新選組初代筆頭局長 芹澤鴨 の出身地は、現在の行方市芹沢ではないかというのが通説でしたが、今年の初め「芹澤家分家出生説」が話題となり、通説とされていたものは、「芹澤本家出生説」という名称で呼ばれるようになりつつあります。
史料や言い伝えによるエピソード等はどちらの説でも乏しいながら、今年は公文書に次々と新発見が続きました。
幕末の日記新史料発見!!(12月6日茨城新聞記事)
「明善先生日記」
今回の新発見は、「水戸藩弘道館で助教を務め、幕末期の藩内状況を日記に書き残した石川明善の関係者が後にまとめた『明善先生日記』全30冊(水戸市の指定文化財)のなかの19冊目」だそうです。
発見者は水戸市在住の郷土史家、小林義忠氏。
この中に、文久元年(1861)2月26日「政府(水戸藩庁)より名指召捕り人別」とあり、「下村継次」「手綱領松井村神職次郎八の倅 次郎八百姓より神官御取立の者也」とあったのだそうです。
「水戸藩史料」と照らし合わせると
文久元年2月21日 (水戸藩庁)、玉造勢残党捕縛を命じる。
3月10日 未だ召し捕らずとして、松井村神官「下村嗣次」の名。
3月28日 「下村嗣次」捕縛
とありますので、手配書の記載なのだと思われます。
茨城新聞記事内では「出身地は北茨城か」と書かれていましたが、「芹澤本家出生説」の中では、「北茨城市の神官、下村祐斉義次の娘と結婚し、名を『下村継次』と 改めました。」とあります。(「新選組を創った男「芹澤鴨・平間重助」HPより)
今回の茨城新聞記事について、詳しい解説を下さった方によると「『倅』は血縁関係が無くても使う言葉ですし、下村次郎八は下村祐(斎)のことです」とありますので、内容としては通説通り。でも、水戸での発見です。「下村継次」の捕縛命令が水戸藩庁からあったことが立場のある方の日記に残されていた事を発見して頂き、また茨城新聞に取り上げて頂いた事が嬉しいです。
しかしながら、その書かれているプロフィールが「芹澤鴨のものとして」正しいのか?は確証となるものがまだありません。本家にも分家にも、下村家の娘婿となった○男坊の史料はないのです・・。
今後の新発見は有りや無しや。
「神官下村継次は芹澤鴨と同一人物か、また芹澤鴨の出身はどこか」という議論は今しばらく続いて行くことになりそうですね。
ご注意
・「明善先生日記」には、「石河明善日記」の別称があります。
・文書によって、「下村継次」「下村嗣次」と記載が違っています。
・「下村祐斉義次」は、HPにありましたままの記載。下村祐(斎)の諱は「義儔」と聞いています。ちなみに祐斎の(斎)は雅号、または先生、主人といった意味なので、「祐」の部分がお名前になります。
・文章中、誤解が発生する部分があったようですので、一部訂正致しました。
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