によってすべてが結びついているのだ。
目を見張るような豪華船でも、何度も方向転換しながら進んでいくが、かなり遠くから眺めると、一定の方向にまっすぐに進んでいることになる。
これと同じように、あなたの誠実な行ないを見ればその本質がわかり、なぜあなたがいつも誠実な行ないをするのかもわかる。
むやみに従っていては、あなたについて何もわからない。
わが道を行くがよい。
そうすれば、あなたが行なったことが現在のあなたを正当化してくれる。
偉大な行為は未来の自分をつくる。
わたしが今日、人目を気にしないで、毅然とした態度で正しいことを行なえるとしたら、今の自分を正当化してくれるような正しい行為を、以前にしたからにちがいない。
とにかく今、正しいことをせよ。見た目ばかりを気にしないようにしていれば、常に正しい生き方ができる。
人格の力は積み重なっていく。過ぎ去った日々に実践した徳のすべてが、その活力を今に注ぎこむ。
すばらしい政治家や戦場の英雄たちは、どうして威厳があるのだろうか。
それは、過去に活躍した日々と勝利を意識しているからだ。
過去のあれこれが一体となって、進み出ていく人に光を投げかける。
まるで目に見える天使たちに護衛されているかのようだ。
それこそが初代チャタム伯爵(英国の政治家ウィリアム・ピット。「大ピット」のこと)に熱弁をふるわせ、ジョージ・ワシントンの態度に威厳を与え、ジョン・アダムズ(米国の政治家。米国第二代大統領)にアメリカへの献身を誓わせたのである。
名誉が尊いのは、それが一時的なものでなく、過去から連なる美徳だからだ。
今日のものでないからこそ、名誉をたたえるのだ。
わたしたちは名誉を愛し、敬う。なぜなら名誉は、人の愛や尊敬を得るために仕掛ける罠ではなく、それ自体に意味があり、過去のすばらしい行為がもたらしたものだからだ。
若者に与えられたとしても、それは過去に根ざした清らかな名誉で ある。
このごろわたしは、世間に従うとか一貫性をもつなどということはやめてしまえばいいと思っている。
こんな言葉は官報にでも載せて、笑いものにしてやろう。
食事を知らせる鐘の音の代わりに、勇ましいスパルタ軍の横笛の音を聞いて心を奮い立たせたい。
これからは、やたらにお辞儀をしたり謝ったりしないことにしよう。
えらい人をわが家の食事に招いても、その人に気に入られるようにするつもりはない。
むしろ、わたしの機嫌をとってもらいたいくらいだ。
わたしは人間として接し、親切にはするが、ありのままにふるまうつもりだ。
この時代にはびこる、丸くおさめるだけの凡庸さ、あさましい満足感を侮辱し非難しよう。
そして習慣や商売や儀式に凝り固まった人々に、すべての歴史が示している事実をつきつけてやろう。
つまり、人間が行動するところには必ず信頼できる偉大な「思想家」と「行為者」がいること、そして真の人間は他の時代や場所ではなく、今ここで万物の中心となっていることを。
真の人間のいるところに自然がある。真の人間は、あなたやすべての人間、あらゆる出来事を判断する。
ふつう、わたしたちは社会の誰を見ても、何か他のものや他の人を思い出すが、人格や真実は何ものも思い起こさせない。
人格や真実は宇宙全体をあらわすのである。 真の人間は、あらゆる環境の違いを超えるほど、偉大であるにちがいない。
真の人間の誰もが原因をつくりだし、国を代表し、時代の精神をあらわす。
彼の構想を十分に実現させるには、無限の空間と数字と時間が必要だ。
そして後世の人々は、まるで従者の列のようにぞろぞろと彼についていくようである。
シーザーが世に出ると、長いあいだローマ帝国が続いた。キリストが生まれると、数百万人がその天与の力にすがって心の成長を果たし、キリストの教えは人間のもつ徳や可能性と混同されているほどだ。
制度はひとりの人間の影が長く伸びたようなものだ。
修道院制度は隠者アントニー(キリスト教の聖人、聖アントニウスのこと。修道士生活の創始者)の影であり、宗教改革はルターの影、クエーカー教徒の教義はジョージ・フォックス(クエーカー派の創始者)の影、メソジスト派の教義はジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)の影、奴隷制廃止はトマス・クラークソン(英国の奴隷制廃止論者)の影である。ミルトンはスキピオ(古代ローマの名将、大アフリカヌスのこと)を「ローマの絶頂」と呼んだ。
このように、少数の勇敢で熱意にあふれた人物の伝記にあらゆる歴史が示されることが多い。
自分の価値を知り、あらゆるものを自分に従わせておくがよい。
世界は自分のために存在するのに、もぐり商人のように、のぞき見をしたり、だまして手に入れたり、こそこそ歩きまわったりしてほしくない。
だが一般の人は、塔や大理石の神像を建てた権力者のような価値が自分にはないと思い、こうした塔や像を見るとみじめになる。
宮殿や彫像や高価な本は従者つきの華やかな馬車のように、よそよそしく近寄りがたい感じがして、「おまえは何者だ」と言われているような気分になるのだ。
ところが、それらはすべて彼らのもので、目をとめてほしいと頼み、能力を発揮して自分たちを手に入れてほしいと願っている。
絵はわたしの言葉を待っている。
絵はわたしに命令せず、わたしがその絵に賞賛すべき価値があるかどうかを決めてやらなければならない。
あの有名な飲んだくれの話をしてみよう。
飲んだくれが路上で酔いつぶれているところを拾われて、公爵の屋敷に運ばれ、体を洗って服を着せてもらい、公爵のベッドに寝かされる。
目を覚ますと、公爵のようにいんぎんに扱われ、これまで自分は気が変になっていたのだと思いこまされる。
この話に人気があるのは、これが人間の状況をうまく言い表しているからだ。
人間は世間では飲んだくれのようなもので、たまに目を覚まして正気に返り、自分が本当の貴公子であることに気づくのである。
わたしたちは本を読むときも、物乞いのようにひたすら頭を下げ、教えを請う。 歴史物なら想像力をふくらませ、事実をゆがめて理解してしまう。
王国や君主、権力や領土といった言葉は、小さな家で日々の仕事に明け暮れる、ただのジョンやエドワードより華やかな感じがする。
だが、基本的な生活にかかわることは誰でも同じだ。
ひとりの人間の生活という視点で見れば、王も庶民も変わらない。
それなのに、なぜアルフレッド(古代ウェセックスの王)を、スカンデルベグ(中世アルバニアの君主で、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄)を、グスタフ(一世。デンマークの支配から祖国を救ったスウェーデン王)をそんなに敬うのか。
彼らが徳の高い人であったとしても、その徳を使いきるほどすばらしいことをしたというのか。
王や英雄の偉業と同じように、あなたのひそやかな行為も偉大な結果をもたらす可能性がある。
ふつうの人が自分自身の考えに従って行動するなら、その人の行ないは、王の行為よりも輝かしいものになるだろう。
世界中で王は人々を導き、王たちは国民を魅了してきた。
本来なら人間と人間が互いに抱くべき尊敬の念が、この堂々とした象徴によって教えられてきたのである。
いたるところで、人々は王や貴族や大地主に喜んで忠誠を尽くした。
王たちは自分でつくった法律によって人々を支配し、世間の考えなどは無視して、自分の尺度で人やものごとを判断し、褒美として金でなく名誉を与え、自分自身が法となったが、人々はそれを許してきた。
こうした忠誠心は、人々が自分自身の権利と心の美しさ、そして万人の権利を自覚していることをそれとなく示すものだった。
人はなぜこのような独自の行動に魅了されるのだろうか。
そのわけは、自己信頼についてじっくりと考えてみればわかる。
いったい誰を、何者を信頼するのか。
誰もがどんなときにも信頼を寄せられる本来の「自己」とは何だろうか。
つまらない不純な行動であっても、ほんのわずかでも自立心があるなら、美しい光を投げかけるあの星──測定もできず科学でも解明できないあの星は、どんな性質をもち、どんな力を秘めているのか。
こうして突きつめていくと、才能と徳と命の本質であり、「自発性」あるいは「本能」と呼ばれる、あの源にたどりつく。
人にもともとそなわったこの叡智を、わたしたちは「直観」と名づける。
これに対して、あとから受ける教育はすべて人から授けられるものだ。
この「直観」の深い力、どんなに分析してもわからない究極の事実の中に、すべてのものの起源がある。
つまり、こういうことだ。
心が落ち着いているときに、どういうわけか魂のうちに、自分が確かに存在しているという実感がわきあがるだろう。
その実在感は、物や空間や光や時間や人間とかけ離れたものではない。
そうしたものと一体になっており、それらの命や存在と同じ源から生じているのだ。
わたしたちも最初は、万物を存在させている命を享けるが、やがて万物を自然現象として眺めるようになり、自分も同じ源から来ていることを忘れてしまう。
しかしこの万物を存在させている源こそ、行動と思考を生みだす泉である。
これこそが人に智恵を授ける霊感のもとであり、このことは不信心者や無神論者でもなければ否定できないだろう。
わたしたちは大いなる叡智の懐にいだかれ、叡智はわたしたちに真実を伝え、わたしたちを通してその働きをあらわす。
正義を見極め、真実を見抜くとき、わたしたちは自分では何もしていない。
ただ叡智が放つ光を通しているだけだ。
この光がどこから来ているのか疑問に思い、もとの魂を探ろうとして、哲学を勉強してみてもわからないだろう。
光があるかないか、確かめられるのはそれだけである。
誰でも、意識的な心の働きと無意識的な知覚を区別し、無意識に知覚しているものこそ、心から信頼すべきことだと知っている。
無意識的知覚が何であるかをうまく言い表せないかもしれないが、その存在は明確で、議論の余地がないこともわかっているのだ。
わたしが意図的に行なうことや意識して身につけることは次々に変わっていく。
一方、たわいない空想や自然にわきあがるかすかな感情はわたしの好奇心をかきたて、それを敬わずにはいられない。
けれども、わたしが知覚しているものについて語ると、思慮のない人たちは、他人の意見を否定するのと同じように、いやそれ以上にあっさりと否定する。
彼らは知覚と意見の違いもわかっていないからだ。
人々は、わたしが見たいものだけ見ていると思っている。
だが知覚は気まぐれに起こるものではなく、運命のように避けられないものである。
もしわたしが何かに目をとめれば、わたしの前には誰もそれに気づかなかったとしても、わたしの子どもたちも、やがては全人類もそれに気づくことになるだろう。
わたしがそれを知覚したことは、太陽にも負けないほど確かな事実だからだ。
人の魂と神の霊との関わりはこの上なく純粋なもので、教会などの助けを介在させることが冒になるほどだ。
神はひとつのことではなく、すべてのことを語り、世界中をその声で満たし、その思考の中心から光、自然、時間、魂を放ち、新しい日々を生み出し、全世界を新たに創造するだろう。
素直な心をもち、神聖な智恵を受け入れると、必ず古いものは消え去る──手段も、教師も、教科書も、神殿もくずれ落ち、その心は今を生き、心の中の過去と未来は今ここに集約される。
その素直な心で接することで、あらゆるものが神聖になる。
すべてのものはそれぞれの原因によって万物の中心に溶けこみ、ひとつひとつの小さな奇跡は普遍的な奇跡の中に消えていく。
したがって、誰かが自分は神を知っていて神について語ると主張し、どこかよその国の古くさい言葉で言いたてても、信じてはならない。
どんぐりから生まれて見事に生長した樫の木より、もとのどんぐりのほうが立派だろうか。
親はその成熟した命をそそぎこんだ子どもより偉いというのか。
そうでないとすると、どうしてこんなにも過去を大切にするのだろうか。
過去にばかりとらわれていると、魂の健やかさや威厳をなくしてしまう。
時間と空間は目が感じる生理的な色彩によってとらえるしかないが、魂は光そのものである。
魂が輝くところは昼で、それが去ったところは夜だ。
歴史は、わたしの現在と未来について教えてくれる楽しいたとえ話にすぎない。
歴史がそれ以上の存在になれば、見当ちがいで害をおよぼすものになる。
人間は気が弱く、謝ってばかりいる。
自信がなくなり、「わたしはこう思う」とか「わたしはこうだ」と言う勇気がなくて、聖人や賢人の言葉を引用する。
そして草の葉や咲いているバラを見ると、ひけ目を感じる。
わが家の窓の下に咲くバラは、以前に咲いたバラやもっと美しいバラを気にしたりしない。
これらのバラはあるがままに存在し、神とともに今日、ここに生きている。
それらには時間はない。
ただバラがあるだけだ。
このバラは、ここにある一瞬一瞬において完璧である。
芽が出ないうちからバラの命全体が活動していて、花が満開になれば命が盛んになるとか、葉が落ちて根だけになれば衰えるということはない。
どの瞬間にも同じように、バラの本質は満たされ、バラは自然を満たしている。
しかし人間は、ものごとを一日延ばしにしたり、済んだことを思い出したりする。
今を生きず、過去を振り返って後悔したり、身の回りの豊かさには気づかないで、背伸びして未来を先読みしたりする。
時を超越して自然とともに今を生きなければ、わたしたちは幸せで強い存在にはなれない。
これはわかりきったことであるはずだ。
だが、どうだろう。どんなに知的な人でも、ダビデ(旧約聖書の『詩篇』の作者とされる古代イスラエルの王)やエレミヤ(旧約聖書の『エレミヤ書』の作者とされるイスラエルの大預言者)やパウロ(新約聖書中の書簡を著したとされる使徒)など、誰だかよくわからない人の言葉からでなければ、神の声をあえて聞こうともしない。
わずかばかりの聖句や伝記だけを、むやみにありがたがってばかりいてはならない。
わたしたちは、祖母や家庭教師の言葉をそのままくり返し、少し大きくなれば、たまたま出会った才人や人格者の言葉を四苦八苦して丸暗記する子どものようなものだ。
その後、その人たちと同じ考え方ができるようになると、やっとその意味を理解し、覚えた言葉に頼らなくなる。
必要なときにはいつでも、同じような言葉を自分で使えるようになっているからだ。
正直な生き方をすれば、真実がわかる。
強い人が強くなるのは、弱い人が弱虫になるのと同じくらい簡単なことだ。
新たなことを知覚しさえすれば、大事にためこんでいた記憶を古ぼけたガラクタのように喜んで捨てられる。
神とともに生きるなら、その人の声は小川のせせらぎやトウモロコシの葉がすれ合う音のように快いものとなるだろう。
本編の続きは「自分自身を信じよ 2/2」
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遺言 東條英機
開戦当時の責任者として敗戦のあとをみると、実に断腸の思いがする。今回の刑死は個人的には慰められておるが、国内的の自らの責任は死をもって贖(あがな)えるものではない。
しかし国際的の犯罪としては無罪を主張した。いまも同感である。ただ力の前に屈服した。自分としては国民に対する責任を負って満足して刑場に行く。ただこれにつき同僚に責任を及ぼしたこと、また下級者にまでも刑が及んだことは実に残念である。
天皇陛下に対し、また国民に対しても申し訳ないことで、深く謝罪する。
元来日本の軍隊は、陛下の仁慈の御志により行動すべきものであったが、一部過ち犯し、世界の誤解を受けたのは遺憾であった。このたびの戦争に従軍して斃れた人、およびこれらの人々の遺家族に対しては、実に相済まぬと思っている。心から陳謝する。
今回の裁判の是非に関しては、もとより歴史の批判に待つ。もしこれが永久平和のためということであったら、も少し大きな態度で事に臨まなければならぬのではないか。この裁判は結局は政治裁判に終わった。勝者の裁判たる性質を脱却せぬ。
天皇陛下の御地位および陛下の御存在は動かすべからざるものである。天皇存在の形式についてはあえて言わぬ。存在そのものが絶対に必要なのである。それは私だけでなく多くの者は同感と思う。空間や地面のごとき大きな恩は忘れられぬものである。
東亜の諸民族は今回のことを忘れて、将来相協力すべきものである。東亜民族もまた他の民族と同様、この天地に生きる権利を有つべきものであって、その有色たることをむしろ神の恵みとしている。インドの判事には尊敬の念を禁じ得ない。これをもって東亜民族の誇りと感じた。
今回の戦争によりて東亜民族の生存の権利が了解せられ始めたのであったら幸である。列国も排他的の感情を忘れて共栄の心持をもって進むべきである。
現在の日本の事実上の統治者である米国人に対して一言するが、どうか日本の米人に対する心持ちを離れしめざるように願いたい。また日本人が赤化しないように頼む。東亜民族の誠意を認識して、これと協力して行くようにされなければならぬ。実は東亜の多民族の協力を得ることができなかったことが、今回の敗戦の原因であると考えている。
今後日本は米国の保護の下に生活していくのであらうが、極東の大勢はどうであらうか。終戦後わずか3年にして、亜細亜大陸赤化の形勢は斯くの如くである。今後のことを考えれば、実に憂慮にたえぬ。もし日本が赤化の温床ともならば、危険この上ないではないか。
今、日本は米国よりの食糧の供給その他の援助につき感謝している。しかし一般がもし自己に直接なる生活の困難やインフレや食糧の不足等が、米軍が日本に在るがためなりというような感想をもつようになったならば、それは危険である。実際はかかる宣伝をなしつつある者があるのである。よって米軍が日本人の心を失わぬよう希望する。
今次戦争の指導者たる米英側の指導者は大きな失敗を犯した。第一は日本といふ赤化の防壁を破壊し去ったことである。第二は満州を赤化の根拠地たらしめた。第三は朝鮮を二分して東亜紛糾の因たらしめた。米英の指導者はこれを救済する責任を負うて居る。従ってトルーマン大統領が再選せられたことはこの点に関して有り難いと思ふ。
日本は米国の指導に基づき武力を全面的に抛棄した。これは賢明であったと思う。しかし、世界全国家が全面的に武装を排除するならばよい。然らざれば、盗人がばっこする形となる。泥棒がまだいるのに警察をやめるやうなものである。
私は戦争を根絶するには欲心を取り払わねばならぬと思う。現に世界各国は、いずれも自国の存在や自衛権の確保を主としている。これはお互いに欲心を抛棄して居らぬ証拠である。国家から欲心を除くということは不可能のことである。されば世界より今後も戦争を除くということは不可能のことである。これでは結局は人類の自滅に陥るのであるかも判らぬが、事実はこの通りである。それゆえ第3次世界大戦は避けることができない。
第3次世界大戦に於いて主なる立場に立つものは米国およびソ連である。日本とドイツというものが取り去られてしまった。それがため米国とソ連というものが直接に接触することとなった。米・ソ2国の思想上の相違はやむを得ぬ。この見地からみても、第3次世界大戦は避けることはできぬ。
第3次世界大戦において極東、日本と支那と朝鮮がその戦場となる。この時にあって米国は武力なき日本を守の策を立てなければならぬ。これは当然米国の責任である。日本を属領と考えるのであったならば、また何をかいわんや。そうでなしとすれば、米国は何等かの考えがなければならぬ。米国は日本人8千万国民の生きて行ける道を考えてくれねばならない。およそ生物として自ら生きる生命は神の恵みである。産児制限の如きは神意に反するもので行うべきでない。
なお言いたきことは、公・教職追放や戦犯容疑者の逮捕の件である。いまは既に戦後3年を経過しているのではないか。従ってこれは速やかに止めてほしい。日本国民が正業に安心して就くよう、米国は寛容な気持ちをもってもらいたい。
我々の処刑をもって一段落として、戦死病者、戦災死者、ソ連抑留者の遺家族を慰安すること。戦死者、戦災死者の霊は遺族の申出あらば、これを靖国神社に合祀せられたし。出征地に在る戦死者の墓には保護を与えられたし。従って遺族の希望申出あらばこれを内地へ返還されたし。戦犯者の家族には保護を与えられたし。
青少年男女の教育は注意を要する。将来大事なことである。近時、いかがわしき風潮あるは、占領軍の影響からきているものが少なくない。この点については、我国の古来の美風を保つことが大切である。
今回の処刑を機として、敵・味方・中立国の国民罹災者の一大追悼慰安会を行われたし。世界平和の精神的礎石としたいのである。
もちろん、日本軍人の一部の間に間違いを犯した者はあらう。これらについては衷心謝罪する。
これと同時に無差別爆撃の投下による悲惨な結果については、米軍側も大いに同情し憐憫して悔悟あるべきである。
最後に軍事的問題について一言する。我国従来の統帥権独立の思想は確かに間違っている。あれでは陸海軍一本の行動は採れない。兵役制については徴兵制によるか、傭兵制によるかは考えなければならない。我が国民性に鑑みて再建軍の際に考慮すべし。再建軍隊の教育は精神教育を採らなければならぬ。忠君愛国を基礎としなければならぬが、責任観念のないことは淋しさを感じた。この点については、大いに米国に学ぶべきである。
学校教育は従前の質朴剛健のみでは足らぬ。人として完成を図る教育が大切だ。いいかえれば宗教教育である。欧米の風俗を知らすことも必要である。俘虜のことについては研究して、国際間の俘虜の観念を徹底せしめる必要がある。
《英米諸国人に告げる》
今や諸君は勝者である。我が邦は敗者である。この深刻な事実は私も固より、これを認めるにやぶさかではない。しかし、諸君の勝利は力による勝利であって、正理公道による勝利ではない。私は今ここに、諸君に向かって事実を列挙していく時間はない。しかし諸君がもし、虚心坦懐で公平な眼差しをもって最近の歴史的推移を観察するなら、その思い半ばを過ぎるものがあるのではないだろうか。我れ等はただ微力であったために正理公道を蹂躙されたのであると痛嘆するだけである。いかに戦争は手段を選ばないものであるといっても、原子爆弾を使用して無辜の老若男女数万人もしくは数十万人を一挙に殺戮するようなことを敢えて行ったことに対して、あまりにも暴虐非道であると言わなければならない。
もし諸般の行いを最後に終えることがなければ、世界はさらに第三第四第五といった世界戦争を引き起こし、人類を絶滅に至らしめることなければ止むことがなくなるであろう。
諸君はすべからく一大猛省し、自らを顧みて天地の大道に恥じることないよう努めよ。
《日本同胞国民諸君》
今はただ、承詔必謹する〔伴注:終戦の詔を何があっても大切に受け止める〕だけである。私も何も言う言葉がない。
ただ、大東亜戦争は彼らが挑発したものであり、私は国家の生存と国民の自衛のため、止むを得ず受けてたっただけのことである。この経緯は昭和十六年十二月八日の宣戦の大詔に特筆大書されているとおりであり、太陽の輝きのように明白である。ゆえにもし、世界の世論が、戦争責任者を追及しようとするならば、その責任者は我が国にいるのではなく彼の国にいるということは、彼の国の人間の中にもそのように明言する者がいるとおりである。不幸にして我が国は力不足のために彼の国に敗けたけれども、正理公議は厳として我が国あるということは動かすことのできないことである。
力の強弱を、正邪善悪の基準にしては絶対にいけない。人が多ければ天に勝ち、天が定まれば人を破るということは、天道の法則である。諸君にあっては、大国民であるという誇りを持ち、天が定まる日を待ちつづけていただきたい。日本は神国である。永久不滅の国家である。皇祖皇宗の神霊は畏れ多くも我々を照らし出して見ておられるのである。
諸君、願わくば、自暴自棄となることなく、喪神落胆することなく、皇国の命運を確信し、精進努力することによってこの一大困難を克服し、もって天日復明の時が来ることを待たれんことを。
《日本青年諸君各位》
我が日本は神国である。この国の最後の望みはただ諸君一人一人の頭上にある。私は諸君が隠忍自重し、どのような努力をも怠らずに気を養い、胆を練り、現在の状況に対処することを祈ってやまない。
現在、皇国は不幸にして悲嘆の底に陥っている。しかしこれは力の多少や強弱の問題であって、正義公道は始終一貫して我が国にあるということは少しも疑いを入れない。
また、幾百万の同胞がこの戦争のために国家に殉じたが、彼らの英魂毅魄〔伴注:美しく強い魂魄〕は、必ず永遠にこの国家の鎮護となることであろう。殉国の烈士は、決して犬死したものではない。諸君、ねがわくば大和民族たる自信と誇りをしっかり持ち、日本三千年来の国史の導きに従い、また忠勇義烈なる先輩の遺旨を追い、もって皇運をいつまでも扶翼せんことを。これこそがまことに私の最後の願いである。思うに、今後は、強者に拝跪し、世間におもねり、おかしな理屈や邪説におもねり、雷同する者どもが少なからず発生するであろう。しかし諸君にあっては日本男児の真骨頂を堅持していただきたい。
真骨頂とは何か。忠君愛国の日本精神。これだけである。
CCPに対するポンペオさんのスピーチ
ポンペオ米国務長官の対中演説要旨
2020年7月24日 日本経済新聞から引用
ポンペオ米国務長官の中国に関する演説の要旨は次の通り。
中国との闇雲な関与の古い方法論は失敗した。我々はそうした政策を継続してはならない。戻ってはならない。自由世界はこの新たな圧政に勝利しなくてはならない。
米国や他の自由主義諸国の政策は中国の後退する経済をよみがえらせたが、中国政府はそれを助けた国際社会の手にかみついただけだった。中国に特別な経済待遇を与えたが、中国共産党は西側諸国の企業を受け入れる対価として人権侵害に口をつぐむよう強要しただけだった。
中国は貴重な知的財産や貿易機密を盗んだ。米国からサプライチェーンを吸い取り、奴隷労働の要素を加えた。世界の主要航路は国際通商にとって安全でなくなった。
ニクソン元大統領はかつて、中国共産党に世界を開いたことで「フランケンシュタインを作ってしまったのではないかと心配している」と語ったことがある。なんと先見の明があったことか。
今日の中国は国内でより独裁主義的となり、海外ではより攻撃的に自由への敵意をむき出しにしている。トランプ大統領は言ってきた。「もうたくさんだ」と。
対話は続ける。しかし最近の対話は違う。私は最近、ハワイで楊潔篪(ヤン・ジエチー中国共産党政治局員)と会った。言葉ばかりで中国の態度を変える提案はない、相変わらずの内容だった。楊の約束は空っぽだった。彼は私が要求に屈すると考えていた。私は屈しなかった。トランプ大統領も屈しない。
(中国共産党の)習近平総書記は、破綻した全体主義のイデオロギーの真の信奉者だ。中国の共産主義による世界覇権への長年の野望を特徴付けているのはこのイデオロギーだ。我々は、両国間の根本的な政治的、イデオロギーの違いをもはや無視することはできない。
レーガン元大統領は「信頼せよ、しかし確かめよ」(trust but verify)の原則にそってソ連に対処した。中国共産党に関していうなら「信頼するな、そして確かめよ」(Distrust and verify)になる。
世界の自由国家は、より創造的かつ断固とした方法で中国共産党の態度を変えさせなくてはならない。中国政府の行動は我々の国民と繁栄を脅かしているからだ。
この形の中国を他国と同じような普通の国として扱うことはできない。中国との貿易は、普通の法に従う国との貿易とは違う。中国政府は、国際合意を提案や世界支配へのルートとみなしている。中国の学生や従業員の全てが普通の学生や労働者ではないことが分かっている。中国共産党やその代理の利益のために知識を集めている者がいる。司法省などはこうした犯罪を精力的に罰してきた。
今週、我々は(テキサス州)ヒューストンの中国領事館を閉鎖した。スパイ活動と知的財産窃盗の拠点だったからだ。南シナ海での中国の国際法順守に関し、8年間の(前政権の)侮辱に甘んじる方針を転換した。国務省はあらゆるレベルで中国側に公正さと互恵主義を要求してきた。
自由主義諸国が行動するときだ。全ての国々に、米国がしてきたことから始めるよう呼び掛ける。中国共産党に互恵主義、透明性、説明義務を迫ることだ。
現時点では我々と共に立ち上がる勇気がない国もあるのは事実だ。ある北大西洋条約機構(NATO)同盟国は、中国政府が市場へのアクセスを制限することを恐れて香港の自由のために立ち上がらない。
過去の同じ過ちを繰り返さないようにしよう。中国の挑戦に向き合うには、欧州、アフリカ、南米、とくにインド太平洋地域の民主主義国家の尽力が必要になる。
いま行動しなければ、中国共産党はいずれ我々の自由を侵食し、自由な社会が築いてきた規則に基づく秩序を転覆させる。1国でこの難題に取り組むことはできない。国連やNATO、主要7カ国(G7)、20カ国・地域(G20)、私たちの経済、外交、軍事の力を適切に組み合わせれば、この脅威に十分対処できる。
志を同じくする国々の新たな集団、民主主義諸国の新たな同盟を構築するときだろう。自由世界が共産主義の中国を変えなければ、中国が我々を変えるだろう。
中国共産党から我々の自由を守ることは現代の使命だ。米国は建国の理念により、それを導く申し分のない立場にある。ニクソンは1967年に「中国が変わらなければ、世界は安全にはならない」と記した。危険は明確だ。自由世界は対処しなければならない。過去に戻ることは決してできない。
(ワシントン=芦塚智子)