日本丸のメモログ

日本の政治経済、歴史、哲学などの様々な情報をメモとして書き留めます。

自分自身を信じよ 2/2 本編続き エマソン「自己信頼」

2021-06-19 11:04:21 | 哲学

「自分自身を信じよ 1/2」本編の続きです。
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さて、この「自己信頼」という主題について、最高の真理がまだ述べられていない。
そしてそれはおそらく、言葉では語りえないものだ。
私たちが口に出すことはすべて、直感が告げることを、遠く離れたところから思い出しているのにすぎないからだ。
その真理について今私が言えるのは、せいぜい次のようなことだ。  
よいことがすぐそばに来ていて、あなたが生き生きとしているとき、それは既に知られた、手あかのついた方法でそうなったのではない。
誰の足跡も追いかけていないし、顔色もうかがっておらず、言葉も聞いていない。
そのやり方も、考えも、よいことも、すべて見たこともない新しいもののはずだ。
頼りにできるお手本もなければ、経験もない。
君の行く道の後ろには人がいても、前にはいない。  
かつてはみなその真理に仕えていながら、今はそれを捨ててしまっている。
不安も希望その真理には及ばない。
希望にさえその真理に比べればどこか卑しいところがある。  
その真理を悟るとき、感謝とか、あるいは、正しい意味で喜びと呼べるようなものは湧いてこない。
感情を超越した魂は、万物がみなひとつであること、それらの間には永遠不変の因果関係があることを見てとり、「真理」と「正義」が何ものにも依存することなく、それそのものとして存在することを悟る。
そして、すべてが順調に進んでいることを知って安堵する。
大西洋や太平洋といった広大な自然の空間も、数百年、数千年という長い時の経過も、もはや意味をもたない。  
私が思い、感ずるこうしたことは、これまでも私の人生と境遇のあらゆる局面において、その根底に横たわっていたし、今現在の自分にも、そして生と呼ばれるもの、死と呼ばれるもの、いずれの根底にも横たわっている。  
今生きていること、それだけに意味があり、過去にどう生きたかなど何の意味もない。
力は活動を止めた瞬間にたちまち消え去る。
そして、過去の自分から新たなる自分へと移り進む瞬間、深い裂け目を飛び越える瞬間、目的に向かって突き進む瞬間に現れる。  
魂はかくあるのではなく、かくなるのだ―このたったひとつの真実を世の中は嫌う。
それは、この真実が、過去の価値を永遠におとしめ、すべての富豪を貧乏人に、すべての名誉を恥辱に変え、聖人をごろつきと混同させ、イエスとユダとをひとまとめに脇へと追いやるからだ。  
ではなぜ、私たちは、自己信頼について、とりとめのないおしゃべりを続けているのか? 
魂が存在する限り、力も―何かに頼る力ではなく、自ら行動する力も存在する。
頼ることについて話すのは、的外れな、つたないやりかただ。
むしろ、頼る主体―自己について語ろう。
それは実際に存在し、活動するからだ。  
私よりも素直に自分に従う人は、一本の指も動かすことなく私を従わせる。
私は、魂の持つ引力によって、その人の周りをぐるぐる回らずにはいられない。  
高い徳について語るとき、私たちはそれを言葉のあやだと思っている。
分かっていないのだ―美徳こそ「至高のもの」であること、そして、しなやかに原理原則に従う人や集団は、自然の法則の力によって、そうでない都市や、国や、王や、富豪や、詩人たちを圧倒し支配することを。

あらゆるものはひとつの聖なる「根源」へと回帰する。
このことは、他のあらゆる命題と同様、この自己信頼という命題においてもすぐに導き出される究極の事実である。
他に依存せず、それそのものとして存在することは「万物の根源」の属性であり、この属性をどれだけ備えているかによって、あらゆるものの価値を見定めることができる。
実在するあらゆるものは、美徳をどれだけ備えているかによって、どれだけ本物かが決まる。
商業、農業、狩猟、捕鯨、戦争、雄弁、貫録については「いくらかは」といったところで、美徳はあるにはあるが、不純物を含んでいる例として私の興味を引く。  
同じ原理が自然界における保全と成長においても働いている。
自然界においては、力こそが権力の大きさを計る尺度である。
自然は、自立できないものを、その王国から容赦なく追放する。
惑星が誕生して成熟し、宙に浮かんで軌道を描くこと、木が強い風にたわみながらも立ち直ること、動物や植物の生命を支える資源が存在すること―これらの事実は、自らを信頼し自立する魂が存在することを示している。  
こうしてすべてのものが根源へと集約する。
うろうろ歩き回るのはやめ、根源とともに家にとどまっていよう。
この厳かな事実をさらりと宣言して、あなたの中にずかずかと踏み込んでこようとする人や書物や制度といったくだらない連中を呆然とさせよう。  
侵入者には靴を脱げと命じよ。
あなたの中には神がいるのだから。
難しいことを考えず、素直に彼らを裁けばいいのだ。
そして自らの法に従いさえすれば、私たちが本来持つ豊かさに比べれば、自然や運命がいかに貧しいかが分かるだろう。

だがまだ今は、私たちは烏合の衆だ。
人間という存在を畏れ敬うこともなければ、自分の魂に「家にとどまり、内なる大海原と心通わせよ」と命じることもなく、外に出かけては、他人の水がめから水を恵んでもらおうとする。
そうではなく、人はひとりで歩まねばならない。  
私は、どんな説教よりも、礼拝が始まる前の教会の静けさが好きだ。
聖域に身を置いた人びとは、どこかよそよそしく、穏やかで、清らかな表情をしている。
ならばいつもそうしていようではないか。  
友人や妻や父や子どもたちと同じ暖炉を囲んでいるからといって、あるいは同じ血が流れているからといって、彼らの悪いところまで自分のものにする必要がどこにあるだろうか? 
あらゆる人の体内に私の血が流れ、私の体内にはあらゆる人の血が流れている。
だからといって、彼らの怒りっぽさや愚かさまで受け入れて、わが身を恥じるようなまねはしたくない。
しかし、世間からの孤立は、機械的なものではなく、霊的なもの、すなわち自分を高めるものでなければならない。  
時として全世界が共謀して、些末なことをさも重要そうに言い募り、あなたを悩ましているかのように思うこともあるだろう。
友人や顧客、子ども、病気、恐怖、欠乏、慈善活動が、いちどきにあなたの家のドアをノックして、「出て来なさい」と言う。
そんなときは、悠然と構えていればよい。
彼らのごたごたの中に飛び込んではいけない。
あなたがちらっとでも好奇心を見せれば、人を悩ますことのできる力を彼らに与えることになる。
こちらが動きさえしなければ、相手は近づいて来られない。
「愛するものを私たちは今手にしているが、欲をかけば、その愛するものを自ら奪い去ることになる」

自己信頼という精神の高みに今すぐ上ることはできないとしても、せめて誘惑には抵抗しよう。
ただちに戦闘態勢に入って、私たちサクソン人の胸のうちに、スカンジナビアの神々トールとオーディン、つまり勇気と気概を呼び起こすのだ。
現代のような平穏な日々にあってそれをなすには、思ったままを口にすればよい。
心にもなく歓待したり、心にもなく愛情をかけたりすることをやめるのだ。
欺き欺かれながら付き合っている人たちの期待に応えて生きるのをやめるのだ。  
彼らにこう告げるがよい。
「父よ、母よ、妻よ、兄弟よ、そして友よ。これまで私は、あなた方とともに、外見ばかりを気にして生きてきました。これからは、自分に正直に生きます。ですから、承知しておいてください。これからは、永遠なる法以外のいかなる法にも従いません。
おそばにはいますが、それ以上のことは約束できません。両親を養い、家族を支え、ひとりの妻を愛して裏切らないよう努めます。でもこれからは、これまでとは違う新しい方法によって、これらの義務を果たします。従来の慣習には必ずしも従いません。私は私自身でなければいけないのです。もはや、あなた方のためであっても、自分を偽ることはできません。  
あるがままの私を愛してくださるなら、私たちはもっと幸せになれるでしょう。それはできないとおっしゃるのなら、それでも私は、ありのままで愛される自分になるよう努めます。  
自分の好き嫌いを隠すつもりはありません。心の奥深くにあるものこそ神聖だと信じていますから、陽光のもとでも月光のもとでも、心が喜ぶもの、心が命ずるものを、ためらうことなく行っていくつもりです。  
もしあなたが気高くあるなら、私はあなたを愛するでしょう。もしそうでないとしても、うわべをとりつくろうようなことをして、あなたや自分を傷つけるようなことはしません。  
もしあなたがご自分の真実に従って生き、その真実が私と違うものだったなら、どうかあなたの仲間を大切にしてください。私は私の仲間を探します。自分勝手な気持ちでそうするのではありません。謙虚で誠実な気持ちがそうさせるのです。これまでどれだけ長く偽りの中に住んでいたとしても、これからは真実の中に生きます。それが、あなたのためでもあり、わたしのためでもあり、すべての人のためでもあるのです。  
こんなことを言うのはあなたの耳に冷たく響くでしょうか? でもすぐにあなたも、あなたや私の内なる声が告げるものを愛するようになるでしょう。そして真実に従って生きていれば、やがて私たちは自由の身となれるでしょう」  
―こんなことを言えば、親しい人たちを苦しめることになるかもしれない。
だがそれでも、ただ彼らを傷つけたくないという理由だけで、私の自由と力を売り渡すようなことはできない。
それに、きっとみな、理性がひらめく瞬間、不滅の真理に目を向ける瞬間がある。
そのときになれば、彼らも私の言ったことを理解し、私と同じことをするだろう。

あなたが一般的な社会規範に従わないようになると、世間はあなたが、あたかもすべての基準を拒否し、社会倫理までも顧みていないかのように考える。
そして、厚顔無恥な快楽主義者は、哲学の名を借りて、自分の罪を飾り立てるものだ―とも考える。
しかしそれでも私は、自分の意識が告げるところに従うつもりだ。  
世の中には懺悔のための部屋が二つあり、どちらかに入って懺悔しなければならない。
自らの義務を果たすために、自らの手で許しを与えてもいいし、世間の手を借りてもいい。
世間の手を借りるのであれば、あなたの父、母、いとこ、近所の人、町の住民、猫、そして犬との関係を良好に築いているかどうか、それともそれらの誰かに非難されてもしかたないかどうか―そのことを考えてみなければいけない。  
一方、世間の手を借りず、自分で自分に許しを与えることもできる。
私には、自分で定めた厳格な要求事項と、明確な境界線とがある。
この基準に照らせば、世間で義務と呼ばれている多くのものは、私にとって義務ではない。
自分で定めた義務を果たしさえすれば、世間一般の決まりごとなど無用の存在となる。
そんな生き方は安直だと言う者がいるなら、一度その基準に従わせてみればいい。  
実際、自らの基準に従って生きるには、どこかしら神のようなところがなくてはならない。
人間にとって当たり前の動機を捨て、自分に命令するのは自分だけと腹をくくるのだから。
志は高く、意志は固く、目は確かでなければならない。
それでこそ初めて、自分が自分の教義となり、社会となり、法則となることができ、自分が決めた目標が、他人にとっての道徳律と同じように、自分にとって鉄のように強固なものとなる。  
分類上「社会」と呼ばれているものの現状をじっくり見てみれば、このような、自分を基準とする倫理が求められていることが誰の目にも明らかなはずだ。
人びとは、肉体的にも精神的にも元気を失ってしまったかのように、おびえ、落胆し、泣き言ばかり言っている。
真実を恐れ、運命を恐れ、死を恐れ、お互いを恐れている。  
今の時代は偉大で完璧な人間を誰ひとりとして生み出していない。
人の生き方や社会のあり方をがらりと変えてくれる人間の出現を待ち望んでいるが、現実にはほとんどの人間が破産状態で、自分の必要も満たせないくせに身の程知らずの野心を持って、四六時中人に頼って物乞いばかりしている。
家の切り盛りも、芸術も、仕事も、結婚も、すべてが物乞いと同じで、自分で決められず、社会に決めさせている。
私たちは見かけ倒しの兵士で、そこにとどまってこそ真の強 が生まれる はずの、運命いう過酷な戦場から逃げている。

今の若い人は、最初の企てが失敗に終わると、すっかりしょげこんでしまう。
若い商人がひとたび事業に失敗すれば、周囲は「もうおしまいだ」と言う。
大学で学んだ秀才が、卒業して1年以内に、ボストンやニューヨークあたりで就職できなければ、当の本人も、友人たちも、打ちひしがれる権利、残りの人生を愚痴を言いながら過ごす権利を手にしたかのように思いこむ。  
それにひきかえ、ニューハンプシャーやバーモントなどの田舎町から出て来た、たくましい若者は、とっかえひっかえあらゆる職業に挑戦する。
馬や牛を追い、畑を耕し、商品を売り歩き、学校を経営し、教会で説教し、新聞を編集し、議員になり、土地を買う。
こうして年を重ねる中で、たとえ失敗しても、地上に落ちた猫のようにすっくと立ち上がる。
こうした若者は、都会で育ったもやしっ子の百倍もの価値がある。  
彼は時代と肩を並べて歩き、「高等教育」を受けていないことをいささかも恥に思わない。
人生を先延ばしにせず、すでに生きているからだ。
彼にはひとつどころか、百万、千万のチャンスがある。  
誰か賢者を呼んできて、人間が持つ可能性の扉を開く役をしてもらったらどうだろう。
人はしなだれかかる柳ではなく、自分で立つことができるし、立たなければいけないこと、自分を信頼することによって新しい力が出てくること、人は神の言葉を体現したものであり、世界の人びとを癒すために生まれてきたこと、人から同情されるのは恥だと思うべきこと、法も書物も偶像崇拝も慣習も窓の外に投げ捨て、自らの考えで行動し始めた瞬間、世間はその人を哀れむのをやめ、感謝し敬うようになることを教えさせよう。
そして、それを説くことができた賢者は、人間の生に輝かしさを取り戻した者として、その名前を歴史に刻むことになるだろう。

言わずもがなのことかもしれないが、自己信頼が広まれば、人間のすべてのなりわい、すべての関係において革命が起きる。
宗教も、教育も、働き方も、生活様式も、交友関係も、財産も、ものの見方も―あらゆるものが激変するだろう。
1.祈りと宗派について  
人は何という祈りをしていることだろうか! 
聖なる勤めと呼ばれているものは、さして勇ましいものでも立派なものでもない。
人びとの祈りは、自分の外に向けられ、自分のものでない美徳の力で、自分のものでない何かがもたらされるのを求めている。
そして、自然と超自然、奇跡とそれを仲介する者があやなす終わりなき迷宮の中で、自分を見失ってしまう。  
善なるものを望むのではなく、何がしかのご利益を望んで祈る祈りは不純である。
本来の祈りとは、人が生きるということについて、高い視点からじっくりと考えることだ。
至高のものを見つめ歓喜する魂のつぶやきであり、自らの御業をよしとのたまう神の声である。  
祈りを個人的な望みをかなえる手段として用いるのは、卑しいこと泥のごとき行為である。
それは、自然と意識とを別のものとしてとらえており、統一的なものとしてとらえていない。  
神と一体化すれば、人は物を乞う必要がなくなる。
そして、すべての行為の中に祈りを見出す。
ひざまずいて畑の雑草を抜く農民の祈りや、膝をついて船をこぐ船頭の祈りこそ、目的こそ世俗的だが、青空のもと、いたる所で聞かれる本物の祈りである。  
イギリスの劇作家フレッチャーの戯曲『ボンデュカ』に登場するカラタクは、「神の御心を尋ねてみてはどうか」と忠告されて、こう答える。
「神の秘められた御心は、われらの行動の中にこそある。われらの勇猛さこそ、われらの最高の神である」  
もうひとつの間違った祈りは、後悔である。
不平不満を持つのは、自己信頼が足りず、意志が弱いということだ。
不幸を悔いれば不幸に苦しむ人を助けることができるというのなら、悔やめばいい。
さもなければ、自分の仕事に専念するのだ。
そのときすでに不幸の癒しが始まっている。  
同情するのも同じように卑しい。
愚かしくすすり泣く者のもとへ行き、そばに座ってもらい泣く。
そうではなく、たとえ相手が強い衝撃を受けることになろうとも、真実を告げ、活力を注ぎ込み、理性を取り戻すようにしてやるべきなのだ。  
幸運の扉を開く鍵は、手のひらの中にある喜びである。
神も人も、喜んで迎えるのは、自立している人だ。
自立した人間には、あらゆる扉が大きく開かれ、あらゆる言語が歓迎の言葉を述べ、あらゆる名誉が授けられ、あらゆる目が羨望のまなざしで追いかける。
私たちの愛は進んで彼のところに向かい、彼を包み込む。なぜなら、彼が愛を必要とはしていないからだ。
私たちは躍起になって、まるで詫びるかのように、彼の機嫌をとり、褒めたたえる。
なぜなら、彼がわが道を進み、私たちの非難をものともしていないからだ。
神はその愛を彼に向ける。
なぜなら、人が彼に憎悪を向けているからだ。
ペルシャの宗教家ゾロアスターはこう言っている。
「自分を曲げない者のもとには、われ先にと神々が駆けつける」

人の祈りが意志の病であるように、キリスト教の教義は知性の病である。  
人びとは、あの愚かなイスラエルの民とともにこう言う。
「神が私たちに語りかけないようにしてください。さもないと、私たちは死んでしまいます。あなたが私たちとともにいるあなたが、私たちに語ってください。そうすれば従います」  
どこへ行っても私は、人びとの心の中の神には会わせてもらえない。
人びとは自分の神殿の扉を閉ざし、自分の友だちの、あるいは友だちの友だちの神の話しか口にしないからだ。  
新たなる考えは、新たなる分類を必要とする。
そしてそれが類いまれな力と働きを持つ思想ならば―例えばロックのような、ラボアジェのような、ハットンのような、ベンサムのような、フーリエのような思想ならば、自らの分類を他の人間に押しつけ、そしてご覧じろ!―新しい思想体系を築くことさえできる。
そして、その思想の深さに比例して、また、その思想が手に触れ、門人たちに説明できるものの数に比例して、師の満悦度も高くなる。  
それがことさら顕著に見られるのは、キリスト教の教義や宗派である。
教義や宗派も分類のひとつであり、義務についての基本的な考えや、人と神との関係に影響を与える強大な思想を分類したものである。
たとえば、カルバン主義や、クエーカー教徒、スウェーデンボルグの思想などがそれに当たる。  
門人たちは、あらゆるものを、師が定めた新しい言葉で呼び、植物学を学んだばかりの少女が、新しい目で地球と季節とを眺めるのと同じような喜びを感じる。
いっときの間、門人たちは、師の精神を学ぶことによって、自分の知性も高まったように思う。
しかし、精神の未熟な者は、師の分類を神のようにあがめ、その分類がすぐに使いものにならなくなる手段ではなく、目的だと取り違えてしまう。
そのため彼らの目には、その思想体系の境界線が、はるかかなたの地平線上で、宇宙の境界線へと溶けこんでしまう。
そして、天に浮かぶ星々も、師が築いたアーチからぶら下がっているように見える。
彼らにしてみれば、よそ者たるあなたたちにはそれらの星を見る権利がないし、そもそもなぜ見えるのか不審に思い、こう口にする。
「何らかの手段で私たちから光を盗んだのに違いない」  
いまだに分かっていないのだ。
光はどの宗派にも属してはいないが、その力は強く、どんな小屋にも―彼らの小屋にさえ差し込んでくるのだということを。  
しばらくは勝手にさえずるがままにさせ、光は自分たちのものだと思わせておこう。
もし彼らが誠実で、きちんと生きていくならば、今はこぎれいで新しい彼らの小屋もやがて狭苦しく窮屈なものとなり、ひび割れ、傾き、朽ち果てて、消えていくことだろう。
そして、不滅なる光―若く楽しげで、色とりどりの光が、縦横無尽に飛び交い、天地創造の第一日目のように、宇宙を満たすことだろう。

2.旅行について  
教養あるアメリカ人がいまだに「旅行」という迷信にとりつかれているのは、自己修養が足りないからだ。
彼らは、イタリアやイギリスやエジプトといった国々を崇拝している。
だが、イギリスやイタリアやギリシャが尊敬されるようになったのは、それらの国の人びとが、まるで地軸のように、自分たちのいるところに腰を据えていたからだ。
しっかりした気持ちがあれば、自分の果たすべき務めは、自分の居場所にいることだと分かる。  
魂は旅人などではない。
賢い者は家にとどまる。
ときには、必要に迫られ義務が生じて、家を出たり、外国に足を運んだりすることもあるが、そんなときでも彼の魂は家にいる。
顔つきを見れば、彼は知恵と美徳の伝道者であり、侵入者や家来のようにではなく、君主のように都市や人びとを訪ねているのだということが分かる。
芸術や学問を追求したり、良いことをするために世界を巡ることを、やみくもに非難するつもりはない。
自分の家を第一に思っているかぎり、あるいは、海外へ行く目的が自分の知識より優れたものを見つけようというものではないかぎり。  
楽しみのためや、自分の持っていない何かを得るために旅行する者は、自分から逃げている。
そんな人間は古いものに囲まれて、若いうちから年老いてしまう。
エジプトの古代都市テーベや、シリアの古代都市パルミラで、旅人の心も古びて朽ちていく。
都市という廃墟に、自分という廃墟を持ち込んだだけのことなのだ。  
旅は愚か者の楽園である。
旅に出て最初に気づくのは、いずこも同じということだ。
家にいると、ナポリやローマに行けば、美しいものに酔いしれて、悲しみを忘れられると夢想する。
荷造りをし、友人に別れを告げて、船出する。
そして、憧れのナポリで目を覚ませば、逃げてきたはずの厳しい現実や悲しい自分が、めげることなく、いつもと変わらぬ姿で寄り添っているのだ。
バチカンを訪ね、宮殿を巡る。
景色と暗示とに酔いしれているふりをしてはいるが、実は酔いしれてなどいない。
どこへ行っても自分の影がついてくるのだから。

3.模倣について  
しかし、こうした旅行ブームは、もっと深刻な病があらゆる知的活動をむしばんでいることを示すひとつの症状に過ぎない。  
知性が放浪者のようにさ迷い歩き、それを今の教育システムが助長している。
肉体はどこへ出ることもできず、家にとどまっているが、精神は旅に出る。
たとえば私たちは模倣をするが、模倣こそ精神の旅行でなければ、何だろう?  
家を建てれば、異国趣味が取り入れられ、棚は外国の装飾品で飾られる。
同じように、私たちの意見も、趣味も、技能も、「過去のもの」「遠くのもの」に寄りかかり、追いかける。  
しかし、芸術は人の魂が創り出すものだ。
これまで芸術はそうして栄えてきた。
芸術家は自分の心の中に手本を求めた。
何をなすべきか、どうすべきかは自らが考え出した。  
ならばなぜ、今になって、ドリス様式やゴシック様式をまねしなければいけないのか? 
美しいものや便利なもの、高邁な思想や味のある表現は、他ならぬ私たちの身近にもある。
もしアメリカの建築家が、希望と愛情をこめて、自らがまさになすべきことを検討し、アメリカの気候や土壌、日照時間、国民が求めているもの、政治的慣習や体制を考慮するならば、それらの条件にぴったりと合い、アメリカ国民の趣味や感覚をも満足させる家を創り出すことができるだろう。  
自分にこだわれ。人まねなどしてはいけない。  
一生をかけて自分を磨き、力をつけていけば、天から授かった才能がいつか輝くときがある。
しかし、他人の能力を借りてしまえば、あなたが手にするのはその場しのぎのもので、半分も自分のものにならない。  
その人が最高に力を発揮できるものは何か―それを教えられるのは世界を創造した神だけだ。
実際にやってみるまでは、誰もそれを知らないし、知ることもできない。
シェークスピアを教え育てることのできる教師がどこにいるだろうか? 
フランクリンを、ワシントンを、ベーコンを、ニュートンを教え導くことのできる教師がどこにいるだろうか?  
偉大なる人物はみな唯一無二の存在だ。
スキピオのスキピオたるゆえんは、まさに人から借りられなかったところにこそある。
どんなにシェークスピアを研究しても、シェークスピアになることはできない。  
自分がなすべきことをしよう。
いくら期待しても、期待しすぎることはないし、何をやっても、やりすぎることはない。
ギリシャの彫刻家フェイディアスの見事な鑿(のみ)や、ピラミッドを建てたエジプト人の鏝(こて)、モーセやダンテのペンが伝えたのと同じくらい壮麗で、しかもそれらとはまったく異なる言葉が、あなたには与えられている。  
豊かで、雄弁で、無数に分かれた舌を持つ魂が、同じことを繰り返し言うはずはない。
しかしもし、これら過去の偉人たちの言うことが耳に聞こえるのなら、あなたは同じ調子で彼らに言い返すことができるだろう。
耳と舌は同じ性質を持つ体の器官だからだ。  
自分の人生という自然で高潔な領域にとどまり、自分の心に従いたまえ。
そうすれば再び「楽園」を創ることができるはずだ。

4.社会のあり方について  
現代の宗教や教育や芸術が外にばかり目を向けているのと同じように、社会の精神も外を向いている。
誰もが社会は進歩していると得意げに言うが、進歩している人間はひとりとしていない。  
社会は進歩などしない。
ある面が進歩すれば、別の面が同じくらい後退する。
社会は絶え間なく変化している。
野蛮になったり、文明化されたり、キリスト教化されたり、豊かになったり、科学的になったり。
しかし、変化であって進歩ではない。
何かを得れば、何かを失うからだ。
新しい技術を手にしたと思うと、古い本能は失われる。  
一方には、ポケットに時計と鉛筆と為替手形とを入れ、身なりがよく、読み、書き、考えるアメリカ人がいて、もう一方には、財産といえばこん棒1本、槍1竿、むしろ1枚、そして雑魚寝用の間仕切りもない小屋の20分の1という、裸で暮らすニュージーランド人がいる。
何と対照的な両者だろうか!  
しかし、両者の健康を比べてみれば、白人は本来持っていた力強さを失っていることが分かる。
旅人の話が事実なら、未開人を大きな斧で打ち据えても、柔らかな松脂を打ち据えたかのように、1日か2日で傷口はふさがり、治ってしまう。
白人なら、同じ一撃で墓場へと送りこまれるだろう。  
文明人は馬車を発明した代わりに、足を使うことを忘れた。
杖に頼ることを覚え、足の筋力をすっかり失った。
精巧なスイスの時計を持っているが、太陽の動きによって時刻を知る技術をなくした。
グリニッジ天文台発行の暦を持っていて、必要な時に必要な情報が入ると思っているから、夜空に浮かぶ星をひとつとして知らない。
夏至も冬至も気にかけず、春分や秋分の知識もほとんどない。
天空に明るく輝くカレンダーがあるのに、それを読みとる文字盤を心の中に持っていない。
手帳のせいで記憶力が減退し、本を読みすぎて知力が低下し、保険会社のせいで事故が増えている。
こうなると疑問に思えてくる。
機械はむしろ足手まといになっているのではないか? 
洗練されたことによって行動力が失われているのではないか? 
制度や形式の中に安住するキリスト教によって、素朴な美徳が持ついきいきとした活力が損なわれているのではないか?  
ストア派の哲学者は、ひとり残らずその名のとおりストイックだった が、キリスト教世界のどこに真のキリスト教徒がいるだろうか?

高さや体積の基準と同じように、道徳の基準にもそれほど大きな変化はない。
今の方が昔より偉大な人物がいるかといえば、そんなことはない。  
昔の偉人も今の偉人も驚くほど似通っている。
現代の科学や芸術、宗教や哲学をもってしても、『プルターク英雄伝』で描かれた2千3、4百年前の英雄たちより偉大な人物を育てることはできていない。
人類は時とともに進歩するわけではないのだ。  
ギリシャのフォキオン、ソクラテス、アナクサゴラス、ディオゲネスはいずれも偉大な人物だったが、流派を残さなかった。
同じ流れに属する者がいても、先人の名前では呼ばれず、あくまでその人自身であり、自分で新たに一派を築くことになる。  
時代時代の芸術や発明はその時どきを彩る衣装にすぎず、人びとに力を与えることはない。
機械を改良しても、欠点が長所を帳消しにしてしまう。  
探検家のハドソンとベーリングは、自分たちの漁船だけを使って、あれだけのことを成し遂げた。
科学と技術の粋をつくした装備の力を借りて北極を探検したパリ―とフランクリンも、彼らには脱帽せざるを得ない。
ガリレオは、小さな双眼鏡ひとつで、後世の誰も及ばぬ素晴らしい天体現象を次々と発見した。
コロンブスは甲板もない粗末な船で「新大陸」を発見した。  
不思議な話ではないか。
わずか数百年前に鳴り物入りで導入された手法や機械が、いつのまにか使われなくなったり、姿を消していくのだから。  
偉大な天才も、もとをただせばただの人間だ。
戦術の進歩は科学の成果のひとつに数えられているが、ナポレオンは昔ながらの野営戦術でヨーロッパを制圧した。
装備に頼らず、むき出しの勇猛さだけに頼ったのだ。  
フランスの歴史家ラス・カーズによれば、ナポレオンは「武器や弾薬庫、兵站係、砲車を廃止し、ローマ軍の慣習に習って、割り当てられた小麦を兵士自ら受け取り、自ら臼を引いて粉にし、自らパンを焼くようにしなければ」完璧な軍隊を作ることはできないと考えていた。  
社会というのは一種の波だ。
波は前へ前へと進むが、波を構成する水自体は進まない。
同じ水の分子が、波の谷底から峰へと上るわけではない。
波がひとかたまりになって前に進むように見えるのは見せかけにすぎない。
今日国を構成している人物たちも明日には死に、その死とともに彼らの経験も失われるのだ。  
「財産」に頼ったり、財産の保全を政府に頼るのは、自己信頼が足りないということだ。
人びとは自分自身から目をそらし、長いこと他のものばかり見ていたので、宗教や学問、政治などの制度が自分の財産を守ってくれると思うようになった。
だから、これらの制度が攻撃されると、自分の財産が攻撃を受けたように感じて、非難の声を上げるのだ。  
人びとはお互いを、どういう人物かではなく、何を持っているかで評価する。
しかし、教養を身につけた人は、自分がどういう人間かこそが重要だと気づいて、自分の財産を恥じるようになる。
とりわけ、手にしているものが、相続、贈与、不正な手段など、思いがけず手に入ったものの場合は、それを嫌悪し、自分のものではないと感じる。
自分に属してもいないし、自分が生み出したものでもなく、革命も泥棒も持っていかないからそこにあるだけだと。  
それに対して、人がどんな人間になるかは常に必然である。
人格は生きた財産であり、支配者や、暴徒や、革命や、火事や、嵐や、破産の手招きにびくびくする必要がなく、命ある限り、古い皮を脱ぎ捨てて新しくなっていく。

イスラム教の創始者マホメットのいとこで4代目カリフを務めたアリはこう言っている。
「汝の人生に割り当てられたもの―運命は汝を追いかけている。だから、運命を追いかけるのはやめ、心安らかにしていよ」  
自分以外のものに頼っていると、むやみに数を頼むようになる。
政党は頻繁に集会を開いて群れ集まる。
大勢の人が集まった会場で、「エッセクス州代表団!」「ニューハンプシャー州の民主党員団!」「メイン州のホイッグ党員団!」などと、威勢のいい声でアナウンスがあるたびに、若い愛国者は、新しく何千もの目と腕とが加わったことで、自分が以前よりも強くなったような気になる。
同じようにして、改革論者たちも集会を開き、投票し、何ごとも数を頼んで決める。  
しかし、諸君! 神はそれとはまったくあべこべの方法であなたたちの中に入り、宿りたもうのだ。
外部からの助けを借りず、独りで立つときのみ、人は強くなり、勝利することができる。
自分の旗のもとに新参者が集まるごとに、人は弱くなる。  
ひとりの人間はひとつの町よりも優れた存在ではないのか? 
人を頼るのはやめよ。
そうすれば、絶え間ない変転の中で、ただひとつ揺るぐことなく立つ支柱として、あなたは周りにいるすべての人の支えとなるはずだ。  
生まれつき力は持っているのに、その力を失ってしまったのは、自分以外の何かに助けを求めたからだ―そのことに気づいて、ためらうことなく自分の考えに従うことを決めさえすれば、人はただちに身を起こし、すっくと立って、自らの手と足とで奇跡を行う。
あたかも、両足で立つ人の方が、逆立ちしている人よりも力が出せるように。  
同じように「幸運」と名のつくあらゆるものにも頼ってはいけない。
たいていの人は、運命の神を相手に賭けをして、運命の車輪が回るたびに、すべてを得たり、すべてを失ったりしている。
そうではなく、賭けで得たものなど自分のためにはならないと退けて、神の代理人たる「原因」と「結果」の原理を相手にするのだ。  
自分の意志で動いて獲得するなら、「偶然」の車輪は鎖で封じられ、以後はその回転を恐れることなく、座っていられるだろう。  
政治的な勝利、家賃の上昇、病気からの快復、留守にしていた友人の帰還、そうした喜ばしいできごとが、あなたを元気づけ、幸せな日々がまた戻ってくる、などと思う。
そんなことを信じてはならない。
あなたに平和をもたらすのはあなたしかいない。
平和を手にするためには、自己信頼という原理原則によって勝利する以外ないのだ。

以上です。

 
引用本:「精神について」入江勇紀男(訳)日本教文社発行


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