日本丸のメモログ

日本の政治経済、歴史、哲学などの様々な情報をメモとして書き留めます。

自分自身を信じよ 1/2 エマソン「自己信頼」

2021-06-19 09:45:04 | 哲学

「あなたに平和をもたらすのはあなたしかいない。平和を手にするためには、自己信頼という原理原則によって勝利する以外ないのだ。」


私が元気を取り戻したのは自分を信じることができるようになったからです。

以前自信をなくしていた時がありましたが、自分を金継ぎのように修復することができました。

それは、正しい考え方ができるようになったからです。

私が尊敬しているアメリカの哲学者エマソンの「自己信頼」を読み返してわかりました。

自分を信じる力、答えは自分の心の中にあります。

エマソンの「自己信頼」をお読みください。

これを読んであなたが元気になってくれたら何よりです。


文字数が多いので本編は記事を2つに分けています。

本編

先日、ある有名な画家が書いた詩を読んだが、まったく新しく、自由なものだった。
何について書かれていても、こうした詩はいつも人の魂に教訓を与えてくれる。
詩を読んで心にしみいる情感は、その詩にこめられたどんな思想よりも大切だ。
自分自身の考えを信じ、自分にとって真理だと思うことは、 誰にとっても 真理だと信じる ── それが、天才というものだ。
ひそかに確信していることを話すがよい。
そうすれば、多くの人がその見解をもつようになる。
深く心に秘めたものは、いずれは外面にあらわれ、最初に浮かんだ考えは、最後の審判のラッパの音とともにわたしたちのところに返ってくる から だ。
心の声は誰にでも聞こえるものだが、 モーゼ やプラトン、ミル トン の最も賞賛すべき点 は、彼らが書物や伝統にとらわれ ず、他人の考えではなく自分の考えを語ったことである。
人は、詩人や賢人の世界の輝きよりも、自分の心の内側できらめく かすか な 光 を 見出し、それを見守るようにしなければならない。
わたしたちは自分の考えを、それは個人のものにすぎないからと、こともなげに捨て去ってしまう。
そして、どの天才的作品にも自分がしりぞけた考えが含まれていることに気づくのだ。その考えは一種の近づきがたい威厳をもって、自分にもどってくる。
これは、すばらしい芸術作品がわたしたちに示してくれる最大の教訓である。
このような作品は、皆がそうではないと反対の声を上げているときこそ、明るく、きっぱりした態度で、心に自然にわきおこる考えに従うべきだと教えてくれる。
そうしなければ翌日には、あなたがずっと考え、感じていたそのことを、他人がずばり見事に言いあらわし、あなたはやむなく自分の意見を他人から聞かされて、情けない思いをすることになる。


誰でも教育を受けていると、次のことを確信する時期がやってくる。
人をうらやむのはひどく愚かな行為であり、まねをするのは自殺にひとしく、善かれ悪しかれ、自分自身をそのまま受け入れなければならないこと。
また、広い世界には良いものが満ちているが、自分に与えられた畑を耕す苦労がなければ、体を養うトウモロコシ一粒さえも手に入らないことを。
わたしたちの中に宿る力は、外にあるものとは違う。
自分にできることは自分にしかわからず、その自分にさえ、自分でやってみるまでは何ができるのかわからない。
ある人の顔、ある性格、ひとつの事実に強烈な印象を受け、その他のものに何も感じないのには、それなりの理由がある。
こうして記憶に刻みこまれるのは、それがぴったりとはまる場所がすでに自分の心の中にあるからだ。
光の差す場所に目を向けているのは、その光の存在を証明するためである。
わたしたちは自分を半分しか表現しておらず、神から与えられた自分自身の考えを気恥ずかしく思っている。
だがその考えをきちんと伝えれば、それは調和と良い結果をもたらすだろう。臆病者に神の業を明らかにすることはできない。
自分の仕事に打ちこみ、全力を尽くせば、ほっとしてほがらかな気分になるが、そうでなければ、自分の言葉や行動から心の安らぎは得られない。
それは何も生みださない出産のようなものだ。
いい加減な仕事をしているあいだに、自分の才能を埋もれさせ、詩神から見放され、新しいものをつくりだすこともなく、希望も生まれないだろう。


自分自身を信じよ。その力強い響きに、すべての人の心はふるえるにちがいない。
神の意思によって与えられた場、同じ時代に生きる人々とのつきあい、いろいろな出来事のつながりを受け入れよ。
偉人たちはいつもそうしてきた。
彼らは子どものように時代の精神に身をまかせ、自分の心のうちに絶対に信頼できるものをもち、それが自分の手を通して働き、自分の存在すべてを導いていることを示してきた。  
わたしたちも今、すべてを超えるこの運命を、最も気高い心で受け入れなければならない。
片隅で守られている未成年者や病人ではなく、革命が起こる前に逃げ出す臆病者でもなく、人を導く者、救う者、恵みを与える者として、全能の神の力に従い、「混沌」と「暗闇」に立ち向かって前進しなければならない。

この自己信頼については、子どもや赤ん坊、さらには動物の表情や行動を通して、自然がじつにすばらしい神託を伝えてくれる。
子どもや動物は、相反する心に引き裂かれることはない。
自分の感情を疑い、本当はそうしたくないのに損得勘定で動く──そんなことがないのだ。彼らの心は健やかで、その目はまだひるんでいない。
彼らの顔をのぞきこむと、こちらがうろたえるほどだ。
幼子は誰にも従わない。誰もが幼子の言いなりになるのだ。
たいてい、ひとりの赤ん坊に四、五人の大人が片言で話しかけ、あやそうとしている。
これと同じように、神は少年期、青春期、成人期の人々にも年相応の冴えた魅力を与え、輝くような存在にして、自立してやっていくなら、その主張が無視されないようにした。
若者があなたやわたしに意見を述べられないからといって、彼には力がないなどと考えてはならない。
耳を傾けよ! 隣の部屋から、はっきりと力強く話している声が聞こえてくる。
彼にも、同年代の仲間に対する話し方はわかっているようだ。恥ずかしがり屋でも大胆な者でも、若者はやがて、ちゃっかりと年長者をご用済みにしてしまうだろう

食事にありつけるかどうかを心配したこともない少年は、他人に気に入られるために何かをしたり言ったりするのを、まるで君主のように見くだす。
こうした無頓着さは、人間にそなわった健全な態度だ。  
客間で少年が大人の品定めをしているのは、庶民が劇場の安い席で気楽に舞台を見ているのと変わらない。
気ままに、責任を感じることもなく、片隅から人々や出来事を眺め、良い、悪い、おもしろい、ばかげている、雄弁だ、わずらわしいなどと、いかにも少年らしくあっさりと極めつけていく。
そんなことを言えばどうなるかとか、損をしないかとか悩むこともなく、何ものにもとらわれずに純粋な判断を下すのだ。
大人が彼の機嫌をとらなければならず、彼のほうが大人の機嫌をとることはない。

 
しかし大人は、自意識によって牢獄に放りこまれたようなものだ。
その行ないや言葉が賞賛を浴びることにでもなれば、たちまち囚われの身となり、共感や反感を抱く何百人もの人々の目にさらされて、今度は自分がどう思われるかを気にしなければならなくなる。
ああ、もう一度、自由の身になりたい! 
だが、過去を帳消しにする奥の手などあるわけがない。  
世間への約束はいっさいしないで、一度意見を公にした後でも、周囲に影響されず、偏見もなく、賄賂にも恐怖にも動じない純粋な心で、これまでと同じように意見を述べられる人は、必ずや恐るべき人物にちがいない。
彼は目の前で起こっているすべての問題に対して自分の考えを語る。
それは個人的な考えではなく、耳を傾けるべき意見とみなされ、人々の耳を矢のように貫き、恐れさせるだろう。  
何ものにもとらわれない心の声は、ひとりでいるときには聞こえてくる。
だが世間に出ていくとかすかになり、やがて聞こえなくなる。
どの社会でも、一人ひとりが人としての勇気をもつことを、皆で邪魔しようとする。  
社会は株式会社のようなものだ。それぞれの株主に十分にパンを確保するため、社員たちはそろって、パンを食べる人の自由や教養など気にしないことにするのだ。
何よりも求められる美徳は皆に合わせることであり、自己信頼は嫌われる。
社会は真実や創造力ではなく、名前や習慣を好んでいる。

人間らしくありたいと思うなら、黙って従っていてはならない。
不滅の栄光を手に入れたいのなら、良いことだとされていても、本当にそれが良いことであるのかをよく考えてみなければならない。  
結局は、自分の心の高潔さほど神聖なものはない。
自分を解放するがよい。そうすれば、人々はあなたに共感するだろう。  
わたしがもっと若かったころ、教会の古い教義を引き合いに出していつもわたしを悩ませていた立派な助言者に、ついこう言ってしまったことがある。
「わたしが自分の心の声だけに従って生きていくのなら、その聖なる伝統はいったいわたしとどんな関係があるのでしょうか?」
すると、彼は言った。
「しかしそんな衝動は、天からではなく、地獄から来ているのかもしれないぞ」。  
そこでこう答えた。
「そうとは思えませんが、もしわたしが悪魔の子であるなら、悪魔に従って生きていくつもりです」。  
わたしの本質がもたらす法則以外に、わたしにとって神聖な法則はない。
善と悪というものは、今そう呼ばれているだけで、ころころと簡単に変わってしまう。
唯一の正しいものは、わたしの本質に適っているものであり、唯一の不正なものは、わたしの本質に反するものである。

どんな反対に遭っても、自分以外のすべては名ばかりで、はかない存在であるかのようにふるまうべきだ。
わたしたちがバッジや名前、大きな団体や死んだも同然の組織に、じつにあっさりと屈してしまうことを考えると恥ずかしくなる。
わたしも、きちんとした身なりで上品に話す人に、むやみに心を動かされてしまう。
だがわたしは、正しい道を力強く歩み、どんなことがあってもありのままの真実を話すべきなのだ。  
慈善事業という名目があれば、悪意とうぬぼれによる行為も大目に見てもらえるとでもいうのか。
もし偏見に凝り固まった頑固者がいきり立ち、「奴隷制廃止」という慈悲深い主張をかかげて、バルバドス(西インド諸島東部の島。十七世紀初めにイギリスの植民地となり、一八三四年まで奴隷制が続いた)からの最新ニュースを伝えにやってきたら、こう言ってやってもいいのではないか。
「家に帰って、あなたの幼いお子さんを愛してあげなさい。あなたのために薪を用意してくれる人を大切にしなさい。親切で謙虚な人になることです。そんな美徳を身につけてください。はるか遠くの黒人にとんでもない思いやりを示すことで、あなたの冷たく無慈悲な野心をごまかしてはなりません。遠くの者への愛は、身近な人には悪意になるのです」  
こんなあいさつはひどく不作法なものだろうが、うわべだけの愛よりも真実のほうがすばらしい。


善良であることにも少しは切れ味がなければならない──そうでなければ何にもならない。
愛の教えによってしくしく泣いたりぶつぶつ愚痴を言ったりすることになるのなら、それをなくすために憎しみの教えも説かねばならない。  
自分の才能を発揮すべきときには、わたしは父も母も妻も兄弟も寄せつけないようにする。
わたしは戸口の上に「気まぐれ」と書きたい。結局それは、気まぐれよりもいくぶんましなものだと思うが、それを説明するために一日かけるわけにはいかない。  
わたしは仲間を求めたり、仲間を避けたりするが、その理由を聞かないでほしい。
それから、今日もある善人が言ったように、貧しい人全員の暮らし向きを良くしてやることがわたしの義務だ、などと口にしてほしくない。
彼らはこのわたしの貧民だとでもいうのか。
思慮のない慈善家たちよ、言っておくが、わたしは自分にあまり縁のない人々に一ドルでも、十セントでも、一セントでも与えるのは惜しい。  
一方、互いに惹かれあい、心が固く結びついている人たちがいる。
このような人のためなら、必要とあれば牢獄にでも入るつもりだ。  
だが、一般向けのさまざまな慈善事業、愚か者の大学教育、今や多くの人が熱心に取り組んでいる、くだらない目的のための礼拝堂建設、飲んだくれのための施し、無数にある救済団体に対してはどうだろうか。
恥ずかしながら白状すると、わたしもときには根負けして寄付をしてしまうのだが、それは浅はかな寄付であり、そのうちに勇気を出してやめようと思っている

世間の目から見れば、徳は当たり前というよりむしろ珍しいことになっている。
人がいて、たまには徳のある行為をするわけだ。
人は勇気や思いやりを示すために良いことをするが、これは、毎日行進に参加しないことの罪滅ぼしに、罰金を支払うのと変わらない。
彼らは、日々の暮らしでの謝罪や言いわけとして良い行ないをする。
それは体や精神を病んでいる人が高い食費を払うようなものだ。
彼らの徳は罪のつぐないである。  
けれども、わたしは罪滅ぼしをしたいのではなく、生きたいのだ。
わたしにとって人生は生きるためのものであり、見せ物にするためのものではない。
華々しいが不安定な生活になるより、慎ましくても偽りのない、平穏な生活のほうがずっといい。
健康的で楽しく、食餌療法も面倒な治療もいらない生活を送りたい。
あなたには人間らしい生き方をしてほしい。人間らしさを忘れて、ただの行動だけに訴えることはごめんだ。  
他人からすばらしいと思われる行動をしてもしなくても、わたしにはどうでもいいことだ。
自分がもともともっている権利をもらうために、わざわざ代金を支払うことはないだろう。
わたしのもって生まれた才能はわずかで平凡なものかもしれないが、わたしは現実に存在しているのだから、このことを自分で納得したり仲間を安心させたりするために、他の証拠を見せる必要などまったくない。  
わたしがすべきことは自分に関わることだけで、他人が考えていることではない。
現実の生活でも知的生活でもこの原則を通すのはむずかしいが、これが偉大さと平凡さをはっきりと区別するものだろう。
だが困ったことに、わたしの義務が何であるかをわたしよりよく知っていると考える人が常にいるため、余計にこれを守ることはむずかしくなる。  

世間で人々の意見に従って生きていくのは楽だし、ひとりでいるときに、自分の考えに従って生きていくのも楽だ。

しかし偉大な人とは、大勢の中にいながら、じつに穏やかにひとりのときの独立心を保っている人である。


あなたにとって意味がなくなったしきたりを守ることに反対するのは、そのためにあなたの力を無駄にしてしまうからだ。
それによって時間を失い、あなたの人格の印象がぼやけてしまう。  
生命を失った教会を維持したり、沈滞した聖書協会に寄付したり、大きな政党の一員として政府へ賛成票や反対票を投じたり、卑しい召し使いのように食卓にごちそうを並べたりすること──このようなことに振り回されていては、本当はあなたがどんな人なのかもわからなくなる。
そして言うまでもなく、それだけの精力がみずからの生活から失われてしまうのだ。
しかしあなたが自分の仕事をすれば、自分のことをわかってもらえる。
自分自身の仕事をするがよい。そうすれば強くなれる。
やみくもに世間に従うことは目隠し鬼をしているようなものだ。

その人の宗派がわかれば、どんな主張をするのか予想できる。
ある牧師が、説教の場で教会の慣行のひとつが役立つことについて話したい、と予告したとしよう。
彼が心のうちから自然にあふれでる新しい言葉などまず語れないことは、説教を聞かなくてもわかっているではないか。
その慣行の根拠をはっきりさせるなどと大きなことを言っても、実際にそうするつもりはないのだ。  
人間としてではなく教区牧師として、許された一面だけしか見ないと心に誓っていることが、わたしにわからないとでもいうのか。
彼はおかかえ弁護士のようなもので、この法廷のような雰囲気はまったく中身のない見せかけなのだ。  
とはいえ、たいていの人はいろいろなハンカチを巻きつけて目隠しし、どこかの団体に所属して、その意見に従っている。
こうして世間に従うことで、いくらか不誠実になって少々嘘をつくどころではなく、すべての点で不実になってしまう。  
彼らの真実はすべて本当の真実ではない。彼らの言う二は本物の二ではないし、彼らの言う四は本物の四ではない。
そのために、彼らの言葉はすべてわたしたちをがっかりさせ、その誤った考えを正そうにも、どこから始めればいいのかわからない。  
そのあいだにも、人々は自分が属している団体の囚人服をすばやく着せられてしまう。
同じような顔と姿になり、徐々にこのうえなく優しげで愚鈍な表情を浮かべるようになる。  
なかでも、たいていの人が経験する屈辱的な表情が「ほめるときの間抜け面」だ。
堅苦しい席でおもしろくもない話に相槌を打つときに浮かべる、
あのつくり笑いである。筋肉が自然に動くのではなく、卑しい意志によって無理やり動かされ、たまらなく不愉快な気持ちになって顔がこわばるのだ。

世間に従わなければ、人々の反感を買ってひどい目に遭わされるだろう。
そのため、他人の渋い顔から本心を読みとらねばならなくなる。  
従順でない人は通りや友人の客間で、居合わせた人々から白い目で見られる。
本人は軽蔑の念や反抗心からそのような態度をとっているわけだが、まわりの人々も同じような気持ちから彼を嫌っているのなら、あきらめるしかない。
だが世間の人々がほめたりけなしたりするのに、深い理由など何もなく、風の吹くまま、新聞が書きたてるままに変わるのだ。  
ただ、大衆の不満は議会や大学の不満より恐るべきものだ。
堅実で世慣れた人なら、たとえ激しくても、教養人の怒りに耐えるのはたやすい。
教養人はみずからが非常に傷つきやすく小心なので、その怒りも礼儀をわきまえた慎重なものだ。  
けれども彼らの気弱な怒りに大衆の憤りが加わり、無学な人や貧しい人の心がめざめ、社会の根底にひそむ無知で荒々しい力が噴きだして不満の渦が巻きおこると、どうなるだろうか。
よほど広い心をもち、強く信じるものがなければ、些細なこととして超然と受けとめることはできない。

わたしたちを怖がらせて自己信頼から遠ざけるもうひとつの恐怖は、いつも一貫していなければならないと思うことである。
ある人のやり方を予測するための手がかりは過去の行動や言葉しかなく、本人も他人をがっかりさせたくないので、過去の言動を大事にする。  
しかし、どうして後ろを振り返ってばかりいなければならないのか。
なぜ記憶の死骸をひきずりまわして、あちこちの公共の場で述べたことと矛盾しないようにしなければならないのか。
かりに矛盾したことを言ったとしても、それがどうだというのか。  
自分の記憶だけに頼らず、主に記憶によって行なう行為でも、ほとんど記憶に頼らず、新しい見方ができるようになった今の自分の目で過去の出来事を判断し、いつも新たな一日を生きること。
それが賢明なやり方だと思われる。  
神が人間と関わりをもつとは思えないかもしれないが、敬虔な感情がこみあげてきたときには、ひたすらその衝動に浸るがよい。
あなたの神が形あるものや美しい色の付いたものであっても、それでよいだろう。
ヨセフがふしだらな女の手に上着を残して逃げていったように、理論などあとに残して逃れることだ。  
愚かな一貫性は心の狭い人にとりつくお化けで、小心な政治家や哲学者、神学者があがめるものだ。
首尾一貫していることなど、偉大な魂には何の関係もない。
それくらいなら、壁に映った自分の影に関心をもつほうがましというものだ。  
今考えていることを力をこめて語り、明日になれば、たとえ今日語ったすべてと矛盾していても、明日考えることをふたたび真剣に語るがよい。
「 でも、そんなことをすれば、絶対に誤解されますよ」 ─そんな声が聞こえてくる。
だが、誤解されることがそんなに悪いことだろうか。
ピタゴラスは誤解されたし、ソクラテスも、イエスも、ルターも、コペルニクスも、ガリレオ・ガリレイも、ニュートンも、かつて存在した純粋で賢明な魂の持主はすべて誤解された。
偉大であることは誤解 されることである。

わたしは思うのだが、自分の本質に逆らうことができる人はいないだろう。
アンデスやヒマラヤの起伏が地球全体の曲線からみれば問題にならないように、人がさまざまな意志を発揮しようとしても、すべてが自分自身の存在の法則にたぐりこまれてしまう。
他人が彼をどう評価しようが試そうが、結局は同じことだ。  
人格はアクロスティック(各行始め[中、終り]の文字をつづると、ある語になる遊戯詩。折句)やアレクサンダー格(弱強格六脚から成る十二音節の詩形)の詩節のようなものだ。
前から読んでも、後ろから読んでも、斜めに読んでも同じつづり字になる(これらの詩形はこの文章が意味するものではなく、回文=パリンドローム体がこれに近いと思われる)。  
わたしは神に許されて、この森で快適な生活を送っているが、先のことを予想せず、過去の回想もせずに、自分の正直な思いを日々記録しよう。
そうすれば、わたしにそのつもりはなく、それと気づかなくても、均整のとれた考えになることは間違いない。  
わたしの本からは松の香りがただよい、虫の羽音が響いてくるだろう。
わが家の窓の上に巣をつくるツバメは、くちばしにくわえてきた糸や藁を、わたしの文章にも編みこんでくれるはずだ。  
人はあるがままに見られるものだ。意志よりも人格によってその人のことがわかる。
だが人々は、目に見える行動だけに美点や汚点があらわれていると考え、一瞬一瞬に吐く息の中にさえ、それらが息づいていることに気づかない。

どんなにさまざまな行動をとっても、それぞれが正直に自然に行なわれるなら、何か共通点がある。
同じ意志から出た行動は、似ていないように見えても調和がとれているからだ。
少し離れ、わずかに視点を高くして眺めるなら、違いは見えなくなる。
ひとつの共通点によってすべてが結びついているのだ。  
目を見張るような豪華船でも、何度も方向転換しながら進んでいくが、かなり遠くから眺めると、一定の方向にまっすぐに進んでいることになる。
これと同じように、あなたの誠実な行ないを見ればその本質がわかり、なぜあなたがいつも誠実な行ないをするのかもわかる。
むやみに従っていては、あなたについて何もわからない。
わが道を行くがよい。
そうすれば、あなたが行なったことが現在のあなたを正当化してくれる。  
偉大な行為は未来の自分をつくる。
わたしが今日、人目を気にしないで、毅然とした態度で正しいことを行なえるとしたら、今の自分を正当化してくれるような正しい行為を、以前にしたからにちがいない。
とにかく今、正しいことをせよ。見た目ばかりを気にしないようにしていれば、常に正しい生き方ができる。  
人格の力は積み重なっていく。過ぎ去った日々に実践した徳のすべてが、その活力を今に注ぎこむ。
すばらしい政治家や戦場の英雄たちは、どうして威厳があるのだろうか。
それは、過去に活躍した日々と勝利を意識しているからだ。
過去のあれこれが一体となって、進み出ていく人に光を投げかける。
まるで目に見える天使たちに護衛されているかのようだ。  
それこそが初代チャタム伯爵(英国の政治家ウィリアム・ピット。「大ピット」のこと)に熱弁をふるわせ、ジョージ・ワシントンの態度に威厳を与え、ジョン・アダムズ(米国の政治家。米国第二代大統領)にアメリカへの献身を誓わせたのである。
名誉が尊いのは、それが一時的なものでなく、過去から連なる美徳だからだ。
今日のものでないからこそ、名誉をたたえるのだ。  
わたしたちは名誉を愛し、敬う。なぜなら名誉は、人の愛や尊敬を得るために仕掛ける罠ではなく、それ自体に意味があり、過去のすばらしい行為がもたらしたものだからだ。
若者に与えられたとしても、それは過去に根ざした清らかな名誉で ある。

このごろわたしは、世間に従うとか一貫性をもつなどということはやめてしまえばいいと思っている。
こんな言葉は官報にでも載せて、笑いものにしてやろう。
食事を知らせる鐘の音の代わりに、勇ましいスパルタ軍の横笛の音を聞いて心を奮い立たせたい。  
これからは、やたらにお辞儀をしたり謝ったりしないことにしよう。
えらい人をわが家の食事に招いても、その人に気に入られるようにするつもりはない。
むしろ、わたしの機嫌をとってもらいたいくらいだ。
わたしは人間として接し、親切にはするが、ありのままにふるまうつもりだ。
この時代にはびこる、丸くおさめるだけの凡庸さ、あさましい満足感を侮辱し非難しよう。
そして習慣や商売や儀式に凝り固まった人々に、すべての歴史が示している事実をつきつけてやろう。
つまり、人間が行動するところには必ず信頼できる偉大な「思想家」と「行為者」がいること、そして真の人間は他の時代や場所ではなく、今ここで万物の中心となっていることを。  
真の人間のいるところに自然がある。真の人間は、あなたやすべての人間、あらゆる出来事を判断する。
ふつう、わたしたちは社会の誰を見ても、何か他のものや他の人を思い出すが、人格や真実は何ものも思い起こさせない。
人格や真実は宇宙全体をあらわすのである。  真の人間は、あらゆる環境の違いを超えるほど、偉大であるにちがいない。
真の人間の誰もが原因をつくりだし、国を代表し、時代の精神をあらわす。
彼の構想を十分に実現させるには、無限の空間と数字と時間が必要だ。
そして後世の人々は、まるで従者の列のようにぞろぞろと彼についていくようである。
シーザーが世に出ると、長いあいだローマ帝国が続いた。キリストが生まれると、数百万人がその天与の力にすがって心の成長を果たし、キリストの教えは人間のもつ徳や可能性と混同されているほどだ。  
制度はひとりの人間の影が長く伸びたようなものだ。
修道院制度は隠者アントニー(キリスト教の聖人、聖アントニウスのこと。修道士生活の創始者)の影であり、宗教改革はルターの影、クエーカー教徒の教義はジョージ・フォックス(クエーカー派の創始者)の影、メソジスト派の教義はジョン・ウェスレー(メソジスト教会の創始者)の影、奴隷制廃止はトマス・クラークソン(英国の奴隷制廃止論者)の影である。ミルトンはスキピオ(古代ローマの名将、大アフリカヌスのこと)を「ローマの絶頂」と呼んだ。
このように、少数の勇敢で熱意にあふれた人物の伝記にあらゆる歴史が示されることが多い。

自分の価値を知り、あらゆるものを自分に従わせておくがよい。
世界は自分のために存在するのに、もぐり商人のように、のぞき見をしたり、だまして手に入れたり、こそこそ歩きまわったりしてほしくない。  
だが一般の人は、塔や大理石の神像を建てた権力者のような価値が自分にはないと思い、こうした塔や像を見るとみじめになる。
宮殿や彫像や高価な本は従者つきの華やかな馬車のように、よそよそしく近寄りがたい感じがして、「おまえは何者だ」と言われているような気分になるのだ。  
ところが、それらはすべて彼らのもので、目をとめてほしいと頼み、能力を発揮して自分たちを手に入れてほしいと願っている。  
絵はわたしの言葉を待っている。
絵はわたしに命令せず、わたしがその絵に賞賛すべき価値があるかどうかを決めてやらなければならない。  
あの有名な飲んだくれの話をしてみよう。
飲んだくれが路上で酔いつぶれているところを拾われて、公爵の屋敷に運ばれ、体を洗って服を着せてもらい、公爵のベッドに寝かされる。
目を覚ますと、公爵のようにいんぎんに扱われ、これまで自分は気が変になっていたのだと思いこまされる。
この話に人気があるのは、これが人間の状況をうまく言い表しているからだ。
人間は世間では飲んだくれのようなもので、たまに目を覚まして正気に返り、自分が本当の貴公子であることに気づくのである。

わたしたちは本を読むときも、物乞いのようにひたすら頭を下げ、教えを請う。 歴史物なら想像力をふくらませ、事実をゆがめて理解してしまう。
王国や君主、権力や領土といった言葉は、小さな家で日々の仕事に明け暮れる、ただのジョンやエドワードより華やかな感じがする。
だが、基本的な生活にかかわることは誰でも同じだ。
ひとりの人間の生活という視点で見れば、王も庶民も変わらない。  
それなのに、なぜアルフレッド(古代ウェセックスの王)を、スカンデルベグ(中世アルバニアの君主で、オスマン帝国に抵抗した民族的英雄)を、グスタフ(一世。デンマークの支配から祖国を救ったスウェーデン王)をそんなに敬うのか。
彼らが徳の高い人であったとしても、その徳を使いきるほどすばらしいことをしたというのか。  
王や英雄の偉業と同じように、あなたのひそやかな行為も偉大な結果をもたらす可能性がある。
ふつうの人が自分自身の考えに従って行動するなら、その人の行ないは、王の行為よりも輝かしいものになるだろう。  
世界中で王は人々を導き、王たちは国民を魅了してきた。
本来なら人間と人間が互いに抱くべき尊敬の念が、この堂々とした象徴によって教えられてきたのである。
いたるところで、人々は王や貴族や大地主に喜んで忠誠を尽くした。
王たちは自分でつくった法律によって人々を支配し、世間の考えなどは無視して、自分の尺度で人やものごとを判断し、褒美として金でなく名誉を与え、自分自身が法となったが、人々はそれを許してきた。
こうした忠誠心は、人々が自分自身の権利と心の美しさ、そして万人の権利を自覚していることをそれとなく示すものだった。

人はなぜこのような独自の行動に魅了されるのだろうか。
そのわけは、自己信頼についてじっくりと考えてみればわかる。  
いったい誰を、何者を信頼するのか。
誰もがどんなときにも信頼を寄せられる本来の「自己」とは何だろうか。  
つまらない不純な行動であっても、ほんのわずかでも自立心があるなら、美しい光を投げかけるあの星──測定もできず科学でも解明できないあの星は、どんな性質をもち、どんな力を秘めているのか。  
こうして突きつめていくと、才能と徳と命の本質であり、「自発性」あるいは「本能」と呼ばれる、あの源にたどりつく。  
人にもともとそなわったこの叡智を、わたしたちは「直観」と名づける。
これに対して、あとから受ける教育はすべて人から授けられるものだ。
この「直観」の深い力、どんなに分析してもわからない究極の事実の中に、すべてのものの起源がある。
つまり、こういうことだ。
心が落ち着いているときに、どういうわけか魂のうちに、自分が確かに存在しているという実感がわきあがるだろう。
その実在感は、物や空間や光や時間や人間とかけ離れたものではない。
そうしたものと一体になっており、それらの命や存在と同じ源から生じているのだ。
わたしたちも最初は、万物を存在させている命を享けるが、やがて万物を自然現象として眺めるようになり、自分も同じ源から来ていることを忘れてしまう。
しかしこの万物を存在させている源こそ、行動と思考を生みだす泉である。
これこそが人に智恵を授ける霊感のもとであり、このことは不信心者や無神論者でもなければ否定できないだろう。

わたしたちは大いなる叡智の懐にいだかれ、叡智はわたしたちに真実を伝え、わたしたちを通してその働きをあらわす。
正義を見極め、真実を見抜くとき、わたしたちは自分では何もしていない。
ただ叡智が放つ光を通しているだけだ。
この光がどこから来ているのか疑問に思い、もとの魂を探ろうとして、哲学を勉強してみてもわからないだろう。
光があるかないか、確かめられるのはそれだけである。  
誰でも、意識的な心の働きと無意識的な知覚を区別し、無意識に知覚しているものこそ、心から信頼すべきことだと知っている。
無意識的知覚が何であるかをうまく言い表せないかもしれないが、その存在は明確で、議論の余地がないこともわかっているのだ。  
わたしが意図的に行なうことや意識して身につけることは次々に変わっていく。
一方、たわいない空想や自然にわきあがるかすかな感情はわたしの好奇心をかきたて、それを敬わずにはいられない。  
けれども、わたしが知覚しているものについて語ると、思慮のない人たちは、他人の意見を否定するのと同じように、いやそれ以上にあっさりと否定する。
彼らは知覚と意見の違いもわかっていないからだ。
人々は、わたしが見たいものだけ見ていると思っている。
だが知覚は気まぐれに起こるものではなく、運命のように避けられないものである。
もしわたしが何かに目をとめれば、わたしの前には誰もそれに気づかなかったとしても、わたしの子どもたちも、やがては全人類もそれに気づくことになるだろう。
わたしがそれを知覚したことは、太陽にも負けないほど確かな事実だからだ。

人の魂と神の霊との関わりはこの上なく純粋なもので、教会などの助けを介在させることが冒になるほどだ。
神はひとつのことではなく、すべてのことを語り、世界中をその声で満たし、その思考の中心から光、自然、時間、魂を放ち、新しい日々を生み出し、全世界を新たに創造するだろう。  
素直な心をもち、神聖な智恵を受け入れると、必ず古いものは消え去る──手段も、教師も、教科書も、神殿もくずれ落ち、その心は今を生き、心の中の過去と未来は今ここに集約される。  
その素直な心で接することで、あらゆるものが神聖になる。
すべてのものはそれぞれの原因によって万物の中心に溶けこみ、ひとつひとつの小さな奇跡は普遍的な奇跡の中に消えていく。  
したがって、誰かが自分は神を知っていて神について語ると主張し、どこかよその国の古くさい言葉で言いたてても、信じてはならない。  
どんぐりから生まれて見事に生長した樫の木より、もとのどんぐりのほうが立派だろうか。
親はその成熟した命をそそぎこんだ子どもより偉いというのか。
そうでないとすると、どうしてこんなにも過去を大切にするのだろうか。  
過去にばかりとらわれていると、魂の健やかさや威厳をなくしてしまう。
時間と空間は目が感じる生理的な色彩によってとらえるしかないが、魂は光そのものである。
魂が輝くところは昼で、それが去ったところは夜だ。
歴史は、わたしの現在と未来について教えてくれる楽しいたとえ話にすぎない。
歴史がそれ以上の存在になれば、見当ちがいで害をおよぼすものになる。

人間は気が弱く、謝ってばかりいる。
自信がなくなり、「わたしはこう思う」とか「わたしはこうだ」と言う勇気がなくて、聖人や賢人の言葉を引用する。
そして草の葉や咲いているバラを見ると、ひけ目を感じる。  
わが家の窓の下に咲くバラは、以前に咲いたバラやもっと美しいバラを気にしたりしない。
これらのバラはあるがままに存在し、神とともに今日、ここに生きている。
それらには時間はない。
ただバラがあるだけだ。  
このバラは、ここにある一瞬一瞬において完璧である。
芽が出ないうちからバラの命全体が活動していて、花が満開になれば命が盛んになるとか、葉が落ちて根だけになれば衰えるということはない。
どの瞬間にも同じように、バラの本質は満たされ、バラは自然を満たしている。  
しかし人間は、ものごとを一日延ばしにしたり、済んだことを思い出したりする。
今を生きず、過去を振り返って後悔したり、身の回りの豊かさには気づかないで、背伸びして未来を先読みしたりする。
時を超越して自然とともに今を生きなければ、わたしたちは幸せで強い存在にはなれない。  
これはわかりきったことであるはずだ。
だが、どうだろう。どんなに知的な人でも、ダビデ(旧約聖書の『詩篇』の作者とされる古代イスラエルの王)やエレミヤ(旧約聖書の『エレミヤ書』の作者とされるイスラエルの大預言者)やパウロ(新約聖書中の書簡を著したとされる使徒)など、誰だかよくわからない人の言葉からでなければ、神の声をあえて聞こうともしない。  
わずかばかりの聖句や伝記だけを、むやみにありがたがってばかりいてはならない。
わたしたちは、祖母や家庭教師の言葉をそのままくり返し、少し大きくなれば、たまたま出会った才人や人格者の言葉を四苦八苦して丸暗記する子どものようなものだ。
その後、その人たちと同じ考え方ができるようになると、やっとその意味を理解し、覚えた言葉に頼らなくなる。
必要なときにはいつでも、同じような言葉を自分で使えるようになっているからだ。  
正直な生き方をすれば、真実がわかる。
強い人が強くなるのは、弱い人が弱虫になるのと同じくらい簡単なことだ。
新たなことを知覚しさえすれば、大事にためこんでいた記憶を古ぼけたガラクタのように喜んで捨てられる。
神とともに生きるなら、その人の声は小川のせせらぎやトウモロコシの葉がすれ合う音のように快いものとなるだろう。

本編の続きは「自分自身を信じよ 2/2」
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